尾崎真奈美の天使語同時通訳します

2008年08月

死を待ち望む

ヴェイユか誰かの著作にあったなあ、このタイトル。

私は決して自殺を推奨してるわけではないし、死によってこの世の重荷や苦しみにピリオドを打ちたいという事を意味してるわけでもありません。
いつも言ってるように、この世は光と愛と歓喜で満ちあふれ、楽しいお遊びなんだから。
生きてるのが嫌になると言う事では決してないわ。
むしろ面白くて仕方がないんだけど。
今、頭痛できついんだけど、なぜかそれさえも面白いんだなあ。
タイプできるくらいだからたいした事ないですけどね(でも今日のデートキャンセルは残念)
でも、楽しいってどういう事かって?
そして死を待ち望むって?
人生が楽しくて仕方ないから、もう堪能しました、ええ、もう十分ですって感じかなあ。
それもあるだろうし、日常的に経験している小さな死の甘美さをも楽しんでいるからだと思うんだ。
別に臨死体験がどうこうと言う事ではないんだけど。

毎日私たちは小さな死を迎えます。
眠りだったり、意識が遠くなる事だったり、人によっては瞑想だったり、セックスのエクスタシーだったり。
ずっと続けていたいほどの、気持ちよさでしょう?
違いますか?
こちらに戻って来た時に、体の重みを感じ、時間と空間に縛られている日常に戻らなければならない時、ああ、生きててよかったなっていうほっとすると同時に、ああ、また、時間と空間に縛られていかないといけないのかってめんどくさい気持ちになりませんか。
そうそう
どちらも楽しいですが、比べたらあっちの方が絶対楽しいわけで。
スピリチュアルっていうのは、ここにいながらあの気持ち良さを実感しながら生きていく事じゃないかと思ったりします。
と言うわけで、今日は一日甘美に眠らせていただきます。

宗教嫌いからのお願い

日本人は宗教嫌いで、宗教はよくないと思う人が多いという調査結果は有名だ。
そのうち、スピリチュアルも同じような目に遭うのだろうか。
これに関しては,いろんな立場からいろんな議論がある。
統合しようとする試みや,普遍的なものを探求しようとする試みも盛んだ。
でも,文化的背景や宗教的背景といった個人的要素がはいってくると、その立場でない人は敬遠してしまう。
だから私は,不必要な誤解を避けるために、フラットランドと言われようと科学的還元主義を掲げる方向に行くのだ。科学主義も一つの世界観だし偏りがあるのは分かるけど,あやしい宗教よりまだいいでしょ?

このブログは「天使語」なんて言う一見アヤシイ系の命名をしてるけど、読んでくださる方はお分かりだと思うけど、結構ガチガチにかたかったりする。
というか、一応オープンにしているけど,立っている場所は一応学術的な,つまり特定の宗教色なしでいってるつもりだ。
つもりでも、時々ぽろっとでてしまうのは仕方がない、ご愛嬌だと思って許して欲しい。

私自身は何が来てもOKだけど、コメントを書く方達にお願いします。
他の方がひいてしまうので(たぶん、でしょ?)あまり宗教色がでないような書き方をお願いします。
自分たちの専門用語を使わないでコミュニケーションしてみましょう。
それが他者に対する思いやりだと思うからです。

いのちの不思議

何が不思議って,いのちほど不思議なものはないだろう。
何もないところから,創成されるのだから。
小さな細胞の一つに過ぎないものがだんだん有機体になっていくプロセスは宇宙の驚異だ。
そしてここに生まれいで、息をし始め、成長して、一人の人間として、様々な経験をしていくのだ。
そして時が来たら、静かにここでの旅路を終わり,次の旅に出発する。
すべての経験が、美しいタペストリーのように織りなされていく。

今また,一つの生命が誕生した。
そしてまた今、一つの命がここでの旅路を終えた。
なんという神秘。
なんという美しさ。

フリーハグできなかった私

そういえば、今、スキンシップの大きい国に滞在してるんですが,あまりタッチされる事がないです,今回。
日本文化を尊重してくれているのかもしれません。
親しくなった女友達も、ちらっと肩を叩いてから、あ,ごめん、よかった?触れちゃったけどって。
セクハラとか,同性でも犯罪扱いされる国だからかしら。

モールに行ったら,フリーハグしてる人たちがいたんだけど。
日本ではやろうやろうって,仲間内では結構してたんだけど。
見ず知らずの人とするのって,やっぱり勇気がいるな,って実感しました。
やろうって気にならなかったんで,不思議でした。
すごくいい事だと思ってはいるんだけど。
でも,正直言って、好きな人としか出来ないなあ。
全然フリーじゃないですね。
ごめんなさい。
でも,言い訳はあります。
私って、ほとんどの人の事が大好きなのよ。
だからハグしたくてたまらなくなる事も多いのです。
でも,日本人は体をひいちゃう人が多いんで,我慢してます。
触るな触れるなオーラ出してる人もいますしね。
でも、よかったら、声かけてください。
ハグしてって。
本気でその場でぎゅっとしちゃいますよ。
そしたら、愛と平和がそれだけ増した世の中になる事間違いないから。

大和魂

日本的スピリチュアリティってきっと、大和魂につながるんだと思う。
これはちょっとヤバい。
国粋主義的で危険なにおいがする。
実際、神風を信じて、たくさんの人たちが尊い命を失った。
そこからかもしれない。
スピリチュアリティに関するネガティブなイメージがあるのは。
傷ついた世代は,スピリチュアルな事について語る事を恐れた。
目に見えないものを信じるなんて馬鹿げた事だと、フラットランド的世界観を教え込まれた。
その結果、生きる意味や目的までも見えなくなってしまった。
精神的に不安定な状態では,やはり,ネガティブなものに同調して行く危険がある。
健康的なスピリチュアリティこそがもとめられているのだ。
大和魂にもすばらしいものがあったはず。
でも,辛くなると人々は視野が狭くなって自分(自国)のことしか分からなくなるんだ。
だからいうのよ。
いつも喜んでいて!
楽しんで!
自分も他人も愛して!

プラグマティックなスピリチュアリティ

良い木かどうかはその実を見て判断する、というのが、ジェームズ流のいいスピリチュアルかどうかの見分け方らしい。
とにかく彼は,実際に役立つかどうかで判断するという,実際的な立場をとっているので。
功利主義とかプラグマティズムと言われるこの考え方に立つと、見えないものを大切にしても,見えるものにいい影響がない場合には問題ありということになる。

頑張ったんです・・・そうかでも,成果が出てないんじゃダメだよ。
と言うわけで,これは冷たいように思われるけれど,ある意味,非常に公平で客観的で健全な評価である。つまり,頑張ったんです,だけじゃあ,実際に何をどうしたのか分からないからねえ。自己申告を信じるしかない。
これって、優しいようでいて,不透明でバイヤスがかかりやすい。つまり,同じ事をして同じことを言ったとしても,好きな人の場合にはそうか,よく頑張ったねえ,気が合わない人の場合には、困るんだけど,これじゃあ。となるにちがいない。
もちろん成果もプロセスも大切にされるべきだけれど、日本はどちらかと言うと不透明で主観的評価が重んじられる傾向がある。
だからみんな,仕事の成果よりご機嫌伺いの方に時間とエネルギーを費やすんだろう。

それはそれとして、スピリチュアリティに関しても、見えるところで成果を上げる事、たとえばお金が儲かったり成績が上がったり商売が繁盛したりっていうのは,結構な事だけれど、それはあくまで結果だから,それを目標にしたら非常におかしな事になる。
だからそれに対抗するように、清貧とか試練とか修行とかいうような、外的成果を否定するようなスピリチュアリティ概念も生まれてくる。
どちらも極端だけど、まず,一番大切なものを求めると,結果がついてくるから気にしなくていいと思う。スピリチュアルな人は結果に対して何も執着はないから気にしないんだ。
気にしないと言うのは,それを強調したりもしなければそれを卑しい事のようにあつかったりもしないと言う事で。
つまり、ああよかったねってにこにこしてるだけ。
そうじゃなくても、にこにこしてるし、きっと。

普遍的スピリチュアリティを求めて

普遍的なスピリチュアリティってなんなんだろう?
宗教とは違う,信仰とも違う。
というのは、そのような枠組みで語る時には、それになじみのないひとには受け入れられないから、普遍的ではないからだ。
道徳や倫理・人徳でもない。
というのは、それはやはり意識化された個人や社会という次元にとどまっているからだ。ここにとどまっている限り、土着の文化と言うフィルターがどうしてもかかってしまうのだ。
言葉で説明しようとしたとたん,使っている言語的な制約を受けてしまう。
コンセンサスが一番得られているのが、「つながり」「人生の意味/目的」「よりよく生きる」かな。それを説明するのに、自分たちになじみのある神やら仏やら天使やら菩薩やらという超越的な概念を表す言葉を使ったとたんに,その文化にいない人からは拒絶される。
超越と言う言葉だって、仏教やヒンズー教こりこりの人には退けられる,だって,個人を超えるのではなく,個人の内面深く探求するものだからと言うわけで。
しかし、じゃあなんて言ったらいいのだ?
京都学派のだれだったっけ、下降的超越って言ったけど,それって,大地に戻るって言うニュアンスが強い感じがしないかなあ。下じゃないんだよね。上でもないけど。
じゃあ、どこ?
奥だよ奥!!
英語だと深さって言うしかない,そしたらやっぱり,下みたいよね。
だから物理モデルが登場するのだ。
次元をもう一つ付け加えたらいいだけなんだけど。
3Dじゃなく4D。
パワポで、どうやったらかけるんだろう・・・
とりあえず時間軸を超える、と言う事で,動画でなんとかかけないかしら?

真夏にサンタクロースの話

サンタクロースはいますか?
一人で一日に世界中の子どもにプレゼントを配るのは物理的に無理でしょ。
だからいるわけないじゃない。
もっともです。
でも,小さな女の子が涙を出して、「絶対にいるもん,だって,いつもプレゼンとくれるもん!」て訴えた時に、あなたはどうしますか?
科学的に現実を見つめるようにと説明しますか?
その方がその女の子のためになりますか?
それがその子を幸せにしますか?

程度の違いはあるけど、スピリチュアルに関係してる様々な概念は、サンタクロースと同じようなものだと私は解釈してます。神も仏も天使も含めてみんなです。
証明は,いないと言う証明が出来ないのと同様に,いると言う証明も出来ないから,無意味です。確率論的に確からしいと言う説明は科学では出来ます。でもそれは全部仮説です。

こう考えたらどうでしょうか。
つまり、サンタクロースなんかいないんだっていって,小さな子を泣かせるのは野暮だってこと。でもサンタがプレゼントくれなかったって落ち込んでる子がいたら、そういう迷信はやめた方がいいって言ってもいいかもね。
それだけのことです。
幸せになってげんきになっていくのだったら、それがあなたのスピリチュアルだってことです。おびえたり不安になったり,苦しくなったりしたら,それはやめろってことです。
それだけのことです。
単純でしょ?
プラグマティックな考え方って、こういう事じゃないかと思うわけ。
いいんじゃないこれで。
だって、だれもわかんないんだもん。

責任をとるということ

責任という言葉は、英語ではレスポンシビイリティと言ったり、オブリゲーションと言ったりするけれど、ニュアンスがずいぶん違う気がする。
レスポンシビリティというのは、レスポンスできる、という意味があって、つまり外界に対する反応とか応答とかが出来るという感じだ。出来事や他者に対してこちらが応える、その行為とか意識だったりするから、つながりとか、愛とか暖かい感じがするんだ。
それに対してオブリゲーションと言った時には、義務とか束縛とかって感じで、しかたなく無理矢理やらされるというニュアンスを感じる。

すべての根源は愛である。
だとしたら、責任をとるとは、オブリゲーションではなく、レスポンシビリティであるはずだ。世話をする事、お金を返済する事などはみんな、もともと自発的な応答であったはず。
それによって、深い絆が増すのだ。
充実した人生を与えてくれる喜びの源泉であるはずなのだ。
それを避けて、自分だけの楽しみにふけってしまった場合、レスポンシビリティを避けてしまった場合には、残念ながら大きな喜びを得る事は出来ない。
かわりに、他者から切り離されたむなしさを味わうようになるだろう。

責任を取るという事は、他者や出来事にコミットする事であり、それは正面から応答する事であり、見つめ関わる事である。
つまり、愛の表現そのものなのだ。
その喜びを置き去りにして、他のところで喜びを探し求めても、果たして本当の喜びが見つかるのだろうか。
しばらく探してみてもいいけれど、人生は短いのだ。
時間切れにならないように、早く気がついたほうが得だと思うけど。

ただ、自分の責任以外の事項に対して責任を取ろうとするのは、かえって他者を束縛する事になるからご用心。
基本は自己責任なのだから。

ポジティブじゃないけど

日本人って、全然ポジティブじゃないし、自尊感情も高くないし、だめじゃん!

なんとかしろよ!
自分を好きになろうぜ!
やりたいことあるの?
どんどんやってみたら?
失敗したら、そっかってまた次に行けばいいじゃん。

というのが、アメリカののりだ。。
私はこういうのりが大好きだってことを白状します。

でも、日本人もなかなかいいねえ~~^^
ポジティブじゃないです、確かに。
でもねえ、だからといって、実はネガティブでもないのよ。
今日の発見はこれ!!

喜びに満ち溢れて快感で我を忘れてしまう!!
というんじゃないけど、それなりに、気持ちがいいみたいで。
せみ時雨の中、じっと何もしないで汗かいてそこに座ってる・・・
風流ですな・・・・
この感じは、エアコンをがんがんきかせた快適なぴかぴかのオフィスでくつろいでいるのとはまた違った楽しみなんだよね。
アメリカ人にこれがわかるのだろうか・・・

こういう単純な日本人らしさを派遣して悦に入ってる私。
ね?ね?
日本人なんだよ!!
外に出ると気がつくんです。

ヒーラーじゃないんですけど私

第一印象はどういう感じでした?
ってきくと、研究者でも教員でもなく、ママでもダンサーでもなく、「ヒーラー」なのだそうで。
アヤシイ印象ですか?笑

しかし・・・
著名なヒーラーとして、なんていう取材依頼には苦笑してしまいました。
だって、私ヒーリングを目的とした活動は一切行ったことがないからです。
これからだってないでしょう。
付き合いでヒーリングに関する先行研究を調べたことはありますが、実際の場面を見たこともないし・・・

ヒーリングを否定しているわけではありません。
イエスキリストなんか、偉大なヒーラーですしね。
バーバラブレナンさんも、話に聞くだけですがすごそうですね。

でも、私の中にはヒーリングや癒しという概念がないのです。
にもかかわらず、癒し系(授業が眠くなる)なのだそうです。
ああ確かに、眠らせるのは得意かも。
どんな不眠症の人でも、この場でころりと眠らせられます。笑

しかし・・・
私のしていることを表わす言葉が見つかりません。
癒し系というより、喜び系とでも言ってください。
お遊び系でもいいでしょう。
好きなことして遊んでるだけですから。

癒しとかヒーリングって、治療とは違って自分で勝手にそうなるものだから。
私がなにかしているわけではありませんから。
勝手に遊んでいるだけですから。
私じゃないですから。
あなたが自分で気持ちよくなっちゃったんでしょ?
よかったですね。
それだけのことです。
たぶん、だから、そういうのでお金もらうってことには、昔から私の中に抵抗があるんだと思います。
私は何もしてないからです。

ネット好きの私からの弁解

世の中にはネットを使う人種と使わない人種がいる、というくらい、両者の世界は違う。

ブログを毎日するくらいの私はもちろん、使う人なんだけど、コミュニケーションがほとんどネット上で行われ、情報収集も自己表現も仕事も遊びもほとんどネットが媒介になっていて、ネットがない生活というのが想像しにくい。
あまりにネットに慣れてしまうと、じかにあって話すとか、自筆で何か書くとかいうことが億劫でなかなかできなくなってくる。絵だって絵筆やクレヨンではなく、マウスでしか何年も描いたことがない。

ネットを使わない人、パソコンを使わない人というのは、何も、こういう文化になれていない高齢者や途上国の人ばかりを言うのではない。この高度に科学技術が発展した文化の中で、自筆や息づかいや肌触りにこだわり、ネットによるコミュニケーションを信用しない人たちが居るみたいだ。
実は私にとってそういう世界の人たちを理解するのは非常に難しい。
でも、大変なことに、大好きな仲間にもこのタイプの人たちがかなり居るのだ。
あるパソコン嫌いの人は、疲れるとかからだの調子がおかしくなるという。でも、こうやって人が起きていない時間帯にしか連絡が取れない私と話をしようとしたら、ネットを開かない限り、職場や住む場所が一緒ではない人とは、数年に一回くらいしか話すチャンスはやってこないのだ。
来年の!クリスマスのアポ予約を今からしておくって言うの?(そんな~~~~涙 )

携帯メールを日に50回ってくらいにリアルタイムでのやリ取りに慣れている私にとっては、メールの返事が数時間も来ないと、そのメッセージは不必要なものになる。数日こないとなると、もう友人かどうかもあやしくなるほどかなしい。
仕事のメールも、返事が3日以上滞る人とはやっていけない。
一週間以上こなかったらその企画は自動的にボツだ。
レポートだって手書きでの提出は認めてないし、遅れて出すときはネット上での提出以外認めていない。
(重要書類は書留とか宅急便ではなく、まずネット上のファイルで送ってください。移動が多い私が受け取るのはいつになるか保障ができません。先日もいくつも差出人に送り返されていた、ごめんなさい。電話もほとんどの時間は出られないし、登録番号以外からのにはまず出ないし)

こういう私は、いわゆるスピな人やエコな心優しい人たちとのコミュニケーションが非常にとりにくくて参ってしまう。
そういう人が電子媒体を苦手とするのと同様に、私は直接的なコミュニケーションを苦手とするからだ。
直接会うことを求める人は人間としての命や表情・声・視線などを重んじていて、そこから愛を感じるのだろう。電子媒体の好きな人は、ネット上に現れるエッセンスにそれを感じるのだろう。ネットがいいのは、情報を自分の好き勝手に取捨選択できるのだ。自分にとって都合のいい情報だけを永久保存して繰り返し経験できるのだ。
これは実はイメージの世界に似ているのではないかと思う。保存場所が、脳内か、ハードディスクかメモリースティックかという違いだけなんだ。

これからますます、電子媒体に移行していって、たぶん私は近い将来、重くて紙でできた本なども読まなくなっていくだろう。論文なんかもほとんどファイルでしか保存してないし。(印刷物を置く空間や探し出す時間ががないからだ)

今日の日記は、電子媒体が苦手な心優しい繊細なあなたに届けたい、私の弁明なんだけど、残念ながら読んでいただきたいあなたには決して伝わらないことを思うと、むなしくなってくる。

何がいけないのか。
そう、忙しすぎることが原因なのだ。
ごめんなさい。
スピリットの中で出会っていることを信じています。

絶対にできない無条件の愛と許し

人が人として生きていくためには、無条件の愛と許しが必要だ。
たとえどのようなことがあっても、存在そのものを受容されているということ。
これは、肯定されていることとは違う。
例えば先日の秋葉原事件。
被害者は加害者を許せるか。
まず第一に、もう亡くなっている方がどうやって許せるというのだろうか。
では、一番近しい人が許せるかどうか。
加害者の心情を思いやり、彼もまた被害者であることを考えたら許せるかもしれない。
しかしもし加害者が、残虐な殺人を自分の楽しみとして行い、全く反省を見せないどころか自己肯定してのうのうと生きていくような場合に、許せるだろうか。
人間性を失った存在の行う行為を、それでも許せるのか。
無条件の許しとは、突き詰めていくと、決してありえないということがわかる。

無条件の愛もそうだ。
愛することによって愛が返ってくる喜びを、期待しているわけではないけれど、やはりうれしい。
愛が返ってこないで反対に憎しみと攻撃が返ってくるときに、その存在をあるがままに受け入れていくことができるか。もう一度言うけれど、その行為を肯定することではない。
不健康な破壊的行動や態度には当然のことながらその結果が付いてくる。
それに対して少しでも、仕返しや安ど感などの気持ちがあるとしたら、無条件の愛と言えるのだろうか。
違うのだ。愛していたら相手の痛みが自分のものであるはずだ。

存在の根源には、そのような思惑を超えた深い愛と許しがある。
無条件に愛し許すことができない私たちを、無条件に愛し許している存在があるのだ。
私たちができることは、無条件に許し愛していないことを吟味、確認しながら、それでも許され愛されてここに生かされていることへの感謝と喜びしかない。
その喜びと快感の中でこそ、少しでも無条件に近づきたくなっていくのだ。

この圧倒されるような偉大な許しと愛の中で、私は言葉を失う。
人類がどんなに愚かであっても、すでに許され愛されているこの神秘に。

困難回避とセックスレス(歓喜回避)

セックスレス、調べてみて驚いた。
日本人男性は世界で最も淡泊らしい。
これをどう見るか。

人口が増えすぎているからちょうどいい?
仕事ややることが多くてそんな時間もエネルギーもない?
性を昇華して社会的に有意義なことに向けていたらいいんだ。
もっともらしく聞こえるだろう。

でも、昇華というのは、もともとすざまじいほどのエネルギーがあってそれをコントロールしていく時に生まれるものである。初めから欲求のない、つまりエネルギーに欠ける人には、そのようなクリエイティブな創造性が出てくるとは考えにくい。

これは非常に重大な危機ではないだろうか。
人間が人間として人間らしく生きられない時代というか。
食べないで生きていくことを目指す人たちもいるらしい。
エネルギー危機の時代には確かに好都合かもしれない。

性と食、この原初的な欲求をなくして天使になるというのだろうか。
確かに悩みや病気は少なくなるかもしれない。
でも、同時に、めくるめく情熱や強烈な喜びも失っているのだ。

困難を避けようとしたら、歓喜も遠ざかる。
命が薄っぺらになっていくような危機を感じる。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」  っていうことわざがあったよねえ
「君子危うきに近寄らず」  もあったって?
はいはい、日本人の紳士さまさま

心霊とか怪奇とか

不思議現象は多いし、私はその実在を否定しないけど、それをどう意味づけるかとかどう現れるかについては多少意見がある。

はっきり言えることは、似たものどおしが集まるということだ。
自分の心が投影されてると言ってもいい。
怖くて嫌だと思う現象は自分の心の中の薄気味悪さを語っているに過ぎない。
心霊スポットが好きな方はわざわざ出掛ける必要はない、自分の心の闇のほうがよっぽど恐ろしい。

なぜみんなこういうものにひかれるのか、理解に苦しむ。
自分から嫌なものを求めていくなんて。
自分から苦難を求めていくように見える人も多いなあ。

こんなに高く晴れ渡ってすがすがしく風が吹いて、空の雲は一つとして同じ物がない瞬間芸術を、大きなキャンバスいっぱいに広げているというのに。
どうしてこっちを見ないの?

不思議でたまらない。
愛と光しか本質ではないのに。
どうして過ぎ去っていく陰でしかないものに捉われて、とりつかれて行くんだろう。

人生は苦行も闇でもない。
はっきり何度でも書くけど、喜びであり、光そのものなのだ。
そうでなくみえるものは、縁取りだったりスパイスだったり、とにかく、喜びをもっと素敵に彩るだけのためにあるのだ。

今日もまた素敵な一日が始まりました。
愛と光の中にいるってことを思い出してください。
見えなくても、感じられなくても、そうだということを。

洗いもの人生

ふと気がついたら、いつもいつも、汚れたものを洗っていたり、お掃除したりしてばかりだということに気がついた。
主婦って結構そういう役回りの人が多いと思う。
他の人のよごしたものもきれいにする役割。
きれいにしたと思ったらまたすぐ汚れているんだ。
で、全くきりがない永遠に続く、洗いもの人生。

誰かが言った。
「私は掃除と洗濯をするために生れて来たんじゃないのよ!」
彼女の仕事を顧みず、散らかしっぱなしよごしっぱなしの人たちに、つい言いたくなるんでしょうね・・・

お掃除をしないでめちゃくちゃなとこにいる人たちも多い。
忙しいから、疲れてるから、面倒だ・・・
汚い環境で平気なんだろうか。
麻痺するらしい。
でも、面白いことに、お化粧とか車とか、外に出るときだけはばっちり決めてたりすることだ。

私は自己中で他の人のことをあまり考えないから、どう見られるのかより自分が気持ちがいいかどうかが気になる。人が来るからという理由ではなくて、自分が気持ちがいいからという理由で掃除する。
楽しいからするのだ。

洗いものやお掃除の楽しさは、目に見えて美しく整っていくということが一つある。
すがすがしくて気持ちがいい。
何かを洗ったり磨いている時、そのモノや部屋などに対して優しい気持ちになるのだ。
ありがとう、いつも黙って提供してくれて。
これは一種の愛の関係だ。
だからきっと、いい気持ちになって嬉しくなるのだ。
愛とは二人の関係だから、私が注ぐとあちらからもそれだけ返ってくるのだ。

人は時に気まぐれだったりもする。
気持ちが届かなかったり誤解されたりもする。
でも、お掃除や荒いものをしている時には、たいていすなおに愛が返ってくる。

これがきっと、私が洗いものが好きな理由です。

忘れてた!

私、死ぬんだ・・・

でも、今まだ生きてるよ。
ありがとう、本当にありがとう。

重くって融通が利かない、不便な体だけど、障害物競走みたいで、だから面白いのよね。

今まだ生きてる。
この不思議な恩恵と幸運!

今日は愛するあなたに会えた。
明日も会えたら、HUGして!
会えなかったら、イメージの中でHUGして!

無意識の声

神の声なのだろうか?
それとも、エゴの声なのだろうか?

取り違えると、大顰蹙。
ご用心!!

心からのお詫び

バランスをとるためにどちらか強いほうを減らすという考え方と、弱いほうを増すという考え方がある。
強いほうを減らすと、意識や運動が減少方向へ進み、全体的にエネルギー量が減る。
弱いほうを強めると、いろいろな側面が活性化される。
たぶんこの理論に基づいて、使い捨てのインフレ気味のポジティブ思考がすすんだ挙句に、こんなに忙しくて繁栄しすぎて手に負えない地球になってしまったのだろう。
バランス回復のために、じゃあ、もったいない精神の省エネで行きますか?

ヒッキーたちはきっと、これを体現しているんだろう。
消費も生産も最低ラインだものね。
CO2削減を追求していくとどうなるか。
動かない、食べない、何もしない→死ぬ

エコも、極端になると恐ろしいわよ。
じゃ、どうしたらいいの?
大いに使いなさい、でも無駄にしないようにね。

一番の無駄は・・・そう食べすぎ。
食べ過ぎた挙句に、エネルギーでなく無駄にくっついた脂肪になる。
取るためにかかる費用・エネルギー・時間といったら・・・!!

ああ、なんて無駄なことをしてるんだ・・・
まったく・・・
ダイエットのためにつかわれる時間とエネルギーとお金を飢え死にしそうな人に配分したら、世界の飢餓はなくなると本気で思う。

思うんだけど、毎日食べ過ぎてます。
ごめんなさい。

変性意識状態

これは何か、危険なにおいを発しながらも特別な憧れを持たせてしまうものらしい。
トリップなどとも言うように、意識状態が今ここからどこかに飛んでいってしまう状態だ。

寝てるときも、空想にふけっているときも、一種の変性意識だといえるだろう。
何かに没頭してる時だってそうだ。
一心不乱になって、時間がたつのを忘れてしまうっていうのはよくあることだ。

ここに意識がありながら変性意識を楽しむのがきっと、上級者のテクニックなんだろう。
何も難しいことはない。
現実を生きながら、目に見えないけど確実に存在している光と愛の中心を常に忘れないで行くこと、それだけのことなんだ。
もし難しいというのなら、たぶんそれは努力してがんばって達成するという方向ではないということがあるだろう。
薬やからだを極限まで痛めつけたりして人工的に変性意識状態になるのは、なんだかエゴが支配しているようで恐い。
すべてをお任せして漂いながら、淡々とお掃除でもしてるのが一番いいと思う。
汚れを落としながら、磨きながら、愛を実現していく中で、こらえ切れない喜びがあふれてくるに違いないからだ。
このエクスタシーこそ、みなが求めている変性意識というものではないかと思ったりする。
これほど甘美な経験はないから、夢中になってしまうのもわかるけど、それは青い鳥のように、今ここの日常に埋め込まれていることでしかないのだ。

プロフィール

尾崎真奈美尾崎真奈美

東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。ペンシルバニア大学医学部精神科、東京大学医学部公衆衛生学研究室などを経て、現在相模女子大学人間心理学科准教授、米国サーチインスティチュート、スピリチュアリティ発達センター客員研究員。
インテグラル心理学・スピリチュアリティ論・芸術療法などを教えながら研究、ダンス、執筆活動を続け、科学と芸術の統合を試みる。
天使語同時通訳は日々のインスピレーションの書き散らしである。
国際生命情報科学会、日本トランスパーソナル学会理事。日本心身医学会、日本トランスパーソナル心理学・精神医学会、国際ポジティブ心理学会会員。

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