
フランクルは「意味への意志」を主張し、それが人を生きていくうえで最も重要なものであるとした。
しかし、意味とは何なのか。
WHY?とたずねるときそこに存在するものは、科学ではなく、つまり普遍的真実ではなく、まったくの主観的世界だけなのだ。
そのことの持つ危うさについての考察が必要ではないだろうか。
生きることの意味、死ぬことの意味、病気の意味。
すべてが自分だけのストーリーであるから、どのようにでも書き換えられるのだ。つまり、どのような輝かしいものにでも、どのような愚かしい悲惨な物語でも作りえるし、それを自分のなかのリアリティーとして強い信念として持つことが可能なのだ。
すべてに意味はある、しかしすべてに意味などない、と私が主張するのはこのことの危険を危惧するからだ。
アポフェニア、関係妄想、といった病的な状態も知られている。
危険で不健康なスピリチュアリティーのなかに、このようなものが観察される。
すべてのものに陰と陽がある。
単純に、意味というものを考えても、このように病的に陥ることさえあるのだ。
絶望的に悲惨な状態に直面しているとき、
「すべてに意味があるのだ」
と言われてどう感じるだろうか。
「すべてに意味がある」と言うことの意味は見出せても、心情的についていけないで、冷たさを感じてしまうこともある。
生まれたばかりの子供が死ぬことの意味。
最愛の人がとつぜん去っていくことの意味。
絶え間ない激しい痛みに苦しむことの意味。
現実には、「意味などあるものか!!」と言う正直な心情があって当然だ。
意味と言うものは、第三者が、カウンセラーが、先生が、親が、「このことには意味があるはずだから、がんばってね」
と言うような距離を置いた文脈で発言されるものではない。
実際にその中でもがき苦しみ、絶望のふちまで行ったその当事者だけが、その漆黒の中で見つけ出す、かすかな、わずかな、今にも消えそうな光のようなものだからだ。
しかし、苦しみや闇が大きければ大きいほど、その光は力を増し輝きをまし、すべてを覆いつくしていくのも事実だ。
それはもはや自分の力ではない。
意味を見出そうとする意志、方向付けは確かに自分かもしれない。
しかし、そこに光が存在することは、自分が光を置いたのではないのだ。自分が光をともしたのではないのだ。
そこに、初めからあったのだ。
見えなくなっていた目を開かれただけなのだ。
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