
…『歴史的身体(1)』続編
その夜宿舎に帰り興奮醒めやらぬ中、ふとある疑問が湧いてきた。
それは僕が感じた一体感、高揚感は、一緒に酒を飲み、川に飛び込み、かけ声を
かけあって綱を引く若者たちが感じているものと同じなのだろうか。
普段はどうみてもヤンキーの兄ちゃんで、年寄りの言うことに耳をかしそうにも
ない若者たちが、法被を着て町の年長者たちにお茶をだし、素直に言うことを
聞いている。そうした彼らが感じている非日常での共同体の感覚。
そこには何か僕らには触れ得ない、あの土地で育まれた何百年もの歴史がある
ように感じられた。客人としての僕には到底触れ得ないある歴史的な身体ともいう
べきものがどっしりと感じられた。
祭りの最中に若者達が見せた年長者への何気ない所作、冷たい川に裸で飛び
込む勢い、綱を引くときの腰の決まり方、それらはみな総体的にある文化を
担っていく歴史的身体を形成していた。こうした歴史的身体が日本文化の中で
失われてきている。少なくとも僕自身の中で、子どもたちに伝承できる型として
息づいていないのを痛感している。
この問題を考える上で、斉藤孝の「身体感覚を取り戻す:腰ハラ文化の再生」
(NHKブックス)は様々な示唆に富んだ名著だ。この本の中で斉藤は
「『現在の日本で、カラダに何が起こっているか』という問いに一言で答える
ならば、<中心感覚>が失われているということになるのではないだろうか。」と
述べている。ここでいう中心感覚は「腰やハラが出来ている」という表現で伝え
られる身体の感覚なのだが、大切なのはこうした身体感覚が祭りのような共同体の
イベントだけでなく、日常的なレベルでの玄関で靴を脱ぐ、畳に座る、道を歩く、
あるいは子供の遊び方などといった何気ない所作によって育まれてきたことだ。
(これについては社会学者ピエール・ブルデュー「実践感覚」を参照)
時代の変化と共に生活様式が変わる以上、当然そうした身体感覚も変化せざ
るを得ないのだが、問題はそうした身体感覚が心のあり方や他者との触れ合い方
などの根底にあるという斉藤の指摘だ。(身体感覚と理性的思考の関係は認知
意味論のレイコフやジョンソンの著作に詳しい)例えば「腹を立てる」
「むかつく」「キレル」と言った言葉は、単に世代による表現の違いだけでなく、
その背後にある身体感覚の違いを抜きには考えられない。そしてこの30年の
生活様式の変化がもたらしたものは、たんに身体感覚の変化ではなく、もっと
根本的な身体感覚の喪失に深く関わっているのではないか、という点だ。
(須藤功など民俗学写真家や土門拳などの写真集を見ると、戦前・戦後よりも
1970年を境にした日本人の生活における身体の使い方の変化が良く分かる)
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