
私は、科学というのは本来、宇宙の知性・智慧の解読であり、宗教というのは本来、宇宙の感性・宇宙的な愛の実践なのではないかと思う。科学の発見は、この宇宙の永遠の物語を紐解く1つひとつの章であり、宗教的、宇宙的感性(スピリチュアリティ)というのは、その永遠の物語の底辺を流れる生きとし生けるものたちへの“愛と祈り”なのではないだろうか。
そういう視点で見てみれば、科学と宗教は、同じ宇宙を違う窓から見ているようなものなのだから、本来は互いの欠如の“補完装置”“自己制御装置”として働くべきものであって、決して反目し合う別世界ではないのだと思う。
世界、存在、生命現象はすべて相反する<対極の性質>をもつものが“相互補完的”に関わりあうことで成立しているのだ。すべては両義性(りょうぎせい)を持ち、「対」として存在している。そうした“いのちの相補性”で成り立っているのがこの世界なのだ。
生命あるものは互いの欠如を満たしあい、助け合い、生かし合っている。対極にあるものは、実はすべてひとつのもの、コインの裏表、背中合わせのいのちの働き。
世界もまた、全く別々と思えるもの、つまり見える宇宙と見えない宇宙という二つのものが実は一つに合わさっている。つまり、私たちは今こうして生きながら、見える世界と見えない世界に同時存在しているということなのだろう。
私たちが今生きているこの三次元の世界は二極対立、二元論の世界だ。この二極のものが実はひとつのものであるという認識、つまり二元論的に解釈されてきたものを一元論的に解釈し、理解すること、二元論を止揚(しよう)した第三の道を模索していくこと、これまで対立してきたものをバランスさせていくことがこれからの時代の大きな潮流になっていくのは間違いないことなのだろう。
西洋と東洋、宗教と科学、理性と感性、心とからだ、生と死、光と影、陰と陽善と悪、幸と不幸、成功と失敗、愛と憎しみ、男性原理と女性原理、西洋医学と東洋医学。
片方がなかったら、片方は存在できない。片方の体験がなかったら、もう片方の体験は生まれない。片方を感じることなしに、もう片方を真に味わうこと、真に理解することはできない。片方だけの働き、片方だけの体験では、世界の半分、人間の半分、人生の半分なのだ。
悪がなかったら、善とは何かはわからないわけだし、悲しみを知らずして、喜びを知ることはできない。もし自分にエゴがなかったら、自己の内奥にある純粋無垢さ、天真爛漫さ、愛、神性さに触れた時に、あれほどの感動を味わうことはできないだろう。
病むことの苦しさを知らずして、健康であることの真の有り難さはわからないように、孤独の痛みを知らずして、愛の至福も歓喜も味わうことはできないのだから。
そういう視点で見てみると、人生には何一つ無駄なもの、価値のないもの、無意味な体験なんてないのだと思う。この地球という星が、学びの学校であると言われるのは、こうした二極の世界で成り立っているからなのだろう。
生まれなかったら死ぬこともない。出逢わなかったら別れることはない。挑戦しなければ失敗することもない。人と親密にならなければ傷つけあうこともない。信じなければ裏切られることもない。表現しなければ批判されることもない。人を愛さなかったら愛することの切なさも、愛を失うことの悲しみも味わうことはない。
何一つ無駄な体験なんてないのだとわかっても、それでもやはり、自分が最も望んでいるものの裏には自分が最も体験したくない“リスク”が背中合わせに存在しているという冷厳な事実はあまりにも厳しいし、人生は過酷だと思う。生きていくことは、ただそれだけでものすごく大変なことじゃないか。人は生きているだけでみんなすごいじゃないって思える。
子供の頃から、私の心の深いところにあった、どうしようもない淋しさや悲しみというのは、「生者必滅(しょうじゃひつめつ)(生まれたものは必ず死ぬ)」「会者定離(出会ったものはいつか必ず別れの時が来る)」というこの世の諸行無常を、こんな仏教の言葉も知らない幼い頃から私は感じていたのだと思う。
それでも大人になった私が今思うのは、喜びを感じるためには、悲しみも感じるという対価がいるということ。喜びの大きさは、悲しみや苦しみの大きさに比例するということだ。
憎しみという感情さえ愛がなければ生まれないのだ。憎しみは凍りついた愛の感情だと考えれば、醜い感情だなんて忌み嫌うこともないのかもしれない。凍りついたものが溶けて流れていく先はやはり愛なのだから。
つらいことだけれど、人間に、人生に深さを与えるもの、人を成長させるものは、自分が絶対に経験したくないと思っていた後者の方の体験なのだ。失敗や挫折、喪失や終焉、傷や痛み、病気や障害、崩壊や離別、敗北や絶望・・・。文字通り人間の最も深い苦悩、“魂の闇夜”を歩くような体験の中で、人は鍛(きた)えられ、育てられていくのだ。
冬の凍えるような寒さの土中で、春や夏に咲く花の種が育っているように。秋の紅葉さえ、冬の厳しい寒さを経なかったら、あの美しい紅葉はないのだという。真の豊かさや美しさや実りは、寒さや厳しさの中で育つものなのだという自然の法則。
後者の体験を避けて通ろうとすることもある程度はできるだろう。でも、失敗したくない、いやな思いを味わいたくない、裏切られたくない、失いたくない、もう傷つくのはいやと、何も挑戦せず、何も行動せず、何も表現せず、誰も愛さない人生なんて、なんの意味があるだろう。何のために生まれたのだろうと思う。
この世界は二極の世界で、すべて相反する働きと性質をもつものが、実は“ひとつ”になっているという事実。ふたつの違う働きをするものが一生懸命バランスをとりながら生きようとする姿が存在の力であり、世界の姿であること。こういった真実を改めて自分の人生に置き換えてみると身がひきしまる思いがする。
「いのちの相補性(相互補完性)」という視点から現代医学を見てみると、何が欠けているのかがだんだん見えてきた。医学は科学であるということで切り捨ててきたものーそれは、これまで宗教や心理学や精神世界が扱ってきた分野にあるものだ。不安と死の救済、祈り、愛、つながり、やすらぎ、魂、心、一体感、喜び、安心、励まし、慰め、癒し、大いなるものへの眼差し。
それは、何か特定の宗教に入ることを患者に薦めるということではもちろんなく、医療者側がこれまで宗教や心理学や精神世界がカバーしてきたものを医療の中に取り入れていく必要があるのではないかということだ。たぶん、患者の自然治癒力というものは、これらのものがあって初めて働きだすような気がする。
実際、医学は科学であっても、医療というのは実に人間的な営みなわけで、人と人が関われば非科学的な要素、理屈じゃ割り切れないことの方がはるかに多いはずなのだ。
科学という言葉の力の前であえなく切り棄てられてしまう人間の非科学的な部分、つまり心情とか情動、情緒(怖れ、不安、やすらぎ、愛、希望、喜びといった気持ち)、そういったものが大切にされていないということが、現代医療の問題点のひとつなのではないだろうか。
医療というのは実は、「患者の人生の物語の挫折」、「患者の人生の再編集」「アイデンティテイの崩壊」「死の恐怖」「病気の高次の目的、つまり患者の魂の目的」に否応なくつき合わざるをえない世界なのだと思う。それなのに今の医療にはその視点が大きく欠けているように思えるのだ。
人が人生に挫折した時に一番求めているのは何か。肉体が病み、心に傷や痛みを持った人間が本当にほんとうに求めているものは何か。死に直面している患者が何を一番求めているのか。血の通った医療とは何なのかという視点だ。
何かが行き詰まっている時というのは、それまで前提としていたものの見方、考え方を一度白紙に戻してみること。常識として信じてきたものをもう一度疑ってみること。いままでのやり方の何が問題なのかを深く見つめること。全く違った角度からものを見てみること。古くなったものを捨て去る勇気一私は、こうした態度が本当の知性であり人間の真の叡智(えいち)なのではないかと思う。
そして、このような頭の使い方と心の姿勢を、“科学的態度”“哲学的姿勢”と言うのではないだろうか。今の時代に求められているものは、そのような生きる姿勢を持った人が投げかけている、この時代への“真実の問い”なのだと思う。
< お 知 ら せ >
* 8月4日(土)に京都で講演会があります。(満席・キャンセル待ち)
* 8月25日(土)、心身のリラクゼ-ション&メディテーションの会「シャンテイ」の第二回目があります。(東京・自由が丘)
* 9月7日(金)~9日、長野県、女神山で2泊3日のワークショップ「Be―Work」があります。
* 9月15日(土)、「全国思風塾大会」(名古屋)のシンポジウムがあります。
パネラー:芳村思風先生(感性論哲学創始者)
村上和雄先生(筑波大学名誉教授)
行徳哲男先生(教育者)
土橋重隆先生(医師)
コーディネーター:岡部明美
テーマ「命をひらく ~この命何に使うか~」
* 9月22日(土)、「1 day ワークショップ」があります。(東京・自由が丘)
* 詳しくはホームページをご覧ください。
岡部明美の公式ホームページ:http://anatase.net/
最近「響いた」言葉。
◆自分らしくなるまで、失敗はつづく◆
最近「理解」出来たような気がする言葉
「自分の個性に徹すれば、『失敗』」は有り得ない」
2007年07月07日 00:47
真理は厳然として存在するんだよ
私が最初についた医療気功の先生の言葉です。
先年亡くなられましたが、その方が言っていた言葉で、今も思い出すのは、
宇宙には正しい原理というものがあるんだよ
というのと、人間は科学というけど、あれは応用「化学」であって、ほら、生きている種を最初からつくることは今の技術ではできないだろう…みたいなことば。
こたつでみかん、の信じられないラフさの中で私はこういう教えを受けました。
化学も科学も宗教もすべての愛するもののために手をとりあって、融合するかのように高みに上るための今は過渡期なのだと。
そのための課題は時として、普通の人には不幸に見える形でやってくることもある。
でも、それもすべて、気づきのため。
ワンランクアップのチャンスなんだよ。
そう思うと世界は喜びに満ちて見えます。
課題を受け取った人。一生懸命といてる人、指導してる人。
なら、その一つの礎になるのもとても楽しいと思います。スキップするような弾むような喜びに満ちた感性の共有があけみちゃんのコラムにはいつもあります。
この喜びはどこからくるのか。
しずかに、しずかに、感じてみると少しずつ幸せが近くにやってくるような気がします。
あけみちゃん、ほんとうにありがとう。
2007年07月08日 23:47
あけみさんのことばは身体と心と魂に沁みます。
わたしより先を歩いていらっしゃって それはわたしに希望を
与えてくれます。
なぜなら あけみさんのことばは無明長夜をまんじりともせず
過ごしたひとでなければ記しようのないことばだから...
その方が澄明なかろやかなことばで語られているということ..
ものごとの本質や真実を 信じられないようなやさしさで
伝えていること...そのことにわたしはとても心を動かされ
ます。
いつか いつか その境地にわたしでさえたどりつけるかも
しれない...この隧道をくぐりぬけたら...いやそうでなくて
も まちがいなく そのうえには透きとおるようなあおい空
がある...と信じさせてくれるからです。
そのうちにお会いできる日もあろうかと思います。
2007年07月09日 22:20
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