岡部明美のスピリチュアルな旅で出会った”もの・人・場・言葉たち”

私のさみしさ

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マイミクの「ディル」ちゃんが、前々回のコラム「宇宙的あまのじゃく」を読んだら、詩のような言葉があふれてきて、初日記が書けたそうです。下記がそれです。


      「宇宙的さみしさ」

今日は、とってもいい天気。
外は、太陽がさんさんと照っている。
なのに、私の心は曇り空。

感じるこの「さみしさ」は、何だろう。
この離れないさみしさは、もしかして、
誰かの、たった一言で、
晴れる さみしさなのかもしれない。

たった一言、あの人からの「ありがとう」。
・・・これに、
世界の全てをかけるくらいの さみしさを
持ってる 私は、もしかしたら、
”あほ” なのかもしれない。

でも この「さみしさ」に、「宇宙的さみしさ」と 名付けてみた。
そしたら、不思議、ちょっとだけ、
自分が、おかしくせつなく見えてきて、
「さみしさ」が、少し はがれ落ちた気がした。

そして、はがれ落ちた さみしさ を、
そっと 抱きしめてあげる。


「ディルちゃん」は、この詩を書いたあと、『私に帰る旅』の第3章「心の深いところにあるブラックホール」(P112)に私が引用して書いた『出家とその弟子』(倉田百三著・新潮文庫)の親鸞と弟子の唯円との会話を思い出して再読したのだそうです。そしたら自分のさみしさが少し穏やかになったのだそうです。


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『私に帰る旅』(角川学芸出版・岡部明美著)第3章より抜粋


唯円「お師匠様、私は淋しくて淋しくてしかたがありません。あまりの淋しさにひとりでに涙が出てきます。私は、自分の心がわかりません。私は、淋しくてもいいのでしょうか」

親鸞「淋しいのが本当だよ。淋しい時には淋しがるより仕方がないのだ」

唯円「今に淋しくなくなりましょうか」

親鸞「どうだかね。もっと淋しくなるかもしれないね。今はぼんやり淋しいのが、後には餓えるように淋しくなるかもしれない」

唯円「あなたは淋しくありませんか」

親鸞「私も淋しいのだよ。私は一生淋しいだろうと思っている。もっとも今の私の淋しさはお前の淋しさとは違うがね」

唯円「どのように違いますか」

親鸞「(憐れむように唯円を見る)お前の淋しさは対象によって癒される淋しさだが、私の淋しさはもう何物でも癒されない淋しさだ。人間の運命としての淋しさなのだ。それはお前が人生を経験して行かなくてはわからないことだ。お前の今の淋しさは段々形が定まって、中心に集中してくるよ。その淋しさを凌いでから本当の淋しさがくるのだ、今の私のような淋しさが。しかしこの様な事は話したのでは分かるものではない」

唯円「では私はどうすればいいでしょうか」

親鸞「淋しい時は淋しがるがいい。運命がお前を育てているのだよ。只何事も一筋の心で真面目にやれ。ひねくれたり、ごまかしたり、自分を欺いたりしないで自分の心の願いに忠実に従え。それだけ心得ていればよいのだ。何が自分の心の願いかということも、すぐには解るものではない。様々な迷いを自分で作り出すからな。しかし、真面目でありさえすれば、それを見出す智慧が次第に磨き出されるものだ」


対象によって癒されない淋しさ・・・。この言葉が私の胸を深く突き刺した。思えば私はずっと自分の淋しさを埋めてくれる対象を探し続けてきたのではないだろうか。じゃあ一体この淋しさは何によって埋まるというのだろう。


何によっても埋まらない淋しさがあるのだとしたら、生きていくことって何て悲しいのだろうと思った。私はこの場面と最後の場面で涙がこみあげてきて仕方がなかった。


最後の場面。息子の善鸞が仏の道をはずれ、罪を重ねていく。親鸞は、善鸞を赦せず放免した。しかし、親鸞が自分の臨終に際し、最も願ったのが善鸞を赦したいということだった。息子を赦さずに逝くことはできないと言った。弟子たちがすべて集まり、聖者である師匠との最後の別れをしている席に最後まで善鸞は来ない。いよいよ、親鸞が逝くという寸前に善鸞が駆けつける。


善鸞「(涙をこぼす)遭いとう御座いました・・ゆるして下さい。わたくしは・・」

親鸞「ゆるされているのだよ。だあれも裁くものはない」

善鸞「わたくしは不孝者です」

親鸞「お前はふしあわせだった」

善鸞「わたしは悪い人間です。わたし故に他人がふしあわせになりました。私は、自分の存在を呪います」

親鸞「おお畏ろしい。われとわが身を呪うとは! お前自らを祝しておくれ。悪魔が悪いのだ。お前は仏さまの姿に似せてつくられた仏の子じゃ」

善鸞「もったいない。私は多くの罪を重ねました」

親鸞「その罪は億劫の昔阿弥陀様が先に償うて下された・・赦されているのじゃ、赦されているのじゃ。わしはもうこの世を去る。お前は仏様を信じるか」

善鸞「・・・・・・・・・」

親鸞「お慈悲を拒んでくれるな。信じると言ってくれ・・・わしの魂が天に返る日に安心を与えてくれ・・・」

善鸞(魂の苦悶のために真青になる)

親鸞「ただ受け取りさえすればよいのじゃ」

善鸞(唇の筋が苦しげに痙攣する。何かを言いかけてためらう。遂に絶望的に)「わたしの浅ましさ・・・わかりません・・・きめられません」

親鸞「おお」(目をつむる)   (一座動揺する)

侍医「どなた様も、今がご臨終で御座いますぞ」

親鸞(かすかに唇を動かす。苦悶の表情顔に表わる。やがてその表情は次第に穏かになり、終にひとつの静かなる、恵まれたるもののみの持つ平和なる表情にかわる。小さけれどたしかなる声にて)

親鸞「それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ・・・善い、調和した世界じゃ(この世ならぬ美しさ顔に輝きわたる)おお平和!もっとも遠い、もっとも内の。なむあみだぶつ」


父であり、師である親鸞の、その死の際においてさえ、嘘でも仏を信じるといえぬ善鸞。仏の道を歩きますと言えぬ善鸞の、もうひとつの真摯さ、純粋さ、正直さ。その善鸞に「それでよいのじゃ」と最後の言葉をかけた親鸞。私は、この場面で声をあげて泣いた。まるで、自分までも赦してもらえたかのように思えた。最後の親鸞の言葉は、私の内側を深く深く満たしてくれた。私は、おそらく心の深い部分では、“善悪の彼岸”にある、美しきもの、貴きもの、聖なるもの、平安なるものを求めて生きているのだと思う。

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『私に帰る旅』が出版されたのは、おととしだけれど、実際にこの文章を書いていた時期はもっと遡る。時が流れ、人と深いレベル、魂レベルでの出会いをする仕事を積み重ねる中で、人は誰もが心の奥底にさみしさを抱えながら生きていることを知った。それは、肉体をもって存在している人間ゆえにどうしようもなくあるさみしさなのだ。肉体意識は、個の意識であり、それはひとりぽっちという分離意識だから。


しかし、人はまた、その深奥に本質としての「愛」「歓び」「平和」「静寂」なる世界をもっていることも知った。その純粋意識・純粋感性、無限の創造性こそがまことの世界であることを。これは、源、全体につながってる意識だ。これらは感情ではなく、感情より、さらに深いところから湧き出てくるものであり、感情を超えたものであり、個を超えた世界なのだ。


過去の痛みにとらわれ、未来の不安に彷徨う、騒がしいマインド(思考・感情)が鎮まり、心がからっぽの時、無心状態の時、意識が「いま・ここ」に在る時は、大いなる存在とつながり、いつでも「愛」「歓び」「平和」「静寂」を内側深くに感じることができる。瞑想を習慣にすることで、あるいは、無心に、無邪気に、リラックスして、心身共にくつろいでいるときに私たちはその意識、世界を体験的に知っていく。


これらは何かを達成するとか、何かを得るとかいった「条件つき」の幸福や愛や歓びではなく、「理由・理屈抜きの幸せ感」であり、外側の誰かから、何かから与えてもらって感じる幸せ感ではなく、自ずと触れる、自然に感じられる心の静けさや安らぎであり、ふとこみあげてくる歓び、満たされた感覚、自由な感じ、幸せ感なのだ。


しかし、自分の感情をしっかり感じ、自覚できるようにならなければ、感情より深い場所に存在する「愛」「歓び」「平和」「静寂」を感じることは難しい。大いなる存在、源につながる意識の扉は、感情を深く感じるというプロセスを通ってくることが大切なのだ。それによって、感情を超えていくことができる。そうでないと精神世界でよく言われている「すべてはひとつ」「すべてはつながり合っているワンネスの世界」などは、単なる知識や観念になってしまうからだ。


感じること、気づくこと、無駄な思考を少しづつ減らして、内側にあるハートのスペースにくつろぐことが増えれば、時が満ちたときに自然に触れる静寂、愛、平和、歓びがある。それは、自然に起こる。焦らなくても、ただ、扉さえ叩き続けていれば。


もちろん、人間として生まれた以上、「生きとし生けるものの運命としてのさみし」さをあたためあえる関係、一緒に「生のタペストリー」をつむぎ合える人との出会いは、同じくらい素晴らしい人生だと私は思う。


「人と共に生きる道」と「ひとり在ることの道」・・・愛と瞑想を存在の両翼として生きることの豊かさは、垂直の次元と水平の次元が交差する生の息吹そのものだ。


PS:父の入居している老人ホームに行ってきました。認知症の進行は止まっているみたいで、肌つやもよく、私が行くとほんとうにうれしそう。父は昔からものすごいさみしがりやだった。からだをこわすほどお酒に溺れた父もいまは昔。私が、物書きになったのは、サラリーマンでありながら、詩人、歌人であることをやめなかった父の血を受け継いだのだろうな。あなたがこの世からいなくなる日がくることを想像しただけで、さみしくて、泣きたくなるよ、私は


<お知らせ>

岡部明美公式ホームページ  http://anatase.net/

9月18日(土)~20日(月・祝日)
神奈川・三浦半島3daysワークショップ(定員・キャンセル待ち)
主催「まゆ亭くにおさん夫妻」
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10月2日(土)~3日  岩手2daysワークショップ
主催:「かりん」ちゃんと「ココロ」さん
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コメント

投稿者: No Name

私には多分、親鸞の淋しさが理解できると思う。

あなたの書いたように、大抵の人は一人ぼっちという分離意識状態で生きている。そして、この分離意識には特徴が二つある。一つは、分離意識が強まれば強まるほど自分は分離しているという事実を【意識しなくなる】という事。分離こそが至極普通の状態であるため、分離しているという事実を認識できなくなるのだ。そしてもう一つが、分離意識が弱まれば弱まるほど自分は分離しているという事実を【意識するようになる】という事。分離意識が弱まった故に、本当の自分は全てと繋がっている存在なのだという事を、認識しやすくなるのだ。私もこれを経験している。自分一人が宇宙の全てから切り離されたような絶対的な孤独感に、私もしばしば襲われる。だからこそ思う。

親鸞は本当に、身が悶えるほど淋しかったのだろうと。

2010年08月10日 18:58

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プロフィール

岡部 明美岡部 明美

ワークショップ・トレーナー/セラピスト/カウンセラー/研修講師/文筆家/東海ホリスティック医学振興会顧問。

独身時代は、シンクタンクにてマーケティングプロデューサーとして活躍。30代半ばで結婚。長男出産直後に脳腫瘍と水頭症を発病し生死を彷徨う。自分の死に直面するという体験を通して、いのちの根源からの問いの答を求めて自己探求の道に歩みだす。著書に「もどっておいで私の元気!」(善文社)「私に帰る旅」(角川学芸出版)

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