尾崎真奈美の天使語同時通訳します

2007年08月

コンシャス・ドリーミング

スピリチュアルな体験というと、昔は何か、変性意識状態になってトリップするというイメージがあった。
しかし実は、より自由に開かれた個人においては、まったく今ここの意識状態のままアクセスしていることが自然になってきつつある。

日常生活を実際的に送りながら、緻密に分析して言語化しながら、スピリットからのメッセージを同時に受け取っているのだ。

だからすべての所作がスピリチュアルな次元のリフレクションとなる。
どういうことかというと、愛と光に満ち溢れて、喜びがあふれてくるような状態が続いていくのだ。
他者やほかの命、すべてがいとおしく抱きしめたくなってしまうのだ。
同時に、無慈悲な乱暴な動作や言葉に対し、心が痛むのだ。
自分自身はほとんど傷つくということはなくなる。平安と安心感で満たされているからだ。
ただ、幼い人たちや、まだこの喜びに気がついていない人たちが、そのように傷ついているのを目にすると、痛ましくて涙がこぼれてしまうのだ。
喜びも哀しみも、深く深く感じるようになっていくのだ。
その感情に圧倒されながらも、静かに見ている目があり、これで良いのだという安心感があるのだ。

これが、コンシャス・ドリーミングというものだろう。
時にはいろいろなビジョンが具体的に見えるかもしれない、物理的に見えないものや聞こえないものを感知するかもしれない。
しかし、現実意識も同時にクリアなので、記述し表現することも可能で、淡々と話すこともできる。
何よりも、透明でさわやかで香しく穏やかな光に満ちている。

これが、憑依や狂気との違いだ。
大いなるスピリットはどんなに一体化したとしても、人格をのっとったりはしない。
いやな気持ちや、どろどろ、かげりや曇りや重さを感じたりするとしたら、つまり美しくないものであったら、危険なものである可能性が高い。

顔つきを見たらすぐわかる。
ぎらぎらときらきらの違い。
透明で風が吹き抜けるさわやかな暖かさ。

見たらすぐわかる。      見なくてもわかる。
読んだだけでわかる。    読まなくてもわかる。
何もしなくてもわかる。
理由はうまく説明できなくても、魂がNOというのがわかる。

幸せのパラドックス

幸せになりたいと思っていろいろなものを求め、得られたら幸せになれるかというと、実はそうではない。
むなしくなっていくのが落ちだ。
あるいは、もっと、もっと、と際限なく求め、貪欲になればなるほど、豊かになればなるほど、幸せとは程遠い気持ちに満たされていくのではないだろうか。
しまいには、自分が幸せになれないのは、恵まれすぎているからだ。
ものがありすぎるからだ。
などと、幸運に対してさえのろうようになってくる。

自分が幸せになりたかったら、ほかの人の幸福に夢中になっていくことしかないんだ。
つまり、ほかの人を幸福にすることに一生懸命になって、自分のことを忘れてしまっているときにこそ、すばらしい幸せを感じるからだ。

そこのところをみんな誤解している。
自分の病気が治るように、成績が上がるように、いい就職や結婚ができるように・・・
商売繁盛、家内安全・・・
こういうものを願うのは自然な気持ちだけど、これが達成したら幸せというものではない。

最新心理学におけるハピネススタディーでも、属性や物質的満足、達成や成功以上に、他者への奉仕が幸せに貢献していることを実証しているのだ。

うそだと思ったらやってみたらいい。
どんなに穏やかで平安な幸せが訪れるか。

マザーテレサたちがあんなに夢中になっているのは、この究極の幸せをつかんでいるからだ。

どんなに不運で惨めな人生であっても、他者への奉仕はできる。
何も持っていなくても、その微笑によって。
動けない状態であったとしても、その想いによって。

水の不思議

最近市民プールによく行く。

小さいオンナのこがパパに連れられて泳ぎの練習とかしてるそばで、わけわからないアクア体操(自己流)をしてみたり、フィットネス派に混じって、がんがんターンして泳いでみたり、ぼ~ッと浮かんで宇宙遊泳みたいなトリップしてみたり。

水は不思議だ。
すべてを溶かしてくれる。
顔を水につけたとたん、いるかになった気分がする。
ぼこぼこぼこ・・・ぶくぶくぶくぶく・・・
神秘の音の中で瞬間的に深いところにアクセスする。
泣き叫びたいような気持ちに襲われて叫んでみても、誰にも聞こえない(そのはず)。
泣きじゃくって目を真っ赤にしても、プールでは目立たないし。
キックするのも、流されるのも、思いのままだし。

服を脱ぎ捨てることと、水に入ることがどれだけ自然に立ち返らせてくれるんだろう。
水はすべてを溶かし込み、浄化して戻ってきてくれる。

清潔な水が使えることが、どれほどの感謝だろう。

Light,lighter,lightest

光あれ!
で世界ができた。
宇宙は光のない闇の部分が多いそうだけれど。

この地球は光に満ちている。
その光は、すべてのものを構成している原子の中で愛にうち震えている。
形を成さないけどでもわかる、風のようにどこにでも入り込む。
どこまでも行く。
どこまでもつながっている。
(正確に言うと、大気圏の中だけだけれど。中心に結び付けてる重力に感謝。)

Light はlight だ。軽いのだ。
光に近づいていくとき、重さが極小になる。
重さ、かげり、くもり(苦しみ、疑い、不安)をすべて脱ぎ捨てて軽くなっていこう。
風のように身を任せて漂って吹かれてみたらいい。
軽くなればなるほど、光が入ってくるのが見える。

spiritは究極の光 light つまりlightest なんだ。

もっと光を!
light!
Shine your light!
あなた自身が光であることを忘れないで。

う・ん・ち

お食事中の方ごめんなさい。
いきなりめちゃくちゃ苦手な話題ですけど、どうしても書いておかなければ。

告白します。
実は、わたしも・・・します。
(わ~わ~かいちゃった~どうしよう・・・)
でも、いつもは、そんなこと私には関係ないわって顔してます。
人事みたいに毛嫌いしてます。

でも、気がついてしまいました。
・・・がないと、しんじゃうんです。
それに
・・・が土に帰るからきれいなお花やおいしいフルーツができるんです。
だから
・・・はすごくありがたいものなんです。

(抱きしめてキスしたいとは思わないけど)
ごめんなさいね・・・ちゃん。

いやなもの、嫌いなもの、醜いもの、などなど全部が、実はすごく大切なものなのね。
本当にありがたいものなのね。
感謝だわ~

それを美しいお花やおいしいフルーツに変えて下さる大いなる自然に、こころから感謝。

すぴこん所感

すごい偏見を持っていたんだけど、招待されていってみたら、これが結構面白かった。
オーラもチャネリングも前世も生まれ変わりも、何にも知らないし、知らないように(笑)してたんだけど。

このブログの天使語同時通訳って言うネーミングは、実際に読んでいただけたらわかると思うけど、チャネリングや自動書記じゃないし。
期待されてた方には悪いけど、そういう意味ではめちゃ硬派だし。

知らないでモノ言っちゃいけないって反省させられました。
玉石混交って言うのは、何もスピコンに限ったことじゃないし、どの世界でも同じだわ。
そこで、直観的経験的にすばらしいものに出会えたらラッキーだし。

通訳が、アメリカ人講師が天国とか天といってるのを勝手に大地とか地球って訳してるのがすごく気になった。
日本人にはそのほうがピンと来るのかしら。
ゴシック建築のような天に対する憧れは、軽やかな天女の舞のように日本の中にもあるんだけど。
天に向かうのは男性性、地に向かうのは女性性。
双方があるからこそひとつになる。
ひとつにとけあうことを実感するには、踊りが一番。
そう思うのは私が女性だから?
いえいえ、男性的な激しい踊りもあるし、やっぱりからだはすごい。

この星で、光が確実に増していることを実感した、すぴこん。

この世の悪

天使としては、悪なんかない!

という立場です。
でも、じゃあどうしてこんな悲惨なことがおこるの?
人が傷つけあってしまうの?

辛いことや苦しいことは、もちろんたくさんあります。
でも、それは悪じゃないんです。
その原因になっていることだって、悪じゃないんです。

ただ、ただ、自分を守るために恐怖と恐れからそのように振舞ってしまうしかなかったのです。
ごめんなさい。
本当は怖かったのです。
助けて!って泣きたかっただけです。

でも、あんまり怖くて、その気持ちを認めることさえできなくて、ひどいことをしました。
その結果を認めるのが怖くなって、もっと、ますますひどいことをしてしまいました。

ごめんなさい。
すべての、傷ついた人へ。
許してください。

本当はすごくすごく、愛してるんです。
不器用で臆病な私を許してください。

心が壊れた時に

背負いきれないほどの悲しみや絶望感に襲われたときこそ
思い出して欲しい。

これは全部よくできた劇の一こまだってこと。

なかなかよくできた悲劇じゃないか。
作者は天才的だ。

さて、もっと臨場感を出して感動的な舞台に仕上げるぞ。って・・・

それでもきつかったら、視点を変えてみたらいい。
すべての悲劇は喜劇に通じているから。

なんて馬鹿なことしてるんだって
大笑いしてみたらいい。

号泣してみたらいい。
おなかが痛くなるほど笑ってもいい。

時はすぎていく。
必ず変化していく。

さて、次の場面はどのような構成で、どのような登場人物が出てくるのだろう?

お大事にしすぎないで

やりすぎると疲れて病気になるけど、実はやらないでくすぶってても、不完全燃焼して変な病気になる。

昨日の涼しさで調子を回復したので、久しぶりにフィットネスクラブでエアロビに挑戦してみた。
実は、センターの階段を上るだけで息切れしてめまいがしたから、不安だった・・・
無茶かな・・・と思いながら、のんびり流そうと思っていた。

で、軽く流していたつもりだったんだけれど・・・・
音楽とインストラクターにのせられて、結局がんがんやりまくり!
心肺機能がなぜか回復してきたみたいでまったくきつくないし、気持ちがいい高揚感でいえ~い!!
そうだ、これが必要だったんだ!

調子悪いときに、寝てたらますます動けなくなる。
どんなにきつくても立ち上がって、お散歩からジョギング、気持ちよい程度のヨガなどやってみたら実は元気になってくることが多い。
使わないでいると気持ち悪くなる。

精神機能も同じこと。
考えないでいても、あるいはどうでもいいこと考えすぎでも調子悪くなる。
楽しいことをがんがんやってたらエクスタシーまで到達する。
そう、チクセントミハイの言うフローだ。
気持ちがいいからどんどんやりたくなってくるのだ。
やらないとフローが滞るから元気がなくなる。
脳がぼける。

コツは、疲れたり無理したりしないことね。
楽しんで、気持ちよく。
そしてよく休んで。

ランナーズハイってよく知られてるけど、エアロビのハイも、病み付きになってる人ならわかるよね。
うん、もう、最高!!

健康法とかアンチエイジングとかダイエットとか

ありとあらゆる方法が氾濫している。

朝ごはんを食べよ!
やめろ!

生野菜をとれ!
やめろ!

炭水化物をとれ!
やめろ!

カフェインやめろ!
緑茶を飲め!
チョコレートを食べろ!

いったいどうしたらよいのよ・・・

いろいろ調べて経験してわかったことは・・・

①すべての理論は経験則と実験調査によるものだから確率的真実であって、100パーセントすべての人に有効という原則はない。個人差が大きい。(アレルギーなど顕著)
体質により、同じ人でも時期によりよいものとそうでないものがある。

②プラシーボ効果が大きい
非科学的だと馬鹿にしてるんじゃないのよ。意識の力の大きいことは科学的に証明されていますからね。


そして、スピリチュアリティも、ひとそれぞれだってことです。
方向が上でも下でも横でも、永遠の視点があるということは同じだから。
目に見えないものを大切にしてるってことでいいんじゃない?


というわけで、きょうはフルーツをやめて、昆布で丁寧におだしをとって梅干や根菜を入れて玄米お雑炊を作っています。
暖かい朝ごはんを食べろって言われて、すぐかぶれてるまなみんでした。
気温が下がったからできる芸当です。
皆様もお大事に。

1年中リゾート

北極の氷が、科学者が予測したより速いスピードで融けだしていると聞いてぞっとした。
暑さに弱く、ついに慢性熱中症になってしまったまなみんは、生きていけない。
一生懸命いいことを考えた。

そうなると、日本も南洋の小島になるんだ。
やしの木陰で~
フラダンスしてアロハ~するのかな。
そうでもしないとやっていけないから。
耕さなくても、フルーツがたわわに実るようになる。
仕事にならない暑さには、お昼寝するしかない。

早くそのことに気がついて、みんなでゆったりしたらいいな~
さからわないほうがいいよ。
勝ち目はないんだから。

まなみんはどうするかって?
ノルウエーに移住します。
フルーツ送って~

子どものスピリチュアリティ

海に行くと、大はしゃぎしている若者とは別に、何もしないで、ただじっと、海を眺めている人に出会う。
一人で、長い間じっとして、ただ眺めている。
人生の深みをと長さが増すとそういう時間が欲しくなる。

と、思い出した。

逗子に住んでいたとき、まだ5歳の息子が、時々夕方いなくなったかと思うと、じっと海を見詰めてたたずんでいた。
彼は、お友達がはだかんぼになって水遊びに戯れている中で、一人正座して暑い中じっとそれを見つめて決して仲間に加わろうとしなかった。

彼は何を見ていたのだろう。

その彼が、運転中に雲を眺めて赤信号で止まっている私に言う。
「空はいいから、車見てよ、危ないから」

子どものスピリチュアリティ、もっと観察されてもいいはずだ。

意志の働き

思考が現実化するとかって言う話がある。
思いは通じるとかっていうことも経験的によくある。

見えない世界が見える世界を支配してるんじゃないかって思うこともよくある。
見えないこと。。。
だから思いは大切にとりあつかわないと大変なことになる。
外界や行動や言葉くらいならまだコントロールできるけど、でも、思いをどうやってコントロールするんだろう。

結ばれない相手を好きになってしまったときに、どうやってあきらめるのだろう。
好きになってはいけないと思えば思うほど情熱の炎は燃え盛り、苦しむことになる。

戦ってはいけないのだった。
消そうとしてはいけないのだった。
そうすればするほど相手は強大になり、翻弄されてへとへとになる。

認めてあげよう。
観察してやろう。
役割を評価してみよう。
その意味を考えてみよう。
そうしたら、生産的で健康的な方向が見えてくる。

あとは、思いにかかわらずそういう行動をしてみたらいい。
一歩だけでいい。
できたらまた一歩歩いてみたらいい。
思いが残っていたら立ち止まってみてもいい。

決して振り向かないぞって無理したら、瞬く間に連れ戻されてしまうこともよくあるから。
しなやかに、感謝しながら進もう。

これが本当の意志の働き。
賢くて強くてしなやかな意志の働き。
アサジョーリのいう、意志の働き。

美徳の変遷など

もののなかった貧しい時代には、お弁当やお菓子など、一人で食べるのは無礼で、そこにいるみんなと分けて食べることが礼儀だったらしい。
そしてそれは、欲しくなくてもいただくのが礼儀だったらしい。
そういう習慣があると、道を歩いていて、のどが渇いたな~とかアイス食べたいな~と思っても、ほかの人がそう思わないと、買いにいけないとか、全員分を買って振舞う羽目になって経済的にきついからやめとこうとなったりする。

現代日本ではどうなんだろう?
アイス買ってこられると、乳製品アレルギー・ダイエット中・ドクターストップ・単に嫌い、だったりして困ることが結構あったりする。
アサーショントレーニングといって、そういうときにきちんと断れるような訓練をやったりもする。
こういうときにどうするか、実は毎日悩んでしまう。


最近「京言葉の人間学」を読んで、人見知りどころか対人恐怖・引きこもりになりそうな気持ちになった。
もしこれが本当だとしたら、自己一致しようとしている人は野暮の骨董で相手にされない。
恐ろしい世界だ。正直者は馬鹿を見る、世界。

もうひとつ思い出した。
学生にきいてみたんだ。
個人商店で買い物するのと、コンビ二やスーパーで買い物するのどっちが好きかって。
予想通り、98パーセントがスーパーコンビニだった。
話しかけられたらうっとしくてイヤだから個人商店で買い物できないという人がほとんどだった。
実は私もそうなのでほっとした。
世代の上の人から、仲良しになっておまけしてもらったりいいことあるとか言われたけど。
なんか億劫で、疲れてる仕事帰りなんか絶対できない。ストレスになるんだ。

でも、お散歩で知らない人にご挨拶はしてる。
それはたぶん、知らない人だからできるんだ。

でも、道を尋ねようとしたら無視されるのも悲しい。
にっこりきれいな笑顔で「恐れ入ります・・・」なんて丁寧にやるから、新興宗教の勧誘と思われてるんじゃないかって言われた、確かに。
東京では、「駅どっちですか?」って単刀直入にきかないといけないらしい。

美徳って何なのだろう。
歴史的地理的な条件から出来上がってきた必然的な風土だと思うものの、そして、郷に入りては郷に従えと思うものの。

なんか難しい世の中だ・・・

仕事も義務も何もなし

一人で自分だけのことを考えて生きていけるとしたら・・・
何の義務もなく、やりたいことだけしてたら良いとされたら・・・

何をしますか?
すごく幸せだと思いますか?

義務や責任に押しつぶされそうな重荷を感じている人は、そうなったら天国みたいだわと思うでしょう。
今までやりたくてもできなかったあれもしたい、これもしたいと、るんるんしてしまうでしょうか。

実験的にやってみてます。
ひとりで、誰のお食事も作らなくてもいいし、何をいつ食べてもいいし、いつどこで誰と何をしてもいいし、やらなきゃいけない仕事はまったくないし、お気楽お気楽~
ずっとずっと日曜日です。
夏休みです。

少し仕事中毒の傾向があったので、この際徹底的に何もしないでいます。
仕事がないと、すごい時間が広がっています。
でも、何もしなくても、あっという間に時間がたっていきます。
空想にふけっていたらいつのまにか日が暮れています。
寝転んでいたら一日終わります。

これが三年寝太郎の気分かな~って、楽しんでみましたが、
やっぱり退屈です。
修行が足りないようですね。

TVとかゲームとかする習慣がないから、どうやって時間をつぶしたらいいのかわからないのです。
マンガを貸してもらいました。
すぐ読んでしまいました。
そしてすぐ飽きてしまいました。

うるさいなと思いながらも、人に会いたくなりました。
今晩誰かがお泊りに来るそうで。

気持ちいいふかふかのベットを用意してあげたくなりました。
おいしいパスタを作ってみたくなりました。
急に生き生きして、起き上がりました。

誰かに、奉仕できる、喜んでもらえるって、なんて素敵なことでしょう。
仕事や義務がなかったらきっと、私、暇で退屈して死んでしまうでしょう。

ああ、もう休憩はこりごりだわ。
長すぎる夏休み、2ヵ月半。

信仰告白

お盆に実家に戻ったり親戚に行ったりして、久しぶりに、離れた家族と再会した方たちも多いことだろう。

クリスチャンになってからずっと法事というのが苦手で、偶像礼拝とか、信じてないものに手を合わせて拝むということができなかった。
トランスパーソナル学に触れてからは大きな変化があった。
戸惑って忠告してくれるクリスチャンの友人や泣いて祈ってくれる人たちもいた。
実は今は教会で信仰告白ができない。
正統派クリスチャンからしたら、少し異端っぽいのだ。
信仰に関しては妥協したり譲ったりできない。
安心させるために信じてるフリなんて出来ない。

でも、やっぱり世界観や価値観はキリスト教そのものなので、法事では戸惑うことも多い。
学者のような客観的な態度で観察している自分がいる。
クリスチャンの一人もいない環境で、和やかな会話を交わしながらも離れている自分を感じた。

まったく持って、一人なんだ。
でも、だからこそ、永遠で大いなるものにつながるしかないのだ。

エアコンなし大会

真冬にまったく暖房なしで過ごして平気だけど、暑さだけは苦手な私は、気温が25度を超えたあたりから脳が解け始めて機能しなくなっている。
あまりの暑さに人間でなくなる人もいるらしく、線路が曲がったり、熱中症でなくなったりする方があるだけでなく、犯罪率も増加するらしい。

まなみんは、我慢とか耐えることが大の苦手だ。
そういうことは体質的にどうしてもできない。
この暑さだって耐えられないからエアコン24時間付けっぱなし設定温度は23度だ。

昨日外に出たら、あまりの高温多湿にめがねが曇った。
サウナみたいだわと思った。
そこで一計。

今日はこの天然サウナを楽しむことにした。
水分ミネラル補給はたっぷりして、水風呂を用意して、一日エアコンなしですませてみる。
うちには、うちはや扇風機、網戸などというものがない。
エアコンなしで過ごしたことがないからだけれど。

朝からタイのグリーンカレーで気合を付けて、この夏2回目のエアコンなし大会はじめる。
誰か、一緒にやらない?

我慢することはできないけど、ゲームだったら面白いよ!

天使は元来ヌード?

服を着ないのが好き。
といっても、露出狂ではないよ。
人のを見たいという欲求もないけど。

家で一人のときは、脱ぎ捨てたくなって、結構そのままでいたりすることが多いことを告白しておこう。
からだを締め付けるものや覆うものがすべてうっとうしくて息苦しくなるのだ。

アクセサリーはもちろん、めがねとか自分の髪までうっとしく重く感じてしまう。
何もつけないのが本当に気持ちがいい。

最初はみんなそうだったんだ。
だから、一番気持ちよく安心するんだ。

もしみんながそうだったらどうだろう?
ヌーディスト村みたいなのがあるらしいけど、行きたいとは思わない。
ワークショップでヌードになって抱き合うっていうのもあるらしいけど、ちょっとそういう勇気は出ない。
みんなでやるっていうのにはどうも食指が動かない。
やっぱり、すごくプライベートなことだから。

機会があったら、せめて夜寝るときに、すべて締め付けているものを取り外してみてください。
一段深い安らぎが得られるから。
補償します。

ゲーム感覚

昨日はうちの近所で37度にもなる猛暑だったそうだ。
朝から暑すぎて、まなみんはそれなら今日はエアコンなしでやってやろうじゃないかと挑戦してみた。
いろいろな智慧を絞ってみた。
インド人風に瞑想したりカレーを食べてみたり。
シャワー・シーブリーズ・ミントのお風呂・冷えピタとか。

やっているうちに面白くなってどんどん暑くしてやれ!ッて、お料理やそうじに専念してみたりした。
じっとしてるほうが耐えられないんだ。
で、水風呂や冷たいシャワーより熱いシャワーのほうが気持ちよかったりすることに気がついた。

気温が25度を超えてからから23時間エアコン温度を25度に設定していた私としてはいきなりサウナに入ったままというほどの挑戦だったのだ。

でも、楽しかった!
できた自分が嬉しかった。

で、思ったこと。
避けられないことは、挑戦してみると楽しくなる、どんなことでも。
冷たいシャワーとかより熱いシャワーのほうが効果的なんだ。
これはホメオパシーですね。

寝る前にいつものようにエアコンつけたら、今朝起きたらのどが痛い。
窓を全開にした。

私は少々極端だけど、この意気で!
皆様乗り越えていきましょうね!!

おかしすぎる

喜びや楽しみはからだにもよいみたいだけど、
怒ったり哀しんだりは健康によくない。
でも、それを抑えると、ますます健康によくない。
じゃあどうしたらいいのか・・・

箸が転げてもおかしい年頃ですねといわれるくらい、まなみんはよく笑うらしい。
だって、おかしいんだもの・・・

気がついたんだけど、わたし、普通人が怒ったり哀しんだり気に病んだりすることが、なぜかすごくおかしく感じるのね。
なんていうか、小さいことで真剣になりすぎて寿命ちじめるの、みてたらおかしい。
ま、人それぞれだとは思いますけど。
まなみんが笑ってる間にすばらしい仕事を緻密にしてくださる方があるからきっと、世の中がうまくいくんですよね、どうもありがとうございます。

が、しかし・・・

今日はなんかすごい笑いモードです。

今、ピアスを取ったのですけど、何がおかしいって・・・
わざわざ痛い思いして、からだに穴あけて変なものつけて、金属アレルギー起こしたり、感染症になったり、なくしたって大騒ぎして探したり、つけたまま髪洗って怪我したり・・・
おかしいですよね~
どうでもいいことにこだわってるのが、本当におかしい。

で、ほんとに大切な、永遠にかかわることにはちっともこだわっていないんだから。
スピリチュアルっていいながら、彼氏をゲットすることとか仕事で成功することが目的って言うのもおかしすぎる。
ま、かわいいからゆるすけど。

エニアグラム診断

SQライフのエニアグラムをやってみたら、理想主義の研究者とでた。
他でやると個性的芸術家となることが多いんだけど。
それ自体なんだか矛盾してない?

自分がよくわからない。
タイプ論の診断をやると、対立した性格傾向の両方とも、非常に強くてなんて応えたらいいのかわからなくなることがある。

たとえば、決断力・実行力があり計画を綿密にこなすんだけど、同時に、思いつきでころころ変る人だし。

必要だ、正しいと思うことは、誰一人賛成する人がいなくてもはっきり主張するけど、それによっていじめやモラルハラスメントとかになると弱くて心身症になる。弱いくせに、言うことは言うんだ。

うっとり夢見がちで時間を忘れてぼ~としてることが多いのに、タイムマネージメントは結構完璧。講演とか1分も無駄にせず、ぴたっと終わらせる才能あり。

自分でもどっちなのかよくわからない、研究者なのか、芸術家なのか。
この前から研究ヤダヤダと書いてるのはやりすぎたからであって、やめて踊りとかに専念したらたらきっと、芸術ヤダヤダになると思う。
理想主義者というのは疑えないわ。

他者の意見としては、一致して、芸術家、なぜか。
たぶん研究畑の方が多いからだ、こういう話をするのは。
芸術家は、自分が自分であることで満足してて、ほかの人の思いやどう見えるかなんて関心ないんだから、タイプ論診断なんて関心ないもの。

天使病

目に見える世界では、がんばって集めたり取ったりいただいたりしたらどんどん増えてくる。

目に見えない世界では、魂のままにあげたり差し出したり奪われたり失われたりするほどどんどん増えてくる。

そう思って嬉しくなって、お金とか名誉とか地位とか学歴とか家族とか恋人まで!どんどん差し出すというのは、やっぱりお粗末かな。というか、この世では狂気にしかうつらない。
映画で見ると感動するけど、身内がそうしたらやっぱりやめさせるだろうな。
でも、口でやめろといいながら、自分自身がそういう生き方をしていたら何にも影響は与えられない。
これは天使病。

粗大な物質世界での法則も無視してはいけないね。
バランスバランス。
頭ではわかっているのですけれど・・・

20年後くらいに、天使病が大量発生しそうな予感がする。
そのときはみんながそうなったら、もう病気とは言わないし不都合もなくなるだろう。
その日を夢見て今日も粗大な世界でがんばります。

受容

受容ってなんて難しいんだろう。
透明になって判断を加えないで、相手のありのままをそのまま受け止めること。

人間だもの。
好き嫌いや強烈な価値観があるもの。

どこまで透明になればよいの?
カウンセリング論を教えながら、矛盾したことばかりいってて、ついには

「こういう矛盾したものがカウンセリングの真髄だ」

なんて意味不明な授業なんだろう。

ああ、この意味不明な人間たち。
これをそのまま、イヤにならずに、「そっか・・・」と鏡のように映すのか。
整理してまとめて、方向性を見つけて、直して矯正して、
明るく楽しく生き生きした解決に向かいたいよね。
誰だってそう思うはず。

解決指向って言うやり方もあるけど、基本はやっぱり受容みたいだし。
透明でなければ解決もありえないだろう。
自分色を出すのではなく、透明な管となって、ただただ、光を通すだけ。

でも、自由意志もあるのだ。
バランスも必要だし。

受容は諦めでも肯定でもないし・・・。
難しい。

煮詰まったときにはジョギングでもしてこよう、暑くなる前のほんのわずかな時間のうちに。

非合理

論理的・冷静に物事に対処し、戦略をシミュレーションして合理的な方法をとって結論を出せると、それはそれでうまくいったと思う。

あえて、非合理的で矛盾に満ちた現象そのものに身を任せてみる。
ずたずたになる。
めちゃくちゃになる。
翻弄され、巻き込まれてみる。

共感=あたかも自分がその人自身になったかのような経験、は、命がけだ。
決死の覚悟で向かうときに、何かが起きる場合もある。

何も起きない場合もある。

信仰が弱いからでも、やり方が間違っているからでもない。
それはそれで、よろしいのだ。

あなたがそこに今、ある、生きている、もがいていること
成功したらそのことを喜んだらいい。
成功しなくても、複雑な宇宙の歩みに参加していることを喜んだらいい。
生きているんだ、まだ。

自分に対する許し

「他人に対して寛大で自分に対して厳しくあれ」

これはきっと、自然の傾向に対する戒めだろうと思う。

でも観察していると、この言葉を追及して鬱になって動けなくなっている人が非常に多い。
他人を無視した自己中ももちろん困るんだけど、自分に厳しい人は表にどう現れていても、心の中では他者に対しても手厳しい場合が多い。
だから不満となり、手放した晴れやかさがない。

他者の過失は許すけど自分の過ちを責め続けている人がどんなに多いことか。
問題は責め続けることで何が得られるかということだ。
後悔・罪悪感・消極性の実は愛他性につながるのだろうか?
行動で判断できない。
いくらボランティアをしても親切を実践しても、罪悪感から自分を罰するための行為からであったとすると、それは愛ではない。
だから共依存といったゆがみや病理が生じる。

愛他性は、自分を許し愛することが基本。
虐待される加害者を許すことより先ず、自分自身を許すこと。
そうすれば、非人間的な待遇に耐えることが美徳でないことがわかるはずだ。

いじめに対し、「彼らはやってることがわかってないのだから」
「彼らも傷ついた過去があるのだから」
と許す態度は美しいかもしれない。
しかし自分を許していなければ、その行為を助長してストップさせる力にはならない。
それは愛ではない。
事実に直面することを回避した正当化だ。
加害者に対する愛は、その行為を自発的にストップさせることができるはずだ。

不完全な自分自身を許すこと。
それは、絶対的存在からの変ることなくすべての存在に注がれる愛に気がつくことによって可能となる。

自他を区別することなく寛容であること。
これこそが、spiritualなことがらだ。

どうしたらいいかわからない

そういうときには、
できることをしたらいい。

なにもできないとき・・・

寝ることができる。
息することもできる。

それでいい
それがいい
そのままでいい

欲求を手放すこと

欲深いというのは美しくないとされ、欲がないのが高尚な人間のような印象があるけど、実は欲求がないというのは深刻な病理だ。

寝たい食べたいという欲求がなければ、先ず、生命が脅かされる。
安全への欲求がなければ無防備に危険にさらされる。
愛されたい所属したいという欲求がなければ孤立する。
成し遂げたいという欲求がなければ何事も達成できない。
モノが欲しいという欲求がなければ、大切なものを剥奪されてもニコニコ笑っているだけだ。

さとりを得た人間は、決してそうではない。
非常に大きな欲求がある。
ただ向かう方向が凡人とは違っているだけだ。
そしてその欲求は一点に集中し、研ぎ澄まされて結晶化していくのだ。

欲求、モチベーションはいのちの源であるから、それをなくしてしまうことや戦うことはとんでもない発想だ。いのちをしぼませてしまうのだ。
欲求はスピリットの現れだから。
その向かう方向だけが問題。

ポリアンナの功罪

いいこと探しをして、どんなに気難しく悲観的な人たちもどんどん変っていって幸せにしていく、ポリアンナ。
彼女のよいこと探しゲームは、なくなった牧師だった父親が、聖書の「喜びなさい」を地で行ったものだけど、悪いことを見ないようにしているのではないか、そうしたらあとでツケが来るとか、表面的にしあわせを装う「ポリアンナ症候群」が大きな問題となっている。

ポリアンナ自身は決してそうではなかったし、もちろん聖書だっていやなことを切り捨ててみないようにしろなんて書いてない。

サウンドオブミュージックの「私のお気に入り」では、辛く悲しいことがあったときに、お気に入りを探して数えてたら素敵な気分になっていくよ、と歌う。
確かにそのとおりで、素敵な智慧だと思う。

でも、ポリアンナや聖書が言うのはそれだけじゃない。
苦難そのものの中に喜びを見るという意味だ。
歓喜の中で殉教していった弟子たちを見ればそれははっきり明らかだ。

いのちの奇跡を感じるときに、歓喜に満たされないことがあろうか。
そうでないとしたら、ただ、ただ、見えていないだけ。
すでに今ここに、そしていつもずっとあるのだから。
まったく、どうでもいいことに心を煩わせている小さな存在といったら。
ここにいる時間は短いのに。

貧乏や苦しさは比べられない

アメリカがエネルギーの使いすぎを非難される。
第3諸国の貧しさを思えば、何というわがままで贅沢をしてるのかと。

エアコン設定を抑えてがんばってるのに、何であんなに馬鹿みたいに真夏にセーター着るほど冷やすのかと。
確かに真夏に16度は外に出たときたまらないし、凍える。
では、25度だったら?
人によっては寒いという。
眠れずからだを壊す・・・人によっては冷えすぎで、人によっては暑くて眠れず。

生まれた時から年中16度で過ごした人にとっては、30度なんていうのは文字通り殺人的なのだ。
生まれた時から下水道完備で育っている人にとっては、そうでないところというのは地獄なのだ。
そのために登山が出来ない、旅行もできない人がいる。

貧しい人たちと一緒になって劣悪な環境で過ごす聖者はすばらしい。
しかし、清潔な環境で生まれ育った若者は先ず空気や水といった基本的なところでノックアウトされるだろう。免疫が出来ていないから下手すると命を落とす。それが修行だって?

出来ることと出来ないことがある。
甘えているわけではない。贅沢ではない。
慣れていないことは非常にきついのだ。
個人差があるのだ。

だから、貧しくて学校にいけない子どももいるのに・・・と不登校を責めることはできない。
パーティーで同じドレスを着ていくしかない屈辱と苦しみは、1枚しかないからだに合わない服が擦り切れて寒さがしのげない苦しみとは比べられないのだ。
前者のほうが自殺する可能性だって高いのだ。

貧乏や苦しさは相対的なものでは決してない。
人の苦しみは、それぞれの人にとってものすごく重い。
自分と比較して軽く見てはいけない。

ものすごい絶世の美女が、醜くて恥ずかしくて外に出られないという悩み相談でやってきたり、
1セッション1万円払って、お金がないことが苦しくて、やっていく自信がないというクライアントをカウンセリングしたりするとき、実感する。
彼らの悩みは非常に深刻なのだ。

プライド

博愛主義で与えてばかりで、自らの苦境を訴えず人知れず苦しむ・・・プライドだ。

独り占めして自分中心であることの間違いや醜さはわかりやすいけれど、その反対も健全ではない。

与えつくしてしまうという行為の中に、自責や自己卑下というゆがみを見る。
苦境を訴えず助けを求めないことが美しいとする美意識だって,その結果苦痛から晴れやかな笑顔が出ないのなら、美しくない。
本人がそれでよくても、つながっているのだから、そのことで結局世界が苦しむことに気がつかないという意味では、やはり自己中。

どのような善行でも、行き過ぎは悪だ。

プロフィール

尾崎真奈美尾崎真奈美

東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。ペンシルバニア大学医学部精神科、東京大学医学部公衆衛生学研究室などを経て、現在相模女子大学人間心理学科准教授、米国サーチインスティチュート、スピリチュアリティ発達センター客員研究員。
インテグラル心理学・スピリチュアリティ論・芸術療法などを教えながら研究、ダンス、執筆活動を続け、科学と芸術の統合を試みる。
天使語同時通訳は日々のインスピレーションの書き散らしである。
国際生命情報科学会、日本トランスパーソナル学会理事。日本心身医学会、日本トランスパーソナル心理学・精神医学会、国際ポジティブ心理学会会員。

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