
愛の実力(4)最終回
それにしても、愛というものは、今までは、文学や歌やドラマの世界の専売特許だったのに、こうして愛というものを学問の俎上に取り上げるというのは極めて稀なのではないだろうか。
私は、思風先生の「愛の実力」の講義を聞いて、今までの自分の在り方や生き方を深く振り返らせてもらうと同時に、全く新しい視点で愛というものを見ることができるようになった。
思風先生は言う。
「人は自分と同じ感じ方、考え方、価値観といった共通項が多いことで初めは互いに惹かれあいますが、直にいくつもの“違い”を見つけるようになって、今度は違いを理由に相手を受け入れられなくなったり、嫌になったりして対立が始まります」
「あるいは、相手が自分にないものを持っているがゆえに惹かれてつきあいだしたのに、つきあいが長くなると、その“違う”からこそ魅力だったものが、わかりあえないことの苦しさに変わって、その違う部分が今度は嫌いなところに変わってしまうのです」
「しかし、対立した時、諍いが起きた時というのは、本当は相手の物の見方、考え方、価値観を理解し、友情や愛情を深め、自分を成長させるチャンスなのです。対立している相手というのは実は、自分に足りないものが何なのかを教えてくれている人なのです」
「自分と違うものを持っている人というのは、自分が最も学べる人であり、最も自分を助けてくれる人になる可能性のある人なのです。相手を責めている限りは人は成長できません。本当に自分を成長させてくれる人というのは、決して仲良しこよしの人ではないのです」
「ご自分の身近な人間関係の愛をみて下さい。相手に愛がない、優しくない、愛が足りないと思っている人は、自分が望むような愛し方をしてくれないから、自分がしてほしいような愛、自分が言ってほしいような言葉を言ってくれないから、愛がない、愛が足りない、冷たいと言っているのではないですか」
「人間関係でトラブルが起きた時は、たとえ相手が相当の部分悪かったとしても、自分の中にも足りないもの、配慮に欠けていたものがなかったかを見て、認めることが自分を成長させるのです」
「自分の価値観を押し付けていなかったか。期待や要求が強過ぎなかったか。相手を思いやる気持ちが欠けていなかったか。相手の立場になって考えてみたことがあるか。相手の気に食わない部分ばかりに目をやっていなかったか。相手に対する感謝を忘れていなかったか」
「男女間の愛では、愛されることばかりを求めていなかったか。愛をちゃんと表現しているか。自分勝手な愛情の押し付けをしていなかったか。相手にしがみついて重くなっていなかったか。依存し過ぎていなかったか。相手に完璧さを求めていなかったか。相手に介入し過ぎていなかったか」
「しかし、愛を“よりよい人間関係を創る実力”として磨いていくためには、すべての能力開発と同様、トレーニング、練習が必要です。ですから、人間関係の確執や諍い、離婚や失恋は、愛することの失敗ではなく、愛を学ぶための大切な経験なのです」
「人生には一切の失敗はなく、すべての人が自分にとっての必要な経験をしているだけなのです。人生の学びは、痛みに満ちています。特に、愛についての学びは最大級の痛みでしょう。だから、人間として生きているということは痛いということなのです。しかし、学べば学ぶほど、成長すればするほど、人生には喜びや感動、豊かさや愛が満ち溢れるようになってきます」
「そして、愛は矛盾を内包し、理屈を超えたものであることも理解してください。愛は決して論理的ではありません。人は、愛に関しては、相手から理屈を言われれば言われるほど、いい訳をされればされるほど腹が立ってくるのです。淋しくなるのです。理性は説得の論理。しかし、心は説得なんかされたくないんです。ただ、わかってほしいんです。愛は相手の心を安心させる力なのです」
愛は矛盾を内包し、論理的ではないというのは本当だと思う。自分の人生で深い関わりを持ってしまった人、両親や兄弟、友人や恋人や夫婦関係、子供との関係、仕事仲間との関係を改めて見てみると、本当に私は相手に対して矛盾だらけの気持を持っている。
ものすごく腹を立てているのに、でも大好きだったり、うんざりしているにも関わらず、相手のいいところを一番わかっているのは自分だと思っていたり、嫌いなところ、イヤなところが一杯あるくせに、その倍くらいに好きなところがあったりする。
たとえ愛しているところを箇条書きにしてみても、自分の愛はこの総和以上のものだとも思っている。わかってもらえない淋しさはあっても、愛されていることは十分感じていたりもする。
愛というのは、本当は、矛盾や混乱や葛藤、プラスとマイナス、善と悪という両極を超えた、もっともっと大きな、途方もない力、エネルギーを持っているのだと思う。この宇宙が慈愛と叡智に満ちあふれているように、小宇宙といわれる私たちの本質である愛もまた、無限の可能性を秘めているのだろう。
私たちの生はいつだって、その無限の可能性に開かれおり、その可能性という生命場に創造したいと想うものこそが、生きることの大いなる楽しみなのだと思う。
思風先生はさらに、愛の問題を人類が今置かれている状況にまで言及してこう言う。
「完全性を求める理性は、まさに違いを理由に戦いを始めるわけです。理性は、宗教の違い、神への考え方の違い、イデオロギーの違い、民族の違い、相手の考え方や価値観の違いを理由にどれだけ闘争、戦争を繰り返してきたでしょうか。私たちはいつまでこの戦いの歴史を続ければ気が済むのでしょう」
「人は自らの内に“平和の砦”を気づかない限り、世界の平和など実現できないのです。自分の中に闘いがあり、身近な人間関係でも争ってばかりいる人が、どうやって平和な世界を実現できるでしょうか」
「人類は愛に関しては全く成長していないんです。1000年前の人たちが愛で苦しんでいた同じ悩み方、苦しみ方を今なお現代の人はやっている。しかし、もう愛というものをよりよい人間関係を創る“実力”として、問題を解決する“能力”としてとらえ直さなければ、人類はいつまでたっても戦争をやめられないし、昨今の離婚の激増や幼児の虐待は止めることはできません」
「人類に今最大に欠如しているものが、正しい理性の使い方と愛と感謝の心なのです。感性論哲学は、人生の実践哲学であり、理性革命の哲学でもあるのです。人間は今、理性に使われてしまっているがために生きることが楽しくないのです。人間が理性に支配されるのではなく、感性を生きる原理にして、その実現を、理性を道具として正しく使いこなすことを学ぶことが、私の感性論哲学なのです」
「人間は理性の奴隷になると、自分も人も苦しめてしまいます。こうでなければならない、こうであるべきだと、自分にも人にも要求してしまうからです。理性は、“完全性を求める能力”なので、理性の奴隷になっている人は、自他に対し、完璧さ、100%を求めてしまうのです」
「理性が優位になっている時はわかります。自分は正しく、相手が間違っていると絶え間ない批判を頭の中でやっていますし、反対に自分が悪いのだと自責を繰り返すからです。これが理性の奴隷になっている人の人生の苦しみです」
「感性論哲学は、感性が○で、思考、理性を×と言っているのではありません。人間は、理性・感性・肉体が“有機的”につながりあっている存在であるという人間観をしっかり持ち、人生がイキイキし出すのは、その有機性が発動しているときであることを伝えているのです。理性だけでは青白きインテリ、感性だけではただのわがまま人間、肉体だけでは野獣です」
「しかし、感じている自分、感性の実感こそがまぎれもない私なのですから、人はまず自分の感性の欲求に耳を傾けることが何より大切です。感性からの欲求というのはまさにいのちの欲求なので、その欲求を、理性を正しく使って、できるだけ人の迷惑にならないよう、人の協力を得られるように心遣いをして自己実現の人生を生き始めると生きることが本当に歓びに変わっていきます」
「人間が成長するというのは、感じ方が成長していくということなのです。感じ方が成長し、“愛の実力”が身につき、正しい理性の使い方を学んでいけば、人生に成功と幸福がやってきます。愛がほしい、ほしいと、人からの愛を求めてばかりでは、人は幸せにはなれません。幸せの源泉を外の何か、外の誰かに依存している限り、人は永遠に不安で、失望と絶望を繰り返してしまうのです」
「自分が、自分の内側に“平和の砦”を築き、“愛に溢れる人”になり、自分が本当にやりたいことをやって誰かの役に立ち、社会に貢献するようになっていくと人は本当に幸せになっていくのです。そういう人の人生の成功は、人を幸せにするのです。よりよい社会を創るのです。そういう生き方をしている人の人生の歩みは、この時代を一歩前に進ませるのです」
それにしても、思風先生は、なぜこのような“愛の実力”の哲学を生み出されたのだろう。ある日の講義で先生はその背景を話してくださった。それは、思風先生ご自身が長年夫婦関係で本当に苦しんできたからなのだという。
そのため、どうやったら人と人はいい関係でいられるのだろう、こじれて悪化してしまった人間関係をどうやったら修復できるのだろうと考え続けてこられたのだという。
「僕は、外に出れば先生と呼ばれるような職業ですが、家に帰れば妻からはもうボロクソ、ケチョンケチョン(笑)。いつも針のむしろ。家にいると僕は一瞬たりとも気が抜けません。仕事で外に出るとほっとするんです(笑)。妻は、僕の痛いところをグサグサ突いてくる人で、これだけは言われたくないというようなナイフのような言葉で、僕はどれほど傷ついてきたことか(笑)」
「でも、ある時から僕は、自分が成長しなければ、自分たちの関係はもうどうにもならないところまできてしまったと思ったのです。相手の愛のない言葉や行為は、愛を求める叫びなのだということに気づいてからは、自分が人間として、男として大きくなる以外ないと思い、この妻は自分が一生守り抜くという覚悟をしました。僕は決断したのです。この妻を絶対に捨てないと。その時から、妻の態度が変わり始めたのです。僕の仕事を認めてくれるようになり、僕に優しさをくれるようになったんです」
「僕は妻との関係で本当に行き詰まってしまった時に、宇宙に向かってこう叫びました。“俺をこれ以上大きくしよってかあ~”(笑)。僕がこうして“愛の実力”の講義で話している内容は、すべて自分自身が人生で実践してきてつかんだものなのです。妻は、僕に最も厳しい人でした。しかし、最も僕を成長させてくれたのも妻なんです。だから今は妻に心から感謝しています。もちろん、今でもつらい時はいっぱいあるんですけどね(笑)」
私は、思風先生のこういう話を聴くと正直いってほっとする。もし講義の内容だけだとしたら、あまりにりっぱ過ぎて、私などとても自分が至れるような境地じゃないと尻込みをしてしまうだろうから。体験からのメッセージというのはやはり人の心に響いてくる。
思風先生の愛の実力の講義は、現実の自分の人間関係に当てはめて考えると本当に学ぶことが多かったし、自分の在り方、生き方をおおいに振り返らせてもらえた。
思風先生は哲学者だから、魂とか霊性とか神という言葉はほとんど使われない。でも話を聞いていると、私の中ではつながるのだ。思風先生が言う「宇宙の究極的実在は純粋感性」というのは、これまで宗教や形而上学で語られてきた、神、純粋意識、空、源、大いなる存在、グレート・スピリットなどと同じ意味であると。
その源につながる我々の感性と思風先生が言うとき、それは、魂の波動とか霊性、神性、仏性と呼ばれるものであることを私は理解する。最近は、霊性の向上とか、魂を磨くといった表現がよくされるが、それがどういうことなのかもうひとつピンと来ないという人でも、思風先生が言う、不完全な人間がどうやって人間性を成長させていけるか、愛を成長させていけるかといった話だったらわかりやすいのではないだろうか。
人間は肉体を超えた存在であることを理解し、自分の人間性や愛を成長させていけば、即ちそれは霊性の向上につながるのだと私は思う。確かに、「人間とは何か」ということを見極めていけば、自ずとある時点からは物理的次元を超えざるをえなくなる。
私たちが完璧に自己同一化している自分の肉体・思考や感情は、生まれては消えを繰り返している雲のようなものであり、本質は雲の向こうに広がる広大無辺の青空(意識)であるということがだんだんわかってくる。そして、人間は、青空(大我・真我)と雲(小我)の同時存在であることも。
しかし、精神世界でよく言われる「我は神なり(真我・神我)」「人間は本来は、愛と光の完璧な存在」という言葉は、昨今の表層的なスピリチュアルブームに乗って精神世界に興味を持った人たちにとっては,誤解と混乱と危険性が伴うのではないかという危惧が私にはある。
人間の本質がたとえ「神なり」でも、人間は「雷」(心という地雷)がいつなんどき爆発すかもしれない不完全な存在なのだから。人間が体をもってこの星にはるばるやってきたのは、いろいろなことを味わい、体験するためなのだし、そのいろいろというのは喜怒哀楽(心)のすべてなのだから。
ただ、自己の探求を真摯に深めていけば、肉体や心との同化からだんだん離れていくことができ、自由・自在のスペースが増えていくのは確かだ。そして、その全きスペースこそが、これまで、神・愛・空・生命と呼ばれてきたものと同じであったことがわかる。
私は最近、人はみな自分の人生の旅、愛の旅路で、誰と出会い、喜びも悲しみも苦しみも含めて、それぞれの人と何を経験し、何を味わい、何を学び、何を創造し、何を実現するかを生まれる前に決めてきたのではないだろうかという気がしている。
愛は見事にドラマを作り出す。人間関係はドラマそのものだ。でも、いい人しか出てこないドラマなんて面白くもなんともないわけで。渡る世間に鬼がいればこそのあれだけの視聴率。水戸黄門様が行くところに悪代官がいて、黄門様がやっつけてくれるからこその、あの「ヤッタネ!」感。(私は若かりし頃“水戸黄門”を作っているドラマの制作会社で経理の仕事をしていたのだ。全然才能のない経理だったが(笑))
自分の人生をドラマとして見てみると、私の人生のキャスティングはけっこう面白い。出来過ぎって感じだ。最近は、スクリーンの上に上映されている自分の人生ドラマを観客席から見ることが趣味のひとつになっている。
私の人生ドラマは、少なくとも「退屈だ!金返せ!」というような映画ではない。しかし、主人公は、けっこうあっちにぶつかり、こっちにぶつかりして痛い思いをしている。それなのになかなか懲りない。そして、この主人公は、どんなに谷底に転げ落ちても、ちゃんと立ち上がってくる。なかなかの根性である。続きを楽しみとしよう。
* このコラムで紹介した芳村思風先生の[愛の実力]の講義のダイジェスト版「人間関係10の原則」があります。編集:山本英夫 A6版 840円。/問合せ・ご注文:日本SG研究所
office@something-great.com
* 感性論哲学については、『人間観の革正』(致知出版)がわかりやすいと思います。こちらはアマゾン、書店注文できます。
< お 知 ら せ >
* 8月25日(土)、心身のリラクゼ-ション&メディテーションの会「シャンテイ」の第二回目があります。(東京・自由が丘)
* 9月7日(金)~9日、長野県、女神山で2泊3日のワークショップ「Be―Work」があります。
* 9月15日(土)、「思風塾全国大会 in 名古屋」のシンポジウムがあります。
パネラー:芳村思風先生(感性論哲学創始者)
村上和雄先生(筑波大学名誉教授)
行徳哲男先生(教育者)
土橋重隆先生(医師)
コーディネーター:岡部明美
テーマ「命をひらく ~この命何に使うか~」
* 9月22日(土)、「1 day ワークショップ」があります。(東京・自由が丘)
* 詳しくはホームページをご覧ください。
岡部明美の公式ホームページ:http://anatase.net/
愛の実力(3)
人生にはいろいろな苦しみがあるけれど、人の苦しみの中でも最大のものは執着なのではないだろうか。何に執着しているかは人それぞれに違うのだろうけれど。
誰かへの執着。お金や物への執着。過去の成功や栄光への執着。肩書きや権威や名誉への執着。自分の考えや価値観への執着。目標・結果への執着。若さや肉体や快楽への執着。過去の思い出への執着。心の痛みや傷への執着。理想的自己像への執着。関係性への執着。場への執着。生への執着。
でも人は、自分が執着している最中には、自分の執着には気づきにくいのかも知れない。のっぴきならない状況が起きてきたり、どうにもこうにも苦しくなったり、重くなったりした時に、初めて自分がそれに執着していたということに気づくのだろう。
おそらくこの執着こそが人として生きている限り、何度もぶつかる壁であり、最大のレッスンなのだと思う。自分が苦しくて仕方がない時は、自分が何に執着しているのかを見ることが自由への道の第一歩なのだろう。
大切に思うこと、愛すること、信じること、一途に思うこと、一生懸命になることは、知らず知らずの内に執着を生み出す元になる。愛と執着は紙一重だからこそ、執着に気づいても手放すことがとても難しいのだ。人が心の地獄を味わうのは、この執着が断ち切れない時なのだろう。
のたうち回るほどの痛みを通し、自分が1回死ぬような経験をしなければ、この執着というのは手放せないのかも知れない。比叡山の千日回峰に匹敵するような心の修行を人は誰も、人生の中で一度や二度は体験するのではないだろうか。
人生の目的のひとつは愛を学ぶことというのはよく言われることだけれど、私は、個人セッションやワークショップの仕事をしながら、愛を学ぶ前に、愛に満たされる体験の方が先だという人にたくさん出会ってきた。
それはどういう人たちかというと、幼い頃に本当は得られるはずだった親からの愛、保護、世話を体験できなかったために、愛を求めてやまないという真実の愛への渇きが自分を苦しめているという人たちだ。
食べ物や洋服やお小遣いを与えてもらい、きれいな家もあり、大学にも行かせてもらい、人からは、「何不自由なく育ったではないか、贅沢だ、感謝が足りないのだ」と言われても、実際にはずっとひとりぽっちだったという心の孤児とも言える人や、子供なのに、親の役割をやってきて、子供時代にちゃんと子供をやれなかった人というのが本当に少なくないのだ。
親からの充分な愛も、適切な保護も世話も受けてこなかったにもかかわらず、親よりもはるかに大きな愛を持ち、親を愛し、助け続けてきたというけなげな子供時代を過ごしてきた人の心の奥底には、激しい怒りと深い悲しみと底冷えのするような孤独感が澱のように沈殿していた。
もしかしたら、親が子供を愛する気持ちよりも、子供が親を愛する気持ちの方が本当は大きいのではないかと思うほどであった。親が子供を捨てることはあっても、子供が親を捨てることは本当に稀なことで、憎んだり、恨んだりするほどに自分の親を心の底では愛していたというケースが本当に多かった。
子供というのは、ここまでされても親を心の底では愛しているのか、それでもなおこの人は親の愛がほしくてたまらなかったんだという真実を見せられて目頭が熱くなったことが何度もある。
その悲しいほどの愛の渇きは満たされる必要があった。たとえ代理の体験であったとしても、自分を大切にしてもらう、自分に真剣に向き合ってもらう、今目の前にいる自分だけに関心を寄せてもらい、愛をもらうという体験をすることによって、その愛の渇きの幾ばくかは満たされていく。
満たされて初めて自分の中に本当はあった大きな愛に目覚めたという人もたくさんいた。自分のほしかったような愛ではなかったけれど、親なりに自分を愛してくれていたのだということに初めて気づかれた方もいらした。
人は、心が満たされるという体験によって、自然に次に進むことができるようになる。たとえ本当の親でないにしろ、人から大切にされるってこういうことなんだ、人から愛をもらうというのはこういうことだったんだという体験をすると、今まで感じることができなかったことを感じられるようになったり、受け取れなかったものが受け取れるようになったりして、意識は少しづつ、でも確実に変容していく。
思風先生は言う。
「人はみな愛に傷ついて生きてきているんです。親もまた自分と同じように不完全な人間だからです。ましてや子育てをしている20代、30代は、人間としても未熟な部分がたくさんあります。しかし、子供というのはみな親に対しては神さまのような無条件の愛を求めてしまいます。それゆえ、人はみな心のどこかでは愛の渇きや、なんらかの心の傷が残っているのです」
「中には本当に心に深い傷を負った人がいます。そういう人はまずその傷を癒すことが大切です。深い傷を負ったままの人には、私の愛の実力の講義は頭ではわかるんだけど・・とかえってつらくなるでしょう。しかし、癒しのプロセスをちゃんと経てきた人や、自分の愛をさらに成長させよう、いい人間関係を創っていける自分になりたいと思っている人には、私の“愛の実力”の講義は、必ずや何かしら得るものがあるのではないかと思っています」
「他者という存在はみな一たとえ親であろうが、夫、妻、恋人、友人であろうが、誰も自分が求めているような“完璧な愛し方”などしてくれないのだということを理解をすることがまず大切です。当たり前なんですね、違う人間なのですから。だから人間は心の奥底ではみんな淋しいんです」
「人間は不完全な存在であるゆえ、人を傷つけてしまうこともある、嘘をついてしまうこともある、失敗することもある、愚かなことをしてしまうこともあります。それが人間なんです。そして、そこから学んで成長できるのもまた人間なんです」
「このような人間理解は、謙虚な理性から生まれるものなのです。謙虚な理性は、人間の不完全性を許します。人間は心の底ではみんな寂しさを抱えていることを理解しています。人間が深いところで恐れているもの、願っているものは年齢や性別や役割や国籍を超えて同じなのだということを理解しています」
「人はみな一親子、夫婦、恋人、友人、仕事仲間といった、人生で深い関わりを持った人たちとの出会いを通して愛を学んでいるのです。何を学んでいるかと言えば、愛は、相手を思いやること。相手のために努力できること。相手の立場にたって考えられること。相手を自由にすること。肯定すること。尊重すること。感謝すること。大切にすることなのだという、愛の理解と実践です」
「どんな人でもみな、人から愛されたい、受け入れてほしい、受け止めてほしい、認めてほしい、ほめられたい、わかってほしいと思っているんです。自分がそうであるように、相手もまた同じものを求めているのだという人間理解が本当に腹の底に落ちれば、人の見方が変わります。新しい態度を選ぶことができるようになります」
「愛は、成長していくものなのです。愛が成長すればするほど、いわゆる無償の愛、真実の愛という、見返りを求めない愛を与えられるようになっていきます。真実の愛というのは、信じて、信じて、信じ抜くこと。そして、相手をどこまでも、どこまでも守り抜くこと。愛し抜くことなんです。今の自分はまだそんな段階にいないと思う人でも、愛は自分の努力しだいで成長していくのだということだけは覚えておいて下さい」
「人というのは不思議なもので、相手が自分を愛してくれて、自分のいいところを心から認めて、ほめてくれると、その部分を一層自分に見せてくれるようになります。多くの人から愛されている人というのは、それだけその人が多くの人を受け入れて、自分の愛を惜しみなく与えているからなんです」
「自分の悩みや問題は、自分のこととして解決しようと思うと、堂々巡りになって出口が見えなくなります。自分が今抱えている悩みや問題を、他人事として観てみるといいのです。人は、自分のことより、人のことの方があんがいよく見えるので、それを使うのです」
「もし、今自分が深刻に悩んでいる問題を、自分の大切な友人から相談されたとしたら、自分は一体どうしたらいいよと答えてあげるだろうか、という発想を持つのです。人から相談を持ちかけられると、一生懸命知恵を絞って答えてあげようとするでしょう?」
「そうやって自分の問題を、他人事として観てみると、全く違った角度から答えが見つかることがあります。自分自身が、自分の悩みや問題と同化している間は、堂々巡りを繰り返すだけですから、この方法は自分の問題に対して新しい視点をもたらします」
こうして、思風先生の講義を聞いていると、みんな頭ではわかったつもりになる。学んだのだからできると思ってしまう。でもいざ、自分がある人との人間関係で傷ついたり、腹が立ったり、思い通りに相手が応えてくれなかったりすると、これらの愛の実力を実践することがいかに難しいことか。
結局、今までと同じように、自分を正当化したり、相手だけを責めたり、閉じこもったり、被害者意識の塊になったりと、相も変らぬ反応パターンを繰り返してしまうのではないだろうか。
人は今まさに自分が関わりをもっている人間関係という“現実の中”で日々、愛の実力が毎瞬のように試されているのだ。だから何度でも何度でも試みる、何度も何度も挑戦し、実践してみる以外、自分の愛の実力を高める方法はないのだろう。
「愛は、違うもの、反対のものを根源において結合する働きであり、つなげる力、つながる力なのです。男と女がまさにそうです。違うものが出会って、つながって、いのちが生まれる。自分中心、自分優先では、子育てはできません」
「親になるということは、人間としての最大の愛、無償の愛を学び、自分を成長させるくれる機会を子供に与えてもらったということなのです。最大の愛を学んでいるのですから、完璧でなくても、失敗してもいいんです。すべてのその体験が自分の愛を大きくしてくれる経験なのです」
「男女の関係や親子の関係だけが愛の関係ではなく、人間関係の問題というのはすべて愛の問題なのです。人間関係は、責め合ったら地獄。許しあったら天国です。本当の愛というのは、自分とは考え方、感じ方、価値観、性格、行動パターン、生き方が違う“他者と共に生きる力”であり、不完全な人間である、互いの欠点を許しあい、補い合い、互いの長所と関わり、長所を活かし合う力なのです」
思風先生は、手ごわい相手、自分の思い通りにならない相手ほど自分の人間としての器を大きくしてくれる人であり、人間関係の修羅場ほど悟りのチャンスだと言う。もちろん、人間は不完全だから、どうしても好きになれない相手、本当に相性の悪い相手はいるし、別離の体験がよりその人を成長させる場合もあるだろう。
しかし、この人とはこのままでは終りたくない、どうにか関係を修復したい、もっといい関係になりたい、この人との関係は一生大切にしていきたいと思う相手である場合は、耐える時間をいとわず、自分の恐れや、心の痛みに囚われず、本気で自分の愛の実力を成長させれば、関係性がさらなる段階へと進化していく可能性が大いにありうるのだと思風先生は言う。
思風先生が言うように、人はどれだけ見返りを求めて愛を与えていることだろうか。自分の努力に相手も同じように報いてくれるだろうという希望。自分がこんなに愛しているのだから同じ量だけ愛を返してほしいという要求。自分がこれだけやってあげているのだから感謝するのが当たり前という見返りを求める心。これは愛でもなんでもない。取引なのだ。真実の愛というのは“与えっぱなし”なのだと思風先生は言うが本当にその通りなのだと思う。
確かに、自分では愛を与えているつもりなのに、愛が返ってこない時というのは、自分勝手な愛の押し付けをしていたり、内心に恐れがあったり、見返りを求めていることが多い。もちろん、相手が愛を受け取れないほど、愛に傷つき、心を完全に閉ざしている場合もあるから一概には言えないが、普通の人間関係の場合は、期待や要求を持たずに、ただ与えるだけの愛、いや与えているなどという意識すらなく、愛が自分の中から自然に溢れている時は、愛は不思議なことに、こだまのように返ってくる。
< お 知 ら せ >
* 8月25日(土)、心身のリラクゼ-ション&メディテーションの会「シャンテイ」の第二回目があります。(東京・自由が丘)
* 9月7日(金)~9日、長野県、女神山で2泊3日のワークショップ「Be―Work」があります。
* 9月15日(土)、「思風塾全国大会 in 名古屋」のシンポジウムがあります。
パネラー:芳村思風先生(感性論哲学創始者)
村上和雄先生(筑波大学名誉教授)
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土橋重隆先生(医師)
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テーマ「命をひらく ~この命何に使うか~」
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愛の実力(2)
こんなタイトルにすると、まるで私の暴露コラムか?と勘違いされそうですが、残念ながらちょっと違います。先日、テレビを見ていてびっくりしたのです。それは、自分を捨てた飼い主の男を恨むネコの実話でした。アニマルセラピストだかヒーラーだかという外人の女性が登場して、そのネコと飼い主の和解を試みるのです。
その飼い主は高校生の男の子です。家族でそのネコを飼っているのですが、その男の子が最もそのネコをかわいがっていました。そのネコも家族の誰よりもその男の子になついていました。しかし、その男の子は、高校が全寮制なので、高校入学とともに家を出ていったのです。
その男の子は、年に数回しか実家に帰ってこなくなりました。すると、あんなに自分になついていたネコが、自分が帰ると猛烈に攻撃してくるようになったのです。その男の子の手足はネコのひっかき傷でそれはもうひどい状態でした。
そこで、動物と話ができるというアニマルヒーラーの登場です。
「このネコはあなたを恨んでいます。自分に何も言わず突然家を出ていったあなたに対して憎しみの感情でいっぱいです。このネコは、あなたに捨てられたと思っているのです。あなたを絶対許せないと思っています。このネコはあなたを本当に愛していました。だから、あなたに捨てられたことが悲しくて悲しくて仕方がなかったのです。これから毎日、このネコにごめんね、大好きだよと話しかけてください」と、そのアニマルヒーラーの女性は言います。
私は、ネコは好きだけれども、一度も飼ったことがないのでネコの気持ちはよくわかりません。犬とインコの気持ちはけっこうわかります。でもこれを見て、ネコってまるで人間の女性みたいだなって思ったのです。
その男の子は、言われた通り、毎日、毎日、そのネコに、「ごめんね」「大好きだよ」といい続けるのです。最初のうちは、その男の子が近づくだけでネコはうなり声をあげて毛を逆立てています。
しかし、何度も何度も繰り返すうちにネコの目がだんだん、怒りの目から、悲しみの目、寂しさの目、切ない目にかわっていくのがありありとわかったのです。そうやってその男の子とネコはだんだん和解していくのです。
私は、そのネコの目の変化を見ているだけでなんだか泣けちゃいました。そのネコが、どんなにその男の子を愛していたのか、どんなにその男の子の愛がほしかったのかが画面からひしひしと伝わってきたからです。
私は、その時、昔読んだ遠藤周作さんの小説「私が捨てた女」の中に出てくる言葉、「愛は、決して捨てないこと」という言葉を思い出し、さらに胸が熱くなるのでした。
今回の芳村思風先生の「愛の実力 2」の話は、このネコと青年のお話にも通じるものです。
思風先生は言います。
「愛とは、“どうしたらいいんだろう”と、より良い方法や方向を探しながら悩む心、考える心なのです。その揺れ動く心の中にこそ愛があるのです。どうしたらいいんだろうと問うのが感性であり、問い続けることもまた愛であり、悩みながらも懸命に努力している姿は、まぎれもなく愛の姿なのです。愛がなければ悩みもしないのです。愛とは、相手のために努力できることなのです」
「相手のネガティブな反応というのは、自分の心の態度をありのままに映し出している鏡なのです。自分の無神経さ、思いやりのなさ、押し付けがましさ、要求がましさ、責めているもの、恐れているもの、囚われているものの答が相手の反応なのです」
「自分の中に、相手をないがしろにしている態度、尊重していない態度、批判する気持ち、裁く気持ち、しがみつく気持ち、相手を変えようという気持ちがある間は、相手は態度を変えません。いやむしろ、自分が最も見たくないもの、望まないものを出してきます」
「しかし、自分の在り方、態度、相手を見る目つきが変わった瞬間に、相手の態度が突然変わることがあります。本当に一瞬にして、こじれて悪化した人間関係に奇跡が起きることがあるのです。それは、相手を見る自分の目の中に、心からの謝罪と相手を愛する気持ちが伝わった時なのです。口でいくら、ごめんね、愛してると言っても、本物でないものは伝わりません。人は、自分を見る相手の眼差しの中に愛を感じるものなのです」
私たちは、言葉を使って他者とコミュニケーションをとっているわけですが、実は、人は、相手がどんな人が、自分に対してどう思っているのか、相手の心の中で今何が起きているのかは、言葉ではなく、非言語(ノンバーバル)で感じ取っているのです。
言葉が伝わっているのは7%にしか過ぎず、93%は、相手の表情、目つき、声のトーン、しゃべり方、呼吸、姿勢、仕草、態度などから感じとっているという調査結果もあります。
私の実感でもたしかにそうだなと思います。自分に対して、好意をもっているのか、苦手意識をもっているのか、批判しているのか、受け止めてくれているのか、尊重してくれているのか、適当にあしらわれているのか、近ずこうとしてくれているのか、距離をとろうとしているのかは、相手の非言語、ノンバーバルな部分にたしかに感じているのです。
セラピストやカウンセラーの資質と能力でとても大切なのが、傾聴力や共感能力だけでなく、クライアントさんが話す言葉以外の、このノンバーバルなサインを感じ取れる感受性なのです。ノンバーバルなサインは、言葉よりも雄弁に今この瞬間の事実や真実をどれだけ語っていることでしょう。
そして、クライアントさんの中でどんなネガティブな感情や思いが起きていようとも、いのちというのは、絶え間なくバランスを取る方向へ、成長する方向へ、愛と調和の方向へ行こうとしているのだという“いのちのプロセス”そのものを信頼することなのです。
前述したネコが、男の子に対して心を開いていったのは、「ごめんね」「大好きだよ」という言葉が本物だったからであり、男の子の自分に対する向き合い方に誠実さと本物の愛を感じたからでしょう。あのネコだって本当は仲直りしたかったのでしょうし、ネコだって、ちゃんと人間のノンバーバルのものを感じとっているのでしょう。
「人間が、人間であるゆえんは、愛のために努力できること、いやむしろ、愛はたえまない努力であると言ってもいいでしょう。愛を感情や情熱、ロマンチックな気分としてとらえている人には、愛が努力だなんて説教くさく感じるかもしれませんが、相手のために努力できなくなったら、忍耐できなくなったら、愛は終わりなのです」
愛がなければ悩みもしない、愛には忍耐が必要、相手のために努力している姿はまぎれもない愛の姿ー本当にそうだなと思う。不完全な人間が他者を愛するというのは、自分も、相手も、不完全な存在であるということを心底受け入れ、そのままの自分や他者を丸ごと愛するということなのだろう。
しかし、これは相手の嫌いなところ、イヤなところも全部好きにならなければいけないということではないのです。嫌いなところがあったまま、相手を受け入れることはできます。なによりも、自分を愛してくれている人だって、必ずしも自分のすべてが好きなわけではなく、嫌いなところ、いやだなと思うところも含めて丸ごとの自分を受け止めて、関わってくれているのですから。
いわゆる精神世界でよく言われる「無条件の愛」という言葉に縛られてしまうと、嫌いなところまで好きにならなければいけないとか、いやだと感じてはいけないとか、許せない自分はだめだとか、無条件に人を愛せない自分はまだまだレベルが低いと思って自分を責めてしまう傾向があるようです。
そういう人たちにとっては、思風先生が言う、「揺れ動く心、悩み続ける心、悔やむ心、忍耐、努力し続ける心も愛の姿。愛がなかったら悩みもしないのだから」という言葉は救われるのではないだろうか。多くの人は、揺れ動き続ける心は迷いだと思っているだろうから・・・。
(次回に続く)
< お 知 ら せ >
* 8月4日(土)に京都で講演会があります。(満席・キャンセル待ち)
* 8月25日(土)、心身のリラクゼ-ション&メディテーションの会「シャンテイ」の第二回目があります。(東京・自由が丘)
* 9月7日(金)~9日、長野県、女神山で2泊3日のワークショップ「Be―Work」があります。
* 9月15日(土)、「思風塾全国大会 in 名古屋」のシンポジウムがあります。
パネラー:芳村思風先生(感性論哲学創始者)
村上和雄先生(筑波大学名誉教授)
行徳哲男先生(教育者)
土橋重隆先生(医師)
コーディネーター:岡部明美
テーマ「命をひらく ~この命何に使うか~」
* 9月22日(土)、「1 day ワークショップ」があります。(東京・自由が丘)
* 詳しくはホームページをご覧ください。
岡部明美の公式ホームページ:http://anatase.net/
<愛の実力(1)>
人生の苦悩の大半は、人間関係の悩みであり、それはすべて愛についての学びなのだなあとつくづく思う。人はみな愛に傷ついた体験があるだろうし、自分も誰かを傷つけてしまったという体験があるだろう。そのプロセスの中で感じた怒りや後悔、無力感や罪悪感。なんとも言えないあの苦い思い・・・。
もし、心に形があるとしたら、みんな傷だらけの天使だろう。いまだに生傷から血が噴出している人だっているかもしれない。死んで別れるにしろ、生きて別れるにしろ、愛する人を失ったことなど一度もないなんていう人はおそらくいないだろうし。だから、どんな人の心の中にも、愛を喪失することの恐れ、裏切られることや拒絶されることへの恐れがあるだと思う。
人はなぜこんなにも人間関係に悩むのかと言えば、人が本当に深いところで求めているのは、ただただ愛すること、愛されることの歓びだからなのだろう。どんなに仕事で成功しようが、巨万の富を得ようが、もしその人が誰からも愛されず、孤独な人生であったなら、その成功は果たして幸福なものであろうか。人生の成功と幸せは、愛が礎になっているのだと思う。しかし、愛は本当に難しく、人生でどれだけのレッスンを与えられるか計り知れない。
この人を嫌いになれたら、憎むことができたら、どんなに楽だろう・・そんな風に思ったことがある人もたくさんいるだろう。決断できない葛藤の中で、悩み続け、もがき続け、愛するゆえに苦しみ続けた一そんな体験を人はみな人生で何度か味わったことがあるのではないだろうか。簡単な別れなんかないから。
今回のコラムは、いわゆる精神世界で言う「無条件の愛と許し」という視点やメッセージとは、一線を画した愛のお話だ。私のメインの仕事の一つは、感性論哲学の創始者の芳村思風先生と一緒にやっている研修なのだけれど、思風先生は、愛を、理性能力に勝る問題解決能力として育てること、愛をよりよい人間関係を創る実力、こじれて悪化した人間関係を修復していく実力として成長させることの大切さを説く。
思風先生の「愛の実力」の講義は、人間関係で悩んだことがある人なら、いやむしろ、人生の苦悩の殆どは人間関係によるものだから、どんな人にも自分のこととして考えさせられるものがあるのではないかと思うので、今回から4回に分けて、このコラムで書こうと思う。
思風先生はこう言う。
「男女間の愛というのは、これまでずっと感情や情熱としてとらえられてきました。大好きだとか、惚れたとか、ときめき、甘さ、幸福感、そういった感覚や感情、あるいは激しい情熱、情動、情念、性愛と同一視されてきました」
「しかし、そういった感情や欲求や興奮や陶酔などは、時間がたてばいつかは冷めてしまうものです。恋は基本的に自己中心的な感情であり欲望なのです。それゆえ、恋愛という愛は、求める愛、奪う愛、欲しがる愛なので、人は恋愛をすると天国と地獄を両方体験するわけです」
本当に恋愛ほど、この世が“二極性の世界”であることを味あわてくれるものは他にないだろうと思う。至福と絶望、魅惑と幻滅、情熱と倦怠、高揚と落胆、自由と束縛、快楽と苦痛、愛と恐れ、創造と破滅・・・。
自分でも抑えきれない恋愛感情という激流に押し流されて、人はどれだけのドラマを人生で作り、修羅の世界を体験することだろうか。およそ恋愛ほど、この世の諸行無常を感じさせるものはない。恋愛に賞味期限があることは、誰しもが体験的にわかっているのではないだろうか。
しかし、それゆえ、人間を最も成長させ、普遍の愛に目覚めさせ、神聖なるものへと導いてくれるのも恋愛なのかも知れない。人は恋愛をしている時に、聖なるものに触れる瞬間、つまり、すべてが溶け合ってひとつになる体験を束の間であっても体験するからこそ魔法にかかってしまうのだろう。
恋愛というのは、自分の中と相手の中の最良なるものと最悪なるものとを同時に味わう体験だ。愛憎という大きな二極性を持ったエネルギーに触れるという意味では恋愛ほどそれを痛感するものはない。
だからこそ人は、人生で何度も苦い体験をすることによって、大いなる存在の普遍の愛に目覚めていくのかも知れない。それにしても、恋と愛とは大方はつながりあい重複し、はっきり二分できるものではないのだろうけれど、確かに何かがはっきり違うのだということは感じる。思風先生はこう言う。
「多くの人は結婚して数年、いや数ヶ月ですでに“選ぶ相手を間違えた”と後悔するでしょう?(笑)。生活を共にし始めたらすぐ正気に戻りますからね。アバタはもうエクボには見えなくなりますから」
「そして気づくわけです。結婚したら孤独でなくなる、淋しさが癒される、幸せになれるなんて、とんでも8分、歩いて10分、回り道して30分だったと(笑)。夫婦関係はまさに人生最大の“行”なんです。これほど人を成長させる人間修行はないんです。今、幸せだと感じている人でも、何十年一緒に暮らしたらいろいろなことが起きてきます」
「愛というのは、“他者中心の心情”で、“自己中心的な感情”として愛をとらえていては真実を見失ってしまいます。愛を感情や情熱だと思っているために、夫婦や恋人たちは長いこと一緒にいると、愛が冷めた、もう愛がないから別れましょうという話になってくる」
「あるいは価値観、性格が合わないという理由で簡単に別れる。しかし、愛とは何かということを本当に理解しないと、離婚して相手を変えてみても、恋人を変えても、人間というのは、親密な関係になれば、その人との関係でなければ出てこない問題というものが必ず出てくるものなのです」
「感性論哲学が言う、感性の働きは、調和作用・合理作用・統一作用なのですが、これは人が深いところで求めている真・善・美への欲求と同じものなのです。理性は分離を生み出しますが、感性は、できることなら仲良くなっていきたい、ひとつになりたいという深い生命の欲求なのです。感性は、対立や不調和を不快と感じるのです」
「この宇宙がプラスとマイナスの両エネルギーのバランスで成り立っているように、すべてのものは陰陽から成り立っています。ですから人間にも長所と短所が半分ずつあるわけです。これはどんなに偉い人、りっぱな人、悟った人と呼ばれるような人でも同じです。人と人は、身近になり、つきあいが長く深くなれば、いやなところがいっぱい見えてきます。失望も不満も出てきます。当たり前なのです。同じ人間なのですから」
「人間関係に、愛に苦しんでいる時は、最も自分の在り方を振り返る時なのです。相手に完璧な愛を要求していなかったか。相手を自分の思い通りに変えようとしていなかったか。人間は、不完全で矛盾に満ちた存在であるという“人間観”が本当に腹の底まで落ちているか」
「“結婚は、恋の墓場、愛の始まり”。恋の病は、結婚すれば完治します(笑)。恋は生物学的には“種族保存”のための生殖欲求に導かれた欲望ですから正しい判断能力が働かないのです。相手の本当の姿を知ったら誰も結婚したいなんて思わないですからねえ(笑)。恋をするとみんな魔法にかかったように盲目になりアバタもエクボ状態になりますが、それは、盲目にして冷静な判断力を奪って結婚させ子供を産ませるための、大いなる生命の戦略なのです。自己保存本能という時の“自己”とは、実はこの自分ではなく、宇宙の根源的実在、大いなる生命、永遠の生命であるところの自己のことなのです」
そう言えばフランスのことわざに、「結婚は、判断力の欠如、離婚は、忍耐力の欠如、再婚は、記憶力の欠如」というのを聞いて笑ったことがあるが、思風先生からすれば、結婚が判断力の欠如であるのは、大いなる生命の戦略なのかと妙に納得できるのである。
「相手の欠点というのは自分が気にくわないところです。自分の気に入らないとこ、むかつくとこ、いやだなと思うところを半分もっているのが“他者という存在”なのです。でも相手からしてみたら、自分も嫌がられるもの、失望されるものを半分もっている存在なのです」
「しかし人は、結構自分のことは棚にあげて簡単に人を批判するものです。自分がどれだけ人に対してすぐ批判的になるか、評価・判断をしているかを観察してみたことがありますか? もちろん正当な怒りというのはありますが、それ以上に自己中心的な思いから人を簡単に批判する言葉を使っていないでしょうか」
「理性は、自分と違った考え方、価値観を許しがたく感じるのです。しかし、理性に使われるのではなく、自分が理性を正しく使うのなら、対立している相手というのは、自分が最も学ぶべきものを持っている相手であり、自分に足りないものは何なのかを教えてくれている人なのです。違う価値観を持っている人から学んで自分を成長させることも愛の実力なのです」
「自分を善人だと思っている人ほど、自分は正しいと思っていますから、簡単に人を批判し、評価・判断し、裁きます。自分の善人根性が相手を悪人にしてしあうことだってあるのです。人をけなす言葉というのは自らの魂を汚します。人は、互いに半分ある欠点を許しあう、認め合う、補い合うことができなければ、他人と一緒に仕事をしたり、他人と一緒に生活していくことはできないのです」
ほんとにそうだ。人と人は、距離が近くなり、常に一緒にいる関係になるとごまかしがきかなくなり、相手の欠点もアラも見えてくる。もちろん、相手からも自分のそういう面を見られているのだ。
親密な関係になればなるほど、人と人は、互いのエゴがぶつかりあって、たいてい何らかのトラブル、問題が起きてくる。思風先生が言うように、愛を感情ではなく“能力”として、より良い人間関係を創る“実力”として成長させなければ、人は一生、人間関係で悩み続けるというのはその通りだと思う。
「独占欲や所有欲、執着や嫉妬を愛だと勘違いしている人もいます。もちろん人間は不完全ですから誰かを愛したら嫉妬も感じるでしょう。適度な嫉妬なら関係性への刺激として楽しめばいいのですが、嫉妬によって関係性を破壊してしまうような行為に出るのは真実の愛から出たものではないのです」
「それは、自分では愛だと思っている自己中心的な感情であり欲望であり執着なのです。相手が自分の欲求や要求を満たしてくれなかったら消えてしまうような愛は、とても幼い、未熟な愛なのです。愛に、ロマンチックなものや高揚感、心のやすらぎだけを求めているのであれば、人は必ず相手に失望する時が来ます」
「恋は正しい理性が働かなるために修羅場を作ってしまいますが、愛は正しい理性と一緒になることで育くまれていくものなのです。だから真実の愛には、待つ時間、耐える時間、許す力、信じる力、愛し抜く力、責任といった意志の力や判断力・決断力、忍耐力、努力が不可欠なのです」
確かに、恋に狂うという言葉はあるけれど、愛に狂うという言葉はない。愛は正しい理性と一緒なって育くまれるというのはその通りだなと思う。それにしても、愛を学ぶこと、愛を実践することというのは、エベレスト登頂よりも厳しく過酷な“修行”、“試練”、“道”なんだなと改めて思う。
愛を学ぶ道、意識の拡張への道に歩み出すと、必ずや“自分の壁”にぶち当たる。壁とは、傷口だ。自分の心の深いところに埋め込まれたまま時効になっていない心の傷が、新たな関係性の中に投影され、その傷そのものが執着や反応、自己防衛や攻撃を繰り返し、再びドラマを創り出してしまうのだ。
そして、変化や問題やトラブルが起きると、もう自分たちの関係は終わりだとすぐ結論を出そうとする。最高の気分を味わえた時を本来の自分たちの姿だと思い、その状態がずっと続くものだと思い、ずっとこの状態や気分が続くことを願う。
しかし、心ほど当てにならないものはなく、昨日好きだったものが今日は嫌いになったりする。愛の最初のさざめきは、努力などしなくても自然に起きてくるものだけれど、じきに互いの恐れや条件づけやエゴが姿を現し、二人の関係に問題が起きてきて、愛は試練を向かえる。長いつきあいになれば、行き詰まり感が出たり、倦怠感が生まれたり、思ってもいなかったような大きな問題が起きてきたりもする。
愛は生き物だから、たえず水や光を与えていないと枯れてしまうのだということを頭ではわかっていても、人は本当に大切なことを時の流れの中で忘れてしまう。慣れというのが一番の曲者なのだ。
この世にあるもので、変化しないものなどひとつもないことを知っていても、人生に起きて来る苦しい問題が、自分を成長させるために起きてくるのだということがわかっていても、人は、こと男女の関係になると安定が崩れることを恐れる。
しかし、自分たちの関係に何が起きてきても、本当に大切な人ならば、瞬間、瞬間にハートを開いていることが問題を乗り越える力になるのではないだろうか。心さえ閉じてしまわければ、そのスペースに変化が生まれる可能性があるのだ。
関係性の中で起きてくる問題やトラブルは、すべて自分たちの関係性をさらなる成長や進化や成熟、意識の覚醒に向かって促す宇宙(神)の計画なのだという理解がもしお互いにあれば、愛は、未知なる可能性への挑戦と冒険に満ちた“道”になり、人生の旅は楽しいものになるのだろう。
ガイド付のパックツアーではない、この極めて個人的な旅には安全保障などないのだ。だから当然、危険や困難、不測の事態や予想外の出来事に出会うのは当たり前で、それだからこそこの旅は、神秘と創造性と挑戦に溢れた道になるのだろう。
(次回に続く)
< お 知 ら せ >
* 8月4日(土)に京都で講演会があります。(満席・キャンセル待ち)
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パネラー:芳村思風先生(感性論哲学創始者)
村上和雄先生(筑波大学名誉教授)
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* 詳しくはホームページをご覧ください。
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以前のコラムで書いたように、私の中には、すでに10代で、『出家とその弟子』(倉田百三)や『歎異抄』を読んで、深く親鸞に惹かれていくような自分がいた。老子も好きでタオイズムにはなぜかとても心惹かれた。手塚治の『火の鳥』や『ブッダ』、三浦綾子の『氷点』、遠藤周作の『沈黙』に、ものすごい衝撃を受けた自分。これらの本は全部、私の心の琴線に激しく触れた。
しかし、親鸞に惹かれはしても、浄土真宗にはまったく興味が向かなかった。仏陀やキリストに惹かれても、キリスト教徒や仏教徒になろうとは思わなかった。聖書や仏教聖典を読んで感動することはあっても、それは他の本を読んで共感し感動を覚えたものと私の中では同じだった。
私は特定の宗教には全く関心が向かない。特定の宗教組織に属すというのがそもそも性に合わない。私は、神さまとはいつでも個人的に深いおつきあいがしたい。グループ交際はいやなのである。
私の関心はいつも人に向かう。私はただ仏陀やキリスト、親鸞や老子の個人的ファンなのだ。もう2000年以上前の人なのにいまだに私は身近な存在として感じている。
20世紀のマスターとしては、和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)もラマナ・マハリシもJ・クリシュナムルテイも好き。サイババはルックスが好みでなかったので全く関心がなかった。インドは、仏陀の国だけあって、やはりすごい人を輩出する国だ。
『不滅の意識』のマハリシの目は吸い込まれそうなほどの深い慈悲の目だし、和尚の『存在の詩』を初めて読んだ時のショックと感動は忘れられない。私は和尚の紡ぎ出す言葉の波動がとても好きだ。壁にぶつかる度に彼の本にどれだけ助けられてきたことだろう。J・クリシュナムルテイとの出会いは、彼の著書『子供たちとの対話』だったが、この本も大好きで繰り返し読んだ。
八百万の神々という言い方があるけれど、私には八百万の師、マスターたちなので、誰か特定の一人の師に入れ込むということは私にはない。人間として生まれて、あそこまでの覚醒意識までいった人の誰が好きかは、もうほとんど個人的な好み、趣味の世界だろう。
私にとっては、浜田省吾も桑田佳佑も小田和正も山下達郎も吉田拓郎も井上陽水もみんな好きというのと同じことなのである。それぞれがオンリーワンの世界を創っている人は、何で活躍しようが魅力的なのである
私は限りなく軽薄でミーハーな側面もあるのだけれど、そんな自分のどこかに「真理」や「真実」や「道」といったものを求めている自分がいるというのは10代の頃からすでに知っていた。
私は、宗教そのものより、人間の心の最も奥深いところにある“宗教性”、あるいは“スピリチュアリティ”に関心があるのだと思う。私の実感では、スピリチュアルは、霊性というよりも、宗教的感性、宇宙的感性、宇宙の愛と意志という言葉の方がしっくりくる。
この宇宙を創造し動かしている偉大なる何者か、宇宙の根源的な実在、永遠の存在。仮にそれを「X」と呼ぶならば、その「X」に対して磁力のように引っ張られてしまう「Little X」が自分の中にいることを知っていた。
私は、その「X」のこと、「X」と「Little X」との関係をずっと知りたくて仕方がなかった。この「X」は、古来、宗教が扱ってきた分野、霊的な世界にあるのだろうということはわかっていた。ただ私は、「X」については、宗教よりも、文学や哲学や科学の方からアプローチしたかった。これはあくまでも私の好みだった。
日本人には宗教アレルギーの人が多いというが、私は、排他的でない宗教、他の宗教も認めるという宗教、強引な勧誘をしない宗教、攻撃的でない宗教、戦争をしない宗教は全くOKだし、個人的な神への深い信仰は自分の深い部分には子供の頃からあったような気さえしている。
子供の頃、近所に優しいおばあちゃんがいて、そのおばあちゃんは、周囲の人たちにとても親切で、世話好きで、いつも心温まるいいお話をしてくれた。おばあちゃんは、ある宗教に入っていたから、私は、宗教というのは、優しくて思いやりのある人間になるためにあるものだと思っていた。今でも宗教が担っているものには、そういう部分があると思っている。
しかし、昨今、度々起きている新興宗教の悲惨な事件のみならず、古来からあった世界宗教もまた大規模な殺戮を繰り返してきたのだ。人間の持つ死の不安と恐怖を救済し、愛や真理を学び、人間性を高め、意識の覚醒を促すための宗教が、なぜ歴史の中でこんなにも大量に人殺しをし、血を流す歴史を延々と繰り返してきたのか・・・。
神の名のもとに戦争をし、愛の名のもとに人を裁き、罪と罰、天国と地獄という観念を植え付けて人の心を支配してきたのが、人類の精神史、宗教史だったのではないだろうか。
私が最も抵抗があったのは、それぞれの宗教が頑なに、「自分たちこそが正しい」「自分たちの信じる神が唯一絶対の神」と思い込んでいる一神教の排他性と、組織の閉鎖性、閉じている世界観だった。
「正義」「唯一」「絶対」「恐怖」「自己防衛」が、最も残虐な攻撃性を内に秘めているということは、宗教戦争を始めとするあらゆる戦争が教えている。もし神がいるのだとしたら、神が最も悲しむことは、人と人が争い、憎しみ合い、殺し合うことではないだろうか。
神や正義の名のもとに戦争することなど、どんな大義名分があろうが、本当の目的や理由を神や正義の名にすりかえてやっているだけだと私は思っていた。
しかし、同時に私は知りたかった。なぜ人類が生まれてからこのかた、宗教がこの地球からなくなることが一度もなかったのか。何かを信じずには生きられない人間とはいったいなんなのか。人間にとって宗教とは何なのか。自分を超えた大いなる存在を信じずにはいられない「人間の心」とは何か
私は、特定の宗教、神、教義には興味はないけれど、その「特定」を超えたところにあるもの、あるいは、「特定」の大元、根源に対しては、ずっと興味と関心があった。でも、関心はありながらどこかで距離をとっていた。信じるということがまだできなかった。
信じると言うことは、「何かを絶対だ」と思うことだ。しかし、すべてのものが生々流転しているこの世界で、変わらないもの、絶対のものなんてほんとにあるのかと思っていた。人の心だって変わってしまう。私だって変わり続けているのだ。何もかもが過ぎ去り、とどまるものなど何ひとつなくて、すべてが終ってしまう、消えてしまうこの世の諸行無常・・・。
だからこそ人は、変わらないもの、絶対なるもの、永久のものを求めているに過ぎないのではないか。「永遠という幻想」を持たなければ生きていけないほど、人は愛を失うことを恐れ、死を恐れているか弱き存在なのではないかと思っていた。
永遠、普遍、絶対なるものを信じて生きていくことができれば幸せかもしれない。私だって本当は信じたかった。でも私は、誰かから「これを信じなさい。これこそが真理なのです」と教えられることではなく、私自身がまさに「もうこれは信じざるを得ない」という体験を重ねて、“降伏”、“降参”したいと思っていた。
私は、スピリチュアルな本などで、どんなに美しい言葉で愛や光が語られようが、どれほど偉い先生に真理を諭されようが、自分の感性の実感が伴わないものは信じられないのだった。実感の伴わないものは観念に過ぎない。生の全体性は観念ではつかみきれない。いやむしろ、観念こそが、分離意識を生み出すのだから。
体験して、感じ、実践して、感じる。目を閉じて感じ、空を仰いで感じる。触れて、感じ、見つめて、感じる。祈って、感じ、からっぽになって、感じる。私には、そんなゆっくり、ゆっくり、少しづつの歩みの中でしか、あらゆる存在・生命が、自分を超えた偉大なる力に生かされていることや、大いなる存在の愛に導かれていることに目覚めていくことができなかった。
感性の実感からの「降伏」こそが、より大きな「幸福」を私の人生にもたらしてくれるであろうことを私の深い部分はわかっていたのだと思う。薄皮を一枚一枚重ねるようにして大切なことを理解していった。薄皮を一枚一枚捨て去るようにして、もういらなくなったものを手放していった。そんな日々を生きてきたある日、私は本当に降伏せざるをえないある体験をした。
その瞬間、私は、心の中で地面に平れ伏すような感じになった。しかし、地面だと思ったそこは大きな空だった。その大空こそが、私が求めてやまなかった心の中の平安の地だったのだ。
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パネラー:芳村思風先生(感性論哲学創始者)
村上和雄先生(筑波大学名誉教授)
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息子が高校1年の入学祝いに買ってほしいと言ったセキセイインコの「チッチとポッポとクック」が元気に育っている。息子は、朝起きるとまず3羽のインコとひとしきり遊ぶ。そして、インコにエサをあげた後は私に向かって「俺も朝飯!」と言う。雛から飼ったせいだろうか、3羽はよく人になついているのでとてもかわいい。
私がパソコンで原稿書きをしている時は、たいてい私のスリッパに三羽が乗っているので、私はブランコのように足をブラブラ揺らせながら原稿を書いている。スリッパの上が飽きるとヒョコヒョコと上がってきて、私の両肩にそれぞれ1羽づつ、もう一羽は頭の上に乗っかる。
両肩と頭にインコを乗せて原稿を書いている姿って、人が見たらけっこう笑える光景だろう。時には私の髪を巣のように思うのかインコがウンコすることもあるが、私は「参ったなあ」と思いながら微妙に幸せだったりする。
昨日、久しぶりに息子の赤ちゃん時代のアルバムを見ていたら、涙がでるほど懐かしくなった。この粗忽者の私がよく育ててきたなあと思う。自分がどうやって子育てしてきたのかさえもう覚えていない。
初めての子育てだったから本当に無我夢中だった。息子が1歳の誕生日に書いた手紙が出てきた。私が、息子に一番伝えたい思いがこの1通の手紙にすべて書き記されていた。
~ “1歳の誕生日を迎えた真之へ” ~
「真之、お誕生日おめでとう!」
真之が初めてこの手紙を見るのは、一体何回目の誕生日かしら。お母さんとしては、真之が中学になったらこの手紙を渡そうかなと思っています。なぜなら、真之の誕生について、ぜひ知っておいてほしいことがあるからです。中学生くらいになれば、自分の人生や生き方について考え始める頃だと思いますので、これからお母さんが話すこともよくわかってくれると思います。
真之は、自分が生まれた頃のアルバムをも見て、何か変に感じたことはありますか。お母さんが部屋の中でも外でも、いつも帽子やスカーフをかぶって写っていますよね。その訳をこれから話したいと思います。
この手紙を書いている今は、1992年、4月16日。明日、17日は、真之の1歳の誕生日です。真之の1歳の誕生日をお父さん、お母さん、そして真之の3人で迎えることができたことは奇跡に近い出来事といってよく、神さまに感謝しています。
お母さんは、真之を産んだ直後に、脳腫瘍と水頭症という病気になりました。それは、いのちにかかわるとても怖い病気でした。お母さんは、真之を産んでからずっと激しい頭痛に悩まされました。
それまでも頭痛の経験はありましたが、今まで経験したこともないような耐え難い痛みでした。9日目には頭が割れそうなほどの痛みになり、鎮痛剤をもらって飲んでも一向に効かなくて、お母さんは産婦人科のベッドでのたうち回っていました。
ついに、真之を産んで10日目に金槌で後頭部を何度も殴打されたような激しい頭痛が起こり、その苦痛によって、お母さんは意識を失ってしまいました。お産も女の人にとってはものすごく痛くて苦しいのですが、脳腫瘍の痛みはその比ではありませんでした。まさにこの世の地獄でした。
お母さんが意識不明になってから、急遽、脳外科に回され、CTを撮ったところ、お母さんの小脳に大きな腫瘍が二つもあることがわかったのです。手術室にお母さんが入っていく時、お父さんはお医者さんに「いのちに別状はないんでしょうか」と聞いたところ、「いのちの保障はできかねる厳しい状況にありますが、最善を尽くしてやります」と言われたそうです。
手術が終わり、意識が戻り始め、薄く目を開けて見ると、お父さんだけでなく、おじいちゃん、おばあちゃんがとても心配そうな顔をしてお母さんの顔を見ていました。
お母さんは両手両足をベッドにくくりつけられていて、頭から、からだ中から、いっぱい管がでていてサイボーグみたいになっていました。知らないお医者さんや看護婦さんもいて、お母さんは一体何が起きたのかわからず、これは夢なんじゃないかと思いました。
翌日、お医者さんに何が起きたのかを聞いた時、背筋が寒くなり、目の前が真っ暗になりました。あと半日手術が遅れたら多分手遅れだったかもしれないこと。手術で助かる確率は少なかったのに、とにかくお母さんの生命力は強かったそうです。
真之のお父さんが、お母さんが元気になってからこう話してくれました。「あの時は、悪い方に考えるのはよそうと自分に言い聞かせたけれど、でも、ふと、もしかしたらこの子が明美の忘れ形見になってしまうかもしれないと考えてしまう一瞬があった」と。
それを聞いた時、お母さんは「真之を残して天国に逝かなくて本当に良かった」と思いました。真之は、体内切迫仮死状態になり、危険な状況で生まれたため、すぐ小児科の未熟児保育器に入れられたのでお母さんは一度も真之を抱っこできなかったのです。自分の産んだ子を一度も抱っこすることもなく死んでしまうなんて、お母さんは絶対にできないと思いました。
手術後のお母さんは、顔を洗うことも、ご飯を食べることも、排泄も、何一つ自分でできませんでした。からだ中からたくさん管が出ていて、頭にも管を通されて固定されたため寝返りも打てず、お母さんは完全な障害者になってしまいました。
自分で自分のことが何一つできない弱者になった自分を受け入れることはとても惨めでつらいことでした。でも、この経験は、お母さんが、ひとりでがんばらないで、人に助けてもらうこと、感謝するということ、人の痛みがわかる人間になるために学ばされたことなのだと思いました。
お母さんは、お医者さんが驚くような回復力で元気になっていったのですが、やはり、真之が生まれてくれたから、お母さんはがんばれたのだと思います。真之を抱っこしたい、真之のお母さんをやりたいっていう目標があったから、病気を治したいって心から思えたのです。
お母さんは、毎日ベッドに横たわりながら、流れる雲や陽の光、星の瞬(またた)き、風にそよぐ樹木の葉を見ていたけれど、ただそれだけで涙があふれてきて仕方がありませんでした。
生きているということ、自分が今こうして生きているということが、ただ、それだけで、うれしくてうれしくて仕方なかったのです。今までだって毎日のように見ていた、空や雲や星や花たちなのにね、涙なんかこぼれたことなんかなかったもの。
その時、お母さんは「幸せって何だろう?」って思いました。「幸せの形」なんかほんとは何もなくて、ただ「幸せだなあ」って感じられる心があるだけなんだなって。どんな小さなことにも「幸せだなあ」「ありがたいなあ」って感じられる心があったら、人は幸せになっていくのかも知れないね。
本当に大切なものって、いつも当たり前のようにしてあるものなんだなって思いました。幸せの種は、自分が見つけようと思えばどこにでもあるんだよね。真之の誕生は、お母さんの人生に幸せの種をいっぱい運んでくれました。というより、真之の存在そのものが幸せの種だったのです。
真之は、お父さんとお母さんの祖先の誰ひとりが欠けても生まれなかったんだよ。真之の前には、それはもう何十億といういのちの川の流れがあって、その大きな大きないのちの川が真之を運んできてくれたのです。どんぶらこ、どんぶらこってね。
すごいでしょ、これって。不思議だよね、いのちというのは。こうやって運ばれて来たいのち、運ばれていくいのちの川の流れを、運命っていうのかもしれないね。
過去から未来へと脈々といのちのバトンは手渡され、お父さんとお母さんが出会って、今、真之にそのいのちのバトンが手渡されました。真之のいのちは、真之だけで単独で存在しているわけではなく、完結しているわけでもなく、過去にも未来にもつながっていて、この宇宙のすべてにもつながっているのです。
いのちは偶然降ってきた雨水の一滴じゃなく、一人ひとりが本当に生まれる必要があったからこそ生まれたんだよ。お父さんとお母さんが真之が生まれることを望んだだけではなく、この大きな宇宙にも望まれたからこそ、真之はこの世界にやってきたのです。
真之が生まれた1991年4月17日から、真之は小児科の未熟児保育器、お母さんは脳外科の個室と離ればなれになったけれど、あの時、お母さんも真之も生きる為に必死だったんだよね。ふたりともよくがんばったと思う。
桜の咲く季節に、真之の誕生を待ちわびる日々を送り、桜の花が散り終わった頃、真之は誕生し、サツキが満開の季節にお母さんは病気と闘い、杏の実がなり始めた頃に病院を退院しました。
お母さんの人生で一番長かった春がこうして終わり、初夏の訪れを感じさせる風が肌に心地よかったことを覚えています。病院を出た時、お母さんは思わず子供みたいにスキップしていました。自分の足で歩けることがうれしくてたまらなかったのです。
道路を走る車やダンプカーはとてもこわかったけれど、でも、世界が本当に新鮮に見えました。世界がキラキラしていて、世界って光であふれているんだって、あの時思ったのです。当たり前だと思っていたことが、当たり前にできなくなった時に、当たり前のことなんて本当はひとつもないんだなってお母さんは思いました。
おそらくこれから先も、この季節になると、あの時のことを思い出すでしょう。でも、月日は少しずつ記憶を薄れさせていくので、こうして真之に手紙の形にして残したいと思ったのです。あの体験は、お母さんの新しい人生の始まりだから忘れてはいけないと思ったのです。
真之がどれだけ大変な状況の中で生まれたのか。そして、どれだけみんなに支えられ、見守られて育ってきたのか。真之の誕生は、神さまからの贈り物だったのですが、神さまは、ついでにお母さんにも「生まれ変わりなさい」って言いたかったみたいです。
真之のこれからの長い人生の中には、楽しいことだけではなく、きっと、つらいことや悲しいこと、苦しいことも起きてくると思います。たくさんの壁にもぶつかっていくでしょう。
そして、いつか、どんなにがんばっても乗り越えられない大きな壁にぶちあたる時が来るかもしれません。その時には、もう一度この手紙を開けてください。お母さんがこの手紙に魔法をかけておいたからね。真之は、きっとその大きな壁を乗り越えられるよ。
お父さんとお母さんは真之が幸せになれるようにいつでも応援しているからね。もし、真之の人生に苦しいことがいっぱい起きてきても、苦しみは、喜びに出会うためのチャンスだってこと覚えておいてね。
人が人生で体験する苦しみや悲しみの大きさは、その人がこの世でなすべき仕事の大きさと比例するんだって。自分が苦しんだことというのは、同じ苦しみをもつ人たちへの贈り物になるんだね。
でも、真之は、お父さんとお母さんの子供として生まれてくれたこと、ただそれだけで私たちへの最高の贈り物です。真之が真之になること(意味わかるかなあ。もう少し大人になったらわかるかも知れないね)、お母さんが楽しみなのはそれだけです。
真之は、お父さんやお母さんの期待ではなくて、自分の期待に応えて生きていって下さい。真之が、自分が本当にやりたいことやって生きていること、好きな仕事をしていること、自分らしくイキイキと生きていること、真之がただ幸せでいること、人生を楽しんでいること、それが周りの人たちへの贈り物になるんだってこと忘れないでね。
PS:ついこの間まで、ミルク飲んで、ウンチして、泣いて、寝て、の繰り返しだったアカンボ真之が、明日は、1歳の誕生日だなんて!もう部屋中つたい歩きして、「ウマウマ」と初めて覚えた言葉を連発して得意になっている。
見るもの、触れるもの、興味津々。アカンボ真之にとって、ほんと、世界はワンダーランドなんだなあ。うん、でも、お母さんも夢見る頃をとうに過ぎた今になってまた、「やっぱり世界はワンダーランドだあ!」って思えて、なんだかウキウキ、ワクワクの人生が始まった気がしているよ。
人生ってやっぱりいいなあ、人間っていいなあ、生きているって本当に面白いなあって心から思えるようになったのは、あの病気を経験してから、そして、真之が誕生してからだよ。真之、私をお母さんに選んで生まれてくれて本当にありがとう!
< お 知 ら せ >
* 8月4日(土)に京都で講演会があります。(満席・キャンセル待ち)
* 8月25日(土)、心身のリラクゼ-ション&メディテーションの会「シャンテイ」の第二回目があります。(東京・自由が丘)
* 9月7日(金)~9日、長野県、女神山で2泊3日のワークショップ「Be―Work」があります。
* 9月15日(土)、「全国思風塾大会」(名古屋)のシンポジウムがあります。
パネラー:芳村思風先生(感性論哲学創始者)
村上和雄先生(筑波大学名誉教授)
行徳哲男先生(教育者)
土橋重隆先生(医師)
コーディネーター:岡部明美
テーマ「命をひらく ~この命何に使うか~」
* 9月22日(土)、「1 day ワークショップ」があります。(東京・自由が丘)
* 詳しくはホームページをご覧ください。
岡部明美の公式ホームページ:http://anatase.net/
私は、科学というのは本来、宇宙の知性・智慧の解読であり、宗教というのは本来、宇宙の感性・宇宙的な愛の実践なのではないかと思う。科学の発見は、この宇宙の永遠の物語を紐解く1つひとつの章であり、宗教的、宇宙的感性(スピリチュアリティ)というのは、その永遠の物語の底辺を流れる生きとし生けるものたちへの“愛と祈り”なのではないだろうか。
そういう視点で見てみれば、科学と宗教は、同じ宇宙を違う窓から見ているようなものなのだから、本来は互いの欠如の“補完装置”“自己制御装置”として働くべきものであって、決して反目し合う別世界ではないのだと思う。
世界、存在、生命現象はすべて相反する<対極の性質>をもつものが“相互補完的”に関わりあうことで成立しているのだ。すべては両義性(りょうぎせい)を持ち、「対」として存在している。そうした“いのちの相補性”で成り立っているのがこの世界なのだ。
生命あるものは互いの欠如を満たしあい、助け合い、生かし合っている。対極にあるものは、実はすべてひとつのもの、コインの裏表、背中合わせのいのちの働き。
世界もまた、全く別々と思えるもの、つまり見える宇宙と見えない宇宙という二つのものが実は一つに合わさっている。つまり、私たちは今こうして生きながら、見える世界と見えない世界に同時存在しているということなのだろう。
私たちが今生きているこの三次元の世界は二極対立、二元論の世界だ。この二極のものが実はひとつのものであるという認識、つまり二元論的に解釈されてきたものを一元論的に解釈し、理解すること、二元論を止揚(しよう)した第三の道を模索していくこと、これまで対立してきたものをバランスさせていくことがこれからの時代の大きな潮流になっていくのは間違いないことなのだろう。
西洋と東洋、宗教と科学、理性と感性、心とからだ、生と死、光と影、陰と陽善と悪、幸と不幸、成功と失敗、愛と憎しみ、男性原理と女性原理、西洋医学と東洋医学。
片方がなかったら、片方は存在できない。片方の体験がなかったら、もう片方の体験は生まれない。片方を感じることなしに、もう片方を真に味わうこと、真に理解することはできない。片方だけの働き、片方だけの体験では、世界の半分、人間の半分、人生の半分なのだ。
悪がなかったら、善とは何かはわからないわけだし、悲しみを知らずして、喜びを知ることはできない。もし自分にエゴがなかったら、自己の内奥にある純粋無垢さ、天真爛漫さ、愛、神性さに触れた時に、あれほどの感動を味わうことはできないだろう。
病むことの苦しさを知らずして、健康であることの真の有り難さはわからないように、孤独の痛みを知らずして、愛の至福も歓喜も味わうことはできないのだから。
そういう視点で見てみると、人生には何一つ無駄なもの、価値のないもの、無意味な体験なんてないのだと思う。この地球という星が、学びの学校であると言われるのは、こうした二極の世界で成り立っているからなのだろう。
生まれなかったら死ぬこともない。出逢わなかったら別れることはない。挑戦しなければ失敗することもない。人と親密にならなければ傷つけあうこともない。信じなければ裏切られることもない。表現しなければ批判されることもない。人を愛さなかったら愛することの切なさも、愛を失うことの悲しみも味わうことはない。
何一つ無駄な体験なんてないのだとわかっても、それでもやはり、自分が最も望んでいるものの裏には自分が最も体験したくない“リスク”が背中合わせに存在しているという冷厳な事実はあまりにも厳しいし、人生は過酷だと思う。生きていくことは、ただそれだけでものすごく大変なことじゃないか。人は生きているだけでみんなすごいじゃないって思える。
子供の頃から、私の心の深いところにあった、どうしようもない淋しさや悲しみというのは、「生者必滅(しょうじゃひつめつ)(生まれたものは必ず死ぬ)」「会者定離(出会ったものはいつか必ず別れの時が来る)」というこの世の諸行無常を、こんな仏教の言葉も知らない幼い頃から私は感じていたのだと思う。
それでも大人になった私が今思うのは、喜びを感じるためには、悲しみも感じるという対価がいるということ。喜びの大きさは、悲しみや苦しみの大きさに比例するということだ。
憎しみという感情さえ愛がなければ生まれないのだ。憎しみは凍りついた愛の感情だと考えれば、醜い感情だなんて忌み嫌うこともないのかもしれない。凍りついたものが溶けて流れていく先はやはり愛なのだから。
つらいことだけれど、人間に、人生に深さを与えるもの、人を成長させるものは、自分が絶対に経験したくないと思っていた後者の方の体験なのだ。失敗や挫折、喪失や終焉、傷や痛み、病気や障害、崩壊や離別、敗北や絶望・・・。文字通り人間の最も深い苦悩、“魂の闇夜”を歩くような体験の中で、人は鍛(きた)えられ、育てられていくのだ。
冬の凍えるような寒さの土中で、春や夏に咲く花の種が育っているように。秋の紅葉さえ、冬の厳しい寒さを経なかったら、あの美しい紅葉はないのだという。真の豊かさや美しさや実りは、寒さや厳しさの中で育つものなのだという自然の法則。
後者の体験を避けて通ろうとすることもある程度はできるだろう。でも、失敗したくない、いやな思いを味わいたくない、裏切られたくない、失いたくない、もう傷つくのはいやと、何も挑戦せず、何も行動せず、何も表現せず、誰も愛さない人生なんて、なんの意味があるだろう。何のために生まれたのだろうと思う。
この世界は二極の世界で、すべて相反する働きと性質をもつものが、実は“ひとつ”になっているという事実。ふたつの違う働きをするものが一生懸命バランスをとりながら生きようとする姿が存在の力であり、世界の姿であること。こういった真実を改めて自分の人生に置き換えてみると身がひきしまる思いがする。
「いのちの相補性(相互補完性)」という視点から現代医学を見てみると、何が欠けているのかがだんだん見えてきた。医学は科学であるということで切り捨ててきたものーそれは、これまで宗教や心理学や精神世界が扱ってきた分野にあるものだ。不安と死の救済、祈り、愛、つながり、やすらぎ、魂、心、一体感、喜び、安心、励まし、慰め、癒し、大いなるものへの眼差し。
それは、何か特定の宗教に入ることを患者に薦めるということではもちろんなく、医療者側がこれまで宗教や心理学や精神世界がカバーしてきたものを医療の中に取り入れていく必要があるのではないかということだ。たぶん、患者の自然治癒力というものは、これらのものがあって初めて働きだすような気がする。
実際、医学は科学であっても、医療というのは実に人間的な営みなわけで、人と人が関われば非科学的な要素、理屈じゃ割り切れないことの方がはるかに多いはずなのだ。
科学という言葉の力の前であえなく切り棄てられてしまう人間の非科学的な部分、つまり心情とか情動、情緒(怖れ、不安、やすらぎ、愛、希望、喜びといった気持ち)、そういったものが大切にされていないということが、現代医療の問題点のひとつなのではないだろうか。
医療というのは実は、「患者の人生の物語の挫折」、「患者の人生の再編集」「アイデンティテイの崩壊」「死の恐怖」「病気の高次の目的、つまり患者の魂の目的」に否応なくつき合わざるをえない世界なのだと思う。それなのに今の医療にはその視点が大きく欠けているように思えるのだ。
人が人生に挫折した時に一番求めているのは何か。肉体が病み、心に傷や痛みを持った人間が本当にほんとうに求めているものは何か。死に直面している患者が何を一番求めているのか。血の通った医療とは何なのかという視点だ。
何かが行き詰まっている時というのは、それまで前提としていたものの見方、考え方を一度白紙に戻してみること。常識として信じてきたものをもう一度疑ってみること。いままでのやり方の何が問題なのかを深く見つめること。全く違った角度からものを見てみること。古くなったものを捨て去る勇気一私は、こうした態度が本当の知性であり人間の真の叡智(えいち)なのではないかと思う。
そして、このような頭の使い方と心の姿勢を、“科学的態度”“哲学的姿勢”と言うのではないだろうか。今の時代に求められているものは、そのような生きる姿勢を持った人が投げかけている、この時代への“真実の問い”なのだと思う。
< お 知 ら せ >
* 8月4日(土)に京都で講演会があります。(満席・キャンセル待ち)
* 8月25日(土)、心身のリラクゼ-ション&メディテーションの会「シャンテイ」の第二回目があります。(東京・自由が丘)
* 9月7日(金)~9日、長野県、女神山で2泊3日のワークショップ「Be―Work」があります。
* 9月15日(土)、「全国思風塾大会」(名古屋)のシンポジウムがあります。
パネラー:芳村思風先生(感性論哲学創始者)
村上和雄先生(筑波大学名誉教授)
行徳哲男先生(教育者)
土橋重隆先生(医師)
コーディネーター:岡部明美
テーマ「命をひらく ~この命何に使うか~」
* 9月22日(土)、「1 day ワークショップ」があります。(東京・自由が丘)
* 詳しくはホームページをご覧ください。
岡部明美の公式ホームページ:http://anatase.net/
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