
私たちは常になにかを考えています。
私たちは常になにかを思っています。
なにかを考え、
なにかを感じているのは私ですが、
「私」とはそれだけではありません。
思考や感情は「私」のごく一部分でしかありません。
瞑想をすると、
まず私が間断なく自動的になにかを考えていることに気づきます。
そしていつもいろいろな感情が動いていることに気づきます。
考えの中に入り込むのではなく、
考えていることを観、
感情のなかに入り込むのではなく、
感情の波を眺めていると、
思考や感情から次第に解放されます。
思考や感情から解放されたとき、
私たちは大海のような
大きな「私」を体験しています。
大きな私は無限に広く、
ここまでという区切りはありません。
なにものとも分裂がなく、
調和のうちに一体感があり、
あらゆる観念や感情から解放されていて、
愛と安らぎに満ちています。
自己を知らないこと、
自己と分離すること、
自己自身に還れないことこそ、
あらゆる寂しさの根源であり、
最大の孤独なのです。
人間の存在論的な孤独です。
存在論的な根源的寂しさは、
どんなに他人と親密にかかわっても、
本質的に癒されません。
私たちの究極の癒しは、
この大海のように大きな自己との分裂を癒すことにあります。
先生の仰る自己とは、必ずしも自分だけでなく他者の存在まで含めた幅広いものと理解してよいのでしょうか。
存在論は詳しく分からないけれど、自己を分離している寂しさみたいなものは何となく分かる気がします。
自己との分裂が癒されることは、すなわち他者への赦しみたいなものに繋がるのかもしれませんね。
2007年09月28日 21:19
この世界は根底ではひとつです。
でも私たちにはバラバラな側面ばかり見えています。
私たちの自己はすべてを含んでいますが、
各所に多くのひびが入ってしまっています。
他者との間にも深刻なひび割れがありますが、
人間関係だけをみる視野狭窄に陥ると本質を見失います。
2007年10月02日 17:12
人間関係は自己の重要な要素ですが、あくまで一つの部分だと思います。
他に無数の部分があって、それらが全部揃って自己になる、というイメージですか?
でも、自己は単なる要素の総和以上の存在だと思います。全部足されると、相乗効果でますます良くなるというか(誰かが言っていたと思いますが・・・)
きっと、自己の本質は計り知れないほど大きい存在なのでしょうね。
2007年10月02日 20:41
はじめまして
絶対的な孤独からの解放は
自己愛でしか成し得ないんだわ と思っていたところに
ハンコを押していただけたような 石川さんの文章との出会いでした。
ありがとうございます。
言葉にしてしまうと なんだか 違うもののように見えてしまうのも本音です。
2007年10月09日 14:18
補足です。すいません。「言葉にしてしまうと 違うように見える」のは私が自分自身の感じたことを自分で言葉にした瞬間に違うものに見えてしまうという意味です。念のため・・・。
2007年10月09日 14:20
toniさん、はじめまして。
投稿ありがとうございます。
「自己愛」という言葉は人格障害などを連想させるので、
私には少し違和感ありますが、
人とのつながりに還元できない絶対的孤独は、
自己の中心に還ることが唯一の癒す道である、
ということをこのエッセイでは表現しています。
そのあたりが通じていれば、とてもよい出会いです。
2007年10月09日 16:53
自己愛という言葉がもたらす微妙な抵抗感って
これこそ人間が作り出して、すっかりハマっちゃってる罪悪感にどこか繋がっていると思います。
あるがまま与えられた命を喜び、愛する自己愛というものが
まるで違うもののように、社会に受け止められている気がします。
「人とのつながりに還元できない絶対的孤独は、
自己の中心に還ることが唯一の癒す道である」
はい!しっかり通じてると思います!瞑想とは自分の心のお掃除だと思っています。一人一人がこころのお掃除を出来ていたら、自分を愛することができ、この絶対的孤独が癒された時、互いに傷付け合うようなことはないのだろうな~と思います。
2007年10月09日 18:18
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