
たとえば理由もなく、悪夢に悩まされる人がいるらしい。
小さい頃のトラウマかもしれないけれど、その子にはまったく責任がない話だ。
また、理由がわからないまま、不健康や悪に惹かれる人がいるらしい。
自分でもいやだ、健康になりたいと思いつつ、悪癖がやめられない人がいるらしい。
一方では、清く正しく美しく生きるのを喜びとして、難なく道徳的で社会貢献するのを楽しみに生きている人がいる。
この違いはどこから来るのか。
心理学者は学習理論を駆使して説明しようとする。
データで証明しようとするんだけれど、いつも引っかかるのは、同じ環境で同じ刺激を受けても個人的な反応はさまざまであるということ。
モチロンたくさんの人が同じような反応をしたら統計的に優位だとして、心理学理論となる。
でも、個人差は依然としてある。
そして違いとか、例外のほうが臨床的には意味が大きかったりするのも事実だ。
それをみるにつけ、行動の責任は誰にあるのかと不思議な気持ちになる。
すべての行動責任は、その行動を選択しているその個人にある、精神障害でない限り、となるのだろうけれど。(精神障害を持たない人っているんだろうか?)
でも、個人って、そんなに強く責任をおえるものなのだろうか。
そう考えるから、人を許せないという発想がでてくるのではないだろうか。
自分の行動を考えてみたらいい。
最大限度努力しても、できないことがいっぱいあるのだ。
その責任をとろうとするからうつになるのだ。
責任感の強い人は頼もしくて潔いけれど、ある意味、傲慢だ。
すべて私の責任ですって?
まさか・・・
どうすることもできないことまで責任を取らなくていいのよ。神様じゃないんだから。
かといって、なんでも流れに任せてるだけだから知らないというのも極端だ。
でも、責めることで事態が好転することはないというのも事実だ。
ネガティブ感情はネガティブ感情を生産してネガティブ行為を誘発する。
悪循環というものだ。
責める行為は、責任追及からきたりする。
弱く小さく、不完全な人間どおし、なぜ、責めるのだろう。
この責める責めないと言う性格傾向も、生まれつきで理由が説明できなかったりする。
となると、まったく持って、祈ることしかできないということになる。
頭で理解してもどうすることもできないことが多すぎるのだ。
正しい解決が見つからないときは、私は美しさを追及してみる。
そこに健全さのヒントを見つけられるからだ。
「陰鬱な気持ちと恐ろしい耐えざる苦悩のうちにあっても、私は人生を責めはしない。
むしろ反対に、私は人生を好ましく思い、人生を善であると考える。
そういう私をあなたは信じることができるだろうか。
私はあらゆることを善いもの、楽しいものと考える。
私の涙、私の悲嘆をさえも。
私は泣くことを楽しむ。私は私の絶望を楽しむ。
私は怒ったり悲しんだりすることを楽しむ。
私はこれらのものが気晴らしであるかのように感じ、それら一切のものが存在するにもかかわらず、人生を愛する。
わたしは叫びかつ悲しむが、それと同時に、私は喜んでいるのである。
いや、そういったのでは正確ではない。
この気持ちをどう表現したらよいのか。私にはわからない。
ともかく、人生のあらゆることが私を喜ばせてくれる。
私はあらゆることを快いと思うし、幸福を求めて祈っているさなかにあってさえ、哀れな自分自身が幸福だと思うのである。
これらすべてのことに堪えるのは、私ではない。
私のからだは泣いたり、叫んだりするだけである。
そうではなくて、私の内部にありながら、しかも私の上にある何者かが、それら一切を喜ぶのである。」
マリィ・パシュキルツェフの文だけど、そうそう、そうよねっていう感じ。
でも、もっといくと、ホイットマンみたいになるのだ。
私そのものが、もはや泣いたり叫んだりもせず、常に、喜び笑い感動に打ち震えるだけ。
悪を感じることができない人たちは昔からいたのだ。
機動隊でいかめしい京都の街かどで、ふと目の前の教会の掲示をみたら、オックスフォードの聖歌隊演奏会が5分後に開演だと書いてあった。
突然予定を変更して、誰も知らない、初めての教会のチャペルに入ってみた。
ヨーロッパのチャペルに比べたらこじんまりした印象のゴシック建築で、両わきの壁には十字架の道行のステンドグラス。イエズスとマリアの像は、煙るほど香気あるユリの花束で華やかに飾られていた。
突然、18歳の私、洗礼を受けて信仰に燃えていたころの自分に戻っていた。
プロテスタントの学校に通い聖書研究などしながら、なぜ聖書的でないカトリックの洗礼を受けたのか。
冗談のような話だけど、私は実は、四谷のイグナチオ教会の、音楽とステンドグラス、教会建築の美しさとその静寂な雰囲気に圧倒されてしまったのだ。
教義なんか二の次だった。
美しいものは人を圧倒する。
音楽がクライマックスになるに従い、きらきらした透明な光の洪水が整然と周囲に降り注がれる。
その光は、コスモスではなく、まるでパルテノンの建造物のようにしっかりと真っすぐにそびえたつ。
そしてその光は、私たちを包みこみながら天上へと突き抜ける。
輝かしい音、色彩感あふれた音という表現があるけれど、実際に音は光を発する。
この澄み切った音の光は、音がなくなった後でもそこに満ちている。
その輝きを、細胞のひとつひとつで全部受け止めて。
そして、お家に帰ろう。
そう、お家に帰るのだ。
私がいつもJOYといい続けていることに対して、いろいろなところから反対・攻撃・異論がくる。
ブッダだって、生きることが苦しみの連続であきらめろって言ってるんじゃなくって、ほら、こんなに平安ですばらしい世界があるよって誘ってる(岡野守也の著作を参考のこと)。
フランクルだって、どんなに辛いとき苦しい時にも意味があるというけど、苦しまなければ意味が見出せないといけないなんていってない、とはっきり書いてる。
ああそれなのにそれなのに 。
「この世の現実をしっかり見ろ!何が喜びだって?」
という人が多すぎて、まるで、喜んでいることは責任感のない冷たい人か浅はかなバカ、とみられるのだ。
本物を見分ける鑑定眼を身につけるには、ひたすら本物を見続けるしかないって聞いたことある?
偽者を見て、ここが違うんだなんて勉強する必要はないのよ。
そういうのは、批評家って言う人たちがやればいい。
私自身はたぶんジェームズの言う「一度生まれ」つまり生まれつき救われている人なのだろう。
人生に苦しいことがないわけではないし、いつも楽観的というわけでもない。
でも、困難に出会って悟ったというような経験はないからだ。
喜びは困難と同時に、常に初めからあったからだ。
苦しみがある前もあとも、同じように、いつも変わらない、愛や美しさを感じ続けているからだ。
喜びにフォーカスするのが一度生まれで、苦しみにフォーカスするのが二度生まれだとジェームズが言ってる。そのフォーカスは自分の自由意志による努力という風にも受け取れるけれど、実際はそうじゃない部分が大きい。
JOYは、自分で努力しても見つけられない。
あっちから来るものだから。
ジャアどうしたらいいって言うのよ!ッてしかられそうだ。
だからいつもいうことだけど。
空を眺めて。
小さいときから頭痛もちだった。
小学生の時にはすでに、頭痛があるのがアタリマエで、大学生になってから頭痛がないという経験をはじめてしてみて、世の中ってなんて美しくすがすがしく晴れやかなんだろうと思った。
頭痛といっても馬鹿にしてはいけない。
私は3度救急車で運ばれ、2回入院したことがある。
駐車場のマイカーまでいったところで倒れこみ、そのまま朝まで動けなくて過ごしてしまったこともある。電話もできず口もきけない状態になるから助けも呼べないのだ。
あまり痛みが激しいと、ありがたいことに意識がなくなる。
こういう、肉体的に激しい頭痛を知っているから普通に話もでき、歩ける程度の頭痛はそうは気にならない。
でも、何日も続くとさすがに気分もめいってくる。
このメランコリックさは、うつとは少し違うのだ。
何か気になることがあるわけでもなく、表面的にはいたってノーマルに有意義に仕事をしていたり、日常会話を楽しく友人や家族と交わしていたりする。
そう、メンタルには大丈夫なのだ。
でも、何かがおかしい。
JOYが湧き上がってこないのだ。
こういうことをいうと、それ普通じゃないですかっていわれたりする。
私にとってはぜんぜん普通じゃないのだ。
何か黒雲に包まれたようなわけわからなさが、精神の奥のほうに巣食っているのだ。
原因?
わかっているような気もするけど。
究極の孤独感。
スピリットはどうしたのっていわれてもね・・・
どうしたんでしょうね・・・
探ってみて少しわかってきたことは、この変な頭痛は、社会適応というやつをがんばって、自分らしさというか、自分の欲求に素直でなかったことに起因しているようなことだ。
誰にどのように評価されてもされなくても、人間って自分が自分らしいことをするしか本当の意味での幸せや充実感はないんだなあとつくづく感じた。
私の場合はそれに極端に敏感になっているみたいで、人から要請されたり、枠にはめられたりすることでは生きていけないみたいで。
なんともわがままなやつだとつくづく思うけど、仕方がない。
私は私の生き方しかできないんだということを痛感した。
文字通り、痛みの中で感じたことだ。
でも、社会的に、自分らしくすることが完全に許されているわけではないから、やっぱり、頭痛は続くのだ。
わたしの場合は、クリエイティブなことをするしかないのだ。
芸術的に価値があるかどうかなんて別問題だ。
社会で受け入れられるかどうかも関係ない。
私が生きていくためには、どうしても必要なことなのだ。
それを禁じると、窒息しそうになっていのちがなえてしまうのだ。
生きているという感じがなくなっていくのだ。
そういうときには、喜び体験を積み重ねても、感謝を数えてみても、どうすることもできないむなしさがつきまとってしまうのだ。
でも、表面的には何も問題がないのだから、他人に理解してもらうのは難しい。
肉体的、精神的、社会的にこんなに恵まれていて、何が問題だって言うわけ?
究極の孤独。
これがスピリチュアルな頭痛の原因なのかもしれない。
攻撃は最高の防御だって?
傷つけられたくなかったら傷つけろ!
奪われたくなかったら奪え!!
めちゃくちゃひどい誤解だ。
いつからこんなばかげたことを信じるようになってしまったのだろうか。
目の前の一瞬のことしか見えてないから生じる誤解だ。
なんていうこと!
他者を傷つけて一番傷ついているのはあなた自身だってこと。
奪ったつもりでどんどん奪われてしまっているってこと。
与えれば与えるほどますます与えられるって法則は、実践して初めてわかってくる。
カッコウつけてるんじゃないの。
善人ぶってるんじゃないの。
我慢してるんじゃないの。
そのほうが気持ちよくて幸せになるからやってるだけで。
お願いだからもう、あなたを傷つけるの、やめて。
あなたが傷つくときに、私も致命的な傷を受けてることに気がついて。
お願いだから、もうやめて。
自分のことなら耐えられる。
でも、あなたの傷つくのはみていられないんだ。
お願いだから、もうやめて。
一人一人がみんな違っているからこそ、面白いし、惹かれあう。
でも、違いを強調していたら、子どもっぽい人たちは競争して対立してしまう。
少し成熟した人たちも、何かしら疎外感を感じるのは否めないだろう。
みんなが違っていていい。
というか、いいも悪いも無い.
それが現実だ.
でも、これを突き詰めると、人は決して分かりあえることなんかないというニヒリズムに陥る.
これは結構つらい事だったりする。
だからみんなひとつだ、世界はひとつだという幻想に憧れる。
みんな本当はひとつになりたいのだ。
歓喜の中でその幻想に酔いしれる。
醒めて日常に舞い戻ってきた途端、他者とくっきり隔てられたこの肉体を実感する。
この地上において究極に、私は一人なのだ.
一人で生まれでてきたのだし、一人で去っていくのだ.
でも、だからこそ、あちらではきっとひとつだというおぼろげな記憶と憧れでもって、スピリチュアルを求めるのだろう。
スピリチュアリティの3因子を車にたとえると・・・
意志はハンドルである。
みなの誤解は、動きを加速したりストップしたりするための、アクセルやブレーキのように思ってしまうことだ。違うのだ。意志は行き先に照準を合わせるだけなのだ。つまり方向を定める、選択する。
怠け者は面倒くさいから、ハンドル操作を最小限にして、惰性で同じ方向に行くだけだ。
喜びはガソリンだ。
エネルギー源なのだ。これが無いとどんなに立派な車も動かない。チャージするにはガソリンスタンドで止まって給油しないといけない。混じりけの少ない純粋なハイオクは高いけど高性能だ.
気づきはナビだ.目的地を指し示すと同時に道を間違えたときにはすぐに修正し、拡大したり縮小したりして現在地を示してくれる。ついてない車もある.そういう車は道に迷ってうろうろしてしまう。大切なんだけど、やっぱり走りながら操作するのは危険だ。間違える事もある.これもやっぱり、止まったときに操作した方がいい。なんか変だと思ったときには早めに確認した方がいい。目的地を間違って入れたら大変なことになるから。分かってても、指示に従ってしまうのだ。それ程ナビの影響は大きいのだ。
車を良く機能させ長もちさせるには、休ませたり定期的なメンテナンスが必要だ。
高性能のスポーツカーは、たまには高速で走らないと調子が悪くなる。
同じことを軽自動車ですると危なっかしい。
今日も安全運転でよい一日を。
しかしガソリンの高騰はきついですね・・・
エネルギー危機は、地球も人間も同じです。
西洋あるいはキリスト教が超越性を志向して上昇し、東洋あるいは仏教が下降的超越によって身体性に回帰すると区別する立場に異論を唱えたい。
スピリチュアリティ、聖なるもの、ホーリー、ホリスティック、全体性、包括、健康、は語源的に皆つながっている概念だ。
とすると、スピリチュアリティの二つの位相、「聖なるもの、超越性」と「全体性の回復」は語源的にも同義とならないか.
つまりスピリチュアリティは、人間のロゴス的発想である働きとして上昇する方向と、上から降りてくる恵みを無条件で受け容れる喜び(これはロゴスに対してエロス的発想と呼んでもいいだろう)の双方向のつながり回復なのだ.それに対する永遠性の気づきがあってこそ、至福が達成される。
すなわちそれが喜びのスピリチュアリティというわけ.
これはスピリチュアイティ3因子論を支持する。
3因子?意志の働き.喜び.気づきです.
スピリチュアリティ診断テストでおなじみでしょ.
喜び現象を分類しないといけませんけど、どれもすべて免疫を高め生命力を増しますからいいものに違いないですが。
1.喜びの喜び:反応として起きてくるポジティブな感情・情熱
2.意志の喜び:自分で選択していく意味とか感謝とか
3.気づきの喜び:すべてを包み込んだエクスタシー・至福
4.包括的喜び:123をすべて含む光そのもの
おお、論文がかけそうだ。
しばらくそっちに専念します。
悪しからず.
閉経後の女性のSEXというタイトルで、学会の招待講演があった。
性機能の衰えと共に、欲求もなくなる方が多いそうで。
男性も同様で。
最近は若くてもセックスレスが多い。
これってどういうことなんだろうと考えてみた。
性に対する関心がありすぎるのも大変だけど、無くなるというのも何か淋しい。
性はいのちを生み出す根源だから、淡淡としてるというのは何かいのちのエネルギーに乏しくなっていくのではないかという感じがする。
欲求がない人を無欲だといって賛美したりする風潮もあるけれど、喜びも悲しみもなく飄々と泰然自若に生きている仙人はやはり、命が薄い感じがする.
生きるということはいろいろな欲求や感情があって、山あり谷ありが当然ではないだろうか。
何が起こってももゆったりと構えて、「それが人生というものよ」と微笑む余裕のある成熟に憧れていたけど、ある意味、それって、ただ枯れただけ、あるいは麻痺しちゃっただけかもしれない.
つまり、喜んだり悲しんだりする機能が鈍くなって、エネルギーも無いのかも.
そう考えると、今いろいろな事があって嘆き悲しむのだって
「すごいな…まだ泣ける、こういう情熱があったのか…」と嬉しくなってくるのでは?
相変わらず、どんなところからでも喜びを引き出してくる名人のまなみんです.
遊んだり怠けたり気分転換が多すぎるからか、私はよく最善を尽くしてないといわれることがある。
でも、これは私としては最善を尽くしているのだ。
最善って何かと考えた。
たとえば、オリンピックなんかで、その選手のもてる最高の記録を達成すると最善を尽くしたって言うのだろう。骨折しているのにサポーターでごまかしてやったなんて恐い話も聞くことがある。
大会で記録を達成した後、リハビリで長いことかかったり、そのままからだを壊して引退する人の話も聞く。
私はそういうのは最善とはいわないのだ。
むしろ、おろかじゃないかと感じる。
なぜかというと、視点が狭くなって、ひとつのことしか考えられなくなっているからだ。
まあ、価値観がいろいろだってことは認めるにしても、自分はそうはしないなって思う。
競争とか一番になりたいとかいう欲求がない人だから。
いろんな問題は、総合的、統合的に物事が捉えられなくて局所的短期的にしか見えていないときに生じるんだとおもいませんか。
視野を広げたら、たいていの物事は解決がつくし、安心するんだけどな。
私が思う最善とは、今、ここでできることを大切に行うこと。
それはお茶碗を洗うことだったり、歯を磨くことだったりするかも。
大切な気持ちですると、自然に嬉しくなってくるから。
そうしたらいい仕事ができる。
当然のことだ。
いやいやする、あせってする、いい加減にほかの事を考えながらやる、あるいは無理してやるとどうなるか?それはその仕事を愛してないってことだから悲しくなってくる。
そうすると気分が乗らない。体の調子だって悪くなる。結局いい仕事にはならない。
もしかしたら、そこだけ見たらいい仕事かもしれない。
あまりにもよくある話だけど、心理学者とかがすばらしい業績を上げているかたわらで、家庭が崩壊なんて。
今ここでできることって、社会的なことよりまず家族のことだし。
家族のことよりもっと自分のことだし。
寝たり食べたりが基本なんだけど。
それをおろそかにして最善なんていえるのかなと、ふと思う。
しかしそうはいっても仕事もある。
からだはひとつ、大変な毎日だ。
いってきま~す。
カウンセリングなどで、特に深層心理を探るような技法では、ネガティブなものを無視してしまわないように気づきを促すことがある。さらに、ネガティブな感情や事柄に直面させるようなこともする。フロイトが行った精神分析的な手法はその一つの例かもしれない。
思い出したくないものを封印していたら問題を引き起こすから意識化するように、ということだ。
一方では、思い出したくないことには触れないで、いいことや解決した状況をイメージしたりして元気になるという技法もある。
スピリチュアルになるということは、実は上記の両方をホリスティックにアプローチしながらどちらにもとらわれないでいることだろうと思う。
きっかけとして自我の働きがあるだろう。
意志の働きで問題を見つめたり、解決をイメージしたりと言うことはあるだろう。
でも、それでおわりではなくて、実はその先がある。
つまり、自我による意志の働きではなく、解き放たれていく世界だ。
自分からポジティブになるのではなくて、もともとが、すべてポジティブであることに、ただ、気がつくだけの話だ。
なんだ、ふ~~~~んという感じ。
執着を断つとか、眉間にしわを寄せることではなくて、ただ、そこにいたらいいだけ。
あっそ。
ていうか・・・
そういう感じ。
これが私のいうJOYだし、ポジティブ心理学の真髄。
努力ではない、むしろ反対だというのはこういう意味。
愛するあなたへ
今朝は、痛みを感じられる気持ちを誇ろうと思う。
痛みを感じない心は欺瞞に満ちたものだからだ。
できることは、この痛みを、少しでも離れて眺めてみることだけだ。
だからといって、痛みが減るわけではない。
ただ、痛みの渦に巻き込まれてしまうのが少し防げるだけだ。
そして
でも
人生は光に満ちていると、私はいう。
痛みを感じないように麻痺させて、そういうのではないのだ。
むしろその痛みの中にとどまりつつ、99.8パーセントの暗闇の中から、0.2パーセントの透明や輝きを見つけていくのだ。
光の量が問題になるのではない。
この耀きの透明度と純粋さと波動の高さが、すべてを突き抜けていくことを知っているのだ。
だから私は、人生は光に満ちているというのだ。
愛するあなたへ
今日もこの光を届けよう。
届いていることに気がつくかどうかはあなたしだい。
プレゼントをあけるか捨てるかもあなたしだい。
私はただ、送り続けるだけ。
自分がなんだかわからないという悩み・・・
いつもかかえている。
未だに。
エニアグラムなんか、やるたびに変わるし。
そのとき夢中になってやってることで表情とか顔つきとか態度までまったく変わるし。
ひとつわかったこと。
これがわたしだというものがない、それがわたし。
いつも動いていて、流れていて、拠点がなく、ひらひらちょうちょのように、花から花へ。
「とまれよ遊べ、遊べよとまれ」
ま、そんな生き方。
えっと・・・今日はどこに行こうかな~
きれいなお花とおいしい蜜のあるところへ・・・
いってきま~す。
不可能なことを可能にするためにと、人はがんばるのだろう。
でも、わかってしまった。
がんばったらできないのだ。
不可能を可能にするためには、努力してはいけないのだ。
楽なことを簡単にやってしまうのがコツだ。
ためしに巨匠を見てごらん。
どんな世界でもいい。
本当の名人・天才は、遊び戯れているだけだから。
がんばるとなぜいけないのか?
疲れるからだ。
自分をいじめて壊してしまうからだ。
結局不可能は不可能なままだ。
なんて単純なんだ。
なんて馬鹿なことをしていたのだ。
なにもしなくても、気持ち的にがんばってしまうだけで病気にだってなれる。
誰がなんと言おうと、楽しくやってたらいいさ。
ためしに、好きなようにやってごらん。
がんばってたときより、格段に能率よく、仕事の質量とも増加してることに気がつくはずだから。
問題は、がんばる癖がついてる人ががんばりをやめるのは、結構難しいということだ。
間違った思い込みだ。
東大合格者はすごくがんばった人ばっかりだろうって?
実はそうじゃないよ。
遊んで入ってる人がいっぱいいるよ。
でも、そんなこというと、嫌われるからね。
言わないだけ。
がんばりましたって言ってたほうが世間受けもいいしね。
ま、弱者に対する思いやりということかな。
(こういうことを書くだけで袋叩きにあいそうだけど)
でも、科学者の良心から、私は事実をつたえたい。
成功したい人は、がんばらないで遊びなさい。
気が向いたら実証します。
気が向いたら・・・笑
これがコツかも。
一番たちが悪い依存症は、コンピューターゲームではない。
人間関係の中に現れるゲームだ。
これについては交流分析で詳しく説明されている。
「弱い私を助けてゲーム」
「捕まえたぜこのやろうゲーム」
「愛してるから行かないでゲーム」
命名は私の思いつきで、エリックバーンのものではないのであしからず。
でも、気がつかないでこのゲームにはまって同じことを何度も繰り返す。
パターンに気がつくと、あ、またやっちゃった~となるんだけど。
ゲームはまったくもって不毛。
エネルギーと時間の無駄。
それにも意味があるなんて分析する暇に、もっと楽しいことやったら?
もっと喜びにあふれたもっと生き生き楽しいことが、いっぱいあるんだけどな~。
ゲームにはまってると、わかんないんですよね・・・
一番たちの悪い依存って、苦しみに対する依存だってさ。
自分いじめも他人いじめもやめようよ、みんな。
そんなことしてる場合じゃないでしょ。
地球が悲鳴あげてるじゃない。
エネルギーと時間をかけていく方向はどっちなの?
仲間内でゲームなんかしてる場合じゃないってば。
何が正しいのか、わからなくなることが多いかもしれない。
すべてが正しいって言う主張もあるくらいだから。
でも、何よりも正しいと私が言いたいのは、
「生きていく」
このことだ。
破壊や死を求めるもの、ひき起こすものは「正しくない」
成長と生産と創造に寄与するものこそ正しいのだ。
そして正しいことは美しく、善いことにちがいない。
日本語でスピリチュアリティをどう捕らえるかを調べて、あまりにも自分の使用してきた意味と違っているから、もう、スピリチュアルと言う言葉を使うのはよそうかと思った。
天使という言葉もそうだ。
もし世間で80パーセント以上の人が使っているような一般的な理解だったとしたら、私はスピリチュアルではない、はっきり言っておく。
宗派宗教から離れてスピリチュアリティが広まってきた背景には、文化や風土を越えた超越的な目に見えないものに対する信念や憧れがあったに違いない。
人は常に真実なるものや美しいものを求めているものだ。
でも、ここで生きている人間である限り、こちらからの視点で眺める限り、自分の経験から言葉を媒介にして語るという制限がある限り、純粋なものは表現できないのである。
言葉はすべて媒介物であって、できるだけ本物に迫りたいと工夫しているだけであって、単なる記号である。解釈がまちまちになってしまうのは仕方がない。
しかし、これだけの誤解を招くとなれば、やはりspiritualityを語ろうとすること自体が、やはり恐れ多いことだったのかもしれない。
確かに、昔から秘儀とされ、オカルトとして隠されてきたことには意味があるのだろう。
文化的な背景からできるだけ自由になろうとして、科学的手法を使用しようとしてきた。
今でもその姿勢は変わらない。
しかしなぜ私はこのように人間的なものに嫌悪感を感じてしまうのだろうか。ゆがみや曇り、偏見に傷ついたからだろうか。誰もそこから自由になることはないはずなんだけど。というより、そのようなバイアスこそが人間が生きていることだろう。
具体的な息遣いや皮膚感覚に満ちたものに対する嫌悪感、そのことの意味を考えてみる価値はあるだろう。そこに、宗派宗教を嫌って、spiritualityに向かっていった動機を見ることができるように思うからだ。
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