
人の目を気にする人が多いらしい。
一人のときこそ、自分が一番自分らしくいられて、らくらく~~~
だから一人が好きという人も結構いる。
でも、人はみなさびしがり屋で、実は人と一緒にいたいものだ。
自分が自分でいるためには、人と一緒にいなければいけないんだ。
自分は切り離されて存在しているわけではないからだ。
自分ひとりぽつんとあるときは、傷つくこともない。
けれど成長することもない。
人といるとき、人の反応を通して自分を見る。
そして実は自分がもっと自分らしくあることができる。
愛する人の眼差しの中に自分を見つけていく。
これがきっと、魂の自己実現。
あなたの瞳の中で泳がせてください、今日も。
場や空気を読むことの重要性が日本文化で強調されてきたけれど、最近それが読めない人が問題になっているけど、これって、あながち非難されることでもないと思う。
中には、読めるけど読まない、あえて無視するという方もいるし。
場の理論とか空気って、そこにいる人たちの多数決や力関係で決定されるものだ。
原則には関係ないのだ。
つまり、場の理論とか空気というのは、そこにいる人のそのときの思い、あるいは習慣から来るものであって、本当にそれが正しいかとか理にかなってるかとは違うものなのだ。
だから、空気を読んでそれに従うのは、その場のグループ行動がスムーズに行く要因ではあるけれど、正しい選択であるという保証は何もないのだ。
場の理論にひきずられると言うのは、同調行動を促進するということだから、実はそれを強調するのは危ないことなのだ。
それをわかっていて、その上で、今こうしたほうがよいと判断してしたがってみようとするのはいいと思うけど、みなが戦争に燃えているときに一人行かないという態度は、私はけっこう好きだったりする。
当然いじめにはあうけど、まあいいではないか。
そのときその場だけの人から排斥されても、時空を越えた根源的な何かに一致しているほうが、考えてみたら功利的な生き方だと思うんだけどな。
それに気がつくのには、時間がかかるんだろうな。。。
だから、苦難を求めたりする人がいるようで・・・
単純なことなんだけどなあ。
みなさんはどういう死に方がしたいですか?
中学2年のときホームルームでみんなでどういう死に方をするか想像したことがあった。
で、私はクラスのみなから、「恋のもつれでオトコに刺されて死ぬ」といわれて、ええってびっくりしたことを覚えてる。すごく印象的だからよくおぼえてるんだけど。
実はもう、そういう情熱的な恋の季節は通り過ぎたような気がして、なんとなく生き延びてきたことに感謝してるんだけど。(ちょっとさびしかったりもします。笑)
一体どういう死に方をするのかなあ。
どういう状況かわからないけど、ひとつだけ希望がある。
天に戻れる喜びで、歓喜に満ちた最高のスマイルで逝きたいということ。
だから、痛みのコントロールは絶対に欲しい。
それがかなわなくても、たぶん、私の場合、耐えがたい痛みは意識をなくすってことを知ってるから大丈夫だろう。
で、問題は、いつ死ぬかわからないってこと。
準備していられないのよね、突然だモンね。
で、どうするか。
今、次の瞬間にしんでもいいように、いつも準備してることしかないなあ。
つまり、いつも、最高のスマイルをして生きていくことだ。
この、今という最後の瞬間に。
これしかない。
というわけで、すべての瞬間に喜んで楽しんで笑っていくという課題が残される。
そう。
もし、墓碑があったらかいて欲しい。
「故人はいつも笑っていた。今も笑ってる。そしてずっと笑っているだろう。」
遊びでもいいなあ。「いつも遊んでいた。」(事実だ。笑)
死を遊びだと考えるって発想だって、きっと、永遠の別れだと思う人には不謹慎なんだろうな・・・
ちょっと誤解されそうだな・・・野暮だけど説明しておきます。
ゲームみたいに、リセットしてやり直しになるってことじゃないんだけど。
だから、都合悪くなったら終わりにしちゃおうって、そういう遊びじゃないのよ。
この遊びの得点は、ここに生きてる間にどれだけたくさんの人を笑わせたか、つまりハッピーな気持ちにしたかで測られるんだから。
途中でゲームやめたら、ハイ、ゲーム終了よ。
一番つまんないよ。
やってやるぞ~~~
なんか待てないなあ、楽しみ~~
魂の喜ぶ仕事と、地上の仕事が一致してる人は幸いだ。
自分探しって言うのはきっと、自分に向いてる職業を探す、この世で今できる、そしてすべきことを探すことなんだろうと思う。
性格テストや職業適性テストなんかしてふううんとおもいつつ、実際にはやらなかったりするんだけど、結構それって、確かに向いてるんだなあと思うこともある。
星占いなどで小さいときから私は、占い師・神秘家・宗教家なんて出てた。
そういうのって、昔の小さい女の子のなりたい職業であるわけがなく、なんで???と思っていた。
バレリーナになりたかったんだ。
一番向いてないのは、秘書だった。
これはものすごくよくわかるなあ。
近頃むいてるってよく言われるのは、マッサージ師。
こってる人やきつそうな人に思わずタッチして、必ずいわれる言葉なんだ。
「すごい!プロよりうまい」
でもって、自分も気持ちよくなって楽しいから、こんなに嬉しく、直接すぐに貢献できることって他にはない。
マッサージってうまく説明できないけど、姿勢・かもし出す空気・色・張り・手触り・においなどで、相手のことがわかるからできるんだ。
あ、ここいたそう・・・とかここ、血液が滞ってるじゃないか・・・とか。
考えてるわけではない。
気持ちよくさせてあげようなんて思ってるわけでもない。
ただ、やりたいようにしてるだけで、やりたくない時はしないしやめるし。
実はこの、自分の意識がコントロールしないときに、自分より大いなる何かが働いているのだと思う。
だから、おぼえてないし、説明もできないのだ。
これはやはり、天職というものだろう。
お金をもらったことはありませんが、そのうち開業しようかなあ。笑
「ロミオとジュリエット」の悲劇は、サモアの人だっけ?喜劇に見えるそうで・・・
何で勘違いして死んじゃうわけ?ばかじゃん、あははは。という具合らしい。
悲劇が悲劇として成り立つには、その中に没頭してのめりこんでいく必要がある。
事象との同一化ということだ。
これによって、どんなことでも悲劇にすることができる。
反対に、離れてみることができたら、どんなことでも、ある意味、おかしくってたまらなくなる。
世の中で起きている悲惨な不可解な事件を喜劇だといってしまうのは、当事者・被害者にしてみたら不謹慎で失礼なことであろう。
でも、喜劇だというのは、何もシニカルに斜めから見ているのではない。
バカらしくて笑えるということだ。
そういうことにかかずらっている自分がまた、あまりにも小心で視野が狭くて笑えてしまうということだ。
それで何が変わるのか?
世界はいつもと変わりなく進んでいく。
今日もまた太陽が昇ってくるのだ。
泣き叫ぼうと笑っていようと、世界はびくともしないのだ。
いや、違う。
泣き叫んでいる人には世界は悲劇となって現れる。
笑っている人には世界は喜劇として現れてくる。
だとしたら、笑っていようではないか。
肉体は動物的で低次元であって、精神は高尚なものというイメージがあるかもしれない。
もしそうだとしたら、自意識のない動物は人間より劣っているから人間の都合でコントロールしていいということになる。
この理屈で行くと、植物なんかもっと低次だから好きにしていいということになる。
もっと行くと、命のないもの、山や川や大地なんかは、人間のやりたい放題に扱っていいということになる。
本当にそうだろうか?
この理屈で進んできたつけが、今やどうしようもないほどの地球環境汚染となって猛威を振るっているのではないか。
大地は削られても文句を言わない。
花はむしられても、しおれるだけで攻撃をしない。
動物だって、肉食されるときには観念しているらしい。
無抵抗の存在をいためつめてきたツケは、コントロールしきってきたつもりの人間に降りかかってくるのだ。
同じことが、心・魂・体にもいえる。
体はなかなかものをいわないし、魂なんかずっと沈黙のままである。
うるさく騒がしいのは心だけだ。
心の要求するままに、つまり自分が考えることにしたがって肉体や魂をコントロールしようとした結果は、病気やむなしさや、理由のわからないうつ状態などとなって現れる。
追い詰めていくと、沈黙のまま存在が脅かされていくのだ。
魂の喜びや体の喜びに耳を傾けなければ。
手遅れになる前に。
読売新聞の調査なんですが・・・
調査日:2008年5月17-18日
対象者:全国有権者3,000人(250地点、層化二段無作為抽出法)
方法:個別訪問面接聴取法、回収:1,837人(61.2%)*
Q 最近、自分の前世や守護霊、オーラなど、目に見えない霊的なものとのつながりに
よって、心の安らぎを得る「スピリチュアル」が関心を集めています。あなたは、
こうした「スピリチュアル」に、ひかれますか、ひかれませんか。
答え 1.ひかれる 20.6 2.ひかれない 75.4 3.DK.NA 4.0
あたしは・・・
大いに、自分からひきました!!
この表現に↓
自分の前世や守護霊、オーラなど、目に見えない霊的なものとのつながりに
よって、心の安らぎを得る「スピリチュアル」が関心を集めています。
そうなんですか・・・
びっくりしたな・・・
みんなそういう風に思ってたんだ・・・
誤解されるわけだ・・・
頭のかたい私は、もう一度言っておきますが、「スピリチュアル」ではありません。
spiritualですけど。
ストイックな人は、一見快楽と反対方向を求めているように見えるけれど、実はそのプロセスの中でめちゃくちゃな快楽を追求している。
つまり、何かを我慢することは、最高の快感を得るための必須条件だからだ。
空腹は最良のソースという。
どんなにグルメを追及してミシュラン登録のお店でいただくお料理より、空腹で死にそうになっているときに食べる塩おにぎりには勝てないんじゃないかと思う。
性だって、我慢すればするほどそのあとの解放による快感はたとえがたいものとなる。
苦難の連続のような人生を歩むとき、通りすがりの見知らぬ人の微笑や、道端の名もない花にどれだけ慰められることだろう。
苦労を求めてるように見える人がいる。
なぜなんだ?と思って不思議だったけどよくわかった。
人生を楽しみたいからなんだ。
喜びに浸ってうっとりとこの快感を味わいたいからなんだ。
意識してなくても、きっとそうなのよ。
愛するあなたへ
究極の快感を創造しながら、今日もストイックに楽しんでください。
これは、自分を卑下することでも過小評価することでもない。
他者をほめ賛美することだ。
他者の善いところを見つけてもっと伸びるように惜しまず貢献することだ。
と、さすがはポジティブなアメリカ人の定義。
嬉しくなってしまった。
だとしたら、私はすごく謙虚な人になるからだ。
だっていつも常にそうしてるからだ。
なんて豪語するとこは、傲慢だって?
あははは。
まあまあまあまあ
文化差っていうのかな・・・
そうは言いたくない。
なんか規定されてしまう気がするから。
性格傾向の差ですな・・・
平安を望むタイプと、わくわくを望むタイプで、パターンがぜんぜん違うみたいなんで。
モチロン私はわくわく大好きタイプなんで。
日本人には少ないみたいで。
ま、そういうことのようで。
世の中の苦しみや問題は、実はやっていることをみんなが半分にして、睡眠をたっぷりとってぼけっとお空でも見ていたら解決すると真剣に思う。
なぜいらいらするかって言うと、忙しくてやるべきことに追われているからだ。
ロハスを提唱する講演会やプロジェクトで走り回るほどおかしなことはない。
誰かが言わないと気がつかない人がいるのは事実だけど。
まあ、いわなくてもいいのよ。
ただ、楽しそうに自分がゆっくり楽しんでいたらいいのよ。
家族のふれあいがないですね・・・なんてケース会議で議論する前に、おうちに帰って家族と一緒にご飯を食べてください。
運動不足ですね・・・なんてメタボにアドバイスする前に、フィットネスに行ってしゃきっとはつらつになって診療してください。
睡眠不足はミスや精神の不健康を引き起こすと言う論文の執筆投稿に徹夜してるおばかさんたち!
なんてみんなそろって(わたしもふくめて)あほ!
なんかへんだよ、みんな。
魂を忘れてきちゃった・・・・というフレーズが、「モモ」にあるらしく。
ぎくっとした。
私のことである。
からだに魂が追いついていけてない感じ。
置き去りにされた魂は引き戻そうとして、気がついたら意識がなくなっている。
(つまりうたたね、あるいは変性意識状態、同じことだ。)
うつろな心を引きずって、足だけは地上を移動している、あちらこちらへ。
私の心はどこに行ってしまったの?
立ち止まって追いついてくるのを待たないといけないのよね。
でも、地上の時間はどうしてこんなに早くすぎていくの?
ああ、あまりにもうつろな。
魂の抜け殻とは、こういう状態を言うんだろう。
それに気がつくのが恐くてますます加速してしまう、末期状態だ。
こういうときに、人はよく病気になる。
強制的にストップさせられるのだ。
それに感謝しないのは大ばか者。
魂のケアーを大切に。
今この瞬間に、あなたの愛する人が生きているかどうか確認できますか?
あなたのからだにがん細胞がむくむくと発生しているかどうかや不治の病にかかっていないことがどうやってわかりますか?
明日まだ自分の会社がつぶれていない、あるいはリストラされないという保障がどこにありますか?
この週末楽しみにしている計画や夏休みの企画が全部流れる可能性を考えてますか?
あなたはなんてポジティブで、大いなる信頼に身を任せているんでしょう!
信頼する人は幸い、あなたは天国を見るでしょう。
同時に何か予期しないことが起きても、何とかなるもの、という信頼感を持ち、何か意味のあることだと思える人こそ、本当にハッピーで健康で長生きします。
SOC理論より
研究は日常生活に生かさないとね。えへ。
「なんて悲観的なものの見方なの?もっとポジティブになったらいかが?」
「いや、ただ、現実的になっているだけさ」
誰だったか忘れたけど、美しい女性が賢い男性と結婚して子供ができたら…と想像して
「私の美貌とあなたの知性でどんなに素晴らしい子どもになるでしょう!」と言ったのに対し、
「君のおつむと私の風貌の子どもが生まれたらどうする」
と答えたのは有名だ。
悲観主義イコール現実主義なのだろうか?
いや違う。
悲観・楽観の軸と、現実的非現実的は違うのだ。
悲観主義者が、悲惨さに対し直面できず逃避傾向があるのに対し、楽観主義者は現実を淡々と受け止め向かっていくというデータもあるのだ。
健康自己実現型:楽観主義で現実主義
実存厭世型:悲観主義で現実主義
ポリアンナ型:楽観主義で非現実主義
病的鬱型:悲観主義で非現実的
さあ皆さんはどの型ですか?
変な言い方だけど、永遠は今のこの瞬間にしかないんだ。
物理的な時間概念から言うと矛盾してるもいいとこだ。
これをどう説明したらいいのか、ものすごく難しい。
だから結局たとえを使うしかない。
最近のお気に入りは反転図形。
同じ刺激(リアリティ)をみてるのに、あるときには二人の横顔、あるときには花瓶。
どっちが正しいということはなく、どちらかにとどまっていることもできない。
要するに、そんなものなんだな・・・って眺めていたらいいだけで。
花瓶を見るんだとがんばっちゃったら、二人の顔が迫ってくる。
二つともありだからひとつを無視し続けるのは無理なこと。
喜びばかり見ようとしたら、悲しみが迫ってくるというのも、なんとなくこれでわかったような気がしてきた。
ま、どっちもありと楽しんでたらいいということで。
で、楽しめないときもあるということも認めないといけないんだ、ということで。
かけがえのない今の瞬間!
無駄にすべきではない!
とおもうのもよし。
別にあせらなくても、こんなこと、今の一瞬だけの話だ。
永遠のなかでは取るに足らない一瞬さとのんびり構えるもよし。
ま、あるがままに。
病気は信仰がないから起きるんだ?
なんてかわいそうなことをいうんだろう!
生まれつきの病気が自分のせいだって?
自分で選んできたんだって?
自分の過去生のせいだって?
覚えがなければ、自分の先祖の罪のためだって?
こういう考えこそ、病んでると思わざるを得ない。
と思えば、こんどはまた、障害や病気は天使の証だって?
克服していく姿が人に勇気を与えるためにここに現れただって?
すべてのことに霊的な意味があるとするのも、すべてが科学で説明できると考えるのと同様に、いや、たぶんもっとたちが悪い「霊的な還元主義」だ。
それで幸せな気持ちになる人はそれでもまだいいとしよう。
事実と異なっていても、一時的な救いになるのは確かだ。
しかしそれが恐怖をもたらし、苦しみをもたらすとしたらやめたほうがいいと思わないか?
その結果、不健康な考えから心が病んで病気になっていくというほうが実際は多いような気がする。
検証してみたわけではないけど。
病院死の原因が、病のせいではなく、薬害が原因である場合が多いのと同様だ。
何が真実かということは私は問わない。
過去生の影響かどうかなんて確かめようがないからだ。
いくら霊能者が言ったとしても私はそれが真実だとは思わない。
主観的な語りにすぎないからだ。
真実かどうかは誰にもなんともいえないのだから、そうなるとその考え方が幸せになるのに、元気になるのに、役に立つかどうかが気になるだけだ。功利主義だ。
そうすると、「スピリチュアル」が、「正しい」かどうかが見えてくる。
そうなると、この世的な成果を基準にするしかない。
でもそれは、目に見えるものとは限らないのだ。
スピリチュアルでなくても、心の中に起きることは目に見えない。
でも、こころの健やかさ、晴れやかさ、透明さ、すがすがしさは、行動に現れるから、多くの人にはわかるのだ。
ものごとの善い悪いはなかなか難しい。
立場によって正反対になることだって起こる。
でも、健康か不健康かはもっと単純。
基準は気持ちよいかどうかだから。
信じなさい信じなさい、ひたすら信じなさい。
確かに、信じたら物事がそのように動いていくことが多いし、願いがかなわなくても、救われていると信じることができたら確かにおめでたく幸せなはずだ。
でも、現実や理性の判断を無視して信じることは出来ない。
それを捻じ曲げて信じようとすると、心が反乱を起こす。
だから、救われたい人間は、信じられる根拠だけを集めてくる。
何とかそれで解決しようとする。
そして、例外は無視。
というか、信じる時点で盲目になっていて見えないことが多いようだ。
これは実はひじょうに危うい。
救われるどころか、大きな落とし穴に投げ込まれるようなものだ。
このような欺瞞でどれだけの人が熱に浮かされ現実から解離していくのだろうか。
切ないほどに救いを希求してるのだけれど。
知的になればなるほど疑い深くなる。
物事がそれだけよく見えてくるからだ。
知的に詰めていったとき、ある時点で反転が起きることがある。
分析して細かく詰めていた先に、光があってそのまぶしさに目をやられるのだ。
その光にも目がなじんできたら、また見えてくる。
信じることは、この決して終わりはない繰り返しの疑いのプロセスなのだろう。
単純に信じられないって落ち込まないで下さい、だいじょうぶ。
理性が発達してるということですから、すばらしいですね。理性万歳。
信じることで救われているあなた、おめでとう。
無理して疑わなくてもいいですが、理性をごまかしているとツケが着ますよ。
深くゆるぎない信仰は、疑い、吟味が細かくなれはなるほど生まれてくるものだから。