
巷では,クリスタルチルドレンというのがもてはやされてるようで。
NHKでも素敵な歌が流されているらしい。
「戦わなくっていいんだよ,好きになったらいいのさ・・」だったかな?
そのとおりだわ。
小さい頃からものすごく不思議だった。
何で闘うのか,争うのか,無意味にエネルギーを使うのか。
社会に適応していくために,自分もほかの人と同じ感性を持っているふりをした時期もある。
美しいもの,健康なもの、正しいもの、純粋なものは,それを持っていない人(病んでいる人)にとっては、自我が脅かされるから憎まれらしい。
心理学で習った。
ただ笑っているだけで憎まれる。
(何で?あなたの事大好きなのに・・)
仲間はずれにされる。
(どうしてみんなのこと好きだといけないの?)
人の気持ちがわからないって。
(憎しみとかねたみとか分からないよ,だって,ばからしいもの)
自分の長所が人を傷つけるの?
(他人の長所はすごく嬉しいもの,どうして?わからないよ)
こういう本当の気持を言ってもいい時代になってきたのかもしれない。
どんどん嬉しくなってきた。
まだまだ少数派のようだけど,でも本来は人間はそういうものだ。
エヴィデンス?
今集めてる。そして教育実践で検証もする。
マズロー先生は、はっきり宣言してるから読んでみてください。
「完全なる人間―魂のめざすもの」
だって、いつも楽しくて嬉しいからです。
いいね~ラッキ^だね~って?
ええ、ものすごく、ラッキーなんです。
だって、世界中が微笑みかけてくるんだもの。
一番仲良しはお花です。
最近みんな新芽が出てきて元気がいいの。
みんなにっこり嬉しそうで。
名前は知らないけど、とにかくみんな微笑みながらにっこりこちらを見つめていてくれるから、歩きながら思わずすべてのお花にほおずりしたくなるのです。
でも、できないから、手を振ってご挨拶してるんです。
わたしはお花の微笑で喜びが倍増されて、ますます耀くような微笑となるわけです。
喜びの理由?理由なんてないんです。
ただ嬉しいんです。
努力して、意識的に喜んでいるんじゃないんです。
何かいいことがあったのでもないんです。
説明できないのはたぶん、私が喜びそのものと一体になってしまっているからでしょう。
すべてに意味があるとか、人生に起きる出来事は単なる幻想だとか、そんなことを考えているのではありません。
何も考えていません。
だから自分でもおかしくなって、またそれで笑ってしまうのです。
それでますます楽しくなってしまうのです。
そうしてたら、周りの人もつられて笑うようになってくるんです。
それでまたどんどん連鎖的に楽しくなってくるんです。
なぜかわからないけど、私の周りには嬉しいことばかりが集まってきます。
たぶんそれは、私が世界中を愛しているからだと思います。
愛してるから、見つめるし微笑むしいとおしくほお擦りしてしまうんです。
世界中を抱きしめてしまいたくなる衝動、どこから来るのでしょうか?
わからないから説明できないのです。
あまりにもすばらしいことが多すぎていちいちあげてられないんです。
その中に浸りきって感動しているだけです。
この感動の輪の中にあなたもいます。
ありがとう、本当に。
真実を言うと、人は傷つくことが多い。
傷つけることはよくないと一概に言えない。
膿を出すために切り開く必要がある時だってあるからだ。
本当のことを言われて怒るのは、単なる防衛反応だ。
自己が脅かされる恐怖からの反応だ。
リペントしてリリースしたら、こんなにジョイフルなことはないのに。
日本語にできないこの感覚。
悔い改めて手放したら喜びに満ちるとでも言おうか。
悔い改めって、自分を責めることじゃないんだけど。
気づきなんだけど。
神様は責めたりしない。
責めるのはエゴだ。
リペントにあたる概念がないのかな・・日本語には。
私は元来芸術家気質らしく、研究者的思考パターンがいくらたっても身につかないような危惧がある。
むいてないことを苦労してやることないじゃないかって、いろいろなところからやめたらって誘惑が来る。
いろんなところからって、もちろん自分のなかからだ。
やめたほうがいい根拠を集めようとする。
研究は期限付き限定でやるだけにしようとか、いろいろな妥協案が来る。
そうだ、芸術家じゃないかって開き直ってみる。
その目で周りを見渡してみる。
すると、自分がいかに科学的・客観的に判断する人間であるかに驚くのである。もちろん最終的にインスピレーションしかないという信念は変わらないままだけど、それをどのように説明するかについては、ほら、だって、そうじゃない、わかんないの?では納得しない自分がいるのだ。
しかし、周りを見渡すと、まったく根拠のない思い込みと思いつきで話をして人を惑わす人が多すぎる。もちろん悪意はないに違いない。(あったら大変だ)
そのナイーブさから、インスピレーションがよいものに違いないと信じ込んでいるところが危険なのだ。それが自分のエゴから、あるいは低次の危ういスピリチュアルなレベルからではなく、究極のものであるとなぜ確信できるのか。
主教や芸術に対して科学的パラダイムで判断するのはカテゴリーエラーだといわれる。しかし、科学者を、左脳を馬鹿にしてはいけない。
科学信仰といわれるほど力を持ってきたのには、そこにそれだけの根拠があるからだ。
客観性といわれる、共通理解があるからだ。
最近の科学は、ナラティブや個別性・経験を重視しながら真実を極めようとする方法論が開発されている。発展途上でまだまだいろいろな意見があるけど、捨てたもんじゃない。
世界中の知の巨人達が日夜格闘しているのだ。
それに対して、不備だけを取り上げて非難するのは、まったく持って科学的でないどころかスピリチュアルでもない。つまり、自己中心的なものの見方を露呈しているに過ぎない。
ダライラマが優秀な科学者であることは周知の事実である。
科学を否定するスピは「スピリチュアル」かもしれないけど、スピリチュアリティではない。
クリティカルな思考は健全であって、すべてに対する受容と対立しない概念なのだ。
クリティカルで知的な判断をストップさせてしまうものは、盲信というアブナイ現象であることに気がつくべきである。
どのようにすばらしい教えであっても効果のある健康法であっても、批判的思考で吟味できない状態になると間違いや欺瞞が滑り込むのだ。
サタンの手口とはそういうものだ。
前頭葉よ、目覚めていなさい!
アシジのフランチェスコが、ブラザーサン・シスタームーンと歌ったあの気持ち。
自然界もみな私の兄弟仲間、身近で大切で。
それは太陽を見上げるとき月を眺めるときに程度の差はあってもみな感じることだろう。
その美しさと恵みに感謝しながら。
今朝起きて顔を洗うときに、少しぬるくなって気持ちのよい透明な水が水道から出てきてその肌触りが心地よかった。
私を潤し清めてくれる水さん、今日もありがとう。
顔を拭くときのタオルがふんわりやわらかく、包み込まれる気持ちよさにキスしたくなった。
タオルさん、今日もありがとう。
ベランダに出てみた。
捨てるのを躊躇されたままの鉢が、そのまま転がっていた。
おおごめんね、なでなでして、とりあえず整列させてみた。
お部屋を見渡した。
お洋服脱ぎっぱなし、書類の山があちこちに散乱、毛布の上にクッキー。
お掃除フェチの私には珍しく。
今週のすさまじいスケジュールのつけを物語っていた。
お洋服さん優雅に見せてくれてありがとう。よごしちゃったわね、ごめんなさい。
書類さん、せっかくあなた大切な情報を持ってるのに、静かにまっていたのね、ここで。何も自己主張しないで、私が無造作に読みもしないで重ねてしまったから、何もいえなかったのね、ごめんなさい、どこいったんだなんて文句言って、あなたのせいじゃないのに。
クッキーさ~ん、おいしかったよ~~~ありがとう。
太るとか虫歯になるとかあなたのせいじゃないのに、私の食べ方だけなのに、ごめんね。
こうやってすべての存在に、ありがとうとごめんなさいを言い続けて生きていると、なんだかとても楽しくなってくる。
ホオポノポノの精神はすべての存在、人間も動物も植物も鉱物も、みえるものもみえないものもふくめて、ありがとうとごめんなさいの関係を回復することだったんだね。
一見幼稚な擬人化のように思えるけど、そうではない。
うまくいえないけど、事実だからだ。
今度科学的に記述してみる。
(やっぱり、研究好きだったりして。笑。
おおおおおおおお研究さん、ごめんなさい、誇りに思わないなんて言っちゃって)
スピリチュアル・ブームに対するバッシングというのか、巷ではかつてもてはやされた「スピリチュアル」なアイドル?が苦戦しているらしい。
この反撃はスピリチュアルの本質を捉えていない人たちが、危機を感じて行き過ぎたリアクションになったものであろう。危機を感じるのは健全な証拠だ。
本質的なスピリチュアリティを伝えたいと思っている人たちも皆,同じような危機を感じていたのだから。
しかし,恐れがあるとき、人は過剰に反応し,良いものまで切り捨ててしまう傾向がある。
良いものと悪いもの,あるいは健康なものと危険なものを区別していかなければいけない。
でも,良いものと悪いものなんて実は何も区別はないのだ。
健康な精神で眺めれば何も危険なものは無いのだ。
お金と同じだ。
才能と同じだ。
科学と同じだ。
スピリチュアルも扱う人次第なのだ。
とはいっても,私はサイキックな物に夢中になってしまうのはやはり危険だと思う。
目に見えないものが見えたり聞こえたり、前世や未来,占い,インスピレーションなどがこころの上位を占めてしまったら、日常生活がうまく送れないに違いない。
それは健康とはいいがたい。
少なくとも,社会的には健康ではない。
なぜそのようなものに夢中になってしまうのか。
本質を求めているに違いないのに。
私には見える。(すごい「スピリチュアル」な言い方。笑)
サイキックに群がる人たちの,傷ついた経験と自分を許していない辛さとが。
その痛みと不安からサイキックに夢中になるのだ。
健全な精神を持っている人は,そういう意味で全く「スピリチュアル」ではない。
変性意識状態というのも危険だ。
必要な気づきは必要なときに必要な人に現れるものだ。
扱う準備が出来てない人がそれを経験すると,危険なことになる。
神は,自然は,宇宙は、常に最適なものを準備している。
必要なのは,意図的な訓練ではなく、透明になって自然に帰る事だけだ。
そして,神の,自然の,宇宙の声を聴けばいいだけの話なのだ。(また,「スピリチュアル」だって?笑)
何をみてもいいし,見なくてもいい。
何を聴いてもいいし,聞こえなくてもいい。
今,ここで毎日出会う人に親切で、小さな責任を喜んで果たしているなら。
心が平安でしみじみと明るく喜んでいるのなら。
それこそがスピリチュアルだ。
つまり,光とつながっていることの証拠だから。
奉仕する事がメンタルヘルスの重要なキーだってことを少し調べてみたら、科学論文がいっぱいあった。
ソーシャルサポートが心身の健康に影響を及ぼすことがよく知られているけれど、そのサポートというのは、普通助けを受けること、親切にしてもらうことをさす。
今探している論文は、親切にすることが元気になるって言う証拠。
いっぱいあった。
実は親切を受けることよりすることのほうが、自己報告のメンタルヘルスに大きく関係している。
もちろん、初めからメンタルヘルスがいいからいい事をするんじゃないかという反論もあるだろう。
それも事実だ。
メンタルヘルスの良い人は親切なのだ。
それでもいい。
どっちが先でも、この際構わない。
とりあえず、メンタルヘルスが悪くて改善ししたいと思ったら、人に親切にしてみたらいいという科学的根拠のあるおすすめだ。
本当にメンタルヘルスの悪い人は、この事実をも受容しない。
そういう人にはどう対処したらいいか。
自己憐憫で一杯だから、愛他行動なんかしないからねえ。
どんどん親切にしてみた。
どんどん与えてみた。
感謝して嬉しくなるかと思ったら、非難され罵倒された。
わけ分からない。
そこまで混乱した人に対して、どうしたらいいのか。
マザーテレサは言う。
それでも親切にしなさいと。
はい、ママ。
これはすごい仮説だけどみんな納得してくれると思う。
ニートは、みんなが優しすぎたから大量生産されてしまったのよ。
人助けとか仕事ってすごく楽しいのに、押し付けられたり無理やりやらされたりして嫌いになってしまったってことが敗因なのよ。
人の役に立つことって実は自分が生きてる価値あるなって思えたり、自分の有能感を感じるし、自尊感情に絶対必要なことなのよ。
自尊感情・自己効力感って、人の役にたつことでしか感じられないものなのよ。つまり、奉仕なのよ。
親世代の辛い経験から、子どもにはこんなことさせたくない・・・とやらせないで育てられた挙句、子どもは農作業の辛さとか、介護の大変さとかしないでみないで育てられたわけよ。
欲しいものはすべて与えられて。
ものだけじゃないよ、教育も環境も愛情も。
その愛情が実はちょっと優しすぎたってわけよ。
親の苦労を見せないようにしてるものだから、子どもは単純労働を知らないわけよ。
みたこともやったこともないとわからないものなのよ。
人知れずお掃除してたり、いろいろ電話したりアレンジして頼んだり、そういう苦労は見せないでニコニコしてるのが優しすぎる親なのよ。
そう、実は天使ごっこにも原因があるのよ。
あれやりすぎてると、周りの人たちはいつでも何でも自分がやらなくてもスムーズに行くものだから、それがアタリマエになってしまうのよ。
天使ごっこはすごく面白いからやめられないわけよ。
このままじゃ甘やかしてしまうわ、と思いつつも、人の役に立つ喜んでもらえるという快感は実に捨てがたいものなのよ。
ボランティア・ハイって言葉があるほどなのよ。
そう、人の役に立つってこんなに楽しいこと嬉しいことってないのよ。
かわいそうなのはその経験を奪われて、その喜びを知らないニートたちなのよ。
もやもやしてるのはそのためなのよ。
自分の価値が見えないのよ、人のために何かしてないと。
人はもともと、そういう風にできているのよ。
人の役に立つのがすごく嬉しいのよ。
それが生きている喜びなのよ。
勘違いしてる。
自分のことばかりして楽しいわけないじゃない。
ためしにやってごらんよ。
むなしくなるから。
一時的に楽しいかもしれないけど、そんなの、まだまだ・・・
本当の楽しさを知らないのね。
優しさもすぎたら弊害があるのよね。
バランスバランス。
これは物理的な性質だけど、なぜか動きを見なくても姿を見なくてもわかる。
人を見ていると、物理的な体重に関係なく、軽やかな人と重そうな人がいる。太さ細さは関係ない。
すかして見えるわけじゃないけど、透明な人がいる。
透明な人って、心が正直で隠しごとがないとか、そういう意味じゃないんだけど。雰囲気というのかな・・・表現するのは難しい。
関節の自由度とか筋肉の物理的な強度に関係なく、やわらかい人、かたい人というのもある。これも筋肉の発達度には関係ない。
経験から言うと、やわらかくて透明な人は天使に近い感じがする。
そういう人のそばにいると気持ちがいい。
同調してどんどん透明にやわらかくなる。
人の期待を裏切って?私は実は根性はないです。
がんばりもないです。
疲れる前に休もうとします。
つまり、疲れる前にたいてい飽きていやになりますが、そうなる前にやめるようにしてるんです。
無理して病気になった経験が何度もあるからです。
絶対無理しません。
締め切りだろうが仕事だろうが、体を壊してまでする価値があることは何もないです。
きついときはスパッとやめて寝ます。
がまんしてやる?そんなこと絶対しません。
人助けにしたって、体を壊しては自分が人の助けを必要とする人になっては本末転倒です。
できる範囲でします。
つまり楽しくできる範囲です。
嬉しく喜んでやれることだけです。
実はそれで十分です。
実はそれでもたくさんのことができます。
なぜか。
喜んで楽しいとき、いくらでもエネルギーとやる気があふれてくるからです。
これがたぶん、心と体の健康のコツです。
自然のリズムの中で、根性なんてないほうが元気で幸せに、みんな仲良く過ごせるんじゃないかと思います。ロハスというライフスタイルがはやってるけど、ゆっくりしたらいいというような単純なものじゃないと思います。
不自然なスピードや過密はもちろん避けるでしょうけど、自然には強さや速さもあります。
そのリズムにしたがっていくことが肝心だと思います。
一番大切なのは、太陽が出てくる時間に起きて沈む頃には寝るということじゃないでしょうか。
今日は少し早起きしすぎました。
また寝ます。
おやすみなさい。
季節は廻って春たけなわだ。
桜は終わったけど、いつの間にか五月が鮮やかな姿を見せ、街路樹は鮮やかなピンクや名前を知らないけど白い花をつけていたりして、大雨の中でもけなげだ。
今日も朝が来て夜が明けた。
太陽が久しぶりに顔を出した。
たっぷり水分を含んだ土壌を今日は乾かしていくのだろう。
言葉も話せず歩くこともできなかった私が、今は話すことや動くことを教えていたりする。
病に倒れては回復してくる。
命の終わりを迎える人のそばで新しい誕生がある。
電子は原子の周りをまわっているらしい。
そして地球も回っているらしい。
24時間で自転しながら、太陽の周りをまた回っているらしい。
みたことはないけど。
すべてはまわっている。
ぐるぐる回っているのだけれど、らせん状にある方向に向かって大きく変化している。
まわっているのが見えないのはきっと、そのまわるスピードが速すぎるかゆっくりすぎるかのせいだろう。
でも、すべてはまわっているのだ。
もし万物の理論と言うものがあるのなら、今日はちょっと哲学者ぶって「すべては廻る」と言ってみたい。
何でこうなったのかというと、論理の飛躍が得意な私の発想からだ。
今まで、スピリチュアリティの測定をしようと量的アプローチでがんばってみたけど疲れてきたし限界も感じ始めた。これは若者のアプローチだ。
そろそろ中年のアプローチに入る。それは質的研究法というもので、結構忍耐がいる面倒な作業だったりする。しかし数字より深く事象を追う事ができる。これで飽き足らなくなったとき、わたしはきっと、実証の限界を感じ、形而上学に行くつまり哲学なんだろうな、と思う。それは老年の学問だ。ま、きっとそれは引退後になるだろうけど。今から楽しみだ。
これらの異なったアプローチは繰り返し繰り返しやっていくことで本質に迫っていけると思う。そう、方法論もまわらなければいけないのだ。
もし一人で全部できなかったら、リレーみたいにバトンタッチしたらいいのだ。
スピリチュアルな人って誰ですか?
そう聞かれて誰を思いますか?
私はマザーテレサ・シュバイツアーでした。
そう答えたら、「かなり一般的な印象と違いますね」って言われました。
皆さんは誰を思いますか?
それで、スピリチュアリティとは何かってことがわかってくるのかなと思ったりしています。
私はたまたま奉仕をしている方をあげましたが、研究者とか芸術家とか、いろいろスピリチュアルな方っていると思います。
何をやっているかに関係ないと思います。
スピリチュアルな人・・・
赤ちゃんはどうなんでしょうね・・・
私は幼稚園のおあそびが大好きだ。
一番すきなのはお遊戯っていうか、やっぱりダンスね。
大学生の教育学の実習でボディワークをするときにも、一緒に派手に遊んでもらってる。
毎回、本気で幼稚園児のようにやる。
ある意味、幼子のようにならないとダンスなんて出来ない。
お魚さんになったりいそぎんちゃくになったり、ヤドカリさんになって動いたり。
みんなで手を繋いで輪になってかけっこして渦巻きぐるぐるを作ったり。
はじめはテレながらも、何年ぶりだろう…手を繋ぐなんて…と和んでくる。
そうだ!
みんな手を繋いで遊ぼうよ。
大きなお池を作って中でお魚さんを泳がせてあげよう。
イソギンチャクさんが、ぱくって捕まえようとするのをするりと逃げてよ。
幼稚園のお遊びをみんなでしたら、きっと仲良くなれる。
肩こりや腰痛なんかも無くなる。
みけんのシワも無くなる。
すべてはうまく行く。
願い事はすべてかなう。
これは本当だ。
そんなわけ無いじゃない。
この悲惨な現状をどう解釈するって言うの?
これには秘密がある。
すべてはうまく行く。願い事はかなう。
というのは、あなたの、自己中心的な狭い見方で見たときのことをいってるのではないのだ。
すべてはうまく行く。願い事はかなう。
これは本当に真実である。ただあなたには見えてないだけなのだ。
すべてはすでにうまく機能していることがわからない。
こころの奥にある本当に大切な願い事はかなっている事に気が付いていないだけなのだ。
もしかしたら、一生懸命願ったことがかなう経験から、一生懸命さが足りないから適わないのではないかと思うかもしれない。確かに、集中してたくさんの人の意識が同調したら、物理的世界も変革するということが科学で証明すみだ。
でも、私が言いたいのはそういうことではない。
すべてを超えたところで目に見えないところですべては調和を保っているということだ。
私たちはその流れの中に、ホンのすこしだけ登場させてもらってるに過ぎない。
すべてはうまく行く。願い事はすべてかなう。
これは事実なのだ。
気が付いていないだけなのだ。
それに気が付いたら、何があろうとも、その信頼感から、感謝しかなくなってしまうのだ。
自分でも、なんでこんなに仕事ができるんだろうと時々思うけど、実はたぶんたっぷり睡眠をとっているからだと思う。
仕事が荒いのは自慢にならないけど、早いのはいつも嫌がられるほどだ。
せきたてるようで、もっと早くしてよ、と感じられるそうで。
この私とテンポが合う人は今までに二人しか会ったことがない。
お二人とも多産でめまぐるしく動き回っている。
たぶんこの1ヶ月の間に国際学会を3ヶ所、世界中を駆け巡り、寸暇を見計らって帰国してはその間に本向こうの事務や山済みの仕事をこなすと言う具合で。
一人はものすごい仕事量をこなしながら会うときはいつもゆったり物静かでにっこりしている。
もう一人は早口でケタケタ冗談の連発で。
わたしはどっちかな・・・
ま、優雅と思われてるらしいけど、誰かがスチュワーデスみたいだと、私のお料理姿を見ていってた。
表ではゆったりにっこりサーブするんだけど、台所ではてきぱきめちゃ早いからね。
ま、そんな具合で、楽屋は実はすさまじいのだ。
忙しいのは好きではないと言いながらなぜこんなに忙しくするのか自分でも何回も問う。
貧乏暇なしは事実だけど。
貧乏が解消されたらゆったりするかな・・・
今度は忙しく遊びまわりそうだ。笑
このパワーはどこから?
楽しくて仕様がないと言う感覚からだ。
モチベーションは、こういうポジティブな感情から起きてくるものが自然だと思う。
悔しさや怒りなどのネガティブなものから生じたものは、確かにエネルギーを持つけれど、調査によれば免疫機能や身体の健康には貢献してないようだ。
たぶん感謝がネックなのだろう。
いろいろとひどい日だった。
人生長いこと生きているといろんな日があるものである。
いちいちかけないけど、なんかもう、へとへとで何回泣きたくなったか。
でも、「悲しむ人は幸い。彼らは慰められるだろう。」
は、本当だ。
そして、どういうときでも楽しみと喜びを見つける天才とは私のことだ。
学生に言われた。
どうしてそんなにいつも笑ってるんですか?
知らなかった、そんなに笑ってるなんて。
今日も様な日にも。
なぜだろう、わからない。
でも、愚かしく悲しいことは、非常にこっけいで笑えるのは事実です。
たぶんほとんどの方は、歩ける喜びを知らないと思う。
アタリマエのことだと思っているに違いない。
私は腰痛で動けなくなる経験が何度かある。
ひどいときは1ヶ月寝たきりだった。
今回は、だましだまし動けるものの、平気な顔して動いたり踊ったりして旅行までしてきたんだけど。
実は人知れず痛みが襲ってきたりして動けないから、ことさら優雅さを気取ってゆっくりした動作にしていたのだった。
それが昨日あたりから痛みなく普通に歩けるようになったのだ。
実に、何ヶ月ぶりだろう?
軽やかに走り回り、機敏な動作をしても大丈夫になった。
痛みなしで歩ける!
これがどんなに幸せなことか、感動ものである。
もしかしたら、一生もうこの痛みを持ちながら過ごさないといけないのかも、と覚悟していたのだ。
腰痛のダンサーだなんて・・・
でも、それでも動ける範囲で表現はできるしと考えていたけど。
歩ける!
目が見える!
タイプできる!
寝るベットがある!
かえれるうちがある!
なんという感謝だろう。
人を説得するときに、その根拠は?
ときかれることがある。
わたしもきく。
2000何とか年に地球が滅ぶ?
その根拠はどこにあるのですか?って。
根拠と言われたときに、たいてい科学的で論理的なデータや説明を持ってくることが多い。
まだまだ科学信仰は世界を覆っているのだ。
確かに、ある程度は科学で説明が尽くし、論理的な説明で納得する。
でも、本当に大切なことは、それではどうしても説明がつかないことのほうが多いのだ。
直観に説明をつけるのは難しい。
結論が先にあるのだから。
人によって、文脈によって、理解されやすい説明をする。
言ってることが前と矛盾してると言われる。
しかたがない、だって、両方ともが真実何だもの。
論理学なんか、くそくらえだ。
そういうことは、論理学の基礎をきちんとマスターしてから言え!
あ、それは確かにおっしゃるとおりですね。
前言撤回です。
しかし、私が言いたいことは論理を超えてる。
論理内に納めようとしたら、いたるところに矛盾が生じるから、これでもかと言うくらいの限定をかける必要がある。それでも厳密にしていったらきりがない。
疲れてくると、踊りにいってしまうのは、そういうわけである。
うそをつかれたら悲しいんです。
それがたとえ思いやりからでたものであっても、私に真実を語ってくれなかった、信頼されてなかった、仲間はずれにされた・・・
みたいな感じで、すごく悲しいんです。
それだけではないんです。
うそをつかなければいけなかったあなたの心の中が、寂しさでいっぱいなのが見えるから悲しいんです。その寂しさをみないようにあなたはまた自分にうそをついてるかもしれない。
辛くてしっかりみたくない現実もあると思う。
目を覆いたくなるような、考えたくないようなことも人生にはいっぱいあると思う。
でも、それでいいのよ、大丈夫なのよ。
何がって・・・
うん、それでも地球はまわってるのよ。
朝になったらお日様が出てくるのよ。
息をゆっくり吐きながら力を抜いていったら見えてくると思う。
その弱さはみんなが持っているものだってことが。
許しあっていかないとやっていけないよ。
うそつきはどろぼうのはじまりじゃなくって、自分いじめの始まりだと、私は思う。
リアリティをしっかりそのまま見つめていると、きっと、そこにある光に気がつくと思う。
ごまかしがあると、光も一緒にさえぎってしまうから光は見えてこないかも。
目を、耳を、そして心を透明にして行った時、言葉と行動と考えと思いが一致してくる。
そのときあなたは、光を見つける。
スピリチュアリティは教えられるのか。
この問題はスピリチュアリティをどのように考えているかによって答えが異なる。
では、スピリチュアリティとは何か。
この問題はどのような文脈でどのようなナラティブによるかによって異なる。
また、スピリチュアリティ教育をすることの意義はどこにあるのか。
教育には評価がつきものだが、スピリチュアリティをどのように評価するのか。
その意味は?
なんて学者ぶってると言ってると永遠に喜びを伝えるところに到達しない。
だって、答えがあってないようなものなんだもの。
答えを見つけてからそれに従っていこうとすると、永遠に何も出来なくなる。
頭脳がそこまで緻密でなくて良かったなと思う。
To be or not to be?
で悩み狂う必要ないもの。
生きる意味?わかんなくて当たり前じゃん。
昔からずっと賢い人たちが頭を悩ましてまだ答えが出てないんだもん。
考えても構わないけど、答えが見つけられないから悲観するというのは馬鹿らしいと思うな。
とりあえず今こににいるんだから。
本当に楽しいこと、しようよ。
そしたらみんなが楽しくなるからね。
人生めちゃくちゃの日って言うのもある。
なにかしら、災難がが次々と襲い掛かってくるような。
理不尽に突然解雇されたかと思ったら、翌日に最愛の人が事故で意識不明重態になり、こともあろうか同時に大切な娘が駆け落ちして行方不明になり、実家の母親が倒れた。駆けつけたいと思いながらどちらの病院に行ったらいいのだ?遠く離れているんだ。涙にくれながら高速を運転していると、一瞬の不注意でハンドルを切りそこね中央分離帯に激突、いのちは助かったものの両足切断。たまたま車の保険切り替え中で、保険がきかないその日のその時間だった。
少し状況を変えてはいるけど、友人の実話なのだ。
友人はその後長いことうつ状態で立ち上がれなかった。
でも、生きてはいる。
こういう状況でいいこと探しができるのだろうか?
悲しみとショックで打ちひしがれてしまうようなこの状況で、何ができると言うのだろうか。
生きていることに感謝だって?
これらの重荷を背負っていく自信と言うか、気力があるというのか?
なぜ殺してくれなかったのかと神を恨むしかなかったと、友人は言う。
このような状態で生きながらえさせるなんて、地獄よりひどいと言うわけだ。
まるで、旧約聖書のヨブ状態だと、力なく笑った。
最愛の人、仕事、たったひとりの肉親、健康、このすべてを失いながらも、生きている。
クライアントで、自殺未遂を繰り返す人がいた。
本気でやるものだから肉体はついに再起不能状態になった。
精神疾患でも安楽死と言うものがあってもよいのではないかと、本気で思った。
胸がふさがれるようなニューズも多い。
喜びがどこにあるというのか。
それでも私は、一筋の透明な光を見つめる。
自動書記というのだろうか、あるいは話す言葉でも、まるで自分がやっているのではなく、自動的にすらすらと流れていくことがある。
考えて計画して案を練って、周到に用意する訳ではないのに、すらすらスムーズに完璧な原稿ができていたりする。論理的に説明できないまま、なぜか確信に満ちた考えが、そのときの聴衆にぴったりなたとえを使ってでてきたりする。画家なら絵筆が進み、彫刻家なら彫る前に完成品が見え、音楽家なら、音の流れの中に神が存在するような高揚感を感じる経験である。
そのときの感覚は、自分がしていることではない。意志や思惑をすべて放棄してまかせきった状態というものである。自分がしていることではないから、すばらしいものができるにもかかわらず、誇りはなく、むしろそれを表現する器として、使われたことに対する感謝の念しかないのだ。
もしそれが、自分自身が完全ですばらしいものなのだと言う風に受け取られることがあったら、それは自我肥大という精神病理で説明できる。
「天使語同時通訳」と言うタイトルから、自動書記されてるんですかと聞かれることがある。
読んでいただけたらそうではないことがすぐわかると思う。
私が何か書くときには、でも、なにも考えていない。
毎日よくかけますねと言われるけど、書くことがあふれて降りてくるのだから、苦労はない。
いくらでもかけるから、責任ある仕事をするために、5分以上はブログにかけないと決めて、書かないように努力しているのが事実だ。
もし自分にぴったりしたことをしていると、きっと、みなそういう状態になるのではないかと思う。
自分にふさわしいやるべきことをしているときには、楽しくて仕様がないし、高揚感があっていい仕事ができる。
自己放棄といったけど、でも、完全リラックスと言うのでもない。
ある意味、深いところでの非常に高度な集中力と緊張感があるような気がする。
だけど、それはものすごく細く鋭く突き抜けていて、だからその周りを柔らかな暖かさと余裕でふんわりした空気が流れているのだ。
降りてくるだけでなく、昇っていく人もあるだろう。
だんだん話がアヤシクなって
いくから今日はここまで。
これは修行が必要か、信じるだけでいいのかと言う議論にもなる。
宗教学の中で、最近はスピリチュアリティを語る中でさまざまに議論されてきた。
大雑把に言うなら、ウイルバーや仏教系は自力に傾き、シュタイナーやキリスト教は他力系かしら。
もっとも、親鸞や、禁欲主義の教派もあるけれど。
この議論は、主張する本人の直接経験からでてきている確信によるから、両者は決して譲らないのだと思う。
書く言う私は完全に、他力派であることはおわかりですよね。
修行なんていらないよ、瞑想なんてやったことないし、必要なことは必要なときにあっちから与えられるから。無理して修行したらゆがむよ、とまで豪語してきたのである。
でも、私もさいきんちょこっと進歩した。
つまり、どっちもありでしょうね。
魂のタイプと言うか好みと言うか、という結論になっている。
この世が生老病死で苦難の連続と言うのか、喜びと耀きに満ちていると言うのかも、まったく同じ議論である。見え方に過ぎないから、タイプがあるしどちらも真実なんだろうと言うことで、議論しても意味ないんだ。
要するに、みんな正しいんだよってこと。
おろかなのは、反対者を説得しようとして躍起になって譲らない態度だわ。
誰だって自分のほうが正しいと思うに違いないけど、それはそれでいいのだ。
ほかの人も、それはそれでいいのだ。
そう思うと楽にならない?
嬉しくならない?
光が見えてない人に知らせないといけないとか、修行が必要な人を改心させて魂に磨きをかけさせないといけないなんてことはないんですよ。
そのままで、どっちでもいいんですよ。
その人の選択でいいことをやってるんだから。
上記の主張は、両者を認めると言いながら、やっぱり、他力的ですかしら。笑
ま、お許しを、これが私です。
死は悲しい別れだけど、卒業式のようなものだから、本当はサラブライトマンのTime to Say Good -Byeでも歌って祝福するべきものだ。
もちろん、その厳粛さを知らないで、簡単に、「旅立ちなのだから」といって喜べはしないほど、この世での別れはさびしく辛いものだけど。
でも、だからこそ、おぼえておいてほしいのは、あちらはこちらよりずっといいとこだってこと。
だから誰も帰ってきたがらないでしょ?笑
いいとこだよ、心配しないで、元気になって、っていうメッセージはたくさんやってきてる。
気がつくかどうかだけの話だ。
「旅立ち」や「卒業式」や「結婚式」には涙がふさわしい。
成長していく子どもを巣立ちさせるさびしさだから。
でも、その涙は嬉し涙でもあるのだ。
悲しいのは自分のそばから離れていく寂しさがあるから。
でも、本人がもっといいところにいくのだとしたらそれを喜ばない親があるだろうか?
泣きながら、行ってらっしゃいって、お祝いの乾杯をするに違いない。
残された者どおし、時に思い出話にふけったりして懐かしみながらね。
でも、あちらに行ったら、いつでもどこでも会えるようになるのだから。
こんな嬉しいことってある?
今日は、このブログでであった、ほわんちゃんの結婚式でした。
そして思ったことはこれってお葬式と同じだなってこと。
すごい祝福なんです。
感動的でした。
自己中心性が悪だって言うけれど、純粋無垢な赤ちゃんは悪なのだろうか。
他の動物を殺して食べる動物は悪なのだろうか。
違うと思う。
生まれつき備わった、生存に必要な機能を発揮してるに過ぎないからだ。
つまり、自由意志を悪い方向に向けて発揮することが悪であって、自由意志の働きがないものは悪とは呼べないだろう。
では、知らないで人を傷つけることは悪だろうか。
無知はたぶんひとつの悪だろうと思う。
少なくとも、その対象に対する愛がかけている状態だといえるだろう。
愛と言うのはそのものに対する関心の深さであって、関心があれば知りたいと思い、理解したいと思うに違いないからだ。
とすると悪と言うのは、愛のない状態と定義できるだろう。
とすると、自己愛は悪ではない。
他者に対する愛がないのは悪だ。
この二つは同じではない。
なぜなら自分も他者もつながっていてひとつだからだ。
自分を愛さない者は他者を愛しているとはいえない。
他者を愛し自分を愛さないなどと言うことはできないからだ。
ものすごく誤解されているような気がする。
早寝早起きして健康に保つことは自分を愛することだ。
好き勝手に夜更かししたり、疲れてるのに無理して体を酷使するのは愛が足りない。
自分自身のいいところを思い出してほめてあげるのは愛のある行為だ。
自分の悪いところをあげつらって非難するのは愛のない行為だ。
隣人を愛することは、自己愛があってこそ成り立つ。
ナルシシズムは、自分に対する愛が問題なのではなく、他者にたいする愛がないのが問題になる病気だ。
自己愛はすべての愛の始まりだ。
同様に、家族に対する愛は、社会やコミュニティーや、もっと大きなものに対する愛の基礎だ。
家族を犠牲にしている社会運動家は、偉業によってこの世では評価されるかもしれない。
しかし人生を振り返るとき、自分の愛のなさに耐えられるのだろうか。
悪は悲しい。
自分が自分で選択してきた愛のない行為に、どれだけ心がさいなまされるのだろうか。
もし地獄というものがあるとしたら、たぶん、自分の愛のない行為を見せつけられることではないかと思う。
そのときには、すべての隠されたことが明らかになるからだ。
愛って、難しくない。
感謝して大切にすることだから。
都合のいいことしかおぼえていないというのは私のことである。
楽しいことしかおぼえてないから人生ハッピーでしようがない。
でも、いやなことしかおぼえてない人というのもいるらしく。
そういう人はたいていしかめっ面をしていたり、口の端がゆがんでいたりする。
辛いだろうな・・・と思う。
屈辱とか、失敗とか忘れるなっていう人がいるけど、何のために?
おぼえていて何かいいことがあるとは思えない。
成長していくためには、よいお手本を見つめることしかないって認知心理学で明らかだし。
辛いことが忘れられなくてトラウマになってる人はかわいそうだと思う。
忘れようとすればするほど意識に焼きつくし、消すことなんかなかなかできないかも。
そう、消すのは難しいのだ。
できるのは、楽しいことで置き換えていくこと、塗り替えていくことしかない。
だから素敵なことを探そう。
美しいものを見つけよう。
どこにでもあるから。
実は、花粉症みたいではながつまってたので、少しでも呼吸ができると、すごくさわやかで嬉しくなる。
太陽は毎日すばらしい光を放ち、なんたって今の季節はたくさんのつぼみがほころんで春を告げている。
記憶力は、美しいもの、愛らしいもの、正しいもの、優しいもの、香しいもの、嬉しくなるものをとどめるために使うものだ。
誤用をしないように、それはあなた自身と世界のために必要なことだ。
仕事にはまったくキリがありません。
人助けにもまったくキリがありません。
一人で、あれもこれもやろうとして酷使したら、物理的な体が壊れてしまいます。
体が壊れると精神も狂い気味になることが多いです。
地球全体の、宇宙全体の発展と健やかさを祈り望みながら、自分自身を大切にしないのは矛盾しています。
痛みや調子が悪いのは大切な警告です。
体からの信号をどうぞ大切に取り扱ってください。
無理をしたら必ず後でツケがきます。
受験生のみなさんは、大学に入ってしばらくは何も勉強したくないかもしれません。
せっかくのあこがれの大学に入ったのに、無気力になってしまったかもしれません。
それはやりすぎてしまったからです。
この3月に引退した人はしばらく何もしたくないかもしれません。
無趣味と言われても、家でごろごろしていたいかもしれません。
今まで働きすぎていたせいです。
夢中になるとき、休むとき。
人生にはいろいろな季節があって楽しいのですけど、やりすぎたら壊れます。
予防のほうがずっと経済的なのに、ぎりぎりまで酷使して倒れてしまう人がなんて多いんでしょう。
休めるときには思う存分休みましょう。
意識して休む時間を作って立ち止まってみましょう。
時間もエネルギーも限られていて、やりたいことややるべきことはきりがなくて。
でも、全部自分でやろうとしなくていいのです。
自分が今できないことは、いつか誰かがやります。
やれなかったらやれないことに意味があります。
魂の時間で毎日を眺めて見ましょう。
目に見えるものやことから自由になってみましょう。
いま、ここで、この呼吸ができることの喜びを味わってみましょう。
サマセット・モームの短編に「雨」と言うのがあった。
舞台は南の国だったけど、雨は何かを狂わす。
英国では必ず傘を持ち歩くように言われてたけれど、ほんとうにそのとおりで、毎日雨か雪が降った。
オックスフォードは、気温のせいではなく、なぜかめちゃくちゃ寒くてぞくぞくして、この寒さに強い私が眠れないほどだった。
同じ症状が3人に出て、風邪じゃないかと大事をとった。
もしかしたら風邪だったのかもしれない。
もしかしたら何かを感じたのかもしれない。
少し元気になったところで、お部屋で天上の音楽をかけてよく踊った。
チャペルに行きたいと思いつつ、夕方や雨が降っているときなど薄暗くてしんとしていけなかった。
早朝、朝日がきらきらして小鳥やリスが楽しそうに出ているときに思い切っていってみた。
チャペルに続く中庭のイングリッシュガーデンには、野生のゆりやチュ^リップがたくさん咲いていて、ハーブも煙るほどだったので、少しミントを摘んで楽しみながら歩いた。
何百年も前の彫刻や壁画を眺めながらっすりへった石畳を歩く。
誰も来ない。
自分の靴音以外の音もしない。
なぜかモーツアルトなど歌いたくなって、一人でアヴェヴェルムコルプスなど歌ってみた。
なぜかそこに眠る学究達のスピリットとともにいるような気がして。
そして賛美歌を歌いながら踊った。
チャペルの中庭に、樹齢1000年ほども思わせる大木があった。
上を見上げたら、枝の隙間から朝日がこぼれて降ってきていた。
セッティングはハリーポッターの世界そのものだけれど、優しい聖霊たちとともによい時間を過ごせたような気がしてうれしかった。
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