
ゆったりとしたペースで郁恵さんのワークは進んでいく。ペアになった者同士が互いに「あなたは、誰ですか?」と問い続けるワークがあった。名前、年齢家族構成、住んでいる所、生まれた場所、趣味、経歴、学校、仕事、性格など思いつくままに「これが私である」と思っていることをずっと言い続けた。
言っても言っても、ペアになった相手が私に問い続ける。
「あなたは、誰ですか?」と。
もう言うことがなくなってきた。頭が真っ白になっていく。何も言えなくなって黙り込んでしまった。「それが、あなたのすべてですか?」と、突然聞かれた。何も言えなくなってしまったのに「それが、あなたのすべてですか?」と問われると、いや、これが私のすべてなんかじゃないと思う自分がいる。
でも、そう思った途端、いやそうだろうか、私は、本当は何もないんじゃないだろうか、何者でもないんじゃないかと思えて、突然、自分が空っぽになってしまったような不安が同時に生まれた。
「私って、一体、誰なんだろう?」
私は、私を知らない。どんなにこれが私ですと言っても、でも、それが私のすべてではないと思う私がいる。どんなに自分を学んでも、学び尽くせないという感覚がある。
私は、妻であり、母であり、嫁だけれど、それは役割であって私そのものではない。夫も息子もかけがえのない存在だけれど、妻じゃない時も、母じゃない時も、私は、私だった。
ウエイトレスをやったり、OLをやったり、編集やライター、マーケッターの仕事をしたり、いろいろな仕事をしてきたけれど、なんの仕事をしようが私は私だった。プータローをしている時だって私は、私を生きていた。
人から、「あなたって、こういう人だよね」と、肯定的レッテル、否定的レッテル、いろいろなレッテルを貼られるけれど、レッテルは、それを貼る人の好き嫌い、価値観、美意識、信念、生きる姿勢、つまり、その人の物差しを表現しているのであって、人から貼られたレッテルがイコール私ではない。
では、性格が私なのだろうか。私は、確かに今まで、この性格がイコール私だと思ってきたからこそ、自分の性格の良くない部分をなんとか変えようとしてきた。
でも考えてみれば、もし、「私=性格」だとしたら、どうやって自分の長所と短所に気づけるのだろうか?私の長所と短所に気づいている私とは、性格を超えたものでない限り、どうやってそれに気づけるだろう。
性格と同じくらいに、これが私だと思ってきたのは、この私のからだだ。このからだは決して誰のものではなく、まぎれもなく私のものだ。私が、あの人ではないのは、からだが違うからだ。
でも、もし、からだがイコール私なら、死んで遺体になった時にこのからだが私と思っていた私はどこにいくのだろう。私とからだがイコールであったならどうやって「私は、からだである」と認識できるだろう?
そういえば、からだには、毎日入れ替わる細胞があり、1ケ月周期で入れ替わる細胞もある。2、3年もたつと殆どの細胞は入れ替わる。原子レベルでは7年で細胞は総とっかえだという。10年前の私と、今の私とでは肉体レベルでは別人なのだ。
肉体は最も確かなもの、不動のものというイメージがあるのに、ミクロのレベルでは最も激しく変わり続けているもので、決して固定したものではないのだという。だったらどうして、このからだが私の本質だと言えるのだろうか。
私は、小学校の時に比べて足が1本増えたとか、目が3つになったとか、そういう構造的な変化がないから、このからだが不変の私だとずっと思いこんでいたのだ。
私の本質とは、肉体でも、役割でも、性格でもないのだとしたら、感情や思考が私なのだろうか。確かに、私は、日々、泣いたり、笑ったり、怒ったり、落ち込んだりしている。「私には、こういう考えがある」ということを知っている私もいる。
でも時々、ああ、私は今とても悲しいんだ、淋しいんだ、怒っているんだと感じる時がある。では、悲しみに気づいている私は、悲しみに飲み込まれている私だろうか。怒っていることに気づいている私は、怒りに我を忘れている私だろうか。いや、怒りまくっている時だって、私は今怒りまくっているということを知っている私がいる。
自分の感情や思考、自分の長所、欠点に“気づいている私”は、それそのものではない。これらのすべてをまとめて全体を生きている私、それらを観察し、全部わかっている私がいるのだ。
それらのものに何も影響されずに、静かに存在している私。肉体でも役割でも性格、思考、感情でもない私。それらを眺めていられる意識であるところの私とは、一体誰なんだろう?
郁恵さんは、私のこの疑問に対して、このようなことを教えてくださった。
「私たちには、自分を超えたより大きな意識があります。その大いなる自己はたとえばオーケストラの指揮者のように、それぞれの小さな自分(サブパーソナリティ)の欲求と役割と価値をわかっていて、それらをうまく統合、調和させていく働きをしているのです。その大いなる自己、高次の自己のことをトランスパーソナルセルフ、あるいはハイヤー-セルフとも言います。この大きな自己は、私たちが“これが自分”と思っているものを遥かに超えた存在、意識であり、大いなる存在の愛と意志なのです」と郁恵さんは言う。
私は、そのトランスパーソナルセルフの意識というものがどんなものなのか実感としてはまだはっきりとはつかめていない。でももしかしたら、「あなたは誰ですか?」という“問いのワーク”をした時に感じた、「私の本質は、肉体でも役割でも、思考でも感情でも、性格でもなく、それらを超えた意識、それらを眺めていられる、静かなる意識、より大きな意識」として感じたものと同じものなのではないだろうか。
意識というのは、自分の中にあるものでありながら、同時に自分を超えた宇宙の意識でもあるのだ。意識は、自分のからだの輪郭を超えて遥かなる虚空に広がっている。私と宇宙は切り離されてはいない。私の最も深い意識は、臍の緒として母なる宇宙の源にさえつながっているのだ。
意識の世界は、なんと奥深いのだろう。もしかしたら、宇宙は、意識の海なのだろうか。その宇宙の根源につながっている心の最も深いところにある意識、それを自分の本質“魂”と呼ぶのかもしれない。
私たちが知覚・認識できている表面意識(顕在意識)という心の世界は、氷山の一角のようなもので、心の世界のわずか3~7%程度なのだという。私たちが“わかっている”と思っている表面意識の下には、海の中に沈んでいる氷山のように広大無辺の“潜在意識=無意識の海”の世界が広がっているのだという。
私は、自分のこと、人間のこと、この世界のことをわずか3~7%程度にしかわかっていないのだと思うと、自分や世界を学んでいくプロセスがすごく面白くなってきた。このことを知ると、自分の潜在的な可能性も、まだまだ発掘できるのだという希望と勇気が湧いてくる。
<お知らせ>
*12月22日(土)に年内最後の「リラクゼーション&メディテーションの会・シャンテイ」が東京・自由が丘であります。頭部の緊張をゆるめ、からだをほぐしていきます。からだがほぐれてくると心もほっこりしてきます。からだをゆるめた後に瞑想すると心の深いやすらぎ、静寂が味わえます。人に優しく、自分にはもっと優しく。自分に優しくなれると、不思議に人にも優しくなっていきます。シャンテイの会は、自分のからだと心を大切に慈しむ時間です。
http://anatase.net/work3.htm
*岡部明美の公式ホームページ:http://anatase.net/
なんってわかりやすいのだろう。
言葉のすべてがすっと頭の中に入ってくる感じ。
あけみちゃん、すごいです。
私は誰ですか?
いろいろ考えてこんがらがってきちゃいました。
ところが。
頭がいろいろ考えるのを手放した辺りから、なんだか超高速でたくさんの単語があふれ出てきました。
10月の個人セッションで体験したあの感じです。
ちょっとわくわくしてきました。
最後に、
私の最も深い意識は、臍の緒として母なる宇宙の源にさえつながっているのだ。
…というあけみちゃんの言葉に深くうなづくような気持ちになりました。
自由と平安とでもいうのか。
私たちの根源が尽きせぬ光と叡智につながっているのなら、毎日が発見と冒険です。
こどものように楽しくなってしまいました。
ありがとう。
今日はとってもいい朝から始まりました。
2007年12月20日 07:27
私はピアノっていう歌がありましたよね。
おだてられてよく歌ったものです。
私はわたし。
体も、心も、精神も、魂も
過去も、未来も、現在も。
すべてをひっくるめた存在が 私。
この存在そのものが 私。
でも、もっと相似性的に見て行くと
他人と私の境界すらなくなってくるのかもしれませんね。
ほんとうは すべては ひとつ。
でも、せっかく、体を持って生きてるんだから、
泣いたり笑ったりしたいですよね。
考えるよりも 生きることですね。
いつもありがとうございます。
2007年12月22日 19:15
私も以前この内容を他の講座で受けました。
いったい私は誰なんだろうと考え、そして、わからなくなり、目の前の人まで見えなくなってしまい。なんか溶けてしまったかんじになっていました。
岡部さんのブログ
初めて見させていただいて、私の今多くの方に伝えたいことが書かれていて驚きました。
私が感じることが、すべて文字になっていました。
感謝します。
もしよろしければ、私のミクシーの日記にアップさせていただいてもいいですか?
突然のお願いお許しくださいね~
2007年12月23日 00:09
携帯でもSQ Lifeメッセンジャー・ブログが閲覧できます。
http://blog.sq-life.jp/m/
