
あるご縁から、
夏に熊野で修行をさせていただくことになりました。
もちろん短期の入門的な修行ですが、
それでも毎日10kmの山道を早朝から一人で歩くそうです。
その話をいただいたとき、
強烈な喜びの感情が内側から湧きあがってきました。
自分がそういう気持ちになったことに
驚きをもって眺めている自分もいました。
山のなかを歩き、
自然と向き合い、
神様と向き合うことができると思うと、
それだけで胸が高鳴ります。
自分は山で修行したかったのだと、
ご縁をいただいてはじめて気づきました。
こういう気持ちになることが不思議な感じです。
しかし現実的にはかなり大変です。
普段都会生活にどっぷりとつかり、
運動もろくにしていませんし、
もともと体力に自信がある方ではありません。
毎日険しい山道・獣道を10kmも迷わずに、
歩き通せるのかかなり心配です。
これからできるだけ沢山歩いて、
修行に耐えられるよう日々準備をするつもりです。
心は心配と不安でいっぱいですが、
魂はすでに喜びと感謝でいっぱいです。
魂と心はしばしば逆さまの価値観をもっています。
考えてみれば地上に生を受けること自体が修行であり苦行です。
私たちは意識はしていなくとも魂の修行のために生まれてきたのです。
さらに意識的に修行をさせていただけるということは、
とても幸せなことです。
私にとって修行とは、
自分を清め、
神様に会いにいくことです。
真の自己に出会い、
神様への愛を深めることです。
これ以上贅沢なことはほかにありません。
神様からの恩恵を受け取ることができたら、
必要とする人にそれをお渡しできればさらに素晴らしいことです。
それが神様の願いであることもわかっています。
そうなることが今から楽しみです。
魂の真の声をきいたなら、
その実現に向けて全身全霊を投入すべきです。
心と身体は魂の従順な配下になったとき、
もっともその能力が引き出されます。
心身の欲望が発する粗い声にもっぱら耳が奪われ、
魂の精妙な声に気づかぬままに生きれば、
狭い部屋で一生を過ごす操り人形のような人生になってしまいます。
魂の声に気づいたにもかかわらず、
耳を貸さず、
心身の欲望に安住すれば、
曇天のもとで過ごすような人生になってしまいます。
他人の期待にこたえたり、
他人からの評価を得ることに心がいっぱいで、
孤独になることを恐れて他人にしがみつき、
自らの魂の声に耳をふさぐならば、
魂は窒息状態になります。
生きる意味を見失い、
自分を愛せなくなり、
自信も自尊心も失い、
牢屋に閉じ込められたような苦しい人生となってしまいます。
魂の精妙な声を聴いたなら、
心身をそれに捧げるのです。
魂の望みを優先順位の一位に掲げ、
その実現に向けて強い意志をもつことが必要です。
魂の声に従って生き、
魂を成長させることが、
私たちが地上に生まれた目的だからです。
魂の声に従って強い意志をもって実際に行動するとき、
魂は明るく光り輝きます。
魂中心の生き方をすれば、
いままで近くにいた人は離れていくかもしれません。
しかし、
必要な新しい出会いがしかるべきときに与えられ、
日々生かされている喜びと意味に満たされ、
神々に祝福された人生になるでしょう。
本日のワークショップでの瞑想会は、
落ち着いていながら力強く光輝き、
高貴でありながら一本の筋がガンッと通ったような、
素晴らしいエネルギーに包まれました。
瞑想をする前にある方が、
「今ここには高いエネルギーがおりてきている」とおっしゃいました。
別の方は瞑想後に、
「光の柱が降りてきていたように感じた。ここにいるみんなが幸せになって欲しい」
と語りました。
私もまったく同じことを感じていましたのでとてもうれしく感じました。
このお二人の方は瞑想経験を結構お持ちの方でしたので、
いろいろなことをキャッチされているのだと思います。
しかし、こういうことがわかることが良いというわけでもありませんし、
瞑想に必要なわけでもありません。
瞑想の意識を繰り返し体験していると、
普通の意識ではわからないことが自然とわかるようになるのです。
瞑想の意識に馴染んでくると、
はじめはあることにさえ気づかなかったものや、
ぼんやりとしか感じられなかったものが、
より明晰に捉えられるようになります。
微細なエネルギーへの感受性は、
受け止め方や受け止めやすい意識領域というのが人によってまちまちなので、
表現してみると違って見えることもあります。
エゴによってゆがめられることも多々あります。
瞑想中は、なにかをわかろうとする必要は全くありません。
あるとき自然と、目の前の木を眺めてその存在を疑わないのと同じように、
微細なエネルギーについて自分なりの確かな知覚が生じるようになるでしょう。
それはまったくリアルなことなのです。
しかしこうしたリアルさは、
それを得ようと求めすぎると得られないか、
歪んだものをキャッチすることがあります。
心が静寂かつ清浄に保たれていると、
マインドの雑音の影響が少なくなるので、
結果として、みえざるものがみえたり、
きこえざる音がきこえたり、
普段は感じられないものが感じられたりしてくるのです。
ですから、なにも捉えられなかったとしてもまったく問題はありません。
重要なのは、心が清らかに洗われて、静寂に触れているか、
自分自身の固有のエネルギーに触れているか、それだけです。
瞑想中はみていてもそれに惑わされないことが大切です。
見たものについて考えたり、論評をしていると、
見たものは消え、歪められ、瞑想意識は遠のいていきます。
マインドの罠にはまってしまうことも少なくありません。
ただ見て、感じて、判断せず、
そのままでいるとよいのです。
6月13日(日)のワークショップのご案内です。
今回は、ボディワーク(動作法)として、
・身体の胴体部分を捻って弛める動作課題
・タテ軸をまっすぐにして座る動作課題
の二つを行います。
軸がぶれやすい人、腰・股関節が硬い人、
活力不足の人、振り向きにくい人、
などにとても役に立つ課題だと思います。
また、出産後に、乳房が硬くなっている女性にも、
とても有効であるという情報を助産師の方からきいております。
(私自身の経験としては未確認ですが)
後半は、瞑想をします。
今回は、イメージなどは使わず、シンプルな瞑想を、
いつもよりやや長め(20~30分くらい?)に、
ゆったりとできたらと思っています。
座布では腰がきつい方は椅子での瞑想をおすすめします。
日曜日は、みなで、ゆったりと静けさを味わえる会になりますようにいたしましょう。
みなが自分自身のエネルギーを取り戻せる会になりますように。
みなの心が安らかで穏やかになりますように。
みなの心が大いなるものの慈愛に包まれますように。
参加ご希望の方は、予約制になっておりますので、
こちらを参照の上、
ご予約をお願いいたします。
高いところは小さいときから苦手なのですが、
先日熊野川にかかる日本一ともいわれる吊り橋を渡ることになりました。
誰かの後についていこうかと思っていたら、
前の人が途中で止まってしまい、
私が列の先頭を歩くことになってしまいました。
吊り橋の高さは50m以上で、なかなかの絶景(?)でしたが、
のろのろして渋滞を作っても後ろに迷惑なので、
おしりがむずむずしながらも、心を決めて進んでいきました。
小刻みに横にゆらゆら揺れる吊り橋を歩いていると、
いろいろなことが頭に浮かびました。
今踏んでいるこの薄い板が割れたら間違いなく死ぬだろうな。
板に節穴が空いているし、
つぎはぎも結構あるから、
今まで死んだ人もいるかもしれないな。
もし自分が不運にも板を踏み破って転落したら、
河原まで十秒くらいかかるかな。
落下している間はどんな感じがするだろう。
そうだ、河原に落ちるまでの間に、
ここまで生きさせていただいた御礼を神様にいって死のう。
そんなことを考えていたら、
恐怖心はずいぶん薄らいでいました。
いや、でもできればまだやりたいことがあるし、
簡単には死にたくないから、
注意深く歩いていこうと思いました。
吊り橋の長さはおよそ300mあるのでかなり長いです。
歩いているうちに、また考えが浮かびました。
これだけ沢山薄い板を踏んでいるのに、
ひとつも板が割れないで歩いているというのは、
自分はかなり幸運なのではないだろうか?
もし踏んだ板が割れたら命はそこまでなのだから。
よく考えてみると、
いままで生きてきたのも、
薄い板の吊り橋を歩いてきたようなものだ。
どこかで板が割れるようなアクシデントがあれば、
いつ死んでもおかしくなかったのだから。
本当に自分は幸運だ、
ここまでいろいろなことがあったけれど、
いろいろな体験をして、
たくさんの真実を学ぶことができた。
自分は今まで本当に守られ導かれ愛されてきたんだ、
そう思ったらありがたさで胸が熱くなりました。
こうして、高い吊り橋を歩くことによって、
リアルな死の瞑想をさせていただき、
生かされ守護されていることへの感謝でいっぱいになりました。
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