
エロスとは強力な魅力によって結びつける力です。
真実、神、学問、美しいものに惹きつけられ、
それを追い求めてやまないのもエロスの力によるものです。
しかし、
多くの人がもっとも強力にエロスを体験するのは、
男女の間にやってくるときです。
苦しいほどに惹きつけられ、
高揚感と強い愛情を体験します。
これほど強い力が、なぜ私たちのところにやってくるのでしょうか。
エロスの目的はどこにあるのでしょうか。
エロスの高揚感を求めてやまない人や、
エロスを恐れて避け続ける人もいますが、
エロスの真の目的については考えたことがない場合が多いのです。
エロスによる衝動とは、合一への欲求です。
エロスによって引きつけられた異性と、
その情熱を受け入れ合うとこができたとき、
至福の合一体験をします。
合一のエクスタシーは、
男女の間以外でも起こりうる人間の可能性ですが、
男女間の合一が、
多くの人にとってもっとも体験する可能性が高いのです。
合一体験は、
私たちは本質的にはひとつであり、
愛と喜びにみちているという魂の真実を垣間見せてくれます。
エロスに駆り立てられた男女は、
相手に受けいられ、愛を手に入れるために、
ほかではありえないような努力をすることができるようになります。
エゴをなげうって奉仕することを少しずつ学んでいくのです。
しかし、どこかで限界が浮かび上がってきます。
愛と合一による真実の世界と、
自己中心的で分離した私たちの心の世界とは、
遠くかけ離れているからです。
エロスの強力な力によって、
愛と合一に近づいたり、一時的に体験すると、
それとは相容れない心の闇が、
自然と浮かび上がってくるのです。
エロスに陶酔していた男女はここで驚くのです。
なぜこんなことが起こるのかと。
甘美な喜びはどこにいってしまったのかと。
乗り越えられない闇があらわれて、
それを互いに避けるようになると、
エロスは急速に去っていきます。
エロスが去れば、
後には闇を抱えた人と人だけが残され、
愛と合一感はなくなり、
傷ついたネガティブな感情と分離感だけが残されます。
エロスはなんのためにやってきたのでしょうか。
私たちを絶望に陥れるためでしょうか。
あるいは生殖のための仕掛けに過ぎないのでしょうか。
そうではありません。
エロスは、まず、この世界には、
真実の合一と、愛が本当にあるということを、
私たちに体験的に学ばせるためにやってきたのです。
愛と合一は、一時的であったり、近似的なものにすぎないかもしれませんが、
この体験は、魂の本質、宇宙の真実に触れることであり、
私たちの目を開かせるためにエロスはやってきたのです。
それでは、なぜ途中で問題が生じて、闇が広がり、
エロスは去っていくのでしょうか。
私たちの心と魂が成長し、
真実と愛に近づいていくためには、
心の闇に光をあてていくことが欠かせないからです。
闇を抱えたまま光のなかにとどまることは不可能です。
だから、愛と合一にちかづこうとすれば、
かならず闇が暴かれていくのです。
闇が暴かれることは、
私たちにとっては苦痛に満ちたものであり、
ほとんど耐え難いものですが、
それは私たちが成長するために避けて通ることのできない課題なのです。
エロスによって闇が浮かび上がることは、
最強最善のセラピーが与えられているということなのです。
闇と向き合うことを避けたままで、
愛、真実、合一の安らぎにとどまることはできません。
しかし、
私たちはエロスのこうした目的を知らないので、
闇があらわれると心を閉ざしてしまいます。
二人の間には深い溝が生じるか、
あるいは相手のせいでエロスが消えたと思い、
憎しみあうかもしれません。
エロスは、
退屈な人生を楽しくしてくれる単なるスパイスではありません。
私たちの魂を真実へと引きあげ、
愛を学ばせ、
心の闇に向き合い、闇を解消することを目的としているのです。
闇と向き合うことなしに、
エロスの高揚感だけを求めることは誤りです。
愛を学ぶ意志をすて、闇から避けた途端に、
エロスは消え去ります。
目的が達成されなくなったことを知ったエロスは、
速やかに二人を去り、
残された二人は、
闇を抱えた自分たちに直面するのです。
確かにそうですね。
残酷に切り離すのは、アガペーかなとも思います。
エロスは甘美に溶合うけれど、アガペーは厳粛に突きつける痛みが伴います。
でもそれがあってこそのエロスだと思います。
2009年11月05日 04:48
一般的には、アガペーは賛美されやすく、エロスは低く見られがちです。しかし、エロスもアガペーと同じく、スピリットからやってきた神聖なものです。僕は最近、エロスの目的を達成できない人が、アガペーを体現することなどありえるのだろうかと疑問を持つようになりました。そのときのアガペーとは、疑似アガペーではないでしょうか。
2009年11月05日 22:43
確かにアガペーとエロスを対立させると双方とも歪みますね。
どちらも極め尽くしていくときに、澄み切ったあたたかな光が射していくような気がします。
マズローやアサジョーリが言うように、生理的欲求は克服するものではなく、方向つけるもの、押さえるものではなく豊かに流していくものだと思います。
2009年11月07日 09:05
そうですね。アガペーがないとエロスが歪むのはその通りですし、逆に、エロスのエッセンスを受け取れなければ、アガペーもまた歪んでしまうと思うのです。どちらも聖なるスピリットの力ですが、必要に応じて違った現れ方をして、相互に影響し合っているのだと思います。
2009年11月07日 11:56
もうひとつ、エロスと生理的欲求は一応分けて考えた方がよいと思います。動物、昆虫、植物は有性生殖を行いますが、そこに豊かなエロスがあるとは思えませんし、プラトニックラブや、学問への愛のように、性をともなわないエロスもあるからです。
2009年11月07日 12:00
エロスとアガペーの共存という考え方は、個人的にかなりピッタリと感じられました。
そもそも、アガペー的な要素を持たないエロスはエロスと呼べるのでしょうか。それこそ、単なる生理的欲求、あるいは退屈を紛らわすための刺激への欲求かもしれません。
性を伴うか否かに関らず、エロスには焦がれるような渇望感や憧憬が伴いますが、単なる刺激にそれらはありません。
単なる刺激はファスト・フードよりも無味で、後には互いの消耗感だけが残ります。
反面、もし相手を欲する中にアガペー的なものが少しでもあったなら。自己犠牲というほど大げさでなくとも、相手を大事に思う気持ちや相手を尊重する気持ちが少しでもあったならば。
互いは自分の欲求を相手に求めるだけでなく、同時に相手を思いやり、互いに尊敬しあうことさえできます。
このような感覚は、もしかしたら一人の相手に継続的に感じられるものではないかも知れません。さまざまな枠組みを超えた関係の中で感じられることもあるでしょうし、ある瞬間に掴んだかと思えば、次の瞬間には消えていることもあるでしょう。
しかし、まずは一瞬でも、そんな感覚に浸ることから始まるのではないでしょうか。その感覚を自分の中で少しずつ大事に育てていければ、もしかしたらアガペーにさえ近づけるのかも知れないと思うのです。
2009年11月13日 15:09
私たちが体験するエロスは、たいてい永続性がなく、後には苦い味が残ります。それは、エロスがもたらしたのではなく、エロスによってあぶり出された自分のエゴや傷つきです。たとえ惹きつけられた相手が、どんなに悪い人であったとしてもです。こうした自分の問題点を、現実的に明らかにするという意味で、エロスは、神聖なのです。しかし、私たちはなかなか、そう受け止めることも、そこから学ぶことも難しいのです。一部できればよい方だと思います。アガペーは、神様のことなので、自分を差しおいて安全に語ることができますが、エロスは現実をつきつける強力な力があるところに、エロスの特徴があります。
2009年11月14日 23:52
そうですね。
エロスは確かに、自分のエゴを顕わに見せつけてくれます。それはどす黒かったり、いやらしかったり、えぐかったりして、紛れもない自分の一部なのに、受け入れるのはなかなか難しいでしょう。
でも、本当は普段からうすうす見えてはいるのです。それが偶然、エロスによって焦点化されたときに、直視せざるをえなくなるだけという感じがします。そして、仰るように、それを自分がどの様に受け止めるのか。ここがとても大切だと思います。
2009年11月21日 14:41
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