
夏のお山での修行のために、
このところ雨の日も晴れの日も毎日一万以上と決めて歩いていましたが、
ここ数日で、疲労が限界に達してきました。
マッサージをしても足の痛みと疲れが抜けないし、
朝起きても身体全身が休みたがっています。
部屋を片付ける気力もなくなってきました。
お山の修行に比べれば
これくらいでめげてたまるかと思って歩いてきましたが、
疲労が内臓にまで浸透してくるのを感じました。
今まで自転車以外ほとんど運動をしない都会的生活をしてきましたし、
月並みですが無理がきくほどもう若くないということを実感しました。
仕事に支障を来しては元も子もありませんし、
毎日一万歩以上という戦術は昨日までにして、
今日からは身体と相談しながら歩くことにしました。
考えてみると、
なにか新しいことに取りかかり、
やる気に火がつくと、
すべてをそれに捧げて限界まで突っ走るというのは、
私がいつも繰り返しているパターンです。
バランスがよいとは決していえませんが、
こういう自分の気性は私は結構好きです。
(占星術が好きな方なら射手座的な気性というでしょう)
突っ走ってみないと決してわからないこともたくさんあるからです。
たとえば今でも興味深い本に出会うと、
徹夜して読破してしまうことがあります。
(次の日は疲労でつらいですが・・・)
強い情熱をもって正面から全身全霊をかけて取り組むと、
著者の想いを直接的に受け取ったような感じがすることもあります。
そうしてメッセージを受け取ると、
十年以上経ってもその主要な意味は決して忘れずにいます。
毎日少しずつ淡々と読んでいては決してわからないことが、
集中的に読むことでわかることがあるのです。
瞑想でも、
一日十時間以上とことんやってみないと
決してわからない世界というものがあります。
こう気づいてみると、
お山修行の準備は、
昨日まではこのようなはじめの突っ走りの段階だったようです。
この段階は間違いなく必要な段階でしたが、もう終わりです。
そして今日からは、
情熱はお腹にかかえつつ、
身体や心のひとつひとつの声も尊重しながら、
一歩一歩をより大切に歩いていく段階に移るのだと思いました。
情熱による修行準備デビューの時期から、
淡々と自力をつけていく時期への移行です。
客観的行動だけを見れば、
私の運動量などスポーツ選手やベテラン行者から見れば、
本当にとるにたらないちっぽけなものです。
けれども、
客観的な大小や多寡ではなく、
自分のおかれた状況の中で、
どんな小さなことでも、
どれだけ丁寧に意識的にやっていけるのかという、
心の姿勢こそが一番大切です。
梅雨の晴れ間も覗いていますし、
またゆっくりと歩きたくなってきました。
現実的・常識的な考え方に染まって生きていた人が、
霊的な真実に触れて、
感動して目が開かれたなら、
それは本当に素晴らしいことです。
新たなる誕生の瞬間です。
肉体において魂が目覚めはじめた瞬間です。
その感動は霊の喜びであり、
魂から湧きあがる喜びにほかなりません。
新しい世界が開けはじめた感動はまちがいなく宝物ですが、
一度目覚めはじめたならば、
いつまでも過去の感動にすがってばかりいてはいけません。
それはもう過ぎ去ったことです。
霊的な真実に開かれはじめたならば、
霊的な理解を深め、
ひとつひとつの細胞に染み込ませていくことが欠かせません。
霊的な知識の一部に触れただけで、
すべてを知ったような気になったり、
有頂天になって周囲を見下したり、
いつも非現実的な世界に逃避するようになってしまったとしたら、
霊的な真実はまったく生かされていません。
霊的な真実は、
それが真実であればあるほど、
深ければ深いほど、
普遍性が高まります。
普遍性が高い真実は、
あらゆる日常的な雑事のなかでも通用しないはずはありません。
真実と日常がばらばらの世界に解離しているとすれば、
その真実は本当の真実なのでしょうか?
真実に目覚めながら、
真実を知らないふりをして今まで通りの生き方をするのはなぜなのでしょうか?
自分を変える勇気がないのでしょうか。
変わることによる周囲の変化が恐ろしいのでしょうか。
孤立することが恐ろしいのでしょうか。
真実を知りながら、
知らないふりをしてこの人生をやり過ごすつもりなのでしょうか?
それが本当に臨んでいる人生なのでしょうか?
魂の衝動に目をつむることは、
自己を欺くことです。
自己を欺きつづければ、
私たちの自己は分裂し、
心は決して満たされません。
真実は絵に描かれた餅であってはなりません。
真実は日常生活で実現されなくては意味がありません。
ただ頭で知っているというだけでは、
地図を買っただけで旅にいってきたと勘違いしているようなものです。
知識は自らの身体と心を通して実現しなければなりません。
知識の種は土壌に蒔かれたら、
地上に芽を出して成長しなければ意味がないのです。
霊的真実を日常のあらゆる瞬間に意識的に染み込ませることが大切です。
もし霊的真実に沿って意識的に生きようとすれば、
あらゆることがかわるでしょう。
息の吸い方が変わります。
息の吐き方が変わります。
空の見え方が変わります。
樹木の見え方が変わります。
花の見え方が変わります。
太陽の見え方が変わります。
食事をいただく感覚が変わります。
排泄をする感覚が変わります。
今ここに私がいるということの感覚が変わります。
心に浮かぶひとつひとつの考えへの態度が変わります。
口に出す言葉への注意が変わります。
人と出会うことへの感覚が変わります。
人との関係も変わります。
去る人もいれば新たに出会う人もいます。
必要のないものを手放すようになります。
自分がなにをすべきかが明らかになります。
・・・
このようにして、
霊的な真実が真に真実であれば、
そしてその真実をただ頭で知っているだけではなく、
心と身体と魂でそれを受け入れるならば、
日常のあらゆることが、
少しずつ質的な変化を起こさずにはいられなくなるのです。
その変化を堰き止めてはいけません。
意識的に解放し、
注意深く変化の波に乗るのです。
私の最近の目標は、
毎日一万歩以上歩くことです。
距離にすると約八キロ程度です。
単調なトレーニングなどまず3日も耐えられないのが私の性格ですが、
今回は自分でも信じられないくらい毎日楽しく歩いています。
それは目的がスポーツや健康のためではなく、
修行に耐えられる身体を作ることにあるからでしょう。
今月末に熊野で修行をさせていただくご縁が与えられ、
自分と向き合い、神様と出会うことが本当に楽しみだからです。
そしてこの修行によって自分を新たに進化させるのだと、
深く決意したからだと思います。
朝、氏神様である近所のお宮の弁財天をお参りし、
祝詞をあげてから出発します。
気の向くままに歩き、時には負荷をかけるために走ります。
私の住居からは、
半分以上の距離を町田郊外の山林や、
相模原市の「こもれびの森」の中を歩くことができます。
森の清浄な空気と、豊かな生命力に包まれるだけでも幸せです。
二十代の頃は専ら自動車と中型のバイクで移動していました。
三十を過ぎてから自転車が主な乗り物に変わりました。
そして今、こうして歩くことに喜びを見いだしています。
最近ではごくたまにしか車に乗らなくなりました。
文明的には退化ですが、
人間的には深化・進化していると思います。
歩くことが一番、その土地をよく味わうことができます。
歩くことが一番、自分の心が整理されていきます。
歩くことで、身体は活性化し、
驚くほど食欲は増進し、夜はぐっすり眠れます。
原始的ですが、明らかに身体が変わっていきます。
身体をしっかり使うと、
無駄な思考がなくなり、
心がシンプルになります。
身体がとてもリアルで親密な友人になります。
瞑想もしやすくなります(疲れすぎると逆に眠くなりますが)。
意識を研ぎ澄ませて一歩一歩を歩けば、
歩くこと自体が素晴らしい瞑想です。
修行の準備のつもりでしたが、
もうすでに修行ははじまっているのだと気づかされました。
すべての今という一瞬が、
単になにかの準備などではなく、
大切な本番に他ならないのです。
歩くというシンプルなことで、
想像以上に心身が刷新されていきます。
このご縁とお導きに感謝しつつ
オン サラスヴァティエイ ソワカ
あるご縁から、
夏に熊野で修行をさせていただくことになりました。
もちろん短期の入門的な修行ですが、
それでも毎日10kmの山道を早朝から一人で歩くそうです。
その話をいただいたとき、
強烈な喜びの感情が内側から湧きあがってきました。
自分がそういう気持ちになったことに
驚きをもって眺めている自分もいました。
山のなかを歩き、
自然と向き合い、
神様と向き合うことができると思うと、
それだけで胸が高鳴ります。
自分は山で修行したかったのだと、
ご縁をいただいてはじめて気づきました。
こういう気持ちになることが不思議な感じです。
しかし現実的にはかなり大変です。
普段都会生活にどっぷりとつかり、
運動もろくにしていませんし、
もともと体力に自信がある方ではありません。
毎日険しい山道・獣道を10kmも迷わずに、
歩き通せるのかかなり心配です。
これからできるだけ沢山歩いて、
修行に耐えられるよう日々準備をするつもりです。
心は心配と不安でいっぱいですが、
魂はすでに喜びと感謝でいっぱいです。
魂と心はしばしば逆さまの価値観をもっています。
考えてみれば地上に生を受けること自体が修行であり苦行です。
私たちは意識はしていなくとも魂の修行のために生まれてきたのです。
さらに意識的に修行をさせていただけるということは、
とても幸せなことです。
私にとって修行とは、
自分を清め、
神様に会いにいくことです。
真の自己に出会い、
神様への愛を深めることです。
これ以上贅沢なことはほかにありません。
神様からの恩恵を受け取ることができたら、
必要とする人にそれをお渡しできればさらに素晴らしいことです。
それが神様の願いであることもわかっています。
そうなることが今から楽しみです。
魂の真の声をきいたなら、
その実現に向けて全身全霊を投入すべきです。
心と身体は魂の従順な配下になったとき、
もっともその能力が引き出されます。
心身の欲望が発する粗い声にもっぱら耳が奪われ、
魂の精妙な声に気づかぬままに生きれば、
狭い部屋で一生を過ごす操り人形のような人生になってしまいます。
魂の声に気づいたにもかかわらず、
耳を貸さず、
心身の欲望に安住すれば、
曇天のもとで過ごすような人生になってしまいます。
他人の期待にこたえたり、
他人からの評価を得ることに心がいっぱいで、
孤独になることを恐れて他人にしがみつき、
自らの魂の声に耳をふさぐならば、
魂は窒息状態になります。
生きる意味を見失い、
自分を愛せなくなり、
自信も自尊心も失い、
牢屋に閉じ込められたような苦しい人生となってしまいます。
魂の精妙な声を聴いたなら、
心身をそれに捧げるのです。
魂の望みを優先順位の一位に掲げ、
その実現に向けて強い意志をもつことが必要です。
魂の声に従って生き、
魂を成長させることが、
私たちが地上に生まれた目的だからです。
魂の声に従って強い意志をもって実際に行動するとき、
魂は明るく光り輝きます。
魂中心の生き方をすれば、
いままで近くにいた人は離れていくかもしれません。
しかし、
必要な新しい出会いがしかるべきときに与えられ、
日々生かされている喜びと意味に満たされ、
神々に祝福された人生になるでしょう。
本日のワークショップでの瞑想会は、
落ち着いていながら力強く光輝き、
高貴でありながら一本の筋がガンッと通ったような、
素晴らしいエネルギーに包まれました。
瞑想をする前にある方が、
「今ここには高いエネルギーがおりてきている」とおっしゃいました。
別の方は瞑想後に、
「光の柱が降りてきていたように感じた。ここにいるみんなが幸せになって欲しい」
と語りました。
私もまったく同じことを感じていましたのでとてもうれしく感じました。
このお二人の方は瞑想経験を結構お持ちの方でしたので、
いろいろなことをキャッチされているのだと思います。
しかし、こういうことがわかることが良いというわけでもありませんし、
瞑想に必要なわけでもありません。
瞑想の意識を繰り返し体験していると、
普通の意識ではわからないことが自然とわかるようになるのです。
瞑想の意識に馴染んでくると、
はじめはあることにさえ気づかなかったものや、
ぼんやりとしか感じられなかったものが、
より明晰に捉えられるようになります。
微細なエネルギーへの感受性は、
受け止め方や受け止めやすい意識領域というのが人によってまちまちなので、
表現してみると違って見えることもあります。
エゴによってゆがめられることも多々あります。
瞑想中は、なにかをわかろうとする必要は全くありません。
あるとき自然と、目の前の木を眺めてその存在を疑わないのと同じように、
微細なエネルギーについて自分なりの確かな知覚が生じるようになるでしょう。
それはまったくリアルなことなのです。
しかしこうしたリアルさは、
それを得ようと求めすぎると得られないか、
歪んだものをキャッチすることがあります。
心が静寂かつ清浄に保たれていると、
マインドの雑音の影響が少なくなるので、
結果として、みえざるものがみえたり、
きこえざる音がきこえたり、
普段は感じられないものが感じられたりしてくるのです。
ですから、なにも捉えられなかったとしてもまったく問題はありません。
重要なのは、心が清らかに洗われて、静寂に触れているか、
自分自身の固有のエネルギーに触れているか、それだけです。
瞑想中はみていてもそれに惑わされないことが大切です。
見たものについて考えたり、論評をしていると、
見たものは消え、歪められ、瞑想意識は遠のいていきます。
マインドの罠にはまってしまうことも少なくありません。
ただ見て、感じて、判断せず、
そのままでいるとよいのです。
高いところは小さいときから苦手なのですが、
先日熊野川にかかる日本一ともいわれる吊り橋を渡ることになりました。
誰かの後についていこうかと思っていたら、
前の人が途中で止まってしまい、
私が列の先頭を歩くことになってしまいました。
吊り橋の高さは50m以上で、なかなかの絶景(?)でしたが、
のろのろして渋滞を作っても後ろに迷惑なので、
おしりがむずむずしながらも、心を決めて進んでいきました。
小刻みに横にゆらゆら揺れる吊り橋を歩いていると、
いろいろなことが頭に浮かびました。
今踏んでいるこの薄い板が割れたら間違いなく死ぬだろうな。
板に節穴が空いているし、
つぎはぎも結構あるから、
今まで死んだ人もいるかもしれないな。
もし自分が不運にも板を踏み破って転落したら、
河原まで十秒くらいかかるかな。
落下している間はどんな感じがするだろう。
そうだ、河原に落ちるまでの間に、
ここまで生きさせていただいた御礼を神様にいって死のう。
そんなことを考えていたら、
恐怖心はずいぶん薄らいでいました。
いや、でもできればまだやりたいことがあるし、
簡単には死にたくないから、
注意深く歩いていこうと思いました。
吊り橋の長さはおよそ300mあるのでかなり長いです。
歩いているうちに、また考えが浮かびました。
これだけ沢山薄い板を踏んでいるのに、
ひとつも板が割れないで歩いているというのは、
自分はかなり幸運なのではないだろうか?
もし踏んだ板が割れたら命はそこまでなのだから。
よく考えてみると、
いままで生きてきたのも、
薄い板の吊り橋を歩いてきたようなものだ。
どこかで板が割れるようなアクシデントがあれば、
いつ死んでもおかしくなかったのだから。
本当に自分は幸運だ、
ここまでいろいろなことがあったけれど、
いろいろな体験をして、
たくさんの真実を学ぶことができた。
自分は今まで本当に守られ導かれ愛されてきたんだ、
そう思ったらありがたさで胸が熱くなりました。
こうして、高い吊り橋を歩くことによって、
リアルな死の瞑想をさせていただき、
生かされ守護されていることへの感謝でいっぱいになりました。
私たちは気がついたら身体をもっていました。
生まれるときに自分の身体をお店で買った人はいません。
身体は無料でいただいたものです。
いまも生きて働いてくれているだけで
有り難いことです。
身体が次の瞬間生きるのをやめてしまったら、
心臓を動かすのをやめてしまったら、
肺が呼吸するのをやめてしまったら、
私たちは生きていることはできません。
身体は生まれてから死ぬまで、
私たちのためにずっと休みなく奉仕をし続けてくれているのです。
身体を与えてくれたのは誰でしょうか?
親であり、
母なる地球であり、
大いなる生命であり、
神です。
身体はやがて大地へと還っていきます。
それまでのあいだ、
神が、生命が、身体を私に無償で貸してくれているのです。
身体を見るだけで、
無償の愛というものが現実にあることがわかるのです。
地上に無償の愛がないのではありません。
実際は無償の愛に満ちています。
あることに気づかない人が大勢いるだけなのです。
素晴らしい身体を貸してくださったのですから、
大切に扱わなければいけません。
私たちはよく使う道具の手入れをするように、
自分の身体を日々整えなければいけません。
身体は霊(spirit)が地上で生きるために欠かせない道具であり、
霊の住まう神殿だからです。
身体の健康は、
一、身体が欲するものを適量食べ、きちんと排出すること
(身体が欲するものとは、舌においしいと感じるものとは異なります)
二、清らかで風通しが良く穏やかな心を維持すること
三、リラックスしたり睡眠を取るなどして十分な休息を得ること
四、入浴などによって清潔にすること
この四点が基本です。
これさえきちんとしていれば、
特殊な健康法をおこなわなくても、
ひどい病気はほとんどの場合避けられます。
健康を維持するためには、
ちょっとした心がけと、
わずかなお金があれば十分です。
基本を押さえずに、
特殊な健康法や高額な治療法を試すのは、
優先順序が間違っているのです。
基本的な健康の上に、
息を整え、心を静めて、瞑想をすれば、
しだいに身体=0の状態へと近づいていきます。
身体の影響が少なくなればなるほど、
身体という器の主である霊が、
本来の能力を発揮できるようになります。
身体の影響を最小限にすると、
霊的感受性が鋭くなります。
五感では感じられなかったものを感じ、
考えてもよく分からなかったことが
腑に落ちるように理解されるようになるでしょう。
霊が身体から解放されればされるほど、
私たちは深く安らぎ、
自分自身のエネルギーを取り戻し、
自然と光を放つようになるのです。
ただし、身体に悪いものほどおいしく感じるなど、
わたしたちはちょっとした心がけがなかなか難しかったりします。
神殿を掃除するように、
心をこめて身体を整えるよう心がけましょう。
私たちは自分の心の悪い性癖になかなか気づくことができません。
必要以上に欲張る、貪る、執着する、
怒る、不満に思う、悪態をつく、
偏った見方をする、決めつけてしまう、
都合の悪いことを見ない、考えない、否認する、
自分のことしか考えられない、驕る、高ぶる、
嘘をつく、偽る、真実を知ろうとしない、
盗む、騙す、策略をめぐらす、取り繕う、
責任転嫁する、変わろうとしない、先延ばしにする、
逃避する、自己憐憫に浸る、自分を否定する、自分を安売りする、
嫉妬する、羨む、対抗する、感謝しない、敵意をもつ・・・
などなど
私たちは他人の悪いところはすぐに発見しますが、
自分自身の心にあるこのような傾向にはなかなか気づかないのです。
このような悪い性癖をサンスクリット語ではヴァーサナと呼びます。
そして、ヴァーサナがすっかりなくなったとき、
私たちはこの地上に生まれてこなくなる、
すなわち輪廻から解放されると考えられています。
私たちは皆ヴァーサナがあるから生まれてきたといっても同じことです。
ヴァーサナは今回の人生だけで身についたものだけではなく、
過去世から引き継いだものも多いのです。
めがねをかけ続けていると、
めがねをかけていることを忘れてしまうように、
ずっと身につけているヴァーサナには、
なかなか気づけないのです。
ヴァーサナは目の前にありながら、
見たくないので見えないのです。
しかし、周囲の人はしばしばヴァーサナに気づいています。
それとなく指摘されたり、
自分のヴァーサナによって、
人々がひっそりと自分の元を去っていたかもしれません。
なにより、ヴァーサナがあることによって、
つねに新たなカルマの種を蒔き続けています。
結局のところ、ヴァーサナによって、
苦しみ、不幸、困難が自分に降りかかってきているのです。
偶然不運なのではなく、
知らず知らずのうちに自分で種を蒔いていたのです。
苦しみはもっとも親切な警告です。
ヴァーサナがすっかり取り去られるまで、
警告がなくなることはありません。
それほど神様は慈悲深いのです。
真摯な心で自らのヴァーサナに気づいたとき、
自らのヴァーサナをありありと認めたとき、
私たちは軽くなります。
ヴァーサナは私たちが背負っている重荷であり、
ヴァーサナを見いだすことは、重荷から解放されることなのです。
ヴァーサナは偽りであり、真の自己を覆うものです。
ヴァーサナのメッキがはがれ落ちるとき、
自己自身(=アートマン)に近づき安堵します。
魂の光明が輝きます。
ヴァーサナを受け入れて流す涙は、
魂の浄化を促す美しい涙です。
瞑想が深まってくると、
ほとんど呼吸をしないような状態になってくることがあります。
細く深い呼吸が、
時々思い出したかのように起こるような感じです。
このような状態では、
身体の代謝が低下していることが多くの研究で分かっています。
つまり、身体の諸活動が最低限になり、
深い休息状態に入っているのです。
これは単に疲れがとれて安らぐということ以上の、
重大な意味があります。
身体が深い休息状態になると、
いままで身体に縛られていた霊が動きやすくなるのです。
だから深い瞑想状態では、
身体の五感を超えた感覚が鋭敏になってくるのです。
霊としての自分の感覚に近づいているのです。
深い瞑想とは、
人為的な臨死(Near Death)状態なのです。
臨死体験をした人が、
みな今まで感じたことのないような心地よさだったと口をそろえますが、
深い瞑想がとても心地よいのは、
臨死体験のように、
身体の束縛から解放された霊そのものに近づけるからです。
日々瞑想するとは日々死ぬことです。
毎日このような深いやすらぎと心地よさを感じられたら、
なんと素晴らしいことでしょうか。
形式的な祈りや、
偽りや打算的な欲にもとづいた祈りには、
ほとんどなんの意味がありません。
しかし、私たちが真心から祈るとき、
その想いは必ず神様に届いています。
瞑想をするとそのことがわかります。
瞑想とは神様からの、
あるいは高い意識からの応答を受け取れる意識状態なのです。
先日(2010年4月25日)2年半ぶりにワークショップで参加者の皆様と瞑想を行いました。
瞑想は初めての方も多かったにもかかわらず、
予想以上に深い瞑想の場がひらかれました。
そのとき、何人かが、瞑想中に応答を受け取りました。
それは本当に素晴らしいことです。
心を尽くした祈りと、
心身が静まった瞑想があれば、
このようなことは誰にでも起こることです。
海外に、最低でも県外に移転するはずだった普天間基地が、
一部は沖縄県内の移転にしてほしいと、今日、鳩山首相が沖縄で語りました。
明らかに約束とは違った結果になりました。
そもそも戦後65年経ち、冷戦も終わったのに、
これほど多く外国の基地が国内にあること自体、
きわめて異常なことです。
今日は、本当に残念な日です。
日米同盟の抑止力の名の下に、沖縄は戦後65年間、
ずっと危険な基地の犠牲になり続けてきました。
今の流れでは、これからも犠牲になれということです。
執拗ないじめを長期間受け続けているひとがいるのに、
クラスメートはずっと見て見ぬふりをし続けている。
沖縄問題はこのようないじめられっこと傍観者の関係を連想させます。
いじめを傍観しているのは、沖縄の苦しみに無関心な日本国民です。
沖縄は戦時から今日まで、基地の犠牲になり続けています。
米軍基地の周辺では騒音、事故、犯罪が日常的に起きています。
基地を歓迎する地域など、
他にどこを探してもあるはずはありません。
誰もが嫌なものを60年以上、国は沖縄に押しつけてきたのです。
どうしてこれ以上、押しつけることができるでしょうか。
マスコミは首相や政治家を叩き続けますが、
政治家は国民の代表です。
わたしたち日本国民が無関心で意識が低いから、
力と心のある政治が実現しないのです。
政治家は票がなければ成り立たず、
マスコミは視聴率がなければ成り立たないため、
国民の無責任を指摘することができません。
私たちはこのようなひどいいじめを直視し、
きっぱりとやめる決意をするときです。
国の借金も膨大ですが、
弱者を見殺しにしてきた国民のカルマもそれに劣らず甚大です。
沖縄に苦しみを押しつけておいて、
それに無自覚・無関心な日本国民が、
こどもにいじめをしてはいけないと言う資格があるでしょうか。
あまりにも遅すぎるとはいえ、
いまこそ65年間見て見ぬふりを反省し、
基地問題をどうするのか、
同盟関係は本当に必要か、
国の防衛をどうするか、
国の独立とは何か、
国に対する私の責任は何か、
ひとりひとりが自分の責任として考え、
議論すべきときです。
こうした国の根幹に関わる問題を
正面から争点にして選挙を行うべきでしょう。
この問題から目をそらし続けることは、
いかにも不健康な精神です。
身体の一部が病気に冒されて痛んでいるのに、
なにも手を打たずにいるようなものです。
やがては身体全体が蝕まれるでしょう。
というより、すでに無責任な利己主義病に
相当蝕まれているように思います。
私たちが沖縄の問題に意識的に取り組んで結論を出さない限り、
日本および日本国民は、
これからも精神的な自立は果たせません。
沖縄を決して見捨てない、
成熟して暖かく、
誇りのもてる日本にしたいものです。
インナー・チャイルド(内なる子供)がなにかを求めているなと感じたら、
それに注意深く耳を傾け、
「意識的に」満たしてあげることが大切です。
意識しないままでいると、
インナー・チャイルドは十分に満たされないだけではなく、
気づかないうちにただ振り回され続けることになりかねないからです。
主体である私が、
インナー・チャイルドの存在に気づいていて、
大切に接することが大切です。
「今は満たしてあげられないけれどもう少しまっていてね」とか、
「今はやりたいだけやらせてあげよう」
「なにがやりたいのかな?」
「どうしてほしい?」
などという風に対話をするとよいでしょう。
傷ついたインナー・チャイルドは、
このように意識的に接してあげないと、
次から次へと、
終わりのない幼児的な要求をしてきて、
一生をそれとの格闘に消費する可能性すらあるのです。
傷ついたインナー・チャイルドとは、
もっとも誠実に、粘り強く、
くりかえしくりかえし最大の愛を注ぐことが必要です。
傷ついたインナー・チャイルドを尊重することを、
人生の優先順位の上位に持ってこなければなりません。
多くの人は、
自分の中に傷ついたインナー・チャイルドがいることを、
自分はそんな弱い存在ではないと言いきかせ、
密かに隠して、その存在を否認してしまっています。
そのために、インナー・チャイルドは、
ますます不満足感を高めてしまうのです。
年月がたてば、年齢を重ねれば、
インナー・チャイルドの傷は自然に消えるだろうという期待は、
ほとんどの場合裏切られます。
インナー・チャイルドに意識を向けて、
その存在と声を受け容れることによって、
インナー・チャイルドは少しずつ変容していきます。
インナー・チャイルドが元気になると、
彼(彼女)は、アーティスト・チャイルドに変身します。
次から次へと、
奇想天外で、創造的なアイディアと、衝動を提示してきます。
突然へんな歌を歌いたくなったり、
山に落ちていた棒きれを拾いたくなったり、
模様替えをしたくなるかもしれません。
常識的な大人から見ると、ばかばかしいことや、
否定したくなることも含まれていますが、
傷ついたインナー・チャイルドと接したときと同じように、
最大限の敬意と、寛容さを持って、
アーティスト・チャイルドの声に耳を傾けつづけるとよいのです。
ばからしいと思えたことも、
声に応じて実際に行動してみましょう。
どんな感じがするか、
ひとつひとつ丁寧に味わい、
確かめてみましょう。
きっと子どもの時のような、
純粋な喜びの味わいを次第に取り戻すことができるでしょう。
周りの人がなんといおうとも、気にする必要はありません。
インナー・チャイルドやアーティスト・チャイルドは、
「~すべき」「~しなければならない」という価値の押しつけや、
否定的な言葉が下されれば、
すぐに落胆して逃げていってしまいます。
インナー・チャイルドやアーティスト・チャイルドの声を否定しようとする人からは、
常識的・倫理的に正しいことを言っているように見えたとしても、
意識的に遠ざかることも必要です。
多くの場合、
その人自身が自分のインナー・チャイルドやアーティスト・チャイルドを否定し、
接触を失っているからです。
インナー・チャイルドに、
今誰と一緒にいたいか、誰とは一緒にいたくないのか、
きいてみるとよいのです。
今何をしたいのか、何をしたくないのか、
きいてみるとよいのです。
インナー・チャイルドは、
まぎれもないあなたの一部分であり、
しかも、非常に重要な、内なる導き手なのです。
日常生活の中でいつもインナー・チャイルドの言うとおりに行動することは実際には困難ですが、
インナー・チャイルドのための時間を確保することはとても大切です。
そうすれば、
人生が、本当に創造的で豊かなものになります。
その満足を積み重ねることが大切です。
多くの人がよいと言っているだけのものをよいと思い込み、
周りの人の期待に我慢してあわせ、
倫理的・宗教的に素晴らしいといわれていることを自己犠牲的に取り組んでみても、
残るのはむなしさのみです。
そのやり方では人生は豊かにはなりません。
インナー・チャイルドと仲良しになることによって、
内的な満足と、楽しさが湧いてくるのです。
大人の自分は、
インナー・チャイルドを守り、育て、癒すことによって、
大人の思考だけでは決して得られない豊かさを手にすることができます。
インナー・チャイルドは、
アーティスト・チャイルドであり、
スピリチュアル・チャイルドでもあります。
インナー・チャイルドを否定せずに対話ができれば、
その同じ姿勢でいることによって、
スピリチュアルなメッセージを受け取りやすくなるのです。
インナー・チャイルドは満足、喜び、自尊心、創造性、
そしてスピリチュアルな果実への扉なのです。
エロスとは強力な魅力によって結びつける力です。
真実、神、学問、美しいものに惹きつけられ、
それを追い求めてやまないのもエロスの力によるものです。
しかし、
多くの人がもっとも強力にエロスを体験するのは、
男女の間にやってくるときです。
苦しいほどに惹きつけられ、
高揚感と強い愛情を体験します。
これほど強い力が、なぜ私たちのところにやってくるのでしょうか。
エロスの目的はどこにあるのでしょうか。
エロスの高揚感を求めてやまない人や、
エロスを恐れて避け続ける人もいますが、
エロスの真の目的については考えたことがない場合が多いのです。
エロスによる衝動とは、合一への欲求です。
エロスによって引きつけられた異性と、
その情熱を受け入れ合うとこができたとき、
至福の合一体験をします。
合一のエクスタシーは、
男女の間以外でも起こりうる人間の可能性ですが、
男女間の合一が、
多くの人にとってもっとも体験する可能性が高いのです。
合一体験は、
私たちは本質的にはひとつであり、
愛と喜びにみちているという魂の真実を垣間見せてくれます。
エロスに駆り立てられた男女は、
相手に受けいられ、愛を手に入れるために、
ほかではありえないような努力をすることができるようになります。
エゴをなげうって奉仕することを少しずつ学んでいくのです。
しかし、どこかで限界が浮かび上がってきます。
愛と合一による真実の世界と、
自己中心的で分離した私たちの心の世界とは、
遠くかけ離れているからです。
エロスの強力な力によって、
愛と合一に近づいたり、一時的に体験すると、
それとは相容れない心の闇が、
自然と浮かび上がってくるのです。
エロスに陶酔していた男女はここで驚くのです。
なぜこんなことが起こるのかと。
甘美な喜びはどこにいってしまったのかと。
乗り越えられない闇があらわれて、
それを互いに避けるようになると、
エロスは急速に去っていきます。
エロスが去れば、
後には闇を抱えた人と人だけが残され、
愛と合一感はなくなり、
傷ついたネガティブな感情と分離感だけが残されます。
エロスはなんのためにやってきたのでしょうか。
私たちを絶望に陥れるためでしょうか。
あるいは生殖のための仕掛けに過ぎないのでしょうか。
そうではありません。
エロスは、まず、この世界には、
真実の合一と、愛が本当にあるということを、
私たちに体験的に学ばせるためにやってきたのです。
愛と合一は、一時的であったり、近似的なものにすぎないかもしれませんが、
この体験は、魂の本質、宇宙の真実に触れることであり、
私たちの目を開かせるためにエロスはやってきたのです。
それでは、なぜ途中で問題が生じて、闇が広がり、
エロスは去っていくのでしょうか。
私たちの心と魂が成長し、
真実と愛に近づいていくためには、
心の闇に光をあてていくことが欠かせないからです。
闇を抱えたまま光のなかにとどまることは不可能です。
だから、愛と合一にちかづこうとすれば、
かならず闇が暴かれていくのです。
闇が暴かれることは、
私たちにとっては苦痛に満ちたものであり、
ほとんど耐え難いものですが、
それは私たちが成長するために避けて通ることのできない課題なのです。
エロスによって闇が浮かび上がることは、
最強最善のセラピーが与えられているということなのです。
闇と向き合うことを避けたままで、
愛、真実、合一の安らぎにとどまることはできません。
しかし、
私たちはエロスのこうした目的を知らないので、
闇があらわれると心を閉ざしてしまいます。
二人の間には深い溝が生じるか、
あるいは相手のせいでエロスが消えたと思い、
憎しみあうかもしれません。
エロスは、
退屈な人生を楽しくしてくれる単なるスパイスではありません。
私たちの魂を真実へと引きあげ、
愛を学ばせ、
心の闇に向き合い、闇を解消することを目的としているのです。
闇と向き合うことなしに、
エロスの高揚感だけを求めることは誤りです。
愛を学ぶ意志をすて、闇から避けた途端に、
エロスは消え去ります。
目的が達成されなくなったことを知ったエロスは、
速やかに二人を去り、
残された二人は、
闇を抱えた自分たちに直面するのです。
瞑想は、
マインドの作り出す幻想をスルーして、
心を超えた世界を体験する方法です。
瞑想をすることによって、
高い意識に触れて智慧を得たり、
メッセージを受け取ったり、
至福の喜びを体験することもあります。
しかし、よい瞑想ができたとしても、
再び日常では、
問題や苦しみが起きるのはなぜでしょうか。
瞑想の達人や、
高次の意識からメッセージを受け取る人が、
繰り返し間違いを犯したり、
トラブルに巻き込まれるのはなぜでしょうか。
依然として心が穏やかでないのはなぜでしょうか。
社会的に成功したひともまた同じ疑問がわきます。
努力をして、金銭、地位、家庭など、
目標とするものを得たけれども、
いぜんとして心が晴れないことが多いのはなぜでしょうか。
心の浄化は、瞑想や、外的な達成だけでは十分ではないからです。
瞑想中は、マインドの訴えには耳を貸さずに通過し、
深層の静寂を目指します。
瞑想によって、そのときは至福や神秘体験をすることもありますが、
それによって、心の闇が自動的に晴れるわけではありません。
仕事をしているときは意識を集中しているので、
充実感でいっぱいですが、
それによって、心の闇がすべて自動的に浄化されるわけではありません。
瞑想とは別に、
外的な努力とは別に、
自らの心の闇に、
巧妙に隠された感情や思考に意識の光を照らし、
自らの責任で引き受ける作業が必要なのだと思います。
そのときには、仕事や快楽などへの依存症的行動だけではなく、
心地のよい高い意識へも逃げ込んではいけないのです。
明晰な意識の光の下で、闇をあきらかにすることが必要です。
自分でも見たくない、
人に見せるのはもっと恥ずかしいと思っている心の実際を、
そのまま受け止めなければなりません。
これは、私たちにとって、簡単なことではありません。
無意識のうちに、ずっと避け続けていることです。
しかし、意識的にそれを行わない限り、
日常生活をまじめに積み重ねても、
仕事や家庭生活は表面上成功しても、
瞑想で高い意識を体験しても、
無意識のうちに隠し続けている限り、
浄化されない闇が残り続けます。
努力と苦労を積み重ねる一生を終えても、
正面から向き合わない限り消えずにつきまとう闇があります。
その闇は、来世へと持ち越されるかもしれません。
今ある闇は、過去生から引き継いだものもあるかもしれません。
浄化されない闇がある限り、
心に波風が起きて落ち着かなくなり、
実際にトラブルも生じます。
瞑想の至福が続かない理由はここにあります。
闇をあますことなく受け止めることは、
安らぎへ至る欠かせない道です。
心の煩悶や問題が生じるのは、闇があるからです。
心の煩悶や問題が生じるのは、闇に気づかせるためです。
心の煩悶や問題が生じたときは、闇に向かい合う絶好の好機です。
闇が私たちに見るべきものを見るように呼びかけています。
そういう意味では、闇は単に光の欠如などではなく、
闇もまた、変装した光なのでしょう。
そう思うと、闇に向き合うことが楽しくなります。
闇に呼びかけられることは光栄なことです。
闇=変装した光から呼びかけられたら、
それにしっかりと向き合うと、
自分で決めることが大切です。
そうすれば、光がいろいろな形で助けてくれます。
どのような神様を信じていても、
どのような宗教を信じていても、
根底においては万教同根です。
表層においては差異が目につきますが、
もっとも深層においては対立はありません。
もともとはひとつだからです。
万教が帰一する根源は空(シューニャ)です。
空性(シュンニャター)へ目覚めることは
意識的であるなしにかかわらず、
私たちの魂の奥底がもっとも待ち望んでいることです。
だから空に浸ったときには、
魂は無条件に喜びに満たされるのです。
その喜びのなかでは、
あらゆるものがやさしく溶かされていくのです。
私たちの魂は、
細々とした無数の出来事に遭遇しながら、
ほんのわずかずつ本質である空に目覚めていきます。
日常のさまざまな出来事への遭遇も、
その遙か先の延長線上へと進めば
輝ける空へと至ります。
瞑想はその目覚めを
少しばかり早めようとする試みです。
辛い出来事が起きると
それがトラウマとなって、
心に刻印されてしまうことがあります。
トラウマがあると、
あたかも心が檻に閉じこめられたように、
心の領域が狭くなってしまいます。
トラウマによる恐れが
無意識のうちに心に境界線をつくり、
それを乗り越えられなくなってしまうからです。
心と魂が成長するためには、
トラウマは解消されなければなりません。
それにはさまざまな方法があります。
トラウマが解消される時には、
ただ痛みの棘(トゲ)を抜くだけでは不十分です。
ただ棘を抜いただけならば、
いずれまた同様の棘に刺されるかもしれません。
トラウマを呼んだカルマは解消されていないからです。
棘には棘の意味があったことを悟らねばなりません。
棘はただの悪者ではありません。
棘を恨んで痛みにうめいているだけでは、
棘の真意は決して明らかになりません。
なぜ自分に棘が刺さったのか、
どうすればよかったのか、
棘が刺さってなにを得たのか、
このようなことが自らの内観によって明らかにされるにつれて、
はじめて棘はギフトに姿を変えてゆきます。
トラウマが力があるときは、
内観は的はずれであるか、
表面的なところにとどまっています。
トラウマは禅の公案のようなものです。
はじめはさっぱり意味が分かりません。
公案は知性では解けません。
魂の眼で真摯に自らを内観しなければ解けないのです。
トラウマという公案の回答が発見されたとき、
トラウマは力を失い、
トラウマを引き起こしたカルマは完全に解消されるのです。
脳も記憶も心臓も
すべての細胞が
身体を超えた大いなるものに感応して
オーケストラとなって奏でるとき
魂を揺さぶる美しい音が生まれます
私が大いなるものの部分になりきるとき
私は調和してひとつになるのです
いろいろな物事に出会ったときや、
人から話をきいたときに、
自分にはまだ理解できていないことがある、
理解できていないがとても重要なことがありそうだ、
という感覚がしばしば湧く人は、
理解力が深い人です。
理解できていることと、
理解できていないことの両者が視野に入っているからです。
いろいろな物事に出会ったときや、
人から話をきいたときに、
しばしばすべて分かったような感覚になる人は、
理解力が浅い人です。
自分が理解できている範囲しか見えていないからです。
すでに理解していることと、
未だ理解できていないことの全体を観られる人は、
きわめて明晰な人です。
そのような人は、
自分の理解したことや、
自分の知識にはとらわれません。
自我の上位にある観照者が目覚めているからです。
観照者は私自身です。
自分の頭で理解出きていない
重要なことがあることを察する眼を鍛えることが、
知識を超えた深い霊性(スピリチュアリティ)を育みます。
長年ひきこもりをしている人が、
今日の日本には100万人いるともいわれています。
そのなかには、
煩わしい人間関係を断ち切り、
ひとりでひきこもるなかで、
こころの孵化を体験する人もいます。
方向感覚を喪失した
出口の見えない心理状況を彷徨うなかで、
表層の自我の奥底に埋もれていた
自己自身に出会うという体験です。
孤独の暗闇のなかで、
自らの魂の光に照らされて、
その力強さに気づくのです。
それは戦慄であり、
畏怖であり、
生命に触れた安堵であり、
自己との分離が癒された感涙であり、
形容しがたい実存的な体験です。
このような体験は、
ひきこもりに与えられた恩恵です。
恩恵を得たものは、
もはやひきこもっている必要はなくなります。
生まれ変わって世に戻ることができるでしょう。
もちろん、
復帰はそれほどたやすい道のりではありません。
しかし、
世間に適応しているだけの人びとは知らない
もっとも重要なことの一部を彼らはすでに知っています。
私たちは常になにかを考えています。
私たちは常になにかを思っています。
なにかを考え、
なにかを感じているのは私ですが、
「私」とはそれだけではありません。
思考や感情は「私」のごく一部分でしかありません。
瞑想をすると、
まず私が間断なく自動的になにかを考えていることに気づきます。
そしていつもいろいろな感情が動いていることに気づきます。
考えの中に入り込むのではなく、
考えていることを観、
感情のなかに入り込むのではなく、
感情の波を眺めていると、
思考や感情から次第に解放されます。
思考や感情から解放されたとき、
私たちは大海のような
大きな「私」を体験しています。
大きな私は無限に広く、
ここまでという区切りはありません。
なにものとも分裂がなく、
調和のうちに一体感があり、
あらゆる観念や感情から解放されていて、
愛と安らぎに満ちています。
自己を知らないこと、
自己と分離すること、
自己自身に還れないことこそ、
あらゆる寂しさの根源であり、
最大の孤独なのです。
人間の存在論的な孤独です。
存在論的な根源的寂しさは、
どんなに他人と親密にかかわっても、
本質的に癒されません。
私たちの究極の癒しは、
この大海のように大きな自己との分裂を癒すことにあります。
川の流れに足を浸したとき、
それをどのように体験するでしょうか?
ぎゃー冷たいと大声で叫んで、
足を引っ込めるのか。
あるいは、
じんわりと冷たさが足に広がる痛みを感じて、
水の流れや川底の石のぬめる感覚までも味わうでしょうか。
ただ川に入るだけでも、
いろいろな体験の仕方があるのです。
私たちは、
いろいろな体験をするために生まれてきました。
体験をするというときに、
なにをしたとか
どんな目に遭ったとか
どこに行ったかなどということよりも、
それをどのように味わったのか、
それをどのように体験したのか、
ということが決定的に大切です。
忙しく動き回って方々に出かけても、
それを味わう心がなかったら、
それを観る眼がなかったら、
それは雑駁でぼやけた体験です。
苦しいときに、
苦しい苦しいと訴え続ける人が、
実はなにがどう苦しいのか、
よくわかっていないことがあります。
いつも苦しみを避けるのに精一杯で、
本当の意味で苦しみと向き合って
苦しさを体験できていないということがあるのです。
楽しいときに、
楽しい楽しいと騒いでいるのに、
実はなにが楽しいのか
よくわかっていないこともあります。
感情的な興奮に圧倒されて、
自分もそれに呑み込まれていて、
深い楽しさを味わえていないということもあります。
このような人は、
苦しみや悲しみの感情の波に襲われれば、
同じようにそれに呑み込まれて押し流されてしまいます。
体験を味わいつくすというのは、
目覚めてそれを観ていることが必要です。
「観る」というのは五感を含めた、
自己のすべてを総動員して精緻に味わうということです。
苦楽を含めたすべての体験を
充分にあますことなく味わいつくすとき、
私たちは次に進めるのです。
よいお宮の境内にはいると
外とはがらっと変わり、
清々しく神聖な空気を感じることができます。
感覚を開いていけば
お宮によって違った空気がただよっていることや
境内のなかでも場所によって
さまざまな違いがあることを感じられるかもしれません。
参拝とは御神気に触れることによって、
自らを祓い清めて
リフレッシュさせていただくという意味があるのです。
日々の瞑想は、
参拝にそっくりです。
瞑想をはじめたとき、
意識は鳥居をくぐります。
次第に漂いはじめる澄んだ空気を楽しみながら、
参道を歩くようにして、
瞑想中の意識は境内を散策します。
場所によって空気が異なるように、
瞑想中は
さまざまな空気の変化を
あるがままに感じ取って味わいましょう。
この空気こそ、
魂の栄養であり、
無上の恩恵なのです。
日々瞑想することは、
家にいながらにして、
日々参拝することなのです。
日々の瞑想=参拝によって、
心と魂はとても元気になり、
純粋に研ぎ澄まされ、
よいエネルギーに満ち溢れるようになります。
私たちは、
狂気に出くわすと、
たいてい反射的に目を背けてしまいます。
しかしそのとき、
私たちは自己を小さくしてしまっているのです。
狂気は複雑に絡み合った事情から、
そこに必然的に生まれ、
生きていることも多いのです。
狂気は理解されにくい、
ワケありの花です。
排除された人間の心の叫びが、
狂気という形で開花しているのです。
狂気が現れたとき、
狂気の花によりそっていると、
それがフッと伝わってくることがあります。
そのとき、
狂気が愛らしくなるのです。
そして狂気にならざるを得なかった事情に、
狂気になることが正常であったという事実に、
胸がいっぱいになるのです。
狂気を抱きしめるとき、
私たちには痛みの伴う喜びと、
強く大きな愛に満たされます。
ここであふれ出る涙は、
浄化の美しい涙です。
狂気を受け入れたとき、
私たちは真に豊かになります。
中心から切り取られ、
長いあいだ排除されつづけていた重要ななにかが、
故郷に帰ることを許されたからです。
勘当された息子が、
ようやく我が家に迎え入れられたのです。
じつにそれは、
私たちにとって必要な帰還でした。
そのとき、
狂気は神様からのメッセージであったと気づくのです。
どんより重く湿った空気が立ちこめ、
うだるような真夏のような暑さの日でも、
高山の頂では軽やかな冷気の風が吹き、
雪と氷の世界が広がっています。
それほど
麓と高地は別世界です。
地上と天上とはそれほど
いやそれ以上に異なっています。
だから
地上に暮らすものが
天の世界につながったときには、
著しい摩擦を引き起こす危険があるのです。
天とつながりをもちながら地上で暮らすならば、
摩擦を完全に避けることは困難です。
その摩擦は、
自己を内部で激しく引き裂いたり、
親しい人とのつながりを切り裂くこともあります。
冷気と暖気がぶつかれば、
その摩擦で雷が鳴り響き、
豪雨になるのです。
あまりにも異質だからです。
天上を知る魂は
その摩擦を恐れ、
みずからの魂の声を封じ
魂の記憶を封印し
身を守るために無知の衣を纏い、
自己を縮小させて生きているかもしれません。
悲しいかな、
本来の魂の力を忘れ、
自信を失い、
自己は小さいと思いこんでしまうことさえ少なくありません。
もしも魂が天上の光を少しでも発すれば、
地上では齟齬が生じ、
憎悪と蔑みを受け、
ただ天の衣を着ているというだけで敵視され、
殺されることさえあるからです。
それは歴史的に幾度も繰り返されてきたことです。
そして今日でもいたるところで繰り返されていることです。
それを恐れて
それが魂のトラウマとなって
魂の声はしばしば封印されています。
しかし、
地は天を必要としています。
重たい地上を軽やかにするためには、
天の風を吹かせなければなりません。
地上に天の風を吹き込むためには、
魂の力を解放し、
天の団扇(うちわ)を扇ぐことが必要です。
天の団扇を扇ぐにはコツがあります。
天をよく知り、天によく馴染み、
地をよく知り、地によく馴染み、
心が謙虚で歪みなく、
賢く柔軟で、強く明るく忍耐強く、
慈悲深くあることです。
コツを身につけていないと、
扇いでも摩擦の雷鳴を轟かせるばかりで、
さわやかな天の風は起こせません。
天の風を吹かせることは、
なかなか容易ではありませんが、
これほど挑戦しがいのある課題はありません。
自分にはできないなどと思っているヒマがあるならば、
下手でもまず扇いでみることが大切です。
何度も扇いでいれば、
次第にコツを会得して上手になり、
大きな天の風を吹かせることができるでしょう。
さらに、
大勢で天の団扇を扇ぐならば、
もっともっと大きな風が吹き、
地上の塵は吹き飛んで浄化されるに違いありません。
ある日
宇宙に隠された真実があることに気づく。
その隠された光に心を奪われ、
美しい秩序を探し求める。
深淵に眠る真実を勝ち取ることを決心し、
熱い情熱をもって旅に出る。
真実を我がものとし、
それを身に纏うために日々精進し、
まっすぐに突き進む。
勝ち得た真実を実現するため、
言葉と行為によって理想を示し、
深層の意味を明らかにする。
神々とともに魂の救済にかかわり、
善悪を識別し、邪悪なものを打つ。
罪汚れを祓い清め、煩悩を打破する。
偽りを見破り、その煙幕を切り裂く。
邪なものを切り捨て、燃やし尽くす。
理想の実現のために、
汗を流して働き続ける。
これが男性原理の霊性です。
善悪の分け隔てなく、
わたしとあなたの分け隔てさえなく、
生起すること一切を肯定する。
小さなものから大きなものまで、
あらゆる存在の息という息をつぶさに感じ取り、
声という声に耳を傾け、
慈愛の手によってこれらを受容し、
抱擁する。
やってくるものにハートを開き、
すでにあるものを抱きしめ、
去っていくものを祝福する。
あらゆる痛みと苦しみをも
わが身に引き受ける。
世界が愛であることを目撃し、
一なる世界に自らをなげうち、
すすんでその僕となる。
宇宙のなかで溶解し、
自己のすべてを捧げる。
これが女性原理の霊性です。
男性原理の霊性と
女性原理の霊性は
互いに矛盾しながらも、
どちらも正しく
どちらも真実で
どちらも必要なものです。
片方のみに偏れば
バランスを欠いて不完全なものになります。
霊的な成長においては、
男性原理と女性原理のそれぞれが少しずつ成熟しながら、
やがては自己のなかで均衡をはかるようになり、
化学反応のようにして融合していきます。
それはダイナミックな化学反応です。
変容した霊性は、
両原理を包含した大きな霊性となって、
調和して協働します。
そのとき
男性原理のなかに女性原理があり、
女性原理のなかに男性原理があります。
瞑想者は、
内なる静寂のなかで、
男性原理と女性原理の聖なる結婚式に参列するのです。
日本地図をみると、
南北に長い日本列島は
北海道、本州、四国、九州の
四つの大きな島を中心に連なっています。
でも、
海があることによって島があるように見えているだけで、
海底では四つの島は地続きなので
本当はひとつです。
世界地図をみると、
アフリカ、ユーラシア、アメリカ、オーストラリア、
そして南極の5大陸があるように見えます。
しかし、
これも同じように海底ではすべて地続きなので、
本当は5大陸もひとつです。
実際、
2億年以上前には、
現在の5大陸はパンゲアというひとつの超大陸だったという説もあります。
海を青く塗らない地図を作ってみたらいいのです。
あるいは地球は青い星ですから、
陸地も青く塗った地図をつくってみても美しくていいでしょう。
そうすると地球はひとつだという
ものすごくあたりまえのことに気づくのです。
大陸はマインドの認識によるマーヤです。
ましてや、
人間がつくった国境線など
衛星写真にすら写りません。
だから国と国との境など、
本来は心霊写真ほどのリアリティもないのです。
瞑想というのは、
このようなものすごくあたりまえのことに
理屈抜きで目覚めることなのです。
関東方面の地図をみると、
東から房総半島、三浦半島、伊豆半島があります。
さらに西に進めば、
渥美半島、知多半島があり、
大きな紀伊半島に行き着きます。
それぞれの半島は、
歴史、文化、風土の異なる、
個性的な地域です。
でも、
あたりまえのことですが、
地図をみれば分かるように、
みんな陸続きです。
たくさん半島はあっても、
実はみな本州という
ひとつの島に過ぎません。
これと同じことが、
宇宙のあらゆることについていえるのです。
私たちはそのことにどれだけ気づいているでしょうか?
たくさんあるという認識はマインドによるマーヤ(幻)であり、
ひとつであるという認識はシューニャ(空)の意識から生まれます。
マーヤにはマーヤなりのリアリティがあります。
でもそれは唯一のリアリティではないばかりか、
他との比較のなかでかりそめにあらわれた、
実に頼りないものにすぎません。
瞑想の意識でシューニャを繰り返し通過すると、
理屈を言うより先に、
ひとつであることが当たり前になってくるのです。
マーヤがマインドのつくり出すマーヤであることを知ると、
マーヤの見え方も味わいも変わってきます。
なぜならマーヤのなかにシューニャの味を感じ取るようになるからです。
そういう意味で
三浦半島は美しきマーヤです。
瞑想状態に入るには、
思考から離れる必要があります。
しかし、
努力によって思考を止めることはできません。
その努力は瞑想とは逆方向です。
止めようとすればするほど、
思考は盛んになるでしょう。
自分でどうにかしようというはからいを捨て、
ただすべてを大いなるものに委ねたとき、
思考は私に影響を及ぼせなくなるのです。
思考から解放されたとき、
私たちは本来の姿に戻ります。
この空っぽの意識が、
神様をお迎えするための状態なのです。
瞑想は、
雑念でいっぱいのときや、
内面のカルマが舞い上がっているときには、
苦しいものになります。
しかし、
その雑念が鎮まり、
心がすっかり透き通ったときには、
心の向こう側に到達します。
それはあまりにも心地のよい体験なので、
座ったまま天国にいるようなものです。
それは暖かく、
優しく、穏やかで、
安らぎとほがらかさと慈愛に満ち、
明るく強いのです。
心を空にして座るものは、
そこで溶かされていきます。
瞑想は、
揺るぎない平安へ定住するための、
重要な方法であることは
疑う余地がありません。
あらゆる偉大な師が説くように、
本気で魂を磨くためには、
正しい実践が欠かせません。
本を読んだり、
ワークショップに参加したり、
テクニックを習うことは、
ひとつのきっかけにはなるでしょう。
しかしそれだけでは、
私たちはごくわずかしか変われないし、
気を抜けばすぐに元に戻ってしまいます。
日々の終わりなき実践が必要です。
多くのサットグル(完全な覚りを開いた師)は説いています。
容易ではない教えですが、
生きているということは、
これらに少しでも挑戦する機会が与えられたということです。
一、マントラを唱えたり神の御名を讃えるなど、神仏を心から愛すること
一、自然に感謝し、環境を守るなど、生きとし生けるものを愛すること
一、有形、無形のよいものを惜しみなく与え、純粋な心で奉仕すること
一、心を鎮め、執着を手放し、空の瞑想をすること
一、真の指導者や質のよい霊的な書物などに学び、智慧を身につけること
一、困難に屈せず、節度を保ち、最善を尽くして努力すること
一、外の敵と闘わず、内なる煩悩に気づき、うち勝つこと
一、人々を真に助ける力を得るために、究極の安らぎの境地に至る決心をすること
澄んだ清流も、
嵐が来ると泥流になります。
しかし嵐が過ぎ去ってしばらくすれば、
元の清流に戻ります。
私たちの心も、
嵐が来ると濁ります。
しかし上流から流れてくる水をせき止めなければ、
また澄んだ心に戻ります。
瞑想は
澄んだ清流で心をすすぐことです。
透明な流れに身を任せていれば、
心身は空になって軽くなります。
しかし嵐は再びやってきます。
そのとき川底に堆積していた塵芥も舞い上がり、
汚濁した水で視野がなくなります。
汚濁は自らの底にあるものがつくり出しています。
私たちの煩悩とカルマは厚く堆積しているので、
瞑想で透明な心に洗っても、
清濁のプロセスを何度も何度も繰り返すのです。
これは、
瞑想のプロセスだけではなく、
スピリチュアルな成長の過程でも同じ繰り返しが起きます。
このプロセスは、
深く堆積した塵芥が
完全に浄化されるまで続きます。
濁流に襲われるのも、
浄化が進んでいる証拠です。
海の波が何度も寄せては返すなかで、
次第に満ちてくるようなものです。
覚りを開いた人の心は、
きっと嵐が来ても決して濁らない川のようなものなのでしょう。
最近普及が進んでいるハイブリッドカーは
従来のガソリンエンジンに加えて、
電機モーターも備えています。
強く加速するときはガソリンエンジンが働き、
その間はバッテリーに電力を充電します。
強い動力が必要でないときには、
エンジンは停止してガソリンは使わず、
電機モーターによってスムーズに動きます。
2つの異なる動力システムを
そのつど適したシステムを瞬時に切り替えて用いることによって、
燃費は2倍にも向上したのです。
ハイブリッドカーは、
これからの人間社会に不可欠な
近未来志向の進化した自動車です。
私たちの意識も
これからはハイブリッドシステムに進化する必要があります。
今までは、
心をもちいて判断し、考え、適確に結論を下すことに専念してきました。
しかし、もうひとつ別の意識状態が不可欠なのです。
それは、判断せず、考えず、
余分な力を抜いて、
ただ観つづけるというテクニックです。
いうまでものなく、
これは瞑想中の意識の在り方です。
日常生活で出会うさまざまな局面において、
必要なときにはマインドを用いて適確に判断し、
そうでないときにはマインドを休めてただ観るようにします。
これをそのつど適したシステムに切り替えていくと、
世界の味わいは一変します。
すくなくとも2倍以上には豊かになるでしょう。
意識のハイブリッドシステム化によって、
私たちの合理的思考能力はさらに進化して、
洗練された叙情性と直感を統合し、
より広く深い理解力と知恵を獲得していくでしょう。
意識のハイブリッド化は、
スピリチュアルな意識進化のテクニックです。
なにも考えることなく、
なにも注釈をつけることもなく、
ただ虚心に眺め続けていると、
それがどんなに役立たずで退屈なものであったとしても、
次第に親しみを覚えるようになります。
深い親しみを抱くようになると、
みている私と、
みられているなにかは、
通じ合うようになります。
しだいに私とそれとの境界線は曖昧になり、
溶け合っていきます。
みられるものは、
石ころでもいいし、
山でもいいし、
花でもいいし、
人間でも構いません。
もしも至高の神様を見つづけたとしたら、
いったいどうなってしまうでしょう。
私たちの心は煩悩のかたまりです。
煩悩がある限り、
どんなに表面をきれに取り繕ろい、
幸せなフリをしてみても、
実際には苦しみが次から次へとわき起こり、
トラブルに直面しつづけます。
煩悩がある限り、
心の目が曇っているので、
どんなに学問を修めても、
真実を理解することはできません。
煩悩ある限り、
どんなに社会的な成功を誇っても、
私たちは自らの欲と執着によって、
自分と他人を悩ませつづけます。
私たちは
光の乏しい無知の闇にいるのです。
そして、
闇の中にいること自体に気づいていない
無明(むみょう)のなかにいます。
まず光を求めることからはじまります。
光がなければ
闇がすべての世界だと思いこんでいるので、
自分が闇のなかにいることに気づけません。
自分の煩悩を直視して取り除くことがなければ、
苦しみとトラブルが絶えることはありません。
苦しみやトラブルは、
自らの煩悩の正当な結果だからです。
自分の煩悩に気づき、
反省して少しずつあらためていく、
この地道で痛みのともなうプロセスなしには、
私たちが進歩することはできません。
瞑想は心の掃除です。
しかも、
その掃除は頭を使って意識的に行うのではなく、
すべて自然に自動的になされます。
瞑想による心の掃除は、
意識的になにかをしようとすると、
とたんに作業がストップします。
一度瞑想をすると決めたら、
自然な流れにすべてまかせ、
手を出してはいけません。
プロの職人の仕事に、
素人が気をきかせて手伝うと、
邪魔にしかならないのと同じです。
心の掃除によって、
感情や記憶がどのように整理され、
なにが捨てられているのか、
私たちは関与する必要はありません。
ただ信頼して、
掃除が終わるのを待っていればよいのです。
あれこれ考えて邪魔をしない、
それがいちばんよい掃除をするコツです。
瞑想は、
自分のなかに
スペースをつくることです。
苦しみでいっぱいのときに、
自分のなかにスペースをつくることができると、
苦しみは自分のなかの一部になるので、
苦しみは薄まっていきます。
喜びでいっぱいのときに、
自分のなかにスペースがふくらんでいくと、
喜びは自分のなかの一部になるので、
喜びは薄まっていきます。
苦しみにも喜びにもとらわれない、
空っぽの状態こそ、
一番心地よい状態です。
心と身体が透明の時こそ、
真の自己が現れているのです。
よいことがあって喜んでいるとき
私たちは幸せと感じます。
よくないことがあって悲しんでいるとき
私たちは不幸と感じます。
これを繰り返すのを一喜一憂といいます。
私たちの人生はたいてい
始めから最期まで一喜一憂の連続です。
私たちは、
幸福になりたいと望んでいるので、
できるだけ憂を減らし
喜を増やそうと考えます。
しかし瞑想は
これとはまったく違う試みをします。
瞑想中には、
よいとかよくないとかの判断をやめ、
あるがままを観るように心がけます。
もしそれができれば、
よいもわるいもなくなるので
一喜一憂から解放されます。
もし一喜一憂から解放されたなら
つまらない人生になると思うかもしれませんが、
実際には意外な結果になるでしょう。
無駄な感情や観念に惑わされなくなるので
物事をよりはっきりと
あるがままを観ることができるようになります。
そうすると、
ただあるがままを観ているだけで、
対象をいとおしく感じたり
深い喜びを感じるようになるのです。
瞑想の体験には、
いくつかの達成ポイントがあります。
瞑想状態にはいってしばらくすると、
散漫な心が鎮まってゆき、
意識が集中した状態になると、
辺りは次第に静けさに包まれていきます。
静寂のなかでさらに意識が澄んでくると、
心と身体が軽くなってゆき、
ついには理由のない
喜びに満たされます。
そのとき瞑想者は、
喜びの海に包まれているのです。
もはやこうなると
ずっと瞑想をしていたくなります。
あまりにも居心地がいいので、
日常意識に戻りたくなくなります。
瞑想をしても
つねにここまで到達できるとは限りません。
ここまでやってこれないことの方が多いかもしれません。
心や体に疲れやもやもやしたものがあって、
それが次から次へと湧き上がってきて、
むしろ苦しいだけの時も多いのです。
でもそれは、
この喜びの状態へ向かうために必要なプロセスなので、
それもまた重要な瞑想の体験です。
さしあたりは、
この喜びが瞑想のメルクマールになるでしょう。
瞑想とは、
なにもしないことに全力を傾けることです。
しかし不思議なことに、
どんなに忙しく活動しているときよりも、
深い瞑想はずっと濃密な時間になります。
なにもしないのに、
いちばん濃密なのです。
これは空(シューニャ)の性質です。
空はサラサラでなにも形はありませんが、
凝縮されたエネルギーの源でもあるのです。
自分の内側で起きていることを
あたかも外側の出来事のようにとらえ、
外側で起きている出来事を
あたかも自分の内側で起きていることのように
受け取ってみましょう。
そうすると、
内側と外側には本質的な違いなどないことが
理屈ではなく感覚的に分かってきます。
その感覚を深めていくと、
「私」という牢獄が幻想であることが、
ちらっと見えはじめます。
気にさわる状況に出会ったとき、
「コノヤロー、懲らしめてやるー」
と怒りでいっぱいになることがあります。
一方、同じ状況でも
「あ、いま自分のなかにイラッとした気持ちが湧いたな」
と自分の感情を観察できていることがあります。
前者の場合は、
心が怒りに占領されて、
コントロールがきかなくなります。
しかし後者の場合は、
心に怒りが生じた瞬間を観察できているので、
怒りをその場で手放すこともできます。
私たちは感情ではありません。
怒りに限らず、
自分の内面に起きることを
あたかも外で雨が降ったり風が吹いたりする出来事のように
距離をもって「観る」ことができれば、
心はずっと安定するのです。
運動をするときには、
はじめにストレッチや準備体操をすると
身体が調って快適になり、
動きがよくなり怪我をする危険も減ります。
同様に、
一日のはじめに瞑想をすると
心が掃除されて調うので、
物事が順調に進みやすくなります。
さらに、
瞑想によって心に空きをつくり、
澄んだ意識になれば、
よいことをキャッチしやすくなります。
朝の瞑想は、
一日に恩恵を及ぼします。
私たちはもっといいものをたくさん得て
自分の中に溜め込もうとしています。
しかし実際には、
いいものもわるいものも
たくさん溜め込んでいっています。
形あるものもないものも
よいものもわるいものも
抱え込むことによって
私たちは重くなり
苦しんでいるのです。
どちらも捨ててしまうことです。
すべては流れているに過ぎません。
すべてはただ自分を通過するだけです。
そうすれば
とてもすっきりするのです。
よいものをかかえこまなくても、
心配はいりません。
目を開きさえすれば
よいものは無尽蔵に
あまねく存在しているからです。
瞑想は確かに
スピリチュアルな世界へ通じています。
しかし、
さまざまな東洋の霊的伝統は、
瞑想をして神、仏、眷属その他の霊的存在に出会っても、
それにとらわれてはならないと伝えています。
なぜでしょうか?
それは、
私たちが霊的存在に出会うとき、
その圧倒的な力によって
気づかぬうちに取り込まれてしまう可能性があるからです。
霊的存在も形がある限り、
究極の存在ではありません。
一度取り込まれてしまうと、
そこから抜け出すのは簡単ではありません。
心地がよければ尚更出られなくなります。
霊的存在との出会いは
確かに喜ばしく素晴らしいギフトです。
しかしそれは目的地ではありません。
道中の通過点に過ぎません。
神も仏も、
もとは空(シューニャ)から生まれたのです。
瞑想は、
神々、すべての魂、万物の故郷である、
空へと向かっているのです。
空にひたっているとき、
そこにはいかなる意味も物語もありません。
ただ素晴らしいだけなのです。
もし空に触れないままに霊的存在に出会ったら、
私たちはその圧倒的な魅力やパワーに太刀打ちできません。
ですから、
瞑想をするものは、
危険な寄り道はほどほどにして、
最終地点である
シューニャにつねに意識を向けていなければなりません。
シューニャの静寂のなかにあって、
心身が清浄であるとき、
私たちはいかなる存在にも取り込まれることもなく、
絶妙なバランスを保ちながら、
自己自身の道を進むことができるのです。
道で倒れている人がいるときに、
私たちは知らん顔をすることもできるし、
心配して声をかけることもできます。
自分が傷ついて倒れているときも、
事情はまったく同じです。
自分が傷つき苦しんでいても、
知らん顔することもできるし、
苦しんでいる自分を思いやったり、
苦しみに同一化して
泣き叫んだり助けを乞うこともできます。
私たちは、
自分とどうつきあうか、
他人とどうつきあうかを
選ぶことができるのです。
なので、
他人を自分のように扱うこともできるし、
自分を他人のように扱うことも可能です。
瞑想は、
自分の心と向き合うことが目的ではありません。
自分を超えた大いなるものと仲良しになると、
結果として自分の事情も見えやすくなるだけです。
瞑想は
感情や身体への同一化を弛めることによって、
すべてを包含するスピリットに触れる営みなのです。
虫が光に群がるように、
人間の魂も、
自分より明るい魂にひかれます。
自分より明るい魂と接することによって、
みずからの闇を知り、
さらに明るい世界を知ります。
そうすれば、
ひとりでいるよりも容易に
自らの闇を克服することができるのです。
その魂もまた、
自分よりも明るい魂を求め、
同じようにしてより明るくなっていきます。
こうして、
次々とより明るい魂へと連なっていくと、
最終的には魂のつながりは、
もっとも明るい宇宙の太陽へとつながります。
鎖のひとつをなす魂が、
少しづつ明るさを増すことによって、
人類全体を明るくし、
蔓延した闇を癒すのです。
自分の闇に明かりを灯すことは、
自分だけの出来事ではなく、
そこに連なる多くの魂に影響を与えるのです。
暗いところにずっといると、
それが普通になってしまいます。
けれでも、
ひとたび暗闇に光が差しこめば、
いままで暗闇にいたことに気づかされます。
私たちの魂も同じです。
光に出会うと、
はじめはまぶしくて目をそむけます。
そして自分が暗闇にいたことに気づくのです。
私たちの心は、
しばしば光を避けようとします。
しかし一度光に接してしまえば、
けっして忘れることはできません。
魂の本性は光を求め続けるのです。
光が差し込めば、
闇は一瞬にして消失します。
瞑想を繰り返し実践していると
瞑想中にたくさんの雑念がわいているときでも、
つねに同時に深い静寂があることに気づきます。
静寂はつくりだすものではなく、
いつでもすでにここにあるものです。
それは瞑想中だけではなく、
忙しく働いているときも、
激しい運動をしているときも、
悲しみにくれているときも、
喜び踊っているときも、
眠っているときも、
きづいていなくとも
いつでも静寂はそこにあるのです。
瞑想はそれに気づき、
その静寂に自らを解放していくことです。
静寂を身に纏うと、
みずからの魂の息づかいがきこえてきます。
孤独で淋しいと感じるとき、
私たちは自分の周りに人がいないからだと考えます。
しかしよく観察してみると、
周りにいっぱい人がいて、
たくさん関わっているのに、
孤独感を感じている場合も多いのです。
これは、
人がたくさんいるのに心が通い合っていないからです。
そしてしばしば、
自分の心が堅く閉じてしまっているために、
孤独感に襲われているのです。
自分の心が閉じているときは、
どんなに人と会っても孤独感は解消されません。
むしろ人と会えば会うほど淋しくなったりします。
そうなるともがくように強い刺激を求め、
相手にべったり依存したり、
相手を強引に支配しようとしたりして、
人間関係を壊してしまうのです。
孤独の淋しさのあまり、
なにかの依存症に陥る場合もあります。
この場合は自分自身を壊してしまいます。
依存や支配という関係は、
本当のところでは心は通い合っていないので、
ますます人を淋しくさせる不幸な状態です。
孤独感、さみしさは、
自分の心がつくり出している部分が大きいのです。
自分の心がオープンで穏やかであるときは、
誰も近くにいなくても
とても満たされた気持ちになったりします。
たったひとりで瞑想している姿は、
はたからみるととても孤独なのですが、
内面的にはとても暖かい、
満たされた気持ちである場合が多いのです。
いちばん大切なことは
なにをしたかではなく
どんな動機でそれをしたのかということです。
動機がもっとも重要であるということは、
人間のすべての行動についてあてはまります。
だから、
表面的な行為がうまくいっているか否かだけにとらわれず、
動機の純粋さ、深さ、強さを見る目が必要です。
瞑想をするときにも、
いったいなんのために自分は瞑想をするのか、
ときどきはっきりさせておくとよいでしょう。
そして、
動機は自分の個人的な欲求から、
より深く大きいものへと
変わっていってもよいのです。
正しい方法で瞑想を続ければ、
動機に応じた成果が得られます。
心(マインド)の主な働きは、
なにかを考えたり、
喜怒哀楽を味わったり、
記憶したり想起したりすることです。
つまり、
心が活動すればするほど、
瞑想とは遠くなるのです。
だから心でどうこうしようと思っていると、
瞑想はいつまでたってもできません。
心が休止して、
なおかつめざめていれば
それはそのまま瞑想になります。
心にとって瞑想は
死ぬことと同じです。
だから心は瞑想を嫌がるのです。
そういう意味で瞑想は、
死ぬ練習でもあります。
瞑想はムリにできるものではありません。
ムリにしようとすると、
ますます心が反発して、
心のなかがさわがしくなり、
かえって瞑想から遠ざかってしまいます。
いろんな心の状態があるけれど、
いろんな身体の状態があるけれど、
それを受け入れてしばらく一緒にいよう、
その様子を眺めていよう、
そんな感じで座っていると、
やがて心と身体から距離がとれて、
瞑想状態になるのです。
瞑想をはじめたら、
力むことをやめ、
瞑想したくないという気持ちにとらわれないことです。
そして、
瞑想をしようという気持ちにも
しがみつかないようにしましょう。
私たちは、
お金、よい仕事、よい人間関係、健康など
現実的なものを望んでいます。
実際これらはことごとく必要です。
でも、
これらが手に入らないと幸福になれないということはありません。
これらが手に入れば自動的に幸福になるというのも勘違いです。
瞑想は結果的にこれらを得やすくすることはありますが、
目標とはしていません。
なにもなくても、
なにもしていなくても、
いつもすでにある、
心が平安になる内面の場所を見つける練習なのです。
瞑想は入浴に似ています。
すべてを脱ぎ捨て、
心地よくリラックスして、
心の垢をきれいに洗い流します。
なるべく毎日はいらないと、
ちょっと気持ち悪いのです。
今日の瞑想会は本当に祝福された
素晴らしい会になりました。
はじめにプージャをしているときに、
強く心地よいエネルギーがバーッとおりてきたので、
今日は素晴らしい瞑想会になると確信しました。
ある初参加の方がアネモネの花を持ってきてくれたので、
祭壇に飾らせていただいたのですが、
はじめに閉じていたお花が、
10分ほどのプージャの後は見事に開いていました。
お花もご神霊のエネルギーを感じて一気に咲いてしまったのだと思います。
実際、私の家のお花はなかなか枯れません。
祭壇の近くにあり、
毎日マントラを聴かせ近くで瞑想をしているので、
2ヶ月くらいは平気で咲いています。
インドのバジル・トゥラシも
寒い日本なのにまだしっかり生きています。
花でさえ開いてしまう場ですから、
人間に影響を与えないはずはありません。
はじめて参加された方も、
とてもよい瞑想ができたようでした。
御神霊および参加者の皆様、
ありがとうございました。
瞑想は自分を無にする試みです。
自分を無にするということは、
心の雑音を静めるということです。
心の雑音を静めるということは、
自分を大宇宙の心にチューニングすることです。
大宇宙の心にチューニングしたとき、
私たちは恐れから解放されます。
恐れがなくなればなくなるほど、
私たちの目の曇りがとれ、
あるがままの実相を見ることができるようになります。
あるがままの実相は、
すべてが美しく輝き、
愛に満ちていると気づくのです。
心が整い、
内面の雑音が取り除かれれば、
私たちは喜びの海にいたことに気づくのです。
海に潜ると、
砂や泥で濁ってなにも見えない海、
熱帯魚や珊瑚礁があざやかな海、
深海魚しか住めない闇の深海など、
いろいろな領域があります。
場所を移動すれば、
そのつど新しい海を発見できます。
海はとても広いので、
すべてを知り尽くすことはできません。
同じように、
瞑想をすると、
同じ静寂であっても、
澄んだ領域、
明るい領域、
暖かい領域、
まろやかな領域、
躍動感のある領域、
溶解するような領域など、
さまざまな領域があります。
つねにまだその先、
もっと深い意識領域があるのです。
だから、
瞑想はこれで終わり、
ということはありません。
瞑想はこれでわかった、
ということもありえません。
それぞれお気に入りの港や入り江があるように、
毎日瞑想をしていても、
案外お気に入りの
同じ意識領域ばかり行っている場合があります。
入り江の外にも
海は広大にひろがっています。
瞑想は、
ひろいひろい海を
泳いだり潜ったりするようなものです。
考えることにのみ価値をおく人にとっては、
なにも考えないことを目指す瞑想は無価値です。
行動することにばかり価値を見出す人は、
ただ座っている瞑想は理解不能です。
効率と結果をもっぱら追求する人は、
毎日の瞑想など時間の無駄にしか思えません。
お金を稼ぐことこそ人生の目標と思う人は、
稼ぎの入らない瞑想には関心がありません。
ひととの情緒的な触れ合いに最大の価値をおく人は、
ひとりで目をつぶるのは淋しく無意味に感じます。
だから、
大半の人は瞑想には関心がないのです。
しかし、
自らの魂を磨きたいと望む人には、
瞑想はとてもよい結果をもたらします。
深い心の平安を望む人にも、
瞑想はとても貢献するでしょう。
さらに、
瞑想によってさまざまな体験と知恵を得ると、
実は結果的に、
瞑想はもっとも得をするということに気づくのです。
瞑想で得た「静」は、
あらゆる「動」に波及するからです。
神様のまえでは、
なにひとつ隠し事や嘘は通用しません。
神様のまえでは、
曇りのない純粋な心だけが通じます。
他人に対してだけではなく、
自分に対してついている嘘も、
すべて神様の前では
処分しなければなりません。
神様の御前に立っているのは、
お参りしたときだけではありません。
神様はいつでも、
どこにでも存在しています。
私たちに隠れる場所はありません。
いついかなるときも、
私たちは神様の前にいます。
そのことを意識することが、
私たちをもっとも成長させるのです。
人の目を気にして生きるのではなく、
神様の目を気にすることがなによりも大切です。
魂といってもひとそれぞれです。
たとえば、
明るい魂と、
そうでない魂があります。
これは、
性格の明朗さとは必ずしも一致しません。
控え目で内向的でも、
魂は輝かんばかりに明るいこともあります。
反対に、
性格はオープンで陽気でも、
魂は曇っていることもあります。
明るい魂は、
ポジティブシンキングなどで、
一朝一夕に取り繕うことはできません。
明るい魂になるためには、
地道な積み重ねが必要です。
そのためには、
いろいろな方法があります。
瞑想はそのひとつです。
深い瞑想状態にはいると、
周囲が明るくなったと感じることがあります。
これは、
高い意識領域にアクセスしているためです。
その時には、
心や体だけではなく、
魂も洗浄されているのです。
明るい領域に馴染んでいると、
魂は喜んでその輝きを吸収するのです。
瞑想は、
自らの魂に光の御馳走を与えることなのです。
神様は、
高いところから人間界を眺め、
たくさんのロープを垂らしています。
ロープを見つけてしっかり握った人間いたら、
ぐいぐいと引っ張り上げてくれるのです。
ロープは至るところにぶらさがっていますが、
人間はたいてい神様のロープには関心がありません。
だから、
目の前にあるロープに気づかなかったり、
見えたとしても払いのけたりしています。
神様のロープよりも、
今自分が気持ちよかったり楽しいことの方が、
ずっと魅力的に見えるからです。
救いがないのではありません。
救われたいと本気で思う心がないのです。
クリスマスもお正月も、
心静かに神様に意識を向けることがなければ、
ただのにぎやかなイベントに過ぎません。
神様のロープを見つけるには、
純粋な心だけが必要です。
見つけたあとは、
ロープを握ったら絶対にはなさない
強い意志が必要になります。
多くの生き物は、
昼は活動し、
夜は休息します。
活動と休息のリズムとバランスは、
地球の秩序のようです。
人間も地球の一部ですから、
遮二無二動いて努力する時期と、
ゆったりおちついてそこにいつづける時期が必要です。
どちらか一方だけでは、
いつかバランスを崩します。
動しかないひとはせわしないし、
静しかないひとは社会に適応しにくいのです。
これは人生の長いスパンでみても、
日々の短いスパンでみてもあてはまります。
瞑想は、
一日の中に純粋な「静」をつくりだします。
瞑想後、
さまざまな活動に入っていきます。
静をしっかりと体験している人は、
動のなかにも「静」が漂うようになります。
行為のなかに動と静が同時に混在するようになると、
とても心地よく、調和がとれて、
その行為はなんとも美しくなります。
瞑想をしていると、
内側にある葛藤、執着、わだかまり、
痛み、苦しみ、強い印象などが、
ワッとわき上がってくることがあります。
これは、
時にはとても苦しい体験になります。
瞑想をすることによって、
余計苦しくなったようにも感じられます。
一体なにが起きているのでしょうか?
瞑想によって状態が悪化したのでしょうか?
そうではありません。
これは瞑想によって、
いままで溜め込まれていたものが、
やっと出てくる機会が与えられて、
ようやく表現されているのです。
出てくるままにまかせて、
出し切ることがもっともよいのです。
出してしまえば、
それはそれで終わりになるでしょう。
出し切らない限り、
そのプロセスは繰り返しやってきます。
不快が出るのを、
そのままに観るということが大切です。
このような不快なプロセスをよく見てみると、
不快であると同時に、
それが自分の中から出ていくときの、
快でもあることに気づきます。
起こるべくして起きた不快な体験の時に、
同時に快があるのです。
実際、
瞑想中のかなりの時間は、
快と不快が同時に進行し、
共存しています。
私たちができる最善のことは、
それに対してなにもしないで見守ることです。
身体にこりやしこりがあると、
身体は重くなり、
動きも悪くなってきます。
エネルギーも滞るので、
放っておくと、
病気になるかもしれません。
心にしこりやわだかまりがあると、
心は重くなり、
堅い心になります。
エネルギーも滞るので、
放っておくと病気にまで発展します。
瞑想における静寂は、
体と心のしこりや堅さを、
確実に溶解していきます。
それはゆっくりとしたプロセスですが、
着実にじわじわと溶かしていくのです。
瞑想に慣れてくると、
今まさに溶かされているというのが、
はっきりと認識できるようになります。
すべての人の心と体が
こりもわだかまりもなく、
柔軟で伸びやかになったら、
世の中に問題などなくなるでしょう。
大げさではなく、
瞑想は世界平和のための
強力なツールです。
自分の意識が、
自己の中心にどっかりと座っているとき、
なにもしなくてもただそれだけで、
私たちは居心地がよいのです。
さらに、
自己の中心にどっしりと座りながら、
自己とのつながりをもって仕事をすると、
その仕事はパワフルになります。
そうすると、
ますます深い充実と満足を覚えることができます。
私たちの満足は、
意識のありか、
意識の座り方と深い関連をもっています。
どうでもいいことに
無頓着であること。
大切なことに
出し惜しみせずすべてをかけること。
そのメリハリがなければ、
自己を見失います。
どうでもいいことと大切なことを識別するのは、
自己の霊性(スピリチュアリティ)です。
野口晴哉はいいました。
風邪は治すべきものではなく、
経過するものであると。
これは経験的にも、
本当にその通りだと思います。
健康な人は風邪をひきます。
いつも緊張している人や、
不健康な人は風邪はひかずに、
いつもどこか不調を抱えていたりします。
風邪をひいてそれが自然に去っていったときには、
風邪をひく前より
はるかに快調で軽い身体になっています。
風邪はすぐれた自然な治療法であり、
悪者ではありません。
瞑想やヒーリングを体験すると、
実際に風邪をひいて熱が出たり、
体が痛み出したり、
調子がおかしくなることもあります。
心が急に苦しくなることもあります。
これは、
自然な浄化力が働いた結果であることが多いのです。
決して悪い現象ではありません。
じたばたしてプロセスを止めてしまうのは
とてももったいないことです。
このプロセスを自然に経過させれば、
そのあとは心身がずっと澄んで軽くなっているのを
必ず体験できることでしょう。
私たちは
気に入ったぴったりの服を纏うと、
その日は気分よく過ごせたりします。
同じように、
瞑想をしたら、
瞑想のなかで見つけた
静寂を纏うと良いのです。
静寂は、
ただ音がないというものではありません。
静寂は、
暖かく、智慧を含み、
慈愛のエネルギーを含んでいます。
静寂を着て一日を過ごしましょう。
私は心ではありません。
私は心を観るものです。
たいてい私は心に同一化していますが、
複雑な心の動きをうしろから眺めることができるのです。
うしろから眺めている私は心の影響は受けません。
観る意識が強まっていくと、
平面の世界から、
立体の世界へと飛び出します。
そうすると、
いま私が生きてここに存在しているということについて、
なみなみならぬ深い感覚が湧いてきます。
私たちはいろいろなものとの
つながって生きています。
人と人とのつながり
人と集団とのつながり
人と生き物とのつながり
人とモノとのつながり
人と地球とのつながり
人と宇宙とのつながり
人と神々とのつながり
人と空とのつながり
あたなは、
どのつながりをよく意識するでしょう?
ひとそれぞれ、
得意なつながりと、
あまり得意でないつながりがあります。
ときには、
いつもは意識しないつながりを回復することは、
エネルギーの回復とバランスにとても役立ちます。
たとえば、
人間のことばかり考えていると、
意識が狭くなってしまいがちなので、
自然や神とのつながりを回復すると、
リフレッシュできるのです。
もともと、
人も、あらゆる生き物も、すべての物質も、神々も、
万物はひとつのところから生まれています。
だから、
つながることは新しい関係ではなく、
もともとのつながりを回復するということです。
瞑想は「ひとつのところ」につながる試みです。
ひとつのところに溶け込むと、
あらゆるものとつながりへと波及していきます。
日常の中では、
実にさまざまなことが
つぎからつぎへと
雑然として起きてきます。
すべてのことは、
向こうからやってきて、
どこかへと過ぎ去っていきます。
瞑想は、
止むことのない変化を続ける日常から
永遠に変わらない宇宙の深層へと、
意識の錨を降ろすことです。
瞑想のある生活は、
無常の世界に行きながら、
同時に永遠を味わうということです。
そうなれば、
すべては味わい深くなります。
錨が降ろされている限り、
激しい波風にさらされたとしても、
どこかに流されるということはありません。
今日も昨日も、
瞑想をするとあっという間に深い静寂に包まれます。
しかもとても暖かみのある静寂で、
座っているだけで心は満たされるし、
身体もひなたぼっこをしているような心地よさです。
仕事がなければ何時間でも座っていたい気分です。
一昨日の瞑想ワークショップの余韻が残っているのです。
暖かい静寂が、
いつもより強く早くやってきます。
というより、仕事をしていても、
周りに静寂があるのが分かります。
よいエネルギーを浴びた後は、
しばらく貯金があるのです。
こういうときは、
深い瞑想が簡単にできます。
これを読んでくれた人にも、
この平和で暖かいエネルギーが
少しでも伝わりますように。
Om Lokah Samasthah Sukino Bhavantu.
真実はひとつ。
世界はひとつ。
すべてはひとつ。
しかし、
私たちの目には、
ばらばらに、
たくさんのものが、
複数存在しているかのように見えるのです。
すべてはひとつですが、
ひとつに至る道はたくさんあります。
瞑想は、
ひとつの意識へと続く
重要な道のひとつです。
この世には、
たくさんの神様がいます。
そして、たくさんの宗教や霊的伝統があります。
その違いを云々したり、
自分の信じるものの優越性を主張するのは簡単ですが、
一番大切な視点は、
どの教えも、
どの神様も、
ひとつのおなじところから生まれている、
そういう深い理解だと思います。
イエスを信じても、
仏陀を信じても、
アマテラスを信じても、
山の神・海の神を信じても、
クリシュナを信じても、
どのグルを信じても、
無形の真理を信じても、
どれも宇宙の根源の真実のいただきに通じる、
ことなった道筋なのです。
自分にご縁をくださった神様がいれば、
その神様の導きを頼りにひとつの山を登ればいいのです。
でもその神様は、
やはり大宇宙の顕現ですし、
私たちも同じ宇宙の子に他なりません。
スピリチュアルな道というのは、
差異にこだわることではなく、
いただいたご縁を大切にしながら、
私たちの眠った目をこすって、
こうした「ひとつ」という真実に
しだいに目覚めていくことなのです。
瞑想は単なるテクニックだと思っている人は多いです。
瞑想さえすれば、
自動的にリラックスし、
ストレスも減るだろうと考えるのです。
それはある程度確かにその通りなのですが、
瞑想は実際はそれ以上のことを可能にします。
瞑想の意識にはいると、
スピリチュアルなギフトを受け取りやすくなります。
どのようなギフトを受け取るかは、
個人によって違いますし、
誰も予想することはできません。
ただし、そのためには、
こちら側の心が整っていなければなりません。
心が、疑い、執着、頑な、観念などで忙しいと、
恩寵がやってきても、
それを受け取ることはできません。
どんなに愛や真実、安らぎを求めても、
汚れたものを抱えたままでは、
受け取るスペースがないのです。
長年瞑想をやっても、
心がかたいとそれ自体が限界をつくり出します。
邪魔なものを処分するのは私たちの仕事です。
私たちを超えた大いなるものに対して、
執着のない熱望、敬愛、受容の態度が整い、
柔軟な心にスペースができたとき、
恩寵はよろこんで流入します。
神様はギフトを受け取ってくれる人はいないかと、
いつも探しているのです。
瞑想とは、
すべてをそのままに受けいれる練習です。
普段の私たちの心は、
目の前のものについてつぎつぎと判断をし、
さらにそれをもとに思考を重ねていきます。
次にはその判断や思考をもとに、
いろいろな感情が湧き出てきたりします。
こうして心はイモヅル式にとぎれることなく、
いつも大忙しなのです。
瞑想では、
それとはまったく反対の態度をとります。
自分の中に考えが浮かんできても、
ただそれを観るだけです。
瞑想がうまくできなくても、
できていない自分を修正するだけで、
瞑想できていない自分を責めたり、
否定したりしません。
判断や否定は、
私たちを堅くしてしまうのです。
瞑想は絶対肯定の練習です。
瞑想中にどうしても思考が治まらないときには、
然り、然り、然り、・・・・
と繰り返してもよいでしょう。
自分自身やあらゆるものをやさしく受け入れ、
絶対に肯定するつもりで唱えるのです。
何百回と繰り返すうちに、
すべてを肯定する
慈愛に満ちたエネルギーにつながって、
やさしく包まれるかもしれません。
慈愛のエネルギーに包まれると、
ただそれに委ねるだけですべてOKになります。
この状態では、
判断や否定的な考えなどできなくなります。
そうなれば、
肯定しよう、瞑想しようという考えさえ必要ありません。

紅葉の季節には、
掃除をしないとあっというまに
地面は落ち葉で覆い尽くされます。
おなじように、
心も頻繁に掃除をしないと、
雑音で魂が覆い尽くされます。
忙しいときや、
心が苦しいときほど、
瞑想はやりたくなくなりますが、
本当はそういうときこそ
瞑想の静けさが必要です。
どんなに落ち葉が降り積もっても、
地面は隠れているだけで、
必ずいつもそこにあります。

私たちはなにかを考えることや
喜怒哀楽を味わうことが大好きです。
だからつねに思考と感情を巡らせているのです。
でも、最愛の恋人こそが
私たちをもっとも拘束することができるように、
私たちは自分の思考と感情に
気づかないうちに完全に縛りつけられているのです。
私を不自由にしているのは、
憎らしい他人ではなく、
自分の心の働きです。
その正体と手口を見破る必要があります。
瞑想とは、
自分の心を操作する技法ではありません。
自分の心をあるがままに観て、
それに巻き込まれないようにすることなのです。
瞑想は心を観ることによって、
心を超越するための技法です。
心を超越したとき、
心は最も調えやすくなり、
安らぎと知恵を得るのです。
瞑想とは、
いかなるときも
あるがままの自分を優しく迎え入れることです。
瞑想をしているとき、
自分の身体のあらゆる感覚、
心に浮かんでくるあらゆる考えや気持ちを、
すべてをやさしく受けとめ、
なおかつ巻き込まれることなく、
静かに観つづけるのです。
そして、
ありのままの自己を、
意識の中心に座らせます。
どのような状況にあっても、
自己はつねに意識の中心の
磨かれた玉座に座っていなければなりません。
最大限の敬意をもって自己自身を敬うのです。
自己評価の低い人や、
自分に自信のない人は、
自分で自分を肯定していないのです。
自分で自分を否定しておきながら、
他人の支えや評価、承認、愛情を貪るように求めます。
しかし、
幸運にも他人から最大限の支えと愛情をもらえても、
自分で自分を肯定しない限り、
決して満たされることはありません。
乞食が一時的にものをもらっても、
明日にはまた物乞いをしているのと同じです。
大切にされない自己の哀れな声を
しっかりと聴いてください。
自分のなかで自分を
つねに居心地よくしなければなりません。
私たちは自己を礼拝するのです。
本質的な自己は神につながっています。
自己をつねに敬えば、
自己は春が来たことを感じて自然と花開きます。
私たちは、
いろんな体験をすることが大好きです。
人に会ったり
なにかを知ったり、
自然に触れたり。
子どものような新鮮な気持ちで
新たな体験ができているときには、
問題はなにひとつありません。
楽しいことも苦しいこともひとつの経験であり、
それ自体でつねに百点です。
ところが、
ひとたび先のことを計算するようになったり、
過去のことに気持ちが縛り付けられたり、
自分の思惑で損得勘定をしはじめた途端、
世界は急速に複雑になり、
疑惑と不信に満ち始め、
悩み多きものになります。
世界と自分との間に壁ができたのです。
豊かで美しい世界はどこかに隠れてしまい、
世界は暗く冷たい顔しか見せなくなります。
これが自己がエゴに占領された瞬間に起きる出来事です。
私たちの課題は、
墜落した純粋な自己を呼び戻し、
実権を回復することです。
エゴが自己を占領しているあいだは、
人生は暗闇の中にあり、
混乱と苦しみの連続です。
瞑想をすると、
次第に自分のエゴの働きを観察する能力が育ちます。
観察ができるようになると、
エゴの統制が可能になります。
それはエゴを超えた視点が育っているからです。
エゴを観察しているのは誰でしょう?
エゴを統制するのは誰でしょうか?
それは、もちろんエゴではありません。
それこそが私という主体です。
エゴよりも遙かに大きい私--純粋な自己に目覚め、
すべての実権をそこに委譲していくのです。
台頭していたエゴは
大きな自己の配下として正しいポジションを与えられます。
そのとき世界と自己との壁が壊され、
世界は再び明るさを取り戻します。
世界は、暖かく美しく、
奥深い豊かな姿を見せはじめるでしょう。
自己の復権こそが課題です。
瞑想は一言でいえば、
「なにもしないこと」です。
しかし、ただ静かに座ってなにもしなにだけで、
瞑想から得ることは本当にたくさんあります。
正確に言うと、
瞑想によってなにかを得るというよりは、
瞑想によっていらないものを落とせるのです。
心の充実や浄化のためには、
実は新しいものを得ることよりも、
心身のがらくたを処分することの方がずっと大切です。
がらくたをいっぱい抱えていると、
いいものが入ってくるスペースがないからです。
がらくたをできるだけ処分して、
あとは心を高い意識にチューニングするように心がけていると、
いろんなギフトをもらえます。
スピリチュアルなことは、
こんな風に自然に流れ込んでくるものです。
ギフトを受け取るためには、
スペースのある柔軟な心、
真実を求める真摯な心、
これがあれば充分です。
そして、
ギフトを受け取ったら心から感謝しましょう。
私たちは普通、
雑音は外側にあると思っています。
確かに外側にも雑音がありますが、
実際には私たちは自分の内側にたくさんの雑音があるのです。
さまざまな考え、感情の波、記憶の想起、情緒の変化などが、
たえずノイズを発しています。
外側が騒がしいからではなく、
自分の内部が実に騒々しいので、
私たちはストレスが溜まるのです。
それは、
内部の雑音が鎮まってはじめて気づきます。
自分の中が静かになると、
なんて気持ちいいんだろうと。
自分の内部の騒音が鎮まると、
心と体が本当に深くリラックスできます。
騒々しい心では、
寝ていても休まらないのです。
瞑想は、
内面の静寂に出会う方法です。
内面が静寂ならば、
外側に騒音があっても、
実に静かで落ち着いていられます。