尾崎真奈美の天使語同時通訳します

2008年03月

ロマンチックな哲学

先日から哲学の学術会議に来てるんだけど、初参加で戸惑う事ばかりで。

科学の世界では実証が重んじられるし、根拠のない事や見えない物を語る事は御法度だ。
スピリチュアリティを科学しようとしている渡しはいろいろなところでさんざんな目に遭い、自分ではなおも科学的アプローチをしているつもりだった。

哲学は言葉の使い方が厳密で、答えが見つけられない事を、ああだこうだとじっくり時間をかけて探索する。忙しい現代人為はあまり人気がない。
真実とは、美とは、善とは、何かって延々と議論してるんだから。

世界の最高峰の頭脳集団。
専門外のまなみんは、脳が破壊されるほど酷使してもチンプンカンプンだった。

前提となっている専門用語の意味や引用されてる言葉の含みという素養が全くないからだ。
うぎゃ〜〜〜〜〜
分からないという事はこんなにストレスフルなのね。
しかし、時々、私の大好きな夢のような言葉が聞こえてくる。

光。喜び。愛。美しさ。本物。普遍。永遠。正義。

科学論文では御法度の、袋だたきにされそうな用語群だ。
それが大真面目に取り上げられ議論されているのを視るのはかなりのカルチャーショックだった。学術で扱うべきトピックではないと慎重に避けてきたからだ。
少なくとも、科学者は論文でそういう事はかくべきではない。
触れたとたんに、はいさようなら。
夢想家さんは詩でもかいていらっしゃい、となるのがおちだ。

しかし、私がここに呼ばれたという事はこの科学と哲学の対話を可能にする為だという気がしてきた。
そうだ。
今日は徹底した科学の文脈で、科学の方法論で、思いっきり美と愛について語る事にしよう。
カテゴリーエラーではないという事を証明してみよう。
この人たちならわかってくれる。

幽霊と塩と水

イースターもすぎたというのに,ロンドンでは毎日雪がちらついている。
あるリサーチャーが、昨夜旧いホテルで幽霊に遭遇したと、学術会議学打ち合わせの場で語った。彼女は日本を代表する国際的に活躍する研究者で元教員,知性と論理性.常識的知恵も抜群で信頼できる人である。

マナミン先生の専門じゃないですか、なにかアドバイス無いですか?
といわれてもねえ。
そういうのかかわりたくないと思って避けてきたんですが。

ロンドンは、京都と似たような雰囲気がある。
静かで湿っぽいのだ。
何か出てきても不思議はない。
逸話には事欠かない。
敏感な人なら、旧い建物に入っただけで,何か感じるものがあるだろう。

彼女は怖くて眠れないからどうしよう,とアドバイスを求めた。かわいそうだと思って,思いつきで塩をまいたらと言った。
経験ある友人が、確かにそれはきくと教えてくれた。
なぜ、塩が利くのだろう?お砂糖じゃダメなのかしら?

そしてなぜいつも幽霊は湿った場所が好きなんだろう?
そういえば、砂漠では、蜃気楼や星の王子様はくるけど幽霊の話は聞いた事がない。
でも,熱帯雨林でもきいたことがないな。
人がいないとこには出ないのか。

塩が嫌いで水が好きな幽霊は,何か物理的条件が整うと、あっちからこっちにやってこられるのだろうか。そういえば,時空を超えた向こう側にいく為の扉は水の中とか洞穴とかである事が多い。
天使はお空からの事が多いけど、朝露の中にも現れる。
NaClとH2Oの性質を調べてみたくなった。

もしかして、このスピリチュアルな世界を解き明かす為に私はここに呼ばれたのだろうか。
怖がる必要はないという事を説明する為に。

ナルニア国のライオン

もし、この世に何らかの法則があって、一定の死が新たな誕生にとって必要である避けられないことであるなら、誰かが犠牲にならなければならない。

誰もが生きながらえる事を望み、自分の力を充実させ自分につらなる一族の繁栄の為に尽くす。
これは健全な精神構造だ。
「意味ないし,どうでもいい」と無気力になるよりずっと健全なことだ。
しかし,誰かが犠牲になって、苦痛と恥辱にまみれた死を引き受けなければならないときに、自傷行為を繰り返す人たちが雄々しく立ち上がっていくようなイメージはわかない。

一国の王であり、尊敬され敬われ皆の支えである存在は、この世的にみたら生きながらえて皆を指導しなければならない。その貴重でたぐいまれな高潔な存在が、だからこそ、幼く無知から失敗してしまう存在の身代わりとなって悲壮な死を選ぶ。
国を統治する象徴的存在がいなくなる事で,人々は乱れてしまうのだろうか。
いや,彼の死によって皆の可能性がよみがえるのだ。
あたらしい繁栄に向かって加納氏を実現していくのだ。
地上の死は永遠の死ではないから,長らえた人々の精神のなかにその愛と勇気がよみがえっていくのだ。

ルイスのナルニア国の話は壮大で深い。
ぜひ原作をお読みになる事をおすすめする。
第一章ライオンと魔女は,秀逸な映画になっている。

謙虚さに思う

人と比べて自分が何もできないと思うのは謙虚ではなくて、卑下だったりすることが多い。

本物の謙虚さとはじぶんひとりでは何もできないこと、すべてが支えられていることに気がついて感謝していくことだと思う。

私が傲慢に見えるとしたら、自信を持っているからだと思う。
その自信は、自分が何かを達成してきたからというからではない。
自分は何一つ成し遂げることなどできていないし、これからもできない。
なにもできないけれど、皆様の智慧と力と暖かさに支えられて、その方たちの愛やエネルギーを私がかわりに表現できることがたまたまあるだけ。
すべてのよいことは全部みな先人たちの努力の賜物であって、私はただ、それを繰り返したり勝手に拝借しているだけだ。
著作権云々も言わないでみな、本当に寛大だ。

私はいろいろなところでいろいろ書き散らしているけど、どんなにコピーされようがぱくられようが気にならない。
自分のオリジナリティでないことがわかっているからだ。
上から来るものに対して、どうやって著作権を主張するというのか。

ただ、共著の場合やほかの人の手が加わっているときには慎重になる。
みななぜかそういうことをすごく気にするからだ。
実はそういう精神が理解できない。
よいことはどんどん広まるほうがいいに決まっている。

ちがうのかな。

二つのリアリティ

世界は光に満ちている、というのは可能性であって、世界平和が今ここで実現されているといってるのではない。
リアリティには大きく分けて二種類ある。
見えているものと見えていないもの。
見えていないほうが本質で見えているほうが少しゆがんだ現れなんだけど。

祈りは聞かれる。
いいことをしたらいいことが起きる。
徳を積めば天国にいける。
すべてのことに意味がある。

これらの可能性を信じれば幸せに生きられる。
実現しないからといって嘆いたり、人や神や運命をのろったり愚痴をこぼすのはお門違いだ。
事実は厳粛にここに存在している。

優しく純粋な子がいじめられはぶかれ自殺に追い込まれる。
善良な正しい人が迫害されて殺される。
寛大な人が搾取され利用され、極貧のうちに誰にも知られず亡くなる。

否定できないこの世の事実である。

しかしだからこそ、本質を見つめて欲しい。
可能性のリアリティをじっと見つめて欲しい。
そこには光しかない。

そわそわうろうろどきどき

実は私はほとんどまったくといっていいほど、あがらないたちである。
つまり本番に強い人だ。
なぜか知らないけど、実力以上のパフォーマンスをしてしまい、よく評価されすぎて困るという変な悩みがあるほどだ。

そう、本番には強いんだ。
たぶんそれはすごく楽しむからだと思う。
そして、他人の目や評価をぜんぜん意識しないからだと思う。
自分が自分らしく楽しかったらいいというだけなので。
自信があるというより、自分はこれだけの存在だということがわかっているから高望みしないということかもしれない。
あがるのは、よくみられたいと思うからかもしれない。
そうすると自分らしく振舞えなくなる。
自分らしいのが一番耀いていて素敵なのに。

よく評価されすぎて、場違いなところに招待されてしまった私。
そうそうたるメンバーに驚いてしまった。
何で紛れ込んでしまったのか。
何かのいたずらなのか。
世界のエリート集団の中でなにを話せるというのか。

いまさら付け焼刃で勉強しても教養が追いつくわけもなく。
知らないことは知らない、勉強してないことは勉強してないというしかなく。
私は私らしくニコニコしているしかなく。

結局はそれでいいのだと思うしかない。
そうだ。
私が私らしくあればいいのだ。
背伸びしても無理だもの。

ああ、でも。
実は、そわそわうろうろどきどきしてる。
何着ていこうかな~って。笑

魂の健康さ

健康って何かを考えるときに、ひとつは病気がないことって言う見方がある。
近視も虫歯もない人って、とても少ない。
その人にじゃあ、アレルギーは?
にきびは?
とか聞いていくと、完全に健康な人はいないということがわかる。
だからといって、標準値でそれが良いのだろうか?
そうじゃない、近視だって虫歯だってないほうがいいに決まってる。

それなのに、魂の健康に関してはみんなそれでいいんだって勘違いしてる。
一番の大間違いはカール・ユングだ。
かれは不健康な世の中を基準にしてあの理論を構築してるから仕様がない。
確かにこの世を反映して入る。
だからみんな納得してる。
けれど、本質はまったく違う。

アサジョーリやハックスレーの理論は本質論だと私は思う。
魂の健康な人だってめったにいないし完全に健康な人はいないから、みなよくわかってないんだ。
でも、本質は光であり愛であり、完全にポジティブだ。
シャドーがあるのは認める。
でもそれは究極の魂の姿ではない。
現象がそうだからといって、本質がそうであるとは言えない。

魂の健康さを議論するには、スピリットの視点が必要だ。

身を持って知る

この前からなんだかしつこい腰痛に悩まされていた。
出かけてくると、翌日の朝動けなくなってたり。
歩けないというのはものすごくフラストレーションがたまるものなんだけど、寝てるしかない。
しかしお手洗いにいかないと困るし、お風呂にも入りたい。
痛みをなだめながらそろそろと移動してはベットでふ~と安らいでいた。
連続睡眠療法が聞いたのか、今朝はねじっても痛くない。
少し回復したのかと思ってそっとヨガなどやってみた。
痛みがなく、動ける、物がもてるって、こんなに快適なことだったのか。

いつも普通にできてることが、実はものすごくきつかったのだ。
ただ単に、座ること。立ち上がること。荷物を持つこと。
一つ一つが、いつぎくっと来るかもしれないと、おそるおそるだった。
腰痛がある間は、からだからの警告として、意識的に仕事をしないで好きなことをして過ごした。

でも、なくなると、あ、仕事しないといけないのかなって気になってくる。
痛みがなく体が動くって、本当にすばらしいことだ。
でも、痛みがあるからこの喜びと嬉しさ、感動があるのだ。

筋肉がこってる時は気持ちがいいマッサージ。
こってないときは別に気持ちよくもなんともない。
体の動きに感動することもない。
ちょっとだけ筋肉痛というのが一番気持ちよかったりする。

からださん本当にありがとう。

清い水に魚住まず

摩周湖の透明度はかつて世界一だったという。
戦後の食料難に、その摩周湖に何度も魚を放流して、失敗を繰り返しながらもさまざまの試みが行われて、魚が住めるようになり、同時に摩周湖はその透明度を失ってしまったらしい。

美しさに憧れ、清らかさ透明さくもりのなさ純粋さを求めていくと、ついにはいのちが漂えなくなってしまうのだ。
殺菌された環境で、免疫系が異常反応を起こすアレルギーが蔓延している。
徹底的に体内細菌を殺してしまう抗生物質は、新たな症状を生み出している。
電磁波や化学物質過敏症も増えている。
動物性食品を食べられない人も実は多かったりする。
現実的にデータを知ると水も空気も恐くなって、飲んだり吸ったりできないような気持ちがする。


しかし、私たちはここに生きていかなければなければならないのだ。

できることをひとつだけお示ししよう。
にごった空気を吸うときにも、化学物質まみれの食べ物をいただくときでも、いとおしく感謝していくのだ。
だって、これがなかったら、生きていけないんだもの。
感謝の喜びで無害になることが、精神神経免疫学などで一部実証されている。
いただくものはすべて感謝していただこう。
有害物質を除外していると、生きていけないのだから。

私たち自身は、どんなに修行しても、汚れにまみれた存在でしかないのだから。
汚れ・害・悪を滅却するということは、自分自身を殺すことにつながる。

天使を探して

天使はどこにいますか?

あの澄み切った青い空の上ですか?
光り輝くきらめく水の中ですか?
優しく風にそよいでいるお花畑の中ですか?
信頼しきった赤ちゃんの眼差しの中ですか?

もちろん、そう。

だけど、どんよりした雲の中にも
にごった水溜りの中にも
枯れ果てた原野にも
一点を見つめたまま絶望に打ちひしがれた眼差しにも

いつでも、どこにでもいることに気がついて欲しい。

あなたが今いるここ。
この日常のさりげなさのすべての瞬間に天使がいることを忘れないで。
気がつくだけで世界は変わってくるのだから。

心と物とが合わさったところ

心と物が合わさった、そこにたち現れるのが「事」つまり現象。
なるほど、これでうまく説明がつく。
賢い人がいるもんだ。

天使はこれで説明がつく。
精神界でも物質界でもないところにたち現れている。
つまりイメージ想起したものでもなければ、実際にそこに物理的に存在しているものでもないのだ。
天使は想像の産物か?という問いに対して、NOであるし、実際に存在するか?といわれても、NOとなる。

見えたり聴こえたりするとしたら、そういう現象があると記述するだけだ。
ただ、天使言葉は降りてくるのである。
そして、光のシャワーはそこらじゅうをきらきら輝かせているのである。

幼い人たちへ

さなぎの中でじっとしてる間にすばらしい変容が起きて、芋虫がちょうちょになる。
大切なことは動かないこと、何もしないこと。
動いたり、何かやろうとしたら、あなたの中にある光に向かっていく成長が妨げられるのだ。

じっと寝ていなさい。
とにかく何もしないでそこにとどまっていなさい。
悠久の時間と空間と、それを超えたところの智慧がすべてを知っておられるのだから。
小さな脳と体を酷使してアクセクする必要はない。
光の中で横たわっていたらいい。
起き上がりたくなったら起きたらいい。
香しい柔らかな透明な光の中で、舞えばいい。

幼い人たち。
たたみしまわれている羽を無理に伸ばそうとしないほうがいい。
破れ、傷つき痛みが伴うから。
ゆっくりと、光の中でまどろんでいなさい。

大きな世界に準備なしに出かけようとしたら、恐れがおこるのは当然だ。
待っていなさい。
行き先のほうからあなたに招待状が送られてくるのを。
招待状には詳しい地図と最も簡単なアクセスが書いてあるから。
必要なら、案内人も送られてくるから。

期待に胸を膨らませて、そこで待っていなさい。
大切なことは動かないこと。
じっと待っていること。

違う!ちがう!!ちがう!!!

直観力が鋭いとか、普通の人に見えないものが見えたり聴こえないものが聴こえたり、対外離脱したり、そんなものではないんです。
スピリチュアリティとは。

超人的な才能で天才的な能力を発揮して人間業ではないことを成し遂げる人がいる。
だからといってそれでスピリチュアリティが高いとはいわないんです。

木や花と話ができる。
人の運命がわかる。
あったことのない人のことがビジョンで見える。
それがスピリチュアリティではないんです。

天使の歌を聴いた、神の声が聞こえるからといって、それがスピリチュアリティではありません。

変性意識=スピリチュアリティではありません。

スピリチュアリティは愛でしかないんです。

あまりにも誤解されている・・・・私は悲しい。

スピリチュアルインテリジェンスとは何か

これはやはり、美しさ、審美性でしかあらわせられないだろう。

学者は常に原点に戻る。
オーセンティックなものにもどる必要がある。
「愛と光」って軽く書いてきたけど、西洋での原典は、ダンテだそうで。

あらゆるものの原典は、スピリットでしかない。
それは、愛であり、喜びであり、輝きであり、光である。

そしてすべてがつながっているから、私たちは一体であるから。
この喜びや美しさはすべてあなたのものだ。
もしあなたが悲しみに覆われているとしたら、それは私の悲しみだ。

この認識がスピリチュアルインテリジェンス
どうやって測るか?
どのくらい優しい感情が内側からわきあがってくるかかな・・・
すべきことがわかるのは、いわゆる知性です。
したいことにしたがうのが、スピリチュアルインテリジェンスです。

ソウルとスピリットの違い

魂とスピリットの違いについて、ハルさん(村川先生)・レインボードクター(深尾先生)とこの前から何回か議論してきた
。学者によっては、一生その違いを探求して答えが出ないらしい。
ダンカンダンサーであるブレシニア先生は、単純にこのように説明された。

魂は体の少し下のほうにあって、スピリットはもう少し上にある。
場所で言うと、下腹の辺りとみぞおちのおくあたり。

これには経験的にものすごく納得してしまった。
日舞や日本的な動きはいわゆる丹田に意識を集中することを大切にしているのに対して、西洋的な踊りは胸が中心である。
このあたりも深みと高みのスピリチュアリティの特徴なのだろう。

ゴシック建築やクラシックバレエは確かに、上昇志向だ。
理想を求めた、意識的な緊張の連続だ。
暗黒舞踏は反対に地に戻り深くもぐりこむ。
存在の底なしの闇に迫っていく。

ダンカンは、悲劇と苦悩の中に聖なるJOYを発見し体で表現していった天才舞踊家だ。
その深みと高さ。
この全体性こそがいのちだ。
ソウルとスピリットは、そこで出会うのだ。

スピリチュアリティを測る

数年前に、その人のスピリチュアル度ってどうやったらはかれると思いますかって、専門家に聞いてみたことがあった。

第一番目の反応
ノーコメント
そんな大切なことを簡単に聞くんじゃない!
そういうかんじ・・・すみません。
個人的な大切な体験を語って欲しいわけじゃあないんですけど・・・そういうとこを刺激するらしく、お怒りをかった。

2番目の反応
そもそも測れない、記述できないというのがスピリチュアリティだろ。
それを測ろうとするのは暴力に等しい行為だ。
まあ、そういう立場もわかるけど、もし測るとしたらどういう指標が考えられますかって質問なんですけど。

3番目の反応
操作的定義を、限定をしたら何か測れるかもなあ。
でも、そんなことしてなんか意味ある?
ほんと、科学主義にたいすっる抵抗って、大きいんですね・・・

4番目の反応
至高体験とか、変性意識状態なり具合を聞いたら指標になるんじゃないか。
まあ、ねえ。そういうのもひとつありかもな。
でも、なんか本質と違うような気がするが。

5番目の反応
愛、喜び、許し、ユーモア、オリジナリティ、寛容さ、などの心理特徴ではかれるかな・・・
ウイルバー定義の第4番目ですね。
ま、欧米では一番ポピュラーな考え方ですね。

というわけで、調査回収率30パーセントに満たないお粗末さで、相棒のノリオクンは論文にできないとかたいことをいってましたが、いや、せっかくやったんだから報告だけはしておこうって、トランスパーソナル学会誌に出しました。

有名人の回答をそのまま乗せてありますから、かなり興味深いです。

みなさんだったら、なんて答えますか?
一応、私なりにスピリチュアルテストを作りました。
それ、SQライフにアップしてありますからやってみてね。

今の私だったら、喜びの度合いで測ります。
笑顔がどのくらいの割合で見られるかとか、何回大笑いしたかとかではないですよ。
目を見たらわかります。
光に一致してる人は厳しい眼差しの中にも愛と喜びがあふれ出ています。
あとは、体の動きでわかります。
偏りなくスムーズで滞りがなく調和しているんです。
これがきっと、ローエンがグレイスと呼ぶものなのでしょうね。
意識の透明さと光の流れ具合が体に反映されるんですね、きっと。

矛盾だらけ

この世は矛盾だらけなんだけど・・・

すっきりさせたい単純になりたいと思って、白か黒かをつけて、論理的にまっすぐにしようとするんだけど、もともと、究極が矛盾してるんだから、というか、正反対のものが統合されたのが世の中なんだから、うまく説明できるわけがない。

光は闇であり、生きることは死ぬことだからだ。

でもだから、闇だとか死を強調するのは外れてる。
究極は喜びしかないのだ。
でも、それは究極の悲しみと同時。
でも、そういうことを言うと、みんな恐がるからあまり強調しないだけ。

でも、何度もいうけど、喜びなのよ。
何もしなくてもいい、どこにもいかなくてもいい。
ただ、今、ここにいる今の状況そのものが、ものすごい喜びであることにただ気がつくだけでいいのよ。

冷たい喜び

私の研究テーマは喜びです。
スピリチュアリティとは何かって、いろいろ考え体験し、話を聞き、本を読み、討論した結果、ますますその確信を強めてきました。

実はこのテーマははじめからあったのです。
そして、調べる前からわかっていたのです。
データを取る前からわかっていたのです。
本を読む前からわかっていたのです。

はじめから率直に話すとなかなかわかっていただけないから、工夫しました。
いろいろないい方をしました。
妥協もしました。
喜びが感じられない人に対する配慮も考えました。

でも、喜びは喜びでしかないのです。
存在そのものの、輝くようなこの命を、他になんと言えばよいのでしょうか?
静かな、この透明で冷たく燃える光を、喜び以外になんと言えばいいのでしょうか?
歓喜?至福?
打ち震えて感動で圧倒されるような熱い喜びを通り越した喜びは、とても静かで冷たいものなのです。
ダイヤモンドやクリスタル・氷の輝きです。
冷たく固いのです。
エネルギーが凝縮しているとき、高周波で微細な動きは静寂そのものに見えるでしょう。
スピリチュアルな喜びはそういう冷たいものなのです。
でも、静かに燃えているのです。

回転木馬

人生って、本当にメリーゴーランドのようですね。

上がったり下がったりしながら、くるくる同じ方向にみんなでまわっているの。
馬車にゆったり乗りこんだ人は上下に動かないで優雅ですよね。
ユニコーンにつかまってる人は、後ろの人に手を振ったりしても、後ろにはいけないのよね。
行くには自分のお馬から下りないといけません。

同じ方向に、同じスピードで回ってるんです。
逆らって反対方向に行くにはかなりの技術と忍耐が必要です。
落ちて怪我するかもしれません。
そのスリルが楽しいっていう人もいるみたいですね。

でも、いつもきれいな音楽が流れているのよ。
そしてきらきらと、きれいなお花や宝石がちりばめられていて、大きな鏡もありますね。

係りの人が止めてしまうまでくるくる回り続けるしかないのよ。
あなたはそこで何をしますか?
何を見ますか?

動き回ると酔ってしまうから、回転に任せてお楽しみ遊ばせ。

雛人形をみながら考えた。

花嫁衣裳は純白で、あなた色に染まるということを象徴しているそうだ。
確かに白は美しいけど、光という角度から見たら、すべてを跳ね返してできる色ですべてを吸収する黒とは正反対なのだ。
また、雪や氷で象徴されるように、冷たくかたいのも白。

実は私は白が大好きで、車もコートもくつも最近白ばかり。
おまけに髪にまで白いものがちらほら見えるようになってきた。

白は正しさの象徴でもあるようだ。白星とか。
でも、白旗は降参を意味するな。
あなたにもう後はお任せしますという感じね。

正しさの象徴でありながら負けの象徴であるということは、自己放棄したときこそ正しい道にある、ということを象徴しているような気がした。
エゴで何かを成し遂げようとするときには無駄な力が入ってしまう。
スピリットにお任せしているときには優雅で流れるような動きと柔らかな笑顔になる。

今日もまた、大きなものに任せて流れにのり、風に運ばれていこう
でも、本質・中心につながっていないと、どこにとんでいくかわからないよ~~
光にしたがっていくことをお忘れなく・・・

卒業式・謝恩会

3月は新しい門出のシーズンだ。
毎年繰り返し巡ってくるこの季節。
教え子が巣立ち育っていくのをみるのは、教師冥利に尽きる。
立派に卒業し就職し、結婚し親になった教え子たちは、私よりずっと立派な社会人だ。
その、元学生たちから、先生!なんて呼ばれると、なんだか気恥ずかしい。

そして今、先生をしながら同時に学生をしてるので、学生の気持ちもよくわかる。
先生に喜んでもらいたい。
期待にこたえたい。
できない悔しさ・・・

学生は先生の子どものような感じがする。
できのいいのも悪いのも、みんな等しくかわいい。
心を込めて接したらそれだけかえってくる。

これだけいろいろな経験を与えられて、なんという感謝なのだろう。
嬉しくて楽しくて、ついやりすぎてしまう。
いつものことだけど、やりすぎに注意。

卒業生の皆様
ほんとうにおめでとう。
いろいろあったね・・・・
すばらしい思い出をありがとう。
卒業しても、どこにいっても、連絡して!
先生はいつも嬉しく、彼方のことを思っています。
ここにきたらいつだって会えるから。

私の思い込み

自己中心的な主観的な思い込みって時々おかしいし、顰蹙モノではある。

客観的な真実を冷静に見つめることが肝心だといわれる。

そうか、と客観的に世の中を眺めてみた。
客観性というのは、大多数の人が同感する現実ということである。
たまらなくネガティヴィティに覆われた。
いやになった。

自分の物差しで眺めてみた。
叱責・罵倒の中にある愛あふれた優しい姿。
破壊と攻撃性の中にある不安と恐れでちじこまってる幼い子どもの姿。
激しい雷雨もふぶきも、汚れを一掃してくててる。
病気も痛みも事故も、すべてをストップさせて大切なものを示している。

ああ、なんという感謝なんだろう。
なんという喜びなんだろう。

思い込み、主観的世界。
確かにそうだろう。
見えないものをみているのだから。
でも、これでいいのだ。
こちらが本質なんだから。
すべてが光であるのだから。
見えない人から何を言われても、私は光を放っていくことしかできない。

もし、目に見えないものをみて不安や恐怖やネガティブなものがあるとしたら、本質から外れてるからやめたほうがいい。
もしそれが光と愛とにあふれていたら、かまわない。
主観だとか思い込みだといわれても気にすることはない。
それが本質だ。
それだけにフォーカスしていったらいいだけ。

プロフィール

尾崎真奈美尾崎真奈美

東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。ペンシルバニア大学医学部精神科、東京大学医学部公衆衛生学研究室などを経て、現在相模女子大学人間心理学科准教授、米国サーチインスティチュート、スピリチュアリティ発達センター客員研究員。
インテグラル心理学・スピリチュアリティ論・芸術療法などを教えながら研究、ダンス、執筆活動を続け、科学と芸術の統合を試みる。
天使語同時通訳は日々のインスピレーションの書き散らしである。
国際生命情報科学会、日本トランスパーソナル学会理事。日本心身医学会、日本トランスパーソナル心理学・精神医学会、国際ポジティブ心理学会会員。

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