岡部明美のスピリチュアルな旅で出会った”もの・人・場・言葉たち”

神さまとは個人的に深いおつきあいをしたい

okabe7.JPG以前のコラムで書いたように、私の中には、すでに10代で、『出家とその弟子』(倉田百三)や『歎異抄』を読んで、深く親鸞に惹かれていくような自分がいた。老子も好きでタオイズムにはなぜかとても心惹かれた。手塚治の『火の鳥』や『ブッダ』、三浦綾子の『氷点』、遠藤周作の『沈黙』に、ものすごい衝撃を受けた自分。これらの本は全部、私の心の琴線に激しく触れた。


しかし、親鸞に惹かれはしても、浄土真宗にはまったく興味が向かなかった。仏陀やキリストに惹かれても、キリスト教徒や仏教徒になろうとは思わなかった。聖書や仏教聖典を読んで感動することはあっても、それは他の本を読んで共感し感動を覚えたものと私の中では同じだった。


私は特定の宗教には全く関心が向かない。特定の宗教組織に属すというのがそもそも性に合わない。私は、神さまとはいつでも個人的に深いおつきあいがしたい。グループ交際はいやなのである。


私の関心はいつも人に向かう。私はただ仏陀やキリスト、親鸞や老子の個人的ファンなのだ。もう2000年以上前の人なのにいまだに私は身近な存在として感じている。


20世紀のマスターとしては、和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)もラマナ・マハリシもJ・クリシュナムルテイも好き。サイババはルックスが好みでなかったので全く関心がなかった。インドは、仏陀の国だけあって、やはりすごい人を輩出する国だ。


『不滅の意識』のマハリシの目は吸い込まれそうなほどの深い慈悲の目だし、和尚の『存在の詩』を初めて読んだ時のショックと感動は忘れられない。私は和尚の紡ぎ出す言葉の波動がとても好きだ。壁にぶつかる度に彼の本にどれだけ助けられてきたことだろう。J・クリシュナムルテイとの出会いは、彼の著書『子供たちとの対話』だったが、この本も大好きで繰り返し読んだ。


八百万の神々という言い方があるけれど、私には八百万の師、マスターたちなので、誰か特定の一人の師に入れ込むということは私にはない。人間として生まれて、あそこまでの覚醒意識までいった人の誰が好きかは、もうほとんど個人的な好み、趣味の世界だろう。


私にとっては、浜田省吾も桑田佳佑も小田和正も山下達郎も吉田拓郎も井上陽水もみんな好きというのと同じことなのである。それぞれがオンリーワンの世界を創っている人は、何で活躍しようが魅力的なのである


私は限りなく軽薄でミーハーな側面もあるのだけれど、そんな自分のどこかに「真理」や「真実」や「道」といったものを求めている自分がいるというのは10代の頃からすでに知っていた。


私は、宗教そのものより、人間の心の最も奥深いところにある“宗教性”、あるいは“スピリチュアリティ”に関心があるのだと思う。私の実感では、スピリチュアルは、霊性というよりも、宗教的感性、宇宙的感性、宇宙の愛と意志という言葉の方がしっくりくる。


この宇宙を創造し動かしている偉大なる何者か、宇宙の根源的な実在、永遠の存在。仮にそれを「X」と呼ぶならば、その「X」に対して磁力のように引っ張られてしまう「Little X」が自分の中にいることを知っていた。


私は、その「X」のこと、「X」と「Little X」との関係をずっと知りたくて仕方がなかった。この「X」は、古来、宗教が扱ってきた分野、霊的な世界にあるのだろうということはわかっていた。ただ私は、「X」については、宗教よりも、文学や哲学や科学の方からアプローチしたかった。これはあくまでも私の好みだった。


日本人には宗教アレルギーの人が多いというが、私は、排他的でない宗教、他の宗教も認めるという宗教、強引な勧誘をしない宗教、攻撃的でない宗教、戦争をしない宗教は全くOKだし、個人的な神への深い信仰は自分の深い部分には子供の頃からあったような気さえしている。


子供の頃、近所に優しいおばあちゃんがいて、そのおばあちゃんは、周囲の人たちにとても親切で、世話好きで、いつも心温まるいいお話をしてくれた。おばあちゃんは、ある宗教に入っていたから、私は、宗教というのは、優しくて思いやりのある人間になるためにあるものだと思っていた。今でも宗教が担っているものには、そういう部分があると思っている。


しかし、昨今、度々起きている新興宗教の悲惨な事件のみならず、古来からあった世界宗教もまた大規模な殺戮を繰り返してきたのだ。人間の持つ死の不安と恐怖を救済し、愛や真理を学び、人間性を高め、意識の覚醒を促すための宗教が、なぜ歴史の中でこんなにも大量に人殺しをし、血を流す歴史を延々と繰り返してきたのか・・・。


神の名のもとに戦争をし、愛の名のもとに人を裁き、罪と罰、天国と地獄という観念を植え付けて人の心を支配してきたのが、人類の精神史、宗教史だったのではないだろうか。


私が最も抵抗があったのは、それぞれの宗教が頑なに、「自分たちこそが正しい」「自分たちの信じる神が唯一絶対の神」と思い込んでいる一神教の排他性と、組織の閉鎖性、閉じている世界観だった。


「正義」「唯一」「絶対」「恐怖」「自己防衛」が、最も残虐な攻撃性を内に秘めているということは、宗教戦争を始めとするあらゆる戦争が教えている。もし神がいるのだとしたら、神が最も悲しむことは、人と人が争い、憎しみ合い、殺し合うことではないだろうか。


神や正義の名のもとに戦争することなど、どんな大義名分があろうが、本当の目的や理由を神や正義の名にすりかえてやっているだけだと私は思っていた。


しかし、同時に私は知りたかった。なぜ人類が生まれてからこのかた、宗教がこの地球からなくなることが一度もなかったのか。何かを信じずには生きられない人間とはいったいなんなのか。人間にとって宗教とは何なのか。自分を超えた大いなる存在を信じずにはいられない「人間の心」とは何か


私は、特定の宗教、神、教義には興味はないけれど、その「特定」を超えたところにあるもの、あるいは、「特定」の大元、根源に対しては、ずっと興味と関心があった。でも、関心はありながらどこかで距離をとっていた。信じるということがまだできなかった。


信じると言うことは、「何かを絶対だ」と思うことだ。しかし、すべてのものが生々流転しているこの世界で、変わらないもの、絶対のものなんてほんとにあるのかと思っていた。人の心だって変わってしまう。私だって変わり続けているのだ。何もかもが過ぎ去り、とどまるものなど何ひとつなくて、すべてが終ってしまう、消えてしまうこの世の諸行無常・・・。


だからこそ人は、変わらないもの、絶対なるもの、永久のものを求めているに過ぎないのではないか。「永遠という幻想」を持たなければ生きていけないほど、人は愛を失うことを恐れ、死を恐れているか弱き存在なのではないかと思っていた。


永遠、普遍、絶対なるものを信じて生きていくことができれば幸せかもしれない。私だって本当は信じたかった。でも私は、誰かから「これを信じなさい。これこそが真理なのです」と教えられることではなく、私自身がまさに「もうこれは信じざるを得ない」という体験を重ねて、“降伏”、“降参”したいと思っていた。


私は、スピリチュアルな本などで、どんなに美しい言葉で愛や光が語られようが、どれほど偉い先生に真理を諭されようが、自分の感性の実感が伴わないものは信じられないのだった。実感の伴わないものは観念に過ぎない。生の全体性は観念ではつかみきれない。いやむしろ、観念こそが、分離意識を生み出すのだから。


体験して、感じ、実践して、感じる。目を閉じて感じ、空を仰いで感じる。触れて、感じ、見つめて、感じる。祈って、感じ、からっぽになって、感じる。私には、そんなゆっくり、ゆっくり、少しづつの歩みの中でしか、あらゆる存在・生命が、自分を超えた偉大なる力に生かされていることや、大いなる存在の愛に導かれていることに目覚めていくことができなかった。


感性の実感からの「降伏」こそが、より大きな「幸福」を私の人生にもたらしてくれるであろうことを私の深い部分はわかっていたのだと思う。薄皮を一枚一枚重ねるようにして大切なことを理解していった。薄皮を一枚一枚捨て去るようにして、もういらなくなったものを手放していった。そんな日々を生きてきたある日、私は本当に降伏せざるをえないある体験をした。


その瞬間、私は、心の中で地面に平れ伏すような感じになった。しかし、地面だと思ったそこは大きな空だった。その大空こそが、私が求めてやまなかった心の中の平安の地だったのだ。

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<  お 知 ら せ >
         

* 8月4日(土)に京都で講演会があります。(満席・キャンセル待ち)

* 8月25日(土)、心身のリラクゼ-ション&メディテーションの会「シャンテイ」の第二回目があります。(東京・自由が丘)

* 9月7日(金)~9日、長野県、女神山で2泊3日のワークショップ「Be―Work」があります。

* 9月15日(土)、「思風塾全国大会 in 名古屋」のシンポジウムがあります。
               
   パネラー:芳村思風先生(感性論哲学創始者)
         村上和雄先生(筑波大学名誉教授) 
         行徳哲男先生(教育者)
         土橋重隆先生(医師)
               
   コーディネーター:岡部明美
               
   テーマ「命をひらく  ~この命何に使うか~」


* 9月22日(土)、「1 day ワークショップ」があります。(東京・自由が丘)

* 詳しくはホームページをご覧ください。

岡部明美の公式ホームページ:http://anatase.net/

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コメント

投稿者: .こまき

ああ、そうです、そうなんです。
神様とグループ交際はいやなんです。

そして私が学ぶのは、
それが文学であれ数学であれ、物理学であれ、
世界のなりたちと
神様が何をお考えになっていらっしゃるのかを
少しでもしりたいからなのです。

ありがとうございます。


2007年07月18日 12:25

投稿者: 華

実感の伴わないものは信じられない。
これを実感させてくれたのはあけみちゃんそのひとです。
いくつかの大好きな本の名前の中に、最近、娘が手にした本がありました。
ふしぎです。でも、一番笑っちゃったのはサイババがルックスでペケって…(そんな理由の人、私以外にもいたんですね)
お軽いコメントで失礼しました。

でも、私にとってはあけみちゃんが実感を教えてくれた方だった、というのは真実です。
たくさんの方があなたのもつ実相に触れることができますように。いつもありがとうございます。

2007年07月18日 17:20

投稿者: しろにょん

自分の実感をともなうならば 痛みも真実として降伏できます。
降伏した後の 内側から湧き出る幸せな静けさに もっと多くの方が気がつけますように。。。


2007年07月18日 22:31

投稿者: さくら

あけみちゃんのコラムはいつも 言葉の宝石箱のようにわたしにとってとても共感のできる大切な体験ばかりです。

今まで 「ただ感じる」ということが恐かったのかもしれません。

また 勇気をもらいました。

ありがとうございます。

2007年07月19日 14:47

投稿者: takuya

宗教の捉え方に興味を持ちました。
ただ、多少狭い宗教観であると思います。
信じることは、絶対と思うことというより、対象をどう捉えるかだと思います。
つまるところ、神などに象徴される、対外的何かを信仰対象とすることのみを取り上げられているようですが、
宗教は、生活の哲学であり、どう生きるかを考えるものだと思います。
きっと、それは岡部さんも同意であると思います。
宇宙的何かという捉え方が、面白いと思いました。

2007年07月20日 09:27

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プロフィール

岡部 明美岡部 明美

ワークショップ・トレーナー/セラピスト/カウンセラー/研修講師/文筆家/東海ホリスティック医学振興会顧問。

独身時代は、シンクタンクにてマーケティングプロデューサーとして活躍。30代半ばで結婚。長男出産直後に脳腫瘍と水頭症を発病し生死を彷徨う。自分の死に直面するという体験を通して、いのちの根源からの問いの答を求めて自己探求の道に歩みだす。著書に「もどっておいで私の元気!」(善文社)「私に帰る旅」(角川学芸出版)

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