岡部明美のスピリチュアルな旅で出会った”もの・人・場・言葉たち”

2008年04月

いのちのバトンを渡された

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マサさんは、私たちにずっしりとしたものを残して次の世界に旅立っていった。残されたものたちは、それぞれがマサさんから自分はどんな“いのちのバトン”を渡されたのかを自分で問うしかないのだ。


死者というものは、残してきた人たちそれぞれに「宿題と贈り物」を手渡して旅立つのかもしれない。私も大きな宿題をもらったような気がするし、目には見えない贈り物をたくさん手渡されたようにも思う。

それが、何であるかを見詰め続け、感じ続け、それを活かして生きることがマサさんへの最大の供養であり、私がこれから生きていく上でとても大事なことのように思う。

56年という歳月がマサさんの人生の縦糸、天寿であったとしても、よりによって、私がリトリートまでのことを書く本を執筆している最中に、リトリートを一緒に始めた人が亡くなってしまったのだ。これが偶然であるわけがない。もしそれが神の計画であるとするならば、それにはどんな目的があるのか。人生に起こる出来事に偶然などないのなら、マサさんは自分の死によって何を伝えたかったのだろう。

こんな思いを抱きながら生きていた時期だったからなのかもしれないが、私はこの頃、立て続けにとても感動的な映画を見た。「地球交響曲 第3番」に出てくる写真家の星野道夫さんの死、チベットの映画「キャラバン」に出てくる長老の死、「パッチ・アダムス」に出てくる主人公の妻の死。3本とも泣けて、泣けて仕方がない映画だった。

たった一人の存在がいなくなることが、どれだけ周囲に、世界に影響を与えるか。その影響力と、残された者たちの混乱と悲しみこそ、その人の生の深さ、愛の深さ、生の充実と輝きを物語る。


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病の時は、恵みの時

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私は、マサさんの発病から死までのプロセスに立ち会って、改めて、今、日本の医療が抱えている問題というものにいろいろ気づかされ、新たな問題意識が生まれた。


人は、生まれてくる時には、あんなに祝福されてこの世に誕生するのに、どうして元いた場所、魂の故郷に帰ってゆく死の時には、チュ-ブだらけのあんな悲惨なからだになって、暗くて、不安と恐怖と悲しみだけの時間になってしまうのだろう。


私は今頃になってやっとマサさんが生前言っていたことを思い出した。「自分の大切な人の最後の場面が、チュ-ブだらけの痛々しいからだというのは悲しいよね。僕はああいう死に方はしたくないな」。そういえば、マサさんは、こんなことを言っていたのだ。


この人生の旅路を終える時には、誕生の時の場面のように、患者さんが本当に望んでいることをしてもらえる心のこもったターミナルケアであったら、どんなに患者さんは幸福だろう。死は、もうひとつの世界への誕生なのに。

生だけが幸福で、死は不幸という考え方そのものが、生を根源において、恐れを動機として生き延びようとするエゴの欲求、貪欲で脅迫的なエネルギーにしているのではないだろうか。人は誰もが必ず死ぬのだ。肉体は永遠ではないのだから、生に幸福を求めるように、死に方にだって幸福を求めたっていいと思う。

もちろん最後まで、患者さんの、治りたい、まだ生きていたいという希望を奪うことなく、あきらめず患者さんが望むどんな方法をもってしても助けてほしいとは思う。

でも最善を尽くした結果として、亡くなってしまった場合には、やれるだけのことはやった、幸せに死んでいった、笑って死んでいった、感謝しながら死んでいった、やすらかな顔で死んでいったと、残された人たちが後で思えるような最後であったら・・・。そんな愛のあるターミナルケアが増えていってほしいと痛切に思った。

その為には、「病気は悪」「死は敗北」「肉体の死とともにすべては無に帰する」と考える西洋医学の疾病観、人間観、死生観そのものが根本的に変わっていかなければならないと思う。無というのは、ゼロではなく、ないのではなく、すべてという意味なのだから。終わりというのは、常に、新しい始まりなのだから。

マサさんは日頃、「からだにやさしいがん治療が受けられる所がもっと増えていくといいよね。そういうものにも保険が利く時代になるといいんだけど。日本のがん医療は欧米に比べて本当に遅れてるよ」と言っていた。

日本で代替医療を受けられるところは極めて少ない。あっても混んでいてすぐ入院できなかったり、入院施設がなかったり、遠隔地だったり、保険の適用がきかない自由診療になるため、費用が重んであきらめざるえないことも多い。様々な制約と限界があることを痛感した。

マサさんも、一度は遠隔地の病院に転院したが最後まではいずに退院してきた。自助療法は寝たきり状態になってからは全くできなくなったので、マサさんが望む手当てはスタッフがやるしかなかった。

私の元患者仲間には、自分の病の治癒経験を活かして、自分が利用して効果があった自然療法や代替療法、食養生、セラピーなどを人にも伝えられるようになったり、資格をとってやれるようになった人たちが結構いる。しかし、その体験や学びや資格を活かせる場がないこと、経済的に成り立たないということであきらめている人たちがいっぱいいる。

なんだかこんなことを書いていたら、もしかしたらマサさんは、自らのがん闘病と死を通して、私にそういった疑問や失望や希望を書かせたかったのだろうかとさえ思えてくる。マサさんは本当にうらやましいほどに、自分が最も望んでいるものを目一杯体験していったからだ。やってあげたのは医療者ではなく、マサさんに深く関わってきた人たちだったけれど。こういう手当てこそ、患者は医療者にもやってほしいものなのに。

マサさんに手当てをしてあげたのはスタッフばかりではなかった。私もマサさんも尊敬し、慕っていたテルミーの兵頭先生が、奉仕でマサさんにテルミーをかけに病院まで度々来てくださった。兵頭先生は、70代後半のご高齢であるにもかかわらず、自宅から2時間以上もかけて病院まで来てくれて、マサさんだけでなく介護をしている私たちスタッフにまでテルミーをかけてくださった。

兵頭先生は信仰を持たれている方だからだろうか、テルミーをかけている姿に愛と祈りがあった。私は、マサさんにテルミーをかけている兵頭先生の姿を見ているだけで涙がこぼれそうになった。兵頭先生のお姿が、マザーテレサと重なった。

私はこの時、信仰というものは、人の姿を美しくするものなのだということを改めて感じた。本当の信仰というものは人を謙虚にし、その立ち居振る舞いは凛としていて、行動的で積極的でありながらも、どこか静かで穏やかだ。ただ淡々と自分の魂の仕事をしている人の姿、神の存在を心から信じている人のたおやかさ、やさしさ、強さ。その存在そのものに人は癒されるのだと思う。

兵頭先生は、マサさんを「なんだか息子みたいな感じがするんですよ」とおっしゃっていた。年齢的にみたら、確かに若くして子宮がんで亡くなったというマサさんのお母さんくらいのお年だったと思う。

その兵頭先生が、テルミーをかけてくださった後にくれたのが、「病気になったら」(晴佐久昌英神父 作)という詩だった。心に深く響いてくる素晴らしい詩だった。私はこの詩をマサさんの枕元で朗読した。

私が朗読を始めると、マサさんは、最初、泣きたいのを我慢しているような、怒っているような、困ったような顔をして聴いていた。でも、最後に涙を一筋流して「ありがとう」と言った。苦しい闘病生活で、初めて私の前で流した涙だった。

がんこで、意地っ張りで、甘えるのがヘタで、助けてって言えなくて、人に弱さをさらけだせないマサさん。いや、たぶん男の人はみんなそうなのかもしれない。強くなければ男じゃない、男は泣いてはいけないと教えられ、がんばって生きてきたのだから。

だから、病気は本当にチャンスなのだ。自分が本当はしてほしかったこと、本当は言いたかったこと、言ってほしかったこと、甘えること、ゆだねること・・・。こうした「愛と感謝」「つながりやぬくもり」「許しと和解」を体験できる最高のチャンスなのだ。病気というのは、本当は天からいただいた恵みの時なのだから。

         《   病気になったら   》

病気になったら どんどん泣こう
痛くて眠れないといって泣き
手術がこわいといって涙ぐみ
死にたくないといって めそめそしよう

恥も外聞もいらない
いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て
かっこわるく涙こぼそう
   
またとないチャンスをもらったのだ
自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスを

病気になったら おもいきり甘えよう
あれが食べたいといい こうしてほしいと頼み
もうすこしそばにいてとお願いしよう
  
遠慮も気づかいもいらない
正直に わがままに自分をさらけだし
赤ん坊のようにみんなに甘えよう
  
またとないチャンスをもらったのだ
思いやりと まごころに触れるチャンスを

病気になったら 心ゆくまで感動しよう
食べられることがどれほどありがたいことか
歩けることがどんなにすばらしいことか
新しい朝を迎えることがいかに尊いことか

忘れていた感謝のこころを取りもどし
この瞬間自分が存在している神秘
見過ごしていた当たり前のことに感動しよう
  
またとないチャンスをもらったのだ
いのちの不思議を味わうチャンスを

病気になったら すてきな友達つくろう
同じ病を背負った仲間
日夜看病してくれる人
すぐに駆けつけてくれる友人たち

義理のことばも 儀礼の品もいらない
黙って手を握るだけですべてを分かち合える
あたたかい友達をつくろう
  
またとないチャンスをもらったのだ
試練がみんなを結ぶチャンスを

病気になったら 安心して祈ろう
天にむかってすべてをぶちまけ
どうか助けてくださいと必死にすがり
深夜 ことばを失ってひざまずこう

このわたしを愛して生み 慈しんで育て
わが子として抱きあげるほほえみに
すべてをゆだねて手を合わせよう
  
またとないチャンスをもらったのだ
まことの親に出会えるチャンスを

そしていつか 病気が治っても治らなくても
みんなみんな 流した涙の分だけ優しくなり
甘えとわがままを受け入れて自由になり
感動と感謝によって大きくなり
友達に囲まれて豊かになり
信じ続けて強くなり
自分は神の子だと知るだろう
  
病気になったら またとないチャンス到来
病のときは恵みのとき

   
      詩集「だいじょうぶだよ」より(晴佐久昌英著・女子パウロ会)


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生の残像

WS000473.JPG死者は、生者にずっしりとしたものを残す。その重みは、その人の「生の残像」「存在の余韻」。自分とその人との関係性の中で刻まれた歴史、その物語が消えてしまったことの淋しさ。生きて別れるも、死んで別れるも同じ。大切な誰かを失う度に自分のいのちが削られるような痛みを感じる。


人が生き、そして、死んでゆくという、営々と続くいのちの自然な営みに、人はどうしてこうも慣れることができないのだろう。何人もの人を見送ってきたけれど、私はどうしても人の死に慣れることができない。人を失う度に呆然と立ちすくんでしまう。

マサさんの死を通じて考えさせられたことは無数にあるのだけれど、そのひとつが、亡くなった人の家族や友人、心の深いつながりを持つ人たちにとっては、“死にゆく人の風景”の中に、その人との心の触れ合いがあたったかどうか、愛にあふれる看取りができたかどうかが、後の喪失の痛みを癒してくれるものなのだと思えたことだ。

そして、渦中にいる時には全くわからなかったことが、今になってその意味がわかるということがたくさんあった。そのひとつが、なぜマサさんがクリスマスの前に突然退院してきたかということだ。

おそらく、マサさんは病院で死にたくなかったのだと思う。マサさんは入院中のある時点で自分の死期を感じ、自宅に戻る決心をしたのではないだろうか。クリスマスやお正月を病院で過ごすことは悲しいし、クリスマスに病院で死ぬのは淋し過ぎるもの。

自分の魂の故郷に帰る前に、マサさんは一度地上での我が家に帰って来たかったのだと思う。きっと、いつもの自分の布団で寝たかったのだろう。見慣れたものの中にいる安心感。いつものコップやお茶碗や自分の箸。いつもの風景。いつもの顔。それに囲まれていることがどんなに心安らかでいられることか。

しかし、私やスタッフの誰もがあの時にはその意味が全くわからなかったのだ。私たちはマサさんが自宅療養しながら病気を治す気でいるのだと信じて疑わなかった。

マサさんが亡くなる日まで私はマサさんの生還を信じて疑わなかったのだ。末期がんから生還した人を私はけっこうを知っていたからだ。だからこそマサさんの死は、私にとってあまりにもショックだったのだ。マサさんが死ぬかもしれないという心の準備が全くできていなかった。でも本当は考えたくもなかったのかもしれない、こわすぎて。

しかし今振り返れば、確かにマサさんは自宅に戻ってきてからは病院にいた時と様子が違っていた。病院にいる時は一日中誰かの手当てを望んでいた人だった。

私たちは交代で、枇杷の温灸(ユーフォリア)、イトオテルミーの温熱療法、足裏マッサージ、気功、アロマセラピー、全身マッサージをやってあげていた。
マサさんは、末期肺がんが腰椎5番に骨転移していて、その痛みがすさまじく、入院初期の頃は、モルヒネを使わなければいけないほどの激痛に苦しんでいた。

しかし、モルヒネを使い続けていたら、マサさんは、ほとんど一日中寝てばかりで、たまに起きても目が白濁していて、だんだん廃人のようになっていったのだ。

しかし、驚いたことにマサさんは、私たちが交代で様々な手当てをするようになってからは、モルヒネを使わなくなったのだ。目も元々のマサさんの正気の目に戻った。

でも、その代わり、たえず誰かが手当てをしてあげなければいけなかったから大変だった。自然療法は、まさに愛の療法だ。しかし、その肉体的努力、時間的努力は相当なものだ。一人では荷が重過ぎる。たくさんの人の協力が必要だった。

私は、様々な代替療法、自然療法の手当て法を自分で体験してきたけれど、これらは、病気を治癒につなげるもうひとつの道であるとともに、ターミナルケアにとっても本当にいいものだと思った。病院で、ホスピスで、こういった手当てが受けられたら、患者はどれだけ癒されるだろう。家族はどれだけ助かるだろうか。

なにしろ、痛くない治療であるだけでなく、からだは気持ちいいし、心が満たされるからだ。病の最大の敵である“孤独感”も癒される。人が心の奥底で本当に求めているのは、ただただ愛だけなのだから。

ましてや死に直面するような病気の人であれば、どれだけ人のぬくもりや愛を求めているだろうか。現代医療に欠けているのが、その視点、配慮、眼差しなのではないかと思った。


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奇跡が起こることを信じよう

WS000470.JPG私がマサさんの発病、余命3ケ月ということを知らされたのは、初めてマサさんがいない1週間の断食合宿をリードする初日だった。始まって最初の休憩時間に和ちゃんがスタッフ全員を集めて、「落ち着いて聴いてね。奇跡が起こることをみんなで信じよう。祈ろう」って言いながら事実を話してくれたのだ。

私は、頭が真っ白になった。和ちゃんの言っていることの意味がわからなかった。マサさんが末期の肺がん? 余命3ケ月? もはや神に祈るしかない段階? 何それ、一体どういうこと! 

なんでタバコも吸わず、お酒も飲まず、玄米菜食の食生活をし、毎日の運動、瞑想を欠かさず、「この仕事をするために今までの人生があったんだ」というくらいリトリートを愛していたマサさんが、いきなり末期の肺がんなの!

あんな健康的な生活をして、生甲斐のある仕事をしている人ががんになるのなら、がんなんて防ぎようがないじゃない。だいいちマサさんは、私の病気を治癒に導いてくれた人の一人じゃない。私を健康にしてくれた人が、なぜ自分ががんになんかならなければいけないの!

ライフスタイルに問題がないのなら、この1年マサさんの一身上に起きた出来事がストレスになってがんになったのだろうか。あまりにまじめでストイックな生活や生き方が逆にとらわれを作ってしまっていたのだろうか。心の奥に深い悲しみをもった人だったから、それがまだ癒されていなかったのだろうか。私の言動や態度がストレスを与えてしまったのだろうか。マサさんは、もう自分のこの世での使命は果たしたと思って逝ってしまったのだろうか・・・。

考えれば考えるほど私の頭の中は混乱し、いろいろな感情が渦巻き、どうしていいかわからなかった。こんな状態で、どうやってこの1週間の合宿をリードしていけるというのだろう。

今回の合宿は今までの中で最も参加人数が多く、30人もの方が全国から、この伊豆の「いりあい村」まで来てくれた。でも、和ちゃんが、「みんなで力を合わせて1週間を乗り切ろう」と言ってくれたことでどうにか気を持ち直した。

この合宿では、今まで体験したことがないような不思議な現象がたくさん起きた。でも、その体験は決してこわいものではなく、むしろ背後で何か大きな力が働いている、守られているといった安心感を与えてくれるものだった。

何よりこの時の私は、頭はパニックになり、心は動揺しまくっているにも関わらず、この状況に全く巻きこまれずに、すべてをただ静かに眺めているもうひとりの私がいたことを知っている。その感覚、意識は、今にして思えば、あの生死を彷徨う闘病生活をしていた時に体験したものと全く同じだった。

後に、スタッフとなり、私のアシスタントをやってくれるようになる朋は、この時の参加者だった。もしこの時に朋と出会っていなかったら、その後のマサさんの介護を含め、次々に起きてくる問題に私は対処しきれなかったと思う。

しかし、4ヶ月に渡るみんなの必死の介護も祈りも空しく、マサさんは56年の人生を閉じて逝ってしまったのだ。マサさんの発病がわかった日から亡くなる日まで、いや亡くなったあとのプロセスに到るまで、いろいろな人たちが誠心誠意、支えてくれて、様々な援助をして下さった。

介護という形の援助、励まし、慰めという精神的援助、また、高額な費用がかかるホスピスだったため、経済的な援助をしてくれたリトリートの参加者の方々もいる。玄米のおにぎりを作ってお見舞いに来てくれた人、様々な手当てをしてくれた人、免疫をあげるいろいろなサプリメント、健康食品を送ってくれた人、ただ横に座りマサさんの手を握り締めていた人、飛行機による転院に付き添ってくれた人たち・・・。

わずか1回か、2回、リトリートに参加してくださった方々なのに、どうしてここまでの献身的な援助、愛のある慰めや励ましをくださるのだろうと、本当に一人ひとりの存在が、そのやさしさがうれしかった。なんという素晴らしい出会いをしてきたのだろうと思った。


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残されたものたちにとっての死の意味

WS000468.JPG青春時代、私は、自分の生きたい人生を思い描いた時に「根っこ」と「翼」がほしいと思った。この二つが、私の人生の両輪になると思った。日常の暮らしを共に生きるパートナー、家族、友だち。それが私の人生の「根っこ」、人生の礎。大地の贈り物。


そして、「翼」は、私が今回生まれてきた目的、この世でなすべき私の仕事、その仕事を、“意志”や“夢”や“喜び”を同じくする人たちと一緒にやっていきたかった。その仕事のパートナー、チームのメンバーは、私にとって同士であり、もうひとつの魂の家族のように思えた。それは、空からの贈り物。

リトリートは、私にとって、空からの贈り物だった。その中心人物が、あっという間に空に還っていってしまった。マサさんは何のメッセージも残さずに雲散霧消。リトリートは空中分解した。

マサさんの死後、感情的に混乱していた私を救い出してくれた2人の先生がいた。その2人の先生とは、行徳哲男先生(日本BE研究所所長)と、伊東充隆先生(医師・セラピスト)だった。

この新しい出会いは、その時には偶然のように感じていたのだけれど、振り返ればその時の私は、私を助けてくれる人、新しい人生のステージに踏み出す勇気を与えてくれる人を求めていたのだと思う。

実際、新しく出会ったその2人の先生の援助によって、滞っていた私のエネルギーが流れはじめて、長い間中断していた新刊の原稿の続きを書き出せそうな元気は確実に戻ってきたのだ。ただ、元気にはなれたものの、具体的に何をどのように書けばいいのかがもうひとつわからなくて悩んではいた。

なぜなら、生というのは、生きている人にとって意味があるものだけれど、死というものは、残された人たちにとって“それぞれの意味”があるものだからだ。同じ体験をしても、同じプロセスを見てきても、それぞれが、そこで感じていたこと、心の中で起っていたことは違う。マサさんの死の受け止め方だって、一人ひとりがみんな違うはずなのだ。果たして私が書いて良いものか。

私がマサさんの死に勝手な意味づけや解釈をすることによって、傷つけてしまう人、違和感を抱かせてしまう人だっているかもしれないのだ。やはり今度出す本はこの前の章で終らせた方がいいのではないか。

でも、こんなことが起きてしまったのにそれではなんの意味もないではないか・・・。考え始めると、頭は決まって堂々巡りに陥った。私の最大の疑問は、なぜリトリートのことまでを書くことになっている本を書いている最中に、リトリートを一緒にやり始めた人が亡くなってしまったのかということだった。

一体これはどういうことなのだろうか。もしこのことが必然として起きたものならば、マサさんは、自分の死を通して、私に書かせたかったものがあるのだろうか、気づかせたかったものがあるのだろうか。

まさか、そんなことがあるわけない。でも、じゃあどうしてこんなことが起きたのだろう。わからない。私の頭は混乱し続けた。何かを書きたいと思っている私がいるのにそれにブレーキをかけるものがあった。それは、マサさんの死に逝くプロセスには本当に多くの人が関わってくれたし、何よりもマサさんにはご遺族がいらしたからだ。

マサさんはずいぶん前に離婚をして一人暮らしをしていたから、4ケ月間の介護は最初から最後まで毎日スタッフがやってくれた。つきっきりの介護をしてくれたスタッフもいる。食事を食べさせ、下の世話もし、朝から晩までマサさんの手当てをしてあげた。

私の中でブレーキをかけるものは、マサさんの死に逝くプロセスに立ち会った人たちの誰をも傷つけたくないという思いだった。でも、どんなに傷つけたくないと思っても、こちらに傷つけるつもりなど全くなくても、その人には、その人の想いや、受け止め方、感じ方、マサさんとの思い出があるから、誰をも傷つけないもの、誰一人傷つけないやり方というものはありえないのだ。死というものは、それほどにナイーブなものだから。

それを思うとどうしても書きだすことができなかった。でもマサさんが私に書かせようとしているものがあるという実感も拭えず、その二つの気持ちの間で私は揺れ続けた。

その葛藤の時間が長く続き、せっかく2人の先生との出会いのお陰で原稿が書き出せそうなエネルギーが戻ってきたにも関わらず、私はなかなかパソコンが開けなかった。

そんな日々をすごしている内にどうしても書きたいという思いの方が強くなってきた。書くことが、私にとってマサさんへの供養になるのではないかと突然思ったのだ。ずっとくすぶっていたこの気持ちは、「私は、マサさんの供養をちゃんとしていない」という思いだったのだ。

“供養”という言葉が、心の深い実感からあふれてきたのは人生で初めての体験だった。書こう。とにかく書いてみよう。そして、書いた原稿をマサさんの死に逝くプロセスに立ち会ってくれた人たちに見てもらい、違和感を覚えたり、不快感を感じたら、正直に言ってもらおう。それ以外に原稿の続きを書く方法はないように思えた。


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最も怖れていた「喪失」と「終焉」

WS000463.JPGマサさんが突然この世から姿を消してから、私はしばらく自分がどこをどう歩いていたのかよくわからなかった。日々は滞りなく流れていたけれど。私は毎日ご飯を作り、洗濯をし、仕事もし、新しい出会いも体験もあり、私の外側はちゃんと時間が流れ、人生は前に進んでいるかのように見えた。


でも、私の内側では時が止まったままだった。私はうずくまり、身動きできないままでいた。マサさんの死を私はどう受け止めていいのかわからなかった。耐え難いほどの喪失感だった。心の中にぽっかり穴が開いたような、足元の地面が崩れて、そこにズブズブと自分が落ちていくような感覚があった。

これから歩いていくはずだった道が突然消えてしまった。この川を渡って次の山に行こうと思って橋の上を歩いていたら、急にその橋が真っ二つに割れて、下の川にまっさかさまに落ちてしまったような感じがした。

一体、自分の人生に今何が起きているのか。なぜこんなことが起きたのか。なぜ人生には次から次へとこんな辛い出来事が起きてくるのか。やり場のない怒りやくやしさが込み上げてきてどうしようもなかった。いろいろなことを乗り越えて、やっと自分が本当にやりたい仕事が見つかって、リトリートも順調に動き出したというのに。

この数年、親しくなった人を次々に亡くしてきた。ひとり、またひとりと、この世界から消えていった。そして、ついにマサさんまでが逝ってしまった。なんで、どうして!という思いばかりがこみあげてきた。悔しさと悲しみで心が凍りついてしまったような日々を過ごしている内に、今度は、あれが悪かったんだろうか、これが悪かったんだろうかと自分を責め始めた。いろいろな感情が吹き荒れて、私はひどく混乱していた。

「仲良くなった人たちが亡くなっていくのがつらいから、もうリトリートをやめてしまいたい」なんて私が言ったからだろうか。丁々発止とやりあった私の言動がストレスを与えてしまったのではないだろうか。

もっと違う病院、違う治療法、違う先生を選んでいれば助かったのだろうか。マサさんに治ってほしくて、「がんばれ、がんばれ。大丈夫、絶対治るから」と言うメッセージを出し続けたことが、マサさんには、すごく負担だったのではないだろうか。もし死ぬということがわかっていたら、伝えておかなければいけないメッセージもあったのに。もっといっぱい「ありがとう」と言わなければいけないくらいお世話になったのに。

後悔、無念、怒り、無力感、喪失感、自責、なぜという問い・・・。頭の中はいつも同じところをグルグル回り、苦しくて苦しくて仕方がなかった。

私は、両親も弟たちも健在だし、夫も子供も元気だし、何十年という長い年月つきあってきた友人の誰ひとりも亡くしたことはなかった。人生を共に生きてきた身近な人間を失うという意味では、マサさんの死は人生で初めての体験だった。

「喪失」と「終焉」は、昔から私が最も怖れてきたものだった。喪失も、終焉も、死を意味する。すべてがいつか必ず終る。出会ったものは必ずいつか別れの時が来る。生きて別れるか。死んで別れるか。永遠に続くものなど何ひとつない。この世の諸行無常・・・。

その世界に生きているということが、子供の頃から、悲しくて悲しくて仕方がなかった。すべてのものが移り変わり、すべてのものが流れ去り、すべてのものが終ってしまうこの世界。そんな幻想の世界で、人は、喜んだり、はしゃいだり、夢中になったり、愛し合ったり、目的や目標を達成して満足している。でもそんなものは所詮、一時の満足、慰め、気休め、戯れに過ぎないじゃない。すべてが絵空事、ゲーム、幻影なんだもの、この世なんて。

どうせ死ぬのになぜ生まれなければいけないのか。どうせいつか別れるのになぜ出会わなければいけないのか。どうせいつか終るのになぜ始めてしまうのか。心の奥底にずっとあったそんな暗闇がまたもや押し寄せてきて、すべてが空しく、悲しかった。

マサさんの死は私が最も怖れていた「喪失」と「終焉」を同時に体験することだった。やっと見つけた自分のライフワーク。それを一緒にやっていく人。仕事とパートナーの両方を失ってしまった。その喪失感は、片腕をもぎとられたような痛みだった。

いいスタッフにも巡りあえたのに。何もかもが一気に掌からこぼれ落ちてしまったと思った。私はひきこもってしまった。一緒にやってきたスタッフ、いい仲間たち、私を心配してくれる人たち、家族、そんなやさしい人たちに囲まれ、みんなが支えてくれたのに、自分勝手に壁を作って殻のなかに閉じこもってしまった。

人の愛が受け取れなかった。そんな自分がいやで、また自分を責めた。前に進もう、立ち上がろう、すべては運命だったのだと言い聞かせても、止まってしまった時計の針は全く動き出す気配もなかった。

私はあらゆる感情の中で、悲しみという感情が最も痛くて辛くて、それを感じることからいつも逃げ回ってきた。私は他のことならどんな試練でも耐えられる、がんばれる、我慢もできる。でも、悲しみだけは耐えられない、辛過ぎる。途方に暮れる以外どうしょうもできなかった。

マサさんの死後、マサさんが尊敬し大好きだった「いりあい村」のオーナー、菊池周さんまでが亡くなられた。菊池さんが丹精込めて作った畑、そこで育つ元気な野菜、たわわに実る果物。野生のハーブたち。「いりあい村」は、いのちが輝く元気な大地だった。その畑も今はない。形あるいのちが次々に消えていった。

人も仕事も場も全部終ってしまったと思った。毎月、「いりあい村」に行くために乗っていた東京駅発、「伊豆急踊り子号」のホームが見られなかった。私は、9番、10番という看板すら見ないようにして東京駅を歩いていた。

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岡部明美の新刊『私に帰る旅』(角川学芸出版)が全国発売されました。

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永劫の時の中へ消えていった

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1999年・12月18日  マサさん永眠。享年56歳。

マサさんが死んだ。クリスマスツリーの横で。クリスマスを迎えることなく。病に伏して4ケ月目だった。亡くなる数日前、もう殆ど出ることもなくなった掠れた声でこう言った。

「その来年のカレンダーは、はずして」
私は、スタッフと一緒にわざわざ東京駅まで出かけて買ってきたマサさんの好きな画家のマティスと、版画家の名嘉睦年さんの2000年のカレンダーを壁からはずした。そして、その通りにマサさんに2000年は来なかった。

マサさんは、もう逝くことを決めていたのだろうか。誰も、少なくとも、私やマサさんの介護をずっとやってくれていたスタッフたちの誰もが、最後まで奇跡が起きることを信じて疑わなかったのに。何度も奇跡のようなことが起きていたから。

「マサさんが今息を引き取った」という電話がスタッフから自宅にあった時、私は意味がわからなかった。「息が止まったのなら、続けて息させて」と思った。息を引き取るということが、死を意味しているということが、私は瞬時には理解できなかった。

マサさんが死んだ? どういうこと、何それ、冗談でしょ。私は、何が起きたのか、事態が全くわからなかった。現実感がまるでなかった。急いで電車に乗り、マサさんの自宅に向かったものの、私はどこをどう歩いて行ったのか全くわからなかった。まるで私は夢遊病者のようだった。

マサさんが布団に寝ていた。私は、マサさんの顔と首に触れた。温かかった。嘘でしょう、マサさんが死んだなんて。だって、温かいじゃない。死んでいる人が温かいわけないじゃない。体温がある人が死んでいるなんて信じられなかった。私にはどう見てもマサさんが寝ているとしか思えなかった。

私はマサさんが死んだという事実がどうしても受け入れられなかった。涙はとめどなく流れてくるものの、悲しいとか淋しいとか、そんな感情なんてなんにも湧いてこなかった。

「何なの、これは! どういうことなの、ちゃんと説明してよ。起きて、私が納得できるような説明をしてよ、今すぐ、ここで!」

それは怒りにも似た感情だった。マサさんが本当に死んだとわかったのは、マサさんの眉間にあった深い一本の縦皺が消えていることを発見した時だった。生きている時は厳しい顔をした人だったのに、まるで、お釈迦様のような穏やかな顔になっていた。

この世になんの未練も残していないような、静かな、平和な表情をして、永遠の眠りについた人がそこにいた。56年の人生を生き切った人の満たされた顔がそこにあった。マサさんは、翔け抜けるようにして私たちの人生を横切って、どこかにある永劫の時の中へと消えていった。


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岡部明美の新刊『私に帰る旅』(角川学芸出版)が全国発売されました。

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岡部明美の講演会とワークショップのお知らせ
http://anatase.net/

4月20日(日) 東京・自由が丘「1 day ワークショップ」
テーマ:「自分の人生の使命、役割を見つける」
    ~ いのちの願いに寄り添って生きる道 ~

5月10日(日) 東京・早稲田で講演

5月17日(土) 茨城県・龍ヶ崎で講演

5月18日(日) 東京・大手町で新刊出版記念パーテイ&コクーンコンサート

変な胸騒ぎがする

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リトリートを始めて3度目の夏がやってきた。ふだんは2泊3日の合宿だったが、夏とゴールデンウイークと暮れだけは1週間の半断食の合宿があった。1週間の合宿の方はワークはほとんどせず、ひたすら毎日、手当てなどの養生法と修行をする。

私がやっていた般若心経を唱えながらの40分の合唱行も、温冷浴、裸療法、西式運動療法、呼吸法、瞑想、枇杷の葉温灸、枇杷の葉コンニャク湿布、気功、イメージ療法などは、一週間の合宿では全部やっていた。1週間の合宿の方は、ほとんどマサさんがリードして、私はアシスタントという形だった。家庭があるため、私は家を1週間もあけられないので2、3日顔を出して家に帰った。

しかし、マサさんは、夏の合宿の数ヶ月前から体調を崩し、変な咳をするようになったり、血痰が出たり、腰が痛くて、あちこちの整骨院、鍼灸院に通うようになっていた。

それでもマサさんの腰の痛みは一向によくなる気配がなかった。若い頃にギックリ腰をしたことがあって、腰痛はクセになっているだけだから心配はないと言っていたが、症状が腰痛だけではないことが気になった。

 

この1年ほど、マサさんの一身上にものすごいストレスがかかる出来事が起きていたから、その心労、疲労がたまっているせいかとも思われ、甲田医院でしばらく養生するといって短期入院していた。それでも、夏の合宿は大丈夫だからと言っていたのだが、前日になって、今回の合宿は行けそうもないので、私にリードしてほしいという電話があった。

変な胸騒ぎを感じた。その感じがとても重かったので、必死になってそれを打ち消そうとした。私は妙に明るく「大丈夫、任せておいて。スタッフも今回はいっぱいいるから心配ないわ。1週間なんか、きっと、あっという間に過ぎるでしょ。しっかり養生して、元気になって、またやりましょうよ」と言って電話を切った。


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岡部明美の新刊『私に帰る旅』(角川学芸出版)が全国発売されました。

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岡部明美の講演会とワークショップのお知らせ
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4月20日(日) 東京・自由が丘「1 day ワークショップ」
テーマ:「自分の人生の使命、役割を見つける」
    ~いのちの願いに寄り添って生きる道~

5月10日(日) 東京・早稲田で講演

5月17日(土) 茨城県龍ヶ崎で講演

5月18日(日) 東京・大手町で新刊出版記念パーテイ&コクーンコンサート

私、こんな悲しい別れはもういやだ

WS000445.JPGリトリートを毎月やっていく中で、とても悲しいことも度々経験しなければならなかった。「また来るからね。病気治して、元気になって、またここに来るからね。励みができたから。みんなにまた会うために病気治すからね」と指きりげんまんして別れた人が、数ヵ月後、数年後に亡くなったという訃報が届いた時にはショックで言葉を失った。


あの笑顔も、あの涙も、手をつないで一緒に歩いたあの手のぬくもりも覚えているのに、その人がもうこの世にいない。もう二度とあの笑顔に出会えなくなってしまった。あんなに約束したのに。くやしかった。無念だった。ただただ悲しくて仕方がなかった。

清子ちゃんは、リトリートで出会った患者さんたちに、「そのままでいいから、元気でいて!」というメッセージをこめて、「仰げば尊し」のメロディにのせて詩を書き歌にした。タイトルは「私のためのLOVE SONG」。自分を愛することから、自分の本当の人生が始まるということを知った清子ちゃんのいのちの歌だ。清子ちゃんは、この歌をテープに吹き込んで「いりあい村」を去った患者さんたちに贈っていた。


どれだけの人が清子ちゃんのこの歌を聴きながら、自分を励まし続けたことだろう。どんなにつらくても、自分のことを見守ってくれている人がいる、いつも気にかけてくれている人がいる、祈ってくれている人がいるということが、どれだけ心の支えになったことだろう。

      <  私のためのLOVE SONG > 

       詩:村上清子/曲:「仰げば尊し」

不思議な出会いが 続いて今
泣ける日 笑う日 心ゆれても
笑顔が 浮かぶよ やさしい あなたの
雨上がりの空 あじさい色


あなたが そのまま あなたのままで
生きていてくれたら  それだけでいい
遠く 離れて できることは 少ない
吹く風よ 届けて うたにのせて


大きな流れに まかせて生く 
朝日をあおぎ 夕日に祈る
野に咲く花にも 流れる雲にも
あなたを思うよ この空の下


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清子ちゃんが、この歌を作ることになった直接のきっかけは、末期の肝臓がんだったあるお坊さんが、非常に厳しい状況になったことを知った時だった。遠く離れていて、自分にできることは、その方の回復を祈って歌をうたうことだと、清子ちゃんは思ったのだ。そのお坊さんは、遠い広島から何度も伊豆のリトリートに来てくれた。でも、清子ちゃんのテープが届く前日に、その方は旅立たれたのだ。

清子ちゃんは、「明美ちゃん、間に合わんかった。この歌を届けたかったのに。聴いてほしかったのに」と電話口で泣いた。私も一緒に泣いた。何も言葉が続かなかった。私は、マサさんに、そのお坊さんが亡くなられたことを電話した。

「マサさん、私こんな悲しい別れはもういやだ。あの人も、この人も逝ってしまった。そして、またひとり逝ってしまった。あんなに仲良くなった人たちに亡くなられてしまうことがつらい。私、なんでこんな仕事始めてしまったんだろう。私、もう悲しいのはいやだ。こんな仕事やめてしまいたい」

マサさんはしばらく黙っていた。電話の微かな雑音越しに、マサさんが深く静かに呼吸していることを感じた。そして、マサさんは、静かな口調でしゃべり出した。

「明美ちゃんはいつも言っていたじゃないか。人は、この世界に生まれた時と、この世界を旅立つ時が、愛に満ちたものなら、人生でどんな苦しみや悲しみがあったとして、いい人生だった、しあわせな人生だったと思って、この人生を終えられるって」

「彼は、リトリートも、いりあい村も、大好きだって言ってくれたよね。淋しい子供時代だったのに、無邪気でやんちゃだった自分を思い出すことができた。母親の愛がほしくてほしくてたまらなかった子供時代の自分を抱きしめてあげることができたって。ここにくるとほっとする。人との触れ合いが嬉しい。人は温かいんだなって思えて、人間が大好きになるって言ってくれたじゃない」

「彼は癒されて亡くなったんだと僕は思う。癒されて自分の人生を生き始める人もいれば、癒されて亡くなっていく人もいる。痛みが大きすぎてなかなか歩き出せずにいる人もいる。少しずつ歩み出した人もいる。それは、もう僕らがどうこうできることじゃない。一人ひとりが自分で生きていくしかない、その人のかけがえのない人生だ」

「僕は、こうして、みんなと出会えたこと、みんなとこんなに深い時を一緒に過ごせたこと、それだけでいいんだ。でも、明美ちゃんが、死にゆく人たちとの別れがつらすぎるから、もうこの仕事はやりたくないって本当に思うのなら、リトリートはもう解散するしかないね」

私は、人の死を受け入れられないのだろうか。死を怖れ過ぎているのだろうか。喪失の悲しみが耐えがたい。無力感にさいなまれることがたまらなくつらい。リトリートには毎月、2、3人の患者さんが来られた。殆どの参加者は、健康な人たちだったけれど、私自身の体験があるからだろうか、病気をきっかけに自分の人生を取り戻そう、本当に生きたかった人生を選び直そうと思って来られる患者さんが必ず毎回いた。

私は、やはり治ってほしかった、元気になってほしかった。患者さんが、自分の中のしこりやわだかまりを手放して、自分の病の意味やメッセージに気づき、自分が本当はどんな人生を生きたかったがわかったと言われた時などは、「ああ、この方はきっと大丈夫だ」って思えた。

でも、そんな方が、数ヵ月後、半年後に亡くなられたと聞かされた時は、もう、なんとも言えない、くやしさ、寂しさ、無念の思いでどうしようもなかった。もちろん、どんな病気だって、治ることもあれば、治らないこともある。病と共に生きることだってできるし、病があっても人は幸福に生きることはできる。

ただ、親しくなった方に亡くなられてしまうということが私はあまりにもつらかった。参加された方の訃報を聞くたびに、この仕事を私はこれからもずっとやり続けるのだろうかと心が揺れた。

岡部明美の新刊『私に帰る旅』(角川学芸出版)が全国発売。すでに読了され、メッセージを下さったみなさん、アマゾンやミクシーに書評を書いて下さったみなさん本当にありがとうございます。

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岡部明美の講演会&ワークショップのお知らせ

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■4月5日(土)  岡山講演会 テーマ「私に帰る旅 ~いのちをゆさぶる言葉の風に乗って~」

■4月6日(日) 岡山「1 day ワークショップ」

テーマ:「からだの声を聴く 心の声を聴く」

~いのちに響くことばの力をガイドとして、からだとこころの深みへと旅をする自己発見のワークショップ~


■4月20日(日) 東京・自由が丘「1 day ワークショップ」

テーマ:「自分の人生の使命、役割を見つける」

    ~ いのちの願いに寄り添って生きる道 ~

プロフィール

岡部 明美岡部 明美

ワークショップ・トレーナー/セラピスト/カウンセラー/研修講師/文筆家/東海ホリスティック医学振興会顧問。

独身時代は、シンクタンクにてマーケティングプロデューサーとして活躍。30代半ばで結婚。長男出産直後に脳腫瘍と水頭症を発病し生死を彷徨う。自分の死に直面するという体験を通して、いのちの根源からの問いの答を求めて自己探求の道に歩みだす。著書に「もどっておいで私の元気!」(善文社)「私に帰る旅」(角川学芸出版)

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