岡部明美のスピリチュアルな旅で出会った”もの・人・場・言葉たち”

2008年07月

魂の約束

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とても素敵な詩に出会いました。ミクシーのマイミクさんの醍醐千里さんが作られた「魂の約束」という詩です。醍醐さんは、中学校の先生で担任を持っていらっしゃいます。


醍醐さんが、この詩を生徒たちの前で朗読したところ、子供たちはみんなシーンと聴いていたそうです。子供たちはきっと本当はわかっているのかもしれません。


あるいは、子供たちは本当のことだけが知りたいのかも知れません。自分は誰で、なんのために生まれたのか、魂って本当にあるのか、魂の自分って何かってことを。こんな自作の詩を朗読してくれる先生に出会えた中学生たちは幸せだなと思いました。

              「魂の約束」   醍醐千里

私たちは生まれるとき、神様から魂をいただきました。

みんなその魂を、自分の真ん中においています。

魂は磨けば磨くほど光ります。

漢字の練習を一生懸命しました。
魂は昨日より光ります。

電車でおじいさんに席をゆずりました。
魂は昨日より光ります。

弟におやつをあげました。
魂は昨日より光ります。

今日はごめんねが言えました。
魂は昨日より光ります。

あの人にありがとうが言えました。
魂は昨日より光ります。

努力をすることや、誰かや何かに優しくすることは、
魂を磨きます。

けれど、努力をすることや、優しくすることだけではなく、
楽しいこと、うれしいことも、
魂を光らせることが分かりました。


友だちと楽しく大笑い。
魂は昨日より光ります。

誕生日のプレゼント。
魂は昨日より光ります。

楽しいことやうれしいことも魂を磨くと知って、
私はなんだかホッとしました。

ある日、そうじをさぼって友だちと遊びました。
友だちと楽しく大笑い。
けれどその日、自分の中の魂を見て驚きました。

あんなに楽しく笑ったあとだったのに、
魂は、光るどころかくもっているのです。


ある日、友だちからネックレスをもらいました。
お店から盗ってきたネックレスだと言います。
ほしかったものなので、
よく考えもせずにそれを受け取りました。

  
その夜、魂を見てみたら、その日もまた魂は、
昨日よりくもっていました。

ある日、一人が言いました。

ねぇ、あの子、はぶかない?
あっという間に、その子はひとりぼっちになりました。
私は、その子をひとりぼっちにさせる側にいました。
その輪の中で私には、急に仲間が増えました。
新しくできた仲間とともに、
おもしろおかしく過ごしました。


そんな日々を送る中、
私は久し振りに、自分の中の魂を見てみました。

私の魂は真っ黒になっていました。
私は、自分の魂の色を見て、
とてもおそろしくなりました。

楽しいこと、うれしいことの中にも、
魂をくもらせること、
魂を濁らせることもあると分かりました。

楽しいこと、うれしいことには、
2種類あると分かったので、
これからは、
気をつけていかなければならないと思いました。

毎日魂を磨き、
毎日魂の様子を見ているうちに、
私は不思議なことに気がつきました。


磨いたつもりのない日でも、
魂の輝きが、増しているときがあるのです。

そういう日の一日を振り返ってみると、
その日は、きれいな花を見たり、美しい夕焼けを見たり、
そういう日だったことが分かってきました。

映画を見たり、本を読んだり、音楽を聴いたり。

そういうことでも魂を、磨くことができるのです。

楽しいことやうれしいこと、
目にした景色や、聞こえてくるメロディ、あたたかな言葉。
その日その日のなんでもないことも、
私の魂を磨き続けてくれたのです。

     
できるだけ魂を光らせようと、毎日を送っていましたが、
ある日、私は少しだけ疲れてしまいました。

夢の中で私は、神様に会いました。

夢の中で私は、神様に聞いてみました。

神様、私はいつまで魂を磨けばいいのですか。
私の魂は、いつ完璧に美しくなるのですか。

神様は言いました。

あなたは、あなたの最後のひと呼吸まで、
魂を磨き続けなさい。
みんなその約束をして、地上に生まれているのですよ。

でも、神様、磨き終わらないうちに、
最後のひと呼吸がきたら、
どうすればよいのですか。

心配しなくて大丈夫。
あなたの魂は、最後のひと呼吸のとき、
必ず、最高の光を放ちます。

神様、私にはその自信がないのです。

あなたは、毎日魂を磨いています。
だから大丈夫。
最後のひと呼吸のとき、
魂はそれまでで一番美しい姿を見せてくれます。
何も心配いりませんよ。
あなたの魂は毎日、昨日より輝きを増しているのです。

ときどき、自分の魂を、離れたところから見てごらんなさい。
あなたの魂があなたの体を越えて、
まわりに光を与えていることにも、
気づくことができるでしょう。

このごろでは、あなたの魂の輝きで、
道を明るくする人も増えてきました。


さぁ、戻って、魂を磨いてきなさい。
毎日を楽しくうれしく感謝の気持ちで送るのですよ。
そうするとあなたの魂は、キラキラと光を強くしていきます。


あなたがここに来るのは、まだまだずっとずっと先。
あなたの人生を、楽しんでいらっしゃい。


あなたがどんなに素晴らしい魂を持って、ここに帰ってくるか、
私はそれを楽しみにしています。
     

目が覚めた私は、
それまで気づかなかったことに気づきました。

昨日より今日。
今日より明日。

私の魂は輝きを増し続け、毎日新しく生まれ変わります。
そして必ず、その日の魂が1番光る魂。

少しの努力、優しい気持ち、
そして、うれしいこと、楽しいこと。
日々の中に散りばめられた美しいもの。

神様との約束を思い出したので、
私は、なんにも心配しないで、
毎日を送っていくことができそうです。

なんにも心配しなくても、
私の魂は、昨日より光ります。

光り続けます。

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■9月10日(水)群馬市民大学で講演

■10月4日(土)仙台で講演

■10月11日(土)~13日(月・祝日) 岡山で2泊3日のワークショップ
テーマ:3つの扉 ~からだとこころの浄化、スピリットの目覚め~
玄米少食・坐禅・気づきのワーク


いのちの中に内在する宇宙の意志

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振り返れば、私が「生命とは何か?」という根源的な問いを持つようになったのは、自分の病気が最も大きなきっかけではあったけれど、初めての妊娠・出産という体験も私にその問いを湧きあがらせてくれるものだった。

もうかなり前のことになるのだけれど、私は、妊娠中と子育てをしながら、何か圧倒的に感動しているものがあったのだ。それは、いのちの中に内在している“意志”のようなものに対する驚き、畏怖だった。


たった一つの受精卵が、次々に細胞分裂を繰り返し、各臓器や血管や脳、手足や皮膚、神経系統や免疫系統をつくっていく、あの“驚異的な創造のプロセス”。


母である私が、受精卵である我が子に「今日は心臓を作りなさい、明日は目と鼻を、あさっては、脳を作りなさい」なんて指令を出さずとも、受精卵といういのちそのものが勝手に自己創造、自己組織化していくのだ。


これを生命力と呼ぶのなら、生命とは何なのか。まるで、それ自体に“意志と目的と方向性”をもっているとしか思えないこの圧倒的な“いのちの力の不思議”に、私は本当に感動していたのだ。私は、このいのちの力、働きこそが、神業と呼ばれるものなのではないかと思った。


とにかく、目を見張るような息子の成長の早さに私は驚くばかりだった。息子は、ハイハイから、つかまり立ちへの移行は、あっという間だった。つかまり立ちができるようになったら、今度は自分で手を離して、わずか数歩だけど一生懸命、自分の足で歩こうとする。


親が「手を離して歩いてごらん」なんて言わなくとも、自分から手を離すのだ。何度転んでも立ち上がり、また歩こうとする。失敗しても決してあきらめない。新しく何かが自分の力でできるようになることがうれしくてたまらないみたい。「やったぜ!」と言いたげな顔。その得意そうな笑顔をみているだけで、私は、幸せな気持ちになるのだった。


宅配便のダンボールにぬいぐるみと一緒に入るのが好きで、ぬいぐるみとおしゃべりしながらいつまでも入っている。息子は、家の中にあるものがすべておもちゃに見えるらしい。触れる、匂いをかぐ、口に入れる、もぐりこむ。からだ全部を使って、この世界を知ろうとしている。息子にとっては、自分が見るもの、触れるものすべてが不思議の対象なのだ。


人間は、もともとは誰もがこの力をもっていたのだ。自分でやろうとする力。失敗しても諦めない力。新しいことやものに対するあふれんばかりの好奇心。自分の無限の可能性に挑戦し続ける力。自分のまんまで存在する力。世界は面白いって思う感性。赤ちゃんや幼子の、丸ごとの自分で世界に関わろうとする力は、大人よりパーフェクトだと思う。


いつ頃から人は、自分の中にあるこの無限の力を見失っていくのだろう。何があって自分が自分のまんまで生きることをやめてしまうのだろう。どうしてこれほどの豊かな感性で世界と触れ合わなくなってしまうのだろう。


私は、自分の子供を持ったことによって、それまで考えたこともなかったようなことを考えるようになり、かつては全く不思議ともなんとも思わず、当り前のこととして見ていたことを、もういっぺん、真っ白になって観るということを体験させられていた。


我が子の目を見張るような日々の成長を見るにつけ、「生」自身が、本来、絶え間ない変化、成長のプロセスなのだということを改めて感じた。息子を育てていて、親の最大の仕事とは何かなと思った。それは、子供自身が、「自分は愛されているんだ」という実感をもてるように大切に育むこと、ありのままのその子を受け入れ、認めてあげることなのだと思った。


そして、子供という「育ちゆく者」が本来持っている力を、見守る力、自分でできるようになるまで待つ力、信じる力、本当に必要な時にだけ必要な援助をする力、それが親という「育むものの力」なのかなあと思うようになった。


成長し続ける力も、この子が自分の個性としての表現してゆくものも、いのちの中にその芽として最初から備わっているのであれば、私はできるだけよけいなおせっかいをしないようにしよう、そう思ったのだった。

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■7月27日(日)岡部明美講演&コクーンコンサート(愛媛県・松山市)
テーマ「銀河鉄道の夜」~親子の絆・家族の絆~

■7月28日(月)岡部明美講演&コクーンコンサート(広島県・福山市)
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■8月29日(金)~31日(日)  琵琶湖 2泊3日のワークショップ
テーマ:「私に帰る旅」~自分のいのちの花を咲かせて、歓びの人生へ~

この懐かしさは、きっと、魂の記憶

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私は、ミクシーでもブログを書いているのだけれど、あるマイミクさんが、喜多朗の音楽と映像をご自身の日記で紹介されていて、しばらくの間、私は聴きほれて、見とれていました。

喜多朗の音楽を映像化したらきっとこんな絵になるのだろうなというくらい、ピッタリと「音と光」が寄り添い、溶け合っているかのようで、とても心地よかったです。

マイミクさんは、日記で、喜多朗さんは天界から音楽を降ろしているんでしょうか? スピリチャル性が高く、聴いているとあの世にいたころのことを想い出しそう・・・と書いていますが、私も同感。


紹介されている喜多朗の音楽を聴いて、‘90年代半ばに初めてエンヤの音楽を聴いたときと同じ感覚が蘇りました。一気に数千光年の彼方に連れ去られたような、遠い太古の記憶をふと思い出したかのような、そんな懐かしさを感じたのです。この懐かしさはきっと魂の記憶なのでしょう。

神秘的な映像で喜多朗ワールドに浸ってみてください

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=865043417&owner_id=15466640#comment


作家の故・芹沢光治良さんが、「文学とは、もの言わぬ神の意思に言葉を与えたものである」という名言を残していますが、音楽や絵画など芸術表現の活動をされている方の中にはそのような方が多々いらっしゃいますね。芹沢さんの言葉を借りて、こんなの作ってみました。

「音楽とは、もの言わぬ神(生命)の、“歓喜”と“祝福”を、楽譜に置き換えたものである」

「絵画とは、もの言わぬ神の“想像力”(創造力)を、映像に置き換えたものである」

「医療とは、もの言わぬ神の、“愛”と“慈悲”を、救済と祈りに置き換えたものである」

こんな感じかなあ。

自分が“からっぽ”になっているときが、最も神さま(サムシング・グレートでも大いなる存在でも、グレート・スピリットでも名前はなんでもいいけど)が働いてくれるときみたいですね。自我が主役張っている時は、パワーに限界があるみたいです。

なかなか、「私が」「俺が」という我が取れないときは、「我取り線香」でも焚きますか。お線香の会社の方、こんな新商品はいかがでしょう? 私も好きですが、お香が好きな人ってけっこういますから、「我取り線香」、けっこうヒットするかも?

喜多朗の音楽から、オチは、我取り線香?!私はいつもどこかで笑っていたいみたいです。


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言葉にできない体験こそが、生の本当の深さを知るということ

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私は、最近、「この人は、この世に何をしに、はるばるやってきた魂なのだろう」と思って相手を感じることが多くなってきた。親しくなってみると、「あ、この人は、私と同じテーマをもってこの世にやってきた魂だ」なんて感じたりもする。


初対面なのに、「ああ、私は、この人と出会ったのは、今回が初めてじゃない」と感じたり、初めて行った場所なのに、「なんかここ懐かしいなあ。私は、以前にここにいたことがあるんじゃないかしら」なんて思ったりする。


なんだかあやしいことを言っているみたいだけれど、でも本当にそう感じるのだから仕方がない。私は最近どんどんあやしくなっている。しかし私は、願わくば、「爽やかに、軽やかに、ヒョーキンにあやしい人になりたい」。これはとても高い志だと思う。


あやしさついでに私が最近感じているのは、同じテーマをもってこの世にやってきた魂の人たちには、人生のある時期に、最高のタイミングでちゃんと出会わせられるということ。これはもう確信に近い感じで信じている。


私は、人間を、肉体の生死を超えた、永遠のいのちを生きる魂として見られるようになってからは、それぞれの人生に起きてくる問題や苦悩の見え方が変わってきた。その問題や苦悩をそれぞれの人の魂の目的、今世のテーマとして見てみると、何か大きなギフトがその痛みの奥に隠されていることを感じる。そうすると、闇に見えていたものの中に光を感じるのだ。


神さまのこと、魂のことは、あまりにも深過ぎて、大きすぎて、広すぎて、高すぎて、私はまだほんの一部に触れただけだけれど、私はそれでも随分心が平安になってきた。性格は相変わらずそそっかしくてドジばかりやっているけれど、内側深くにあるものは、ただただ静けさしかないということもだんだん感じられるようになってきた。


しんしんとした生の深さと静寂。ふくふくとした宇宙の深さと広さ。ダイナミックな無尽蔵のエネルギーの海に生きている私たち。この果てしない宇宙の無限の創造性は、まるで愛にも似て・・・。


ゆっくり深めていけばいい。やさしく触れていけばいい。まっすぐ伸びていけばいい。ふんわり広がっていけばいい。そして、終わってしまったものへの思いや、もういらないと思ったものは、少しずつ手放していけばいい。風の中に、光の中に。


やっと過去をちゃんと過去に置いてこれたように思う。そうしたら、私の内側で止まっていた時計の針が再びコチコチと動き出した。内側の時間というのは、止まったり、ふいに動き出したり、ゆったり流れたり、奔流のようにあふれだしたり、なんかとても正直な時間って感じがする。私の外側を流れる時間よりも、もっとリアルな実感がある。より魂に近い時間が流れているような、そんな感じ。


人生で初めて体験した親しい人間の看取りと死。マサさんの死を通して、私が初めて体験したこと、初めて味わった思い、真剣に向き合ったもの、見つめてきた世界はあまりにも広大で深い世界だった。それは、マサさんが私に残してくれた目には見えない「宿題と贈り物」だったのかもしれない。


私は、自分が病気をした時にも、マサさんが亡くなった時にも、なんか、神さまから大きな宿題を出されたような気がした。だから前著も、この本も、私にとっては与えられたその宿題を一生懸命にやった結果とも言える。もちろん無我夢中で書いていた時には「神さまから宿題を出された」なんてはっきり自覚していたわけではなかった。


私は、ただ、自分自身のために書いていたのだ。私自身がわからないものに近づくために。吐き出さなければ前へ進めないものを吐き出すために。つながれなかったものとつながるために・・・。


夏休みの宿題は、ギリギリになるまでやらなったくせに、人生の宿題、それも思いっきり難しい宿題だけは、なぜかまじめに取り組んでしまう性質のようだ。まだまだ気づきが浅く、不十分ではあるのだけれど、今の私のこれが精一杯。


しかし、マサさんの死を体験してからは、本当に何年もの間、書けなくて苦しかった。何度、挫折しかけただろうか。一時は出版をあきらめたこともある。なぜなら、魂の領域の体験というのは、言葉にしようとすればするほど、薄っぺらになってしまい、自分が書いたものへの違和感が出てくるからだ。その度に何度も原稿を全部削除して、一から書き始めた。


「私の中で起きていたことはこんな言葉じゃない、違う、違う、こんなもんじゃない。私が感じたことを表現できる言葉がない・・・」という思いがこみあげてきて、歯がゆさともどかしさを何度も味わった。本当に深い体験の中で触れた真実というのは、言葉にするのは無理なのだ。でもそんなある日、私の中から、こんな声が聴こえてきたのだ。


「言葉にできない体験というものがあることを知ることが、生の本当の深さであり、この世界の広さなのだよ。それでも、できる限り言葉を紡いでいきなさい。言葉を、未知なる自分と、未知なる他者と、未知なる世界につながるための“生の糸”にして生きて行きなさい」


ああ、そうか、そういうことなんだ。あの書けなかった苦しみは、私が大切なことに気づくために体験させられたことだったんだ。私は、魂の領域の体験の言葉化の難しさ、限界を感じつつも、この世とあの世、生と死、肉体と魂、つまり、見える世界と見えない世界の真ん中に立って、お空の言葉を地上に種として蒔き、地上の言葉をお空に帰った人たちに届けたいんだ・・・。


そう思えた瞬間、涙がこみあげてきた。とてもうれしい涙だった。こうして、私の心の中で止まっていた季節がゆるやかに過ぎ去り、私は、また新しい季節を生きられる自分に還ってきた。


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誰が夢を見ているのだろう

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最近よく不思議な夢を見る。「この夢から醒めたくないな」というようないい夢。夢から醒めた瞬間、ふと、この世界こそ夢なんじゃないかと思うことがある。人は、毎晩、小さな死を体験しているのではないだろうか。


夢さえ見ないような深い眠りの世界は、魂の世界、あの世みたいだ。朝起きて、毎日この世に戻ってくるという感じ。だったら毎日、新しい生だ。


夜見る夢ではなく、人生に描く夢もある。私も、いつも人生に夢を描いて生きてきた。でも、その夢を本当に生きたい主体とは本当は誰なのだろう。この世は、神さまの見る夢、あるいは、神さまが楽しみたい映画や小説なんじゃないだろうか。私たちが、この世に生まれたといいうことは、神さまが永遠に創造し続ける、この宇宙の物語の“ある役柄”に、自分は再びキャスティングされたのではないのだろうか?

私は今回の役柄は結構気に入っている。通行人Aとか、セリフ1回だけのエキストラでなくて良かったなと思う。まあ、そんな人はいるわけないけれど。なんだか、この世は、神さまが自由自在に描く広大無辺のキャンバスか、映画の巨大スクリーンみたいだ。

神さまは形のないエネルギーだから、たくさんの形あるものを作り出して、自己を体験する。形あるそれぞれの存在を通して、あらゆるものを自分も味わう。神さまは、それぞれの人の悲喜こもごもの人生ドラマを一緒に味わいたいのだろう。神さまって、好奇心と遊び心でいっぱいだ。あきっぽくて、無邪気で、冗談が好きで、いたずらで、時々ちょっと意地悪で、でもムチャクチャ優しくて、そしてものすごいタフだ。


神さまは、まさしく変幻自在、千変万化。そして、文字通り“神出鬼没!”。神さまは、まるで幼稚園の砂場で遊んでいる子供みたいだ。形あるものを作ってはこわし、作ってはこわし。あらゆる存在は、神さまの自己表現だと思って見てみれば、宇宙は、地球は、この世界は、なんという芸術作品だろう。


この世に生きている私たちは、こちらの世界(物理的次元)が主体だと思っているけれど、本当の主体はあちら(非物理的次元)だったなんてびっくりだ。私たちのこのからだは物質だから必ず老化する。いつか美しくなくなり、使い物にならなくなる時が来る。そしていつか、誰もがこの肉体を去る時がやってくる。


しかし、神さまは、この二極の世界のゲーム、人間関係の愛憎ドラマをやめて悟りを得るまでは、あるいは、もうこの世界で充分学んだ、遊んだ、楽しんだ、もう飽き飽きしたという意識の境地になるまでは、何度でもこの世に送り出すみたいだ。


死は、肉体という衣装のお着替えの時間、衣替えの季節。私は果たしてこの星に遊びに来たのだろうか?はたまた修行に来たのだろうか?もしかしたら、“愛の丁稚奉公”に出されたのかも知れない。


そして神さまはいつか、それぞれの目的を持ってこの世にはるばるやってきた魂に、「十分に学び尽くし、十分に貢献し、十分に愛し、十分に遊び、十分に目覚め、十分に生き切ったら、もう輪廻の輪からは抜けて、私の元に戻っておいで!」と呼びかけるのかも知れない。ただひとつの世界である魂の故郷へ、親元への里帰りの時が来たよと。まるで、スゴロクの“上がり”みたいだなって思う。


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この世の美と感動は、変化と消滅の上に成り立っている

WS000578.JPG形も色も匂いもないはずなのに、初夏の風は何かが違う。僅かに薫るものがあり、微かに透き通った色がある。風は、果たして“不在”だろうか。空から雨や雪が降ってきて青空が全く見えない時、果たして青空は“不在”だろうか。


夜には、太陽は見えないけれど確かに存在しているし、昼には、月と星は見えないけれど確かに在る。昼と夜、太陽の時間と月の時間。光と影。からだと魂。存在と無。まるで、生と死のようだ。「存在」と「不在」、「この世」と「あの世」は、同じコインの裏表。生と死は、存在の両翼。ただ一対の生命現象。


だったら死なんてどこにあるのだろう。肉体は確かになくなる。だから、死体はある。でも存在の本質は物質(肉体)ではないのだから、死なんて本当はどこにもないのだ。どっちの世界をメインで生きているかという住処の違い、形として「存る」か、エネルギー・意識として「在る」かの違いだけなのだから。


この世にいる人にとっては、形があることが「生」で、無くなることが「死」だと思っているけれど、あっちの世界から見たら、この世こそ、悲惨と苦痛と悲しみに満ちた“死のような世界=あの世”で、また形(肉体)をもってこの世界に来た魂に“ご愁傷様”って言っているかも知れないではないか。

私は長いことすべてのことが移りゆくこの世界が虚しく、悲しかったのだが、それは、愛や、喜びや、感動や、幸福が時間と共に消え去っていくからだったのだ。それは、私自身が、私を満たしてくれるものは外側の何か、誰かという“対象”を追いかけていたからなのだと思う。私を満たしてくれるものへの執着がこの世は虚しいと感じさせていたのだ。


でもこの世はちゃんと、悩みや苦しみも、時間と共に流れ去るようにできているのだ。子供の頃や青春時代に悩んでいたことで今私は悩んでいない。淋しかった、つらかった、悲しかったといういくつかの忘れられない記憶はあるが、その時のリアルな感情は、当時のままには残ってはいない。


大人になってからの人生でも、その時々で、怒ったり、ショックを受けたり、落ち込んだりしてきたけれど、その感情に翻弄され、自分を見失うほど混乱していた気持ちさえ、それが湧き上がってきた時と同じボルテージのままのものなどやはりひとつもない。 


昨日怒っていたことさえ、今日はもう過去のことになっている。すべては生まれては消えていくのだ。うれしいことも、悲しいことも・・・。変わってしまうということが、あんなに悲しかったのに、今は、すべてのことが変わり続けるからこそ人は生きられるんだなと思えるようになってきた。生は、永遠に変化し続ける美しい川の流れなのだ。


実際、マサさんが亡くなった直後のあの混乱と、片腕をもぎとられたような痛みは、数年たってこの本の続きが書けるようになった今はもうほとんどない。今はただ感謝の気持ちしかない。


もちろん、単に時間が経過したからということだけではなく、渦中にいる時にちゃんと心の手当てをしてあげたことも大きいと思う。心の痛みは、感じ尽くすことで自然に流れていく。終わっていく。そして、それを誰かがちゃんと受け止めてくれると傷は瘡蓋になり、新しい心の皮膚が生まれるのだ。


でも私は、これから先だって、家族や大切な友人が亡くなってしまったら、思いっきり泣くだろうし、悲しくて、淋しくてやりきれないと思う。当たり前だ、人間なんだもの。私の大切な人たちが、この世からいなくなって、声をかけても、応えてくれない、あの顔を、あの姿を二度と見ることはできないのだと思うと、本当に悲しいし、淋しい。 


私には今、そんな失いたくない大切な人、大好きな人がいっぱいいる。生きて別れるにしろ、死んで別れるにしろ、喪失の痛み、悲しみというのは、その人と共有した思い出の数や、共に過ごした時間の長さ、心が触れたった体験の深さに比例するのだと思う。


身近な人間を喪失してみると人は驚くのではないだろうか。人生でこれが手に入ったら自分は幸せになれる、心が満たされると思って必死になって追い求めてきたもの一お金や成功、名誉や出世、他者からの評価や賞賛、便利な生活、かっこいい車や美しい宝石、ブランドものの洋服―そういったものが、実は、自分を本当に心の底から満たしてくれるものではなかったということに。


自分にとって大切な人と過ごした何気ない日常の触れ合いの中に、通い合う心の喜びの中に、どれだけ自分が本当は満たされていたかといことに、喪失してみて初めて気がつくのかも知れない。


その人が傍にいるということ、一緒に生きていたということ、ただ家族であったということ、友達であったということ、一緒に楽しんだこと、一緒に仕事ができたこと、出会えたこと、本当は、ただそれだけで充分幸せで満たされていたのだということに、人は失ってみて初めて気づくのではないかと思う。


私たちはみな、亡くなっていった人たちの“夢の時間”を生きているのだ。亡くなった人たちは、生きたかったのだと思う。もっともっと、生きてやりたことや体験したいことがあっただろう。


今こうして生きている人たちは、亡くなった人が一番ほしかった「生きる時間」をもっている。生は、死者の夢の残滓。時間は死者からの贈り物。きっと死者たちは、自分が残してきた大切な人たちに、こんなことを言っているような気がする。


「あなたには時間があるでしょう。なんでもできるはずだよ。あなたが望む人生を、あなたが生きたい人生を生きて。自分が心の底からやりたいことをやって生きていってほしい。もっと人生を楽しんでほしい。たくさん感動して、たくさん味わって、たくさん愛して、幸せになってほしい。時間があるということを大切にしないと、人生は、本当に、あっという間に終わってしまうよ


本当に人生はあっという間に過ぎ去る。地上の人生一このからだに住まう人生のなんという短かさ、儚さ。この宇宙の歴史からいったら、人の人生なんて一瞬の瞬き程度の長さだ。本当にこの世は夢幻だ。でも、儚さゆえに立ち表れる一瞬の美がある。煌く朝露も、水平線から昇る太陽も、虹の七色も、すべては一瞬の美しさ、束の間の美だ。


朝に咲いていた美しい花は、夕方にはしおれる。しおれない花、造花には本当に深い美はない。桜が枯れずに1年中咲いていたら、きっとあの感動は薄まっていくだろうし、春が来たことのあの喜びもなくなってしまうのだ。


もし虹やオーロラが、どこでも毎日のように見られたとしら、人は、あの“光の芸術”を見た瞬間にあんなに感動するだろうか。終わるから、消えるから、束の間、刹那、幻だからこそ美があり、感動があるのだ。この世の美と感動は、変化と消滅の上に成り立っているのだということを改めて感じる。


私は最近、自然は最大の芸術であり、最も神聖なるもの、スピリチュアルなものだと思うようになってきた。そして、私たちもこの宇宙=大自然の一部なのだから、同じようにひとり一人の人生というのは、宇宙の神秘と神聖さによって彩どられた瞬間の芸術なのではないだろうかと思えるのだ。


そんな風にして、肉体を持ったこの人生を刹那として見てみると、今こうして生きていられることや、大好きと思える人に出会えたことが、ただそれだけで本当に有り難く思える。そして、幸せというものが、この一瞬、一瞬にしかないのだとわかれば、悲しみを分かち合い、感動を分かち合っている瞬間というのが、なんとも贅沢な時間に思えてくるのだ。


人はみな死を恐れるけれど、この肉体でもし200年生きなければならなかったら拷問ではないだろうか。赤ちゃん時代のあの柔らかな肌も、青春の輝きも切なさも、生の痛みも悲しみも充実も、みんないつかは消えてゆくのだ。けなげに夢を追いかけ、幸せを求めて一生懸命に生きてきた人生と共に。


おそらく人は、生きとし生けるものの“生の儚さ”を本当にかみしめた時に、かけがえのない自分の人生を大切に生きようと思うのだろう。そして、自分と同様、いつかは消えゆく運命にある他者への許しや慈しみがあふれてくるのかも知れない。


死と対峙することは、生を最も変容させる。本当に誰もがいつかこの肉体を去る日が訪れるのだから。もし明日この肉体を去るとわかったら、人は人生最後の日である今日という日を、相変わらず誰かを憎み、誰かの悪口を言い、愚痴や不平不満をこぼし、過去を悔いることに時間を使うだろうか。


自分の生を本当に輝きに満ちたものにするためには、逃げずに、ごまかさずに、自分の死、この肉体での人生が終わる日が必ず来るという事実に直面することだと思う。きっとその瞬間、世界が違って見える。見るものすべてが光にあふれていることを発見するだろう。世界は、こんなに光に満ちていたのだということに気づくだろう。


自分の人生の最後の日に、この目で見てみたい風景、世界は何だろう。人生最後の日に口ずさみたい歌は何だろう。この両手で抱きしめたい人は何人いるだろう。この口からあふれる言葉で愛を伝えたい人は誰だろう。  


「ごめんなさい。そして、いっぱい、いっぱい、ありがとう」って、最後に伝えたい人は何人いるだろう。きっと、今ふと顔が浮かんできた人たちが、今世、出会うことを約束してきた人なのだと思う。人が、人生の最後の日に大切な人に伝えたいお別れの言葉は、「さようなら」じゃなくて、「ありがとう」なんだなとつくづく思う。


地上の儚い人生を本当にそのような眼差しで見ることができた時に、人は、他者への、人間という存在への慈しみが生まれるのかもしれない。本当にその眼差しがもてたら、どうやって人は、人を殺せるだろう。どうして戦うだけの人生など生きられよう。


いつかはすべての人が消えゆく運命にあるというのに。その儚さへの悲しみ、慈しみが真に自分の内側からあふれてきた時、すべての人間の最も深いところにある、神性や仏性に灯火がともるのかもしれない。


すべては、来ては過ぎ去ってゆく。存在しては消えてゆく。出現しては消滅していく。しかし、その形あるものの儚さを注意深く見つめていった時に、永遠なるものが見えてくるのだ。消えゆく者、立ち去る者の眼差しからこの世界を見る時、私は、ただただ、この世界の美しさに感動する。


ひたむきに、けなげに、一生懸命に生きている人の姿に心が打たれる。移りゆく季節、変わりゆく季節の美しさと儚さに立ち止まる人の瑞々しさにハッとする。


私も、風のように、水のように、流れのままに、自分のままに生きて生きたい。この世界の神秘に感動しながら、漂いながら、戯れながら。


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岡部明美のワークショップ&講演会のお知らせ
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■7月27日(日)岡部明美講演&コクーンコンサート(愛媛県・松山市)
テーマ「銀河鉄道の夜」~親子の絆・家族の絆~


■7月28日(月)岡部明美講演&コクーンコンサート(広島県・福山市)
テーマ「いのち輝く人生」~自分の人生の使命を見つけ、いのち輝く人生に旅立つ~


人が求めてやまない幸せというものは

WS000573.JPG最近、よくベランダに出て空を見上げる。たくさんの星々が夜空に瞬いている。なんてきれいな光なのだろう。私たちの毎日の夜の闇を照らしてくれている星たち。もうすでに物質としては存在していない遠い遠い“過去”の星たちが、光となって、私たちが“今”生きている世界を照らしてくれている。何十億年もかかって光が旅してきたその姿を今の私が見ている。


そして、この星の光は、明日の世界も照らし続けるのだ。過去の星の光が、現在も未来も照らし続ける光になる。光の世界では、過去も現在も未来も同じひとつの世界なのだ。


天体体望遠鏡でのぞけば、100億光年向こうの星の姿だって見られる。不思議だ。なぜ、100億年前の星の姿を、今の自分が見られるのだろう。100億年前なんて、地球は存在していないわけだし、ましてや自分なんか影も形もないはずなのに。


でもこの私のからだは、本当は100億年前のあの星のかけらからもできているのかもしれないし、あのプレアデス星団、アンドロメダ星雲、オリオンやシリウスやペガサスの星のかけらからだってできているかもしれないのだ。私であるところのエネルギー(意識・魂)は、100億年前にもあったのかもしれないし。なんだかそう思うとワクワクする。


100億年前の星を今の自分が見ているということは、本当は今しか存在していないということではないか。100億年前と今を同時に体験できる不思議。永遠とは実は今であることの神秘。時間は、流れているのではなく、積み重なっているのだろうか。幾層にも、幾層にも、今という瞬間が。


なぜ人は、時間のあるこの三次元の世界に肉体をもってはるばるやってくるのだろう。きっと、この三次元の世界の“体”を通して、一つひとつ順番に、その時には、そのことだけを体験するために時間があるのではないだろうか。文字通り、からだとは、“体験”するための道具、ツールだ。


からだがあるということは、同時にふたつの体験はできない。違う場所には同時にいられないからだ。からだがあるからこそ、時間があるからこそ、“今・ここ”での体験に集中し、そこから私たちはかけがえのないものを味わうことができ、大切なことにも気づける。時間は、からだがあるからこそ意味をもってくる。時間のある世界だから、順番に体験してきたことがすべて生かされ、その体験がその人の血となり肉となっていくのだろう。


今、自分がとても幸せで、満たされていて、自由であることを謳歌している人のほとんどは、過去の時間の中で、相当の苦しみや嘆きや悲しみを体験してきている。そして、あの体験があったからこそ、今の自分がいるとみんな異口同音に言う。


時間のもつ意味、からだという“体験の器”を持って生まれてきた意味は、苦を、生のもたらす“恵み”や“実り”へと変容させるためにあるのだろう。時間は、その時に眩い光、輝きとなってその人の人生を照らしだす。


この世、三次元の世界は、本当にパラドックス(矛盾、逆説的)だ。人はみな、幸せになりたいと言うけれど、不幸というものがどんなものがわからなかったら、何が幸せなのかはわからないわけだし、挫折や失敗の体験が全くない人が成功の本当の喜びと有難さはわからないのだ。そして、傷つけあい、憎しみあうことのつらさや孤独を全く知らずして、愛の喜び、愛の至福感を味わい感謝することなどできないのだから。


自分が本当にほしいもの、体験したいことを味わうためには、その反対側のものを体験しなければ、それを、それとして認識できないというこの世のパラドックス。それを体験しにやってきた勇気ある魂なのだ、この星にはるばるやって来た私たちは、みんな。


同様に、人は人生に夢を見ることでワクワク生きられるわけだけれど、夢は叶ってしまったら、それはもう夢ではなくなるという、この世のもうひとつのパラドックス。手に入れてしまった夢は、もはや日常に、当たり前になってしまい、ワクワク感は次第に薄れていく。恋愛と同じだ。そして、人はまた次の夢、次の人を追いかける。永遠の夢の狩人。


夢というものが、現実への満たされぬ思いの補償行為として追いかけられるものである限り、人は一生満たされることはないのだと思う。エゴの欲望には切りがないからだ。もっともっとと追いかけてみても、決して満たされる地点には辿りつけないのがエゴの欲望のカラクリだから。


幸せというものが、何かを得ること、勝ち取ること、達成すること、自分のものにすることで得られる満足感であると考えている限り、今度は得たものを失う恐怖と共に生きていくことになるから決して心の平安は生まれない。


でも、もし人が、自分の中にすでにある豊かさを感じ、すでに手に入れているものがたくさんあることに気づき、今自分に関わってくれている人がどれだけの優しさや愛を自分にくれているのかに感謝し、日々の暮らしの中のささやかな出来事に幸せを感じ、この世界の美しさに感動する感性を持っていたとしたら、現在も未来も自動的に幸福になるように思う。


そして、もし自分の見る夢がエゴを超えて、人と分かち合える喜びや幸福であったり、社会の豊かさや進化にとって必要なものであれば、宇宙はちゃんとその夢を叶えてくれるのだと思う。


そして、そういう夢はみんなのいのちが吹き込まれてどんどん大きくなっていくような気がする。宇宙、神が自分に望んでいることを実現することが、幸福な人生への道なのだろう。感性を研ぎ澄ましていれば、その声は感じる。聴こえてくる。


人が求めてやまない幸せというものが、“今・この瞬間”にしかないのだということが本当にわかれば、それを感じている時間が、宝物のような時間になる。その時人は、指の隙間から幸せがこぼれ落ちてしまわないように、そのかけがえのない体験を抱きしめることができる。時間とは、あらゆる体験の“尊い一瞬”を味わい尽くし、楽しみ、抱きしめるためにあるのかもしれない。


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■7月22日(火)~23日(水) 滋賀県 琵琶湖 2daysワークショップ
テーマ;「私に帰る旅」~自分のいのちの花を咲かせ輝いて生きる~
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プロフィール

岡部 明美岡部 明美

ワークショップ・トレーナー/セラピスト/カウンセラー/研修講師/文筆家/東海ホリスティック医学振興会顧問。

独身時代は、シンクタンクにてマーケティングプロデューサーとして活躍。30代半ばで結婚。長男出産直後に脳腫瘍と水頭症を発病し生死を彷徨う。自分の死に直面するという体験を通して、いのちの根源からの問いの答を求めて自己探求の道に歩みだす。著書に「もどっておいで私の元気!」(善文社)「私に帰る旅」(角川学芸出版)

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