
なんだと思いますか?
それは、「ありがとう!」
今朝、なぜか突然母に対していろいろな感謝が沸き起こって、起きたらすぐこれをかかないといけないと思った。
実は昨日、あまりいいお天気だったしうれしくて、いろいろな大好きな人を思い出して、心から本当に大好き!ッてHUGしていたのだった。
順番に思い出す人みんなを抱きしめながら、単純にだいすき~~~~~~~って言えない人が二人いたのだ。
そのひとりが母だった。
母親はいつも何かと口うるさくて子どもが、嫌がることを言う。
たいていいつまでたっても、自分の子どもだという意識があって、自分の支配下にあると思ってる。
身近にいるから他人には見えないいやなとこをいっぱい見えてるし。
いい人だな。
がんばってるな。
彼女なりにすごいよな。
ああ、本当によくやってくれてるよな。
と思いながらも、大好き~~~~~~~ってHUGするほど手放しの存在ではないことに気がついた。
小さいときからのいろいろな葛藤があるからかもしれない。
もちろん全部許してるし、すごく感謝してる。
でも、大好き~って沸きあがってくる情熱から抱きしめることはできない。
これが、母親という存在なのかもしれない。
嫌われながらもきついことをいい、にくまれながらもしつこく守ろうとし、まったくうるさいといったらありゃしない。
そういう母親にはけっしてなるものかと思っていた。
しかし長女からしてみたら私はわけわかんなく厳しいし、介入しすぎの親だろう。
その反動か、長男にはゆるすぎ、優しすぎ、とよく言われるけど。
思い起こすと、その口うるさく侵入的な母親の気持ちがありがたいのだ。
今だって、決してそういうことは嬉しいことではないけど、いや、頭にくるし、いらっと来るけど、同時にそれはすごい心を配ってくれてると嬉しくて。
絶対的にいつも言い足りてない言葉。
「ありがとう」
なかなかいえないかも。
なんか、こわいんだよね、それを口にするのが。
呑み込まれる感じがしてしまうのかな・・・
いや、母親ってすごい。
いい仕事をしたい人は、仕事をしてはいけません。
なぜか?
仕事はどうしてももやりすぎてしまうからです。
やりすぎたらどんなことでもうまくいきません。
また、仕事という響きには義務が伴います。
いいものは義務ではなく、自由意志でやりたいことに夢中になっているときにこそできるからです。
クリエイティブなことを心がける人は、仕事をしてはいけないと思います。
これは、なにもするなということではないんです。
ただ、あまりにも多くの才能が、義務をこなすことでつぶされているのを見て、量をこなさなければいけないという間違った目標に踊らされてへとへとになっているのを見て、つくづくそう思うんです。
やりたくないことは病気になる前にやめたほうが長い目で見て経済的ですし、あなたもまわりも幸せになります。
やりたくないときは、体の調子が悪かったり、心の波長があっていなかったりするときです。
他ですっきり気持ちよくできることがあるはずです。
寝たかったら寝るのが一番ですし。
ワーカホリックになってしまったら、そういう自然の声も届かなくなって、突然死なんていう悲劇も起きるらしく。
仕事をするなっていうのは、いい仕事をするために絶対に覚えておくべきことだと思います。
せめて、週のうち、一日だけは絶対に仕事をしない日を作る。
これだけで、あなたの仕事量と質が飛躍的にアップすることがわかるでしょう。
試してごらん。
心配してることのほとんどは起きないそうですね。
本当にそうですね。
統計とって見たらいいかも。
プロセスの中で困難さが見えるとき、もうだめかな・・・なんて思ってしまいますが。
そういう時どう考えるか。
まず、客観的に判断してだめな確率が高いとき。
これは、きっと、もっといい道が開かれる、待っているに違いないと考える。
ほんとにそうだもん。
これは今の時期が最高ということではないことを物語っていると考えて待つ。
ほんとにそうだもん。
次、だめかどうか客観的に判断するにはまだ材料がそろっていないとき。
だめだと思うほうが気楽かもしれません、がんばらなくていいからね、もう。
でも、そうやって元気なくしたりいらいらしたりするより、判断材料がっそろうまで棚上げしておく。
考えないで遊びにいくとか、寝るとか。
すごくいいよ~
やってごらん?
たいていの場合は心配は思い過ごしだったってことがわかるからね。
ねえねえ、どうしてみんな睡眠削るの?
どうして寝られないの?
ハーヴァードスタディーをご存じですよね。
睡眠をしっかりとっている人のほうが、少ない人より仕事の能率も成績もいいし、精神衛生もよく、愛他的でやさしいのだそうで。
当然美容と健康にもよく若くて美しいというおまけつきでしょうね。
果報は寝て待て
寝る子は育つ
というわけで、お昼ねでも、いかが?
なんでも自分でやろうとすると疲れるでしょ。
できないことは、ほかの人や運命にお任せして、安心しておやすみなさいまし。
信頼しないと・・・ね。
わかった!!
すごく簡単です。
どれだけ笑っているかでわかるんです。
どれだけ微笑んでいるか
どれだけ心のそこから笑っているか
どれだけ大笑いしているか。
つまりどれだけJOYにアクセスしているか。
つまり光と一体化しているか。
その軽やかな波動は、澄み切った優しい目と愛らしい口元で判断できます。
笑顔のすばらしい方は天使です。
その方の目の奥をじっと見つめてください。
永遠が透けて見えてきます。
話には聞いてたけど、なるほど、こういう人たちかって。
楽しかった~
だって、感性が同じなんだもの。
生まれる前の話とか、見えてくるヴィジョンの話とかが淡々と普通にできる。
大学3年生の彼たちは、こういうこと誰にもいえなかった、変だと思われるからって。
話せて喜んでいた。
「ねえさん」
とか呼ばれて私も嬉しかった。
だって、私も素直に話せなかったし、自分を偽って出さないようにしてきたんだもの。
そういう話をさらっと出せるような機会を作ってくださった研究会の皆様、どうもありがとう。
時代が変わりつつあることを、ますます実感して嬉しくなりました。
これは実は同じことだったりするらしい。
昨夜のユング心理学研究会で、見事な説明があった。
ユングは心霊現象に初めて科学的に取り組んだ偉大な人物だ。
生涯、心霊現象の記述に格闘していたようで、有名な元型理論も霊魂を彼なりに記述したということらしいということを聞いて、ははあんと納得がいった。
恋愛も心霊現象も、ありえない幻想というお化けに突き動かされているわけで。
どうすることもできないわけで。
冷静な頭脳でコントロールできない領域なわけで。
駆け引きとか考えられるうちはまだそういう段階ではないってことで。
つける薬がない病気は、心霊の仕業だということで。
納得納得。
そういう時は抵抗は無駄です。
流れに身を任せるしかないのです。
もうすぐ春ですね。
援助職がバーンアウトしやすいことはよく知られているけど、その理由のひとつに、苦しむ人に対する同情によって神経をすり減らすというのがあるそうだ。
共感するとやはり自分もぐったり疲れてしまう。
私も経験がある。
共感して動けなくなって、うつになってやめたという苦い経験がある。
だから、臨床は向いてないと研究職に移ったのだった。
この同情疲れはどうしたらいいのだろう。
プロ意識を持って、境界をきちっとすること。
もっともなことだ。
しかし、葉隠れ流の日本文化には、それをよしとしない風土がある。
難しい問題だ。
私にはどう答えたらいいかわからない。
これは、スピリチュアリティをどう捉えるかにも関係してるような気がする。
深い問題なのだ。
面白い事に気がついた。
スピリチュアルな事を語っている人は実はそんなにスピリチュアルな人ではない。
一生懸命、求めてる人ではあるけど。
また、垣間見て、伝えなければと使命に燃えている人だろうけれど。
すごくスピリチュアルな人は、全く話さない。
ただ、微笑んでそこにゆったりしてるだけ。
理由がわかった。
言葉にしたら翻訳されて本物ではなくなるからだ。
実のところ、輝いて光を放っていく事しかできないもの。
言葉を持っている人間は、経験を記述したとたん、経験そのものではないもの、表現されたものになるからそれはオーセンティックではなくなると、哲学者は言う。
理屈ではそうだ。
極論すると、書かれたことはいてることは全部オーセンティックではない。
私の天使語同時通訳なんて、うそばっかりだ。
ここでできることっていったら、自分が気がついている、自分の気持ちや考えを偽らないで表現したり生きていったりすること。そうすることによって不都合が起きたり、いじめられたりするにもかかわらず勇気と確信をもってそうすること。
心理学的にいったら、それがオーセンティックということの意味だ。
だったら、赤ちゃんは一番オーセンティックか?
動物はオーセンティックか?
人間の意識化された自己の表現としてオーセンティシティーを捕らえるとき、赤ちゃんや動物には当てはまらない概念であるということになる。
自分の気持ちや考えに忠実であることをオーセンティックというのであれば、いやなことを喜んで!なんて言ったり、泣きたいときに笑ったりしてるのはぜんぜん違うということになる。
社会性の発達は、オーセンティシティーを阻害するのだろうか。
そうかもしれない。
でも、その段階を越えたところで見えてくるオーセンティシティがある。
これは普遍的なものとの一致。
澄み切った透明さ純粋さから実現していく。
とらわれや防衛がない状態。
さらさらと滞りなく流れる、通過していく。
主義を曲げないというような硬くなった状態ではない。
あくまで軽やかに風に舞っているだけだ。
どこにあるのか。
こころのなか?
意識の中?
心って何?意識って何?
なかなか難しい質問だ。
モデルとしては、個人無意識と集合無意識の境界上にトランスパーソナルセルフを配置したアサジョーリモデルが優れていると思う。
言葉を越えているものを言葉で説明するときには、どうしても単純化がおき、捨て去られる情報がある。だから、どの立場で何を説明しようとしているのか、どういう文脈でどの側面を記述しようとしているのか、を明らかにしなければならない。
学問って、それを整理する作業だから、仮説を語っている人よりひとつ上の次元から見なければならない。これって、ものすごくスピリチュアルなことだと思う。
知性や科学こそ、スピリチュアルには欠かせないと、いつも思う。
独りよがりの主観はスピリチュアルとは言わない。
こちらでの視座がしっかりしていない場合には、病的な独善に陥りやすい。
他者との会話ができず、孤立していく。
不健康だ。
だから、学問は非常に大切なのだ。
自分らしく生きるってどういうことなんだろう。
自分ってなんだか判らないとどうしたらいいのかわからない。
わからないものにはなれないのだ。
存在のそこから湧き上がってくるエッセンスと同調する・・・
それがどうやってわかるのだろうか。
やりたいこと、楽しいこと、嬉しいことは、もちろん社会的に吟味される必要がある。
バランスのとり方が重要なんだ。
どっちにも、偏ったら不健康。
体や感性とかが軽視されてる傾向があるから、それを呼び戻すことがスピリチュアルだという偏見があるけど、違う。
それは、体も心も、知性も、感性も越えた向こう側にあるんだけど、それら全部がそろっていないと、健康にリーチできない。
本当に自分らしく生きるためには自分にかけている部分を補強しないといけないんだ。
やりたいことをやるだけでは、本当の自分にはなれないんだ。
これはどういうことなのだろうか。
世界中で、シンクロ的に意識変革が確かに起こっている。
私は学問の世界、それも限られた心理学関連しかしらないんだけど、このところのスピリチュアリティ研究にはめざましい勢いがある。
ほんの数年前まで、無視されつづけてきた分野である。
2000年に書いた論文は、無視され批判され、学会誌掲載に3年もかかった。
出来の悪さはもちろんあるけど、3歩くらい先に行ってたために査読委員が????だったから仕方がない。
それでもめげずにやりたい事をしてきた。
実は、20年前に、伝統ある大学でダンスセラピーで学位を取りたいと思ったんだけど、日本ではそういうことを学べる機関はなく、かといって友人のように留学してあっちの人になってしまう勇気もなく、理科系のバリバリ論文記述訓練を受けた。
ダンスセラピーで学位はまだ少し早かもしれない、特に権威のある大学においては。
スピリチュアルティで論文を書くというと、その言葉を使わずに、別の哲学的表現で置き換えて触れないようにした方がいい、と何度も忠告を受けた。
去年のことだ。
でも、この言葉が捨てられない。
この言葉でしかあらわせられないものがあるからだ。
こういうことに関しては、めちゃくちゃ頑固な私だ。
粘りつづけてよかった。
世界的な研究状況を無視できなくなって、スピリチュアリティ研究最前線の情報が、グラント募集が発信されるようになり、権威ある大学でも、ちらほら聞かれるようになった。
ほんの昨年まで、なんだかはばかられると言う状況だったのに。
事態の好転に我ながら驚いている。
摂食障害の研究をしていた頃は、日本でその常識が浸透するのに、20年かかった。
その間なんだか淋しかった。
精神神経免疫学をしていた頃はかろうじて一つグラントが取れたけど、どうも日の目を見なかった。
いまや常識。10年かかった。
スピリチュアリティ―研究は、5年でたぶん大丈夫。
5年後にはきっと、確立した研究分野となって日本でも花盛りになるに違いない。
なって、見えない手で集められているからだ。
頭脳が、情報が、研究資金が、場所が、助けの手が、集められているのだ。
これは個人の思いではない。
ものすごい勢いなのだ。
流れに身を任せているだけでどんどん進んでいくのだ。
できることは抵抗しないですうっと流れに乗ることだけだ。
愛に上も下も無い。
好きになることはいけないことではない。
競争してゲットとするものでもない。
愛は普遍的で永遠だから、バレンタインディだけのでもないし。
でも、エロスは限定された愛でないとまずい。
道徳的な見地から発言しているわけでは無い。
第1に、体力が持たない。
第2に、子どもを育てるのに不便。
第3に、限定の中だからこそ、凝縮した深みがあるのだ。
深く繊細な、全人的な心も身体も魂も総動員した聖なる体験だから、細心の注意を必要とするし、相手のことを理解しないとできないし、それには時間と経験と思いやりが必要だ。
いま知り合ったばかりの一目ぼれの相手と、すぐに良いセックスができるわけが無い。
長くじっくりと練り上げていくようなものだからだ。
次々に相手をかえるのは、その醍醐味を知らないからに違いない。
この世で最大の、喜びであり癒しの根源だ。
だから、おそれおののき、タブーにまでなるのだ。
その神秘の世界は語り尽くせず、語るべきでもないのだろう。
ヴァレンタインが今年もやって来た。
愛するあなたに、魂のKISSとHUGを送ります。
幻想だと思っているものが、実は本質。
目に見えるものはすべてすべて幻想に過ぎない。
その事に気がつくのに、絶望を経験しなければならないという見解に反論する。
すべてが幻想である事は、光の本質に目を注ぐことで分かってくるもの。
絶望…それは最大の罪である。
罪の定義は先日の日記参照のこと。
病気は罪から来てるんです。
なんて書くと、いつ私が悪いことしたというの?
といわれそうだから、まず、罪って何かという話からしなければ。
罪って、悪いことをすることじゃないのよ。
ただ、本質、スピリットから離れているっていうことだけなのよ。
あるいは見えなくなっているということなのよ。
その結果?
悲しみに覆われてしまうのよ。
本質、スピリットは愛だから。
愛が見えなくなってしまうこと、それを罪というのよ。
すごく悲しいことなのよ。
せめてないのよ。
責めることが罪なのよ。
愛がないことだから。
そうするとどうなるかというと、混乱・不安・うつなどが起きるの。
でも、それはこのままではおかしいよっていう警告なの。
でも、ネガティヴィティがなくて、人が傷つくのをを見て喜んだりするのは、もう、重症の病気なの。
他人の不幸は蜜の味?
亭主元気でルスがいい?
ああああみなさま!!
これらは病気です。
病気からの回復は、愛と喜びの源泉との関係回復、一体になることしかないんです。
罪からの回復は罰を与えることではありえません。
その発想自体が罪なのです!!
間違っても、罰を自分に与えないで下さい。
それこそが罪です!!
間違ってしまったことに対しては、当然、自然の結果がついてきます。
それでもう、十分なはずです。
自分や人を責めること、それ自体が罪なのです。
だって、愛ではないから。
愛の源泉は誰をも責めないから。
病気から回復したらわかることは、軽やかさです。
透明でクリアに見えてくると、すべてを通過させてしまうから、傷つくこともなくなるんです。
自然に全部が感謝と喜びの感激になってきます。
なぜか?
スピリットは、本質は、愛だからです。
セルフってなんだろう。
自分って何?
本当の自分って?
いろいろな説やモデルがある。
アサジョーリの卵形モデルはすごく気に入って授業でも紹介してるんだけれど、ハクスレーのを知って驚いた。
これは、本当にすごい。
本物だわ。
彼は知ってる、あの世界を。
だからこそ書けるんだ、こういうことが。
自己って意識しているのとそうでないのがある。
意識化してないもの(かれは非自己と呼ぶ)には2種類あって、否定的なのと肯定的なのだ。
この分け方が秀逸だ。
まいった。すばらしい。
否定的な無意識の自己は抑圧や習慣などによって作り上げられた偽りの自己。
これは再学習して取り除いた方がいいものだ。
肯定的な非自己にはいろいろな段階がある。
まず、植物魂。
これは物理的な存在といっても良いだろう。
生理的な反応や本能などでできている。
それが、叡智・元型・神秘と深まりながら、最終的に普遍的な非自己にいたるのだ。
だから、その極みは肯定であり光であるのだ。
ネガティヴィティは、未熟か病気の結果なのだ。
マズローもまったく同じことを言ってる。
しかし、ほとんどの人が未熟で病気もちだから、この真理を把握するのに困難を感じるのだ。
科学者として発言しよう。
このモデルによって人間の可能性を信じ、明るく元気に生きられるとしたら、正しい正しくないの問題ではなく、良いモデルといえるのではないか。
がんばって論文を書こう。
あはははは
またまたかっこいい言葉だけ思いついちゃった。
あのね、スピリチュアリティは言葉にならないというのが本質的な議論だと思いますけれど、それにわざわざリテラシー(識字力?)って言うものをくっつけたのは、これを意識化・コントロールすること、論理的・合理的に捕らえることがどうしても重要だからです。
わけわかんない世界だからこそ、日常的なこと以上に、リテラシーが必要となってくるのです。
そうしないと、スピだと思いながら、実は単なる抑圧された自分の闇に取り囲まれてしまったり、あっちにいったまま戻ってこれなくなったりするからね。
それは違うのよ。
スピリチュアルって、今ここで意識的に、知的に現実的に生きることの中にあるものだから。
今ここの中にファンタジーを見ることだから。
あっちって言っても、こっちなのよ。
おんなじことなのよ。
スピリチュアルリテラシーを促進するためには、スピリチュアル診断テストをやってみて。
タイプごとの、お薦めの技法を使ってみてください。
スピリチュアルな人は、病気に意味があるという。
肩こりは表現しない怒りがたまっているからだ、とか。
すべての病気や事故にまで意味を見出し反省させる傾向がある。
因果応報だという。
自分に覚えがない場合は、過去生からのたたりじゃという。
あああ、ったく・・・
人間はスピだけど、同時に物質なんだ。
物質的なところだけで判断するのが片手落ちなのと同様に、スピリチュアルな存在だけを強調するのも片手落ちで危うい。
前世療法する前に、自分のライフスタイル見直しが先でしょ。
こころの重荷?
カウンセリングするより、汗流してごらんよ。
ストレスホルモンが放出されてすっきりするんだから。
なんでも順番があるんだよ。
健康的なライフスタイルをしないでカウンセリングやスピリチュアルヒーリングに行くのは本末転倒。
まず、よく寝てストレッチするなり走ってくるなり運動してごらん。
たいていはそれで解決するから。
健康教育家は見えることだけに、心理屋さんは心理に、スピの人はスピに偏りすぎ。
自分の知ってること得意なことだけに信頼しすぎ。
重点を置きすぎ。
全部同時にみないと。
人間はスピリチュアルな存在ですが同時に物質ですから物理法則にコントロールされてるんです。
うそだと思ったら、重力に反して飛び上がってごらん。
どこまでいけるか試してみて。
スピとモノを混同しないで下さい。
この世を最大限に楽しんで欲しい。
楽しいことはどんどんやって欲しい。
いやなことはどうやったら楽しくなるか工夫して欲しい。
嬉しいことはどんどん広げていって欲しい。
悲しいことはよく味わって欲しい。
辛いことはこれがあるから楽しみがあることを思い出して欲しい。
苦しいこともよくやってる自分をほめてやって欲しい。
そして最大限にこの世を楽しんで欲しい。
いつまでも残るものは愛だけ。
そうでないものは全部過ぎ去るだけ。
成熟するということは、どれだけ視野が広がって客観的になれるかによる。
どれだけ時間的、空間的に広い視野で物事が捕らえられるかによるけど、同時に、今、ここで自分のために真剣に生きることも意味する。
同時なんだ。
そして時空の広がりは永遠だから、非常に成熟した人は、一見幼く見えるかも。
そう、とらわれのなさと遊び心というきらきらした眼で。
笑いがない人はスピリチュアルではない。
と思っていたんだけど、ウイルバーも同じことを書いてたから、やっぱりねって思った。
「笑いがないということは、軽やかさを欠くということであり、光がないことを意味する。
つまりエゴというパワーゲームに縛り付けられていることだ。」
まなみん意訳
ケンちゃんはさすがにいつも明快だわ。
負けた。
本人は一生懸命だから笑ってはいけないんだと思う。
だけど、結構、まじめすぎるのっておかしい。
これはきっと、本末転倒になってしまうからなんだろう。
今回、生まれて初めて、いわゆるパッケージグループツアーに参加して、びっくりした。
集合時間に遅れないようにするのはマナーだけど、でも、その集合時間よりみなずいぶん早く来るんだ。
オンタイムに行こうものなら、心配しましたよという視線がちらほらと。
オンタイムなんだよ! 遅れてないんだよ。
1分前には着いていたのよ。
自分が乗り込んで席に座った0.5秒後に発車するんだ。
少し気になる。
次は余裕を持っていこうとする。
で、誰も最後になりたくないからだんだん早くなる。
集合時間の5分前には全員そろって来る。
最後のほうには、集合時間の10分前にそろうようになって来た。
なんと言うすごい国民性なんだ!
アンケートのご協力には、みなまじめに時間をとって書き込んでいたし。
流氷の上にはでないでくださいといわれたら絶対に出ないし。
(実は、私は乗って遊んでたんだけど。だって、どう見ても大丈夫そうだし、ほかの人もいっぱいのってたんだもの。)
ここでトイレに行けといわれたら必ずいくし。
このお土産はここで買うべしといわれたら必ず買ってるし。
なんと言うすごい国民性なんだ!
本当に素直でいい子ちゃんなのよね~
あんまりいい子すぎて、困っちゃうわ。
まじめにいろいろ気を使いすぎて、お楽しみ旅行なのに、修学旅行生が先生に引率されてるみたいな気分になってくる。
眠いのに、ガイドがせっかくがんばって話してるからと気を使って起きてる。
面白すぎだ。
ま、これはこれで楽しいんでしょうけれどね。
もっと野性的になってもいいのではないかと思ったしだいです。
しかし、非常に安心感はあります。
まったくもって、至れり尽くせりだからです。
アタリマエに自己責任となるところを、大手会社は赤字になっても、個人的にも、対処してくれようとするのには感動しました。
なんと愛すべき日本人よ。
こういうのが結構さりげない、スピというのかもしれないな~
こういう言い方があるかどうか知らないけど、私は伝えたい。
クリスタル・ジョイ
これは闇も光も越えたもので、いわゆる喜びも苦しみも越えたもので、受容とか平安とかいった法が近いのではないかとよく言われるんだけれど。
私としてはジョイであり、歓喜であり、それ以上の言葉を知らない。
いつも上向きで軽い、西海岸的と言われることが多いけど、実は違うんだけどな~
この喜びをどうやって表現したらいいのか、困る。
そこで新しい言い方を探していた。
ピュアージョイでもよいかと思った。
意味的にはいい。
でも、語呂が悪いから却下。
クリスタル・ジョイ
これはすべての先にあり、そして同時にすべての中にあるものなのだ。
無限大の速度で打ち震えているのだ。
携帯でもSQ Lifeメッセンジャー・ブログが閲覧できます。
http://blog.sq-life.jp/m/
