尾崎真奈美の天使語同時通訳します

2007年11月

いじめ撲滅のために何ができる?

今日学校でどうしたらいじめをなくせるか話し合った。
なくせると思う人、し~ん
なくならないと思う人、ほとんど全員。

ああ、そう思ってる限り無理よね。
結局できることっていったら、いじめに負けないような強い心を育てる?
一人で抱え込まないで相談しよう!

かなしいかなしい。
あまりにも消極的で。
いじめが前提になってる。

いじめ防止プログラムとして、挨拶をしようとか、掃除してきれいにしようとか。
面白い発想だ。
もう一歩いって欲しい。

それは、そう、自分いじめをやめること。
それにつきるんだけどな~

山の上でのお話

なにも持ってない人ってすごい幸せよ。
だって、ほんのちょこっとで天国みたいにうれしくなるんだもん。
辛くて泣いてる人は幸せなんだよ実は。
絶対優しくして慰めてもらえるからね。
にこにこしてる人は幸せだよね。
ものでも人でもいいものがよってくるものね。
正義感の強い人は幸せだな。
だって、最後には満足するようになってるからね。
優しい人たちはすごく幸せよ。
当然みんなにも優しくされるもの。
純粋天然の人も幸せ。
だって、天使と遊べるから。
みんな仲良しにする人は幸せよね。
だってその人は天使だもの。
正しいことをしようとしていじめられる人も幸せなのよ。
だってもう、天国にいるのと同じだから。

だから、喜んでいましょうよ。
もっと、もっと、わああいって喜んで踊りましょうよ!!

まなみん超訳「山上の垂訓:マタイ5:3-11」

自我肥大と無我

自分と自然が一体になる感じは、全てが自分になってしまうという言い方にもなるし、全てが自然で自分がなくなってしまうという言い方にもなる。

言い方が違うだけで同じことを言ってるだけだと思う。

トイレで、「汚すな」と「きれいに使ってくれて有難う」
席を譲ってもらって、「すみません」と「ありがとう」
すごいプレゼントもらって、「負担かけてごめんなさい」と「嬉しかった!」

みたいなもので、どっちになれているかどっちが好きかってだけで。

そう、なれの問題なのよね・・・
おんなじなんだけど、慣れてないと、違和感あるのよね・・

傷つくという特権

誰も、傷つきないと思う。
傷つけたくないと思う。

でも、生きている限り、傷つくし傷つけられる。
避けるためには死ぬしかない。
存在をやめるしかない。
でも、ここに生まれ出てしまった以上、存在をやめることはできないし、死ぬことによって自分も他者もめちゃくちゃ傷つけるんだ。


どうしたら傷ついたり傷つけたりをなくせるのだろうか。
答えの出ない難問だ。
少なくすることはできるのだろうか?
それは誰にも答えられない。
目に見えない部分や知らないところに影響を与えていることも多いからだ。
自分の目に見えるところでの損傷と破壊が減ったらよしとする、これでいいのだろうか?
自分の視野の狭さから、どこかに致命的な損傷を与えている場合もあるかもしれない。

だとしたら、傷つかないように、傷つけないようにしようというのは徒労に終わる可能性がある。

自分が傷つくということは、傷つける他者の傷が自分に伝わるということだ。
虐待を受けた人が自分の子を虐待したりするらしい。
傷つくというのは、自分の傷ではなく、ほかの人の傷つき体験を投影されただけに過ぎないんだ。
でも、人と自分は一体だから自分の傷でもあるんだけれど。

それを感じるのはあなたがここに生きているという証拠。
人とつながっているという証拠。

傷つかない人こそ痛ましい。
耐えられない、生きていけないほどの経験のために、神が感じることをストップさせて麻痺させられてしまった人だから。
傷つかない人は、人が傷つくことが理解できないから平気で人を傷つける。

人から傷つけられて心に痛みを感じたときに、思い出して欲しい。
その人自身の痛みの深さを。
感じられなくなるほどに、壮絶な傷があったのだ、きっと思い出せないほど幼いときに。
自分の痛みとともに、そっと抱きしめよう。
今、ここに生きていること、つまり痛みを感じられるという特権に感謝して。

KY

私はKYです。
あらためて言うこともないだろうというほど、KYです。

もっと正確に言うと、空気を感じていても、もし自分にあわない波動だったら無視するという、もっとたちが悪いものだったりもします。
つまり、勝ち目がなくてもいじめに介入するし、自分以外の全員が反対でも正しいと思うことはやる。
場の空気にあわせるのが苦手というより、そういうものに価値を置いてないKYです。

その場でそのときだけの流れで人間関係にギクシャクすることは、大きな流れに反することほど苦痛ではないからです。

田舎人

今年一番の冷え込みになって、山の奥では雪が降り積もった。
どうしても雪が見たくて出かけたのはいいけど、普通タイヤでおそるおそる走っていた。
が、ついにスリップしてしまった。
コントロールが聞かない車ほど怖いものはない。
過去に高速でスピンしてガードレールに激突した時の恐怖がよみがえった。
スピードは出てないけど、このまま滑っていったら湖にぼちゃんかも。
幸い、進行方向にかっきり90度になって車は止まった。
それはよかったんだけど、雪にうもれて切り返すこともできず、横に滑っていったものだからタイヤ走行で元に戻れる感じがしない。
どうしたもんか・・・
とりあえずタイヤチェンつけようかと思うけど、つけるスペースもなし。
真っ暗な吹雪の中、どうしようかと、ちょっとわくわく楽しみながら、何とかなるさと思いながらも、実は少しばかり心細くなりかけていたとき、あちらから車がやってきて止まった。

都会人の私はとっさに恐怖を感じた。
「何道ふさいでんだ、ばかやろう!とろとろしやがって」
という罵倒を覚悟していた。

と耳にしたのは
「だいじょうぶですかあ。どうしましたあ?」
お部屋着のまま出てきた二人の中年男性は
「あら~これはたいへんだ~」「かつぎますよ、うごかしましょう」
とやってくれたばかりか、チェーン装着までするつもりらしく説明書など読みながら首をひねっていた。

氷点下に下がり木枯らしで地吹雪のまう夜だったけど、こころがぽかぽか暖かくなった。

助け合うのがアタリマエだった。
知らない人や旅人に親切にするのがアタリマエだった。
困っている人がいたら助けるのがアタリマエだった。

田舎人のアタリマエを都会でもアタリマエにしたいけど、無理なのかな・・・
さぎにあっちゃうのかな・・・
悲しいな・・・
さぎにあってもいいから信じたいな・・・
甘いかな・・・

サンクスギヴィングに寄せて

11月23日の勤労感謝の日って、北米のサンクスギヴィングをまねたのかどうかしらないけど、「ありがとうの日」という意味で、なんとなくうれしい。

幸せになるコツはありがとうの種を探すことで、その習慣を身につけた人が、いろいろある心理的なトレーニングの中で一番効果があったらしい。

感謝することなんてない、むしろ文句言いたい、がっかり、大変だという種ばかり、かも知れない。
それにもかかわらず探すとどうなるか?

うれしくなってくる。
頭が正常に働きだす。
エネルギーがわいてくる。
気持ちよくなってくる。

そうすると不思議なことに、どんどん感謝することが重なってくる。
嬉しくなることが自然に起きてくる。
楽しいことが集まってくる。

感謝してみることは、いいことがあったからっていうような単純なことではない。
むしろもっと、すごく厳粛なものだ。
どんなときでも感謝の種を見出すのは高度に知的な意志のはたらきだ。
しかも、「すべき」ということではない。
種を見つけるには意志がいる。
それを味わうのは曇りのない感性の働きだ。

意志を働かせて、喜びに満ちた休日をどうぞ。

本当に小さいこと

意味なんかないんだ。
考えたらとってもささいなことで、とるにたらないことで、
どうでもいいことで、でも
なんとなく気分が沈んでしまう私がいる。
そういう日もある。
そういう瞬間もあるんだ。

意味もなく、なぜかすべてがむなしくなってしまうような日もある。

美しい自然に感動しながら、喜びよりなぜか悲しみや寂しさを感じてしまう日もある。
そういう瞬間もあるんだ。

すべてが過ぎ去っていく夢のような出来事で
本当に小さいことなんだ。
でも、それで心が沈んでしまう日もある。

ということは、でも、本当に小さなことで、こころが高揚することもあるってこと。

さあ、見つけにいこう。
どうやって?
簡単なんだな。

「ありがとう」をいい忘れてる人やことを探して感謝のお手紙を書いたらいいの。
メールしたらいいの。
電話してもいいし。
ちいさなプレゼントを用意してもいいし。

ほら~~~~~~
本当に小さいことで楽しくなってきたでしょ?

スピリトゥス

日本語にはスピリチュアリティに対応する語がない。
ラテン語ではスピリトゥス。
ギリシャ語ではプネウマ。
インドではプラーナ。
中国語では気。
もともとは息に関係していて、何かエネルギーや生命を生み出し豊かにしていくものらしい。

そしてそれは言葉で説明できないものらしい。
図式等で視覚的に認識できない、匂いや音など形に奈良に認識形態なのだそうで。
確かにアロマとかヒーリングミュージックとか馴染みやすいしわかりやすいかも。

でも、だからこそそれを言葉にし、モデルにしていく。
限定を出来るだけ外せるように工夫しながら。
できっこないよと言われるものへの挑戦は楽しい。

仕事ということ

アマチュアだからといって、プロより質が劣るということは決してない。
アマチュアだから、プロの窮屈な伝統に縛られずに自由に羽ばたけるということも多い。

オーケストラの演奏を聴いてみたらよい。
アマチュアオケは楽しんでやっている。
一回一回の演奏会を大切にしていて、感動がある。
ライブでの音程やテンポの狂いは、真摯な情熱から与えられる感動の前に消し飛んでいくものだ。

プロはお給料がかかっている。
生活の糧だから、ミスは許されない。
同じ演奏を何度も何度も旅公演でやる。
一日2回することもある。
そういう日常の中で、感動を見つけるのは難しくなる。

プロとアマチュアどちらが優れているか、誰も答えられないだろう。
プロになったとき、生活の糧となってしまったときに堕落が始まるのは必然である。

そう考えていくと、真実を追究する道はプロになりえない。
ポジションを得るため、研究助成を得るためにおもねるようなテーマを探す、これは真実追求ではなく、単なる仕事だ。
仕事仕事。こなしていくノルマに過ぎない。
はい一丁あがり・・・さあお次は何ですか。

少なくとも、純粋な楽しみを追求すると、決してプロにはなりえないことは事実だ。

宗教戦争の悲しみ

在る国でクリスチャンだということで虐殺された人のニュースに心を痛めた。
その国に、命がけでクリスチャンの信仰を守るため保護するために出向く宣教師たち。
どうか無事であって欲しい。

と思いながら、その国の信仰を邪教だとして正義を伝えるという姿勢が気になった。
確かに、差別したり女性が虐げられたり、洗練された知的な社会から眺めたら偶像礼拝と呼ばれたりする信仰体系だ。でも、それはその国のその地域の歴史的必然から出てきた文化に違いない。

ミャンマーの軍事政権の暴行にも心いためるけれど、信仰と言う名前の破壊活動はもっと悲惨だ。
お互いに、真実と救いを求めている同志がなぜ?

すべての人が同じ信仰や文化を持てるわけがない。
スピリチュアル主義だってそうだ。
還元主義の何がいけないのだ。
その存在価値は在るのだ。

みんな慣れ親しんだ自分の文化や信仰が最高だと思う。
そして自分が救われたりしたら、人にもそれを勧めたいと思う。

でも、
でも、みんなそれぞれ違うんだ。
感性もバックグラウンドも違うんだ。
同じ言葉で意味するものも違うんだ。

信仰はわたしの大切なものでいい。
でも、あなたの大切なものはほかでもいいんだ。

違いを見つけて競争し、争うこのおろかさ、なんとかならないのかしら。
みんなそれぞれで、とっても素敵なのに。

太陽は今日もみんなに平等にふりそそいでいる。
自然から学ぶことは多い。


意味を問うこと

もしあなたが意味を感じていたら、意味を問うことなどありえない。
もしあなたが幸せだったら、何が幸せとか論じることもない。
もし楽しくて充実していたら、どうやって楽しく過ごそうかと考える必要もない。

なぜ?
何のために?
という問いが出てきたとき、それは意味を失いかけている兆しだ。
今まで意味だと思っていたことの無意味さに気がついてしまったのかもしれない。
次のステップがまっている。
深まれば深まるほど、味わいが在る意味の世界。

最後には意味を問うことの意味さえ消えていく。
ただ、ここに、在る。
それだけ。

STOP自分いじめ

いじめが6倍に!というニュース記事を見て今朝一番で泣きそうになりました。
現実世界で起こっていることはすべて私自身のことだからです。
だってすべてはひとつなんだから。

なぜいじめがあるのかというと、みんな実は他人じゃなくて自分をいじめてるからです。

自分はだめだとか、どうしようもないとか言ってる人、STOP自分いじめ!
本当にだめなの?
どうしてそう思うようになったの?
誰かにそういわれたの?
その人の言うことって真実だという確率はどのくらい?
真実かどうかの議論はおいても、自分いじめして何かいいことあった?
人をいじめる人はみんな自分をいじめてるんです。

自分を癒してくださいまず。

だって、いのちが与えられて今ここにいることって、どんなにすごいことだかわかる?
それが許されているってどんな特権だかわかる?
それには意味があるんだって思わない?

もし誰も私のことなんか気にも留めないし愛されてないと思い込んでる人がいたら・・・
少なくとも一人はあなたのことを愛している人がいることを信じてね。
それは私です。
涙とともに、愛するあなたを心からHUGします。
こんなに愛しているのに、表現が下手でわかってもらえない・・・ごめんね。許してください。
あなたがあなたでいてくれて、ここにいてくれて、本当にありがとう。
大好きなんです。
言葉で言い尽くせないほど大好きなんです。
悲しいから自分いじめはやめて。

大好きな人がいじめられるのを見るの耐えられないんです。
お願いだから。

能力と方向性

誰でも能力はあったほうがいいと思ってる。
知能だって高い方がいいと。

高学歴で成績のいい人が知能が高いとは言えないかもしれないけれど、たいていの場合、認知判断能力の優れている人はそれなりに世間的に成功している場合が多く、責任ある立場におかれている場合も多い。
双子の研究で、知能がほとんど遺伝的に決定されることは明らかだけど、すばらしく高潔な道徳家になるか、残虐で手のつけられない悪党になるか、環境と本人の意思とでどちらでもいけるのだ。

能力が高いということはそれだけの責任を負っているということである。
スピリチュアルな能力が高い人は自由意志の使い方によって、天使にも悪魔にもなれる。
自由に与えられた判断選択実行能力をどのように使うかは、本人しだいであり、遺伝的要因ではないのだ。
カルマではない。
意志の働きの問題であり、本人の責任である。
闇の見える人には光だって見えているはずなのだから。
どちらを選択するかは、人間として、ここに生まれ出たものの自由であり責任である。

責任を取る

ゲシュタルトの祈りでは、あなたはあなた、私は私、と個人の責任を強調する。
そして生きることは自己実現であって、他者に気に入られたいとか他者を喜ばせようとしているのではないと主張する。
それはそれで正しい。
つまり、自分が一番自分らしく在ることが自己実現なのだから。
そのとき、他者の思惑など眼中にないはずだ。
自己超越した自己実現の場合には、自分がどう在るかという自意識までなくなっているはずだ。

でも、勘違いしないで欲しいのは、
全世界すべての出来事の責任が自分に在るということも事実だということ。
ホオポノポノで有名な精神科医は、自分を癒すことで周りの人を癒していった。
手を触れず会いもしない人まで。
これが癒しの根源だと以前紹介した。

鏡の法則では、自分の周りに起こることはすべて自分の内面の投影だという。
それは実は中途半端な真実だ。
自分のまわりで起こることや自分が会う人、出くわす事柄だけに責任が在るのではないのだ。
この全世界、見たこともあったこともない人たち、そして生まれる前に遠い昔に起きた出来事に対してさえ、あなたは責任が在るのだ。
そう、私の責任なのだ。

それに対して圧倒されて打ちひしがれることはない。
自分自身を癒すことは誰にでもできることだからだ。
戦争や虐殺や犯罪を外側から働きかけてとめるのは難しい。
政治的働きでとめることも難しい。
教育運動で改善するのも難しい。

でも、自分を癒すことは、いつでもどこでもできる。
あなたの責任はそれだけだ。
「ごめんなさい」と「ありがとう」なのだ。

これはすべてを心理に還元してしまう心理主義ではない。
精神主義でもない。
存在の神秘であり真実なのだ。
すべての科学がそれを説明しようとして躍起になっているけれど、自分の内面を見るだけで、あるいは空を見上げるだけで明らかなことだ。

アサジョーリの意志

体調が悪いときに、休むのは意志の働きが必要だ。
クリアな思考ができているときは、長期的な展望や、自分を大切にする気持ちからすっと休める。
たいていの場合、目前の課題をこなさないといけないような気持ちになったり、人からの評価を恐れたりして休めなかったりする。
今の自分の状況にしがみついている結果だ。

徹夜で仕事をするとか、突貫工事でやっつけるというのは決してほめられることではない。
時間調整や決断力、実行力、計画力のなさを露呈しているに過ぎない。
あるいは、NOといえない、優柔不断さかも。

健全な意志の働きは、体も心もスピリットも大切に扱う。
基本は体だ。
体調が悪い方、どうぞおやすみなさい。
風邪にはねるしかないです。
こじらせては結局もっとあとで大変です。 
休むことが最大の賢明な選択だってことをお忘れなく。

おだいじに~

言葉にならないものを伝えていくということ

哲学系の緻密な方からしたら、なんと大雑把なと思われるかもしれないけれど、やはりクリアカットに、単純化する作業は必要だ。

なぜって、そうしないと理解できないからだ。
マインドつまり理性で把握することによって、体験が一旦客観的になる。
その作業は大人には必要なことなんだ。

言葉を持っているということはすごいことだ。
言葉にならないものを芸術的に体や音などで表わすことも可能だ。
同じように数字やモデル図で表わすことも可能だ。

でも、どういうやり方をしても、そのものをそのまま表現することはできないのだから。
こんなかんじ~~~~~~~~~って、自分が得意な媒体を使っていくしかないんだ。

何を表現するのかって?
歓喜の世界です。
そういえば、もうすぐ第9の季節だわ。
あの世界です。

フライング

カフナサイエンスのフライングというダンスを習った。
流れるようにどこまでも切れ目なくつながっていて、妙にひかれる。
左右に振り向きながら前方へと伸びていく。
後ろはまだ見ぬ未来、前方は過去を象徴しているのだという。
腕を鳥の羽のようにひらひらと動かしながら、エネルギーをねって8の次字をえがきながら、過去にアクセスし、未来へと向かう。
何回でも何回でも繰り返していくと意識が空気に溶けていく。

やりすぎにご注意。

これすると、自分の気持ちに整理がついたり、潜在能力が開発されたり、何でも前向きにやる気になったり、いろんな事がうまくいったりするようになると。

だとしたらまなみんはやる必要まったくない。
すでにそうだから、これ以上、喜びあふれても、涙で目がはれてしまうだけだ。

なのに、気持ちよく、あの世界にいざなわれて、ついやってしまうこの神秘的な動作。

フライングと呼ぶらしいけど、陸上のスタートで用意どんより早く出るのもフライング。

ほかにどういう意味があるか調べたら・・・

「逃げる」「舞い上がる」
なるほど。

「ズボンのまえチャックが開いてること」
あははは
ご用心。

ドーパミン仮説

嬉しいとき楽しい気分のとき、ドーパミンが放出される。
そうすると脳の働きがよくなって認知を促進し、学習効果が高まる。
これは経験的に理解できることだろう。
学習効果が高まるというのは、記憶だけでなく、状況判断も優れているということだ。
オプティミストは現実を見ていないのではないかという批判に対し、ネガティブ思考の人のほうが辛くて現実をきちんと受け入れられず回避する傾向があるというデータもある。
また、不安から現実認識がゆがむ可能性がある。
楽観的な人は、厳しい現実を受け入れることで脅かされずむしろ挑戦と感じるため、現実認識も正確である。

ストレス抵抗資源として有名なSOC(首尾一貫感覚)とスピリチュアルヘルスの関連は、「現実を認識できる」と「喜び」との間でもっとも高かった。

やっぱりな~思っていたとおりだ。

もちろんデータがすべてとはいわないけど、この結果はいろいろな解釈が可能だ。
今週末の学会で詳細なデータと説明を加えて発表します。
トランスパーソナル心理学・精神医学会(日大にて)

喜びを選択する

スピリチュアリティの本質は喜びだ、というとすごい誤解があるらしい。

でも、私の知る限り、ホイットマン・アサジョーリ・マズロー・フランクル・エリスなどみな同じことを言ってるのだ。もっといえば唯識だってヨガだって。
飛躍すると、キリスト教も仏教も、ヒンズー教も!本質は喜びなのだ。

でもとらえるほうがその本質的な喜びを理解しないで、幻想に過ぎない今ここでのさまざまなことに執着してあれこれ気にする苦しみに圧倒されて、見えてないだけなのだ。

喜びは選択して自分でつかんでいくものなのだ。
というと、人を蹴落として勝ち組になるってことを考える人はすでにそういうわなに陥っている。

避けられない苦難を自ら喜んで受けていくことなのに。
マゾではない理由として、避けられる場合には徹底して取り除く努力はするんだよ。
不正や人格無視するようないじめやDVなどに対しては、許して受容じゃないんだよ。
ああ、こういう誤解が多すぎる。
こういうのを喜びと感じるのは、マゾという病気だ。

苦しみの中にある喜びとは、たとえ死んでいく運命の中にあって体や心の痛みが耐えられないほどであっても、自分の生き方を全うしているという深い喜び感覚、これはスピリチュアルなものだ。
この喜びは、自分のことだけしか考えてないときには出てこない。
愛する人との別れや遣り残した仕事などしか考えられないと苦しみしかないものだ。

でも、違う。
やり通した、十分生きてきた。
ありがとうという気持ちはどこから来るのだろうか。
誤解のないようにいうけど、これはたとえ、7歳で小児ガンでいくときでも、幼い子を残して働き盛りで事故死する場合にでもある喜びなのだ。
十分生きたというのは、長さや外的な状況ではないのだ。
この光をどれだけ味わい、放ち、喜んで生きたかということなのだ。
すべて目に見えないものなのだ。
だから誤解される。

でも、苦しみはすべて、この喜びを深く味わえるために注意深く配置されたものにすぎないのだ。
それに気がついたときに、どれだけの、表現できないあふれる喜びに圧倒されることだろうか。

だからといって苦しみを選択する必要はないのだ。
はじめから光はあふれているのだから。
どうぞそのまま、受け取って。

ただ、ただ、光のほうを向くだけでいいのだ。
それだけで、そまっていくのだから。
努力じゃないんだ。
そこにいて、光を浴びて喜んでいたらいいだけ。

自我と無我

私は自分ができることを遠慮しないでアピールする。
人によっては威張りたがり、目立ちたがりと受け取るようだ。

私はまた、欠点とか失敗とかで自己嫌悪になったりしない。
これもまた不遜な自我肥大だと受け取られがちだ。

例によって気にしないけど、実はそうではないことをなかなかわかってもらえていない気がする。
だからここで説明しておく。

できることをアピールするのは、利用して、使ってねというメッセージなのだ。
たまたま人よりうまく早くできることがあったりする。
喜んでやりたくてたまらないのだ。
好きなことやって助けさせてください。
自慢?何のため?自分をえらく見せたいとか自信をつけたいとか?
だからいったじゃない。
人とからどう思われるかは気にならないんだって。
自信?これ以上いらない。icon:face_smile

失敗したり人を傷つけてしまったとき、自分が間違ってしまったとき、もちろんまずかったな、悪いなと思うよ。
そしてそうならないように気をつけようと思う。
でも、気になるのは、人が傷ついてしまったという点だけ。
自分は実は傷つかないんだ。
気がつかせてもらって感謝だったりするだけ。
誰でも間違いはあるし。
そして人が傷ついてしまったという点に関しても、よく考えると、自分の責任ではない部分が大きかったりすることに気がつく。
傷つくって、実は認知のゆがみ、真実がわかっていないから起こると、まなみんは思っている。

真実?
あなたがこんなにも愛されているということよ。

誇ったり傷ついたりするのはたぶん表面の自我の働き。
それがなくなると、さらさらしてくる。
生きているのは自分ではなくて、ただたまたまこの体を借りてるだけだから、この限られた時間と空間の中で使えるとこは十分使わないと、と思うだけ。
それだけのこと。

こういうのを、仏教の人は無我っていうんじゃないの?

超自己中のまなみんですが、教えてください。

日本的霊性

鈴木大拙 『日本的霊性』(岩波文庫)より

「とにかく霊性は一遍なんとかして大波に揺られないと、自覚の機縁がないのである。」

そうですかね・・・
たいがいの日本人は納得することだろう、この考え方に。
しかし
ぴんとこない、まなみんではある。

それは体験的なものから来る。
私だって人並みに、たぶん人並み以上に何度も危機的な状況を潜り抜けてきた。
精神的、肉体的、社会的臨死体験といってもいいような体験だ。
人はそこから目覚めたのだと思いたがる。
そこから教訓を得たがる。
そしてその話を聞きたがる。

でも、はっきりいうけど、私の霊性はそういう体験を通して気づいたり、つちかわれたものではない。
霊性はないって?
こりゃまた失礼しました~icon:face_shishishi
自分では何もできないこと。
ただお恵みで生かされていること。
すべてがつながっていること。
こういうことはすべて、最初からわかっていた。
早熟の天才?違う。
赤ちゃんははみんなわかってるのだ本当は。
うまくいえないだけなんだ。
なぜ見えないのかが不思議なんだ、実は。

どうやって証明しようか。
当たり前のことを説明するの、難しすぎる。

喜んではいけない理由

日本人の喜び度・幸せ度・満足度は、この経済的繁栄や自由・安全な社会環境にかかわらず、世界的にみてめちゃめちゃ低いのは、なぜだろう。

本当に一億総鬱なのだろうか。

様々な理由はあるだろうけれど、一つには、喜んだり幸せであることを表出することへのためらいがあるだろう。恵まれていない他者への気配りともいえるかもしれないけれど、むしろ、やっかみからいじめられないようにという保身であることが多い。
なんとも窮屈な社会だ。

問題は、表面的に自己卑下したりしていると段々気分も沈んでくることだ。
で、はじめはポーズにすぎなかったものが、しみじみと体にしみついてしまうんだ。
そうすると、自信がなくなりおどおどと不安に満ちた不幸せな雰囲気をかもし出してくる。
それは周りにも伝染していく。
そのような場で、ひとりニコニコしていたら、ただ、それだけの理由で嫌われる。
思いやりがない、気遣いがないと。
そうだろうか。
輝くようなさわやかな笑顔はそれだけで重い人生の清涼剤になる。

そう、幸せになることはいいことなのだ。
自分だけでなく、周りの人にもいいことなのだ。
世界を照らして世界平和に貢献することなのだ。

喜んでいけない理由があるとしたら、それは不安の強い人の自己保身である事をお忘れなく。

苦悩を通して意味ある人生を見出す事は確かにある。
だけど、フランクル自身が言ってる。
意味を見出すのに苦悩が必要だと言うわけではない。
苦悩を探して体験しようとするのはマゾと言う病気だ、と。

罪・恥とスピリチュアリティ

私は人からどう思われるかがまったくと言っていいほど気にならない。
気になるのは、真に自分らしくあるかどうかと言う基準。

そういう態度だから、自分らしく振舞っていて、家や学校や国を代表する立場での発言や行動について、上長からしかられることが多い。
「本家・本学わが国の恥となるようなことはつつしめ」と。

自分の評判は気にならないけど、上長の評判を落とすことになると、まずいな、悪かったなと思う。
だから気をつけようと思う。でも、なかなか治らないのはきっと、恥を重んじてないからだろう。

恥を意識するのは、社会、この世での周囲を気にすると言うことで、これは水平方向のスピリチュアイティで非常に日本的なものだ。それに対し、英語論文で扱われているスピリチュアリティは垂直方向で、もっぱら、神に対して自分がどうあるか、という関係性や、自分自身のアイデンティティーが気になる。

社会より神とのつながりが気になるのだ。
善悪の判断もそれに従う。

私自身が恥の感覚がなく、罪文化を生きているということに気がついた。
そう、人からどう思われるかが気にならないのはそのためだ。

私は極端だけど、日本人には垂直の思考や視点が問題解決の切り口になるのではないかと考えている。

ストア派とエピクロス派とカント

がらにもなく、哲学のお話です。

私は、自分も他人も世界もみんなつながっているから、自分が楽しいこと、嬉しいことを増していくことが世界平和につながるんだ、と実感してるのですが、そんなのは自己中でめちゃくちゃになると言うペシミスティックな反論があるから、遅まきながら、学問世界にいる限り、理論武装するしかなくなったのであります。
めんどくさ~

で、哲学・思想辞典で、愛とか、幸せとか、喜びとか言うのを片っ端から拾ってみたわけです。
幸せっていう言葉はなかった・・・幸福って言うのはあったよ。岩波書店さすがに固い。

で、発見したことはですね・・・
こういう議論は大昔からあって、善の追及に対して、ストア派は、道徳的に人とのために自分を犠牲にしてまでもいいことしろ!と言うわけで。
エピクロス派は、そんなこと言っても、楽しくないと出来ないし、そんなのちっともよくないぜ。いいことしたら気持ちがいいからやるんだ。
とまあ極端なわけです。
そこに登場したカントが言うには、徳(ストア派)と快楽(エピクロス派)の統合だ!そしてそれは可能だ、というわけです。なんでかと言うと、この世は最高善の神の創造なのだから、その現れである人間や社会だって、そうなる可能性があると言うのです。

でもじゃあ、どうしてなってないのよ、という反論に対しては、これまたいろんな説があるのですけど、簡単に言うと、人間には自由意志があるから、というわけ。
自由意志で何を選択するか任されてるからね、喜びを選ぶのも、苦しみを選ぶのも。

ほら~
まなみんの直観は、昔の哲学者たちと同じじゃんってすごく納得したのですが・・・

一つスゴイ大きな問題に直面してショックだったんです。
それは・・・

これは、西洋哲学の世界観が前提になっているものであって、東洋とか日本的なものが含まれていないってこと。
実は、これが私の無意識的な前提として、そうでない日本人的考え方としっくり来ない原因だったようです。
気が付いたからどうするかって?
うううん
日本人的な世界観はぴんと来ないんで、いまさらかえようがないんです。
研究室で靴を脱いだり、座るって言うのが落ち着かないのと同じです。
存在や育ちに染み付いているものをかえるのは難しいし、変えなければいけないとも思っていません。
ただ、これからのアプローチは自分の前提を認識した上で語ることになると言う、一種の謙虚さと言うか、客観性が出てきたかなと言うこと。

一歩前進いたしました。icon:body_good

睡眠を削るあほらしさ

ほとんどの方が、忙しい!時間がない!と、睡眠を削っているようで、平均睡眠時間が年々短くなっているようだけど。

私は小さいときから寝ないと何も出来ない人だった。
今でも、こんな時間に起きてるの?って言われそうだけど、夕べ7時には寝てました。
睡眠時間は毎日7時間は取ってます。
大晦日でも、海外旅行の時差があっても起きてられないんです。
眠いときには寝る。
そういてると、起きたいときにいつでもぴたっと起きられます。
眠くて起きられないという苦労をしたことがないので、共感できません。

寝てる時何してるかというと、起きてるときより面白い夢の世界で遊んでるの。
仕事してたりもするけど。
頭の中での解決は良く寝てる間についてたりするのです。
起きてからそれを書いたりまとめたりしなくてはいけないのが面倒ですが。

寝ている間の活動や情報交換は、実は起きているときより数倍凝縮されていたりします。
これは体験から言ってるので、科学的根拠に付いては調べておりませんけれど。

少なくとも、心と体に睡眠がいいことは実証されていますから、もしまだ起きてる方がいたら、おやすみなさい。
いい夢をみてくださいね~~~~
問題は、寝ている間に解決していることが多いですからね。

ホリスティックとスピリチュアル

Jミラーは、ホリスティックということを、HolisticとWholisticに分けて論じている。

つまり、一般的にスピリチュアルなと言うことがホリスティックなと言う意味に使われることもあるけれど、厳密に言ったら、それはHOLISTICと言う意味で、超越的、あるいは実存的な意味合い(人生の意味や目的)で使われる、縦軸ホリスティックな側面のことだ。
ホリスティックには、それ以外に現実世界での包括的な取り組みの横軸(WHOLISTIC)も含まれていて、それはエコロジカルとか社会的つながりと言う意味で使われる。

言葉って面白いと思った。
より正確に伝えていくために、言葉の勉強をしないといけないことを、痛感している今日この頃。

自己愛と自己犠牲

ナルシスティックな要求と隣人愛はそのままだと対立するように見える。
神学では、自己愛をエロスと呼んでアガペと区別している。
自己愛は、フロイドがイドと呼ぶ本能的な衝動に基づいていて、存在の基本的欲求だからほっといても起こる。意識的に獲得しなくても良い。生きたいという本能だからだ。
もっとも、最近ではこの自然な欲求さえ抑えられてなくなっている人たちもいるから要注意なんだけど。

その原因として自己犠牲に対する間違った考え方がある。
自己犠牲とは自己否定ではないのだ。
自己がもっと豊かに花開くための犠牲なのだ。

犠牲は、たいていの場合自然な感情として起こらないから、ある程度は意識的に獲得していくしかない。
しかしそのときに、エロスを押さえつけると、エネルギーそのものがなくなてしまう。
エロスのエネルギーをより大きくして、隣人が豊かに花開くことを選択していく方向に向かわせるのがアガペの役割だ。

だからこれは矛盾しないのだ。
隣人愛で言う隣人とは、恋人、家族、仲間、所属している社会のメンバーを意味しない。
それに対する犠牲は自己愛エロスの延長である。
隣人愛アガペーとは、感情ではなく、必要としているところに向かう高度に知的な判断による。
公平さと正義に代表される側面を持っているために、時として冷たく厳しい判断である。

家族や知り合いに対する自己犠牲はエロスである。
アガペは関係のない他者が自分と一体でありつながっているという認識の元に発揮される。
自己愛の変容によってそれが可能となるのだ。

アガペがエロスより高度で大切であるといっているのではない。
エロスがなければアガペはなくなってしまうのだから。
双方ともすばらしい愛の側面である。

プロフィール

尾崎真奈美尾崎真奈美

東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。ペンシルバニア大学医学部精神科、東京大学医学部公衆衛生学研究室などを経て、現在相模女子大学人間心理学科准教授、米国サーチインスティチュート、スピリチュアリティ発達センター客員研究員。
インテグラル心理学・スピリチュアリティ論・芸術療法などを教えながら研究、ダンス、執筆活動を続け、科学と芸術の統合を試みる。
天使語同時通訳は日々のインスピレーションの書き散らしである。
国際生命情報科学会、日本トランスパーソナル学会理事。日本心身医学会、日本トランスパーソナル心理学・精神医学会、国際ポジティブ心理学会会員。

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