尾崎真奈美の天使語同時通訳します

2008年01月

超高速で

以前、超高速は超低速と同じで時空を越えるとかいた。

中途半端に高速だと、うるさくばたばたして美しくない。
超高速だと止まっているように見える。
目指すのは極限までの高速運動だ。
私はこれをスピン運動にたとえられると思っている。

ちびくろサンボのトラのように、ぐるぐるしているうちにバターになってしまうのだ。

何のことかいてるか説明しないとわかんない?
でしょうね・・・
説明は疲れたんです・・・ごめんなさい。

論文でじっくり立証しますから待っててください。
って、何人が読むんでしょうね・・・
バイブレーションとスピン、どうやったら同時に可能になるのだろう?
物理の天才に聞いてみないといけないわ。

赤ちゃんはすごい!

じっと見つめられると、ぞくっとしませんか?
あの大きな澄み切った瞳で。

赤ちゃんを馬鹿にしてはいけない。
自我の確立がないからトランスパーソナルだといえないとか。
自己中で他者の視点がもてないとか。
動物的欲求のままで未熟だとか。

そういってるあなたの笑顔はいかが?
鏡で見てごらん。
ひきつってないですか?
目が笑ってないモデルスマイルじゃないですか?
口だけにんまりしても、目ですべてわかります。
目の奥を見つめてください。
どこまで見えますか?
曇って何も見えない人は、赤ちゃんに会いに行ってください。
わかると思います。

赤ちゃんが大人よりえらいとかスピリチュアルだといってるのではありません。

すべての存在がその位置でその状況ですでに、光だってことを言いたかっただけです。
ただ、それを忘れてる人がいるだけだから、おもいだしてもらいたかっただけ。

完全主義のあなたへ

完全主義ってすばらしいことだと思うし、それがあるからこそ輝かしい業績や成果が蓄積されてきているのに、最近はあまり人気がない。
うつとか、神経症とかの原因になるからやめろって発想だ。
時代はロハスでスロー・スロー・リラックスしてのんびり生きましょうってお薦めしている。

あるがままでいいのよ~
がんばらなくていいのよ~
自分を大切にね~

こういうメッセージを聞いて、どれだけ納得できるだろうか?

そんなことしたらどうなる?
堕落する。
進歩も成長もがない。
自己中じゃないか。

確かにその主張には一理ある。
ロハスにかこつけた、ただの怠け者も増えてきた気配がある。
なんたって、一番リラックスが必要な人たちはこういう言葉に耳を傾けないからだ。

もっと言い方を変えてみよう。

自分の限界をわきまえることだ。
能力は、頭脳や体力だけではない。
感情や環境や、すべての存在全体がかかわっているものだから、やる気にならにといって自分を責める必要はない。
それは何らかの意味がある必然だからだ。
心や体を無視しないで欲しい。
状況や環境やタイミングなど自分でどうすることもできない要因を嘆く必要はない。
あなたの責任ではないからだ。
鏡の法則は万能ではない。
すべてに応用するとひずみが来るから要注意だ。
なんとかできたはず?
がんばらなかったせい?
ちがうちがうちがう。
もっと大きな流れの中に視点を置いてほしい。
そういうことが真の謙虚さだ。

そしていまここで、自分にできるだけのことをする。
体も心も隣人も環境も無視しないで調和していくことだけが、できることなのだ。
喜びや微笑を犠牲にして達成しようとしたら、必ず心や体や人間関係や環境などから反乱が来る。
大いなるスピリットに耳を傾けていこう。

これが実は本来の完全性であって、完全主義の通る道のはずなんだけど。
部分的達成(自分だけとか今だけとか)は完全とは言わないからね。

今しかない!いや、今もない!

だからさあ、行動いたしましょ!
というポジティブ心理学的な行動主義的なおすすめを書きたいのじゃありません、今日は。

今しかないのです。
というのは、過去はもう過ぎ去っているからです。
というのは、未来はまだここに来ていないからです。
できることは今ここにしかないのです。

といって、せつな的になれということではありません。
過去はすべて今の中にあるんです。
未来も全部今の中に含まれているのです。
だから、今がすべてなのです。

時空を超えた視点から眺めたら、過去も現在も未来も意味をなさないんです。
すべてがただひとつだからです。

過去生うんぬんは、ストーリーとして楽しむのは結構ですけれど、楽しめないのは捨てちゃってください。
未来に夢を描いて楽しむのはいいけど、不安になるなら空想はやめましょう。
未来なんてないのですから。
今しかないのですから。

今って何か?
実は今ってないのです。
今って言った瞬間は、言ったとたんそれはもう過去になっているからです。
未来を先取りしても絶対につかめないのが「今」です。
としたら、今しかない!ってしゃかりきになるのも疲れますね。

じゃあ、どうする?
この流れを楽しむだけです。

ものすごい自信家

私はめちゃくちゃ自信家である。
できなかったらどうしよう・・・だめなんじゃないか・・・と不安になったり落ち込んだりがないのである。

能力が人より優れていると威張っているのではない。
人と比べたらものすごく劣っている部分が、それも偏差値でいったら30くらいしかない分野まで、自分のことはよくわかっているつもりだ。
ま、いばれるとしたら、そういうバカさがわかっていることかな・・・
でも、それを気に病んではないんだ。
努力(努力しようという気になれないことも含めて)してもできないんだから、これはもう嘆きの対象にはならない。
笑いの対象になるだけだ。
そしてちゃっかりと、できる友人のお世話になっている。

できる部分でお互いに助け合っているから楽しいんだ。
だから自分ができることは売り込むし宣伝する。
評価や賞賛を求めているわけではない。
私はそういうものは必要としていない。
なんたってすごい自信家だからだ。
なぜ売り込むのか?
それはお手伝いしたいからだ。
いつも人様に助けられているから、せめてできることでお助けしたいと思うからだ。

能ある鷹は爪を隠すらしい。
私は能無しの自信家だから、全部見せる。

できなかったらどうしよう・・・どうもしないよ、できることをする。
だめなんじゃないか・・・とにかくやってみるよ。
どうぞみなさま、つかってくださいませ~

こうもりさんの立ち位置

どこでもいいから自分の立ち位置を決めないと何もできない。
足元がすくわれる。
国際人を気取っても、根無し草ではどうしたらいいのかよくわかんなくなる。
多重文化の中で育った人はアイデンティティを求めてさまよい、立ち居地探しに苦労する。
結局、バイリンなんてその中間に足場をすえてみるけど、確立されていない場だと、自分で基礎工事をしないといけないから労力は大変だ。

どこかしっかりしたところに足場を構えたほうが楽は楽だ。
でも、どんな足場だって、古い慣習やらしがらみやらが長年の間にへばりついていて払い落としたくなるのだ。自由な空に飛んでいったらそれはそれは気持ちがいい。

でも、足場を足蹴にしてしまうと、疲れたときに羽を休める場がなくなる。
こうもりさんは、どっちの拠点でも歓迎されない、かわいそうな肩身が狭い存在だけど、もっとうまいやり方があるはずだ。

ウイルバーの提唱しているヴィジョンロジック、あるいはケンタウルスということの意味が少しわかってきた。
こうもりさんではないんだけど、どこに行っても、その場の人になれる人。
でも、自分の立ち位置はそこではないことをきちんと意識している人。
でもその場にいる人に対する配慮と謙遜さから、その場に同一化できる人。
同一化しているとことそうでない部分を同時に持てる人だ。
これは結構難しいことだけど、ふらふら迷子でさまようよりはきっと気持ちがいいものだ。

いくら光の存在だと主張してみても、この世に立ち居地がない限り、理解してもらうのは難しい。
今、ここにいる人たちの言葉で語らなければいけないのだ。

すべてのライトワーカーに告げる。
あなたの隣人に同一化しなさい。
光を主張する必要はない。
ただ、地上と同一化していくこと。
これにより、すべての存在が内側から照らされていくのだから。

お金の話

清貧という言葉がある。
衣食足りて礼節を知るということわざもある。
お金持ちが天国に行くのはらくだが針の穴を通るより難しいとも書いてある。

お金自体は、いいものでも悪いものでもなく、あったほうがいろいろな可能性が広がるという意味ではよいものに違いないと思う。

まなみんだって、ほしい!!
多すぎて使い道に困っている方がいたら、連絡ください。
喜んで頂いて、いい事につかいますよ!!

昔は全くほしいと思わなかった。
無くて苦労するってことが無かったからかもしれない。
自分はあまり何もなくても苦にならないけど、病気の子どもを抱えて医療費が無いのは辛い。
子どもの食費や教育費とかがないのも親としてはやはり辛い。
そういう最低限のお金は必要だと思う。
でも、何が最低限なのかは状況によってずいぶん違う。

今の日本で、経済的理由で携帯電話をもてないというのは結構辛いものがあるだろう。
世界のうち、どれだけの人が電話を持っているのかを考えると、おうちに1台固定電話があるということだって、どんなにすごい恵まれているか!って言われても、やっぱり自分だけ携帯がもてないというのは辛いに違いない。

それはさておき、ヒーリングでお金をいただく事の是非が時々議論になる。
私としてはかたくなに、NOだ。
自分が勉強して得たものではなく、上からの賜物をそのままあらわすだけなのに、どうして報酬がいただけるのだろうというのがまず一つ。
二番目は、病気や困っている人に対する奉仕は、本来誰でも公平に受けられるべきという考えを持っていることがある。カウンセリングだって病院だってただではない事に非常に疑問を感じるんだ。なんか貧しい後進国的な不合理な考えだと思う。

でも、お金のことや、経済の事は門外漢だから、このくらいにしておく。
ほかの立場からの言い分もあると思うから。
ただどうしても、私的にはぴんと来ない。
教えてお金をもらってるけど、これだって本来誰でも公平にサービスを受けられるべきものだから、変な気分だ。しかし、まあここにいるので、そんなものかなっていただいてはいるけど。

ノルウエーの王子に北欧の話を聞くと、システムがすごく進んでいる事に感動する。
移住したいと思うけど、言葉が難しいな・・・

システムに規定される事って結構あるのよね。
ここで何ができるのかしら・・・

がんばる人に対する謝罪

まなみんは、自分ががんばる人じゃないので、で、がんばってもいいことができないから、がんばらないほうがいいよ~好きなことだけやってお楽しみよ~と言い続けてきました。

今朝うつらうつらしながら思っていたことは、世界中のグリーンミーム(がんばる人たち)に対するお詫びと謝罪の気持ちでした。

私は生まれた時からすでに自由もモノも、限りなく豊かに恵まれた世界で育ってきました。
そして、貧しい時代を知っている大人たちが、必死になってこの豊かさを築き上げてきたのだという話をききながら、恐竜が氷河時代に入って絶滅した、という話と同じように捕らえていました。つまり歴史の一こまであって、すごい意義はあるけど、今の自分には何も関係ないわって感じでした。
むしろ、モノ・金・権力などにしがみついて、いい学校に入りなさい、いい企業に就職しなければと必死に勉強したり努力する人に対して、何でもっとゆっくり楽しまないのかな・・・と共感できませんでした。

それでも、根が従順ないい子なので、親や先生を悲しませたくないから、自分の魂の欲求にぎりぎり逆らって、体や心が壊れる限界までがんばってみたいと思いました。そしてまったく壊れかけた挙句に、こんなことしてたら苦しいだけだわって、やっぱりやめてしまいました。というか、どうしても努力ができなかったのです。
努力ができない自分を責めました。
こういう人は生きていく価値がないって落ち込みました。

しかしだんだん時代が変わってきました。
過労死の問題が叫ばれ、がんばることが必ずしもいいことじゃない、もっとココロが大切だよという時代になりました。
今なんかスピを大切にして、現実的世界でしっかり働くことや、この世的にがんばることが時代遅れでバカにされてる風潮まで出てきました。
ロハスがもてはやされくつろぐこと、何にもしないでのんびりすることの大切さが強調されてきました。
菜食とかダンスとか、やりたいことをやるとか、だんだん私が昔から好きなことがみんなも好きになってきたような感じです。
それはそれでとても嬉しく、そして、だから今、私がここでこういうブログを書いているわけですが。

でも、
でも、
でも、
時代遅れっぽくみえるけど、がんばる人たちにものすごく大きな「ごめんなさい」を言いたいと思います。皆様のおかげで、今のこの日本が、世界が成り立ってきたんですよね。
ネット環境をはじめ、世界中でこんなにリアルタイムで結ばれるような豊かさは、今ではアタリマエですが、昔のことを考えると、どんなに大きな恩恵を受けていることでしょう!!
ネットや携帯があるから仕事から逃れられないと不平をいう人がいますが、それは彼方の自己管理だけの問題です。ネットや携帯があるからこそ、どれだけ能率よく仕事ができ、それだけ余暇も増えて豊かな時間が生み出せるようになったことか、考えて見ましょう。


がんばってこられてきた方たちへ、そして今も、がんばり続けてこられている方たちへ
本当にありがとうございました。そして今も、本当に心から感謝しています。
私たちにできないことをしてくださってるんですよね。

同時に、がんばれない私たちをも許してください。
心のそこから皆様ちを尊敬し感謝し、見習いたいと思うのですが、できないのです。
それはもしかしたら、がんばりすぎてしまう方たちの中でバランスをとるために、遠いところから、歴史や宇宙の大きな視座から、私たちがんばれない人たちが、そのように配置されてしまったという役割があるからのではないかと思うのです。

だから、がんばれない人も、大きな存在意義があるし、がんばる人も、すばらしい価値があると思うのです。自分とタイプが違う人がいるからこそ、こうやって生きていくことができていくわけで。
自分と最もタイプの違う方に対して、なかなか理解できず共感が難しい人に対してこそ、大きな恩があるというか、本当に、感謝したいと思います。

そういう方はSQブログなんか読まないだろうけど、魂から感謝と愛とHUGを送りたいと思います。

once upon a time・・・

昔々あるところに・・・

あるところってどこ?
ないところってないのに、どこでもないとこnowhereで・・・なんていうし。
物語って、おかしすぎる。

あ!!
すごい事実発見!!

nowhere も once upon a timeもすごいこと言ってるよ。

今、ここに、一度にひとつのことを。
これって、禅じゃない?
すごいね・・・
やっぱりみんな世界中おんなじこといってるんだね。
これが幸せの秘訣!!

魂の貧乏性

社会って、この世って、がんばるってことが結構評価される。

がんばりすぎる人がうつになったりして、「がんばらなくてもいいんだよ」って言われる。
がんばり体質の人はそれが実は難しかったりするようだ。
また、がんばらないと生きていけないと思い込んでいる人は、がんばらないことが怖いみたいだ。
あるいは、がんばらないことに罪悪感を感じるみたいだ。

一番面白いことは、すごいがんばっている人はそれを自覚していなくて、
「ぜんぜんがんばってないです・・・なまけものでどうしようもないんです・・・」って自己評価だったりすることだ。
そしてそれを負い目に感じて、ますますがんばるんだな~

せわしなく働く人のことを、貧乏性って言いますね。
いい意味じゃないと思うけど、「いや~貧乏症でして・・」て頭を書きながら、自分の仕事の能率よさ、綿密さ、完璧さなどで実は内心嬉しかったりして、悪いと思ってなかったりもする。

がんばることと、夢中になることって違うと思う。
外からやってることを見てると同じに見えるかもしれないけど、表情を見てね。

悲愴な顔つきで緊張してるのはがんばりだわ。
嬉しそうに笑ってるのは夢中になってるってことだわ。
違いは、スピリットに従ってるかどうか、つまりやりたくて楽しくてどうしようもないかどうかってこと。

魂の貧乏性は、座ったりしないで動き回っていたりするかもしれない。
でも、どんなに動き回っても、心身の調子を崩すほどはしないから大丈夫。
魂の声は体から聴こえてきたりするからね。
体が喜ぶことは魂が喜ぶことだから。

でも、貧乏性っていうの、やっぱりあまりかっこいいことじゃないわね。icon:body_run_away_lefticon:body_run_away_righticon:body_run_away_right

行きっぱなしはだめよ

いくら悟っても、あちらに行きっぱなしではだめよ。
こっちにかえってこないと意味ないからね。

そう、両方が大切なんだな~

そう、光も闇もおんなじなんだな~

そう、だから面白いんだよな~

もっと言うと、一箇所にとどまってたら腐るからね。
超高速で動いてるのが一番快感なのよね。
あっちとこっち。
反転図形を回すようにくるくると相が変わるときに、波長が短くなって、高さを増して、突き抜けます。
どこに行くかって?

なにもないとこ。
どこでもないとこ。
つまり、ここでした~~~~

ちゃんちゃん。

直観と直感

考えすぎて訳がわからなくなると、直感に従おうよ、ってよく言われる。

直観と直感は、論理的ではなく、根拠もなく、そうだ!!ッてわかってしまうようなことだから一見同じように思われるけど、実はでてくるところが違っているような気がする。
感性のほうが観ることよりレベルが低いというわけではないけれど、体験の深まりの中からでてくることでも、必ずしも良いものに導かれるとは限らない。

単純に言っちゃうと、気持ち悪いもの、重苦しいもの、息が詰まりそうなもの、肩がこりそうなものは全部やめとき!
それを思い浮かべるだけで美しい音楽が流れてくるような、優しく香しい香りが漂ってくるような、さわやかですっきりしたような、思わず喜びで踊りだしたくなるような、そういうものは本物だ。
彼方の光の本質から来たものに違いないから、安心して従おう。

何かうまくいえないけど、引っかかるときにはやめておこう。
それで命が助かることさえあるんだから。
心静かに、耳を済ませて。

議論とauthenticity

議論したり話し合ったりすることの意味はどこにあるのだろうか。
お互いの理解を深めるため?ある問題に対する認識を明確にするため?
じゃそれは何のためにするの?

わかってもらいたい!
こうしたら幸せになれるんだよ!!
この考え方で行ったほうが楽なんだからやってごらん。
まあ、ねえ・・・。

何でそういう風に考えるのかを探っていったら、その人の生き方や生生しい体験から出てきた実感に基づいていたりする。
そういうものは、理屈ではない部分が実は大きかったりする。
非常に論理的で客観的な人が、あることになるとものすごく独断的になって自説を曲げなかったりするのは、原体験が絡んでいることが多い。
その考え方を否定されると、生きていく指針を失っていくような恐れがあるのだから仕方がない。

一人一人の人生体験は貴重な真実である。
議論でどちらが妥当性が在るかを探ってみることの意味は?
できることといったら、どのような条件で、どのような場合に、どのような範囲で、そのような考え方が適用できるか、という説明だけである。

どちらが正しいとかどちらが優れているとはいえなくなる。
マジョリティーに当てはまるから正しいとか、このやり方でたくさんの患者がよくなったからという理由で、今、ここ々にいるあなたに最適だとはいえないのだ。

Authenticityがキー。
つまり、いまここ々にいるあなたをどれだけ透明に真実に見つめるか、寄り添うか、ということだけ。
主観も客観も越えたところから出てくる新しい主観性の視座から。

神様だって休憩するよ

聖書の教えで一番好きなのは、7日目の安息日設定だ。
別に日曜日である必要はないと思うけど(イエスの時代には土曜日だったんだし)、仕事禁止令、っていうのが、いいな~
命令でもしないと、仕事を限りなくやっちゃうんですよね、人間って。
で、何のためにやってるんだかわからなくなったり、楽しむことや評価することがおろそかになったり、視野が狭くなっていったりするんだ。

能率のよさと生産性の高さがどこから来てるのかとよく不思議がられる。
理由の一つ目は楽しんでるから。
二つ目は上手に休むから。
三つ目はまわりにすばらしいサポーターがいっぱいいるから。

がんばればいい仕事ができるかというと、実はそうでもないんだ。
クリエイティブなものはゆとりの中からしかでてこない。
それは遊びだから可能になるんだ。

楽しめなくなったときにはストップする。
どこかがおかしいというサインだからだ。
面白くてやめられないときでも、夜になったら寝る。
遊びだからって好き放題にやってるわけではないんだ。
楽しみを持続させるために実はすごい計算してたりするんだ。
ま、それ自体も挑戦で楽しんだけど。

というわけで、どんなに仕事が立てこんでいても、愛する人との時間を犠牲にしてはいけない。
そのつけは、一生かかっても補いきれないほどになってのしかかる。

愛は、何よりも勝る。
第一番目に優先すべきもの。
だって、最後まで残るのはそれしかないからだ。
お金も名声も業績も持っていけないんだよ、あっちには。

さて、今日は、何して遊ぶ?

光か闇か

この世は喜びか苦しみか、どっちだという質問をしたら、どちらかというと、苦しみだという人のほうが多い。
たぶんに、体験から出てきた言葉のようだ。
経済的にも家庭環境にも恵まれ何不自由育ったような人が、ひどいうつで苦しんでいたりすることがある。
他人の喜びや苦しみというのは決して他者が外から判断できないものだ。
だから、苦しんでいる人に絶対に言ってはいけない言葉・・・

「苦しみには意味があるんだよ」
「いいことに違いないんだから感謝して、喜んでいなさい」

これは相当に傷つく言葉なのだ。
誰もこの苦しみをわかってくれる人などいない・・・
自分じゃないからそんなことがいえるのだ・・・

苦しむ人に対しては、何も言わずただ、そこに、一緒にいてあげること、とどまっていることしかできない。
その中で、その人自身が気がついてくれたら嬉しいって祈ることしかできない。
ただ、一緒にいる人がもし光を知っていたら、どんなときにも根底にある希望を、確信を持っていたら、一緒に崩壊していくことにはならず、苦しむ人とともに歩むことが苦痛ではなく、むしろ喜び体験となっていくだろう。
自分の存在意義を感じるからだ。

喜んでいなさい!
感謝しなさい!

という命令は、光の存在からの命令である。
今ここにいる人間からの言葉だとしたら、傲慢もいいところである。

この世は光である、という確信は闇がないということではない。
本来的なところで、光がすでにやみに打ち勝っているということに過ぎない。
その光を感じるために、闇が配置されているのかもしれない。
なぜなら、闇が深いところほど、人は光を希求するからだ。
薄明かりで満足している人には、強烈な光は必要ないかもしれない。
漆黒の闇の中にいる人は、目がなれていないから、ろうそくの小さな明かりでさえ目が開けられないほどの衝撃を受ける。
目が慣れてきて見渡せるようになってきたら、どんどんその光のほうに向かっていく。
これは一体何なのだ?
そしてその光源に向かって果てしない旅をはじめるのだ。

人生ってそんなもののような気がする。
だから、私はこの世は光だと主張するのだ。

幸せはどこに?

青い鳥のお話は有名だけど、幸せは外にはない。
遠くに探しに行っても見つからない。
人に教わるものでもない。

今、ここに、自分の中にしかない。

パワースポットを探したり、セミナーに出たりしなくてもいい。
静かに目を閉じてゆっくり呼吸して、自分に気がついたらいいだけ。

アルコールやカフェインなどのドラッグも必要ない。
お金も地位も、恋人や家族さえなくたって、いつ、どこにいたって、あなた自身が幸せの根源だってことに気がつけばいいだけ。

幸せは与えられるものではない。
内側から湧き上がり、ほとばしり、あふれ出てくるものだ。
それは周囲に滲み出し、伝わっていき、世界を覆う。

ただ、ただ、気がついて、ブロックしているものを手放すだけで。

怖がり・恐れ

だれでもきっと、怒りっぽいのはよくないと思うだろう。
でも、こわがりは?恐れることは?

苦手なものは誰でもあると思うけど、それが高じると怖くなる。
触れられない、近よれない、要するに拒絶反応だ。
無理して近よるとパニックになったり、アレルギー反応が生じたりする。
生体防御システムとしては完璧なのかもしれない。
けれど、愛に満ちた受容と言うには程遠い。

誰かが怖いというとき、その人を拒絶している、受け入れられないということを意味する。
何かが怖いというとき、情報を曲解してしまうことがやたらと多くなる。
パニック反応だ。
これは実は非常にもったいないことだ。
なぜなら本質が見えなくなっているからだ。

過去の傷つき体験に由来している防御反応に違いない。
もう終わってしまったことだ。
それもパニくって誤解に基づいた判断かもしれない。

もちろん、生きている限り、毎日のように傷つけられているのだ。
だけど、健康なら、すべての瞬間に修復していけるのだ。

怖がること、自分を守ろうとすることによって、人や経験を遠ざけてしまう。
さらには、それが高じて敵対し攻撃を仕掛けることにも通じることもある。

どうやって手放していけるのか。
本質を眺めることによってだ。
つまり、魂は傷つくことはありえないということ。
傷ついたり傷つけたりは単なる表面上のみかけだけだという事実。
これがわかれば、怖がることによる無意味さが実感できてくる。

「恐れるな」というのが、聖書の一番多い記載だった。
次に多いのは「喜びなさい」だったと記憶している。

でも、やっぱり苦手なものはあります・・・
虫やら小動物やら、キャってにげちゃいます、ごめんなさい。
修行が足りません。

直感

昔から意味なく、というか、根拠なく、こうだ!ッて思うことをぽろっと口にして、自分でも意味なく根拠なく、信じてたりする。

なぜかというと、経験的に、その通りであることが多いからなのだけど。

事故・病気・解雇なんていう悪いことは信じないで打ち消そうとするんだけど、ヴィジョンが瞬間的に見えたりして、実はわかってたりする。
遠くにいるあなたのこともそうだ。
なぜかわかっていたりする。
だから祈ってるのよ。祈りが通じていることもわかるしね。

全部、本当はわかっているの。

そう、すべてがうまくいくことが。

今思うように行かないように見えることも、ただのプロセスだってことがよ~くわかる。
輝かしい光が見えているからどんなときでも笑っていられる。

直観はすごいです。
だって、光しかないんですから。

違いのわかる男

違いがわかるってさあ
なんか感性や知性が鋭くってかっこいいというイメージがあるけどさ~

はっきりいって、平和に貢献はしないよね。
だって、男の子っていつも、オレはこのくらいわかるんだぜ!ッて、威張って競争してるんだもん。
わかってもけんかしてたら、意味ないじゃん、ねえ。

それよりまだ、わかんなくても、みんな一緒で嬉しいな~って笑ってるほうがよくない?

ああ、でも、それで思い出したんだけど、確かに、ヒーラーさんに
「お仲間ですね!」っていわれてひいてるのがまなみんだった。

だいぶ、男性化してしまったな・・・

ああ、踊りが足りない足りない。

忍耐って、愛なの?

許すということは、こだわりなく感謝に満ちていて、平安で辛くない、喜びの行為だ。
まして我慢や忍耐ではありえない。

耐える行為には辛さが付きまとい、傷つき体験も含まれる。
耐えることが、怒りを表わしたり反撃したりすることよりいいことかというとそんなことはない。
ネガティブなベクトルが、外側ではなくてうちに向いただけの話だから、愛ではないからだ。
傷つくのは自我にこだわっているからであって、離れて眺めるときにはけっして傷つくことなどありえない。

実は許すという意識さえも存在しない。
だって、傷つくことも怒ることも何も存在しないところで、何を許すというのだろう?
ごめんなさいって謝られて、え?何が?ッて不思議に思うことが非常に多い。

許して忍耐するって、どういう意味?
まるで誰かを悪者にしてない?
大好きで愛に満ちてたら、抱きしめたいだけじゃないの?

地上にはわけわからないことが多い。

香りとにおい

そこはかとなく良い香りが漂ってくるのは心地よい。

わたしは、なんといってもローズの高貴さが大好きだ。

香りが、匂いになり、臭いになるのはどういうときか。

質的な変化ではなく、ただ単に量的な変化だという気がする。
つまり、閾値を越えた過剰な刺激になったときに人は不快を感じるのだ。
少しで心地よさを感じるものと、比較的たくさんで心地よいものがあるというだけの違いだ。

すぎたるは及ばざるが如し。
親切だって、お金だって、スピリチュアリティだって、幸福だって、例外ではない。

奇跡が起きるとき

奇跡が起きるときは、がんばったときではない。
本当にやりたいことを喜んでやったときだ。

これを実証する事例が、脳梗塞から回復したナレーターの手記で発刊されたようである。
私自身の体験も聞かれることがあって、自分ではなぜかなんて応えられなかったんだけど、
やっぱりなあという思いである。

やりたいことをやるときには、全身全霊のエネルギーがその方向に集中して使われるから、まったく無駄がないのだ。人の思惑を気にしたり、自分のなかに葛藤があるときにはどうしてもエネルギーロスが生じる。体や心が疲れているときにはそういった小さな葛藤も消耗する原因になるかも知れない。

もちろん、葛藤は成長段階として当然起こりえる。
でも、葛藤を回避して無視することは一番大きなエネルギーロスである。
ストレスにやられっぱなしというのもエネルギーを失くす。
ストレスなしの人生なんてありえないし。

じゃあどうするのか。
自分の中にある、本質的な、時空を超えた価値に照準を合わせるのだ。
そこに一致する限り、社会生活において一時的な摩擦があったとしても、
自分を超えたところで、光は光として輝きを放っていく。

心と体と魂が一致して向かうときには、うちにも外にも敵がいなくなる。
その王道は、感謝から来る喜びだ。
そのとき、奇跡が起きる。
奇跡は奇跡を呼ぶ。

そして涙にあふれた喜び輝く笑顔でいっぱいの世界平和が、私には見える。
この希望に満ちたビジョンを感謝。

愛と光はあなたの中にあるのよ

赤ちゃんのきらきらした笑顔が、いつのまにか眉間のしわになっていくのはなぜ?

ただ、ただ、恐れからです。
もう、傷つきたくない!っていう。
そしてそのために、防衛的に自他を傷つけてしまうようになるんです。

そこからは何も生まれないってことはわかってるのに。
むしろ破壊だってことわかってるのに。

それは単なる癖です。
よくない癖です。
癖は意識しないと、自然療法では治りません。
代わりにいい癖をつければいいんです。

いい癖?
感謝することです。
嬉しい時には、言葉でも態度でも表情でも、すべてを動員して表現してみましょう。
踊ってみましょう。
嬉しさと感謝がどんどん湧き上がって大きくなって、周りの空気を変えていきます。

今日あなたが口にする言葉、書く言葉、向けるまなざし、横切る思い、空想、願い、表現されない思い、感情、これらがあなたを作ります。
これらが世界を作ります。

表現されない思いや感情のコントロールは無理です。できません。
できるのは、行動だけです。
笑うことはできるでしょ?
優しい言葉をかけることもできるし、感謝の手紙を書くこともできる。
してるうちに、内面の変化に気がついていくと思います。

だって愛と光はすべてあなたの中にあるのですから!

今年は中庸で

たいていの人はこれをやるぞ!
今年こそはこれをマスターする!
とか、いろんな抱負があることでしょう。

私の場合は、お正月そうそう、すごいレッスンがありました。
ストップ!やるな!っていう・・・

ほかの人といつもベクトルが違うんです。

だってまず、スピリチュアルにならなくていい、現実的になれ!ッていうのがまず、反対方向でしょ。
よく遊びよく学べって・・・学ぶな遊ぶなって言いたくなるほどやりすぎてますし。
早寝早起きとか、お掃除整理整頓とかも好きでやってるし。

今年の目標はどうやって、やらないか、なのです。

どんなにおいしいごちそうも食べ過ぎるとおなかを壊します。
地上に生きている限り、どんなに感謝して免疫上げても仕事のやりすぎは体を破壊します。

私の欠点は、面白くて楽しくて、すぐ夢中になってしまうことです。
一時間後のホールケーキより、今の一切れが欲しいのはお猿さんと一緒じゃない!って笑ったんだけど、面白いことをしてると他のことが見えなくなってそればっかりやっちゃうというのも、やっぱりお猿さんと一緒です。
特に、体を壊してまでやっちゃうって言うのは、ゲームのやりすぎで死んじゃった人とおんなじですね。

だから、今年の目標は、できるだけやらない!
できるだけ、とにかくなにもしない!
というわけで、ブログも書きすぎるので、書かないようにがんばります。

ったく・・・
極端なんだから・・・

中庸中庸はいはいはいはい

プロフィール

尾崎真奈美尾崎真奈美

東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。ペンシルバニア大学医学部精神科、東京大学医学部公衆衛生学研究室などを経て、現在相模女子大学人間心理学科准教授、米国サーチインスティチュート、スピリチュアリティ発達センター客員研究員。
インテグラル心理学・スピリチュアリティ論・芸術療法などを教えながら研究、ダンス、執筆活動を続け、科学と芸術の統合を試みる。
天使語同時通訳は日々のインスピレーションの書き散らしである。
国際生命情報科学会、日本トランスパーソナル学会理事。日本心身医学会、日本トランスパーソナル心理学・精神医学会、国際ポジティブ心理学会会員。

最新のエントリー

全てのエントリー

カテゴリー

月別アーカイブ

携帯でもSQ Lifeメッセンジャー・ブログが閲覧できます。
http://blog.sq-life.jp/m/
メッセンジャー・ブログ QRコード