
音象をからだのうちに探る
黒川さんの音象という概念は、科学的な客観的な研究によって導き出されてきた分析的なものですが、OSHO が「音の下には感覚がある」というときの、音の印象、感覚は、純粋に主観的、体験的なものであることに注意を向けたいと思います。
ひとつひとつの音が、自分自身の身体に、どんな感覚を呼び起こすのか……そこでは理論や分析的な情報によってではなく、ダイレクトな音の体験を通して、音の印象を探るプロセスを辿ることが、とても大切になってきます。
馬や白クマやカバや犬たちが発する音に飼育士の人たちが愛情を込めて耳を傾けるように、諸々の音が自分自身の身体に刻み込んでゆく音象を注意深く探ってゆけば、やがてそこから個々人の反応の仕方のゆらぎによって反応の異なる部分ではない、万人に共通の効果と影響を与える音の種別が立ち顕われてくることでしょう。
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特定の音は特定の感覚に結びついている
他の感覚に結びつくことはけっしてない
だからその音を自分のなかにつくりだせば
それに該当する感覚がつくりだされる
どんな音であっても
それを用いれば
それに結びついた感覚がまわりにつくりだされる
その音が空間をくつりだし
その空間は特定の感覚によって満たされる
(OSHO『音と沈黙』より)
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サウンドレゾナンスのコンサルテーションにおいては、特定の体験につらなる記憶が身体上のどこに、どのように分布し、広がって保存されているかを右脳的意識を巡らし、注意深く探ってゆくのですが、その感覚記憶に対する身体上の対応点への気づきを深さらに細かく見てゆくための左脳的ツールとしてコンピュータを効果的に用います。
慢性的に推移する肉体の病に自覚症状が欠け易いように、身体上の対応点を見出そうとするときにも、その人のエネルギーを最も深いところでロックしている慢性的トラウマ記憶の部位は、気づきの光に照らし出されることからも隠れ潜みやすい傾向があるのですが、コンピュータを用いて声紋の解析を行うことで、そのブラインドスポットを見出しやすくなる利点があるのです……
こうして右脳と左脳の両サイドからのアプローチを繰り返すことで、コンサルテーションはきわめて有効に「記憶が身体上にどのように分布、配列しているか」を見出してゆくことができるのです。いくつかのセッションを経験してみると、ほんとうに人間のからだというのは音(周波数)をホログラム的に内蔵させることによってその記憶をプールしている精密なスペースだという実感が湧いてくるのです。
そしてクライエントが、自分自身の課題の身体上の対応点を網羅したスペースから響き出してくる言語以前の言語、動物的なレベルにおける音とフィーリングに触れ、それを表出することができるようになると、事態は一挙に変化を迎え、そのひとの気づきを深め、心身の速やかな統合を加速させる適切な音が浮上してくることになるのですが、それはある意味では、フィーリングの層をも超えた地平から、音の世界へと訪れてくる「見えない調律師のわざ」のようだとも言っても過言ではありません。
音象の世界を探る
『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』と呼ばれる112の瞑想を集大成した古典があって、OSHOはかつて、このすべての112のメソッドについて、細やかな解説を加える一連の講話を行ったことがあります。日本でも全10巻にわたるこの講話の邦訳が刊行されていて、具体的な瞑想法に関心を持たれる方には、とても興味深い読み物となっています。
特に第4巻の『沈黙と音』と題されるシリーズには、音と沈黙にまつわる瞑想法が収録されていますので、音を用いた瞑想を深めたいと思われる方にはお薦めの一冊となっています。
OSHOは、人間の世界を構成しているのは言葉を高度に編み込んだ思想、科学、宗教などであるけれども、この基盤を成している言葉の下方には“音”があると述べています。そしてさらにその“音”の下方には、フィーリング、感触の世界があるのだけれども、人はそうした次元から遠く切り離されてしまっている、と……
音が土台となって言葉が編まれ、その言葉が思考を生みだし、そのまた思考が科学、宗教、哲学など様々な思想や文化と呼ばれる現象を形成してゆくのだから、この逆の道筋を辿ることで、ことばや音の下方へと降りてゆき、フィーリングを通じて存在の根源的な次元へと入ってゆくことができると語ります……
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音の上にはことばが、思考が、哲学がある
音の下にはフィーリングがある
フィーリングの下に達することができなければ
こころの下に達することはできない
この世界全体は音に満ちている
人間の世界だけがことばに満ちている。
ことばを使えない子どもたちでさえ音を使う
実際、言語というものは
世界中の子どもがみな用いている特定の音によって
かたちづくられている
(OSHO 『音と沈黙』より)
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ところで一時話題となった黒川伊保子著『なぜ怪獣の名はガギグゲゴなのか』という本は、子どもたちが発する音が基本となって、さまざまな言葉が生まれてくるプロセスが、きわめて独創性に溢れる視点から究明されており、じつに楽しい読み物となっています。母音や子音を発音する際に、どのように口腔が開いたり、閉じたり、すぼんだりするのか、あるいは空気の圧縮や解放のプロセスが、身体レベルでどのような感触をもたらすのかといった、幼児が発する基本音と身体感覚の関係にまつわるパイオニア的な研究がなされていますので、とても興味深い指摘に満ちています。たとえば……
口の中は実はこんな風になっておりまして
Pの音というのは喉の奥にものすごく力を入れてしぼめた後に
空気を送り込んで出します
唇が気持ちいいんです!
おっぱいが恋しい頃の子供は唇に力がある音が非常に快感!
脳が気持ちいいんです!
赤ちゃんがよく無意識のうちにブーとかバブーとかやってますね。
あれはもう唇が気持ちいいから!
この唇がきもちいい快感が残るのでPの音の商品は。
ポッキー買って!ポッキー買って!とかね。
ポリンキー買って!って言いたくなっちゃうんですね。
このように幼児言語の発音プロセスを、身体感覚の次元にまで引き戻すことにより、言葉が形成する最小ユニットである音の下方にあるフィーリングに、科学的にも迫まろうとする試みが始まりつつあるのは朗報です……黒川さんは、こうした次元の音と体感的フィーリングとの関係を、“音象”というきわめて適切な概念で表現されているようですが、“音象”とは、まさに的確な表現だと思われます。
さてOSHOによると、音のはるか下方にある精妙なレベルの波動=実存の波動は、思考に振り回されている人間よりも、むしろことばを持たない動物たちの方が敏感に反応することが多いと述べていますが……たとえば『沈黙の音』のなかで、ある詩人が書いた文章を引用しながら、ひとつのエピソードを紹介してゆきます。それは子どもだったころの詩人と馬との間で起こったコミュニケーションの物語ですが、こうした精妙なレベルとのコンタクトがどれほどデリケートなものであるかがうかがえます。
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私はあるドイツ詩人の本を読んでいた
彼は自分の子ども時代の出来事について語っている
彼の父親は馬の愛好家だった
それで家の馬屋にはたくさんの馬がいた
だが父親は子どもを馬屋に近づけなかった
子どもがまだ小さかったので危険だと思ったのだ
だが、父親がいないとき
子どもはときどき馬屋に忍び込んだ
そこには友達がいた、一匹の馬だった
子どもが入り込むたびに、馬はある音を立てた
そして詩人は書いている……
「私もまた馬とともに音を立てはじめた
なぜなら、言語の可能性がまったくなかったからだ
そして馬とのコミュニケーションのなかで
私は初めて“音”というものに気づくようになった
……その美しさ、その感覚に」
人間が相手だったら、それに気づくのは不可能だ
人間は死んでいる、馬はもっと生きている
そして馬には言語がない、純粋な音がある
馬はハートによって満たされている
頭(マインド)によってではない
詩人は思い出す……
「初めて私は音の美しさ、音の意味に気づいた
それは言葉や思念における意味ではなく
フィーリングに満ちた意味だ」
もし他の誰かがそこにいたら
馬はその音を立てない
すると子どもにはわかる
馬はこう言おうとしている……
「入っちゃだめ、人がここにいる、お父さんに叱られる」
誰もいないときには、馬はその音を立てる
「入っておいで、誰もいないよ」
詩人は思い出す……
「それは共謀だった、馬は私を大いに助けてくれた
それから私は中に入って馬をなでる
それが気に入ると、馬は頭を一定の仕草で動かす
気に入らなければ、その仕草では頭を動かさない
気に入ったときには、馬はそれを表現する
そうでないときには、その仕草では動かない」
詩人は言う……
「それは数年続いた
私はそこに通っては馬をなでた
その愛の深さは
他の誰にもけっして感じたことがないほどだった
ところがある日のこと、私が馬の首を叩き
馬が恍惚してそれを楽しみ、頭を動かしていたとき
突然、私は初めて自分の手を意識した
……自分が叩いているということを
すると、馬は動きを止めた
馬はもう首を動かさなくなった」
詩人は言う……
「それから何年もあいだ、私は試しつづけた
だが何の反応もなかった
馬はもう答えようとしなかった
後になって、初めてきづいたのだが……
自分の手と自分自身を意識したせいで
エゴが入り込み、コミュニケーションが壊れたのだ
もう二度と再び
馬とのあのコミュニケーションは回復できなかった」
いったいどうしたことだろう
以前はフィーリングのコミュニケーションだった
ところが、エゴが顕われたとたん
言語が顕われたとたん
思念が顕われたとたん
位相が完全に変化する
つまり彼は、音の上方へ移ってしまった
以前、彼は音の下方にいた
音の下方にいれば、音はフィーリングとなる
フィーリングなら、馬も理解できた
だがもはや理解できない
それでコミュニケーションが壊れてしまった
詩人は何度も何度も試みた
だが、努力したところで、うまくはゆかない
なぜなら、その努力自体がエゴの努力だからだ
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ここでOSHOは、音の下方へともぐるメソッドのなかで、言葉の土台をなしている音へと戻り、さらに、その音の下方へと潜り込むことで、その音の下にあるフィーリングの層へと至り着いたとしても、それもまだ最終地点ではないと言っています。そこからさらに進一歩して、そのフィーリングをも消し去り、無音の彼方へと飛翔してゆくプロセスが残っている……と。
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次いで、フィーリングを去る
重要なことは、フィーリングの最深層に達して
初めてフィーリングを去ることが可能になるということだ
今すぐにそれを去るわけにはゆかない
あなたはフィーリングの最深層にいない
それでどうしてフィーリングを去ることができるだろう
(OSHO『音と沈黙』より)
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ここでも大切なポイントは「捨て去ることができるのは、自分が現に今立っている領域だけである」というところにあると思います。まだ自分が立ってもいない領域を、あたかも捨て去ったかのように、あるいは捨て去ろうとしているかのように夢見ることはできるかもしれないけれど、それでは本当に精妙な領域へと超出してゆけるわけではない、ということを、心にしっかりとどめ、常に今立っている地平、すなわち音とことばに囲まれたこの世界からスタートすることを忘れないようにしたいものです。
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