
検査入院の思い出
今から約5年前のこと、2004年の元旦を過ぎた頃から、それまでじわじわと悪化してきた皮膚炎症が劇症状態となり、とうとう下旬ころから3週間、岡山大学付属病院に検査入院をすることになりました。皮膚の炎症は、壊疽性膿皮症とスウィート症を併発したもので、両手は赤くパンパンに腫れあがり、顔中、血と膿とかさぶたで一杯になり、まるで大火傷を負った人のような状態になっていました。
現代医療の薬物投与による治療が最初は嫌だったので、入院に至るまでの約1年半ほどは、およそ試みることができる限りの民間療法や漢方、刺絡法などトライしてみたのですが、結局、歯止めが効かず、あまりの炎症のひどさと痛みでからだを動かすのもやっとという段階にいたって、ようやく現代医学の助けを求めることになったのです。
入院直後、後からパートナーのブミカに聞いた話では、主治医が彼女をこっそり呼んで「もう退院はできないかもしれないので覚悟してください」と告げたほどその時の病状はひどかったようです……。
実は壊疽性膿皮症やスウィート症というのは結構珍しい皮膚疾患なんですね。検査入院をする前に最初に受診した別の病院の皮膚科のドクターは、20年以上診察してきたけれど、この病気はぼくで4人目とおっしゃってました。大きな街の総合病院でなく、小さな町医者だったとしたら、一生のうち1人の患者に巡り会えるかどうか、それほど確率の低い皮膚病だと医学部で習ったことがあるとおっしゃったドクターもあります。
そして劇症の壊疽性膿皮症の場合には、背景に白血病や悪性腫瘍などの重篤な疾患が潜んでいることが多いらしく、ブミカに「もう出られないかもしれません」とつぶやいた主治医も、精密検査によってそうした悪性疾患がみつかる可能性が高いと思われたのでしょう。
ところが不幸中の幸いで、CTスキャンや骨髄穿刺などの精密検査をしてみても、どこにもそうした悪性の疾患がみつからないという結果が出てしまったのです……その頃から徐々に病室を訪れる研修医の数が少なくなってきました……。
少し遅れて届いた染色体の異常を調べる検査の結果で、ようやく20番染色体の一部に欠損があることが認められ、まだ因果関係や機序は明らかになっていないけれど、それがリンパ系細胞のサイトカイン分泌バランスを乱し、好中球を過剰刺激して、このような激しい皮膚疾患をもたらすのではないかという説明に留まることになりました。こうして結局、3週間の検査入院満了の日に、投薬により症状もかなり改善し、無事生きて退院することができたのです。
平原綾香さんの『Jupiter』
ちょうどこの頃、回復期の春の懐かしい思い出に、平原綾香さんのデビュー曲『Jupiter』があります。すでに前年の暮れ頃からヒットしていたらしいのですが、闘病生活で目一杯だったので、この曲の存在を知ったのは退院後の2月のことでした……。いったん死ぬかもしれないと感じるところまで底落ちしてしまった体力が、徐々に復元してゆくプロセスのなかで聴いた彼女の歌声は、その歌詞の含みとあいまって、しみじみとこころの奥に響いてきたものです。
何度もかけては繰り返し聴いていた『Jupiter』ですが……この歌詞の中には、ちょうど慈悲の菩薩である観音菩薩の働きをそのまま表しているようなくだりがあります。
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心のしじまに 耳を澄まして
私を呼んだなら どこへでも行くわ
あなたのその涙 私のものに
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苦しみの中であえぐ衆生が、助けを求めてその名を呼ぶと、その声を聴いて、即座に訪れ、救いの手を差し伸べてくれるという観音菩薩の働きを、上記の詩は、なかなか見事に描き出しているように思えます。平原さんの声質とも相まって、この歌を聴く人々は、われ知らず、観音菩薩の働きの磁場のなかへと誘い込まれてゆく気配を感じます……。
ぼくの愛読書のひとつに河合隼雄さんと中沢新一さんの対談『ブッダの夢』(朝日新聞社刊)があるのですが、このなかで中沢さんが、あまり知られていない観音菩薩の前世の姿であったとされるある菩薩について触れていますので、ちょっとそのくだりをもんじゅ風にリライトしてみます……。
かつて遠い過去に、この惑星地球の上に存在する、すべての生き物たちの姿を観察しながら、とめどなく涙を流しつづける菩薩が存在していました……その菩薩の名は常泣菩薩といい、いつも泣いてばかりいたことからこのように名づけられたといいます。
常泣菩薩が泣きつづけていたのは、この世界に生きている生き物たちを深く観察すると、どんなに小さな生き物たちでも苦しみを背負いながら生きている姿が、深いところから誤摩化しようもなく見えてきたからであり、もうひとつは、その苦しみに対して為す術もなく立ち尽くしている自分自身の無力さに対する涙でもあったことでしょう。
そして幾千もの時が経ち、この常泣菩薩は、転生を遂げて、あるとき観音菩薩に変容します…… 。
観音菩薩は、様々な癒しのツールを手にする千本の腕を持つとも言われ、また33の姿に変身して人々を巧みに救いとってくれる菩薩なのですが、涙の海を抜け出して変容を遂げたこの菩薩は、もう無力ではなくなり、それこそまさに縦横無尽に衆生済渡の働きを発揮してゆくことになるのです。
常泣菩薩から観音菩薩へ
大いなる苦しみに呻吟し、のたうちまわっているときでも、その名を呼べば、即時に感得して、その声を聴き取り、その苦しみを抜き取って、安らぎのなかへと導いてくれるとされる菩薩こそが観音菩薩ですが、この観音菩薩が観音菩薩になる前に、こうしてただひたすら泣き濡れる常泣菩薩の時代があったことはまさに注目に値することではないでしょうか。
常泣菩薩から観音菩薩への転身を思う時、いつも脳裏に浮かんでくるのは、クリシュナムルティの次のような言葉です……。
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おわかりになりませんか
私はただおたずねしているのです
思考、自己憐憫の悲しみ、イメージの悲しみよりも
もっとはるかに深い悲しみのことがわかりませんか?
それにお気づきになりませんか?
思考の悲しみではなく、もっと深いもの
その悲しみが終わる時、慈悲が誕生するのです。
(クリシュナムルティ『生の全体性』平河出版社刊)
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『生の全体性』は、たくさん翻訳されているクリシュナムルティ関連の講話本の中では異色の作品であり、これはシャインバーグ博士、デービット・ボーム博士とクリシュナムルティの鼎談であることと、対話のプロセスが、クリシュナムルティ関連の本としては例外的に、こころの深みへと至るプロセスが、湛然に描き出されているところに醍醐味があると思います。
もし読者が、油断なく心し、細心の注意力を払って、この本に描き出された三者のプロセスを辿ってゆくことができたなら、あるいはもしかすると、クリシュナムルティが仕掛けている瞑想の道程を辿り直すことで、通常の読書体験を超えた、深い体験をするかもしれません……
そしてそれはまた、まさにひとが常泣菩薩を通って、観音菩薩へと変容を遂げる旅でもあることでしょう。
普遍的な悲しみの層を抜けて
ぼくたちの心の底には、個人的な悲しみではない、もっともっとはるかに深い悲しみの層があります。通常体験するところの悲しみというのは、そうした深いレベルの悲しみに比べるならば、まだまだ浅い個人的なものであり、むしろ感傷的なものと呼ぶ方が適切だと思われるような情緒の一こまにすぎないと言えます…… 。
クリシュナムルティが、この鼎談の中で「思考、自己憐憫の悲しみ、イメージの悲しみよりも、もっとはるかに深い悲しみ」と呼ぶものを……河合隼雄さんは宮沢賢治の作品に触れながら、「情ではない“非情な悲しみ”、“非個人的な悲しみ”」といった言葉で表現されていますが、それは「センチメンタルな悲しみでもなく、情感たっぷりの母性的な領域に属するものでもなく、もっと天空に向けて突き抜けたもので、名前をつけるならば、悲しみとしかいいようがないけれども、それはとても深いところにある実存的なフィーリングであり、いわゆる個人的な感情ではない普遍的な悲しみだと」いうことになるでしょうか……。
そしてこころの深層にある、この深い深い悲しみの層と、カルーナと呼ばれるところの菩薩の慈悲とは、どうやら紙一重のようです……この紙一重が、常泣菩薩と観音菩薩とを分かっている最後の薄い一枚のベールといってよいかもしれません。ひとは、その悲しみが極限にまでくると、個人的な悲しみを超えた非情の悲しみのレベルに達っしてゆき、さらには、その悲しみの層をも突破して、無限の青空へと超出することができるのだと……そして、そのとき初めて観音の働きの源となる、カルーナ、大悲が、その空のなかからおのずと立ち顕われてくるのだと……。
ミスティックローズ(神秘の薔薇)
20年程前に、インドのOSHOコミューンに滞在中体験したミスティックローズと呼ばれる瞑想があります……この瞑想は、3週間かけておこなわれるもので、最初の1週間は毎日3時間づつ笑いつづけ、次の1週間は毎日3時間泣きつづけ、最後の1週間は毎日3時間、ひたすら沈黙のなかに沈潜してゆくものです。
これはOSHOが最晩年に編み出した幾つかのセラピューティック・メディテーションのひとつなのですが、こうしたシンプルな技法が人が静かに坐ることをどれだけ助けてくれるかは、体験してみるまでわかりませんでした……。
若い頃の禅体験のなかで、深い静けさと沈黙、身心が澄み清まり透明になってゆくような清々しい境地を幾度か体験したことがあるのですが、ミスティックローズで体験した静けさ、沈黙はそれまで一度も味わったことのないタイプのものでした。そこでは笑いと涙を表現つくしたあとの深い深いくつろぎがあって、静けさや沈黙を保つための努力、計らいがいっさいかかっていないのです……まるで幾千もの沈黙の花がひとりでにそこに咲きつづけてゆくような豊かな静けさがあたりに充満し、深いところから微笑みがこんこんと湧いてくるのです……。
笑いにも、涙にも、そして沈黙にも、じつに様々な次元、様々な深さ、様々な層があることを体験的に知り……常泣菩薩と観音菩薩の物語が、たんなる説話ではなくて、瞑想体験が深まりゆくときのプロセスを伝える大切なメタファーであることに気づいたのもこのときでした。
岡部明美さんとの邂逅があり、岡山県内でともにワークショップをリードするようになってから、まずは深い深い悲しみをしっかりと味わいつくしてから、そこを透過して広々とした慈愛に満ちた空のなかへと抜け出るという「常泣菩薩から観音菩薩」への旅路をひとりひとりが辿ってゆくことの大切さをますます感じるようになっている今日この頃です。
秋の夕べはつるべ落としというがごとく、このごろ日の暮れるスピードがめっきりと早くなってきました。先日もあたり一面にキンモクセイの香りが漂うなか庭先の高さ4mばかりあるモチノキの天辺によじ登り、枝を剪定しているうちに、あっという間に手元が暗くなってしまいました……。
選定ばさみをロックして、足を踏み外さないようそろそろとモチノキから降り、払った枝をゴミ袋に入れていたら、もうとっぷりと日は暮れ、落ち枝の在処もわからなくなってしまうほどです……。
染色体欠損に起因する厄介な病を抱えている今の僕には、あまり激しい運動や力仕事はよくないのですが、それでも簡単な草むしりや剪定、ガーデニングなど土や木々に触れる簡単な手作業は、すると気持ちがよいので、ときどきこうして汗を流すことにしています。
先日、縁あって来日中のインド人のアーユルヴェーダのドクターに脈診、舌診、問診などをしていただき、ヴァータ(風と空のエレメント)過剰の傾向にあるので、ヴァータを鎮めるためのハーブ処方をしていただいたのですが、後で色々調べてみると、パソコンなどにかじりつく生活もヴァータを強めてしまう傾向があるらしく……一方、ガーデニングは、ヴァータ過剰だけでなく、他のドーシャの過剰もバランスを取る作用があるとこのことでした。やはり土や樹に触れることは自然界のリズムに同調し、過剰なもの取り除いてゆく助けになるのかもしれません。
ところでこのSQライフのコラムの存在を最初に教えてくださったのは、同コラムの執筆陣の一人、岡部明美さんです。岡部さんとは昨年の夏頃、mixiの日記へのコメントやメッセージのやりとりを通して知り合いになり、あっという間に意気投合して親しくなり、今年は1月、4月、6月、9月、10月と何度も岡山にお招きし、ワークショップや個人セッションをリードしていただいたのですが、いつの間にか二人でコンビを組んでコラボレーション・ワークを行うという、実に不思議な展開になってきています……つい先ほども、岡山県内に行われた岡部さんとの「三つの扉」というタイトルのコラボレーション・ワークを終えて戻ってきたところです。
最初に岡部さんのワークショップに立ち会ったときに得た感想を一言でまとめると「からだに届くことばの力」というフレーズが自然に浮かんできたのですが、参加者のからだのなかに浸透してくることばの微妙なさじ加減、、、、、内的なフィーリングにぴったりと合うことばが見出されたとき、それがまるでパスワードのような働きをして、一人ひとりのフィーリングの奥深くへと通じる回廊への扉を開けてゆくさまはみごとでした。
身体感覚やフィーリングとぴたりとあったことばを見つけ出してゆくことを通して、内面世界の深みを探ってゆく作業は、もし細心の注意深さとともに用いられるなら、大きな助けになるものであることを岡部さんのワークを通じて再認識させていただいたしだいです。
竹内敏晴さんの声かけのワークにおいても、声の届き方、声の方向性や到達深度などを身体感覚を冴え渡りさせながら見てゆくものがあり、またハコミセラピーやフォーカシングなどの身体感覚指向アプローチにおいてもことばと身体感覚の相互作用に鋭敏に働きかけてゆく姿勢がありますが、岡部さんのメソッドは、それらのエッセンスを吸収しながら、ハコミでもなく、フォーカシングでもなく、声かけのワークでもなく、充分に消化吸収され岡部流となったユニークなワークだったと思います。浮遊することばを、ひとを深いところで揺り動かす力をもった生きたことばへと回帰させてゆくわざは、「ことばの本来の力」を蘇らせてくるものとして、これからますます多くのひとに求められてゆく予感がします。
瞑想の深みにおいては、ことばもイメージも、微細なフィーリングも後にして、深い沈黙の世界に参入してゆくことになるのですが、はなからイメージやことばの世界を押しやるのではなく、まずは浮遊することばを、こころの奥に潜んでいる真の願いに触れさせ、ことばを味わい深い力あるものに変化させるというこのプロセスが、今は切に求められているように感じるからです。
「ことばの力」が押し開かれてくるにつれ、きっとその対極にある「沈黙の力」もまたおのずとそのベールを脱ぎはじめてくることでしょう。
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