<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<rss version="2.0">
   <channel>
      <title>尾崎真奈美の天使語同時通訳します</title>
      <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/</link>
      <description>ozaki</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2012</copyright>
      <lastBuildDate>Wed, 14 Dec 2011 08:04:55 +0900</lastBuildDate>
      <generator>http://www.sixapart.com/movabletype/</generator>
      <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 

            <item>
         <title>自己犠牲と社会貢献の錯覚</title>
         <description>日本人の罪は、自己犠牲をしてまで社会や会社の責任を果たそうとすることであろう。
罪という強い言葉を使う理由は、愛の神の摂理に反することを促すことを罪と呼ぶ、キリスト教の習慣であることをお断りしておく。

それが美徳だというマインドコントロールが国中に行き渡っている。
しかし、それによって引き起こされたのが、戦争であったり原発事故であったりすることに気がついていないのだろうか。 
悲しい思いや辛い思いをすることが神の摂理であるはずがない。 
苦難は成長を促すと言っても、苦難をもたらすのは神ではない。 
人間の過ちの結果である。 

自己犠牲や働きすぎをよしとする狂ったような発想から、目覚めてほしい。 
３１１ショックで、本質的なことに目覚める人が多くなったのは嬉しいことだった。
いつどうなるかわからない状況下では本当に大切なものだけが残る。
身近な人たちとの時間を大切にするようになった人が増えたのはすばらしいことだった。
どんなことが起きてもなんとかやって行く日本人の粘り強さにも感嘆する。
 
しかし、本質的な意識が変わらないと、また過ちを繰り返してしまう。 
復興支援は大切だけど、機械のように心を捨て去ったがんばりや仕事は、目に見えない大きなひずみ歪みを大量生産してしまう。
心理学者としてはそれが心配で。 

お一人お一人がどうぞ自分をもっとも大切にして欲しい。 
年末仕事が立て込むけど、終わらなかったからって死にはしない。 
過労で死ぬほど疲れるより、仕事が終わらない方がずっといい。
あなた自身より大切な仕事があるはずがない。 

医師や援助職の人にはさらに言いたい。 
他人を助けて自分が滅びたとしたら、 
その助けられた人は喜び幸せになると思いますか？ 
一生罪悪感に悩み、悔やみ自分を責めることをご存知ですか。 
お涙ちょうだいの美しいエピソードは残るでしょう。 
しかし、それは皆が幸せになることでしょうか？ 

浪花節の日本人よ 
もし自分が逆の立場だったらどうなのか？ 
感情的に流されないで、合理的、理性的に判断して欲しい。 
そして心から、涙ながらに願う。 
幸せになって欲しい。</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005282.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005282.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Wed, 14 Dec 2011 08:04:55 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>全ては愛のためだった</title>
         <description>銃口に、微笑みながら花をさしていったフラワーチルドレンの話を聞いた。
愛こそが、愛だけが、世界を救う。
悲惨だからこそ、危機だからこそ、全てを透徹した愛の革命がじわじわと浸透している。

犯罪のエピソードを聞くたびに思う。
彼は彼女は、最愛の方に喜んでもらいたかったにちがいない。
故郷の親を喜ばせたかっただけだ。
がんばっていい仕事をしたかっただけなのに・・・
一生懸命にしてる間に少しだけ余裕がなくなって、他の人のことが見えてなかっただけなのだ。
ああ、何という悲劇。
どうかどうか、誰をも責めないで欲しい。
全ては優しい気持ちから発したことなのだ。
それを認めたら発狂してしまうくらいに繊細で恐い顔を見せつけることしかできない人を、
どうぞ責めないでください。
全ては優しい気持ちからやったことなのだから。

どのような凶悪犯罪にも、被害者も加害者も発見者も、糾弾する人も傍観者をも貫く痛みがある。私たちは一つなのだから当然だ。

どうか責めないで欲しい。
傷ついた魂は、愛の歌とお花で包み込んで欲しい。
</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005269.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005269.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 19 Nov 2011 07:37:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>究極の幸せが究極のパフォーマンスに繋がる理由</title>
         <description>
最高に幸せな人より少し不幸な人の方が成績が良かったりお金持ちだったりするというデータがある。この理由は、幸せすぎたら現状満足して何もする気がしなくなってのんびりするからじゃないかと、今まで説明して来た。
トルストイがあんな大作をたくさん書けたのは、悪妻だったからだと言う有名な話もある。確かに、家庭が楽しすぎたら仕事よりうちで団らんしたくなるに違いない。

しかし私はもう一度考えてみた。
なぜ幸せな人より少し不幸な人の方がパフォーマンスが良いのか。
はっきりわかったことがある。
それは，ほとんどの人が幸せというときに個人的な幸せに限定しているからに違いないということだ。ほとんどの人は家族の幸せとか自分の欲求が満足したときなどに幸せを感じるからだ。もちろんそれも素敵なことだ。しかしそれには少し限界もつくのだ。

究極の幸せを考えたときには、自分や自分たちのまわりだけの幸せで満足するはずがない。それは生きとし生けるもの全てを含み、未来の環境まで慮ったものになって行くはずである。
時空を超えた幸せ感を追求して行く時、時空を超えたサポートが得られる。
つまり、自分の幸せ追求が、全ての存在が生かされることを欲しているという宇宙の法則に従うから、全てが味方してくるのは当然のことなのだ。
反対するのは、自分だけ良ければ、今だけ良ければの発想からの勢力だから、そんなものはほおっていたら自滅する。戦ったり指摘したりする必要もない。相手にする時間とエネルギーは飛躍のために集中させればいいだけなんだ。

なんと言う単純。

究極の幸せは究極の最高パフォーマンスを保証する。
こんなにも当たり前のことなのに。
</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005267.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005267.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Tue, 15 Nov 2011 14:18:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ファンタジーの機能と魂の自由</title>
         <description>学生が、幻覚や幻想的なアイドルを扱う小説映画などをいろいろ紹介して、感動したという。では、この主人公にとってこの人物は現存したのか？信じていたのか？どっちなんだろう？という話になる。 

サンタクロースやピーターパンのようなファンタジーは、実際にはいないとわかっていながら空想を楽しむものだと思うけど（いると信じてた？ごめん、そうかもね。）なぜ感動したり楽しかったりするかというと、心のどこかにそのようなイメージが誰にでもあるからではないだろうか。 

解離性人格障害のように、空想の世界の住人になってしまう病理も知られているけれど、空想は心を整理したり納得させたりするために必要なものだ。小説や絵や音楽などの芸術作品としてそれを昇華することで、客観視して心の健康を保つという機能があるのだ。 

色々な都市伝説もある。これが実際にあるのかないのか。 
私は、どちらでもなく中間だと答えた。 
あるひとにはあるしないひとにはない。それでよし。 
ただ、それによって幸せに元気になるのはいいけど、脅されたり恐くなったり不幸になるのだったらやめたほがいい。
どちらにしても、心理学的現象とは、自分自身が見たり聞いたりすることで世界は成り立っているということなのだから。 

天使が助けてくれた守られていると思うならそれでいい。 
世界中が私に微笑んでいるとかんじるならそれでいい。 
初冬のしっとりした空気がやさしく包み込んで守ってると思うならそれでいい。 
全ての根源で柔らかな光が照らしていると安心するならそれでいい。 

心理的現象を物理的に検証しても意味がない。 
放射能に覆われ死の灰にまみれても、心の平安と魂の光は誰も否定することはできないのだ。 </description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005264.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005264.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Thu, 10 Nov 2011 08:46:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>あなたが得たものは何か？</title>
         <description>皆，誤解してはいないか。 
あるいは中途半端なのか。 
捨去るべきなのに、どんどん抱え込んでいく。 
モノも、仕事も、人間関係も、遊びも。 
豊かさを求めていたはずなのに、どんどん貧しくなり、スケジュールに終われ、疲弊して行く。 
そして気がついたら、人生もう終わりに近づいていることにはっとする。 
そして問う。 

わたしは一体何をして来たのか？ 

成し遂げた数々の業績， 
それがなんだというのか。 
それを成し遂げるために失った時間，喜び、愛する人との親密さなど。 

私は一体何をして来たというのか？ 

おいしいもの，美しいものを求めて予約しまくり、 
愛する人との出会いを求めて探索しまくり、 
真実を求めて書物を読みあさり、 
珍しいものを求め世界中を飛び回り、 
時間の隙間にはネットサーフィンしまくり、 

それで得られたものは一体なんだったのか？ 

疲れてかすんだ目と、ぼんやりした頭と、生気のない腕や痛む足腰か。 
寿命を縮め、 
若さと美貌を台無しにして、 
健やかな心身と引き換えに 
あなたはいったい何を得たというのか？
</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005248.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005248.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Tue, 18 Oct 2011 06:43:55 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>教師が一番幸せになる授業</title>
         <description>今ゼミでやってるのは、皆で幸せになるような本や映画やエピソードを集めて発表することなんだけど、それが最高に素晴らしくて。 

今年のメンバーは，なぜか素直でおとなしいしとやかな人たちが集まっていて（私がいくらその姿勢を崩そうと馬鹿なことをしても，にっこり静かに微笑んでいるだけなので、もっと崩したくて、積極的な発言が欲しくて，どうしたら良いのか悩んでいた。なにをいっても，シーンだから・・・ 

やりたいことって，何かないの？って意見を聞いたら，けっこうみんな、ボランティアしたいとか，ブックレポートしたいとか意見を持っていた。
いいじゃない、やろ！企画はみんながどうぞね、っとほおっていた。
どうなるかな〜と，何もしなくても，自己責任で、ま、いいかっていう・・・ 

そしたらそしたら、素晴らしい発表の数々がでて来たのだ！！ 
あのおとなしい子達の中に，こんなに豊かな感性と技術があったのかと目を見張った。 
自分が感動したいい話，もちろんわたしがいつも率先してやってはいるけど。 
動かされて伝えたいとなると，みんな喜んで熱意を持ってやるのよね〜 
そしてそれが伝わってくるから聞く方も真剣なまなざしなのよね〜 

学ぶことも多くて。 
幸せって人それぞれで色々な価値観を反映してるとか。
そしてそれでいいんだとか。
じぶんの幸せ感を吟味してみるとか。
わたしはポジティブ心理学の理論にそれらを位置つけて整理するだけ。
終わったあとの気分がいつも最高に幸せで。 

幸せは幸せを呼ぶね，本当に。 
春学期は３月以降の悲しい話も多かったけど、PTGの話を通して，本来の成長や幸福を学んで来た。学生に任せるのはある意味カケだけど、でも，いつもそれが最高だってわかる。 
わたしはいつも教わる立場だ。 
本当にありがとう。

今日も、幸福になる話をいっぱい詰め合わせてやさしい光を伝えて行きたいな。
</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005246.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005246.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Thu, 13 Oct 2011 07:21:20 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>2014年パリで</title>
         <description><![CDATA[<img alt="IMG_1829.jpg" src="http://blog.sq-life.jp/ozaki/post-img/IMG_1829.jpg" width="1077" height="1615" />

某心理学国際学会の、2014年パリで行われる国際会議の基調講演に推薦したからって、いきなり、国際理事をしている先生から連絡が入って驚いた。 
その国際学会には所属もしてないし、日本の学会にも行ったことがない。
 
何ていうか、311以降明らかに風向きが変わって来た。 

聴いてくれる人のとこで発表する方がエネルギー効率がいいからと、英語での発表に切り替えてから３年たった。やっぱり正解だった。 
日本の学会で発表をやめてからは、業績がないと風当たりが強かったりもするんだけど。
こちらからしなくても、311以降、国内学会の年次大会で招待講演は３つ、そのうち一つは基調講演という名誉なことで。 

みんなが求めてる心理学は、「与える喜びの心理学」なんだよ。 
今までの理論を覆してしまうから抵抗する人が多いんだけど。 
いや，ホント，やればやるほど、ほとんど革命的に今までの巨匠の主張をひっくり返してしまうような勢いがある・・・ 
戦い、論破するのではなくて、皆がもともと持っている美しい心情を呼び覚ます、思い出させるだけのことなんだけど。
オトコのコはどうしても戦いが好きみたいで。笑

写真は、ポジティブ心理学創設者のセリグマン先生と今年の学会で。
ガ〜ンと行っちゃいますよマーチン，セリグマン。
覚悟ぉ！！笑
大和撫子とは、こういうものでございます。
]]></description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005236.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005236.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Wed, 28 Sep 2011 07:06:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>世界があなたを必要としてる</title>
         <description>自分の身体や心のお手入れって肝心だと思うけど、実はそれだけであまり良くならないみたいだ。 

サバイバーズギルト。 
災害などで生き残った人がどうして自分だけが助かってしまったんだ・・・と悲嘆にくれるというんだけど。そういう人に、あなたにはあなたの使命がある、とか、命に感謝して、とか、なくなった方の分までがんばりなさいよ、なんて言っても、元気になれないんだ。 

彼らが元気になるのは、自分が必要とされているという自尊感情を持てたときなんだ。生きる意味とか，人に喜ばれるとか、そういうことがなければ、いくら快適な環境でゆっくりケアされても、そのこと自体が増々罪悪感を増してしまうだけなんだ。誰にでもできることはある。 

手が動けば、手を握ってあげられる。 
声がでるなら、ありがとうって言える。 
身体が動かなくても、にっこり笑って人を和ませることができる。 

自分が何もできないという思い込みが人を不幸にする。 
こうやってパソコンが使用できること。 
字が読めること。 
書いてあることが理解できる能力があること。 
これがどれだけのお恵みで奇跡なのか。 
失ったときのことを想像してみて欲しい。 
突然そうなってしまうことって、誰にだっておこる可能性があることなのだから。 

できることがたくさんたくさんあるんだ。 
世界はあなたを必要としてるんだ。 
これはあなたにしかできないんだよ。 
今日ここにいてくれてどんなに嬉しいか。 

自分の一言で、一瞥で他者が生かされてることを発見した喜びと言ったら。 
これは、やってみないとわからないことだ。 
さあ、新鮮な空気を胸いっぱい吸ったら、
酸素にありがとう！ってにっこり感謝して、
いってらっしゃい！！
</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005235.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005235.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Mon, 26 Sep 2011 06:16:25 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>311からの飛翔：ポジティブ心理学からの贈り物</title>
         <description>
今書いている本では、以下のようなことをテーマにしています。
私なりに、311に関してポジティブ心理学で何ができるのか，考えて実践していることです。
固い書き方になってますが、概略ということでお許し下さい。
書籍は一般向けのやさしい本になります。


ポジティブ心理学は、その名前から連想されるように、単純なポジティブ志向の強者の心理学ではない。また、愛と平和、正義と調和といった美徳を扱うが宗教ではなく、実証科学である。今世紀初頭にポジティブ心理学を提唱したセリグマンは、ポジティブ心理学を次のように定義している。「精神病理や障害に焦点を絞るのではなく,楽観主義やホジティフな人間の機能を強調する心理学の取り組み」。つまり，人間の持つ強み・希望・満足感・幸福といったことに焦点をあて，健康な人がより健康でいることのために活用されるような「成長」モデルに基づいた心理学である。その背景にある人間観はまさにポジティブで、「人間は本来善良で智慧と愛に満ち成長して行く存在である、そうでない現状は未熟であるか病的に歪んだ状態である」とするマズローの主張を踏襲しているものと思われる。

未曾有の災害・核ストレスに対してポジティブ心理学から何が可能かを探りたい。まずはじめに、災害時における楽観主義やポジティブ感情の功罪とネガティブ感情の効能について論じる。次に、精神の健康と現実認知・コントロール感に対してSOC（首尾一貫感覚）とポジティブイリュージョンを取り上げて問題提起する。さらに、PTG(心的外傷後の成長)についてその特徴をスピリチュアルな成長に焦点化して説明する。その後、PTG促進のために授業実践として行っているプログラムを紹介したい。

楽観主義・希望などのポジティブ感情が心身の健康増進に貢献することが知られているが、災害時においてはそう単純ではない。311の長期的な被害は、地震津波による破壊に加えて核汚染による脅威が大きい。楽観的に被害を少なく見積もる正常性バイアスは防衛機制として機能する。しかし、災害心理学では正常性バイアスによる逃げ遅れの被害が知られている。

また、パニック神話とは、危機状態に情報をコントロールしてパニックからの被害を最小限にしようとする思い込みであるが、実際には、パニックに陥って被害が増大したケースは知られておらず、むしろ情報不足による不安や不信感がパニックを引き起こすことが知られている。この思い込みは、ポジティブ感情が災害時にも機能するという信念に基づいているが、現状から遊離した幻想はかえって危険であることをデータは示している。しかしながら、病者の持つ非現実的な思い込みが生存期間を長くするというポジティブイリュージョンの効果も一方では知られている。イリュージョンを健康行動の中にどう位置づけるか、対象、状況，内容、機能などにより査定されるべきであると考える。

トラウマ的出来事のあとでのPTSDに関しては広く知られているが、PTG（心的外傷後の成長）という、人生観が揺るがされるような危機を体験したあとで見られる心理的成長はポジティブ心理学の重要なテーマである。その特徴は、脆弱性の認識、世界観の変容、感謝というスピリチュアルな発達と言い換えられるものである。このPTGがSOCとPTSDの両者と正相関することより、PTGにおける成長は痛みを伴ったまま同時に起きることが推察される。

痛みやネガティブなものを含んだこのような成長を、私はインクルーシブポジティビティと呼ぶ。この概念に基づいた介入法は、日本人の心性に即した方法であると考えられる。インクルーシブポジティビティ介入として大学授業で実践しているプログラムでは、ユーモアで心身を開放し、表現芸術により自己開示・開放・認知の変容が観察されている。呼吸法や音楽、イメージ誘導など瞑想的なテクニックも一部使用するが，理知的なメタレベルで醒めた意識強化のため言語化を重視している。

</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005232.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005232.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Thu, 22 Sep 2011 20:31:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>過激な本音</title>
         <description>ときどき、衝動的に、こんな言葉を発したくなってしまうんです・・・

スピリチュアルなんてばかなことはもうやめてよ！ 
今この物理的な状況を何とかしないとだめでしょ！ 
そっちが先でしょ！！ 
スピリチュアリティなんか、死んだ後でやってればいいのよ！ 

あの・・・
強く思ったら希望が叶うのが事実だったら、こうなってないと思います。
祈っても台風はそれてくれませんし。
イメージしても放射能汚染は消えませんし。

祈りがきかれるっていうのは、物理的な変化が起きることではなくて、内面の変化が起きるってことですから。期待しすぎてがっかりしないでくださいね。

注）
もちろん病は気からということもあるし、暗示効果も事実あるし、プラシーボもポジティブイリュージョンもありますけど。起きるのはまず、内面の変化ですから。


あたしのことぉよくしってるかたはぁ 
またか・・・と苦笑してください。</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005230.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005230.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Thu, 22 Sep 2011 09:52:41 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>本物のあなたに逢いたい！</title>
         <description>無視しても過敏になっても、物理的現象は同じように作用している。 

ちまたではようやく、様々な隠蔽工作の一部が明るみにされたり、実情にあったデータが一部公開され始めている。 
情報収集はもちろん大切だと思う。 
けれど、これまでの経緯を見ると、情報なんてものの信頼性の薄さに，どこまで従って行動決定できるというのであろうか？ 
数値がいくらだったとて、改ざんされたものでどう判断できるというのか？ 
こんなひどい症状が報告されているとか、健康状態に別状はないとか、それは誰が、何を目的として、誰を対象にした情報なのか？ 

私はいっさい信用もせず確認もしなくなった。 
頼りにできるのは、自分の嗅覚というか、危機におよんでますます研ぎすまされて来た第六感的な説明できないセンスしかない。 
これは我ながらアヤシいと思うし、変スピみたいで認めたくもないんだけれど、この半年間、それによって実際に危機を免れて来た経緯があとからどんどんわかってくると、理性がなんと言おうとそれに従うしかなくなってくるのだ。 

わからない人から見たら気違いじみた態度かもしれない。 
しかし、この非常事態を生き抜く智慧は魂レベルで既に与えられているのだ。 
今こそそれを信頼して立ち返らなければ。 
うまく言語化できないのがもどかしいけれど、全ての人への呼びかけがおきている。聞こえてない人、聞こえているのに無視する人，今までの常識で抵抗している人があまりにも多すぎて。 

そのうちに知るようになるだろう。 
様々な身体的精神的な症状として、物理的な作用は立場や信念に関係なく起きるから。 
私のように過敏な体質の人は、常に先取りしている。 
一人静かにゆっくりした呼吸で、自分の心と身体に耳を澄ませたら見えてくる。 
聞こえてくる、魂の声が。 
いくら叫んで消そうとしても無理だよ。 
死の瞬間まで待つつもりなの？ 

怖がらなくてもいいよ。 
魂の声を聴きながらここでも楽しくやって行ける方法があるはずだよ。 
不必要ながらくたは捨去って行こうよ、重いでしょ？ 

真実のあなたに 
「こんにちは」
</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005204.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005204.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Fri, 19 Aug 2011 09:20:13 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>スピリチュアリティと健康／幸せ／お金</title>
         <description>この夏、ポジティブ心理学、健康心理学、心身医学の３分野でスピリチュアリティに関する討論，シンポジウムなどに参加してるのだけれど、ふと疑問に思うことがある。 

このような学問分野が、幸せ／健康を目指しているから仕方がないのかもしれないけれど、スピリチュアリティがどのように健康や幸せに貢献するかというテーマになっているのだ。そこにはスピリチュアルになることが、心にも身体にも社会にとっても良いことだという大前提がある。果たしてそうなのだろうか？ 
あるいは，このような分野においては、よく機能する面のみを取り出してディスカッションすることが有用であるから、限定しているだけなのであろうか？ 

いつでもどこでも，注目されていないマイノリティの側面が気になってしまう私としては、非情にいやがられながらも、スピリチュアルになるって，成功してお金持ちになって、モテモテになって美しくなって元気いっぱい幸せになるとは限らず、むしろその反対だってあり得るのではないかという主張になってしまうのだ。 
マザーテレサのように，あるいはクリシュナムルティのように、もっというとイエスキリストやブッダのように、親兄弟を捨て、保証された安泰な優雅な生活を捨て、肉体や精神の限界まで，そのスピリチュアリティの高さによって突き進んで行くのではないだろうか？ 
彼らが健康？幸せ？まずお金持ちではないし、多くの人に慕われたかというと，必ずしもそうではなく，迫害も大きかった。傑出すればするほど敵も多く，敵意をかき立て、暗殺される偉人も多いのだ。 

そのようなスピリチュアリティは，必ずしも健康に貢献しないのは周知の事実ではないか。それなのに，何が幸せや健康に繋がるというのだろう？程度の問題なのだろうか？あるレベルまではお金持ちになるけれど，ある一定のレベルを超えたらお金持ちにならないという構造があるのだろうか？そうだとしたら，何を目標にしたら良いのだろう？ 

ポジティブ心理学でいう幸せは，物質や社会的なものに限定されず，むしろ心のもち方であるという理論は当然のことであると思われるけれど、実際に行っていることは，精神的な物質主義と言いたくなるような議論である。つまり，自尊感情がどれだけ高いかとか、愛他精神や行動、例えばソーシャルサポートがどの程度大きいかとか、今この社会において生きて行く上での適応に限定されてはいないか。科学というのはそういうスキルの解明であるという立場に立てばそれで良いのかもしれない。しかし，だとしたら私は科学を捨てたくなる。 

かといって、魑魅魍魎の神秘主義や精神世界系といわれる分野には、これでもまだかなり抵抗があるのだ。311以降の危機は，私に増々本質的なものに立ち返らせてきた。これまでのスピリチュアリティ研究のおめでたさについていけなくなって来たのだ。どう整理して行ったら良いのだろうか？クリアカットなモデルが好きなのだけれど、言葉で説明する時，時に英語で理論を組み立てる時には、どうがんばってもその荒さでエッセンスが抜け落ちて行く。かといって、それを拾い集めて行くようなのは詩人か哲学者の仕事だろう。 

ああ、朝から難しいよ。 
そもそもこういうことを考えることが健康や幸せに繋がるかどうか疑問だなあ。経済的効果は全くないということだけは自信を持って主張できるなあ。なぜって、そもそもお金持ちになることを目指してないし，時に対立してしまうのが私の考えるスピリチュアルなポジティブ心理学「与える喜びの心理学」というものだから，仕方がないのかな。 

でもねえ・・・ 
美しいものに囲まれて優雅に暮らしたいし、色々な素敵な場所を旅行してみたりしたいと思う。つまりお金は欲しい訳よ。 
だから，困る。笑
</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005192.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005192.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Wed, 10 Aug 2011 06:25:26 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ヒロシマの日に寄せて</title>
         <description>例年にも増して重い、平和記念の日。 
３月に原爆ドームを訪れたときに、真っ黒な空の雲の隙間から、一筋の光が降りて来て、まるで大丈夫だよと天から語りかけられているような気がして慰められたのだった。 
しかしその大丈夫は，厚い厚い雲の，ほんのわずかな隙間からの弱いひとすじであった。しかしその一筋は、確実に私のもとへと届いていたのだった。 

どのような絶望の中にも，どのような闇夜にも光はある。 
そして光は，どのように弱くてもどこまでも届いて行くのだ。 

どんなに小さな光であっても絶やしてはいけない。 
その光を覆ってはいけない。 
光はテーブルの上に置かなければいけないのだ。 

This little light of mine. 
I &quot;m gonna let it shine. 
This little light of mine 
I&quot;m gonna let it shine 
Let it shine 
Let it shine 
Let it shine</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005191.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005191.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Sat, 06 Aug 2011 04:23:32 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>台風に翻弄されながら</title>
         <description>愛があれば何もいらないんだよ。 
愛さえあればいいんだよ。 

愛とは何かと議論したり 
愛の種類を分類したり 
愛の効果を測定したり 
愛のメカニズムを解明したり 

そんなことに忙しくなって 
愛することから遠ざかってない？ 

愛って 
語ることじゃないし 
考えることでもないし 
研究することでもないし 

生きてることそのものなのに 
呼吸していることそのものなのに 
ただ 
ここにあることそのものなのに 

なぜみんな複雑にわかりにくくしてしまうの 

幸せになろうとしながら 
幸せから遠ざかっていることに気がつかない 

お馬鹿な私たち 
</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005187.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005187.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Thu, 21 Jul 2011 03:33:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>お茶の瞑想的な空間から</title>
         <description>どうしようもなくなると、私は、最近そろえた茶道具でおぼえたてのお茶をたてることが日課になってきた。 

長年生きてると 
どうしたらいいかわからなくなることってある。 
どうしようもないこともある。 
パニックになりそうなほど仕事が立て込んでくることもある。 
気になってどうしようもないことで心が休まらないこともある。 

おいしいものを食べてみたり、ヨガをしてみたり、愚痴口言ってみたり、おばかなおどけをしたり、カラオケを歌ったりするのもいいだろう。 
お掃除やお洗濯、お料理というのは実は私にとってすごくリラックスする作業療法だったりもする。 

でも、 
ふと気がつくと、何も変らない現実があったりする。 
泣いても、笑っても、何も換わっていないように見える。 

やりきれなさが高じてくると 
むなしさに襲われて、高い空を見上げてみる。 
エンジェル色の雲が暗闇に染まっていくまで見つめ続けたりしてみる。 
白くなって朝日に染まるビルを横目に見ながら、 
エネルギーをください！って太陽を浴びにベランダに出てみたりもしてみる。 

何をしても気分が晴れないときもある。 
何もしなくても休まらないときもある。 

そういうときに私は、お茶をたてることを覚えた。 

単純な所作の中に永遠を見つめる。 
戦国の武将が、戦地の只中で一服のお茶を大切にいただいた。 
その心持が少しわかるような気がして。</description>
         <link>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005186.shtml</link>
         <guid>http://blog.sq-life.jp/ozaki/log/005186.shtml</guid>
         <category></category>
         <pubDate>Tue, 19 Jul 2011 05:35:15 +0900</pubDate>
      </item>
      
   </channel>
</rss>

