
日本人は、近代科学が隆盛を極めたこの100年で、頭の中、思考法がすっかり西洋人のようになってしまい、謎の東洋人と化してしまった感じがします。特に最近は、”感じること”を忘れて、”考えてばかり”の人が多いようです。
ストレスは「思考過多」によるところがとても大きいのです。身体感覚や感性が鈍くなってくると、自分らしく生きている感覚や自由の感覚が失われ、生きることがとてもしんどくなっていきます。
しかし日本人というのは元々、「わび・さび」という独特の情緒、感性、美的センスをもった国民であり、もっと大らかな世界観をもった国だったのではないでしょうか。古神道でいうところの“八百万の神々の国”という感性も、神道など知らない人の中にも根づいているように思います。
少なくとも私の中には共感するものがあります。私は、神道に特別馴染みがあるわけではないけれど、万物が神、あるいは、万物に神が宿っているというアニミズム、スピリチュアルリズムの感性を自分が深いところではもっていることを知っています。
私は昔から、“神々”という言い方が好きでした。大らかにすべての存在が許されて存在しているという感じ。多様なものが、多様なままに共生していることの大らかさが感じられるから。
この宇宙、この世界の森羅万象に、神なる意識、エネルギー、働きがあるからこそ、存在するものは存在しているということを、昔の日本人は、感性のレベルで知っていたように思います。
存在しているということは、すでに許されている、必要とされている、愛されているということなのですから。より大きな存在に。
おそらく、今の社会に生きる人間の根源的な不安や空虚感、孤独感を作りだしたのは、人があまりにも自然から離れてしまったことに起因しているように思います。自分との分離感、人との分離感、大自然=神・宇宙との分離感。
すべては、この“つながりを喪失”してしまったことの底冷えのするような淋しさが不安の根っこにあるように思えます。自分という存在は、大自然の一部、神の一部であることを思い出すことが、今最も求められているのではないでしょうか。
自然には見える自然と見えない自然があります。物質宇宙と精神宇宙があるように。このストレス社会に生きている私たちは、少なくとも目に見える自然には、触れようと思えばいつでも触れられます。でも最も身近な自然は自分の身体なのです。
自分の身体が悲鳴をあげていることにも気づかず、身体を酷使している人がどれだけいることでしょう。身体を酷使するということは、自分を乱暴に扱っているということです。これではイキイキと生きることはできません。
身体という自然を慈しんでいるでしょうか。心という深い海の底の静寂に触れているでしょうか。ストレスでバランスを崩している時は、まず自分の身体をケアしてあげること、心が今何を語ろうとしているのかに耳を傾けてあげること。これは自分以外の誰にもできないことなのです。
そして、時間を創って自然の中に出かけてみることが何よりの生き返り、リフレッシュです。おそらく人は、土や草や花と離れてしまったら優しさを失い、山や川や海と離れてしまったら大らかさを失い、空や月や星や風を感じることから離れてしまったら純粋さを失っていくのではないでしょうか。
私は、かつて、自分の元気を取り戻す過程で、積極的に自然に触れる体験を重ねていきました。自然は本当に私を癒してくれました。大自然の懐に抱かれて、その中に身を置いていると、風景の中に自分が溶けていくような感じがありました。
そして、ふと気づくと、いままで自分が抱えてきた悩みや不安や恐れが大自然の中に溶けて流れていったのです。その時、小さな自分を超えた、何か偉大なるものの力や働きによって自分は生かされているのだということに心底気づき、その瞬間、私は世界がひっくり返ったような感動を覚えたのです。それは、鳥肌が立つような深い喜びでした。
この世界の神秘、存在の神秘、生きているということの奇跡に対してふるえる心、畏怖の感情をもった時に、人はすでに神に触れているのではないでしょうか・・・。
人の存在深くにある神聖なる意識というのは、大自然の圧倒的な美しさの前にふるえている時に、自分の内側から自然に立ち昇ってくるもののように思います。
その瞬間、つながるのです。自分の内側に本当はあったより大きな存在と。内側にある大きな存在と外側にある大きな存在は、実は同じものであったことにその時気づくのです。
その偉大なる神聖さに触れた時に、この私が、私として「存在(ある)」ということの不思議、世界がこのように「存在(ある)」ということの神秘に人は立ちすくむのではないでしょうか。
私は、究極の神秘というのは、解明されうるものではなく、圧倒的な素晴らしさの感覚として、ある日突然体験してしまうものなのではないかと思っています。生は、まさに生きられるべき神秘なのです。
苦しい時、辛い時、悲しい時、そんな暗闇の中にも、喜びや幸せや感謝や感動の種はある。闇の中にいる時に、光の存在をふと感じる。
最も神さまなんて信じられないという時に、“それ”は、私に触れてくる。誰かを通して、何かを通して、体験を通して。それらがすべて神(宇宙・大自然)の計らいであることを私にわからせるために・・・。

< お 知 ら せ >
* 6月23日(土)「リラクゼーション&メディテーションの会」があります。
テーマ:体ゆるめて 心静めて ただ静寂の中にやすらぐ
ストレスで緊張している頭部と身体を心地よくほぐす“ボデイワーク”と“瞑想の時間”です。心身がリラックスして、思考が鎮まってくると、内側のスペースが広がり、心身に心地いいエネルギーと創造的なエネルギーが満ち溢れてきます。
* 7月7日(土)「1 day ワークショップ」があります。
テーマ:私たちは自分の肉体こそが自分であると認識していますが、本当は、人間は多次元的なエネルギー身体です。
このワークショップでは、各チャクラのエネルギーバランスをとりながら、からだという無意識層からのメッセージを聴きます。また、カラーアートセラピーを使って今自分にできる最善のことと、自分の本来のギフトを見ていきます。いままであまり気づかなかった自分を楽しく学んでいくワークショップです。
* 7月27日(金)~29日(日)、那須で2泊3日のワークショプがあります。
本来の自分らしさ、パワー、豊かさ、愛、魂の目的、いのちの輝きに触れていくワークショップ です。本当の自分とのつながり、人とのあたたかなつながり、大自然とのつながりを深く実感し、自分が本当にやりたいこと、本当に生きたい人生に歩み出すためのワークショップです。
* 詳しくはホームページの新着情報をご覧下さい。
岡部明美の公式ホームページ:http://anatase.net/
「SQライフ」の2月26日に書いたコラム「言葉の錬金術師のような人」の中で、晴佐久神父の「しみじみ教」という詩が大好きだという話を書きましたが、もうひとつ私が好きなのは、「バカボンのパパの言葉」です。
ひどく落ち込んでいたり、シリアスになり過ぎて重くなっている人には、私は、「バカボンのパパの言葉」と「しみじみ教」の詩をよくメールで送ります。
「読んだら、なんとなく気持ちが楽になりました」というお返事をよくいただきます。
< バカボンのパパの言葉 >
わしは バカボンのパパなのだ
この世は むずかしいのだ
わしの思うようにはならないのだ
でも わしは大丈夫なのだ
わしはいつでもわしなので 大丈夫なのだ
これでいいのだと言っているから 大丈夫なのだ
あなたも あなたで それでいいのだ
それでいいのだ
それでいいのだ
わしはリタイヤしたのだ
全ての心配から リタイヤしたのだ
だからわしは 疲れないのだ
どうだ これでいいのだ
これでいいのだ
やっぱりこれでいいのだ
バカボンというのは、サンスクリット語で、「悟った人」「智慧者」という意味があるそうです。私は、このバカボンのパパの言葉って、まさしく悟りの境地だよなあと思いました。
だって、私たちは、「これでいいのだ」と思えないから苦しむのだものね。
「それでいいのだ」と人に言ってもらえないからつらいんだものね。
「私、またばかなことやっちゃった」「それでいいのだー」
「あの人をどうしても許せない」「それでいいのだー」
「人と会いたくない。人間関係がうっとおしい」「それでいいのだー」
ね、こんな風に言い切ってもらったら、もうそのことはどうでもいいかなって思えてなんとなく気が楽になるよね。
人間の心って不思議なカラクリになっているものです。「自分を変えなければ」と思って自分の問題に取り組んでいる時は、なかなか変われないのに、「これが私なんだからしょうがないよなあ。ない袖は振れないし。私にだっていいとこもあるんだし」とか思えるようになると不思議と変わっていくのです。
また、「絶対成功してやる!」なんて気負っているときより、「最善は尽くす。でも、結果は天におまかせ」とか、「願わくば、こうなったらいいけど、でも、どっちでもいいか。なるようにしかならないもんな」くらいの気持ちでいた方が願いがかなったりするのですから面白いものです。気負いと執着と見返りを求める心は自己実現の罠になり、幸福な人生の棘になってしまうようです。
私も、何かを後悔したりして気持ちが沈んでしまった時は、バカボンのパパみたいに「これでいいのだー」と自分に言ってあげます。そして、人に対しては、「それでいいのだー」と言ってあげられる大きな心を持ち続けたいなって思っているのです。
「もっとああすればよかった」「なんであれだけしかできなかったんだろう」って思うことは誰でもよくあることだけれど、人って、本当は、その時、その時で最善を尽くしていると思うのです。後悔するのは、その時よりも自分が成長したからなんですもん。
「これでいいのだあー」「それでいいのだあー」
ああ、いいねえ、このマントラ!
ギャーテー ギャーテー これでいのだー!

< お 知 ら せ >
*6月23日(土)「リラクゼーション&メディテーションの会」があります。
テーマ:体ゆるめて 心静めて ただ静寂の中にやすらぐ
ストレスによる頭部と身体の緊張をほぐす心地よい”ボデイワーク”と”瞑想の時間”です。
*7月7日(土)「1 day ワークショップ」があります。
テーマ:各チャクラのエネルギーバランスをとりながら、からだという無意識層からのメッセージを聴きます。また、カラーアートセラピーを使って今自分にできる最善のことと、自分の本来のギフトを見ていきます。今まであまり気づかなかった自分を楽しく学んでいくワークショップです。
*7月27日(金)~29日(日)、那須で2泊3日のワークショプがあります。
本来の自分らしさ、パワー、豊かさ、愛、魂の目的、いのちの輝きに触れていくワークショップです。
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私にとっての人生の財産は何かと尋ねられたら、私は迷うことなく「家族と友だちです」と答えるだろう。
友だちという言葉の響きが好きだ。私には、10年、20年、30年とつきあってきた友だちが何人かいる。長いつきあいの女友だち、男友だちは、ほんとにいつ会ってもちっとも変わらない。
お互いに「成長がないよねえ」「変わりばえしないね」「何年つきあっても何にも得る所なんかないよね」などと軽口をたたきあっている。
しかし本当は、その“変わらなさ”の下に、どれだけの“今”を抱えているのか、どれだけつらいこと乗り越えて、その人の今があるのかぐらいは、みんな感じているのだ。年を重ねてきた分だけ、ちゃんと。
高速で回っている駒が止まって見えるように、いつも変わらないように見える人というのは、最も内側で変化し続けている人なのだと思う。心がつながっている人というのは、しょっちゅう会っていなくても全然不安にならない。遠くにいても、いつもその人の存在を感じている。
人は、少しずつ変わっていくものだけれど、つながり続けている人というのは一様に「そこだけは変わったらだめだよ」「それをなくしたらあなたじゃないよ」というものをなくしていない。
一人ひとりがもっている「それ」と「そこ」というのは、カナリアにとっての歌のようなものかな。その人がいるだけでいい、生きていてくれるだけでいいという存在が、自分の人生にいるということはなんて幸せだろうと思う。
しかし、私の人生で長い時間、終わることなく、かかわり続けてきた友だちとは決していい関係の時ばかりではなかった。
互いの生活が忙しくて自然に疎遠になってしまったり、わかり合えない時があったり、互いの変化が受け入れがたい時があったり、住む世界が変わってしまったなあと感じたり、ケンカして一時的に絶縁状態になったりと。
それでも、それぞれの友だちと様々な季節を一緒に乗り越えてきたのだなあと最近しみじみ思う。
不思議なのは、「もうこの人とは終わりかな」と思っても、またつながり直しをするような出来事が自然に起きてくる人がいることだった。きっと、これを縁というのだろう。ほんとに縁のある人とは、何度疎遠になっても再び出会うみたいだ。
きっと根っこのところで、互いのことが好きだという気持ちがある限りは、決して本当には終わらないのだろう。どちらかが降りたら人間関係は続かないのだから、再び出会う、またつながるということは、二人とも降りていなかったということなのだ。
でも、人と人がほんとうにいい関係、心地いい関係になるためには、関係性という空には、何度かの雨、嵐、雹、霰が降ることや、隙間風が吹いたり、霜が降りたりする季節が必要なのかもしれない。いろいろ降ったり、吹いたりした分だけ、この空は、高く、広くなっていくような気がする。
一人の人間がいくつものつらい季節を乗り越えて、成長し、成熟していくように、人間関係にも春夏秋冬があるのだろう。その季節を共に生き、共に越えていける相手に巡りあえること以上の幸せってないのかもしれないなあと、お茶をすすりながら、しみじみと感じている今日この頃・・。

< お知らせ >
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私の周りでは、スピリチュアルな道に歩み出すきっかけになったのが、龍村仁監督が制作した「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」という自主上映の映画を見てからだったという人がけっこう多い。
私がこの映画の1番に出会ったのは、確か1995年頃。その後の2番、3番もとてもよくて、特に3番は涙がこみあげてきてしかたがなかった。仲間たち20人で1番から3番までの自主上映会をした。
ひとりでも多くの人にこの映画を見てほしかったのだが、上映会の2週間前になってもチケットは半分しか売れていなくて私たちは焦った。でもあきらめずに知人に電話をかけまくった。当日、400人の会場は満杯だった。
当時はこの映画の不思議な感動をどう表現していいかよくわからなかった。私は見終った後しばらく座席を離れることができなかったのだ。とても深い余韻を残す映画だった。
家に帰ってから、ぼーっとしたまま自分の中で何が起きているのだろうと感じてみた。
「ひとつの糸でつながっていたんだ・・・」
生死を彷徨うような大病の体験が大きな引き金になって、私は10数年前に自己探求の道に歩み出したのだが、自己の内側に向き合い出したら、その後の、私の出会いの質がまったく変わってしまったのだ。
自分がどこに向かって歩いているのかわからないのに、何かに導かれるようにして歩き出した道のりで体験したこと、学んだこと、気づいたことが、ひとつの糸となってつながっていたことをこの映画を見て強く感じた。
私の人生で起きていた混乱や行き詰まり、生死を彷徨うような病気。それらが一個人の問題ではなく、社会全体、ひいては、地球という“ひとつの生命体”の危機と同様の問題を孕んでいることを強く感じたのだ。
21世紀は、環境意識と宇宙意識に目覚める時代になる。それは同時に、物質文明から心の時代、いや、もっと言えば、スピリチュアリティ(霊性)への目覚めというものが鍵となる時代になる・・・。「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」という映画は、それを実感させてくれた映画だった。
「地球交響曲」という映画が今、日本の自主上映の記録を塗り替え続け、じわじわと社会に浸透し始めている現象は、私が当時学んでいた新しい医学や心理学と同じ潮流にあることを感じさせた。
西洋医学一辺倒だった世界に代替医療、統合医療、ホリスティック医学、バイブレーショナル・メディスン、ナチュラル・メディスンなどが登場し、医学の世界が多極化の兆しを見せていること。
心理学やセラピーの世界にも、老荘思想、タオイズム、瞑想、東洋哲学が取り入れられたトランスパーソナル心理学が登場し始めたこと。物質の科学である物理学の世界に量子物理学が登場し、目に見えない世界を科学し始めていること。
女優のシャーリー・マクレーンが輪廻転生や神と宇宙について書いた「アウト・オン・ア・リム」が世界で300万部も読まれるベストセラーになっていること。写経や坐禅・瞑想・お遍路・宿坊などに関心をもつ人が増えているという現象・・・。
数え上げれば新しい時代の潮流、パラダイム・シフトを象徴している社会現象はいくらでも見つけることができる。
人には、「私は何者なのか? 私は何の為にこの世に生まれたのか。私はどこから来て、どこに行くのか」という実存への問いがあるように、「私たちは、どこから来て、どこに向かって生きているのか」という“類”としての問い、“生命全体”への問いがある。その両方の問いが「地球交響曲」という映画の底辺を流れているように感じた。
「地球交響曲」という映画の底辺に流れているのは、人間の心、すなわち“想い”というものがもつ「無限の力」へのメッセージがある。想いとは、想像力だ。想像とは、イコール“創造”の唯一のエネルギーなのだ。
登場人物の一人であるアイルランドの歌手、エンヤの歌声の美しさは、今でこそ有名だけれど、90年代半ばでこの映画に出会った私は、アイルランドの荒涼とした風景の中から初めて聴こえてきたエンヤの歌声があまりに懐かしく、わけもなく温かく、知らず知らずの内に涙が流れていた。
その声の響きは、この世界とは違う次元の場所から聴こえてくるような感じがした。エンヤの歌声とケルト民族の文化とその神話的時間の流れが私に、“人には魂の故郷というものがある”のだということを思い出させてくれた。この映画は、遥かなる時空を超えて幾多の生を生きてきた私たちの魂に静かに訴えかけてくるものがある。
私は、夜空を見上げて星のきらめきや銀河の流れをなんて美しいのだろうと感動するのに、自分が“星に生きている”という実感は今まで全くなかった。私はこの映画を見て初めて、自分がこの星に生きているのだということそのものに感動したのだ。
漆黒の宇宙に浮かぶ美しい水の惑星。あの青く輝く丸い星の上を私は毎日歩いているのだ。まっすぐな、平らな大地の上を歩いているのではない。宇宙に浮かんでいる球体の上を歩いているなんてこれって奇跡じゃないかと思った。
人間や地球というものを宇宙からただ静かに眺めていると、過去・現在・未来という一直線上に進む時間感覚や、自我意識や国境意識みたいなものも溶解していくような気がした。
「地球交響曲」を見ると本当に地球はひとつの生命体、エネルギー体であることがわかる。と同時にこの宇宙は意識の海であり、宇宙はすべてが有機的につながりあった生きている生命体なのだということが感性レベルで実感できる。
私はこの映画に出会えたことで、より大きなものから自分を見た時に感じる自分の小ささ、私の本当の“身の丈”を感じることができたような気がした。その、自分というものの小ささ、ちっぽけさというのは、より大きなものから自分を見た時に感じる、自分を生かしてくれている大きな存在があることへの畏怖の感情だった。
宇宙がこのようにして「在る」ということ、私がこの星に生まれ、このような存在として「在る」ということ、私たちはこの宇宙の生成に瞬間ごとに立ち会っているのだということ、これほどまでの多様な生命が、地球上に共存・共栄しながら「生きている」ということ一これを奇跡と呼ばずして、何を奇跡というのだろう。
私たちも含め、すべての存在が、この宇宙の森羅万象の神秘のひとつなのだと思うと、私は何かふるえるほどの感動を覚える。その宇宙の源から生まれ、生かされているすべての生命、私たちという存在一このことへの感動と畏怖こそが、真の意味でのスピリチュアリティの目覚めなのかも知れない。
地球交響曲は第一番から第五番まですべて見たが、先日、今年封切りになった「第六番」を見てきた。友人の即興演奏の音楽家であるチャッキリと友人たち一緒に見に行った。
なにしろチャッキリの音楽の師匠であるインドのシタール奏者、ラヴィ・シャンカールさんが6番に出演しているというのだから、最初からもうワクワク。それだけでなく、チャッキリは、六番に出演している龍雲さんや奈良裕之さんやKNOBさんとジョイントコンサートをしたことがあるのだという。
チャッキリとは、感性論哲学の芳村思風先生と私が一緒にやっているセミナー「I will フォーラム」に彼が参加してくれたことで仲良くなったのだ。だから本当はチャッキリではなく「のり」と本名で呼んでいる。女神山ライフセンターのガイアホールで初めて聴いた彼の即興演奏と歌は本当に素晴らしく、他の受講生もみんな感動していた。
チャッキリのりが自分で創ったリラを奏で、太鼓をたたき、即興の歌をうたっている時は完璧に宇宙とつながっている。自分が無くなっているときにだけ、人は宇宙とつながり、偉大なるものがその存在を通して表現するのだと思う。チャッキリのりは人柄もとても温かくてまるごと感性の人だ。
私は一度彼の太鼓をたたかせてもらったのだが、いきなりトランス状態に入ってしまい、太鼓のリズムと音色によって太古の私を思い出してしまった。
チャッキリのりに多大なる影響を与え、導いてきた師匠、ラヴィ・シャンカールさんが映画の中で言っていた「音は神なり」という言霊は深く響いてきた。
第六番のテーマは“すべての存在は時空を超えて響きあっている”だ。宇宙は響き合っている。存在するものすべては響き合い、私たちはその存在の余韻を味わっているのだということを深く感じた。
宇宙は巨大なシンフォニーを奏でている。私たちは、一人ひとりが宇宙シンフォニーの何らかの楽器を担当し(それが、それぞれの人生の音色)、独自のいのちの歌をうたっているのだ、この宇宙の中で。
この地球という星に生まれたことの不思議。この美しい水の惑星の神秘。それを創造した、この宇宙の源の“永遠の創造性、秩序、調和、愛”。宇宙はリズムを刻みながらハーモニーを奏でて、イキイキと生きている。
第六番は非常に瞑想的であり、静寂だった。人間と動物と植物と自然の風景が音をモチーフとしてすべてがひとつに溶け合っていた。特に、ピアニストのケリー・ヨストは、その呟くような言葉が深く透明で、私の心の奥底に共鳴・共振した。
「自然とは、自ずと然る、ことである」
「私の使命は、音楽の通り道となること」 ケリー・ヨスト
ケリー・ヨストが、私の大好きなバッヘルベルの「カノン」を弾いている時、私の目からはとても静かな涙が流れてきた。今、この原稿も彼女のピアノ・ソロのCDを聴きながら書いている。
「地球交響曲第6番」は、恵比寿ガーデンプレイスの中にある東京都写真美術館での上映だった。あそこはとてもオシャレで素敵な空間だ。映画を見終わった後、私たちは当然のように恵比寿ビアガーデンで黒ビールを飲んだ。ソーセージとチーズと生ハムとジャーマンポテトをつまみに。うーん、感動の余韻と共に飲むエビス黒ビールは格別に美味しかったなあ。

< お 知 ら せ >
*友人の藤井さんが6月1日(金)に名古屋で「地球交響曲第六番」の上映会をします。
特別ゲスト:上野圭一さん(翻訳家、鍼灸師、日本ホリスティック医学協会副会長等) 三嶋ヒロキ:ディジュリドゥ演奏
参加費:2000円
予約・申し込みはメール藤井さんまで。
CZK13324@nifty.ne.jp
電話での問合せは
080-3611-5556
*このコラムで紹介したチャッキリのりが、古代史研究家の林博章先生の講演会でミニコンサートをします。
日時:平成19年6月10日(日)18:00開場 18:30~21:00
場所:北沢タウンホール
世田谷区北沢2-8-18 03-5478-8006
(小田急・井の頭線「下北沢駅」南口 徒歩5分)
講師:林 博章(古代史研究家)
ミニコンサート:チャッキリのりお
参加費:2,000円(当日2,500円)
お申し込み:http://holos.co.jp
主催:ヘンプリズム志国プロジェクト
東京事務局:03-5414-5787 松前 兼一
愛媛事務局:089-924-2424 須賀 佳乃
*岡部明美 公式ホームページ:http://anatase.net/
私は、ある夏の日の夕方、泣きながらこの世に生まれた。人はみな泣きながらこの世に生まれる。安全な子宮の海を船出して、未知なる航海に出て行くことがどんなにこわくても、ある日、新しい世界に旅立つことを決意して人は生まれてくる。
まるで、この世の痛みや苦しみを象徴するかのような、あの真っ暗で狭い産道。その暗闇の道を潜り抜けて出てくることは、どんなにか不安でこわかったことだろう。
人は誰でもこの世界に生まれる時に産声をあげるけれど、生きていく中で、自分の中から新しい自分が生まれる時も産声をあげる。古い私が死に、新しい私が生まれる時のあの耐え難いほどの恐怖と苦痛、胸が張り裂けそうな痛み。
私も、自分の内側を旅し始めたどこかの時点で、確かにある日、魂の産声をあげたのだと思う。でも、その日がいつだったのかはもうよくわからない。とにかくその産声をあげた日から、私は、「私とは誰か」「世界とは何か」「私は何のために生まれたのか」という探求の道に歩みだしたのだ。
歩き出した最初の一歩はいつだったのだろう。もうずいぶん遠い昔に感じる。心理的なハイハイ期間、つかまり立ち、ヨチヨチ歩きの期間があって、気がついたらある日突然、足を大きく踏み出し歩き始めたのだ。それからは、なんかすごい勢いでグングン歩いてきたような気がする。
歩き出したら、見える世界がどんどん変わっていった。世界とは、決して、誰の目にも同じように見える客観的存在ではない。自分の意識が変わってくると見える景色、世界も自然に変わってくる。
そういう意味では、世界とは、まさしく私の意識が見ている地平であり、私の眼差しの向こうに広がる風景であり、宇宙なのだ。世界とは私であり、あなたであるという途方もない真実、そして神秘・・・。
自己の探求は、まるでメビウスの輪のように一内側を辿っていったら、外側だったというあれ一に似ていて、内側を見詰めていたら、最も大きな外側、宇宙に出ていたのだ。
「あれっ?」て感じだった。私は、私を見詰めていたのに、気がついたら宇宙のこと、神さまのことを考えていたのだ。それはまるで、恋焦がれていた人にやっと出会えたようなうれしさだった。
このメビウスの輪を辿る内に私は少しずつ見えてきた。人の魂の物語を構成している基本的な筋を。それは、この世でなすべきこと、楽しむこと、学ぶべきことの脚本であり、出会うべき人のキャスティングの意味だ。それぞれの魂が計画してきた“人生の暗号”を解読する切り口、それは・・・。
1)この人生で、多大なる影響を受けた人物・本・音楽・絵画・場所・出来事との出会いを通して。
2)愛する者との出会い、その人との間で起きた苦しみから愛を学ぶことを通して。
3)人生に降りかかってきた耐え難き試練の下にあるギフトを通して。
4)ある人間との確執を通し自分の成長の課題に気づくことを通して。
5)子供の頃からわけもなく好きだったこと。楽しかったこと、得意だったこと、親や人からほめてもらえたもの。不思議でしょうがなかったこと。反対に、これは納得できない、おかしい、違うと感じるものを通して。
6)やってみたら次々に興味や関心がわいてくるもの。問題意識や創意工夫が次々に湧いてくるもの。努力が苦にならないもの。
7)心のやすらぎや幸福感を得られるもの、自分のいのちが喜んでいると感じるもの。
8)大人になって、これは何か違うという違和感を覚えるもの。これは許せない、このままではいけない、何とかしなければと思うもの。
9)理屈や損得を超えて行動に移せるもの。寝食を忘れて夢中になれるもの。無心になれるもの。わけもなく心惹かれる“ものやコトや人や場”。
10)信じられないようなシンクロ現象や、不思議な出会い、大切な人との出会いの意味を通して。
考えてみれば、好きという気持ちも、これがしたい、これは楽しい、不思議、面白いという感覚、これはおかしいという違和感も、すべて自分の“内側”から勝手に湧き出てくるものだ。ということは、一人ひとりの人生の目的は、いのちの中にすでに“種”としてあるということなのだ。
そして、出会いや体験は自分の頭の計画外で、人生に“自然に起こる”ことだ。自分の内側から“自然”に湧き上がってくるもの、人生で“自然”に出会ってしまうもの。
この“自然”は、個を超えたより大きないのちの働き、人智を越えたものの働きであることがわかる。私は、これを理解できた時に、一人ひとりの人生には、神(大自然・宇宙)の計らいがあるということが本当に深く納得できたのだ。
神さまから与えられる試練は、自分の“人生の暗号”を解読する最大の鍵であることを知ると、人生の被害者、犠牲者の罠から抜け出せる。私も神さまの愛を勘違いしていた頃はこれがわからなかった。
無条件の愛、無償の愛といわれている神さまの愛は、ただただ優しく、あたたかく、私を助けてくれるもの、希望だけを与えてくれるものだと思っていたから、試練の中に神さまからの贈り物があるなんて到底信じられなかった。
しかし、神さまは、非情にも、冷酷にも、獅子の谷落としのようなことも平気でするのだ。その人が、そのことを通して大切なことに“気づく”ために。その人が本質に“目覚める”ために。その人が真の意味で自立し、自分の生まれてきた目的、役割、使命を自覚し歩み出すために。
私の今回の人生の修行は、かなりハードルの高いテーマを与えられた。おそらく、私があまりに頑固で強情で鈍感だから、神さまは、「こいつは、このくらい痛い思いをしないときっと目を覚まさない」と思われたのだろう。
でも、私はちょっぴり偉かった。だって、その神さまの意図と計画にある日ちゃんと気づいたのだから。そうしたら、「何があってもなんとかなる。何が起きてもなるようにしかならない」とだんだん思えるようになってきたのだ。
その“なんとかなる”っていう感じは、昔のような単純な楽観主義、プラス思考ではなく、自分を超えた大いなるものの力を本当に信じられるようになった頃から生まれてきた平安の感覚だった。本当の意味での大風呂敷に乗ったつもりでというのはこの意味なのかもしれない。
ジタバタしてもしょうがない、なるようにしかならないっていういい意味での諦め。大風呂敷という“神さまの風呂敷”に包まれて運ばれていく先に見える風景を信じようとする気持ち。
でもそれは、思いっきりジタバタし、抵抗し、混乱した挙句に辿り着いた意識の境地だった。思いっきり抵抗して良かったと思う。どんなに抵抗しようがだめなんだということがわかったから。
人生の“変化の波”に抵抗すればするほど、過去の自分や、誰かに、何かに執着すればするほど、苦しくなるのは自分なのだということが本当にわかったから。で、執着や抵抗をやめて、ぽーんと身を投げ出してみたら、なんと、もう次のステージはしっかり用意されていたのだ。
人生には大いなる存在の意図と計画があること。人は幾多の生を生きてきた永遠の生命であること。人はこの世を生きるに値するそれぞれの魂の目的があること・・・。
人生は生きるに値する。どんなことがっても。何があっても。なぜなら、人はみな存在の見る夢だから。この世に送り出したくてしかたがなかった大いなる存在の大切な一部だから、私たちはみんな・・・。

< お知らせ >
* 6月23日(土)岡部明美の「リラクゼーション&メディテーションの会」があります。
テーマ:体ゆるめて 心静めて ただ静寂の中にやすらぐ
* 7月7日(土)「1 day ワークショップ」があります。
テーマ:ボデイサイコセラピー&カラーアートセラピーを使って、からだという無意識層からの今の自分へのメッセージを聴く
* 7月27日(金)~29日(日)、2泊3日のワークショプがあります。本来の自分らしさ、パワー、豊かさ、愛、いのちの輝きに触れていくワークショップです。
* 詳しくはホームページの新着情報をご覧下さい。
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レイチェル・カーソンの 「センス・オブ・ワンダー」(新潮社)という本が好きで、時々、思い出したように本棚から取り出して読む。この本は、装丁も、文中にある写真もとても美しい本だ。
第一回目の日記に、スピリチュアルな人、スピリチュアル・ライフという言葉のイメージから、真っ先に思い浮かべたのが宮沢賢治と共に、このレイチェル・カーソンだった。
私は、「センス・オブ・ワンダー」という言葉の響きにとても惹かれてこの本を買った。本の帯にはこう書いてある。
「こどもたちへの一番大切な贈り物一美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見張る感性”センス・オブ・ワンダー”を育むために、子どもと一緒に自然を探検し、発見の喜びに胸をときめかせる」
レイチェル・カーソンは、世界の歴史を変えた1冊と言われる「沈黙の春」の著者だ。「沈黙の春」は、地球環境汚染の実態を世に先駆けて告発した本で世界的ベストセラーとして有名だ。
その彼女の最後の著作が「センス・オブ・ワンダー」だ。まるで絵本のような雰囲気の本で、文章も優しくて、所々に入っている写真も美しい。
レイチェル・カーソンは、この本の中でこんなことも言っている。
「科学者がしなければならないのは、世界を愛することだ。理解する前に自然界を愛することが最もたいせつなのだ」
「もしもわたしが、すべての子供の成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子供に、生涯消えることのないセンス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性を授けてほしいとたのむでしょう」
この本は、子どものいなかった彼女が、姪の息子を赤ちゃんの時から自然に触れさせながら育ててきたエッセイのような記録なのだけれど、自然への接し方というのが、さすが、海洋生物学者のレイチェルだけあって、驚くばかりの発見と探求と遊び心に満ち溢れているのだ。本文から一部抜粋してみよう。
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ある秋の嵐の夜、わたしは1歳8ケ月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました。
海辺には大きな波の音がとどろきわたり、白い波頭がさけび声をあげてはくずれ、波しぶきを投げつけてきます。わたしたちは、真っ暗な嵐の夜に、広大な海と陸との境界に立ちすくんでいたのです。
そのとき、不思議なことにわたしたちは、心の底から湧きあがるよろこびに満たされて、いっしょに笑い声をあげていました。
幼いロジャーにとっては、それが大洋の神の感情のほとばしりにふれる最初の機会でしたが、わたしはといえば、生涯の大半を愛する海とともにすごしてきていました。
にもかかわらず、広漠とした海がうなり声をあげている荒々しい夜、わたしたちは、背中がぞくぞくするような興奮をともに味わったのです。
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この本は、やさしく、美しく、心地よいだけの自然だけでなく、こわかったり、心細かったり、苦しかったり、わけがわからなかったり、途方にくれるほど扱いにくい自然との触れ合い方や戯れ方まで書かれている。
私はこの本を読んで、人間を丸ごと愛することと、自然を丸ごと愛することは同じことなのだと思った。人間だって、みんな長所と短所を半分ずつ持っているわけだから。
自然も美しいだけでなく、ある時は、すべてを破壊し、人を殺すほどのエネルギーになることだってあるのだもの。自然というものを、自分、人間、人生という風に置き換えてみると、この本は実に深遠な真理、真実を教えてくれているように思う。
瑞々しい感性を持った子ども時代に、こんな風にして世界というものを認識していくことが、その後の人生にどれほどの影響を与えるだろうか。
そういえば、私も子育てをしながら、赤ちゃんが、自分の体の感覚のすべてを使ってこの世界を知ろうとする好奇心と感性にいつも驚かされ、感動してきた。
新しいことやものに対する溢れんばかりの好奇心。自分のまんまで存在する力。失敗しても何度でも挑戦する力。不思議や神秘にまっすぐに向き合って知ろうとする力。花や虫や木とお話できる感性。世界は面白いって思う感性。
赤ちゃんや幼子の、丸ごとの自分で世界に関わろうとする力や感じる力は、大人よりもパーフェクトだなって思ったことがある。
私は、かつて、病んでいのちの輝きを失ってしまった時、取り戻すべきものは、世界は不思議と神秘に満ち溢れているというあの子ども時代の感性と、自然に対する畏怖、そして、自分のまんまで存在する力、失敗しても挫折しても、何度でも挑戦し続ける無邪気なほどの生きる力なのだと思ったのだ。

< お 知 ら せ >
* 6月23日(土)「リラクゼーション&メディテーションの会」があります。
テーマ:体ゆるめて 心静めて ただ静寂の中にやすらぐ
* 7月7日(土)「1 day ワークショップ」があります。
テーマ:ボデイサイコセラピー&カラーアートセラピーを使って、からだという無意識層からのメッセージを聴く
* 7月27日(金)~29日(日)、2泊3日のワークショプがあります。
日常の表面意識ではとらえられない本来の自分らしさ、パワー、豊かさ、愛、いのちの輝きに触れていくワークショップです。
テーマ:「自分に帰る旅」
~風のように 水のように 流れのままに 自分のままに ~
* 詳しくはホームページの新着情報をご覧下さい。
岡部明美 公式ホームページ : http://anatase.net/

久しぶりにベランダから朝焼けの空を眺めていた。その移りゆく色彩の変化を感動しながら見ていたはずなのに、気がついたら一面の朝になっていてびっくりした。
「あれ、いつの間にすっかり朝になってしまったんだろう。おかしいなあ。ずっとこの空を見ていたはずなのに・・・。」
夜が一瞬にして朝に切り替わったわけではないことは、この目が空の色の変化を楽しんでいたから知っている。でも変わる時というのは、まるで一瞬にして変わったかのように思えてしまうから不思議だ。
春、夏、秋、冬も、ある日を境に突然変わるわけではない。夏の終わりの最後の日なのか、秋の始まりの最初の日なのかは、よくはわからない。すべては重なり合いながら少しずつ離れていく。別々に分かれていたものがいつしか重なりあい、ひとつに溶けていく。いのちあるもの、存在するもの、すべての自然現象とは、そういうもののように思う。
朝の光が照らし出す街や自然の風景の中には、まだ夜の闇の残像があちこちに残っているし、群青色の夜空にも、夕焼け色の余韻が含まれていることを感じる。浅い春の陽の光には、まだ冬の残り香があり、夏の終わりの風にはすでに秋の気配が漂っている。
闇の中に少しずつ光が差し込み、光の中に少しずつ闇が入り込んできて、ゆるやかに風景が変わっていくように、からだとか心とか、人生というものも、ある日突然、「あれっ?」という感じで、自分の変化に気づくのかもしれない。その時は、まるで突然その変化が訪れたかのように感じるのだけれど。
変化というのは、本当は、行きつ戻りつを繰り返しながらも、小さな変化がゆるやかに重なり合い、少しずつ何かが準備されていくものなのだと思う。堂々巡りと思えるような日々の中でさえ、確かに積み重ねっているもの、流れていくもの、進んでゆくものがあるのだろう。
生命の本質は変化そのものなのだから、抵抗せずに変化の小船に乗ってみれば、行くべきところへ、辿り着くべきところへちゃんと運んでくれるように思う。私が行くのではないのだろう。私を導いてくれている大いなる生命の川、人生の川の流れにただ乗るだけ。辿り着く海はみんがひとつにつながっている世界だから・・・。
薄皮を一枚一枚重ねるようにして気づきを深めてゆくことさえできたならば。薄皮を一枚一枚剥ぐようにして、もういらなくなったものを手放してゆくことさえできたらば。ほんのちょっとの勇気を道連れに。
そうやって等身大の自分、自然体の自分が、いつの日か自由自在に歩き始める時が来る。自分を愛する心、人を愛する心を風のようにまといながら。一歩づつ、軽やかに、しなやかに・・・。
< 一歩 >
人にしてみれば何でもないことでも
自分にしてみれば 勇気をふりしぼり
こだわりを捨てなければできないことがたくさんある
それに一歩踏み出せたこと
一歩近づけたこと
そんな小さな小さな歩みの達成感を
自分で認めていったとき
自分の中に本当の自信が育ってゆく
そうやって ひとつずつ自分にOKを出してゆく
少しずつ自分を取り戻してゆく
そして 一歩づつ夢に近づいてゆく
ゆっくり ゆっくり しあわせになってゆく
「もどっておいで私の元気!」より (岡部明美著・善文社)

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