
この前からずっと引っかかっているテーマだ。
本来の自己って一体何よ。
じぶんらしくあるってどういうこと?
やりたいことやったモン勝ち、というノリは少し違うだろうという気がしてる。
もちろん生きてる意味を感じなくなってる人にはマズ何したい?って聞きたいけど。
そこが出発だとは思う。
で、自分らしく言いたいことや思ったこと感じたことを表現するのは一つも悪いことではない。
アサーティブということ。
心理学で言うAUTHENTICITYはそういう意味らしい。
だってそれしか測れないからだ。
でも、本来の自己って、究極には大いなる自己と同じだろうと思う。
直感的にそう思うし、多くの宗教でもそんなことを違う言い方で表現してるようにも思う。
まなみんが測りたいスピリチュアルヘルスは、実はその部分なのだ。
だけど、宗教がらみ、超越概念が入ってくるととたんに難しくなってくる。
そもそもそういう存在を感じないって人の方が多いんだから。
授業中に10分くらい瞑想しても、くすくす笑いが起きてしまうような状況では、ホント、無理なんだな~
仕方なく、アサーショントレーニングでもするかって感じ。
それだってなかなかつかんでもらえない。
実習してもしても、それはノンアサーティブだろ、それはアグレッシブだろって。
疲れた。
長い道のりだ。
焦ってはいけないんだな。
どこまでいけるんだろう・・・
うふ。
今日はのろけてしまおう。
私のBFたち(複数って?笑)をご紹介します。
BFとは、お坊さん友達のことです。
彼らがどんなに素敵かというと、包んでいる空気がなんとも透明なのです。
そこだけ空気が違っていて、新鮮な酸素とかマイナスイオンが満ちてるといいますか。
涼しいのです。
別に髪をそってらっしゃるからだけではないと思います。
空気が静かでさわやかなんです。
そして目が透き通っていて、背筋がピンと伸びているんです。
いつも自然の中で瞑想とかしていらっしゃるからでしょうか。
禊でお水かぶったりしていらっしゃるからでしょうか。
いえいえ、もちろんそれによって培われた部分もあるでしょうけれど、そのスピリットの透明さが外に光を放っているのだと思います。
激しい感情を通り越した静けさ。
といって悟った風ではなく、まったく気さくにカジュアルですしね。
ダライラマ様も茶目っ気たっぷりだし。
難しいことは何もおっしゃらない。
わかりやすいシンプルなことだけ。
魂が求めているのはこういうBF.
めぐり合えた幸せに感謝!
嗜癖のなかでもっとも最悪でたちが悪いものはなんだかご存じですか?
アルコールでもタバコでもなく、
ギャンブルでも買い物でもなく、
パソコンでも携帯でもなく、
恋愛でもセックスでもなく、
それは、苦しむこと、です。
幸せや喜びを求めているはずなのに、自分から、苦しまないといけないと選ぶ人がたくさんいるんです。
自分から選んでない?
いいえ自分の選択です。
どのような外的状況でも、それを苦しむかどうかは自分の選択です。
意志の働きで生産的な方向に意味づけて微笑んでいくことは可能だからです。
どのような状況でも、です。
考えられる限りの悲惨な状況を経験しながら、それを実証している人々の存在をフランクルは記述しています。
苦しみや悲しみは、人を結びつける効果があります。
お互いに慰めあいいたわりあうことはすばらしいことです。
苦しむなとか悲しむなといってるのではありません。
辛くて泣くのは自然です。
我慢しろといってるのではありません。
むしろ、とことん悲惨さを味わいつくしていいのです。
問題はその後のことです。
光が見えようと見えまいと、存在しているのですから、見えないと不平をいわないで、見えているように行動してください。
光は見えなくてもいいのです。
見えてるように行動してください。
そのとき、あなた自身が光になっているのです。
自分の光は見えません。
最大の勇気は、どのようなときにも微笑んでいられることだと思います。
貴方色に染まる・・・
それもいいでしょうね~
ラブラブでお気楽で。
それで幸せな時代もある。
責任は貴方が取るんだから楽に決まってる。
でも、そうしようとしてエネルギーがどんどんなくなっていく。
そうであったら、もうその時代は終わったということ。
あなたはあなた、わたしはわたし。
きつくても選んでいくしかない。
自分が自分らしく生きられない苦悩、これはスピリチュアルなものだと思う。
当たり前のことなんだけど、私は人間だ。
すいすい高速で気持ちよく飛ばすときもあれば、ぶつけて怪我して泣くこともある。
耐え切れない痛みの中にも意味を見出し光をみることもあれば、一瞥に傷ついて二度とその場所にいけなくなったりもする。
大量の文献をあっという間に読みこなして要約することもあれば、パスワードが思い出せなくてドアが開けられないときもある。
可愛いな、抱きしめたいと思うときもあれば、じゃまでうるさい、あっちいってろと思うこともある。
私は人間なのだ。
いいときも悪いときもある。
いいとこも悪いとこもある。
得意分野も不得意分野もある。
頭だけで生きているのではない。
体があるのだ。
心も持っているのだ。
心も体も、頭の邪魔をしてるのではないのだ。
みんなで協力して、私が私であるのだから。
I am a person.
悪なんか存在しないんだ!
この世は愛に満ちている!
本来の自己って慈悲に満ちたすばらしい存在なんだから!
というのは完全性を求めるキリスト教的態度らしい。
邪悪さを、そんなものは影に過ぎない、と徹底的に無視する態度だ。
気にもかけないし語ることもしない。
しかし本心はその存在を認めているのだ。
認めながらも、イヤというほどその不気味な力を知っているからこそ、無力化するために、あえて取り上げたり語ったりしてそちらにエネルギーを与えないようにしているだけの話だ。
自分の脳細胞やシナプス回路をコントロールして、ネガティブなものを排除してしまうのは、切り捨てることではなく、ポジティブに書き換えるだけのことなのだ。
ポジティブというのはどういうことかというと、自動的に感謝に切り替わるということだ。
病や別れや死のようなネガティブなものの意味を考えるまでもなく、すべてが感謝と受け取れるようになっているのは恩寵としかいいようがない。
病気で死にかけたとき、共感性に満ちた言葉で、優しい方から「どうして今、自分が」と無念に思われたことでしょうねといわれた。
不思議なことだけど、そのような問いかけは、はじめからまったくなかった。
自分は辛いというより、むしろほっとするというほうが強かった。
そして、私でよかったとさえ思ったのだ。
なぜならそれさえ喜びと受け取る自分がいたから。
ほかの人だったらどんなに辛く悲しい経験だろうと思うと、本当に自分でよかったと思ったのだ。
唯一の気がかりは、私の喜びを、残されていく人たちが理解しないことに対する悲しみだった。
死を悲しむことはないのに。
重苦しい肉体から開放されるだけなのに。
生老病死はすべて感謝だ。
どうも人と違いすぎて話がなかなかかみ合わない。
非常に主観的で学術的記述が難しい。
喜びの根拠は?ときかれても個人的経験に過ぎないし。
これはもう、私の美学だと言い切ってしまおう。
学問ばかりしてるから煮詰まってきた。
今日のスピリチュアリティ研究会でも、もう一人の演者が霊学の話をされるというので、まなみんはことさら学術的客観的に責めてみた。まなみんらしくなく。
最近の修行の成果もあって、まあやっつけられたかなとは思う。
しかし、なんというか・・・
うぎゃ~!!!!(欲求不満の声)
ようするに~知性や頭ばかり使うと、心とか感性とかが、俺たちにも出番をくれ~とわめくのです。
それで・・・
FREE HUGしてしまいました!
夢というと必ず私は踊りの舞台だ。
それも、メイクが間に合わないとか、衣装が見つからないとか振り付けを忘れてしまうとかそういうのばっかり。
今朝も、会場が変更になったと聞いていたにもかかわらず、会場名をうろ覚えで、住所もしらず、宿泊ホテルからタクシーで行こうとしても、なかなかたどり着けない。
一緒に行こうと思っていた娘はすでに先に行ってる模様。
連絡くらいしてくれたらいいのにと思いながら携帯にかけるけど、リハーサル中なのか、返事がない。
どうするんだ・・・
マンハッタンか香港かシンガポールのような街だ。
いつもこんな感じなんだけど、不思議にあわててないし、なんとかなるんだ。
しかし、なんだ。
今回遅れそうになってるのは、夢中になって論文を書いていて気がついたら誰もいなかったという、現実的な話だ。
夢中になってしまうと、そばで何が起きてるのかわからない。
聞こえないし見えていない。
フローになって時空を超えるというけれど、先日はっと気がついたらお出かけの時間30分もすぎていた。
車に飛び乗り、携帯で連絡しながら最高速度で飛ばして、15分遅れまでにこぎつけたけど。
この性格、どうすることも出来ず、今まで許してもらえてることに感謝。
仕事を完成させることもすばらしいけれど、この交響曲の美しさといったら・・・
はかない人生、遣り残してしまうことが多いことが推察される。
使命を全うしたいと望みながら、志半ばで倒れる人もいる。
完成させることがすべてではないのだ。
今、この瞬間に、どう生きているかが問題なのだ。
別に哲学したいんじゃないんだ。
気になってしまったこと・・・
今やどこにでもアタリマエになってるんだけど・・・
どうしてみんなやせたがるのだろう?
体が軽くて気持ちがいいから?
美しいから?
お洋服がスムーズに入るから?
涼しいから?(たぶん・・・夏はいいかも?)
省エネだって?
まあきっと、利点はあると思う。
でも、そのために費やすエネルギーと努力と犠牲を考えると、果たしてそこまでする価値があることなのかと考えてしまった。
こういうことを考えること自体、おばさんになったということなのだろうか?
小学校1年生のときに、クラスで2番目に体重が少なくて悔しかったのを覚えてる。
1番少ない子は身長も低くて小さかったんだけれど。
今思えば、拒食症っぽかったかもしれない。
細ければ細いほど美しいと思っていた。
食欲というものをまったく理解しなかったし。
母が心配して、飢えた経験がないからだとアドバイスされたみたいで、食事を与えないで食べたいというのを待ってみたら、一日中まったく食べないで平気だったらしい。
食べることはすごく面倒くさかった。
そもそも欲というものがなかったし。
何も自分に望むことはなかったから、人が喜ぶことをしていただけだ。
心理学を勉強するようになって、抑圧とか発達障害とかいろいろな概念を知り、そういうものかと自分を枠つけてみたけれど、どう説明してみても理解できなかった。
つまり、障害とは思えなかったのだ。
お誕生日はいつまで嬉しかった?と聞かれて、え?いつだって嬉しいよ。
年取ればとるほど、おお、ここまで生きられたのか~って思うし。
とか、どうも大多数の人と反応が違うらしい。
ま、いいではないか。
ま、しかし、やせたほうが踊りやすいのは事実。
といってそのために努力する気になれないのも事実。
必要なら必要なようになるだろうと思ってる。
こういうことを書き始めたらきりがないからやめようっと。
英国の医療事情をきいた。
医療費削減のため、治療見込みのない人には治療もしないし、無駄に点数を稼ぐための投薬や検査もないらしい。
だって、医療費ただの国だから。
日本はただじゃないけどめちゃくちゃ安い費用で医療は受けられる。
でもきっと、これが曲者で、金払ってるんだから・・・と、モノ、つまり検査や注射やお薬を欲しがるんだろうな~。
害のほうが多いのに。
こっそり大胆に言うけど、亡くなる方の半数以上は薬害だという話をどこか医療機関で聞いた。
(研究者の良心として言うと、根拠は調べておりません。が、経験的には事実だと思います。)
名医は、何も物理的なものに頼らないで、いるだけで治ってしまうような人だと思うけどな~
お話をゆっくり聞いてくれて、それだけ。お薬も何もなし。
安心感、あるいは病を受け入れることをスムーズにしてくれる存在。
極端に言えば、意味があると思える症状を取リ去ろうとせずに、楽しみいとおしむ。
結果として症状が消える。
そういう経験を何度もしてきた。
喜んで死に向かって感謝してたら、死が遠くなっていくんだ。
もちろんそういう場合だけではないと思うけれど。
だけど、きついときに、きつい検査はこりごりだな~
あれで弱ってひどくなるんです。
今のこの元気が信じられない。
感謝!!
内なる声とか、本来の自己・大いなる存在への気づき等、スピリチュアリティの覚醒にはいろいろな表現の仕方がある。
みんな同じ事を言ってるようだけど、強調点がちがっていたりする。それはその人の今必要なあるいは成長のプロセスに一番ふさわしい現れ方をしているということなのだろう。
だから、どれがいい悪いとか、どれがレベルが高いとか言うものではない。
それなのに、自分の慣れ親しんでいる文化や伝統などが優れていると思いたいのはかわいい人間の癖だ。
最近東洋の精神が見直されているけれど、そしてまるで西洋より優れている・深いという印象があるけれど、実は今までよく見えてなかっただけ。
東西で競うなんて馬鹿らしい。
大いなる自己という言い方をするとき、これはほとんど宇宙の秩序とかと同じものだと思う。
秩序や真善美は西洋であって、当用は混沌/全体性?何も従うものがないわけ?
じゃあ生きてる意味や目的はどから来るわけ?
無常ですか?
東洋では、CALLINGという使命感に目覚めるという体験は、ないのでしょうか?
まさかね。
まなみんにもわかるように説明してくださいな。
言葉にならないなんていわないで~
凡人は言葉にしないとわからないのよ~
言葉にしてもわからないかもしれないけど・・・
6月24日土曜日1時からスピリチュアリティ―研究会逗子にて。
研究会HPをご覧下さい。
レインボードクターもいらっしゃいます。
健康に長生きするほうが絶対によろしい。
がんばっても早死にしたら絶対的時間が少なくなる。
ぼちぼちでも、細々でも長く続けてたら何か見えてくる。
ここのところ、仕事以外でめちゃくちゃ忙しくて、何も出来ない日々が続いていた。
隙間で本読んだり出来そうだけど、研究って、没頭が要求されるからなかなかそういうわけにもいかなくて。
少し落ち着いてきたら、急にだるく眠くなって、何もしたくない、どこにも行きたくない感じ。
ずっと静かなとこで横になっていたい感じ。
今から始発で出かけることも出来るんだけど、休む勇気を奮い起こしている。
まなみん、ワーカホリック気味かも。
いくら必要なよい仕事でも、人間として一番大切ないのちや愛を置き去りにしていたら意味がない。
いのちや愛について研究しながら、この矛盾。
気づかせてくれてありがとう。
先日、フリーハグに関する学術的説明をという取材を受けた。
ついでだからと授業でそれを取り上げてみた。
予想通りのりがわるかった。
これが平均的日本人の姿だ。
握手でさえどぎまぎ。
取材班が説明してくれた日本人のフリーハグは、同じ場所で別グループがフリーハグ運動をやると、グループ間では決してハグしないんだとか。
フリーって????
大笑いしてしまった。
なに考えてやってるんだか。
学生たちの中ででてきた、若い女の子がいるとこでならいいかな、という反応のほうがまだ素直だ。
それに、何でグループでするわけ?
ひとりじゃできないんだろうな~
おもしろいな~
いろいろ考えさせられた。
まなみんは、あまりそういう衝動がなくなった。
実は疲れてうつになったのだ。
いえ、奥ゆかしく慎重になったのだ。
いえ、単に暑くなってきたからだ。
いえ、本音は・・・
フリーでなくて好きな人とだけハグしたいのだった、失礼。
でも、たいていの人は好きだわ。
でも、不潔なのは苦手。
病気扱いされるの、好きですか?
病気の種類によっては差別されそうだし、なんと言っても弱みだからあまり自慢したくないし、認めたくないのがふつうかしら。
レッテルを貼られたとたんにそういう風に振舞うという習性もあるしね、人間。
でも、何か症状があるときに、それを特定して対処したほうがよくなりやすいのも事実です。
専門家から鬱だという診断をもらえると、おおっぴらに怠けられるし、最近は、まじめないい人がなる病気というイメージもあるし、あまり悪くないな、鬱になりたいという人さえいます。
拒食症になったら確実に痩せられるからなりたいとか言う人もいます。
疲れたときに、病気になりたい人がいっぱいいます。
熱があったら休めるのにとか、風邪引いて寝込んでいたいとか。
そういう時はもう十分心が風邪気味ですから休んだほうがいいのにね。
早く休んだほうが早くよくなるからね。
問題は病気になりたくない人のほうかな。
俺は大丈夫だ!単なるなまけ心だ。
そしてがんばって、ますます悪くなって動きがとれずバーンアウトしてしまう人。
精神性はすばらしいです。お見事です。
病気だといわれたら一気に弱りそう?
病気っていうからいけないのかもね。
ここの部分がうまく機能していないみたいだからメンテナンスが必要ですね、くらいでしょうか。うまく機能するためにこういう方法が有効です、みたいな。そういうアセスメントは有効ですよ。
専門家はそういう目を持った人たちです。
でもね・・・
病気の人がいないと生計が成り立たないという仕組みがあって、病気を作ってしまうことも確かにあるんですよ。専門家にかかって悪くなったらご用心。退行現象とか、よくなる前にそういうことも確かにありますけどね。
病気ってメッセージだってことをお忘れなく。
論理的矛盾は正しくないとされる。
でも、スピリチュアリティを説明しようとしたらまったく正反対の性質が同時にあるんだから、必然的に論理的矛盾を生じてしまう。
内にあるし外にある。
高く深い。
無でありすべてである。
まったくもう~
これを言葉でどうやってあらわせって言うの?
むじゅんしてるっていわれてもね~
そういうものなんじゃ!
まなみんが超わがままで、同時に超愛他的なのと同じです。
これは単なる自己弁護。
お得意の論理の飛躍でございます~笑![]()
夏の暑い日に、日傘を差して歩いていて、向こうから差さないで尊敬する目上の方が歩いてこられたとする。
そういうときにどうするか。
まなみん的発想は、合理的に、「先生お暑い中ご苦労様です~」と傘を差しかけるのですが・・・
武士道の葉隠れに従うと、そういう行為は「たわけもの!!」(どういう意味じゃ?)となるらしい。
内村さんの本では、そういう時、気づかれないようにさっと日傘を閉じて、一緒に日にさらされるのが正しいだそうで。
それを読んでからは無教会派の思想についていけなさを感じて深追いをしなかった。
というか、日本的美学は不合理で気取りすぎで馬鹿らしいと感じてしまった。
こんなんキリスト教的じゃないぜ。キリスト教は「求めよさらば与えられん」だもんな。
我慢したり引いたりすることでなくて、足していく、与えていく思想じゃ。
内村さんの解釈は変すぎと思った。
(これを読んだのがもう何年も前でうろ覚えだから間違ってるかもしれないけど)
しかし最近、なぜかアメリカ人から日本の美学を教え込まれ妙に納得する日々が続いている。
日本人にとってはアタリマエになってしまっている習慣が、西洋流近代教育を受けたまなみんには腑に落ちないことがたくさんある。日本人は説明してくれない、なぜそうするのか。
説明してくれないばかりかこちらが説明しようとすると、
「たわけ!理屈をこねるんじゃない!!」となるんだな~葉隠れ的美学では、きっと。
それをアメリカ人的合理性で論理的順序良く説明されて、妙に納得する日々が続いているのだ。
合理的説明ではじめて納得するもんだから、仏教とかも外国人の書いた入門書が一番わかりやすいし。
天使語翻訳は、言葉になっていない日本的発想を、わかりやすい現代日本語で説明するという作業も含まれていると感じる、今日この頃。
ううううう、京都は深い。
北海道でも30度を越す真夏日だと聞いて、わ~地球温暖化もここまで来たかと、どこ行ったらいいんだろう・・・と将来を考えてしまった。
私は寒いのはいくらでも平気で、0度くらいまで暖房はまったく要らない人なんだけど、気温が25度以上になると不快指数が急上昇し、27度をこえると頭がきちんと働かなくなり、29度を超えると人間じゃなくなり、31度で意識不明となる。
単なるわがままだろうと思われるけど、まあそうかもしれないけど、肉体的な性質というのはそう簡単に変えられることではない。
そこで、これからの季節、室温設定にもめる日が続く。
つまり日本人のみんなが気持ちがいいのは暑くて我慢できず、私が気持ちいいのはみなには寒いらしいのだ。
アメリカのエアコンの冷やしすぎは確かに顰蹙ものだけど、あれに慣れていると日本の夏は耐え難い試練の季節になる。
いつか真夏の学会会場で冷房なしだったことがあり、意識が朦朧として何を話したかまったく覚えていない。我慢してて熱中症で倒れたこともある。それ以来、冷房のない会場や温度設定が地球に優しいところには行かないように心がけている。
温度は低ければ低いほど快適だというこの体、どうやって温暖化を乗り越えていったらいいのだろうか、真剣に北極圏移住を考える今日この頃。
したがって、朝4時から7時くらいまでが最高に元気なのです、やはり。
何が言いたいのかというと、人それぞれなんだよね~気持ちがいいと感じることは。
人にあわせると死ぬ人もいるんだよね~ということ。
似てるものどうしをよくみると違うところと同じところが見えてくる。
厳密に言うと世の中にまったく同じ物はない。
だから、同じだ!といいながら、違うものがすごく似ているねといってるに過ぎないんだ実は。
でも、同じだと思いたい。
同感です、というのも同じ事。
完全に一致してるわけではないけど、共感できる部分が大きいという意味だ。
そういうところにフォーカスした方が人間に関係はうまく行く。
でも、そういうとこにフォーカスするのは研究ではないらしい。
違っているところをきちんと説明していく態度が必要なのだそうで。
まったく逆方向で生きてきた私にとってはなかなかのチャレンジだ。
違いにこだわる男ってなんかかっこいい。
違いにこだわる女って?(ウザイ笑)
でも、違いを知るのも同じを知るのも、知るって事なんだ。そこが同じ。
違いと同じの違いは、アプローチの態度が逆方向だって事。
統合にはどちらも必要だって事で、お互い頑張りましょう。
そう、天の事だけ知ってても地上では生きていけないんです。
またとんじゃった。
聖書の強烈な命令だ。
喜ぶって命令されてするものなの?
実はそうなんだ。
なぜかというと、自然にただ外界に反応するだけでは、決して喜べないことが多いからだ。
自然にわきあがってくる心理的な作用(感情)と、意志によって作り出すもの(精神・スピリチュアルなもの)は違う。
この場合の意志は、個人的な自我とかスーパーエゴではないことに注意して欲しい。
もっと深く高いところ(内在かつ超越)からやってくる、あの意志なのだ。
その命令に従うことは、自我の努力と違って楽しいことなのだ。
だからまなみんはいつも楽しいのです。
喜ぶのは意志の働きで可能になるのです。
みんなもともとそのように作られている状態に戻ることだから、辛く苦しい訳ないじゃないですか。
誤解してない?どこか。
バックに入れたまま出発しようとして車が後ろに移動したからびくっとした。
後ろががけでなかったし、人がいなかったからよかった。
毎週20時間以上は運転してるけど(今年は減ったのこれでも)、ヒヤッとする体験は数知れず。
突然、まだこうやって生きていられることはなんてすごいラッキーな偶然の産物なんだろうと気がついて、おお泣きしてしまった。
壊れたパソコンがなおって、PCの威力をしみじみ感謝した。
目が見えることとか、こういう場を与えられてかけること、コミュニケーションできることも。
悩みで眠れないときにはその悩みのもとだっていとおしい。
だって、生きてるってことだから。
すごすぎる。
どのくらい不思議なことなのか、どのくらい確率的に起こりえないことが連続しておきて今があるのか、それを考えると、もう感謝で圧倒されてしまう。
本当のすごい喜びって言うのは、感謝からきてるんだ。
ついでに言うと、日本人対象の国際比較調査結果にはいつもがっかりさせられるけど(自尊心が低い、満足してない、夢がない、やる気もないなど)感謝してるっていう態度だけは高かったよ!
いいじゃないか!!
USAは卒業式の季節。
昨日は都内のアメリカンスクール卒業式に出席したんだけど。
まあ,しんみりと門出をいとおしみ振り返って懐かしみというのは同じなんだけど・・・。
校長の祝辞も理事の挨拶も総代のスピーチもユーモア満載で、理事がPPTで校長がロックやってる合成写真出したり、総代は壇上で自分でカメラ取り出して校長とピースポーズしていきなり撮影するし。全員さっと起立するよう指示されているはずなのに,示し合わせたように,校長の指示通り動かず大笑いだし・・・この学校だけの伝統ですか?
違うよね・・・去年は感動で泣いてたという記憶があるから違うと思うんだけど(自分の娘がいたからかもしれない)
いいな〜元気でるな〜と思いました。
が,ついていけない人にとっては,疲れるのかもね・・・
ついこののりで京都でやってしまいそうになり、し〜〜ん、しら〜〜となるのが見える。
けど
ねえ,笑って元気になろうよ。
て、まなみん笑い過ぎかも。
ちょっと前に,勝ち組とかいう言葉がはやってたけど,何でも笑える人が勝ち組かもよ。
遺伝子スイッチをオンにして(村上せんせのパクリ)、免疫あげて脳も活性化して楽しんじゃいましょ!
ロジャーズさんが自己一致というときの自己って,きっと自分が意識している自分なんでしょうね。その意識している自分と表現されている自分が一致していることかしら。
としたらやっぱり,本来性authenticityに近いというのもうなずけますね。
congruenceとか純粋性genuinessとかいうこと。
無意識の自分は含まれてないのでしょうか。
自分で何?という根源的なとこに追いつめられてきました。
ほとんどの場合自分だと思い込んでいるものは自分ではなくて、自分の思いや感情などから脱同一化していくと本来の自分が見えてくる。近づいていく。
けど決して到達することはない,だって,究極にはそれは絶対的な超越的存在そのものだから。
あああ、これはまた、「学問ではない,あなたの信仰です」
と言われるんだろうな〜
信仰を語って感動させても意味がない世界,むしろ邪道だと無視される世界なのだ。
どうやって証明するというのだ!
もしかして、神の証明と同じくらい難しいことをやろうとしてるのかな。
多くの哲学者が取り上げてる問題ではあるけど実証が問題なのだ。
どうやって?
どこまで迫れるんだろう?
スピリチュアリティ研究って,そこに行き着くんですね。
直感的にわかりきってることを理屈で説明する作業か。
難しすぎる。
でも、だからこそやる。
賢い選択というのは,多分自分の能力や適性を知ってそれに見合ったことで世のため人のために貢献できることを楽しむことだろうと思う。
賢くない人は,何も考えないでぱっとみでおもしろそう!かっこいい!でやりはじめて、こんなはずじゃなかった・・・と気がついてやめる。
こっちの方がよかったのかな?
と思って違うことをまたすぐにはじめて,あれ,こっちも結構大変じゃ。とやめる。
ふらふらしてるから結局何も身に付かなくて,何してるんだかわけわからない。
楽しければいいじゃな〜いというけど,そういうのが本当に楽しいのだろうか?
実はそういうのあまり楽しくもないから,また何か探してやり始める,この繰り返しになるのだと思う。
向いてないことを無理にして死にかけたことがあるまなみんとしては、無理するのに恐怖感を覚えるくらいさけている。
楽しいことしかしないという原則をいつの間にか持ってしまった。
それが結局正しいからだと。
楽しいことが正しいことだというとすごい誤解を受けそうだけど、きっと,楽しみの種類が違うんだと思う。
人が喜ぶことだったり,お掃除してきれいになる楽しみとか,仕事して得られる達成感だとかが楽しいから。
自分にむいてないことをするのは誰でも苦痛だとは思うけど、それを自分に課してみるというのも実はすごい楽しみだったりする。
不可能なことを可能にするというほど面白いことがあるだろうか。
向いてないから出来が悪い訳で、こんなことするより寝てる方がまだまし・・・
合理的に考えたらきっと,そうだと思う。
しかし,それが挑戦で修行で,なんか自分が磨かれていくのかと思うと,これはまたすごい楽しみになる訳で。
達人はきっと,向いてないことばかり選んでするんじゃないかと思うほどだ。
そこが自分にかけていることだから。
まなみんが学問する理由はそれです。
どんなに向いてないか,ようやくわかってきた今日この頃。
まなみんは実はわがままだ。
そんなことあらためていわなくても、わかってるって?
「やりたくないことはしない」
これです。
ここのところちょっと調子が悪いのはきっと、やりたくないことを無理しないといけない状態が続いたからだと思います。これ以上続けたらからだが反乱を起こしそうというサインがでてきたから、ヤバいと思って寝てました。案の定、風邪を引いたみたいです。
さわやかなお天気の中お散歩するとか、ヨガをやってみるとか、温泉に行ってみるとか、お友達とおしゃべりしてみるとか、そういう気晴らしで発散できるとこでやめておけばよかったのに。
ほかの人と同じように、努力というものをやってみたんだけど、やっぱり向いてなかった。人から言われたように努力すると、どうもやる気がなくなる。
つまりモチベーションが下がる、精神的エネルギーがなくなるのね。
つまり、自分にむいてないことをやろうとしたつけがくるんだ。
バカボンパパみたいに、「これでいいのだ〜、これでいいのだ〜」と歌いながらまた寝ることにしようっと。
念じたら通じるとか言う。
人の意識が時空を超えて伝わるのは確かだ。
スピリチュアリティを語るときに、祈りの効果とか天使とかには注目してたけど、ネガティブなものは無視してた。
お化けとか幽霊は怖いから。嫌いだから。
関わりたくないから。
英語でスピリチュアリティというときには、神と連なるものという意味があって絶対的に正しく美しく慈愛に満ちた完全なる善いものだ。
日本語で霊性というともっと範囲が広くて妖怪とか人の念まで入るみたいだ。
元々そういう概念だったのに、カタカナスピリチュアリティを使うようになってその辺りがはっきりしてないからどうもしっくりこないんだろう。
今度から断って使うことにする。
まなみんの言うスピリチュアリティーは、完全に善いものに連なることに限定しています。
それ以外をだめだとか研究しなくていいということではないけど,まなみんの守備範囲じゃないってことです。
これでずいぶんすっきりした。
西洋かぶれ?一神教的?
はいはい,そういうスタンスです。
使命感を感じている仕事や、愛する人が失われてしまったとき、あるいは実現する能力を奪われてしまったときに、人は生き甲斐を失ってしまう。
フランクルはそういう時にだって、自分が自分の人生には価値があるんだとする態度を選び取っていくことはできるという。
確かにその通りなんだけれど、理屈でそうだと理解して意味を感じていけるものだろうか。
客観的にみると、どうしても意味がないように思えることをやり続けるときに、どうやって意味を見いだして作り上げていくのだろうか。
これには一種独特の楽観性が必要とされる。
というか強力なストーリーの書き換えが必要となる。
根本的な発想の転換が必要となる。
つまり「自分ががんばって生きてるんだ」という当たり前の世界観を捨て去ることによってしか可能にならないんだ。
自分がここにいることは何かの大きな計らいの一部で、自分はたまたまここに配置されてるだけで、配置した存在が意味を持ってやったことに違いないんだからわからなくても意味はあるんだ、という根拠のない信念だ。
根拠がないというのは、データから検証できないという意味。
ただ、この信念を持つことで人が有意義に質の高い人生を送ることができるのであったら、そのことの真偽を問わなくても、従ってみたらよいのではないだろうか。
私に言えるのは、そのことだけ。
そして、その信念を持った人が、どのように質の高い人生が送れているかを観察して記述するだけ。
しかしその判断は、時間が経たないと本当にはわからない。
質の高い人生だと思えることは何に基づいているのか、その時代とか環境に規定されていることだから。
ユダヤ・キリスト教では、安息日と言って、仕事をしてはいけない日が週の7日目に定められ、その日はいっさいこの世的な煩いから解放されて休むことになっている。
極端な話、お金に触ってはいけない訳で、お金のやり取りや支払いなどもしない、食事の準備やあと片付けもしない、髪を洗ったりお風呂にも入らず、歯も磨かないという人もいたけど、そこまでいくとちょっと笑ってしまう。
でも、休むことが決まりになっているのはなぜだろう。
決まりにしないと、しかも定期的に、毎週なんだけど、そうしないと人間って夢中になってきっときりがなくなってしまうから。
からだや心を壊すまでやってみたり、周りが見えなくなってしまったりするからなのだろう。
どんなによいことであっても、必要なことであっても、ストップして立ちどまることが必要だ。休むことによって、実はもっと充実した仕事が持続的に可能になるし。
成果を求めたいのであれば、がむしゃらにやればいいというものでは決してない。
徹夜でやったとか、ずっと不眠不休でがんばってますというのは自慢にならない。
休みを取らなかったつけがそのうちでてくるに違いない。あるいはそのまま倒れてしまうか。そうすると永遠にストップしてしまう。
日曜日です。
ゆっくりしませんか。
何もしないであれこれ考えるということではないですよ。
さわやかな澄み切った空気の中お散歩して、新緑のまぶしさに生命の喜びを感じてみませんか。
本当に何気ない一言や慈愛に満ちたまなざしで、それだけで天国に行ったような気持ちになることがある。
つらくなった時にはつい引きこもりがちになってしまうんだけど、勇気を出してちょっぴり外に出てみたらいい。
少しだけ心を開いてみたら、ほんの少しだけ顔を上げてみたら、あなたを助けたい手が差し伸べられていることがわかるでしょう。
あなたの役に立ちたい、何かできることはないかしらと待っている優しいまなざしに出会うでしょう。
もし、万が一そうじゃないとしたら。。。
あなたが手を差し伸べたらいいんです。
あなたが優しくにっこりしたらいいんです。
実はこっちの方がもっと喜びが大きいんだ。
通はそのことを知ってるよ。
教えないけどね。
いい夢を見てね。
おやすみなさい。
よく自分探しの旅なんていうけど。
そして心理学系のワークショップで定番のテーマだけど。
素直な気持ちってなに?
自分らしくあるって何?
これがまあいろいろな段階と層があるみたい。
多分生まれたての赤ちゃんは自分らしくあるだろうと思います。
社会的自己なんていう借り物がないだけにね。
あるがままですね。
大人があるがままになるとき、一度赤ちゃんがえりしなきゃいけないのかもしれない。
そのまま止まってしまったら、周りは大迷惑だけど。
同一化してることを意識化してはじめて脱同一できるんだと思う。
かわいい自分にさようならをして。
どんどんどんどん次々にでてくる自分にさようならをしていくうちに、もとからそこにあった静かに微笑んでいる自分にであうのかも。
出会ったと思ってもまた社会的役割やら感情やら思考やらにとらわれた自分もずっと健在だからまた押され気味になる。
押され気味になっても、その深いところにいる自分を感じていられる限り、大丈夫。
ソレがもしかしたら変なやつかもしれないけど、へんかどうかは、今ここでの生活が充実して実り豊かになってくるかそうでないかでわかる。
木はその実によって判断されると聖書にある通りだと、ジェームズさんは書いている。
同感同感。
自分探しは神探し。
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