岡部明美のスピリチュアルな旅で出会った”もの・人・場・言葉たち”

反応してしまう自分から、応答できる自分へ

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自分が自分をこんなに縛っていたのだという気づきは、驚きであると同時に大きな喜びでもあった。同化の問題は、自分を制限している大きな思い込みに気づく視点としてとても勉強になることが多かった。


そして、この同化の問題はサブパーソナリティだけでなく、人生のいろいろな場面でも実に人は無意識にやっているのだという。


「会社」や「仕事」と自分があまりに同化していれば、自分=会社・仕事なわけだからそれがなくなるということは、自分がなくなるという怖れが生まれて執着が始まる。ワーカーホリックというのはまさしくこれなのだろう。私は、かつてこれをやっていたから苦しくなり、行き詰まってしまったのだ。


自分の“権威や名誉”、“過去の栄光や業績”、“学歴や肩書き”に自分を同化している人が何がなんでもそれを死守しようとしたり、誇示したがる人というのもこういう心のカラクリなのだろう。


妻、母、嫁という役割に同化している人は、その部分で評価されることやほめられることが自分の存在価値を確認できることだから、いい妻、いい母、いい嫁を目指してがんばってしまう。私もこれは、さわりだけはやったことがあるから、実感として少しはわかる。かなり苦しかった。“無い袖はふれない”と気づいて、早々にリタイアしたけれど。


よくありがちな、子供と自分を同化している人も同じなのだろう。どんなに子供がかわいくても、子供は、自分とは別人格の人間だ。子供には、その子自身の欲求や価値観や意志があるのだから、親の思い通りになんかなれないし、親の期待通りには生きられない。


でも、子供にとっては親の存在は絶対だから、自分に対する期待と要求が大きければ無意識に子供はそれに応えようとしてしまうのだ。親からの条件付けを無意識レベルで取り込んで、親から愛される自分、認めてもらえる自分、ほめてもらえる自分というものを作っていってしまうのだろう。


親から過剰な期待をかけられている子や、親に過剰に心配される子は、自分がつぶされていくような不安を感じたり、期待に応えられない自分をダメだと責めたり、自分が本当は何をしたいのか、どう生きたいのかわからなくなってしまうアイデンティティ・クライシスに陥ってしまう可能性が高いのではないだろうか。


親が自分の心の不安や空虚さを子供の存在によって埋めようとすれば、子供にとって親の存在は重しのようにのしかかってしまう。親が一人の人間としてイキイキと生きていなかったら、子供は、「自分は、自分として生きていいのだ」とは思えないだろう。両親の仲がいいことと、両親の生き方や、在り方そのものが、子供への最大の贈り物なのではないだろうか。


役割意識は自分の内側からの欲求より、外側からの要求と期待に応えていく世界だから表向きの顔ばかりになり、本来の自分からどんどん離れていってしまうのだ。会社人間だった頃の自分を振り返るとそれはとても納得できる。


役割意識というのは、気づかない間に“素肌化”してしまい、素のままの自分がわからなくなってしまうのだろう。苦しくなってきて初めて、ある役割や、ある特定の自分(サブパーソナリティ)、ある信念、信条が素肌のようになっていたことに気づくのだと思う。そして、気づいた時にふと自分に問うのだ。


「自分て、何なのだろう?」「なぜこんなに苦しいんだろう」「なぜこんなに空しいんだろう」「自分は、本当はどうしたいんだろう」と。


人はそんな風に感じた時から、同化していたものとの距離をとるという心の作業が始まるのだと思う。しかし、この“ただ距離をとる”ということや、“手放す”ということが身を引き裂かれるように痛いのだ。この心の作業は、まるで古い自分のお葬式を自分であげるみたいなものかもしれない。再生の儀式は、死の儀式でもあるのだ。


同化という問題を通して見てみると、自分が行き詰まったり、苦しみにのた打ち回った原因の多くが、“怖れ”や“執着”、“間違った信じ込み、思い込み”“自分の欲”から生まれたものなのだということがだんだん見えてきた。


人は、自分が所有していると思っているものや、自分のものと思っている人(夫・妻・子供・恋人)、あるいは、同化している“ある考えや信念や場”に、逆に所有され、縛られ、支配され、コントロールされるということがだんだんわかってきた。


そう言えば、あの人がこう変わってくれれば、自分は楽になると思っている間は、全然ダメだった。人を変えることなどできないのに、ずっと相手が変わってくれることを期待していた。改めて、私がドツボにはまって苦しんでいた時というのは、どういう時だっただろうと自分を振り返ってみてみた。


対象との距離がなくなっている時。変化をこわがって過去にしがみついている時。心を閉ざしてしまった時。悪いことの原因を全部相手のせい、人のせいにして批判している時。愛し過ぎてしがみついている時。恐れという妄想に乗っとられている時。


自分にも相手にも完璧さを求めている時。考え過ぎて深刻になっている時。人と比較・競争している時。自分を否定している時。相手に対する期待と要求が強い時。自分の本当の気持ちを押し込めて相手に合わせている時。


自分の価値観ややり方に固執し過ぎている時。自分や人を責め裁いている時。人からの期待に応えようとがんばり過ぎる時。自分に厳しすぎる時。人からの評価を気にし過ぎている時。幸福感・満足感・快感を与えてくれる人に依存している時。自分を外側から眺める意識がなくなっている時・・・。


まだまだあるかもしれない。苦しみの素ってこんなにあるんだ。私は、ついついクセで、この“苦しみのだしの素”をふりかけてしまうのだけれど、自分でやっているのだから、自分でやめることもできるのだ。


もちろん人生には理不尽としかいいようのない苦しみもある。でも少なくとも「ああ、これは自分で作っている苦しみだ」「なんだ、自分からみすみす“ド壷の滝”に身を投げていたのか」と気づいたものに対しては、新しい“態度の選択”ができるのだ。


たとえば、勇気を出してもう一度心を開くとか、心から謝る、NOを言う、適正な距離をとる、心をこめてありがとうを言うとか。あるいは、自分を信じる。許す。ゆるめる。ほめる。今は忍耐する。もう手放す。自分の足で立つ。諦める。そして、究極は四の五の言わずはっきりと決意・決断する。大いなるものにすべてを委ねる、などなど。


言うは安し、行うは難しだけれど、少なくとも苦悩と葛藤の坩堝から、自分で脱出することができるのだという可能性を知っただけでも私はとても気が楽になった。これが、“反応”する自分から、“応答”できる自分への変化ということなのだろう。


ネガティブな反応は無意識の条件反射だから、同じパターンを繰り返し、いつまでたっても苦しみからは解放されない。でも反応している自分を観ることができるようになれば、そこにスペースが生まれて、意識的で賢明な“応答”できる自分にだんだんなっていけるのだ。


もちろん、これが本当にできるようになるためには、相当の場数を踏まなければならないのだろうなと思う。できれば宿題は少ない方がうれしいけれど、私の成長に必要であれば天はきっとその宿題を私の人生に用意するのだと思う。今までの人生を振り返ってみると、見事にベストタイミングで私は宿題を出されているもの。

          < 仮面 >

世間を生きてゆくために、いくつもの社会的役割を演じるために、
自分がこれ以上傷つかないために、人はたくさんの「仮面」をつけ、
時に応じ、人に応じ、使い分ける。


「素顔」の自分がどんな人間だったのかを忘れるほどに、
仮面はいつしか素肌化してゆく。


自分を守るために必要な仮面が、いつの間にか自分を縛り、
不自由にし、イキイキ生きている自分を感じられなくなっていった。


何かが私の中で鈍くなっていった。
傷つくことを怖れて、
当たり障りのない言葉だけが行き交う「私たち」という人間関係。


確かに傷つけはしないが、
心のどこにも響いてこない空虚な言葉が宙を舞う。


仮面をつけたままでは、私の言葉はあなたの心に届かない。
あなたの言葉も私の心には届かない。


「仮面の言葉」には、「仮面の言葉」しかかえってこない。

「必要以上の仮面ははずしても大丈夫だよ」
と言う人に出会えたとき、空虚な言葉、誰かの言葉を発している自分から、
「私とあなたが関わりあえる言葉」「人と人がつながり合える言葉」
を発せられる自分になってゆく。

『もどっておいで私の元気!』(岡部明美著:善文社)
 
                           (次回に続く)

<お知らせ>
*12月22日(土)に年内最後の「リラクゼーション&メディテーションの会・シャンテイ」が東京・自由が丘であります。頭部の緊張をゆるめ、からだをほぐしていきます。からだがほぐれてくると心もほっこりしてきます。からだをゆるめた後に瞑想すると心の深いやすらぎ、静寂が味わえます。人に優しく、自分にはもっと優しく。自分に優しくなれると、不思議に人にも優しくなっていきます。シャンテイの会は、自分のからだと心を大切に慈しむ時間です。 
http://anatase.net/work3.htm

*岡部明美の公式ホームページ:http://anatase.net/

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コメント

投稿者: 華

再生の儀式は、死の儀式でもあるのだ。

…まさに、実感です。
イイコの自分、母にとって、分身である自分を葬った時、私はいいようのない無念さと自由さを同時に味わったような気がします。

産婆さんのあけみちゃんももう、ほんとうに、必死でがんばってくださいました。
ここで、「本物の私」が生まれなければ、「私」は精神的死産です。

ありがとう。
今、新しい目が開かれつつあるのを感じます。

世界がほんの少し、そして、次に大きく変ってみえてきました。
人も自然も。心も。

さっきまで、4月にいっしょにお世話になった親友と人には言えないような真実打ち明け話をしていました。
両者の見解が余りにも一致していて、今、すごく平安な気持ちです。

たとえそれが、客観的にみて、肉親にとって嬉しいもので無い場合でも、冷静にそれを感じ取る自分がいます。…不思議です。

変って、よかったと思います。
そして、自分の判断が信頼する人と同じ見解であった時、心からほっとできた自分も、ほめてやりたい気がします。そこにもう、偽善はありません。

あけみちゃん、ありがとう。
新しい私を、ありがとう。

2007年12月12日 01:19

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プロフィール

岡部 明美岡部 明美

ワークショップ・トレーナー/セラピスト/カウンセラー/研修講師/文筆家/東海ホリスティック医学振興会顧問。

独身時代は、シンクタンクにてマーケティングプロデューサーとして活躍。30代半ばで結婚。長男出産直後に脳腫瘍と水頭症を発病し生死を彷徨う。自分の死に直面するという体験を通して、いのちの根源からの問いの答を求めて自己探求の道に歩みだす。著書に「もどっておいで私の元気!」(善文社)「私に帰る旅」(角川学芸出版)

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