岡部明美のスピリチュアルな旅で出会った”もの・人・場・言葉たち”

あなたの“時”が、きっといつか巡ってくるからね

WS000301.JPG私に、さらに大きな視点の変化をもたらしてくれたもののひとつがサイコシンセシス(フロイトの“精神分析”の反対で、イタリアの精神科医、アサジョーリが創始した“精神統合”の心理学)だった。私はサイコシンセシスの中でも特に「サブパーソナリティと自己の同一化(同化)」のことがまさに目からウロコだった。そうか、だから私は、自分が“こわれていく”ことを自分で止められなかったんだということがすごく腑に落ちたのだ。


私は、かつてどれほど心身がボロボロになっていても、休めず、立ち止まれず「苦しい」の一言も言えなかった。人から心配されても条件反射のように「大丈夫、大丈夫」と言っていた。そんな私は、あるサブパーソナリティに完璧に自己同一化=同化していたということがわかったのだ。


サイコシンセシスでは、自分の中の“ある一面”、いろいろな自分、たくさんの小さな自分のことを“サブパーソナリティ”と言う。あるサブパーソナリティに自分を同化していると、そのサブパーソナリティこそが自分と思い込んでいるために、他のサブパーソナリティを仕切ってしまい、その欲求を聴いてあげなくなってしまうのだ。


私が同化していたサブパーソナリティがはっきり見えてきた。それは、明るくて元気でがんばりやの自分。行動力があって努力家で根性がある自分。いつも前向きでプラス思考で向上心が強い自分だった。この私でなかったら、私ではないというくらいこのサブパーソナリティが私のすべてを仕切っていたのだ。


同化しているサブパーソナリティというのは、確かに自分の特徴的なある資質ではあるけれど、同時にそれは親や周囲の人たちからの「愛と承認」を得るために育ててきた自分でもあるのだという。


それゆえ、自分でもそれが自分の本質だと思い込み、他者も自分が同化しているそのサブパーソナティをその人の本質のように感じていることが多いのだという。そうすると同化しているサブパーソナリティ以外の自分(他のサブパーソナリティ)は、表現されることも、大切にされることもなく、その欲求に耳を傾けてもらうこともないままで端っこに追いやられてしまうのだという。


そうか、この同化しているサブパーソナリティは、自分にとって得なことがいっぱいあるから、自分の素肌のようになってしまうのか。まさに私自身、人から自分の存在を認めてもらうため、ほめてもらうために、また社会に適応していくために、生きる知恵として身に着けてきたサブパーソナリティを自分そのものだと思い込んでいたのだ。


そういえば、パーソナリティのギリシャ語の語源、ペルソナは、“仮面”という意味だったっけ。仮面なのに素肌だと思い込んでしまったら、確かに歪みが生まれてしまうはずだ。顔のパックは笑うとシワになるけれど、人格のパックって、シワになっていることになかなか自分では気づけないものなんだな。


もちろん、人は社会的な存在だから、仮面は時に応じ、役割に応じて必要ではあると思う。役割の顔、フリをすることは当たり前のことなのだ。社会に出て裸で歩くわけにはいかないのだから。


でも、その仮面を自分だと思い込んで生きてしまうと、行き詰まってしまった時に、突然、「私は誰なんだろう?」という、自分の存在に対する根源的な不安や懐疑が生まれる。これが、アイデンティティ・クライシスなのだろう。


なるほどなあ。私は、自分がこわれていくのを止められないほど、このサブパーソナリティに自分を同化していたのだ。もしかしたら、私の発病は、私の中で無視され、大切にしてもらえなかった自分、ぞんざいに扱われてきた自分が結託して反乱を起こしたのかもしれない。


存在すら認めてもらえなかった小さな自分とは・・・気が小さくて、臆病で、すぐ落ち込む自分。矛盾だらけで、いい加減で、意気地なしの自分。泣き虫、弱虫で、グチャグチャな自分。本当はやりたくない自分。人に合わせたくない自分。怠け者で、淋しがり屋で、感傷的で、甘ったれの自分。暗い自分・・。


私は確かにこれらの小さな自分の存在を無視してきたし、出てこようとしたら頭をひっぱたいて、「ひっこんでいなさい、我慢しなさい、だめよ、そんなんじゃ」とか「やるの、やらないの、どっち! Aなの、Bなの、どっちだかはっきりしなさい!」と無言で叱り飛ばしていた。


昔は、もっといい加減で矛盾だらけだったのに。もう少し、おおらかでケセラセラだったのにな。葛藤に費やすエネルギーに耐えられなくなった私は、だんだん白黒はっきりさせなきゃ気が済まないようになっていったのだ。


郁恵さんは、あるサブパーソナリティと同化していると、どんな生きづらさが出てくるかをこう説明してくれた。


「素直ないい子、思いやりのあるやさしい人、いい人、というサブパーソナリティに自分を同化している人は、自分を主張したり、NOをいうことや、自分が本当にやりたいことを言うことが、わがままで悪いことなんじゃないか、人から嫌われてしまうのではないか、相手を傷つけてしまうのではないか、という怖れと罪悪感をもったりします」


「同じように、がんばり屋、向上心が強い、前向きというサブパーソナリティに同化している人は、休むことや遊ぶこと、気が変わることや降りること、リラックスすることに対して、さぼっているようでうしろめたいと感じたり、無責任と言われることを恐れたり、真剣さが足りない、成長が止まってしまうと考えてしまいがちです」


本当にそうだ。私は、どんなにがんばっても、「まだだめだ。その程度で満足してるんじゃない。もっとがんばれ。一度口に出したことは、途中で翻すな。逃げるな。初志貫徹!」といった声が絶えず自分の中から聞こえてくる。


アニメのイメージでいうと、「巨人の星」の星飛馬のお父さんみたいな人が自分の中にいて、このお父さんが、とにかく厳しいスパルタ教育の教師だった。私はこのお父さんの声が自分の中から聞こえてくると、温泉に入っていながらも突然、ウサギ飛びを始めてしまうような条件反射の行動に出てしまう。


実際のうちの父親は、全く逆で、やさしくて、私をいつもほめてくれたし、愛してくれたし、認めてくれていた。私は、父に頭ごなしに怒られたことが一度もない。うちの父と、星飛馬のお父さんは、まるっきり正反対のタイプなのにどうして、私の中にこんなに厳しい教師がいるのだろうか。


私は、自分の中にいるこのスパルタ教育の教師がこわくて、途中で、何か違うなあ、もう嫌だなあ、やめたいなあ、休みたいなあという欲求が出てきても、それを感じないようにしてしまうのだ。でも、それをやっていると、決まって途中でわけがわからなくなってきて、途方に暮れてしまうか、からだに何らかの症状がでてくるのだった。


もちろん、この厳しいスパルタ教育の教師に逆らわないで、必死になって努力する自分がいたからこそ、達成できたこと、力がついたこともたくさんあったと思う。でも、同じくらいに、自分の中にたくさんの歪み、不調和を作ってきたのだ。


「サブパーソナリティというのは、みんな、自分のある一面であって、全てではないのです。自分が、どんなサブパーソナリティに同化しているのかに気づいてください。同化していると、自分は“こうでなければいけない”という、とらわれを作り、自由さがなくなっていきます。とらわれから解放されるためには、まず、自分が何にとらわれているのかに気づくことが大切です」


確かに、私は、基本的には、明るいし、陽気なのだけれど、自分が本当はつらい時、くたびれている時まで、明るく元気な自分というものを人に見せてきたのは、人から受け入れられるためには、いつも、明るく、元気で、ニコニコしていなければならないという思い込みがあったからなのだということがわかった。


「いつも明るく、元気で、前向きでなければならない」と思い込んでいた私は確かにマイナス思考の人、努力しない人、不平不満の多い人、言い訳ばかりして動こうとしない人に対してすぐ苛立った。でも、このことがわかってからは少しずつ人間の見方が柔軟になっていったように思う。


人は自分が受け入れられ、自分の価値や才能やいいところを認めてくれる人に出会えたらちゃんと自分の良さを生かす方向に自然に歩き出すということ。同じように人は、自分が本当に情熱を傾けられる対象に出会った時には、自然に勉強するし、努力とも思わず自分を磨くし、もっと成長しようと思うものなのだと。


考えてみれば、かつての私自身がまさにそうだったではないか。自分に自信がなくてもうひとつ動けない時に、自分を認めてくれる人がいたり、いいところ引き出してくれる人がいたことで、新しい一歩を踏み出せたのだ。それなのに私は、他者に対してどこまでそういう関わりができていたかと思うと、自分がしてもらったほどには、人に対してやれてなかったと思った。


本当に一人ひとりのプロセスや対象との“出会いの時”はそれぞれみんな違うのだ。出会いの時が、早い人もいれば遅い人もいる。これだと思ったものが、そうではなかったと気づく時だってある。何度でもやり直せるのだし、いくつからでも始められるし、いつ始めたっていいのだ。


郁恵さんだって、本当に自分がやりたいことに出会ったのは50歳を過ぎてからだと言っていた。私は、もう40歳という人生の折り返し地点に来たのに、いまだ自分の道が何も見えてこないことに焦りを感じていたので、それを聞いてすごくほっとした。


今からだって、出会える。始められる。違ったと思ったらやり直せばいい。心の底で求めているものには必ず出会える。自分が本当は何を求めているのかということだけを丁寧に感じていればいい。


そう思えたら心の中に余裕ができて、焦らずにボチボチ行こうと思えるようになった。とにかく、郁恵さんのセミナーで、少しずつ自分がとらわれていたものに気づけるようになってきた私は、心に余裕のようなものが生まれてきて自分に対してこう言ってあげたいと思った。


「ゆっくりでいいよ。自分のペースでいいんだよ。あなたにしかできないことがきっとあるはずだから。あなたの“時”がきっといつか巡ってくるからね」


私は、自分に対してこんな風に優しい言葉をかけてあげたことなど一度もなかったなあ。自分を信じてあげること、自分を大切にすること、自分に優しい言葉をかけてあげることが、こんなにもうれしいことだったなんて・・・。


  <  一歩 >                 

人にしてみれば何でもないことでも 自分にしてみれば 勇気をふりしぼり こだわりを捨てなければできないことがたくさんある


それに一歩踏み出せたこと  一歩近づけたこと


そんな小さな小さな歩みの達成感を自分で認めていったとき


自分の中に本当の自身が育ってゆく


そうやって 少しづつ 自分にOKを出していく


少しづつ自分を取り戻してゆく


そして、一歩づつ夢に近づいてゆく


ゆっくり ゆっくり しあわせになってゆ


『もどっておいで私の元気!』より(岡部明美著:善文社)

    (次回に続く)


<お知らせ>

*12月22日(土)に年内最後の「リラクゼーション&メディテーションの会・シャンテイ」が東京・自由が丘であります。頭部の緊張をゆるめ、からだをほぐしていきます。からだがほぐれてくると心もほっこりしてきます。からだをゆるめた後に瞑想すると心の深いやすらぎ、静寂が味わえます。人に優しく、自分にはもっと優しく。自分に優しくなれると、不思議に人にも優しくなっていきます。シャンテイの会は、自分のからだと心を大切に慈しむ時間です。 

http://anatase.net/work3.htm


*岡部明美の公式ホームページ:http://anatase.net/

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コメント

投稿者: 華

猫の皮、と私は呼んでいました。
イイコのサブパーソナリティのことを。

実際、友達でさえ、「あんたの八方美人は天然だから、まあ、ゆるす」と言ってたくらいです。

仮面よりも皮は密着しやすく、生皮ははがれにくく、脱ぐには勇気と流血を伴いました。

なのに!意外と臍の緒チョッキン!ですんだのは、産婆さんのあけみちゃんのおかげです。

中からはてひどくやんちゃなもう、どうしようもないくらいなおてんばが出てきました。
優等生とは程遠いそのガキ大将じみた自分におたおたしています。

でも、今の方が、絶対楽しい!!
それだけは保証します。

あけみちゃん、光の中に生まれなおすお手伝いをしてくださって、ほんとうにありがとうvvv

人生は冒険だ!

2007年12月07日 17:13

投稿者: まなみん

素敵なお写真!
うつくしいわ、あけみちゃん

2007年12月07日 22:59

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プロフィール

岡部 明美岡部 明美

ワークショップ・トレーナー/セラピスト/カウンセラー/研修講師/文筆家/東海ホリスティック医学振興会顧問。

独身時代は、シンクタンクにてマーケティングプロデューサーとして活躍。30代半ばで結婚。長男出産直後に脳腫瘍と水頭症を発病し生死を彷徨う。自分の死に直面するという体験を通して、いのちの根源からの問いの答を求めて自己探求の道に歩みだす。著書に「もどっておいで私の元気!」(善文社)「私に帰る旅」(角川学芸出版)

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