
最近、よくベランダに出て空を見上げる。たくさんの星々が夜空に瞬いている。なんてきれいな光なのだろう。私たちの毎日の夜の闇を照らしてくれている星たち。もうすでに物質としては存在していない遠い遠い“過去”の星たちが、光となって、私たちが“今”生きている世界を照らしてくれている。何十億年もかかって光が旅してきたその姿を今の私が見ている。
そして、この星の光は、明日の世界も照らし続けるのだ。過去の星の光が、現在も未来も照らし続ける光になる。光の世界では、過去も現在も未来も同じひとつの世界なのだ。
天体体望遠鏡でのぞけば、100億光年向こうの星の姿だって見られる。不思議だ。なぜ、100億年前の星の姿を、今の自分が見られるのだろう。100億年前なんて、地球は存在していないわけだし、ましてや自分なんか影も形もないはずなのに。
でもこの私のからだは、本当は100億年前のあの星のかけらからもできているのかもしれないし、あのプレアデス星団、アンドロメダ星雲、オリオンやシリウスやペガサスの星のかけらからだってできているかもしれないのだ。
私であるところのエネルギー、意識は、100億年前にもあったのかもしれないし。なんだかそう思うとワクワクする。100億年前の星を今の自分が見ているということは、本当は今しか存在していないということではないか。100億年前と今を同時に体験できる不思議。「永遠」とは実は「今」であることの神秘。時間は、流れているのではなく、積み重なっているのだろうか。幾層にも、幾層にも、今という瞬間(とき)が。
なぜ人は、時間のあるこの三次元の世界に肉体をもってはるばるやってくるのだろう。きっと、この三次元の世界の“体”を通して、一つひとつ順番に、その時には、そのことだけを体験するために時間があるのではないだろうか。文字通り、体とは、“体験”するための道具、ツールだ。
体があるということは、同時にふたつの体験はできない。違う場所には同時にいられないからだ。体があるからこそ、“今・ここ”での体験に集中し、そこから私たちはかけがえのないものを味わうことができ、大切なことにも気づける。時間は幻想であるというけれど、この肉体をもって、この星の「社会的時間」という制約の中で生きている私たちの「いま」を私は大事にしたいのだ。
時間は、体があるからこそ意味をもってくる。時間のある世界だから、順番に体験してきたことがすべて生かされ、その体験がその人の血となり肉となっていくのだろう。人生には無駄な体験なんて本当は何ひとつないから。
今、自分がとても幸せで、満たされていて、自由であることを謳歌している人のほとんどは、過去の時間の中で、相当の苦しみや嘆きや悲しみを体験してきている。私は、そんな「魂の暗夜」を懸命に生きてきた人がとてもいとしい。どれだけ一人で泣いてきたことだろう、どれだけ胸が引き裂かれるような痛みをこらえてきたことだろう・・・。そして、そんなときでさえ、どれだけ私たちは大いなる存在に見守られ、愛され、支えてもらってきただろう・・。
しかし、その魂の暗夜くぐり抜けてきた人たちはみな、歳月を経て、「あの体験があったからこそ、今の自分がいる」と異口同音に言う。時間のもつ意味、体という“体験の器”を持って生まれてきた意味は、苦を、生のもたらす“恵み”や“実り”へと変容させるためにあるのだろう。時間は、その時に眩い光、輝きとなってその人の人生を照らしだす。
この世、三次元の世界は、本当にパラドックス(矛盾、逆説的)だ。人はみな、幸せになりたいというけれど、不幸というものがどんなものがわからなかったら、何が幸せなのかはわからないわけだし、傷つけあい、憎しみあうことのつらさを全く知らずして、愛の喜び、愛の至福感を味わうことはできないのだから。自分が本当にほしいもの、体験したいことを味わうためには、その反対側のものを体験しなければ、それを、それとして認識できないというこの世のパラドックス。
同様に、人は人生に夢を見ることでワクワク生きられるわけだけれど、夢は叶ってしまったら、それはもう夢ではなくなるという、この世のもうひとつのパラドックス。手に入れてしまった夢は、もはや日常に、当たり前になってしまい、ワクワク感は次第に薄れていく。恋愛と同じだ。そして、人はまた次の夢、次の人を追いかける。永遠の夢の狩人。
夢というものが、現実への満たされぬ思いの補償行為として追いかけられるものである限り、人は一生満たされることはないのだと思う。エゴの欲望には切りがないからだ。もっともっとと追いかけてみても、決して満たされる地点には辿りつけないのがエゴの欲望のカラクリだから。
幸せというものが、何かを得ること、勝ち取ること、達成すること、自分のものにすることで得られる満足感であると考えている限り、今度は得たものを失う恐怖と共に生きていくことになるから決して心の平安は生まれないのだ。幸せの源泉を外に求めている限り、その求めている対象そのものに依存してしまうので、結果としてその対象に支配されてしまうことになるからだ。
でも、もし人が、自分が生きているのではなく、生かされているのだということが腹の奥底で本当にわかり、自分の中にすでにある豊かさを感じ、すでに手に入れているものがたくさんあることに気づき、今自分に関わってくれている人がどれだけの優しさや愛を自分にくれているのかに感謝し、日々の暮らしの中のささやかな出来事に幸せを感じ、平凡な日常が本当は奇跡のようなことであることを悟り、この世界の美しさに感動する感性を持っていたとしたら、現在も未来も自動的に幸福になるように思う。未来はいつだって今の写し絵だから。
そして、もし自分の見る夢がエゴを超えて、人と分かち合える喜びや幸福であったり、社会の豊かさや進化にとって必要なものであれば、宇宙はちゃんとその夢を叶えてくれるのだと思う。
そして、そういう夢はみんなのいのちが吹き込まれてどんどん大きくなっていくような気がする。宇宙、神が自分に望んでいることを実現すること、それを生きることが、幸福な人生への道なのだろう。感性を研ぎ澄ましていれば、その声は感じる。聴こえてくる。私たちは、いつも、呼ばれているし、導かれているのだ。彼方からの声に。
人が求めてやまない幸せというものが、“今・この瞬間”にしかないのだということが本当にわかれば、それを感じている時間が、宝物のような時間になる。その時人は、指の隙間から幸せがこぼれ落ちてしまわないように、そのかけがえのない体験を抱きしめることができる。時間とは、あらゆる体験の“尊い一瞬”を味わい尽くし、楽しみ、抱きしめるためにあるのかもしれない。
PS:大分に行ってきました。マイミクの「sarisariちゃん」こと、温水晶子ちゃんが、大分で私の講演会と1dayワークショップを主催してくださったからです。Sarisariちゃんは、整体士、ボデイワーカーでしたが、広島でのカウンセラー&セラピスト養成講座に大分から毎月、8ケ月間通ってくれました。今では心とからだのケアをするボディサイコセラピストとして大分で活躍されています。
講演会やワークショップの主催など初めてであるにもかかわらず、100人近くの人を講演会に集めてくださり、ワークショップも定員オーバーになりました。ご本人は、半年前に「あけみちゃん、友達と親戚に声かけたら、30人くらいは、人が呼べると思うから、大分に来てくれる?」と言っていたのに、なんと蓋をあけてみたら100人の会場がほぼ満席。親しくしているマイミクさんたちが協力してくれたおかげだそうです。
私も懐かしい人たちにも会えたし、初めての出会いもたくさんあってとても楽しかったです。ワークショップもとても1dayとは思えないような深さまでいくことができたのは、いらしてくださった方々の生きることへの真摯さと、人生を深く生きてきた人の香り立つような存在の深さでした。
Sarisariちゃん、協力してくださったみなさん、講演会やワークショップに来てくださったみなさん、本当にありがとうございました。体験を共有できることのかけがえのなさは言葉にはなかなかできません。出会えてとてもうれしかったです。
しかし、大分はやはり雨でした。空港までお迎えに来てくれたsarisariちゃんが、笑いながら「あけみちゃんが大分に来る日に梅雨入り宣言!。ハハハ」。そんでもってワークショップの朝は豪雨でした。
「sarisari」ちゃんのmixiの日記
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1514266128&owner_id=21407761&comment_count=28
<お知らせ>
7月9日~11日の岡山3daysワークショップ、7月19日の東京1dayワークショップはお陰さまですべて定員になりました。只今キャンセル待ちです。下記は、まだ残席があります。
岡部明美公式ホームページ http://anatase.net/
6月27日(日) 岡部明美講演会&和みのヨーガとのコラボ体験in神奈川
7月4日(日) 京都1dayワークショップ
7月24日(土) 札幌コラボ講演会岡部明美&「具現びとさん」小西康弘(医師)
7月25日(日) 札幌コラボ1dayワークショップ(岡部&小西)
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