
川の流れに足を浸したとき、
それをどのように体験するでしょうか?
ぎゃー冷たいと大声で叫んで、
足を引っ込めるのか。
あるいは、
じんわりと冷たさが足に広がる痛みを感じて、
水の流れや川底の石のぬめる感覚までも味わうでしょうか。
ただ川に入るだけでも、
いろいろな体験の仕方があるのです。
私たちは、
いろいろな体験をするために生まれてきました。
体験をするというときに、
なにをしたとか
どんな目に遭ったとか
どこに行ったかなどということよりも、
それをどのように味わったのか、
それをどのように体験したのか、
ということが決定的に大切です。
忙しく動き回って方々に出かけても、
それを味わう心がなかったら、
それを観る眼がなかったら、
それは雑駁でぼやけた体験です。
苦しいときに、
苦しい苦しいと訴え続ける人が、
実はなにがどう苦しいのか、
よくわかっていないことがあります。
いつも苦しみを避けるのに精一杯で、
本当の意味で苦しみと向き合って
苦しさを体験できていないということがあるのです。
楽しいときに、
楽しい楽しいと騒いでいるのに、
実はなにが楽しいのか
よくわかっていないこともあります。
感情的な興奮に圧倒されて、
自分もそれに呑み込まれていて、
深い楽しさを味わえていないということもあります。
このような人は、
苦しみや悲しみの感情の波に襲われれば、
同じようにそれに呑み込まれて押し流されてしまいます。
体験を味わいつくすというのは、
目覚めてそれを観ていることが必要です。
「観る」というのは五感を含めた、
自己のすべてを総動員して精緻に味わうということです。
苦楽を含めたすべての体験を
充分にあますことなく味わいつくすとき、
私たちは次に進めるのです。
そうですね、集中力と離れて観察する能力でしょうか。
どちらもゆったりした時間がないと実現しないような気がします。
2007年09月05日 23:29
味わいつくしたときに霧が晴れるようにエゴが取り去られ、
その体験の真の意味と愛を知るのですね。
2007年09月16日 14:37
同じ体験をしても、人によって捉え方はさまざまですね。
自分の経験から感じたことで恐縮ですが、述べさせていただきたいと思います。
経験を積むと、それまでよりも多角的に物事を見られます。
すると、一つのことを経験しても、
主観的な自分、客観的な自分、聴衆者としての自分、第三者としての・・・など、
さまざまな立場から味わうことができます。
もちろん、器としての自分は一つですから限界もあるでしょう。
しかし、ひと度そんな意識を持つと、世界が違って見えてきます。
今まですごく狭かった世界が、実は自由で無限に感じられるのです。
そんな風に感じられると、毎日が新鮮で、冒険のようにも見えてきます。
2008年02月14日 21:16
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