
スピリチュアリティ―とは獲得していく能力なのだろうか?
もしそうだとしたら訓練していく必要があるし、システマチックな教育方法論の確立もそう難しくはないだろう。
しかし・・・
まなみんは、スピリチュアリティ―は、獲得していく能力だと思わない。
そう思っていたら、ソクラテスもプラトンもまなみんに賛成していた事を発見したよ!笑
成長していくにつれて、もちろん例外もあるし、身につけていく知識や能力も多いけれど(アームストロングさんの言う、下から上への発達)、反対にどんどん適応して成長するにつれて、習慣、思い込み、規則、社会システム等に閉じ込められて見えなくなっていく、失っていく知識や能力がある。
一番大きいものが喜びだ。
単純な素直な喜びや感動を失っていく。
それこそがスピリチュアリティ―そのものなのに。
初めはみんな持っていた。
だから、誰にでも、いつでも、どこでも取り戻せるものだと思う。
スピリチュアリティ―が、一部のインテリや余裕のある人たちの特権だなんて決して思わない。
スピなんて考えてない人が一番スピが高かったりする、この矛盾。
まなみんは直感型人間だ。
インスピレーションが強いともいう。
理由とかなく、「こうだと思う。」
という、他人からみたら不可解な基準で行動してうまくいく。
自分でも説明がつかない。
なんとなく、こうしたいな~という事をするだけだ。
あるがまま自然体ともいう。
それでうまく行くもんだから、ずっとその調子できてるんだけど・・・
直感であって、直観ではないと、実は困るのだ。
直感は動物的感性というか、体の感覚に近い、レヴィストロースの野生の知に近いものかもしれない。
直観は、もっと深遠で世界の原理などを見透かすような理解で哲学的ひらめきらしい。
直感は、気持ちがいいのが良いこと・・・
コールバーグの道徳性発達基準では最下位だわ。
直観はきっと、最高位の宇宙の普遍的法則に関わるものだろう。
デモね、デモね、
まなみんのチョッカンでは、直感と直観は統合されるのです。
スピリチュアリティ―のレベルにおいて。
といっていつも自己正当化。笑
性急だったり、気負っていたり、荒削りだったり・・・
でも、情熱勢い、純粋さがあってなかなかいいものだ。
ポジティブまなみんは、どんなものの中にもよいものを発見する名人だ。
(不完全な自分のことも大好きだからナルシストと思われがちだけど、あなたのこともみんなのことも大好きだから、ナルシストというのとは違うような気もする。)
自分の未熟さから人に迷惑をかけたり傷つけたりは申し訳ないと思う。
でも、過激だけど、傷つけるのはよくないと一概に言えない。
ナチスに、「貴様らのやってること把握の仕業だ」といったら彼らは傷ついただろう。
迷惑をかけるのがいけないとも思わない。
生きてる限りいつも人や環境に迷惑をかけているのが、人間として避けられない生であるからだ。
助けを求めないで自分を大切にしない方が間違っている。
みんな助け合うためにいるのだから。
感謝して他の人を助けたらいいだけのことだ。
腐った世の中に吐き気がするというのは本当のこと。
強い感情は身体的反応を伴うものらしい。
どんな状況にも理由があったり必然があったり、いいとこもあるさ、と思ってはみるものの、不純さというのはどうも好きになれない。
やさしさが足りない、経験不足、かもしれない。
思慮が足りない、浅はかというものかもしれない。
物事を一面からしか見てないのかもしれない。
いくら年をとっても、この態度の未熟さはいつまでも付きまとう、個性の一種なのかも。
はっきり物を言うから怖がられることがある。
敵を作ることもある。
傷つけてしまうこともある。
でも、言うべきことってあると思う。
誰かが言わないといけないってことがある。
そういうことを言うのに抵抗はない。
「みんながこういってますよ」「こういうことになってますから」「こまるんです」「立場が悪くなりますよ」
何が基準になっているのだろう。
まなみんには説得力を持たない。
だから、若気の至りなんだろう。
きっとこういう役割を持って生まれてきたのだろう。
創造性はどこから来るのか?
すばらしく暖かく受容的な環境でのびのびと才能を伸ばしたら出てくるものなのか。
それとも逆境の中で苦しみ戦いながら生き残る過程で出てくるものなのか。
答えはその両方であるらしい。
で、どっちが優れて創造的というわけでもない。
どちらもすばらしい。
逆に、理想的に育てられたらみんな創造的になるかというとそうでもなく、平凡なよい子で終わる場合も多い。
逆境で鍛えられたら創造的になるかというとそうでもなく、挫折したりひねくれたりする場合もある。
スピリチュアリティーだって同じこと。
順境で恵まれているからいつも感謝してるかというとそうでもない人もいるし、苦難が人を磨くといっても、磨かれないで壊れる人もいるし。
法則ってあるのかな・・・
あまりにも個人差が大きい。
人間ってホント、不思議。
だから面白い。
健康って、成長するものじゃない。
子どもにも、ご高齢の人にもそれなりの健康はある。
スピリチュアルヘルスっていうときに、生きがいを見つけて人生の目的を知り、安定している、みたいな心理的な成熟度を指す場合が多いけれど、ヘルスって言うからには、赤ちゃんにもあるはずだ。
まなみんが思うのは、透明さ!!これがスピリチュアルに健康という意味だ。
透明になったとき。。。それはきっと、ロジャーズの言う自己一致に近い概念だと思う。
本来の自分らしくあること。
これはどんな年代のどんな状態の人でさえ達成可能な自然のあり方だ。
だけど、実は一番、難しかったりする。
なぜか、みんな自分以外の人になりたがるからだ。
もう、そんなつかれることやめたらいいのに。
自分が自分らしいってことが一番楽でたのしいんだから。
スピリチュアリティーって、もともと自己中心性を超えて行くものなのに、時空を超えることばっかり強調されてる。
だから、時間軸を超えて過去生をたどってみたり、未来の自分にあいに行ったり、ヴィジョンを見たりしようとする。空間を越えて、いきたいところに、アストラル体とばし?をやってみたリ、幽体離脱をしてみたりする。ビジネスが大流行だ。
しかしそれはいったい何のためなの?
象牙の塔から一歩出て、ググって見て驚いた。
スピリチュアリティーとかスピリチュアルヘルスって、こういう意味で使われているのか・・・
まなみんが誤解されるの無理ないわ。
スピリチュアルって言葉使うのやめろって言う忠告もうなずけるわ。
知らなかった・・・
マスコミをまったくみないまなみんだから・・・・
WHOの健康定義しか知らなかったんだよ・・・・
江原さんのことだって見たことも読んだこともないし。
ま、だから彼がどうこうということは何もいえないのですけれど。
こういう使われ方をしていることを知って、吐き気がしてきた。
本来の意味とまったく正反対の自我肥大に拍車をかけているからだ。
どうしよう・・・
霊的健康?
魂の健康?
これもアヤシイな・・・
言葉って難しい・・・
あああああん
天使言葉もきっと、誤解されてるんだろう・・・
読んでいただけたらわかると思うんだけど・・・
しかたないよな・・・
「魂の恋愛」だって、王子様に出会う!!ッてキャッチコピーだもの。
自己中心性の極地ジャン。
でも、かたいこと書いても、誰も見ないし読まないし・・・
朝から悩んでいます・・・
ロミオとジュリエットの悲劇を、なんて馬鹿なことをするんだと大笑いする文化があると文化人類学の本で読んだことがある。
確かに、見方を変えたら早とちりのかんちがいでしんじゃうんだから、ばっかみたい・・・ではある。
何か気負って恋人のいとこまで殺しちゃうんだから、それもほんと、あほらしい。
悲劇は当事者だけなんだ。
だから自分が見方を変えさえすればどんなことだって大笑いできることに気がつくはずだ。
たとえホロコーストだって。
なんと言う馬鹿らしい、くるった行為なんだ。
もちろん、悲嘆の中にある人を笑ってはいけない。
笑いは、悲嘆の中にある人自ら気がついて、ふっと笑ってしまう、そういうものなのだから。
アウシュビッツで、極限の悲惨さの中でフランクルが自分の惨めな姿に思わず笑いそうになったというエピソードがある。
最悪の状態をふっと笑いそうになる視点というのは、自分を離れて観察することから、つまり、脱同一化して初めて可能になる。
失敗や不完全や、がっかりするようなことも、所詮はかない有限の人生の彩りだ。
楽しんでいこう。
ここでお詫びです。
まなみんは、箸が転げてもおかしい年頃ですね・・・
といわれてしまうほどよく笑います。
自分のことは、笑われると、人が楽しく嬉しくなったような気がして嬉しくなります。
でも、笑われたらいやな気持ちになる人もいらっしゃるようで、ごめんなさい。
こらえるのは結構きついです。
自粛します。平身低頭。
スピリチュアリティ―の研究とかいうと、「主観的経験でしか明らかにできないことだから、学問するなんてむりじゃん」といわれることが多い。
良くても、「経験科学」とか、「一人称の科学」(科学って、3人称であるべきだから、これは論理矛盾ではないかと最近思うようになってきたんですが・・・・)とか、ナラティブメソッドや質的方法論からの抽象化?等が提唱されて、純粋自然科学の方法論では無理よ、といわれる。
スピリチュアリティ―研究してる物理学者が(彼らはスピリチュアリティ―のことを意識とか情報とか呼んでるけど)そういうのだから、きっと、そのとおりなんだろう、と思いながらも、デモ!と思う。
科学の目的が普遍的な法則発見だとしたら、それがたとえ経験科学であっても、一人称の科学であっても、普遍性が一つの鍵となる。だとしたら、私のこの大切な唯一無二の体験はどう記述されるべきなのか。抽象化していく?それは個別性を切り捨てていくことでしょう?
ああああ、わかんないことが多すぎる。
そう考えるとやっぱり、論理実証主義という洗練された手法は、普遍的に、つまり、そう感じる人も感じない人も納得させることができる唯一の方法であるような気がする。
感動はないかもしれないけれど、論理的整合性があればいい。
そしてそのその美しさに感動すればいいのだ。
自己嫌悪に陥るのは、自分が人間本来の善である本質を発揮しないで、偽ったり欺いたりするからである。
本質的にすべての人が持っている普遍的な良心、これをそのまま発揮することができたら、どんなに楽しく他人も自分も好きになるか。
これはナルシスティックになることではない。
BEINGそのまま受け入れるというのは元々あたりまえで当然のことなのだから。
完全に健康な人がいないのと同様に、完全に本質的な存在である人も現実には存在しない。
健康とか自己実現とかいうものは、方向性として観察され評価されるべきものなのだから。
だから、いつでも、どこでも、誰でも、今このままの状態で、見方を変えるだけで、なれるのだ。
自分が大好きになることが。
自然も他人も大好きになることが。
実現が可能なのだ。
それがスピリチュアルヘルスだ。
昔から極端な内向型で困ることが多い。
自分の世界に浸って生きている人なのだ。
それが楽しくて仕方ないから、人と交わるのも億劫だし、一人で楽しくやっていける。
といって、人見知りしたり社交で消極的というわけでもない。
あまりにも自分中心で外が見えてないものだから、人目も気にならないし、どう思われるかも関係ないから、緊張してあがるということもない。
基準は内的なものひとつなのだ。
大いなる普遍的なもののみ。
なんていうとかっこいいけど、閉鎖的だから、それがいつのまにかまったくもって自分中心でエゴの固まりになっていたりしても気がつかない。
これが大顰蹙、ごめんなさい。
だから、努力して人と交わっている。
ほおっておくとすごい変人になってしまうだろう。
自分は満足だけど、周りの人にはすごい迷惑。
もう一度ごめんなさい。
なにしろ、研究や書き物が遊びでやりたいことで、パーティーや社交がするべき義務だと努力して意識的にこなしているという感覚は、きっと、外交的な人には理解してもらえないと思う。
かといって人と会うのは嫌いではない。
ただ、意識して計画しないと誰とも合わなくなってしまうというだけの話。
面倒なのね。会うと楽しいけど。
極端な朝型も直すつもりないし。
以前少し夜更かしする習慣にしたら、からだ壊しましたから、寝たいときに寝ることにしました。
で、またこういう早朝に起きて一人楽しんでるというわけです。
しかし、人の努力目標となるようなことが大好きというのは、なんなのでしょうか・・・
朝早く起きること、お掃除すること、ためないで早めに仕事を片付けること、が大好きで、自分が嬉しいようになんでも解釈して、心配しないで流れに任せてるし・・・。
苦労なしといえばそうかしら・・・やっぱりおめでたい人ですかね。
しかし自分だけ・・・再びごめんなさい。
極端は、やっぱり大変です。
恐縮ですがよろしくお付き合いくださいませ。
スピリチュアル教育を実践して効果の測定をしてるんだけど、そして、プログラムの普遍的法則を見つけて記述したいと思ってるんだけど・・・
実は、「まなみん効果」が大きいということが感想シートにもしっかり現れていた。
同じテキストを使って同じ授業をしたとしても、確かに同じ効果は得られないだろうけど、ほかの人がもっとうまかったりもするだろうけれど・・・
こういう、数字で測定できないポジティブオーラみたいなのをどうやって記述していこうか。
役者の演技のどこに感動するか、バレリーナの演技をどう評価するのかと同じだわ。
技術点、芸術点など、複数の審査員が評価して、平均値を出しますか。
こういうものの評価は主観的なものが大きい事が知られている。
審査員をどう選ぶかも大きな問題だし。
主観性をどう客観的に記述するか・・・
まったく難しい・・・
どうしたらいいんでしょうね、「一人称の科学」を提唱しているハルさん、教えて欲しいわ。
スピリチュアリティー測定装置、誰か作ってよ。
まったく、できないことをやろうとしてるまなみん。
でも、昔の人はみんなそうやって、夢を描いて、お空も飛べるようになってきたんだわ。
それがいいことかどうかは別として、いろいろ理解が深まったのは確か。
ここはやはり、知能の一種として、スピリチュアルインテリジェンスを測りますかね・・・
質問紙で測れるのかな・・・
マズローさんだって、自己実現尺度なんて作ってないよね・・・至高体験経験度なんていうテストもないしな・・・ううううううんん
まなみんの探索はつづきます、どこまでも、やっぱし・・・
ポジティブ心理学の教科書を学生と読んでるんだけど、今日、面白いことを見つけた。
アメリカ人の学者が提唱しているポジティブ心理学の目的は、みんなが幸せになるために必要な資質は何なのか探るということなのですが。
文化によっては、幸せになることをポジティブだと思わない。
へ~
まなみんは、みんな幸せになりたいと思っている。当然、と思っていました。
そう思わない人、苦しみたい人は勘違いした病気の人だと思っていました。
でも、楽しんだり喜んだりすることをポジティブに捉えない文化があって、そういう文化ではこの法則は成り立たないと書いてあったのです。
それって昔の日本みたい・・・と思ってしまいました。
日本って、昔からネガティブ志向ですものね。
・・・するな、とかなんでも否定的に表現するし、すべてを過小評価することが美徳だし、ほめないし。
いいことがあっても、浮かれるでない!
勝って何とかの帯を締めよだっけ?
私ばかりいラッキーですみませんごめんなさいってあやまらないといけないし・・・
みんなで、よかったね~~~
っておおっぴらに喜べないんですよね。
それでわかりました。
まなみんがいくら、この世は光に満ちている!!
愛だ!!喜びに満ちている!!ってことを告げても納得しない人たち。
見えてないというか、見たくないというか、見てはいけないという価値観、認知の枠組み、スキームをお持ちなのね。
そっか、そういう価値観で、それがお好きなのなら、ま、いいではないか。
まなみんはそういうの、肌に合わないですが、押し付けはいたしませんわ。
ごきげんよう
知的で精神的・禁欲的な方たちから顰蹙を受けそうですが、エロスがないと、機械ですよ。
世の中にはロゴスが足りないように見える現象が多いように感じますが、健全なエロスを抑えているから出てくるゆがんだエロスも蔓延しています。
ロゴスに導かれたエロスがあってこそ!
愛、癒し、喜びが出てくるのです。
でもそれは、求めてえられるものではないんです。
自然にわきあがってくるものだから。
でも、それはどこからやってくるのだろう・・・
たぶんゆっくりと丁寧に小さなことをしていくことからじゃないかと思います。
まなみんの探索はまだまだ続きます。
倫理道徳っていうと、きつそう・・・禁欲的・・・辛い修行・・・
というイメージがあるけれど、実はそうではないって話です。
マズローさんは言ってる。
自己実現した人は義務と欲求が一致する。
つまり、やらなければいけないことがやりたくてたまらなくなるんだ。
人に親切にするのが嬉しくてたまらなくなるんだ。
まなみんが証明したいのは、この事実です。
いやいやだと長続きしないし、ストレスがたまります。
そうじゃないんです。
もう嬉しくて楽しくてしかたがないんです!
なかなかわかってもらえない・・・
経験からじゃなくって、科学的にどうやって証明しようか・・・
難しい課題です。
まなみんは元々健康教育専攻で予防医学の専門家でした。
早寝早起き、運動食事、禁酒禁煙とかでうるさがられる嫌われ役です。
スピリチュアリティ―と体の視点は大切だと思いますが、呼吸や姿勢ヨガなどについて言及される方は多いけど、スポーツを奨励される方はあまりいらっしゃいませんね。
息が切れるくらいの運動、心肺機能の活性化は心身霊の健康にとてもよいと思うのですけれども。
拙著「魂の恋愛」KKベストセラーズ にも書きました。
魂の高揚は体が資本だという話。
方法論としてのNEW START
N 栄養:菜食よくかんでがいいみたい
E 運動:定期的に身体を激しく動かす必要があります
W 体重:増えすぎも少なすぎもNG
S 睡眠:12時前に7時間
T 節制:何でも(仕事も)やりすぎはNG。ニコチン・アルコール・カフェインなどのドラッグはもちろん
A 空気:換気・深呼吸して、空気浴しましょう
R 休養:疲れを感じる前に休むのがコツ
T 信頼:大丈夫!きっといいようになる
この中で一番大切なのはもちろん信頼ですけれど、だからといって、不摂生しながら何とかなる???ならないです。
スピリットである私たちは、同時に物理法則にも従ってますから、物理的なメンテナンスを怠らないようにいたしましょう。
教育者は自らお手本を示さないと意味がないのは当然です。
まなみん?ええ、もちろん!
このようなライフスタイルです。(小食だけちがうな・・食いしんぼ、笑)
ときどきそれでも崩れるときがあります、人間ですから。
そうしたらてきめん健康を害します。
経験から懲りてます。
皆様も、やってみられたら?
さわやかな、本来の健康の心地よさを実感されますよ!
みんなニコニコして、けたけた大笑いして・・・
うちのお葬式は、いつもたいていそうなってしまうのだ。
親戚中で思い出話に興じて、楽になって良かったね~って故人に話しかけながら、久しぶりに集まった親戚中でパーティーになってしまう。
実際、田舎では、あのうちはお葬式じゃなかったのか?と訝られたりするそうだ。
まったく信心深くなんかないし、父なんか宗教を馬鹿にして無神論だけど、でも、みんなを観察していると、まったく素朴な信仰があるんだな~
故人が今ここに一緒にいて皆と過ごしていることをまったく疑ってないんだから・・・
こんなに素朴な自然の信仰をみてびっくりしてしまった。
もちろん、パーティーのあとの静けさに、寂しさと心細さに襲われることもあるだろうけれど、なんという明るさなんだろう・・・
何も言葉にならないほどのショックと悲嘆にどっぷり浸りきり、語り合ったからこそ出てくる明るさなんだな・・と思った。
お通夜の伝統はすばらしいものだ。
アメリカ生まれの生まれながらのクリスチャンである子どもたちに、廃れていく日本文化を継承していく責任を痛感した。
皆様どうぞご自愛ください、とか、お体を大切にって聞くと、仕事を減らして、よく寝ておいしい健康的なものを食べてゆっくりすること、と思っていらっしゃるでしょう。
確かに睡眠不足のときは何をおいても寝たい!かもしれませんけれども。
みなさんが忘れている大きな大切なことは、運動することです!
からだを大切にするとは、適度に動かして、血液の流れをよくして老廃物をデトックスすることだから、汗ばむくらいの運動が実はすごく必要なんです。
人間のからだはそういう風にできてるのに、単純に、動かさないからという理由で、いろんな問題が起きています。
メタボリックシンドロームや生活習慣病だけではありません。
ウツやいらいらやキレルっていう症状も、なんとなく結う津で無気力っていう状態も、運動するだけで改善するのに・・・
これはやらないとわからないんだけど、運動する習慣のない人はやらないんですよね・・・
すこしでも、まず、お散歩から始めませんか?
どうぞ大切な体、メンテナンスを忘れないでくださいね。
社会適応するために、自分の心をそのまま表せない状態が続くと病気になる。
かといって、何でもあらわしていたら秩序が保てない。
だから、カウンセリングがはやるのだろう。
バランスバランス・・・
新学期が始まって、わくわくしている学生相手に初授業するには、やはりぴかぴかの気持ちで臨むしかない。抱負を語るオリエンテーションだもの。
まあまあうまくやったと思う。
おじがなくなったという知らせを受けた直後のカウンセリングセッションだって、なかなかのものだったと自負している。
しかし置き去りにされた悲しみと混乱が出口をさまよってうろうろしている。
自己一致は、言動が一致することを含むと思うけれど、泣きたいときに泣いてはいけない場面はプロなら誰でも持っている。
クライアントにはすすめながら自分はできないというのは自己一致してない態度?
カウンセラーにもカウンセラーが必要。
一番必要だったりする。
高名なお方や、優れたセラピストの苦悩ってどんなものかな・・と思います。
神様の前でしかなけないのかしら・・・
忍耐強すぎ・・・
ガンバロ・・・
無理・・・
泣く・・・
ここならいいでしょ?
ありがとうみなさま
突然の悲報に愕然とした。
やはり人生って・・・
難病で、意識だけは鮮明なままチューブにつながれて、本人もまわりも苦しみの極地にいたことを考えると、それからの解放なのかもしれない。
でも、この前、心地よい風の中、車椅子で花をめでることができたのだ。
話をすることもできたのだ。
このブログにも書いたことがある、あのおじが、昨日の夕方、逝っってしまった。
死は解放なんだから、出発なんだからと言い聞かせようとする自分がいる。
光の元に、先に旅立っただけなんだから・・・
からだも自由に動かせて今はゆったり、ほっとしてるし、好きな俳句に興じてるに違いないんだから・・・
納得できるように説明しようとしている自分と、説明できない、ただただ情動の嵐に巻き込まれてしまう自分が同居している。
理性的な態度は冷たいと思われがちだけど、感情の暴走を歯止めして、理由をつけて納得させようとしてくれる、やさしい機能だと思い至った。
つまり、論理療法の効用というわけだ。
でも、エリスだって、論理情動療法と言い換えた。
そう、感情を抜きにしてはセラピーはありえない。
共感などの右脳作用は強調されることが多いけど、左脳の現実対処の防波堤機能も、たたえたいものだ。
理性によって、人はどのような事象の中にも意味を見つけ、価値を見出していくことができるのだから。
光だ!愛だ!喜びだ!
と主張してる人は実は、神秘主義的な要素を持った人が多いようです。
もちろん、それだけではどこかに飛んでいってしまいますけれども。
現実だけを見つめていると、ゴアさんのレポートのように、本当に不都合で悲しいことばかりです。
でも、それは夢のような幻想でしかないんだってことに気がついたら、この世が滅びたとしても、光はずっと存在しているんだということに気がついたら、嘆きながらも嬉しい人生だってことに気がつくでしょうに・・・
自分の思い込み?信仰?経験のない人に説得力ない?
ううううううん、ううううううううん、ううううううううううううううううううううん
証明しろ?説明しろ?数式にしろ?
ううううううううん、うううううううううううううううううううん、ううううううううううううううううん
神秘主義者の苦悩は深まるばかりです。
ほらみろ!やっぱり人生は苦悩だって?
いいえ~~~
これが楽しくって仕方ないんですよ!!
不可能なことに挑戦して行く面白さ!
この醍醐味!
最高ですね~
spiritualityは愛と光,喜びと希望!!
スピリチュアリティーは、どうでしょうね。
霊性は,実は,悩み苦しみ痛みなのだそうで,というか,それがあってでてくるもので,それを自覚することが必要なのだそうです。
確かに,痛みや苦しみは人を結びつけます。
共感し感動し,そしてそこに喜びがあるでしょ?
この世は生老病死の苦しみが多いもの。確かに時間やエネルギーを量的に調べたらほとんどが苦しみと言えるかもしれません。
でも,長い苦しみはほんの一瞬の喜びで救われるし、報われます。
そして,苦しみは、喜びに気がつくためにあるんだと、まなみんは思います。
だって何もなかったら、喜びを感じることができないじゃありませんか。
このよはよろこび?くるしみ?
人間は善?悪?
どちらが正しいかは永遠にわからないかもしれないし、議論はまなみんあまり好きではありません。でも,どちらが正しいにしてもいいけど,どちらを信じる方がよりよく生きられるかが問題じゃないでしょうか?
そしてそれはその人の状況でどっちでもたいした問題ではないという気もします。
自分にも人にも環境にも優しく楽しく生きられるのはどちらでしょうか?
冷静に霊性を考えてみましょう。
まず忘れる前に、昨日のエントリーでついに200!!
毎日書くのが楽しみです。
さて、スピリチュアリティ―についてここんとこ桜を眺めながら考えているのですが、日本人のスピリチュアリティ―なんかない!!と大胆に言ってしまおう。
日本的霊性はあリます、もちろん。
すばらしく深い。
でも、それはSPIRITUALITYとずいぶん違うんだ。
SPIRITUALITYは英語だけど、語源からしてラテン語だったりして、もちろん文化的歴史的変遷はあるけれど、元々の意味するところはやっぱり、西洋思想ベースなんだな~
内村鑑三の、無教会っていうキリスト教の一派は、武士道復古で葉隠れの精神で、それはそれで非常に美しいけれど、いわゆる福音書を中心としたキリスト教の主流派とはずいぶん異なっている。
え?これがキリスト教?って思う。
日本のどんなキリス教会に行っても感じる違和感がある。
昨日はEASTERだったけど、ゆで卵に色つけてお庭に隠してみてもね・・・
苔むした石だらけのお庭に合うわけないじゃん。
そういうこと。
EGG HUNTINGなんかするより、桜の下で、ハラハラと流れてくる涙にも気がつかないで静かにたたづん出るほうがAUTHENTIC(ほんもの)日本人の霊性。
SPIRITUALITYじゃないよ。
古都はどこを歩いても美しく、はっとする光景に心奪われてしまう。
というわけで、修学堂から琵琶湖疎水脇の桜を眺めながら歩いていたら、気が付いたら哲学の道まできてしまっていた。
さすがにこちらまでくると、観光客が華やかになってくる。
満開だし、日曜日だし、イースターだし(これは関係ないけど)。
観光地の古都はバスが時間どおりに来ない。
来たと思ったらものすごい渋滞。
歩いた方が早かったりする。
というわけで歩いてみたんだけど、土地感がなく、方向音痴のまなみんとしては、大通りをまっすぐくればよいものを、美しい場所にフラフラ寄り道するもんだから、ついに迷ってしまった。
いくら尋ねても目的地につけない。
山越えまでしてしまった挙句に反対方向に下りたりしてた。
靴下の網目が足の裏で感じられるくらい歩いた(2時間弱を、ブーツで、荷物いっぱい持って)。
哲学の道に至る、この道を、ポジティブ心理学の道と名づけよう。
強制的に有酸素運動をさせられる上に、五感に訴える美しい風景は健康によいことこの上ない。
とポジティブに捉えるのがこつなのだ。
だけど、それはどこなの?ときかれても、もう二度といけない。
ポジティブ心理学の道は、不思議に満ちていて興味が尽きない道である。
汗が冷えてきました。
さむ~
つかれた・・・
ハッピーイースター(力ない笑)
男らしく目標を立てて修行して到達するスピと、なにもしないで、あららと気がついたらなっている女らしい受身のスピは、ずいぶん違うのではないだろうか、と師匠。
なんや、ウイルバーやん。修行して到達したのだけが価値があるみたいなニュアンスがあるやんか~。自我の確立を経てからいたるトランスパーソナルと、プレパーソナルがそのままトランスしちゃう、間違っちゃったやつ・・どすか?前・超の虚偽やねん。
お言葉ですが師匠、まなみんは違うと思うとります。
努力そのものは尊いかもしれまへんが、成果が正しいかどうかは別問題でっしゃろ。
努力して変になる人も仰山いてはります。
かと言うて、全部おてんとはんまかせ言うのも、ようない思うとりますけどな~
やっぱ、師匠は男の人やな~
考えてみたら、スピの理論家はみんな男の人やんか。
女スピの目線で、語ってみるのもなかなか面白いもんがあります~
瞑想とかしたことないし~と告白したら驚かれてしまいましたけど、
しゃーないな~ほんまやから。
お空を見たり、お花を見たり、踊ったりじゃああかんのかしら・・・
男と女
どこの世界でも理解するのは難しいどすえ。
京言葉速習中につき、大阪弁などが混じってるのは、どうぞ、かんにんえ~
自分中心的なことは程度が低いとされ、他人のために奉仕することは尊いとされる。
子供のために命を犠牲にする親の話は美談だろうか。
飛行機が緊急事態に陥った時には、子供や赤ちゃんよりまず自分に酸素吸入することが原則とされている。能力や体力の高いもの命やエネルギーが得られてこそ、未熟な者や弱い者の命が守れるからだ。
ある程度成熟した人なら、心情的に、本能的にまず弱いものを救いたいとだれもが思うはずだ。
しかし感情や感覚でその場だけの状況を見て取るとっさの行動は、論理的に計算したら非合理的なことが多いかもしれない。そこで登場するのが、冷静沈着な分析的な男性的思考だ。けれど、こればかりだと非人間的になる。
なにが人間的なことなのだろうか。
息を吹き返すわずかな望みにかけて高額なハイテク医療を駆使することか。
それともその予算で飢餓でしんでいくひとびとに食料を届けることか。
悟りを得るために出家することか。
それとも家にいて家族の話を聞いてご飯を作っていくことか。
より多く、より高く、より広く普遍的に命を増すようなことが高潔だとされることが多い。
しかし、少なくても、低くても、狭くても、とても個人的なことで今だけのことであっても大切なことがある。そして、それが永遠につながっていたりもする。
その判断は非常に難しくて、量的に測定するのは至難の業だ。
階層は確かに存在する。
でも、やっぱりどの階層も大切で、それぞれを満たしていくことは難しくて選択を迫られることだけれど、何をしたかではなく、なぜそうしたかで高潔さは測られるのではないだろうか。
マザーテレサも高潔だけれど、毎朝ゴミ拾いしてる隣のおじちゃんも同じように高潔だったりするし。
やっぱりすべての人が素晴らしい!としか言いようがない。
それはそれでいいんだけれど、じゃあ私はいったい何をしようとしているのだろう・・・
皆様お元気ですか?
なんという寒さなのでしょう!
お花もまなみんもちじこまっています。
4月は移動が多く、新しい職場、学校、仲間などで新鮮でうきうきする反面、わくわくしすぎでうろうろおちつかない・・・かもしれません。
私のことですが・・・
何を書いたら言いの川からなく混乱してますので、とりあえず新刊書の宣伝です。
「自分をこえていく心理学」ナカニシヤ出版から
これはトランスパーソナル心理学とポジティブ心理学の応用編のようなワークブックです。
実際に授業で使っています。
学生さんたちと3年くらいかけて書いた本です。
やっと出来上がりました。
うれしいです!!
京都にいるってメールしたら、今、ナカニシヤ編集長さんが、できたてほやほやのを自転車で持ってきてくれるというので、急いでネットカフェを出てカンフォーラに行きます。(ローカルですみません)
うれしいですね!
パスワード忘れてログインできないまなみんに教えてくださったSQライフスタッフの方にもこの場をお借りしてお礼申し上げます。
HOTNAILは結局パスワード変更しました。
まったく・・・
なにやってるんでしょうね・・・おちつかないですね・・・
皆様お寒い中どうぞお大事になさってください。
こんな問題もわからないの?
簡単じゃないの・・ほら、こうやって、さっさっさ~ね?
こういう傲慢な態度は確かに顰蹙ですね。
悪気なくても、思いやりがないですね~
健康な人は病人の苦しみがわからないから看病できないともいいます。
それはいえてますね。
敏感体質だと、普通の人がまったく感じないような音やにおい、気圧の変化や化学物質などで倒れてしまうほど苦しいんですけど、根性がないとか、甘えてるって問題じゃないんですよね。
それで、「傷ついた治療者」って言う話になるんでしょうけれども。
スピリチュアリティーも、これはかなり生まれつきっぽい気がしてます。
だから、ほら生かされてるって事がわかんないの?
光と愛でいっぱいじゃないの!
って、教わらなくても、生まれてくる前から知ってる人は知ってるし。
忘れないでずっとそのままでいられるというのも、別に努力したわけじゃなく、自然のことだったりします。
学習した無力感って言う話があるけど、確かに何度も悲惨なめにあってると、もうだめだ、まただめかと思うようになるかもしれないけれどそのときだけだし、人間は決してPCみたいに単純じゃないと思います。
アントノブスキーの首尾一貫性のように生涯変らないとされる資質があります。
何とかなるって言う大いなる信頼というのかな。
それは経験や学習によって変らないんだな~残念ながら。
こういうことをいうと教育の意味がなくなってしまいそうですが、変えられる別の部分がありますから大丈夫。
ホロコーストを生き延びてなお健康に積極的に生きる人もいます。
それは人間の可能性を示してくれるうれしい事実だけれど、だからといってみんなそうはなれないというということを覚えておかないと、すごく残酷になってしまいます。
自分がたまたまそういう風になれたのは、何か説明できない宇宙的な神秘であって、行いがよかったからとか努力してきたからだというわけではないんです。
悩んだからって誰もが成長できるということでもないし。
ポジティブな面を見たら?とか、人生の意味や目的を持てばいいんだよとか、すごく単純なことだと思うんだけど、できない人がいる。
そうしたくない人もいる。
苦しみ悩むのが好きそうな人もいる。
不健康が好きそうな人もいる。
最近思うようになったんです。
それぞれの役割があるし、そういう時期もあるし、それもまたいいんじゃないかな~と。
早寝早起きして能率よく、生きがいと使命感を持って、自分らしくよりよい人生を豊かに生きよう!と言ってみても、
「はあ、そうすか」ってそういう気になれない人に、そんなんじゃ、だめじゃ~んという見方をしたり、せつな的に生きてる人たちに対して、「ああ、時代の被害者だ~」と感傷的に考え込んだりする必要はないと思います。
なぜか?
それはその人のこの世での役割だろうし、その人の人生だからです。
もし助けを求められたらしたらいいけど、おせっかいに、そんなむなしい人生を過ごしてどうするんだ!とはいえないですね。
その人はその人で精一杯の人生を生きているということですから、たまたま自分と接点がなかったというだけのことですから。
優等生はどうしても、よりよく、もっともっと上を! このほうがずっと楽しくて幸せだよ!
と言いたくなってしまいますが・・・
自分がやってたらいいのよ。
それだけことでした。
鋭い女友達に言われた。
論文に、キリストや仏陀のスピリチュアリティーが上がっているのに、なぜ、フセインやビンラディンのスピリチュアリティーが書いてないのか。彼らのスピリチュアリティーはかなり高いはずだ!
いい悪いを判断するのは社会や時代だ。
何を持ってそういう差別をするのか。
スピリチュアリティーは普遍的・・・なものだと思ってるんだけど・・・
もの?対象なの?それとも状態?機能?能力?人格?行動?感覚?体質?
「意志」は思考・行動機能だし、「喜び」は態度・感情機能だし、「気づき」は感覚・認知機能だよね、それで説明できるの?
健康なスピリチュアリティーって何を基準にしてるわけ?
カルトグループの子どもとかすごくスピリチュアリティー高いと思うよ。
スピ関係だいっきらいで、でもすごく現実適応して貢献してる人格者もいるじゃない。
そういう人はどうなるわけ?だめなの?
何を測ろうとしてるわけ?
訓練して変るようなもののわけ?
いい悪いじゃなくって、だからタイプっていってるんだけど・・・
バランスかな~
でも、スピリチュアルな危険ってあるじゃない、悪魔とかのろいとかさ。あれは邪悪だよ。破壊的で不健康だよ。
それはでも、悪い霊とかいって、別物じゃない。自分じゃないよね。それって何?
スピって言葉嫌いで、宗教も大嫌いで、でもすごくスピリチュアルな人がいるような気がするけど。
いつも感謝して喜びにあふれてるんだ・・・
だったら、スピリチュアリティーって言葉使わないほうがいいんじゃないの?
誤解が起きる危険のほうが大きい。
構成概念と関連概念は違うよ。
SOCと関連があるといっても同じじゃないし、もし、SOCで測れてしまうなら新しい尺度作る意味はないし。
ううううん・・・
課題山積・・・
論理的脈絡なく、思い付きで暴走して話すのは、まなみんだけではないな
(ごめんいい意味にとって~あふれ出るインスピレーション!笑)。
彼女は確かにスピリチュアリティーが非常に高いんだ。
それは事実だ。
スピリットとのつながりの強さかしら?
また考えよう・・・
って、ぜんぜん仕事が進まないよ・・・
昨日静岡で30度を越えて真夏日になったというニュースは、エイプリルフールの冗談なのかどうかまだ真偽を確かめてないけど、ったく・・・(誰か教えてください!!)
東京も昨日はすばらしいお花見日和で、皇居から靖国神社、日比谷公園、都庁とおのぼりさんのご案内をしてきましたが、暑くて半そでになってました。
で、冬物を全部片付けたら、今朝の冷え込みは何でしょう。
ネットで予報をみたら、京都であさって最低気温が2度!!
お天気どうなってるの・・・??
またコートを出してきました。
でもこれはきっと、桜が長持ちするように、神様が計らってくださったんだな~と感謝しました。
だって、研究室のお花見は、6日なんだもん。
それまでもたないと、さびしいもんね。
皆様
体調を崩しやすい季節ですね、どうぞお大事に・・・
教育が悪くなっていると答えた人が過去最高だったそうで・・・
30代を中心に20,40代が多いそうで。
子育ての大変さを身にしみてるんですね・・・
人のことは言えない。
自分でも最善を尽くしてきたつもりなんだけど・・・難しすぎて。
おじいさんの小さいころは学校に行って遊ぶのが楽しみで朝早くから走って行ったそうだ。
帰ってきたらまた山や海を走り回っていたそうだ。
おなかすいたら帰ってご飯を食べてまた遊びまわっていたそうだ。
宿題なんかないし、あってもしないし?自然の中で、ありとあらゆる工夫をして、大人のいない世界で好き勝手して、基地作ったり野宿したり面白い冒険をしていたそうだ。
孫はニコニコ聞きながら、PCゲームとIPODですわりっぱなし。
ゲームのおかげで反射神経がよくなってるんだと。
私の小さいころは、パソコンも携帯もなかった。
野山をかけまわらないで、バレエやピアノ、お歌にお絵かきなんておけいこごとにかよっていた。
それはそれで楽しかったんだけど、そのせいか、お花は好きだけど土が苦手だ。
自分はできないくせに、子どもたちには田植え芋ほりに行かせた。
見てるだけの私に、お母さんもはいってごらん、きもちいいよ!
といわれても、どうしてもだめだった。
努力して自然学習?なんてやってみたんだけど、生活のベースや時代が違うためか、なかなかうまくいかなかった。
ま、こういう親にしてはよくやってるというとこかな。
でも、教育は社会環境の影響が大きいことを痛感している。
6歳まで完全シュタイナー的に育てたのに、学校に行かせ始めたとたんに社会化していくために全部崩れた。
思春期になると反動のように正反対にもなってしまった。
教育は難しい。
一人一人がみな違うから。
そしてその子の最善と、社会の要求が違うから。
でも、その子がその子らしいときは生き生きしてるから、基本的にはそれを喜んでいたらいいだけだと思っている。
何をするしない、学校がどうこう、仕事がどうこうは、その次のことだ。
とにかくどんなあり方であっても、そのまますばらしいってことを、そのままのありかた方で受け止めて、寄り添って生きたいと思っている。
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