
桜の開花で大騒ぎしているのを尻目に、今年は雪を見てないから、どうしても見たくて、北の国に3日ほどお出かけしていました。
スキーもせず観光にも行かず、ただただ、雪見露天風呂でぼけ~
こういう旅行は初めてでした。
時折屋根から落ちてくる雪に驚きながら、そのほかには音がしない世界でした。
父は例によって、湯煙でなかなか撮りにくいとかいいながら、露天風呂の写真も撮ったようでした。
モデルになったらしい息子は、タオルも何も持たないもんだから・・・と父がぼやいてました。
HPにアップするときはモザイクにするか塗りつぶすか・・・
・・・
せめていちじくのはっぱにしてよね
・・・
几帳面で勤勉で忍耐強く、愛と犠牲の精神の母親と、天真爛漫、好奇心旺盛であくなき探究心で、超ハッピーで元気な父親を再発見しました。
なるほど、私は二人の子どもなんだなと思ったことでした。
しかし、昔の人はエライ!
礼儀正しくきちんとしていて、親から子、子から孫へといくにつれて、だら~~~~
日本はどうなるんだ・・・と嘆かれてしまいましたが・・・
ま、なんとかなるでしょ。
日本中のお父様お母様、あなたたちのおかげですばらしい日本が支えられてきました。
どうもありがとうございます!!
人ごみや騒がしいのは苦手なので、ひっそりと人気のない今のうちに!ととつぜんお花見に行った。
場所取り合戦に巻き込まれ、渋滞や駐車場確保に疲れて到着したものの、花見より人見になるような状態は避けたかったからだ。
うちの近くで満開になっていたからあわててお出かけしてみたんだけど、都内の名だたる桜の名所は、まだまだつぼみでがらんとしていた。
広大なひっそりした公園のなかを、咲いている木を探して、お弁当やらシートやらを抱えてさまよった。
遠くに、ぼ~っと白いような感じで煙っている一角があった。
たぶんあそこのは咲いてるよね?
広場を突っ切って目指していった。
あ、やっぱり桜だ!
思わず走り始めていた。
「咲いてるよ~!!」
しかし、誰もいない。
時折、ジョギングとサイクリングの人がやってくるだけだ。
世界一ひっそりしたお花見だった。
救いは、両親や子どもと一緒に家族でお出かけできたことだ。
お月様に照らされた桜をみながら、小さかったころのおかしなエピソードをばらされて、大笑いした。
別に、今だって同じようなもんだけど・・・
父はHPにのせるんだとはりきって、お食事もそこそこに撮影に余念がない。
視線はあの月の方角で、背景はこの角度からと注文がうるさい。
母は、花より団子だとばかり、お料理の説明。
父はコンビニおにぎりを食べたことがないらしく、ラッピングのあけ方がわからず出先でとまどったそうだ。
超過保護な我が家の伝統は伝わっている。
私も出張で出かけるときは、何日分もお料理を作りおきして出かけないと気がすまない。
ファーストフードのほうがうまいとか、病人食のようだといわれながらも、めげないで。
静かなお花見のせいで少し感傷的になってしまった。
この瞬間はもう二度とないのだと思うと、はかなさに涙が出そうになるけれど、でもこの共有した時間は、いろいろなほかのシーンと重なって、きっと永遠に残るはず。
今日も、大切に生きていこうと思った。
フロイトの深層心理学に対して、フランクルは「高層心理学」といって、人間の可能性を模索する積極的な方向を強調していたらしい。
マズローだって、自己実現的な人間の研究の目的は、まれにみる超健康な、高いレベルの人間を記述することで可能性を主張することだった。
そしてそれが人間性心理学の誕生になったのだけれど、いつのまにかそれが臨床心理学の代名詞のようになり、したがって、病気の人を治す方向に行ってる。
誤解がないように書くと、「成長を促す」となるけれど、でも、その方向はあってるとしても、レベルがまったく低いところから始まっている。
医学でも、病理学にかわって、アントノブスキーらが主張する健康生成学が盛んになってきたけれど、実体はやはり、病気の治療に明け暮れている。
結果として、超健康まで考えるゆとりがなくみんな疲れてしまっている。
見つめているものから世界は作られるというのは、ウイリアムジェームズを持ち出すまでもなく、認知科学での常識だ。
悪循環から抜け出して高いところを見つめていかないと、まったくきりがない。
高いところを見つめていくというのは、病気を無視するのではないし切り捨てることでもない。
死の縁にある人の中にさえ、魂の健康さを探るのだ。
どうやったらその健康な輝きを見つけられるのか。
自分自身がその健康さに達していることでしか可能にならないのだ。
高層心理学とスピリチュアル・ヘルス、提唱していかなければ。
で、気づきのワークショップもしていかなければ。
できるだけ少しのことをゆっくりと・・・笑
フットワークが軽くさっと柔軟に対応する・・・
というとかっこいいけれど、いくつものことを同時に、気がついたらすぐやって、はいつぎはいつぎと片付けるのが好きなので、時々混乱してくる。
こういう行動パターンは、子育てをしていたときの習慣から身についたものだと思う。
きりなく出てくるこまごました仕事を、いつかそのうちだと間に合わないから、その場でぱっぱと済ませる習慣がついてしまったのだ。
何か作業中でも、メール受信するたびに返事書くとか、ふっと思いついてお風呂掃除し始めたり、本棚の整理をはじめたりする。そこで見つけた昔のアルバムに見入ってしまい、幼馴染に手紙を書きたくなり、そうだお誕生日だったわ、プレゼントはどうしよう、あ、美容院に行こうかなやっぱり・・・あらもうこんな時間?夕食準備しないと。おコメがない!じゃパンを焼く?この前クックブックいただいたっけ・・・
という具合にどんどん進むものだから、そしてそれを全部やってしまうのだから周りがついてこられないと文句言われる。
今だって、研究助成金の申請書類を書きながら、査読から帰ってきた論文の仕上げをしながら、旅行代理店と不動産屋の対応をしながら、メールに返事を書いてたとき、あ、今日まだSQライフかいてなかったと思い出したのだ。
で、ひとつづつ片付けよう!
で思い出した歌。
ブラザーサンシスタームーンの大好きな歌。
夢をかなえたかったら、できるだけゆっくり仕事をやろうねっていう歌だ。
できるだけゆっくり、できるだけ少しのことをすることが幸せにつながるという歌。
確かに。
適応は、ある程度はもちろん、この世で生きていくためには必要だけれど、適応することによってどれだけの輝かしい個性や能力の発達が妨げられ、踏みにじられているかを思うととても残念だ。
特に社会がゆがんでいるときに、病的な社会に適応することが精神的に健康であるはずがない。
はっきりいうと、この世に存在しているもののほとんどが病んでいる。
多数派や平均的なものに合わせるということは、その時点ですでに間違っているのだ。
そのことを力説したマズローの自己実現の概念も誤解されている。
結局自分のなかで経験したことがないものを想像したリ、信じたりすることができないからだろう。
自己実現した人間にとっては、利己的であることが利他的であり、義務が喜びであり、仕事が遊びなのだ。
機嫌よくニコニコ人と合わせているけれど、それは思いやりをもってしてるだけであって、勝算ありと踏んだときにはさっと革命だって起こす。でも、生産的な日常を楽しんでいるから、勝ち目のない戦いはしない。
自己実現した超健康な人は、何しろ明るくエネルギーに満ちている。
満足しているのだ。
完全であるというわけではないけれど、そういう人たちが確かにいるのだ。
すごく少数だけど。
でも、そういう人がいるということは可能性が開かれているということだ。
病理学に比べると、健康学はすごく遅れている。
春の日差しにいっせいに開花し始めた花を喜んでいきませんか?
わざわざ暗いものを見つめる必要はないでしょ?
皆様お元気ですか?
桜も咲き始めてうきうきする季節ですが、気候不順で、またいろいろと変化の多い季節でストレスも大きくなりそうですね。
ゆっくりお大事になさってくださいね。
花粉症だか風邪だかわかんない・・・という方が周りに多いです。
私も、新学期に備えてゆっくりしています。
といいながら、温泉旅行にいくって言うのはゆっくりっていうのかな~
心頭滅却すれば・・・なんていいますね。
さむくない!いたくない!
ですか・・・
見方を変えたら、アレキシサイミアではないですか・・・笑
痛みや疲れをゆっくり味わって、からだをいとおしんで楽しむのもいいものだと思いませんか?
そう、春らしく、ふんわりとピンクでまいりましょう・・・
賢くて有能な方は、いつも目的至高でがんばっておられますね。
でも、もしかしたら、人生の本質って、目的なく、ただここにいてまったりしてる・・・こういうことじゃないかなんて思ったりもいたします。
まあ、楽しかったらいいわけです。
論理的根拠?
そんなもん、いりまへ~ん
脳みそが桜づけでピンクになってるまなみんでした。
スピリチュアリティーは愛です!つながりです!
なんて書いてるうちはまあよいとしても・・・
きちんと定義しろと気鋭の哲学者と物理学者に問われて絶句してしまった。
「・・・のようなものです」
「もの?スピリチュアリティーはものですか?」
「いいえ、しかし実体だと思いますが・・・」
「はっきりさせてください、あやふやなままつかっていくと、筋が通らなくなります」
「はい・・・内側から湧き上がってくる深い喜びのような・・・言葉になりにくいですね」
「それは信仰です。学問的な態度ではありません」
「はい、おっしゃるとおりです」
「スピリチュアリティーをきちんと定義をする人にあったことがありません。もし使いたいならまず定義をはっきりさせてからにしてください」
「はい・・・(医学の分野なんかではこれで通用してるんだけどな~)」
不可能なことをしようとしているということが、ますますはっきりしてきた。
しかし・・・できるところまできわめるんだ。
なぜか?
体験しない人にもわかってもらうための努力なんです。
このすばらしい世界を。
いや、しかし、哲学とか物理する人って、頭どうなってるんだろう・・・
ナノレベルの緻密さだわ。
キロレベルのまなみんには無理だ・・・
踊ってるほうが似合ってるって?
いえ!
だからこそしている挑戦です。
キツイ・・・・・
スピリチュアリティーはJOYJOYJOY!!
だという実感があるのでそのようにいつも説明してるんですが、この悲惨な現実がなぜ?といわれました。手放しで喜ぶことなんかできないでしょう?
むしろ平安とか安心感のほうがぴんとくるのではないかと・・・
日本人的なスピリチュアリティーはきっとそうです。
感謝というのも、ありがたい、もったいない、すみませんという、喜びを感じられない他者に配慮した感性を持ってるんですよね。
そこには、弱さに対する暖かいまなざしがあります。
それはそれで美しいと思います。
でも、苦しみや苦難や試練があるからこそ感じる喜びもまた強烈なものがあるのも事実です。
平安とかいうおっとりした感情というより、われを忘れてしまうほどの恍惚感は、やはり、喜びとしか言いようがないのです。
ただ覚えておいて欲しいのは、苦しみの深さとエクスタシーの高さは比例してるような気がすることです。つまり、苦しみを知っている人だけがめくるめく喜びも知っているといいますか。
だからといって、自分から逆境を求めなくてもよいですから。
耐えられるだけの試練はお一人お一人にふさわしい時期と量で与えられているようなので。
喜びを知るためにこれがある?そう、そうなんです。
だから、苦しみそのものだって、これは大きな喜びで感謝に違いないってことがわかるでしょう?
理科系学会の手際のよさには驚く。
あちらでは常識らしいけど、アブストラクトや発表申し込みは、締め切り日の24時を持って打ち切りだし、1秒すぎてもだめ。また一字でも制限字数を越えたら受け付けてもらえない。
学会納入しなかったらすぐ自動的に会員資格抹殺。
これは手続きをコンピューターで行っているからという理由にもよるらしい。
そういうのになれているせいか、発表時間も秒単位できちんと進行して行く手際は見事だ。
招待講演まで、後3分後1分って、チンって鳴らされてるのにはちょっと苦笑してしまった。
学会修了と同時に、さっと去っていって、10分もしたらもう人っ子一人いなくなる。
文科系の学会だったら、やあやあということで、学会が終わってからがディスカッションの本番となるらしい。
発表受付も、場合によっては当日駆け込みでやっつけられたことだってある。
文化が違うな~とつくづく実感した。
自宅で行われるお誕生日パーティーに15分前から行くというような野暮なことはしないけど、ビジネスアポは5分前に到着が常識だ。
それぞれの文化の中で、自分に何が要求れているかを見極めて行動しなければ、顰蹙物・・・
複数の文化に身をおくものとしては、その変身振りを楽しんでいるんだけれど・・・
やってしまった・・・
踊りのワークショップで、
「自己紹介を各自20秒以内でお願いします。」
座長の科学者先生が、噴出しそうな顔で笑ってらした。
もう・・・理科系頭になってたんですよ昨日は・・・
ワークショップもてきぱきとやりすぎてしまった・・・反省。
「郷に入りては郷に従え」
うん、名言です。
今日の学会は、物理の人が多くて、なんだか一日中そういう勢いだった。
超心理学の人って言うのは、信じられないくらい、超科学的な人たちだ。
統制や実験計画なんかすごすぎる。
あそこまでコントロールしたら何も文句はつけられないだろって言うくらいコントロールしてるのに、信じない人はそれでも何か見つけてくるんだ。
ご苦労様~って言いたい。
ま、それはそれでいいんだけど~
極めつけは量子モナド論。
こっちはこっちで、物理学者が物でないモノを証明しようとしている。
つまり意識を科学するのだ。
まなみんの、大雑把な脳ではついていけなくて途中で席を立って、明日のダンスワークショップの開場下見に行った。
こっちもどうも、ご苦労様~
しかしこんなにがんばって何をしたいのでしょうか。
霊魂の存在を証明したいって?
客観的に科学するって?
いや~ホントご苦労様です。
ご苦労様ですとしかいえないまなみんは、明日踊ります。
今日は40分も時間があったから、理科系の学会なんだけど、大胆に話してしまいました。
スピリチュアリティーを心理学的に説明すると~なんていいながら、最後には、こうきたもんだ~
「スピリチュアリティーとは愛です!」
ま、そういうことです、はい。
2,3人に嫌われたからって、それがどうした!
そうじゃない人が何億人もいるんだぜ!!
いいですね~
元気でますね~
みんなが陥りやすい錯覚と希望は、みんなに好かれたい、わかってもらいたいってこと。
その努力をしたら何も言えなくなってしまう。
万物の理論って言うのを提唱したウイルバーさんもなかなかいい仕事してるけど、万物?納得していない人だってたくさんいるんだ。しかもそれは、彼が正しいかどうかには関係がないんだ。
みんなに好かれよう、みんなを説得しようと無駄な努力はやめて、
さあ、自分らしく、こうだ!ッて思うことを主張していきましょう。
それは真実に違いないから。
そしてほかの人もそれでいいのです。
それでいいのだ~
それでいいのだ~
知らなかったらよかった・・・という苦悩をご存じでしょうか。
不治の病の告知からパートナーの浮気まで、日本人は、知らなければないということになる、言わなければ起こらないというちょっとゆがんだ否認傾向がありますね。
私は事実を知ることが一番大切なことだと単純に考えてます。
事実を知ることによって最善の対処が可能になるからです。
でも、人によっては悲惨な事実に耐えられない、その挙句に逃避して病んでいくという姿も見られます。
子どものころは世の中の悲惨さから守られていることが多いです。
認知機能が発達してないからですけれど、それは必要なことでした。
生まれたとたんに悲惨さを突きつけられたら、生きていく気力をなくしてしまうかもしれません。
成長するにしたがって、様々なものが見えてきます。
その中で上手に克服していく人と、悲惨さに圧倒されてしまう人がいます。
そこで見ないように自己欺瞞から、いろいろなものや人に依存して、認知機能を自分でまひさせている人がいます。それが深層心理や無意識にたまっていっていろんな症状を引き起こします。
事実を受け入れるためには、それに耐えられる自我が必要ですが、それはどこから来ているのでしょうか?
それは希望と信頼感です。
どんなに悲惨な状況であっても、大丈夫だという確信があれば、どんなことに対しても、立ち向かい、受け入れていくことができます。
でも、大丈夫だというのは、事態は好転していくに違いないというポジティブシンキングではありません。
事実は事実です。
厳粛な客観的事実は存在します。
世界は愛でできている、光に満ちているというのは、究極の真実ですが、目に見える世界がいつもそうだという事を意味しているわけではありません。
統計的に捉えたら、むしろ反対かもしれません。
その数少ない、小さな光にフォーカスすることによって、永遠を見るのです。
事実を認識したら、この文明の崩壊、人類の滅亡、地球の死、といった悲惨な兆候が見えるでしょう。
ほとんどの人は見たくないから見ないようにしています。
それで毎日面白おかしくやっていってます。
なぜ事実に直面できなくて避けてしまうのか。
希望と信頼がないから耐えられないからでしょう。
希望と信頼は、物事がうまく行くというところにあるのではないのです。
そこを基準にしている限り裏切られる運命にあります。
希望も信頼も、何が起こったとしても、大いなるものがすべてを支え見守っていて、その配慮の中で行われているという安心感から来ます。
これに気がつくためには、毎日出会う小さな光に目を留めてみてください。
今朝の朝日は、未来に向かって投げかけられているような赤い筋がいくつも空に向かって伸びていました。
寒い中、清められた空気にのなかに、じんちょうげの香りが春を告げていました。
ご夫婦でいたわりあいながら、ゆっくりお散歩している方たちもお元気でした。
小さな光は、いたるところにたくさんあります。
勉強することや修行することなど、とんでもない贅沢で、生き残ることが精一杯という厳しい環境の中で、精神性やら宗教やらと無縁の生活をしながら、圧倒的な光を輝かす人がいる。
一方では、一生懸命勉強してどんなに修行しても???という人、確かに勉強してるから言うこと、書くことはすばらしいけれど、生き方が、???という人もいる。
教育者としては言ってはいけないことかもしれないけれど、認めたくないけれど見ていてやはり事実だから言うしかないんだけど、素質というか資質というか、努力しても報われないことがたくさんある。
男性がどんなにがんばっても子どもを産めないように、肉体のむき不向きは比較的わかりやすいからみなあきらめが早くていい。
パーソナリティー特性の中で一番遺伝的要因が関与するのが知能だけど、がんばれば何とかなると思ってる人も多い。だけど、無理して自分らしくないことをしたら悲惨だ。
スピリチュアリティの発達だって、個人差がある。
あるがままを認められないから、努力したらなんとかなると思って必死で修行したり勉強したりする。
そういう態度そのものが、まるでスピリチュアルと正反対だってことに気がついてない。
実証したわけではないけれど、この、人格として現れてくるスピリチュアリティーというものこそ、知能以上に遺伝的要因というか、生まれつき備わっているものに規定されていると思われる。
パーソナリティーの最も根源的なところに位置しているからだ。
人格としてのスピリチュアリティーは確かにそのとおりだ。
だけど、実はそれをこえたものがあって、一瞬ですべてが変容してしまうことさえあるんだけれど、それはまったくあちら側の意志しだいという気がしなくもない。
私は私の役割を行うしかない。
あなたもあなたの役割を行うしかない。
けれど、その変容可能性を信じ、その可能性がすでに与えられているという特権に感謝しつつ、日常の小さな役割と責任を果たしていくことしかないのだ。
(確定申告どうしよ・・・・わけわかんないよ・・・そういう能力と役割はないみたい。笑)
水の中にお砂糖を入れると、塊が溶けていく。
物理法則ではこのようにどんどん拡散していくという法則があってこれをエントロピーの法則という。
エントロピーの力に従うことは、ばらばらになって崩壊、死を意味する。
いのちあるものはみな、エントロピーの力に反してここに存在している。
何がそれを可能にしているのだろう。
物理的作用とは反対方向なのだ。
からだを物質的に捉えたら、エントロピーに従っていることがわかる。
まとまりを持った結び付けている力は何から来ているのか。
エントロピーの力に効効して成長進化する方向に突き動かしているものは、愛である。
いのちをはぐくみ成長させるものは、愛である。
ではその愛のエネルギーはどこから来るのか。
いのちを引っ張りあげている力はなんなのか?
それを私はスピリットと呼ぶ。
神といってもよいだろう。
愛の法則とエントロピーの法則の狭間で夢を見て戯れているのが私たちだ。
選択の自由は常に私たちの手元にある。
うつの人にSSRIを投与したら、「まいいか」と思うようになったと。
深刻に考えすぎて動けなくなっている人には、それこそ、ま、よかったのかも。
でも、薬が効きすぎると、それが「どうでもいい」になるんだそうで。
そうなるとあわてて、「どうでもよくはないですよ」と薬を減らすそうですが、離脱症状が大きいので大変だという話を学会で聞いた。
生きやすくするために、人が喜ぶことをするな、自分が喜ぶことをしろと話すそうで。
聞きながらすごく複雑な思いがした。
深刻に考えることがいけない、人のために自分が犠牲になることはよくないと、お気楽に、自分のやりたいことをやればいいじゃ~~んという発想を教える。
ちまたにはそういう発想でぶらぶら面白おかしく生きている人たちもいる。
うつではないし、何が問題か?ってくる。
どうでもいいじゃん、楽しかったら、と来る。
実はこういう人を本来の生き方、本当の喜びに気がつかせるのは相当至難の業だ。
うつ、いいじゃないですか。
大いに悩んで、どうしたらいいのかもがいていく中で答えが見つかるはずだから。
病気や苦痛を失くすのではなく、それを成長に結びつけるお手伝いがカウンセラーや医師の役割だと思う。
成長は悩まなくなることではない。
成長すればするほど悩みはむしろ深刻化していく。
しかしうまく共存できるようになっていく。
光を知れば知るほど闇も深くなっていくのだ。
しかしどんなに深い闇でも、一筋の光さえあればやっていけることを知るだろう。
カテゴリーエラー、つまり愛は科学の対象ではないのにやろうとしている・・・
時々そういう気がしてきます。
スピリチュアリティーって、結局のところ、愛そのものだから。
でも、そうだって学会で言い切ってしまったら、はいさようならですね・・・
心理学って一体何なのだろうって思います。
客観的な科学になろうとして心を切り刻んでいきます。
情熱的な胸が熱くなるような思いを、平坦な言葉に置き換えていきます。
いくら科学的客観的に書こうとしても、熱い思いがあふれてきて、論文を読み直しながら、あら~これじゃまるで宗教じゃないか・・・と思って書きなおし・・・。
宗教を分析したり、科学を信じたりはカテゴリーエラーです。
そうしないで、統合していくというのは、本当に難しいことです。
これはきっと、愛する人と一体だと思いながらも自分をしっかり持っていくのと同じように難しいことだと思います。
熱い思いがあればあるほど、表面的には平静で冷たいかもしれません。
そうしないと暴走していってしまうからです。
へこまないでね。
おちこまないでね。
そう、落ち込んじゃうのは、自分でもわかってたからなのよね。
自分で一番だめだと思ってたことを、ストレートに指摘されたらやっぱりがっくりきちゃいますね。
ストレートに言われないでじわじわと知らされるのもまた辛いものがありますね。
言われた内容をよく考えてみてください。
確かに自分の性質です。
特徴ですね。
それで実際にいろいろ困るときもあるわけですね。
そしてそのことで不都合が起きちゃったわけですね。
では、もし自分にその性質がなかったとしたら、反対の性質を持っていたらどうなるか,想像してみてください。
正反対のパーソナリティーとか能力だったとしたら・・・
そのときにどういう問題が出てくるかを想像してください。
そう、結構いろいろあるんですよね。
正反対だったとしたら、もっと大変かもしれないってわかってきました?
そう、あなたのその性質は、少し極端だからちょっぴりバランス回復が必要だって言うだけの話でした。
それも、、そういわれた場面に対してはってことです。
そうではなくて、そのままどんどん伸ばしたほうがいい場面だってきっとあります。
そういうのがあなたらしくていいなって思う人もきっといます。
誰が見てもだめだと思いますか?
馬鹿な子ほどかわいいって本当です。
失礼しました。
反省しすぎて前に進めなくなるより、笑って進んでいきましょうね!
私の周りには、なんて素敵な方が多いのだろうと、感激してしまうことがいっぱいある。
信じられないくらいの愛他精神を発揮してくださるから、圧倒されて涙しか出てこない。
いろいろなことに恵まれていたときには、こういう環境だから自分が甘えてだめになるんだなんてラッキーなことをのろったりしたこともある。
いろいろなものが剥ぎ取られていく中で、実際に経験してみることは、本で読んだり話を聞くのとは大違いだということがわかってきた。
理想や奇麗事だけでいかない現実や、想像もしなかったような苦しみにもであった。
でも、その中で確実に、思いがけないやさしさやさりげない思いやりを、見知らぬ人たちから受けた。
何も見返りを期待しない、純粋な愛を、小さな人々の中にあちこち感じた。
その小さな行いが、ぬくぬくと恵まれた環境にいるときにはアタリマエのように感じられていた。
人それぞれの重荷を背負いながら、あえて見知らぬ他者に対して与えるという行動の意味がわかってきた。
どれだけ感謝の涙を流してきたことか。
これらの多くの天使たちに、みな囲まれているのだ。
気がついていないことも多いけれど、これは真実なのだ。
都合のよい解釈かもしれない。
反対の場合もあるではないか・・・。
それはそれでひとつの真実。
私の目には、すべての営みが愛の行為に見えているのだ。
おろかさも、愛の不器用な現れ方に過ぎないのだ。
愛が目に見える形になっていない状況だってあるけれど、思いはみな、本質はみな天使なのだ。
ウイルバーの病の意味づけ分類にしたがって、癒しの意味づけを行ってみた。
1. 神からの許し
2. 霊的に成長した証
3. 生物・物理的に秩序が戻った。
4. カルマが浄化された。
5. 感情が開放された。
6. 癒しもまた幻影である。
7. 癒しにも意味がない。
8. 癒しにはホリスティックな原因があるから何が効果があったのかと考えることはできない。
9. 何かが報われたのだ。
10. 癒しもまた移ろい行くものであり、一時的なものである。
11. 偶然・必然的に癒しが起きたと考えられるがそのものには意味がない。
これらをカテゴリー化すると、ひとつは、1.2.4.9といった霊的な意味づけを行うタイプ、もうひとつは6.7.10、11といった病やヒーリングと自己との脱同一化を促すタイプに大きく分類できる。3は生物学的、5は心理学的、8はホリスティック医学的な解釈といってよいだろう。
スピリチュアル・ヒーリングを扱うときに注意すべき点は、これらすべての立場にその必然と、個人的あるいは社会的根拠があって尊重されるべきであるということである。しかし同時に、おびえ、不安、罪悪感といった破壊的態度を促すようなストーリーは、健康的なものに書き直していく必要がある。
ひとつの立場に固執して非合理的な信念を他者に善意で強要するような問題は、今後、スピリチュアル・ヒーリングをめぐる問題として浮上してくることが予想される。
きゃははは
まなみんににあわない哲学的タイトルにちょっと照れてます。
実存という言葉は、現実存在の略語で、本質存在の対義語らしい。で、実存は、種で、質存(こういうことばきいたことないんだけど)はフルーツ。つまり、可能性が詰まっている状態と、実際に現れた状態をあらわしてるらしい。
つまり、実存というのは、生きる目的とか意味なんていわれることがあるけれど、要するに、初めから計画されて眠っているものを開花させていくってことで、その種のもっている可能性とか、資源のことをいうらしい。
ということは、生きる意味とか生きがいは、その種の中身、まだ現れていない可能性を知ることで、それにしたがって生きていく態度からでてくることになる。
ということは自分らしく楽なあり方になるということだ。
つながった。
もちろん環境によって、その種の撒かれた場所によって花開きにくこともあるけれどその中で精一杯開いていこうとするときに目的が見えてきて楽しくなるということ。
あまりにもそれなしに生きてる人が多い。
みんな知らないのよね、種の中にあるものを祖のあっま表現していくことがこんなにも楽で楽しいって事を。
で、ないものねだりして、無理して強力な肥料やなんかやって、即席栽培にしたり、元元なかったものに無理やりひん曲げたりしてるんだから・・・
3月は卒業式、そして新しい出発へと変化の多い時期だ。
桜がもう咲き始めるなんて、ちょっと早すぎる春の訪れに、まだ別れの悲しみが処理しきれないうちに、出発の喜びをせかされているような気分になってくる。
じっくりと寒さの中でちじこまって、寒さに耐えて、やっとの思いで出てくる新芽のすがすがしさは、自然界の普遍な営みを感じさせる。
暖冬ですでに咲き始めた桜は、温室育ちのお坊ちゃまみたいで、かわいいけれど何かひ弱ですぐに散ってしまいそうだ。
離れなければいけないこと、終わりになることが確定したら、そのことを考えないようにして、意識をほかのことに向けようとする、たとえば新しい出会いやプロジェクトなどの。うまいストレス回避の方法かもしれない。
辛さを回避してポジティブに取り組むのだ。
別れの辛さをひきずっていたら仕事にならないかもしれない。
でもこれをやりすぎると、アレキシシミア風になっていく。
そうするとフリ戻しが必ず来る。
こころ破れる別れ、こころ踊る出会い・・・
平常心とは、ありのままの気持ちに徹して生活していくことだった。
ジョギングする気もしないからやめました。
水浴びもする気しないからやってません。
楽しみにしていた演奏会もなんとなく億劫でいきませんでした。
寝込むほどじゃないのですけど、頭がボーっとしてのどが痛くだるく、いくらでも眠いです。
せっかくこんなにお天気がいいのに~~
でも、大切な仕事の時期じゃなくて春休みでよかった~~
いつも一番いいときにウイルスさんがきてくれます、というか、症状が出ます。
ひどくならないのはきっと、あれ?と思ったときにすぐに寝るからでしょう。
というわけで今日もおねんね~~
お出かけしたかったけど・・・
ま、いいか。
ひどくない風邪って、なんかいいですね・・ぼ~~と夢見心地で・・・
(いつもそうだって?笑)
強く望めば必ず実現する!とそういうことを言いたいのではありません。
いくら強く願ってもかなわないときはあります。
それは動機が不純だとか、深層心理ではそう思ってないんでしょとかいわれることがありますがそうではありません。
たとえば、聖人君主は病気にならないか?
なります。
どんなすばらしい人でも死にます。
祈りが聞かれるとはどういうことでしょうか?
祈りとは何でしょうか?
家内安全・学業成就・商売繁盛って祈るときに、もし真剣に祈っていたら、きっと、その祈る対象に失礼がないように最善を尽くすことになるでしょう。自分の意志をそちらにチューンするような行為でしょうか。
そうすると、気づきやシンクロが多くなって、感謝がいっぱいになってきます。
いいことがあったら、「ありがとう」
大変なことがあったら学びの機会だと感謝!でしたね。
そうしていたら、結果として、具体的な願い事がかなわなくても、うれしくて平安な気持ちになっていきますよね。
実は、それこそが祈りの効果です。
祈りが聞かれるということは、そういった究極の幸せを手に入れることですから。
それがわかると祈りの内容が変化してきます。
求めるものから感謝になっていくのがわかるでしょう。
感謝も無理にするものではありません。
心の底から抑えても抑えてもわきあがってくるものだから。
そうなると、自分以外のすべての出来事に関しても同じく感謝の気持ちがわいてくるようになります。
そのときに、地上に天国が実現すると思います。
どれだけ悲惨な事件や環境破壊があっても、恐れたり不安になったりしないで平安でいられるというのは、それから目をそむけているからではなく、そこに大きな流れの中での自然の摂理と智慧を見出すからです。
祈りはすでに聞かれているのです。
それにあなたが気がつくかどうかだけの問題です。
平林寺という、近くの禅寺に行ってみた。
梅がきれいに咲いてるころだと思ったから。
平日の昼間ということもあって、東京とは思えない(正確に言うと埼玉ですが)人気のなさと武蔵野の面影を残す雑木林の静寂の中でいい時間を味わえた。
そこでいただいたしおりに、平常心についての解説があった。
平常心は一般に平穏な少しも外物に動じない落ちついた心のことと解釈されていますが、禅寺では日常ありのままの心、すなわち、悔しい・欲しい・にくい・かわいいなどの煩悩そのままが平常心であり、それに徹してゆくことが道であり、神の真髄であると教えております。
ありのままの心、いいな~~~と思いながら散策していたら、7,8人のお坊様が撒き割をしてらした。
と思うと、わたしの脇を、青い目をした紅顔の美青年が走り抜けていった。
作務衣を来て、長靴を履いて。もちろん剃髪。
藤田一照さんのお話を思い出した。
かれは私と同じ大学院で勉強していた先輩だけど、中退して出家したのだ。
無銭でお遍路してぼろぼろの風体でたどりついたご実家で、ご両親は、その知らせに泣かれたそうだ。
そういえば、私が修道院に行ったときにも、親は泣いていた。
本人は実は、たとえようのない喜びで心が満たされているのだけれど。
親になった今、自分の子が出家するとしたらこの上のない喜びなんだけれど、現実は正反対。
たぶん親のシャドーを補償しているんだろうなとありがたく思う。
平常心平常心。
自分に向かって攻撃的な人、嫌がらせをする人、たとえば、ガンを突きつける人、あるいは最愛の人を苦しめる人、ころした人などを愛することは可能でしょうか。
非常に難しく、訓練と修行が必要な感じがするかもしれません。
意志の働きでコントロールしないと、自然に起きる気持ちではないと思われるかもしれません。
意味があるのだという言い方をされても納得できないかもしれません。
頭で考えていたら愛する理由は浮かばないかもしれません。
むしろどうやって懲らしめるかという方向に行くかもしれません。
理性の働きは合理的ですから、ごみはすてる。害になるものは取り除く。
こういうことになるでしょう。
すてるッて一体どこに捨てるのですか?
取り除いたものはどこに行くのか考えたことがありますか。
シャドーは力を増して別の場所に行くだけです。
解決にはならないのです。
たまたまそういう役割を取らされている方だという理解があるとき、そして自分自身のなかにもそれがあることを見るとき、努力とか納得するまで考えるといういき方ではなく、敵を衝動的に抱きしめたくなるような気持ちになります。
このように自然に起こってくるものが愛かもしれません。
フロムは、愛には訓練が必要だと書いていますが、私的には、もともと自然にこのようなものだから、考えたり努力したりすることではないという風に思います。
そういう役割を取ってくださるから、自分がこのようにしていられることに対しては、感謝しか浮かんでこないし、自分のなかにそれを見つけたときには、なおさらいとおしく抱きしめたくなるのが当然ですよね。
そうすると、外からいじめのように思われても、実はまったくそうではないってことがわかります。
まったく、自分の意識しだいです。
かといって、このように意識しようと努力しないでください。
努力しないでください。
なきたいときにはないてください。
落ち込みたいときには落ち込んでください。
それでいいのだから。
そうしているうちに、自然に起きてくるのが、愛。
努力ではないの。
落ち込んでますか?という問いに「さあわかりません」と答えるガン末期患者を対象にした研究があった。
面白そう・・・・と思って読んでみたら、日本人グループの研究だった。
確かに日本人はイエスノーがはっきりしないけど、落ち込んでるかどうか、わからないってことあるのかしら?
落ち込んでるけど、いいたくない、あるいは気を使っているとき、とか、落ち込んでるけど別に死たいほど絶望的ではないというとき、とか、落ち込むってどういうことかわからないくらい混乱してるときとか、いろいろあるだろうけれど。
研究結果は、「さ~~」と答える人はうつになる可能性が高いということだった。
レインボードクターの書いてたアレキシシミアなのかもしれない。
もうひとつ、不安と欝は違うということ。
不安は焦点がはっきりしないけど、欝は辛いことにフォーカスしている。
不安は欝になるより前の防衛機制の一種かもしれない。
だから理由がない不安というのがあるのだろう。
だから紛らわすために依存したり強迫的になっていくのだろう。
感じないように、考えないように、そうやって認知症が始まるのではないかしら。
脳は本当に賢いから、望んだとおりに作用してくれるから。
聞きたくないと耳が聞こえなくなる。
でも、もっといろいろ見たいのに、目が見えないのはきついな~
目に見えないものを見なさいってことかしら。
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