岡部明美のスピリチュアルな旅で出会った”もの・人・場・言葉たち”

2008年02月

受けう売りの言葉は、心に響きません

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5年目の検診を受けてみようと思った。こわいけれど、もしかしたらという気持ちがどこかであった。でも、結果が出るまでの待ち時間は、やはり針のむしろ。ものすごく精神衛生に悪い。“今・ここ”なんて悠長なことは言っていられなかった。不安でたまらない。あれやこれやと考えると落ち着いてなんかいられなかった。


検査結果を聞きに行く日が来た。びっくりした。なんと、あの脳の中にあった小さな影は消えていたのだ。でも、医師は別段驚く様子もなく、「時々、こういうことが起きることはあるようです」とさらっと告げた。私は飛び上がりたいほどうれしかったのだが、冷静な医師の態度の前ではこちらも妙に冷静になり、「ありがとうございました」と告げて病院を去った。

私は病院からの道すがら、お気に入りの喫茶店に入って、ぼーっとしながら一人喜びに浸っていた。なんだか2年がかりで地雷が撤去され、再び平和な世界が戻ってきた感じ。

「戦いすんで、日が暮れて」の気分だった。別に戦ってきたわけではなかったが、挑戦はいっぱいしてきたと思う。けなげにいろいろと努力もしてきた。「結構、いろんな難関があったのに、ようやってきたなあ。長い道のりだったな」と思った。

帰宅した夫に検査結果を報告した。夫は満面の笑顔で、私の頭を撫でながら「良かったな。がんばったかいがあったな。本当によく一生懸命いろんなことやっていたもんなあ」と、とても喜んでくれた。でも、夫も特別驚く様子もなく妙にあっさりしていた。まるで、こうなることはわかっていたみたいな感じだった。

マサさんにも連絡を入れた。「良かったね。いままでやってきたことすべての相乗効果だと思うよ。本当に心にもからだにもよく向き合って、自分の世話をちゃんとやってきたものね。さて、じゃあ、いつから始めますか、一緒に仕事を」

「えっー、一緒に仕事って何のこと?」
「お互いのもっているものを合わせたら、いい仕事ができるでしょう? 僕は半断食や瞑想、呼吸法、食養生、自然療法、西式の運動療法などを伝えられる。あなたには、体験という財産があるんだから言葉で伝えられるものをいっぱい持っている。ワークをしながら、みんなに自分の感性を取り戻してもらうことや、心や生き方を見つめ直すような体験も提供できるでしょ。からだと心の両方に向き合えるような場ってなかなかないからね、たいていどちらか一方だけでしょう? 二人合わせたら両方を体験できる場を提供できるじゃない」

驚いたことにマサさんは、「賢治の学校」で初めて私に会った時、自分の人生最後の仕事は、“この人とやることになっている”と思ったのだという。それは、一緒にワークをした時に、マサさんの内的体験の触媒に私がなったことによって、それを“直感”したのだという。

でもそう言われた瞬間は、なんか、やはりあやしいおじさんなんじゃないだろうかと思った。「一緒にやることになっているなんて、一体、誰が決めたのよ」という感じだった。

ただ、これまでマサさんと話してきて、確かにこの人には妙な霊感というか、直感というか、そういうものがかなりある人だということは感じていた。理性的に考えれば納得できるような話じゃないけれど、これまでの私に対する援助の仕方を振り返れば、そのまじめさや誠実さは十分に伝わってきた。

私に「100日間の合掌行をやらない?」と言ったのもすでにそれを見込んで、私が、人の邪気や、ネガティブなエネルギーを受けないからだになるために勧めたのだという。

妙な展開になってきた。なんだか最近は、自分の考えの及ばないところで物事が展開していく。私は、マサさんと一緒に仕事をするなんてこれっぽっちも考えたことなどなかったのに。何かが転がり始めたみたいだ。

ある日、東海ホリスティック医学振興会の機関紙「HOLOS通信」の編集作業をやっていたら、恒川先生から、院長室に来るように電話がかかってきた。院長室に入って行ったらお客様がいらしていた。名刺をいただいて見てみると、東京の善文社という出版社の社長だった。恒川先生に出版の依頼で度々見えている方のようだった。

恒川先生には、私がこれまでワークやセラピーや瞑想を体験したときに溢れてきや想いを詩や散文の形で書き綴ってきた「気づきのノート」を見せていたのだけれど、そのノートを善文社の社長が見ていた。

「これをうちから本にして出しましょう。帰ってから社内で検討はしますが、基本的に出版という形で進めたいと思います」と言われ、突然のことでびっくりした。

善文社の社長は、東京から恒川先生への執筆依頼で名古屋までいらしていたのだが、当の恒川先生は、あまりに忙しくて、今は執筆する時間が全然ないという状況だった。そこで恒川先生は、代わりに私の書いたものを社長に見せてくださったのだ。

数週間後、善文社の社長から電話がかかってきて、出版することに決まったので、もう一度本にすることを前提にタイトル、構成、章立て、小見出し、文章を推敲し、自分で納得できる形にして、原稿を再提出してくださいと言われた。恒川先生のお陰で出版の機会をいただけて本当に有難かった。

 

私は、ドキドキ、ワクワクした気持ちと不安がないまぜになったような気分だった。20代後半と30代前半の独身時代、まだ旧姓の時に、その頃やっていたマーケティングの仕事絡みでビジネス書を2冊書いたことがある。かなり理性的な本だった。当然、「わたくしごと」など全く書かなかった。

でも、「気づきのノート」には、自分の気持ちしか書いていないのだ。こんなに私ごとだらけの本を読みたいなんて思う人がいるのだろうか。マサさんと一緒に仕事をするかどうかを考えるどころではなくなった。マサさんに電話をしてこのことを伝えた。

 

「良かったじゃない。本が先決だよ。わたくしごとというのは、とことん突き詰めていけば、みんなの中の何かとつながるんだ。究極の個の問題は、全体の問題とひとつだから。人の心の深みにあるものは、普遍性を帯びているものなんだ。だから、誰かのための本じゃなく、どこまでも自分が読みたいような本を作ればいいんじゃないの」

そうか、私と同じ気持の人が、この広い空の下のどこかで、今一生懸命に生きているのかも知れない。そういう人たちと分かち合える本でいいんだなと思ったら、急に気が楽になった。ふと、「もどっておいで私の元気!」というタイトルが浮かんだ。それは、この道を歩こうと決めた時の私の素直な実感だった。

本のタイトルというのは出版社が決めることが少なくないのだけれど、できたらこのタイトルでいきたいと思った。本の構成もイメージが湧いた。右ページに短い文章。左ページにその文章にぴったりの写真。

かつて、入院していた時、何もすることがないので本でも読もうとしたのだけれど、手術後は体力が極端に落ちていて、文章量の多い本、小さい文字の本を読むことがつらかったことを思い出したのだ。 

からだや心が元気でない時は、たくさんの文章や小さい文字はつらい。だったら、文章量を極限まで短くし、もしその文章さえ読むのがつらい時は、ただ写真を見ているだけでも心が癒され、元気になれる、そんな本を作りたいと思った。

すでに50編ほどの詩や散文を書いてきた。これをまず、これ以上は削れないというところまで文章を短くしよう。毎日、ワープロに向かった。イメージを膨らませるために文章の横に写真を貼った。

もったいないけれど、写真は、大好きな前田真三さんの写真集を切り抜いて貼った。北海道・美瑛の丘陵地帯の美しい四季を世の中に広めたのは前田真三さんだ。

私は20代の後半、心がパサパサに乾き始めた自分に危機感をもち始めた頃、前田真三さんの写真集を眺めていると心が潤ってくることを感じたので、休日にはよく何冊もの前田さんの写真集を眺めていた。

その内、眺めるだけでは物足りなくなって、実際に美瑛に行ってみた。自分自身で、美瑛の自然の美に触れ、前田真三さんがシャッターを切らずにはいられなかった風景の中に身を置きたかったのだ。

前田真三さんの写真館である「拓真館」は、何時間でもそこにいたいと思うような写真館だった。美瑛の自然は本当に素晴らしかった。“自然の色”というものをこんなに町作りに活かしている所はちょっと他にはない。自然の色というのは本当に完璧に調和していて見事だと思う。

私は、日本人が独特の感性で表現している色の言葉が好きだ。萌黄色、若草色、翡翠色、藍色、群青色、茜色、黄金色、朱色、浅黄色、琥珀色・・・日本語で表現される色の言葉には、色の揺れ幅が包含されている。

日本語の色彩表現は、人の情感をも内包しているように思う。イエロー、グリーン、ブルー、レッドでは伝わらない、微妙な光の波を感じる感性を本来日本人は持っていたのだと思う。

前田真三さんの写真を原稿に貼り付けていたら、文章の推敲が俄然楽しくなってきた。私は、この本を気持ちが楽になれる本であるとともに美しい本にしたかった。すべての文章にぴったりくる写真をつけて、自分なりに納得できた原稿を夫と何人かの友人に見てもらうことにした。もし気になるところがあったら、容赦なく赤入れしてほしいとお願いした。

夫に見せたら、文章については何も言わずひたすら校正をしてくれた。ノーコメントというのは最大のコメントだ。夫は、これを書いたのが女房でなかったら、絶対にこの手の本を読むような人ではないのだ。夫からすると、これを書き続けてきた私と、自分が知っている女房とは全くの別人らしい。

それでも、とにかく夫はひたすら校正をしてくれた。で、きつい一言。「お前、一応は物書きのはしくれなんだろう。信じられないな、なんでこんなに誤字脱字がいっぱいあるんだよ。ほんとに校正したのか、これで」

 

夫はブツブツ言いながらも、夜中まで黙々と校正をしてくれた。夫は、こういうきちんとした仕事を頼んだら天下一品なのだ。私に完全に欠落している能力を夫はほとんど持ち合わせている。

原稿を送った何人かの友人たちは、いくつか気になったところを指摘してくれた。でも「全体としてはこのまんまでいいんじゃないの。こういう本を必要としている人は必ずいるはずだよ」と言ってくれたのでとても勇気が湧いてきた。

 

マサさんからも原稿が戻ってきた。原稿の上の一筆箋にはこう書かれていた。
「僕は、基本的に人の文章には手を入れません。その人の中から生まれた言葉は、その人のものだからです。赤線を引いたところは、僕には伝わってきません、感じません、響いてきませんというところです」

ずいぶん突き放した言い方に少しムッとした。原稿を見てみた。うっ、いっぱい赤線が引いてある。がっかりした。「あー、だめかあ」と落ち込んだ。「なんでだろう、どこがだめなんだろう?」。赤点をとって、放課後に補習を受けている生徒のような気分で、うんうん唸りながら、朝までかかって文章を変えてみた。

“てにをは”を変えてみたり、“ですます調”に変えたり、漢字をひらがなにひらいたり、横文字、カタカナを日本語にしてみたり。自分なりに、ここが伝わらないのかなあと思ったところを一生懸命変えてみた。そして、また宅配便で送った。何日かしてすぐ返事がきた。

「何も変わっていません。内側が変わらない限り、外側は変わらないと思います。上っ面を変えただけですね、今回のは。小手先でやった仕事というのは通用しません」

何、このエラソーな言い方! 私はものすごくムカついた。しかしその後、激しく落ち込んだ。わからない。内側が変わらない限り、外側は変わらないってどういうこと? 私は何が変わらなきゃいけないの? 


1ケ月くらい途方に暮れて、全くワープロに向かえなかった。どう直していいのかさっぱりわからなくて悶々とした日々を送っていた。だんだん腹がたってきたので、思い立って、突然、抗議文のようなFAXをした。

「これだけ文句を言うんなら、少しくらいヒントを教えてくれてもいいのではないですか。言いたいことだけ言って、人が落ち込んでいるのに救いの手も差し延べず、自分だけしゃあしゃあとしている人に、人を援助するような仕事などできるのでしょうか。私は、とてもあなたと一緒に仕事をする気にはなれません!!」

すると、すぐFAXで返信がきた。
「あなたは、自分の体験や、自分が感じたこと、気づいたことよりも、医者や心理学者や、天上界からのメッセージを伝える人の方が、自分よりも正しいことを言っている、りっぱなことを言っているとでも思っているのではありませんか。自分のいのちがけの体験を粗末に扱わないで下さい。自分を見くびらないで下さい。地獄を見たあなたにしか気づけなかったものがあるでしょう。僕に伝わってくるもの、響いてくるものはそれらの言葉だけです。それ以外の言葉は、僕にはノーサンキューです。自分が本当に感じたこと、気づいたこと、それこそが真実の言葉、自分の言葉です。受け売りの言葉は心に響きません。もう一度自分の体験を追体験してみてください。ただ、思い出すだけでいいと思います。それから、ちょっと目線が高いなと感じたところにも赤線を引いておきました。あしからず」

ガーンとした。しばらく動けなかった。もう一度赤線が引かれた原稿を見てみた。赤線が引いてあるところと、引いていないところをよく見比べてみた。そして愕然とした。赤線が引かれているところはすべて、確かに、専門家や本から勉強したところだったのだ。なんで、そんなことがわかるのだろうと思った。

私が、体験の中で心がブルブルふるえて、その、ふるえやこみあげてきた気持ちを書いたところや、瞑想しながら自分の奥深いところから聴こえてきた声を書いたところには、ひとつも赤線が引かれていなかったのだ。鳥肌が立った。もしかしたら、あのおじさんは、ただものではないのかもしれないと初めて思った。 
 


その夜、瞑想をしていたら、突然、どこをどう直せばいいのかが一瞬でわかり、徹夜で原稿の修正をした。マサさんに直した箇所をFAXした。30分後、FAXがカタカタ鳴り出して紙が出てきた。

私は心臓がドキドキした。「また、NGだったらどうしよう」と不安だった。真っ白い紙にたった一文字、大きく「OK!」と書かれた紙が出てきた。私は「やったあ!」と声をあげた。

翌日、善文者に決定稿を送ると、社長からもすぐ「OK」が出た。ほっとした。マサさんにお礼を述べると、「気づいたのは、あなたです。直したのは、あなたです。あなたがえらかったんです。僕は、気づくきっかけを作っただけに過ぎません。病気もそうです。治したのはあなたなんです。たくさんの人が助けてくれたと思いますが、やったのはあなた、実践してきたのはあなたなんです」と書かれたFAXがきた。

この時、初めて私は、「ああ、やっぱり私は、この人と仕事をするようになっているんだな」と思った。

「気づきのノート もどっておいで私の元気!」(善文社)は、こうして1996年に出版された。写真は、知人である、広島の松本暁子さんを始めとする4人の方が、自分の写真を提供してくださった。どれも素晴らしい写真だった。写真を見ているだけでも心が癒される美しい本を創りたいという私の願いがかなえられ、本当にうれしかった。
 


病気は、からだも心も本当に痛くて苦しかったけれど、こんな風に痛みや苦しみって、贈り物に変えることができるのだと思うと、初めて心の底から、あの病気に「ありがとう!」という気持ちがこみあげてきた。

出版のきっかけを作っていただいた恒川先生にお礼を述べると、「僕も今までいろいろな患者さんに出会ってきたけれど、病気をしてこれだけ元をとった患者さんも珍しいよなあ。岡部さんの場合、元をとったどころか、おつりまでもらったよねえ(笑)」と心から本の出版を喜んでくださった。


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今・ここにある豊かさ

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ある日の半断食の合宿で、マサさんは、参加者にこんな話しをした。たぶん、その時の参加者に、私と同様、心理学の勉強を熱心にやっている人や、ワークショップに出て心の探求をしている人が多かったせいだと思う。

「人は、ふだん、意識が外にばかり向いているから、自分の内側に向かうことは大切なことだと思う。僕も、ある時期ずっと探求を深めていったからよくわかる。でも心の世界は、入り出すと重箱の隅をつつくようになったり、過去の心の傷、トラウマを癒すことばかりに目が向き過ぎてしまう面があると思う」

「人生に行き詰まった時や、生き辛さをもっている人にとっては、“プロセス”としてはとても大事なことだけれどね。でも、いつまでも過去ばかり見ていたら、人生が終ってしまうよ。人生は、“今・ここ”にしかないんだから。僕は、ティック・ナット・ハンと出会って、“今・ここに生きる”ということの大切さを学び、今は、そのことをとても大事にしている」

「思考は、たえず過去と未来に向かうでしょう?もう終ってしまったことをいつまでも悔やんだり、自分を責めたり、人を恨んだり。過去は、未練や執着や恨みや後悔でいっぱいだし、未来は不安と恐れと野心でいっぱいでしょう。人は、自分の過去のトラウマがアイデンティティの一部になっていて、実はその痛みや、「心の傷の物語」にしがみついていることさえある。かと思うと、まだ起きてもいない未来のことを、あれやこれや心配したり、不安になったり。人は全然、今を生きていないんだ」

「でも、感じている時というのは、いつだって、“今・ここ”にいる。感じている時は、自分とも、対象ともひとつになっているでしょう。別れていない。思考を使うとすべてのものから分離してしまうからね。からだの感覚、特に呼吸に意識を向けると、思考が過去と未来に行っていても、“いま・ここ”にすぐ戻れるから、呼吸法と瞑想は、ぜひ日常の習慣の中に入れるといいよ」

「人は、暮らしと大地とからだから離れて、心のことばかりやっていると現実を生きていく力を見失うよ。見えない世界は、気がつくと現実逃避になっていることがよくあるからね。自分と気が合う人、自分をわかってくれる人とばかりつきあうようになると心地はいいけれど、自分と価値観が違う人と一緒に生きていく力や、考え方の違う人から学んで自分を成長させることを疎かにしてしまうこともあるでしょう。ひどい時には、見えない世界、魂の世界のことをわからない人を見下すようになったりね」

「要はバランスがとれているかどうか。基本は、まず見える世界をちゃんとすることからだよ。からだを整え、呼吸や姿勢を整え、言葉を整え、部屋を整え、食を整え、日常生活を大切にすること。今目の前にいる人を大切にすること。愛すること。感謝すること。そして、今を生きること。人生は、今この一瞬、今日の積み重ね。人は、本当は、“永遠の今”を生きているんだよ。今日寝たら明日が来るのではなく、今日寝たら、また、今日なんだからさ」

なるほどなあ。確かに心は放っておくと、自動的に過去の扉をたたく。“今・ここ”という言葉は、何度も聞いてきた言葉だったけれど、やっと実感をもって、ああ、本当にそうなのだと思えた。

言葉やメッセージというのは、自分の準備ができていない時は、その言葉は頭にしか入らないんだな。ずっと、過去の「未完了の感情や体験」「様々な条件付け」を見てきて、そこで作ってしまった間違った「信念体系」や「人生脚本」に気づいて、とらわれから解放されるということをやってきたから、確かに、私の意識はずっと過去を向いていた。

でも、それをちゃんとやってきたからこそ“今・ここ”ということの意味や大切さが素直に心に響いてきたのだと思う。近道をしようと思ったら、また、私はわけがわからなくなっていたに違いない。段階をちゃんと踏んできたこと、プロセスに自然に寄り添ってきたこと、それが自分への信頼感を取り戻し、自尊の感情を伴う自己肯定感につながってきたのだと思う。

“今、ここを、全面的に生きる”、“今、ここに、在る”ということに、自分の意識を集中すると、確かに感じ方が変わる。問題の見え方が変わってくる。いや、問題だと思っていたことが、あまり問題と思えなくなってくる。気にならなくなるのだ。これは、とても不思議な感覚だった。

私は、意識的に、“今・ここ”にある美しさ、豊かさ、喜び、やすらぎ、心地よさに触れるようにして生き始めた。そうすると、確かに見える風景が変わってくる。私は、再び大切な地点に立ち返っていた。


           <  今  >

たとえば、自分の人生に繰り返し起こる問題は、

過去の心の傷が影を落としているのだとしても、

それを「今」に生きられない理由にしては、

過去に支配された人生になってしまう。

過去にとらわれ、歩き出せないままでいたら、

自分しかもっていない個性が永遠に

生きる場を失ってしまう。

過去を後悔し、未来を心配し、

今目の前にある豊かさを味わっていない。

今暮れゆく空の美しさ、今咲いている花の美しさに

心をとめることもなく、ただ時間だけが流れてゆく。

過去を癒すことで、今を生きられるようになることもあるけれど、

今、自分が何を選択するかで

過去が自然に癒されていることもある。

自分の人生の物語はいつでも、

「今、この時」の自分の在り方が決めてゆくのだから。

    『もどっておいで私の元気!』(岡部明美著・善文社)より


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目が喜んでいるのを私は見逃さない

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玄米菜食と半断食とからだの世話をちゃんとやりだしたら、少しずつ、からだが変わってきていることを実感できた。最初の変化は、顔やおしりに、吹き出物がプツプツ出てきたことだ。ああ、毒が出ているんだと思った。

半年ほど過ぎた頃から、血圧にも変化が起きてきた。いままでは、ずっと低血圧で、下が40or50、上が80or90と、ひどく血圧が低かったのだが、この間血圧を計ったら下が、80、上が110で、びっくりした。わあ、人生で初めてだ、血圧が正常値になったのは。ついでに貧血もなくなっていた。 


私は覚えていないが、意識不明になった最初の発病の時は、血圧が200を越えていたらしい。低血圧の人が血圧200を越えるというのはやはりただならぬ事態なのだろう。

これまで、低血圧、貧血症のために風呂上りの立ちくらみがよくあり、朝も弱かった。でも最近は、朝が楽に起きられるようになったし、風呂上りの立ちくらみも、手足の指先が冷えて寝にくいというのもなくなってきた。

お通じもとてもよくなった。かつては、コーラックやタケダの漢方便秘薬が欠かせなかったのに、この数年は一度も使ったことがない。薬を飲まなくてもお通じがあるということ自体に驚いたのだけれど、昔の私はそのくらい異常だったのだ。「病気は、腸から治せ」と言われる意味がやっとわかってきた。

温冷浴、裸療法、砂療法、西式の運動療法によって、汗もよく出るようになったし、半断食を毎月やるようになったら、日常の食事は腹八分で満足できるようになってきた。からだが、食べ過ぎを拒否するようになったのだ。そして、野菜がとてもおいしいと感じられるようになってきた。

何より、4年間、体重計がピクリとも動かなかった産後の残高体重6キロが一気に落ちて、3ケ月目で標準体重に戻ったのはうれしかった。からだが、確実に変化していることを実感できることがすごくうれしかった。

私が、玄米食や半断食や自然療法などを学んで一番良かったと思うのは、息子にしてあげられるようになったことだ。息子は、風邪をひいた時など、内心すごく喜んでいる。

朝、少し熱っぽいと、すぐ体温計を出して自分で計り、「お母さん、38度も熱があるよ。今日は、保育園休んでもいいでしょう。僕、からだがだるい」なんて言いながら、コホコホとせきなどをする。でも、目が喜んでいるのを私は見逃さない。
 


一応、病院に行ってあぶない風邪じゃないことがわかったら、病院でもらった薬は飲ませないで、母の愛の出血大サービスが始まる。足湯やコンニャク湿布をしてあげた後は、テルミーで全身にくまなく熱を入れる。キャベツ枕をしながら、全身のマッサージをしてあげて、最後は愉気(野口整体の手当て)で総仕上げ。

息子は、私に手当てをしてもらうのが大好きなので、終わった後は至福の顔だ。そりゃあ、そうだろう。やってもらう方はすごく気持ちがいいもの。息子は、からだも心もポッカポカになって超ご機嫌だ。もしかしたら病気は、からだと心がポッカポカ、お肌がツルツルピッカピカ、いのちがルンルン喜び始めたら治っていくのかもしれない。

息子は、玄米クリームや玄米粥、おろしリンゴも大好きだ。安静にして、手当てをたっぷりしてあげて、風邪をうまく経過させてあげれば、薬を飲まなくても2、3日でたいていの風邪は治る。

息子は軽いアトピーがあったから、私と一緒に玄米ご飯も食べたし、お風呂で温冷浴もやる。私が気功をやっていれば、見よう見まねで一緒にやり、「香功(シャンゴン)」なんか簡単なので息子も覚えてしまったほどだ。

お風呂上りには、スッポンポンで布団に仰向けになり「お母さん、テルミー、テルミー」とおねだりだ。テルミーが、私と息子とのいいスキンシップになっている。

「いつまで、私の前でスッポンポンになるのかなあ」と夫に言ったら、
「毛がはえてくるまでだろ」と言っていた。せいぜい小6くらいまでかなあ。今の内だけなのね、この蜜月は。まあ、それまでは、せいぜいやらせてもらいましょう。

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私の鼓動と地球の鼓動

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波の音だけが聴こえてくる。私の耳は、寄せては返す波の音を心地よく聴いている。内側から聴こえるもうひとつの音。この音は、耳が聴いている音ではない。私のからだが感じている地球の音だ。ドクッ、ドクッ、ドクッ・・・。

この日は、初めての砂療法の体験の日。私は、生まれて初めて味わうような不思議な感覚にびっくりした。私の心臓の鼓動と、地球の鼓動がひとつになって、規則的にリズムを刻んでいる。一体、どっちの鼓動なのか区別がつかない。砂に抱かれているというより、地球に抱かれているような感覚。


からだを砂に全部埋めてから、すぐ、このドクッ、ドクッという音が聴こえてきた。砂が私のからだをぎゅーっと圧迫してくる。ものすごい圧力だ。しばらくすると、からだ中を蟲がはっている感じがしてきて、思わず、「マサさーん、100匹くらいの蟲が私のからだを這っている! ぎゃあ、気持ちわるーい。もう砂から出たーい」と私は叫んだ。同じようなことを言っている人が他にもいた。

 


「大丈夫。それは、蟲じゃないよ。毛穴が開いて、毒素をいっぱいからだが出そうとしているんだ。今まで、毛穴がちゃんと開いていなくて、皮膚呼吸がちゃんとできていない人は、特にそういう現象が起きるんだよ。汗をかかない体質だって言っていたでしょう? 毛穴が詰っているから、皮膚呼吸が弱いんだよ。呼吸の5分の1は、皮膚呼吸だからね。この砂療法は毛穴を開いて、毒素、老廃物を出して、その後も、それらが出やすいからだになるためにやっているんだから、我慢、我慢」


ゲゲゲー、こんな気持ち悪い状態で、6時間も7時間も砂に潜りっぱなしなわけー?うううー、修行のニューバージョンだあ。それにしても、よくもまあ、マサさんは次から次へと、こんな過酷な修行メニューを私にもってくるものだ。


マサさんはこの砂療法を自然療法家の東城百合子先生からちゃんと習って、長時間砂に潜っていても疲れない安楽椅子型の砂の掘り方や、水の補給の仕方、日焼け対策なども習ったのだという。


マサさんは、半断食の合宿だけでなく、毎年夏には、教え子たちを集めて、砂療法の合宿もやってきたのだという。現代人は、腸内で腐敗発酵しやすい食べ物(肉・卵・牛乳・チーズ・酸化した揚げ物など)を大量に食べているし、添加物や合成着色料の入った食品を知らずに多量に食べているので、化学合成物質という毒素が相当からだに蓄積されているらしい。


「病気の人は、毒素が細胞に充満して出られなくなっているんだ。この砂療法では毒ガスがいっぱい出てくるよ」とマサさん。わ、毒ガスなんて、こわい言葉だなあ。
 

「フグ中毒の時は、裸にして首だけ出して土に埋まっていると、一晩すると毒は土が吸い出してくれて治ってしまうんだよ。土や砂の中には数え切れないほどの無数の微生物がいて、この微生物が、腐ったもの、毒素、老廃物などを浄化して、還元してくれるんだ。土や砂の浄化、還元力ってほんとすごい。地球の力って偉大だよ」


解毒には、玄米食、断食、半断食、砂療法が素晴らしい効果を発揮するというのは知っていたけれど、まさか「賢治の学校」に行って、それをやっている人に出会うなんて想像もしていなかった。本当に有難い。確かにマサさんが言うように、私は、心の世界の探求が面白くなってしまって、からだの世話が二の次になっていたと思う。


初めての砂療法は、思っていたより苦しくて、とても7、8時間も砂の中に入っているなんて私には無理だと思ってしまった。いつ「退却宣言」しようかと早々に考えたくらい。


でも2時間を過ぎた頃から、からだ中を蟲が這っているという感じはすーっと消えてしまった。それでも苦しいのは変わらない。私は、マサさんに「今、何時?」と時間ばかり尋ねていた。1時間がなんでこんなに長いのかと思った。


ところが4時間を過ぎた頃、「もう限界だあ、出てしまおう」という極限を超えたら、だんだん、ランナーズハイみたいな感じになってきて、すごく心地よくなってきたのだ。まるで、温泉にでも入っているような気分になってきた。さっきまでの苦しい感覚は、どこに消えてしまったのだろう。


初日の砂療法はみんなが初めての体験だったので、6時間でマサさんからOKが出た。砂から出たら、みんな顔にも砂がいっぱいついていて田吾作(たごさく)みたいだった。自分の田吾作顔を棚に上げて、互いの顔を見ながら吹き出していた。


私はどんどん、癒しの世界、スピリチュアルな世界から遠のいていく。ついこの間までは、「愛だ、光だ、天使だ、覚醒だ!」なんて言っている人がいっぱいいる世界にいたのに、突然、「宿便出たあ?」「毒ガスいっぱい出たわよー」という、うんこと毒ガスが出る喜びの世界に突入してしまった。


でも、こっちの世界も妙に居心地がいい。とても人間くさくて自然。「ご飯もうんこ」も「愛も神さま」も、みーんな同じくらいに大切なものだ。すべてが、人が生きいくために必要なもの。前者は、それがなかったら生きていけないもの。後者は、それを体験するために生まれてきたもの。


さあ、明日の砂療法は7時間に挑戦だ。とりあえず、この日は無事、全員、完走ならぬ完潜だった。砂からあがって温泉に入る。もう、最高の気分。極楽、極楽。


          

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からだと心がだんだん澄んで、静まっていく

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突然、癒しの世界から修行の世界に入ることになった。鍛錬、訓練、精神統一。修行は厳しい。苦しい。家では、仕事で外出しない日は毎日、午前中断食をし、昼は、玄米の粉をそのまま食べるか、玄米クリームか玄米のお粥。そして青汁を飲む。これが昼食。なんだか、ニワトリになったような気分。


からだの世話が疎かになっていると言われたニワトリの私は、急にシャンとし、毎日、西式の運動療法、温冷浴、裸療法もやり、指圧・マッサージにもまた通い始めた。久しくやっていなかった気功も再開。気功は、やはり気持ちがいい。


朝晩、ベランダで気功をやった後、太陽や月に手をかざし、そのいただいたエネルギーを後頭部にしばらくの間当てながら、「ありがとう」と言っていた。以前習っていた気功の先生に、「病気は、“ありがとう”という言葉や“感謝の気持ち”に弱いのよ」と言われたことを思い出したのだ。とにかく、人が見たらダンゼンあやしいことを私は再び一生懸命やりだした。


夜はそのまま月明かりの下で瞑想やイメージ療法をしていた。瞑想=meditationと医学や薬=medicineが同じ語源から来ているというのが面白いと思った。昔は僧侶や巫女や宗教家、シャーマンやヒーラーと呼ばれる人たちが病人を癒していたらしい。キリストや釈迦などは、その最たる存在なのだという。


私は、日本ホリスティック医学協会中部支部長の樋田和彦医師(著書・『癒しの仕組み』・地湧社)の樋田耳鼻咽喉科にも通い、「高麗手指(こうらいしゅし)鍼(しん)法(ほう)」も受け始めた。樋田先生は、耳鼻咽喉科の医師だけれど、週に何回か特殊外来の日を設けていて、その日は、がんを始めとする慢性病、難病の方がたくさん受診される。


樋田先生のオーリングテストで、飲んでいる薬やサプリメントとの適合性や免疫力なども確認できることが有難かった。高麗手指鍼の鍼も全然痛くなかった。何より、樋田先生がすごくやさしくてほっとできる先生だった。


手には全身のツボがあるから、樋田先生は、私のからだの気の流れが悪くなっているところを示す手のツボにマジックで印をつけてくれて、そこに毎晩自分でお灸をした。お灸の後は40分間の合掌行。毎日、般若心経を唱えていたら、見なくても諳んじられるようにになった。


100日間の合掌行をやると決めたら、なんか肝が据わった感じがした。最初の2週間は合掌行をちゃんと連続してやれた。しかし忙しい日があって、できない日があった時、「あー、これで台無しになってしまった。これまでの2週間が無駄になっちゃった。また一からやりなおそう」と思ってしまったのだ。


と、思った瞬間に、「あ、また出たな」と気づけたから救われた。本当にもう私はすぐ出てしまうのだ。目標を作ると完璧主義になるというパターンが。ここで心の仕切り直し。「やれる日にやればいい。できない日があったら、それはそれでOK。やりたくない時は、それでもOK。明日からまた続きをやればいい」と思うようにした。


人によっては、一度自分に甘いことを許すとズルズルとやらない方に崩れていく人が多いらしいが、私の課題は逆だった。私は目標をもつと、「言い訳無用!」「問答無用!」と自分にものすごく厳しくなるので、時々、自分に甘くし、そしてもう一度やり直すという、臨機応変さ、心の柔軟さを学ぶことが、私の課題だった。


こうして私は毎月1回、マサさんの半断食の合宿に通うようになる。マサさんは、今の私に最も必要なのは、断食をして毒素を出すことと瞑想を深めることだと言っていた。マサさんの指導でヴィパッサナー瞑想という気づきの瞑想もやるようになった。


なんだか、だんだん自分が修行僧になっていくような気がした。般若心経を唱えている時など、もしかしたら今鏡を見たら、丸坊主の僧侶の私が写っているのではないかとさえ思えた。


ワークショップの時は、自分がだんだん楽になっていく、軽くなっていくという感覚があったのだけれど、断食や瞑想を始めとする一連の修行をしていると、自分の心とからだがだんだん澄んでいくような感じ、静まっていくような感じがした。 
 

何回目かの合宿の夜、真夜中までなかなか寝付けなかったので、外に出てみたことがある。その時にとても不思議な体験をした。あらゆるもの、月や樹木、家、庭のテーブル、椅子、花が活けてある大きな壷に、全部丸い虹のようなものがかかっていて、その幻想的な美しさに思わず息を飲み、立ちすくんでしまった。


その虹のような光の輪は仏像の後光のようだった。得も言われぬ感動に、からだがふるえ、涙が流れてきた。自分がなぜ泣いているのかよくわからなかった。涙はだんだん嗚咽になり、いつしか子供みたいになりふり構わず号泣していた。


風景の中に溶け込んで自分が消えてしまったような感じがした。どのくらいそこにいたのかさえわからない。10分なのか、1時間なのか。目の錯覚だったのか。ふと気づくと、もうその虹のような光の輪は消えていて、普通の、真夜中の風景を、ただ月明かりだけが闇を照らしていた。


何か内側から深くこみあげてくるものがあった。“いのち”、“約束” “降りる”、“自然”という言葉が浮かんできたので、中に入って、あふれる思いを言葉に変えて、「気づきのノ-ト」にたくさん文章を書いた。

           <  いのち  >

いのちのたくましさ   いのちのあたたかさ

いのちのけなげさ    いのちのいじらしさ

いのちはゆらぎ  流れ  

すべてのものとつながり  また生まれる


花も木も  川も海も  石も土も  星も雲も

動物たちも その一部の人間たちも

存在するものすべては 同じいのちの源からやってきて

同じいのちの源につながっている


そのいのちの源との「つながり」や「かかわり」が切れたとき

「自然」と「人(他者)」から遠ざかってしまったとき

自分の本当の気持ちや願いのありかを見失ったとき


人は病み 自分のいのちの輝きを見失ってゆく

だからもう一度 自分のいのちの輝きを取り戻そうと思うのなら

自然と人のつながりを回復すること

自分のからだの声に耳を澄ますこと


いのちが持っている生きようとする「意志」と「英知」を信じること

大きな川の流れに身をゆだねて 

自分のいのちが喜ぶ生きかたを選びなおすこと

      『もどっておいで私の元気!』より(岡部明美著/善文社)

  

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<お知らせ>

*3月12日(水) 名古屋で講演会

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*4月5日(土)  岡山で講演会

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ただ、感じていたかった

WS000391.JPG極めつけの修行は、40分間、合掌をしながら般若心経を唱えることだった。まず、掌を合わせて正座をする。胸の真ん中で掌を合わせて、合掌の姿勢をとる。肘が胸から下にならないように注意する。背筋もピンと伸ばす。


そして、体中に陽の光をいっぱい受けて、自分のからだが光に包まれているイメージを描く。陽の光が、頭から手足の先まで全部温めてくれているイメージ。そのイメージで、からだがだんだん温かくなってきたと感じたら、次は、自分のからだが透き通って金色に輝いているイメージを描く。病気のある部分には特に意識を集中させて、そこが光によって癒されていくイメージを描く。そして心の中で、光に「ありがとう」と感謝の気持ちを伝える。
 

それから、合掌の姿勢のまま、般若心経を40分唱えるのだ。漢字ばかりだけれど、ふりがながふってあるから大丈夫。
「観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ) 行(ぎょう)深(じん)般若(はんにゃ)波(は)羅(ら)蜜(みつ)多時(たじ) 照(しょう)見(けん)五蘊(ごうん)皆(かい)空(くう) 度(ど)一切(いっさい)苦(く)厄(やく) 舎(しゃ)利子(りし)・・」


般若心経は本で読んだことはあるけれど、こんな風に声に出して唱えたのは初めてだった。結構朗々と唱えられる自分にびっくりした。なぜか、とても懐かしい感覚があって、「私、これ好きだなあ」と思った。昔の自分だったらこんな抹香くさいこと、やれと命令されたとしても絶対やらなかっただろうけれど。


何度も、何度も、繰り返し般若心経を唱えていたら、からだの奥からこみあげてくるものがあって、突然、滂沱の涙があふれてきた。私が、涙と鼻水を垂らしながら一生懸命唱えていたら、マサさんがティッシュの箱を前に置いてくれた。


でも私は、合掌している手を離したくなかったので、そのままズボンに涙と鼻水をボタボタ垂らしながらやり続けた。20分くらいたつと、猛烈に上腕と大胸筋と脇の下が苦しくなってきた。


初めての人は、なかなか40分はできないらしい。でも私はやりたかった。やり通したかった。マサさんが「35分、あと5分です」と言った時には、エベレスト登頂寸前の登山者みたいな気分で、「よっしゃあ、あと5分。がんばるぞー!」と自分に気合を入れた。


般若心経は、気合を入れて唱えるようなものではないのだろうけれど、正座して40分間の合掌行をやりながらというのは、本当に半端じゃないきつさで、気合でも入れなかったらとてもやり続けられない。足はしびれるわ、肩と腕と脇の下が痛いわで、他のことが何も考えられなかった。


「はい、終了です。ゆっくり肩を回して、からだをほぐしてください」とマサさんに言われ時は、「やったあー!」と、最高の満足感だった。でも、いざ、からだをほぐそうとして、肩を回そうとしたら「イテテテー」とうめいてしまい、そのままバタっと後ろに倒れてしまった。しばらく横になったまま、修行をやり遂げたからだを休ませた。自分で、自分に「よくやった、ヨシヨシ」とほめてあげた。


そうしたらマサさんは、なんと、「これを、家で、100日間毎日やってみない?」なんて恐ろしいことを言うのだった。「うへっー、何を言うのー」って思ったのだけれど、心とは裏腹に「よっしゃ、やったる! なせばなる、なさねばならぬ、何事も!」なんて調子のいいことを口走ってしまった。気合が入ると、つい、おっさん口調になってしまう。


「さっき、般若心経を唱えていた時に涙がいっぱい出てきたでしょう? なんで意味もわからないのにこんなに涙が流れるのだろう、何が書かれているのだろう? ここに書かれてあることの意味が知りたいって思ったんじゃない?」と、マサさんは言って、1冊の本を私に渡してくれた。


それは、マサさんが好きだという、ベトナムの禅僧、ティック・ナット・ハンの「般若心経の本」(壮神社)だった。ティック・ナット・ハンはベトナム戦争中、「行動する仏教」の指導者になり、被災者、難民の救済に尽くした人だ。‘72年には、パリ平和会議の仏教団代表にも選ばれている。


ティック・ナット・ハンは、亡命生活を余儀なくされ、南フランスに仏教者の共同体「プラム村」を作り、難民の孤児たちを自らの子供として育てている。世界各地で、講演と瞑想の指導をしている人だという。   
 


「般若心経の文字は、ただ唱えたり、祭壇に飾って崇拝したりするものではありません。これは、私たちが、みずからの解放、すべてのものの解放に努めるための道具として、与えたられたものです。土を耕すための道具のようなものです。農作をするために与えられた道具に似ています。アヴァローキタ(観世音菩薩)からの、贈り物です」と表紙裏に書いてある。


私は、最初のページの写真に目が釘付けになった。それは、プラム村の朝もやの中を我が子として育てている 孤児の娘の手をひいて歩いているティック・ナット・ハンの姿だった。墨絵のようなモノトーンの写真。静謐という言葉でしか表現できないような深い森の静けさ。その森の中を、父と娘が手をつないで歩いている。


なんとも言えない、やさしさ、温かさ、静けさが写真から漂ってくる。ふと、慈悲とか慈愛という言葉が浮かんだ。しばらく、その写真をぼーっと眺めていた。


私は、この写真だけで十分と思った。般若心経の解説本を読んで、頭で理解することよりも、今は、この写真から漂ってくるものを、ただ、感じていたかった。


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心の浄化とからだの浄化

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私は、マサさんに、発病のことや治癒への道のりの中で自分がやってきたことを話した。さらに、病の意味を知るために、自分を知るために、ここ最近は、いろいろなワークショップや瞑想会に出て、自分の内側に入っていくプロセスを歩んできたことなども具体的に話をした。


「とてもいいプロセスを歩んで来たと思うけれど、ちょっと心の方に傾き過ぎていないかな。自分を見つめ直すことは大事だけれど、からだの世話がちょっと疎かになっている気がする。心の浄化とからだの浄化は同じくらいに大事だと思うよ。よかったら、僕がやっている断食合宿に来ない? 宿便が出たら、もっと体質が変わっていくと思うよ」


「断食は前から興味があって、一度やってみたいとは思っていたけれど、私にできるかしら。すごく不安」
「僕がやっているのは半断食だから、そんなにつらくないよ。すまし汁や寒天、おろしリンゴ、玄米のお粥や玄米クリームなんかが出るから、耐えられないようなものじゃないと思う」


「とにかく腸の大掃除をして、腸内細菌叢のバランスを整え、サラサラのきれいな血液にすることが先決だよ。病気になると、みんなからだにいいといわれるものを“入れる”ことばかりやるでしょう。でも本当は、入れることより、まず悪いものを“出す”ことの方が先決。からだの毒素、老廃物を出すためには断食が一番。断食は体質改善の妙法なんだよ。病気は腸から治せって言うでしょう」


「でも、水だけの本断食はすごく苦しいし、リバウンドでものすごく食べちゃうこともあるから、ゆるやかな半断食を定期的やって、少食に慣れていくことが大事なんだ。少食こそが健康の原点なんだよ」


マサさんは、大学の教え子たちにアトピーの生徒が年々増えていることから、ボランテイアで希望する生徒たちに玄米菜食の食養生や、半断食の体験、砂療法による、からだの毒出し体験の合宿を定期的にやっているのだという。


私にとっては願ってもいない話だった。早速、体験させてほしいとお願いした。断食は前々からやろうと思っていて、断食道場のパンフレットはすでに集めていた。でも、全く知らない人ばかりの断食道場に、一人で行くにはもうひとつ勇気がなくて、私にできるのかどうかの不安もあって腰が引けていたのだ。


私にとって幸運だったのは、ワークショップに行くと、たいていこんなふうに、一人か二人、「ああ、私は、今回はこの人に会うために、ここに来たんだ」と思えるような人との出会いがあったことだ。ワークショップは、心の深い体験を共有するので、そのつながりの深さや、丸ごとの自分を出しても受け入れてもらえる安心感があって、そういう友だちが次々にできていくことが、私は何よりうれしかった。


           
               
初めての半断食体験の日がやってきた。想像していたほど苦しくはなかったが、それでも初めての体験だからそれなりにはきつい。だいたい、西式甲田療法は半断食だけではないのだ。全体の修行プログラムが、ほとんどもう苦行の世界。


西式甲田療法はやることがいっぱいある。まずは、西式の運動療法。金魚運動(背骨のズレを整える)、毛管運動(血液を全身にくまなく循環させる)、合掌合蹠(がっしょうがっせき)運動(骨盤の矯正)をコースで1日に3回。もう、むちゃくちゃ苦しい。


でも、やったあとの爽快感、深い深いリラクゼーションはたまらなく心地よかった。苦あれば楽ありってこのことねと思った。楽の大きさは、苦の大きさに比例することを実感。


そして、温冷浴。水とお湯に1分ずつ交互に入る。水風呂がない場合は水シャワーを1分浴びた後、風呂に1分。水、お湯、水、お湯の順番。水5回、お湯4回。水で始まり水で終える。これは自律神経の働きを整えるため、皮膚呼吸を活発にするため、皮膚を鍛え、血液の循環をよくするためにやる。


私は、春から始めたからよかったけれど、冬に水風呂、水シャワーは地獄だろうなあと思った。やるんだったら春、夏からやって、からだを慣らしておいたほうがいい。冬から始めたら、たぶん、私はめげてリタイアしたと思う。


次は、裸療法。それぞれ自分のスペースを確保して下着だけになり、からだに毛布をかける。窓をあけてきれいな空気を入れる。テープを聴きながら毛布をかけたり、裸になったりを繰り返す。裸の時にはからだを動かし、毛布を着ている時には安静にする。私は安静時が瞑想タイム。裸療法の目的は、温冷浴と基本的には同じ。


私が一番つらかったのが青汁だ。土の中の根菜類(人参、山芋、大根、かぶらなど)と、土の上の葉もの(キャベツ、パセリ、ほうれんそう、小松菜など)を5種類以上合わせてミキサーにかけて、青汁というよりは青泥の状態のものを朝晩2回飲むのだ。私は、「ギエー」とか「ギャオー」と吠えたり、吐きそうになりながらこれを飲んだ。なんだか、子供の頃に野菜を全然食べなかった罰でも受けているようだった。


でも、マサさんから「土の上の葉っぱから、天のエネルギーをいただき、土の中の根から、地のエネルギーをいただいて、からだが元気になっていくんだから、感謝して飲むんだよ」と言われ、野菜たちから復讐を受けているみたいなんて思った自分を反省した。


そして、1日に2回、昆布としいたけでだしをとったすまし汁か、寒天か、リンゴおろしをいただく。これがまた涙が出るほどおいしい。寒天だけは、いまいちだったけれども。でも、とにかくお腹がすいているから、それでも有難くはあった。いくら「食べ物に感謝して食べなさい」と言われても、この飽食の時代に食べ物に感謝して食べるなんていうのは、なかなかできることではない。でも断食をすると、たった一杯のすまし汁にも心から感謝の気持ちがこみあげてくる。食べられることの有難さ、食べられるものがあることの有難さ。


マサさんは、「断食をすると、五感の感覚が鋭くなり、からだの野生が戻り、感性が研ぎ澄まされ、からだを養ってくれている食べ物への感謝の気持ちが湧いてくるよ」と言っていたが、やってみるとその意味がよくわかった。とくに、嗅覚、味覚がシャープになっていくのははっきり感じた。


それに実感として、これだけ食べ物がからだに入ってこなければ、錆付いて眠りほうけていた細胞たちが目を覚まし、生きる方向に力を合わせて働きだすというのはよくわかる。からだが目を覚ますというのは、まさに自然治癒力が高まっていくということなのだ。

私は、食べる前に、合掌をしながら唱える「五観の偈(げ)」が好きだった。これは、難しいのとやさしいのと二つあるのだけれど、私は、ティック・ナット・ハン(ベトナムの禅僧)の、このやさしい方の「五観の偈」の方が好きだった。


     
          《   五 観 の 偈   》

この食べ物は宇宙全体・地球・空 そして全ての賜物(たまもの)です。

それらにふさわしい生き方が
私たちにできますように。

貪りなど未熟な心の在り方を
私たちが変えていくことが
できますように

自らを養うものだけをとり
病を防ぐことができますように。

自らの道を歩み進むために
この食べ物をいただきます。


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わたくしという現象は 仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明です

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「賢治の学校」(鳥山敏子主宰)という名前だけに惹かれ、なんの予備知識もなく、私はここにきた。信州の春は美しかったが、ワークショップの会場である廃校になった小学校は寒々しい風景だった。校舎の中に入ったら寒々しいどころか、実際にものすごく寒かった。


人の生きる営みが消えた建物というのは、どうしてこんなに冷たく感じられるのだろう。人の息吹というものが建物にいのちを与えるのだろうか。冷え冷えとした教室のそこここに、いくつものストーブが置かれていた。小学校の教室とストーブというのはなぜか不思議に似合う。


不思議だと思うのは、ストーブとか炬燵、囲炉裏や暖炉には、浮かんでくるある情景や情感、日常、非日常の小さな物語があるのに、ファンヒーターやセントラルヒーテイングにはそれがあまりないことだ。


私は、ワークショップをやる教室があまりに寒かったので、ストーブの前にしゃがんで、かじかんだ両手をストーブにかざした。この姿勢をとるだけで懐かしい感覚が蘇ってくる。ストーブの、あの赤々とした火の色を見つめながら暖をとっていることが、ただそれだけで幸福だった頃があったことを思い出す。


後に一緒に仕事をするようになるとは、この時には露ほどにも感じていなかったマサさんと初めて出会ったのが、この賢治の学校だった。マサさんは、学校の先生みたいな雰囲気があったので、私はてっきり講師か、職員の方か、あるいは用務員さんかしらと思った。


それに、うちの父親くらいの年に思えたので、とても参加者には見えなかったのだ。だから、始まって輪になった時に、その中にマサさんがいたのを見た時、正直、びっくりしたのだ。


40人くらいの参加者がいる中で、なぜか、偶然マサさんとペアになってワークをすることが多かった。食事の時も、私が一番最後に食堂に行って、空いている席に腰をかけると、隣がまたマサさんだったりした。


ワークショップでは時々起こることなのだが、マサさんはあるワークでかなり劇的な内的体験をした。私は目の前にいたから、一体何が起きているのだろうと、最初はかなり驚いた。


でも、何かマサさんの内側ですごいことが起きているということだけはわかった。それは、いわゆる魂の領域に属する体験であろうことだけは感じ取れた。ペアになってワークをやった私が、その体験の触媒になったようだ。


マサさんは、自身の母校でもある某国立大学の先生だった。まだ定年には早すぎる年齢だけれど、その仕事をやめることに決め、人生最後の仕事を見つけるために、一度自分を見つめ直そうと思ってここに来たと言っていた。年を聞いたら51歳だという。白髪交じりで、頭頂部は随分薄くなっているので、私はてっきり60歳を超えていると思ったからすごく意外だった。でも、なぜこの人は、この年で、“人生最後の仕事”なんて言うのだろうと不思議に思った。


マサさんが教師になったのは、賢治の影響が色濃いと言っていた。賢治のような先生になりたかったらしい。私は、賢治のことをこんなに話ができる人に初めて会ったので、休み時間や、夜ワークが終った後、いっぱい賢治についての話をした。


賢治の詩集「春と修羅」の序文にある「わたくしという現象は 仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明です」という出だしを高校時代に読んだ時に、「えっ、私という存在、私の人生って現象なの? なんで私が青い照明なの?」と、言葉の意味もわからないのに、ものすごいショックと感動を覚えたという話をした。


賢治の「農民芸術概論綱要」という本も、とても難解な文章で理解しにくいのに、やはり私はすごくショックと感動を受けたのだ。私は、マサさんに「言葉の意味もわからないのに、どうして私は感動したんだろう」と言ったら、マサさんはこんな風なことを言った。


「賢治の文章というのは理解するというよりは、感じるものなんだ。頭で、知的にわかろうとしても難しい。方言で書かれているのはなおさらね。でも、賢治の文章、言葉って、わけがわからないのにショックを受けたり、感動したりするじゃない。それでいいんだ。意味がわからないのに何かを感じて心が震えている、その感性こそが大事なんだと思う。僕は、自分はあまり信用していないけれど、自分の感性は信じているんだ」


私は、マサさんに賢治の詩の中で何が好きかと尋ねた。共通して好きだったのは、「永訣の朝」「無声慟哭」「生徒諸君に寄せる」という詩だった。私の大好きな物語の『銀河鉄道の夜』『夜鷹の星』『セロ弾きのゴーシュ』の話もした。


マサさんは、若い頃はクリスチャンなのに、仏教や、老荘思想も好きで、大学時代は全共闘の西日本の書記長をやっていたというから、ちょっと変わった人だったのだろう。


もし、ありのままの自分を受け入れられなかった頃の私が、マサさんと出会っていたら、最も苦手なタイプとして敬遠していたかもしれない。人を見透かしてしまうようなまっすぐな眼がとてもこわいし、眉間にある縦じわも、すごく厳しそうな人という印象を与えるからだ。


約一回りも年上のおじさんだし、普通だったら私はあまり親しくなれないタイプだけれど、この時は、賢治が好きだという共通項があったし、ワークで貴重な体験が共有できていたから気さくに話ができた。


マサさんは、『農民芸術概論綱要』に大きな影響を受け、有機農業運動に取り組み始めたのだという。その後、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(新潮社)に衝撃を受けたことがきっかけになり、食品公害、環境問題、原発問題に取り組む道に歩み出したようだ。


その道を歩き出したら、今度は、医者であり、敬虔な仏教徒でもある、故・柳瀬義亮先生に出会う。柳瀬医師は、“医と農と食”の問題は同根であることをいち早く世間に知らしめ、有吉佐和子さんの『複合汚染』の中にも実名で登場する医師だ。柳瀬先生は、マサさんの人生に最大の影響を与えた人らしい。


その後、親友が難病で余命3ケ月と言われ、現代医学では治癒の見込みなしと言われたにも関わらず、甲田光男医師(大阪八尾市・甲田医院院長)との出会いがあり、その親友が6年も生きられたという体験をする。マサさんは、それから、甲田先生にも師事し、西式甲田療法(断食療法、生菜食療法、西式の運動療法)を学んだという。


マサさんは、先の2冊の衝撃的な本との出会い、二人の尊敬する医師との出会いによって、現代医学の問題にも取り組むようになる。マサさんは、有機農業運動及び環境問題に関わりながら、大学で教鞭をとり、「医と農と食の関係性と問題」「持続可能性社会を創るための価値観の転換」について講義をするようになる。


マサさんが、教師として、生徒たちにいちばん伝えたかったことは、地球といういのち、食べ物といういのち、自分といういのちは、みんなつながっているという「いのちの教育」だったという。


「僕は、ずっと教師をやってきたんだけれど、でも、この人生で僕が本当にやりたかったのは医者だったんだ。子供の頃から医者になることしか考えていなかった。それ以外の仕事なんて全く考えられなかった。夢があったから、目標があったから、相当に勉強したよ。県下で一番の高校にも入った。医者になったら、精神科か、今でいう心療内科のような、人の心の問題に関わる医者になりたかった。でも、高校の時に家の経済的な問題が起きて、医者になる夢を断念しなければならなかったんだ。自分の人生はこれで終ったと思った。それからは、手の付けようがないほど荒れた。思い出したくもないよ、その頃の自分のことは。それでも、もう一度立ち上がって、生き直しをしたけどね。ものすごく苦しかったよ、自分の人生の新しい道を見つけるまでは・・・」


マサさんの眉間にある1本の深い縦じわの意味が、話を聴いている内になんとなく納得できた。さらに、ワークの中でもっと深い悲しみや傷を負った人であることもわかった。だからこそ、この人は、人の心の問題に関わる医者になりたかったのだろう。

世界がぜんたいに幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない


自我の意識は個人の意識から集団社会宇宙へと次第に進化する

この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか

新たなる時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

われらまずもろともにかがやく宇宙の微塵(みじん)となりて無方の空にちらばろう

われらは世界のまことの幸福を索(たず)ねよう

求道(ぐどう)すでに道(タオ)である

    宮沢賢治「農民芸術概論綱要」より

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プロフィール

岡部 明美岡部 明美

ワークショップ・トレーナー/セラピスト/カウンセラー/研修講師/文筆家/東海ホリスティック医学振興会顧問。

独身時代は、シンクタンクにてマーケティングプロデューサーとして活躍。30代半ばで結婚。長男出産直後に脳腫瘍と水頭症を発病し生死を彷徨う。自分の死に直面するという体験を通して、いのちの根源からの問いの答を求めて自己探求の道に歩みだす。著書に「もどっておいで私の元気!」(善文社)「私に帰る旅」(角川学芸出版)

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