村川治彦の自分のからだとコンタクト!

2008年02月

歴史的身体(3)

…『歴史的身体(2)』続編

 僕が自分の身体感覚を取り戻す(?)きっかけになったのは、伝統的な祭り
への参加ではなく日本を遠く離れた太平洋の対岸、エサレン研究所の芝生の上
だった。そこで味わった自分の感覚を確かめていく過程で、西洋で発達した
心理療法やボディワークを学んだが、しだいにそうした西洋のものだけでは何かが
欠けていると感じるようになり、太極拳や気功に関心がいくようになった。
その理由を斉藤の次の言葉が的確に表現してくれている。

「身体感覚は、気持ちよさを感じる方向へ身体を解放するという文脈で語られる
ことが多い。この文脈では、身体感覚は訓練されたり技にされるものではない。
しかし、『身体感覚を技化する』という考え方をすることによって、一回一回の
身体感覚に流れていくのではない方向性が見えてくる。身体感覚が技となって
身につくことで、よりたしかな充実感が得られる可能性が生まれるのである。」
(斉藤孝著「身体感覚を取り戻す:腰ハラ文化の再生」p.7)

 ただしここで間違ってはならないのは、「身体感覚を技化する」過程が必ず
しも「気持ちよさ」と相反するものではないということだ。日本文化の伝統的
身体美を取り戻そうとした三島由紀夫は、肉体を対象化するための唯一の手段は
「苦痛」であると考え、剣道とボディビルにのめり込んでいった。しかし、彼の
辿った道が示しているように、日本的型を身体への苦痛の強制としか捉えられない
限り伝統的身体はますます死滅していく。確かに病気になると、自分の身体が強く
その存在を訴えかけてくる。だが健康な時にも、快感を手がかりにしても、
身体感覚を深めていくことは可能だ。いやむしろ、僕たち一人一人が身体の深い
ところで感じる快の感覚こそが、歴史的身体を取り戻していくために僕たちに
残された唯一の道筋なのではないかと思う。問題は、斎藤がいう「気持ちよさ」と
「身体の深くで感じる快」の区別を多くの人が見失っていることにある。
 
 木のようにただ立つだけの「站椿功」という気功がある。この気功ではただ
たんに立っているというある意味極めて退屈な行為を続けるのだが、そこで強調
されるのは、退屈を我慢するとか、立つ苦痛を乗り越えるということではない。
むしろ、退屈だったり苦しければやめて、リラックスした中でのある快感を少し
ずつ育てていくことを大切にするよう教えられる。その快感は最初とても微か
だったり、ちょっとしか続かない。でも「続ける」ことでその小さな快感は少し
ずつ育っていく。習慣の持つ力を抜きに身体を考えることはできない。
人類あるいは、生物発生以来の習慣の集大成が僕らの身体と言えるだろうから。
大切なのは苦痛vs快感ではなく、身体感覚との対話の継続なのだ。

 僕にとって気功は、心理療法やボディワークを通して出会った自分の身体感覚を
より掘り下げ、自分の中の歴史的身体に出会うための大きな手がかりとなっている。
自動車、テレビ、コンピューター、携帯電話のない共同体社会で育まれた伝統的
身体を、気功という身体技法を通してどこまで回復できるのか。気功体験から
何か共同体感覚が生まれてくるのか。毎日テレビを見て、携帯電話でつながりあう
現代の日常生活が、気功を積み重ねることでどこまで変化するのか。
色々と問いはつきない。

『歴史的身体』 完

プロフィール

村川治彦村川治彦

関西大学文学部身体運動文化専修准教授。Center for East-West Dialogue元代表。
東京大学文学部宗教学科卒業後、1986年トランスパーソナル心理学を学ぼうと渡米。学生時代はアジア諸国大好きだったのに、以来ひたすら太平洋の両岸を往復すること30回を優に越える。
Association for Transpersonal Psychology (アメリカトランスパーソナル学会)常任理事

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