岡部明美のスピリチュアルな旅で出会った”もの・人・場・言葉たち”

愛は論理的ではない、愛は矛盾を内包し理屈を超えたもの

WS000136.JPG愛の実力(4)最終回

それにしても、愛というものは、今までは、文学や歌やドラマの世界の専売特許だったのに、こうして愛というものを学問の俎上に取り上げるというのは極めて稀なのではないだろうか。


私は、思風先生の「愛の実力」の講義を聞いて、今までの自分の在り方や生き方を深く振り返らせてもらうと同時に、全く新しい視点で愛というものを見ることができるようになった。

思風先生は言う。

「人は自分と同じ感じ方、考え方、価値観といった共通項が多いことで初めは互いに惹かれあいますが、直にいくつもの“違い”を見つけるようになって、今度は違いを理由に相手を受け入れられなくなったり、嫌になったりして対立が始まります」


「あるいは、相手が自分にないものを持っているがゆえに惹かれてつきあいだしたのに、つきあいが長くなると、その“違う”からこそ魅力だったものが、わかりあえないことの苦しさに変わって、その違う部分が今度は嫌いなところに変わってしまうのです」


「しかし、対立した時、諍いが起きた時というのは、本当は相手の物の見方、考え方、価値観を理解し、友情や愛情を深め、自分を成長させるチャンスなのです。対立している相手というのは実は、自分に足りないものが何なのかを教えてくれている人なのです」


「自分と違うものを持っている人というのは、自分が最も学べる人であり、最も自分を助けてくれる人になる可能性のある人なのです。相手を責めている限りは人は成長できません。本当に自分を成長させてくれる人というのは、決して仲良しこよしの人ではないのです」


「ご自分の身近な人間関係の愛をみて下さい。相手に愛がない、優しくない、愛が足りないと思っている人は、自分が望むような愛し方をしてくれないから、自分がしてほしいような愛、自分が言ってほしいような言葉を言ってくれないから、愛がない、愛が足りない、冷たいと言っているのではないですか」


「人間関係でトラブルが起きた時は、たとえ相手が相当の部分悪かったとしても、自分の中にも足りないもの、配慮に欠けていたものがなかったかを見て、認めることが自分を成長させるのです」


「自分の価値観を押し付けていなかったか。期待や要求が強過ぎなかったか。相手を思いやる気持ちが欠けていなかったか。相手の立場になって考えてみたことがあるか。相手の気に食わない部分ばかりに目をやっていなかったか。相手に対する感謝を忘れていなかったか」


「男女間の愛では、愛されることばかりを求めていなかったか。愛をちゃんと表現しているか。自分勝手な愛情の押し付けをしていなかったか。相手にしがみついて重くなっていなかったか。依存し過ぎていなかったか。相手に完璧さを求めていなかったか。相手に介入し過ぎていなかったか」


「しかし、愛を“よりよい人間関係を創る実力”として磨いていくためには、すべての能力開発と同様、トレーニング、練習が必要です。ですから、人間関係の確執や諍い、離婚や失恋は、愛することの失敗ではなく、愛を学ぶための大切な経験なのです」


「人生には一切の失敗はなく、すべての人が自分にとっての必要な経験をしているだけなのです。人生の学びは、痛みに満ちています。特に、愛についての学びは最大級の痛みでしょう。だから、人間として生きているということは痛いということなのです。しかし、学べば学ぶほど、成長すればするほど、人生には喜びや感動、豊かさや愛が満ち溢れるようになってきます」


「そして、愛は矛盾を内包し、理屈を超えたものであることも理解してください。愛は決して論理的ではありません。人は、愛に関しては、相手から理屈を言われれば言われるほど、いい訳をされればされるほど腹が立ってくるのです。淋しくなるのです。理性は説得の論理。しかし、心は説得なんかされたくないんです。ただ、わかってほしいんです。愛は相手の心を安心させる力なのです」


愛は矛盾を内包し、論理的ではないというのは本当だと思う。自分の人生で深い関わりを持ってしまった人、両親や兄弟、友人や恋人や夫婦関係、子供との関係、仕事仲間との関係を改めて見てみると、本当に私は相手に対して矛盾だらけの気持を持っている。


ものすごく腹を立てているのに、でも大好きだったり、うんざりしているにも関わらず、相手のいいところを一番わかっているのは自分だと思っていたり、嫌いなところ、イヤなところが一杯あるくせに、その倍くらいに好きなところがあったりする。


たとえ愛しているところを箇条書きにしてみても、自分の愛はこの総和以上のものだとも思っている。わかってもらえない淋しさはあっても、愛されていることは十分感じていたりもする。


愛というのは、本当は、矛盾や混乱や葛藤、プラスとマイナス、善と悪という両極を超えた、もっともっと大きな、途方もない力、エネルギーを持っているのだと思う。この宇宙が慈愛と叡智に満ちあふれているように、小宇宙といわれる私たちの本質である愛もまた、無限の可能性を秘めているのだろう。


私たちの生はいつだって、その無限の可能性に開かれおり、その可能性という生命場に創造したいと想うものこそが、生きることの大いなる楽しみなのだと思う。

                            
思風先生はさらに、愛の問題を人類が今置かれている状況にまで言及してこう言う。


「完全性を求める理性は、まさに違いを理由に戦いを始めるわけです。理性は、宗教の違い、神への考え方の違い、イデオロギーの違い、民族の違い、相手の考え方や価値観の違いを理由にどれだけ闘争、戦争を繰り返してきたでしょうか。私たちはいつまでこの戦いの歴史を続ければ気が済むのでしょう」


「人は自らの内に“平和の砦”を気づかない限り、世界の平和など実現できないのです。自分の中に闘いがあり、身近な人間関係でも争ってばかりいる人が、どうやって平和な世界を実現できるでしょうか」


「人類は愛に関しては全く成長していないんです。1000年前の人たちが愛で苦しんでいた同じ悩み方、苦しみ方を今なお現代の人はやっている。しかし、もう愛というものをよりよい人間関係を創る“実力”として、問題を解決する“能力”としてとらえ直さなければ、人類はいつまでたっても戦争をやめられないし、昨今の離婚の激増や幼児の虐待は止めることはできません」


「人類に今最大に欠如しているものが、正しい理性の使い方と愛と感謝の心なのです。感性論哲学は、人生の実践哲学であり、理性革命の哲学でもあるのです。人間は今、理性に使われてしまっているがために生きることが楽しくないのです。人間が理性に支配されるのではなく、感性を生きる原理にして、その実現を、理性を道具として正しく使いこなすことを学ぶことが、私の感性論哲学なのです」


「人間は理性の奴隷になると、自分も人も苦しめてしまいます。こうでなければならない、こうであるべきだと、自分にも人にも要求してしまうからです。理性は、“完全性を求める能力”なので、理性の奴隷になっている人は、自他に対し、完璧さ、100%を求めてしまうのです」


「理性が優位になっている時はわかります。自分は正しく、相手が間違っていると絶え間ない批判を頭の中でやっていますし、反対に自分が悪いのだと自責を繰り返すからです。これが理性の奴隷になっている人の人生の苦しみです」


「感性論哲学は、感性が○で、思考、理性を×と言っているのではありません。人間は、理性・感性・肉体が“有機的”につながりあっている存在であるという人間観をしっかり持ち、人生がイキイキし出すのは、その有機性が発動しているときであることを伝えているのです。理性だけでは青白きインテリ、感性だけではただのわがまま人間、肉体だけでは野獣です」


「しかし、感じている自分、感性の実感こそがまぎれもない私なのですから、人はまず自分の感性の欲求に耳を傾けることが何より大切です。感性からの欲求というのはまさにいのちの欲求なので、その欲求を、理性を正しく使って、できるだけ人の迷惑にならないよう、人の協力を得られるように心遣いをして自己実現の人生を生き始めると生きることが本当に歓びに変わっていきます」


「人間が成長するというのは、感じ方が成長していくということなのです。感じ方が成長し、“愛の実力”が身につき、正しい理性の使い方を学んでいけば、人生に成功と幸福がやってきます。愛がほしい、ほしいと、人からの愛を求めてばかりでは、人は幸せにはなれません。幸せの源泉を外の何か、外の誰かに依存している限り、人は永遠に不安で、失望と絶望を繰り返してしまうのです」


「自分が、自分の内側に“平和の砦”を築き、“愛に溢れる人”になり、自分が本当にやりたいことをやって誰かの役に立ち、社会に貢献するようになっていくと人は本当に幸せになっていくのです。そういう人の人生の成功は、人を幸せにするのです。よりよい社会を創るのです。そういう生き方をしている人の人生の歩みは、この時代を一歩前に進ませるのです」


それにしても、思風先生は、なぜこのような“愛の実力”の哲学を生み出されたのだろう。ある日の講義で先生はその背景を話してくださった。それは、思風先生ご自身が長年夫婦関係で本当に苦しんできたからなのだという。


そのため、どうやったら人と人はいい関係でいられるのだろう、こじれて悪化してしまった人間関係をどうやったら修復できるのだろうと考え続けてこられたのだという。


「僕は、外に出れば先生と呼ばれるような職業ですが、家に帰れば妻からはもうボロクソ、ケチョンケチョン(笑)。いつも針のむしろ。家にいると僕は一瞬たりとも気が抜けません。仕事で外に出るとほっとするんです(笑)。妻は、僕の痛いところをグサグサ突いてくる人で、これだけは言われたくないというようなナイフのような言葉で、僕はどれほど傷ついてきたことか(笑)」


「でも、ある時から僕は、自分が成長しなければ、自分たちの関係はもうどうにもならないところまできてしまったと思ったのです。相手の愛のない言葉や行為は、愛を求める叫びなのだということに気づいてからは、自分が人間として、男として大きくなる以外ないと思い、この妻は自分が一生守り抜くという覚悟をしました。僕は決断したのです。この妻を絶対に捨てないと。その時から、妻の態度が変わり始めたのです。僕の仕事を認めてくれるようになり、僕に優しさをくれるようになったんです」


「僕は妻との関係で本当に行き詰まってしまった時に、宇宙に向かってこう叫びました。“俺をこれ以上大きくしよってかあ~”(笑)。僕がこうして“愛の実力”の講義で話している内容は、すべて自分自身が人生で実践してきてつかんだものなのです。妻は、僕に最も厳しい人でした。しかし、最も僕を成長させてくれたのも妻なんです。だから今は妻に心から感謝しています。もちろん、今でもつらい時はいっぱいあるんですけどね(笑)」


私は、思風先生のこういう話を聴くと正直いってほっとする。もし講義の内容だけだとしたら、あまりにりっぱ過ぎて、私などとても自分が至れるような境地じゃないと尻込みをしてしまうだろうから。体験からのメッセージというのはやはり人の心に響いてくる。


思風先生の愛の実力の講義は、現実の自分の人間関係に当てはめて考えると本当に学ぶことが多かったし、自分の在り方、生き方をおおいに振り返らせてもらえた。


思風先生は哲学者だから、魂とか霊性とか神という言葉はほとんど使われない。でも話を聞いていると、私の中ではつながるのだ。思風先生が言う「宇宙の究極的実在は純粋感性」というのは、これまで宗教や形而上学で語られてきた、神、純粋意識、空、源、大いなる存在、グレート・スピリットなどと同じ意味であると。


その源につながる我々の感性と思風先生が言うとき、それは、魂の波動とか霊性、神性、仏性と呼ばれるものであることを私は理解する。最近は、霊性の向上とか、魂を磨くといった表現がよくされるが、それがどういうことなのかもうひとつピンと来ないという人でも、思風先生が言う、不完全な人間がどうやって人間性を成長させていけるか、愛を成長させていけるかといった話だったらわかりやすいのではないだろうか。


人間は肉体を超えた存在であることを理解し、自分の人間性や愛を成長させていけば、即ちそれは霊性の向上につながるのだと私は思う。確かに、「人間とは何か」ということを見極めていけば、自ずとある時点からは物理的次元を超えざるをえなくなる。


私たちが完璧に自己同一化している自分の肉体・思考や感情は、生まれては消えを繰り返している雲のようなものであり、本質は雲の向こうに広がる広大無辺の青空(意識)であるということがだんだんわかってくる。そして、人間は、青空(大我・真我)と雲(小我)の同時存在であることも。


しかし、精神世界でよく言われる「我は神なり(真我・神我)」「人間は本来は、愛と光の完璧な存在」という言葉は、昨今の表層的なスピリチュアルブームに乗って精神世界に興味を持った人たちにとっては,誤解と混乱と危険性が伴うのではないかという危惧が私にはある。


人間の本質がたとえ「神なり」でも、人間は「雷」(心という地雷)がいつなんどき爆発すかもしれない不完全な存在なのだから。人間が体をもってこの星にはるばるやってきたのは、いろいろなことを味わい、体験するためなのだし、そのいろいろというのは喜怒哀楽(心)のすべてなのだから。


ただ、自己の探求を真摯に深めていけば、肉体や心との同化からだんだん離れていくことができ、自由・自在のスペースが増えていくのは確かだ。そして、その全きスペースこそが、これまで、神・愛・空・生命と呼ばれてきたものと同じであったことがわかる。


私は最近、人はみな自分の人生の旅、愛の旅路で、誰と出会い、喜びも悲しみも苦しみも含めて、それぞれの人と何を経験し、何を味わい、何を学び、何を創造し、何を実現するかを生まれる前に決めてきたのではないだろうかという気がしている。


愛は見事にドラマを作り出す。人間関係はドラマそのものだ。でも、いい人しか出てこないドラマなんて面白くもなんともないわけで。渡る世間に鬼がいればこそのあれだけの視聴率。水戸黄門様が行くところに悪代官がいて、黄門様がやっつけてくれるからこその、あの「ヤッタネ!」感。(私は若かりし頃“水戸黄門”を作っているドラマの制作会社で経理の仕事をしていたのだ。全然才能のない経理だったが(笑))


自分の人生をドラマとして見てみると、私の人生のキャスティングはけっこう面白い。出来過ぎって感じだ。最近は、スクリーンの上に上映されている自分の人生ドラマを観客席から見ることが趣味のひとつになっている。


私の人生ドラマは、少なくとも「退屈だ!金返せ!」というような映画ではない。しかし、主人公は、けっこうあっちにぶつかり、こっちにぶつかりして痛い思いをしている。それなのになかなか懲りない。そして、この主人公は、どんなに谷底に転げ落ちても、ちゃんと立ち上がってくる。なかなかの根性である。続きを楽しみとしよう。


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* このコラムで紹介した芳村思風先生の[愛の実力]の講義のダイジェスト版「人間関係10の原則」があります。編集:山本英夫 A6版 840円。/問合せ・ご注文:日本SG研究所
office@something-great.com

* 感性論哲学については、『人間観の革正』(致知出版)がわかりやすいと思います。こちらはアマゾン、書店注文できます。




<  お 知 ら せ >
         
* 8月25日(土)、心身のリラクゼ-ション&メディテーションの会「シャンテイ」の第二回目があります。(東京・自由が丘)

* 9月7日(金)~9日、長野県、女神山で2泊3日のワークショップ「Be―Work」があります。

* 9月15日(土)、「思風塾全国大会 in 名古屋」のシンポジウムがあります。
               
   パネラー:芳村思風先生(感性論哲学創始者)
         村上和雄先生(筑波大学名誉教授) 
         行徳哲男先生(教育者)
         土橋重隆先生(医師)
               
   コーディネーター:岡部明美
               
   テーマ「命をひらく  ~この命何に使うか~」


* 9月22日(土)、「1 day ワークショップ」があります。(東京・自由が丘)

* 詳しくはホームページをご覧ください。

岡部明美の公式ホームページ:http://anatase.net/

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コメント

投稿者: 華

ノックアウト。K.O.です。思風先生。
9月、実はつまってます、15日。
でも、日にち交渉してみたいくらいの説得力と“俺をこれ以上大きくしよってかあ~”(笑)がめっちゃうけました。

あけみちゃんの「我は神なり」はちょいと危険、というのも本当に同感です。
私なんぞはもう、人に助けられっぱなしですから、自分のことはついぞそんなふうに思ったことはないんですが、今,過中の旦那が「自分ひとりでなにもかもを治す」っていうんです。…私はいらんのか。
(共依存) 
まあ、大きな力とともによりそって、ならいいんですが、そういう感じでもないんです。
もっとおっきな優しいものに触れたいと思ってあけみちゃんとこで学んでます。(と、かっこいい言い方をしましたが、遊んでいます)

私の映画もなかなかアップダウンの激しいドラマらしいです。
…いつか。いつの日か。それも、また楽しかったね、と言いたいものだと切に思いました。

今回も、プリントアウトして、しばらく持ち歩きです。ありがとうございました。お二人に感謝です。

2007年08月01日 01:10

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プロフィール

岡部 明美岡部 明美

ワークショップ・トレーナー/セラピスト/カウンセラー/研修講師/文筆家/東海ホリスティック医学振興会顧問。

独身時代は、シンクタンクにてマーケティングプロデューサーとして活躍。30代半ばで結婚。長男出産直後に脳腫瘍と水頭症を発病し生死を彷徨う。自分の死に直面するという体験を通して、いのちの根源からの問いの答を求めて自己探求の道に歩みだす。著書に「もどっておいで私の元気!」(善文社)「私に帰る旅」(角川学芸出版)

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