
昭和二十年代ぐらいまでは、病院出産よりも、自宅出産のほうが多かった。
でも、今は、「家で産みます」なんて言うと、すごくびっくりした顔をされます。
病院で産むのがあたり前。万が一のことがあったらどうするの?
自宅出産なんてリスクの高いこと、ようせんわ、そうおもわれても仕方がないと思います。
もちろん、さまざまな要因でリスクの高いお産にのぞまれる産婦さんや、赤ちゃんの生命を助けるには、高度な医療を受けられる病院出産が絶対必要です。
しかし、最近、産婦人科医が減少して、産婦人科のない病院が増え、妊婦さんが病院に受け入れてもらえずにいのちを落されたという悲しい事件が奈良県で起こりました。
少子高齢化にともない、地方では病院での出産が難しくなってきているところもあります。
妊婦にも胎児にもなんら異常がみられず、医師の医療行為の必要がないお産であれば、病院出産に頼らなくても、むしろ、自宅で、信頼のおける助産師さんにヘルプしてもらいながら、心身ともにくつろいだ状態で産むほうが、安産になりやすいのではないだろうか、とわたしは思うのです。

わたしが長男を宿したときは、アメリカの山奥に住んでいたため、妊娠してからただの一度も麓の産婦人科にかからず、医者も助産師もいないお産をすることになってしまいました。
標高1000メートルの山の上、小さなコミュニティに暮らす女性たちが、やはり医療の助けなしに、家族に見守られて安らかに赤ちゃんを産む姿をみて、わたしもきっと安産だろうとタカをくくっていたのでした。
早期破水で三日がかりの出産は無謀だったと思います。
しかし、あの時、わたしは自宅出産にこだわっていたわけではなくて、あの状況を自分の意思で選んだのではありませんでした。
なにか、有無をいわさぬような宇宙の意志のようなものに動かされて、
おなかにいのちを宿し、考えることを停止させられるようにして、
自然のまま、為すがままに生まれ出ることを、赤ちゃんのたましいが望んだのかもしれません。

お産がはじまると、急激な意識の変容が起こります。
強いお酒をぐいっと飲み干して、一気に酔いの頂点までスパンとつきぬけてしまったような。
現実であって、現実ではないような。
目のまえの光がやけにまぶしくて、感覚がものすごく敏感になります。
名前も肩書きも、はじらいも自我もぜんぶ脱ぎ捨て
むきだしのいのちになるのです。
叫びだしたいくらいに圧倒的なエネルギーが突き上げてきます。
リラックスこそが、安産の扉をひらく鍵です。
動物はうす暗くて、安心できる場所をみつけ、そこでお産をします。
猫が押入れのなかで子猫を産むのも、そこが安全だと察知するから。
波動の合わないひとが部屋に入ってきただけで陣痛は弱くなってしまいます。
だから、住みなれた家で、家族にかこまれてのお産は、産婦がもっともリラックスしやすい環境です。
お医者さまに産ませてもらわなければ、赤ちゃんが出てこないわけではありません。
からだの声に耳を澄ませて、
赤ちゃんが生まれようとする力を全力で感じ、それを信じて、
母と子が力をあわせて生み出すのです。産む力も生まれる力も、
わたしたちのからだにはインプットされているのですから。

こどもは親を選べない。といいますが、子どものたましいは、親を選んで、この世に生まれてくるのです。
肉体は、たましいの器。
古くなった車を乗り捨て、新しい車に乗りかえるように、
たましいは、時を超えてよみがえり、
セックスの最中の男と女めがけて流れ星のように舞い降りてきます。
受精の瞬間、たましいは受精卵の核になって、新しいいのちに宿るのです。
前世では恋人だったかもしれない母親の子宮に。
前世は一度きりじゃあありません。
ソウルメイト。
たましいの次元でつながり、ふかく、甘く、無限のやさしさに満ちて、
愛を紡いだいとしいひととは、生まれ変わっても、またふたたび出会うことを願う。
だから、きっと、今生で親子の契りを交わすよりもずっと前から、わたしたちは巡りあっていました。
アメリカの山奥で、布張りのヤートで、三日がかりの難産のすえに、初めて赤ちゃんを授かったとき、わたしはそう思わずにいられませんでした。

こどものたましいが親にふさわしいカップルを選ぶとき、最終的な決め手となるのは、男と女の性交時の波動なのだそうです。
男女のセックスは、古代においては、アマウツシといって宇宙の雛形をかたちづくる神聖な行為であるとされました。
生命体の核であるたましいは、男と女の性交時の波動に同調して肉体に宿ります。
だから、愛しあう二人が、高いバイブレーションで響きあうセックスをすれば、高い波動をもつたましいが降りやすくなるのです。
この星に、高次元意識をもつたましいがひとりでも多く降りてきてほしい。
宇宙とひとつにつながるようなセックスを,新しいいのち達は待っています。
日ごとに空気がひんやりと涼しくなって、秋も深まってきましたね。
秋の夜長、むすめとむすこはテスト勉強中で部屋にこもり、今夜の居間はひっそり。
そうだ。映画鑑賞でもしようかな。今夜はちょっと甘いラブロマンスにひたりたい気分。
キアヌ・リーブス主演の「イルマーレ」でもみちゃおうっと。
いや、映画の前に、ちと、こばらが空いたな。
むすめもきっとそう思っているにちがいない。
そうだ、もらったばかりのオイモさんでも蒸かそうっと。
わが家のサツモイモは今年も、全滅!今年こそはと張り切って植えたのに、イノシシにぜんぶ喰われた。
今夜のオイモは、先日うかがった障害者施設でいただいたもの。
たわしで泥を洗い流して、早く蒸せるように小さくカットして蒸し器に並べていると、向かいの森から
「ケーン」
恋人(?)をさがして鳴く鹿の音が流れてきた。
せつなそうなその声に、思わずわたし、台所の窓をあけて、
「ケーン」
と声を張り上げてみる。
しばしの沈黙のあと、たしかめるように鹿がまた鳴く。
うれしくなったわたし、「ケーン」と歌うように鳴いてみた。
映画がはじまり、美しいキアヌさまの登場にニヤけていると、
「ケーン!!!」
ええー、すぐ近くから、鋭い鹿の声!
びっくりして外に出てみると、家の前の道路に鹿が立っている。
声をかけるのも忘れて、しばしおたがい見つめあう。
ふいに身をひるがえすと、鹿は夜のなかへと走り去っていった。
あーあ、ほっそりした脚のかわいこちゃんかと思ったら、人間のオバサンだったよ。
と、鹿くん、思ったのかな。
いや、人間だとわかっていても、わたしにあいに来てくれたんだと信じたいな。
動物も、赤ちゃんも、人間のコトバはしゃべれないけれど、胸の奥のエナジーは波動になってしっかり伝わる。
コトバでは嘘がつけても、こころは嘘がつけない。
だから、わたしは赤ちゃんに出会うと、
この星に生まれてきてくれてありがとうね
どうか、あなたが幸せでありますように
そんな祈りをこめて、愛の波動をせいいっぱい送るようにしている。
赤ちゃんが澄んだ目でわたしを見つめ、ふわっっと微笑んでくれるとき、わたしはこころのコトバが届いたな、ってうれしくなる。
野生動物もこころの声で呼びかけると、ちゃんと通じるんだね。
イノシシさんにも届くといいな、こころの叫びが。
ハンサムな鹿くん、また、遊びにきてね!
キアヌさまの横顔が、走り去っていった鹿くんとちょっとダブってみえた夜でした。

みなさま、はじめまして!
原 水音、みおと申します。
熊野の山の中から、
「こんにちわー」と叫ばせていただきます。
まだ見ぬみなさんとつながり、
ひとつにひびきあう喜びが
歌になって、わたしを満たします。
シャンティ、シャンティ
無垢なるたましいよ
慈悲なる その手で 世界を抱きしめ
至福のなかに祈りなさい

*アメリカの山奥で、三日がかりの難産でした
長男はカリフォルニアの山おくの、電気もガスも水道もない、家で、家といっても、布張りの巨大なテントみたいな家、ヤートに生まれました。
ヤートというのは、アメリカ先住民の伝統的な住まいのひとつです。モンゴルのまるい布張りの家、あれとそっくりのまるくてひろーいワンルームです。
仕事をやめて東京を離れ、カリフォルニアの語学学校に通っていたわたしは、ひょんなことから、北カリフォルニアの山奥の小さなコミュニティを訪ねたんです。
まさか、その山で人生のパートナーに出会うとも知らず!
遊び友だちの男の子の車でやってきちゃいました。
そこで、出会ったのが、つれあいのヒデさんです。
このひとは、野人です。
都会で生まれたくせに山にしか住めない夫を持ったために、わたしも、かなりワイルドな生活を強いられてきましたよー。
鹿の谷、という名のその山で、出会ってしまったのが運のツキ!
いやいや、やはり、宇宙の運行表どうりに動かされて結ばれたのかは知らないけれど、標高1000メートルの山で、布張りの家で、わたしは夫と結ばれ、長男をさずかりました。
長男のお産は、早期破水による大難産でした。
三日がかりのお産でした。
知らぬが仏。宇宙が見守る、いのちがけのお産でした。
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