尾崎真奈美の天使語同時通訳します

2008年10月

喜ぶために生まれてきたんだよ

クリスタルチルドレンという曲が多くの人に感動をもたらしたのは、きっと、その人たちの中にある本当の気持ちに気がつかせてくれたからだと思う。

クリスタルチルドレンは、特別な子どもではない。
みんながクリスタルなんだ。
そのことを思い出すだけでどれだけ幸せで穏やかな気持ちになっていくことだろう。

誰も責めないで欲しい。
特に自分自身を責める必要はない。
なまけもの?だからこうやって生きていられるんだよ、過労死しないで。
自己中?だから生きていられるんだよ。
みんな自己中心的だよ。
自分が気持ちいいのが好きなんだよ。
弱い人のために犠牲になるって美しいけど、自分を捨てたら、一人で生きていけないし、弱い人も生きていけないよ。
飛行機が落ちそうになったときにでてくる酸素マスクは、お隣の体の弱そうなおばあちゃまとか赤ちゃんに先につけたらいけない、自分が真っ先につけろって指導されるのはなぜかわかる?
弱い人を救うためには自分をまず、すくうしかない。
そうしないと共倒れになる。
助けたり奉仕したりするには健康で元気でないとできないんだよ。

愛する人に喜んでもらいたいでしょ?
嬉しいよね。
あなたを愛してる人を喜ばせたいのならあなた自身が喜んでることが最高じゃない?
自分も他人もなくつながってるんだから、自分も地球の一員なんだから。

喜ぶために生まれてきたんだよ。
どうぞ思い出して、クリスタルの皆様

個と集団に対する誠実さ

誠実であることは美徳である。
うそをつかない、ごまかさずに、真剣に真実を伝え行動すること。
自分らしくあること。
言葉と行動が一致していることなど、自己一致や純粋性といわれる、心の健康度にも大きく関係する人格特性だ。
でもこの美徳は、たとえば、「うそも方便」とか、「郷に入り手は郷に従え」ということわざと矛盾するように思えることがある。

誠実さって何か考えてみると、自分の内面に対する誠実さであることが多い。
いつも自分自身の内面に誠実であることはもちろん大切なことだけれど、もし取り巻く社会や、物理的環境を考えなかったとしたら、やはり片手落ちになってしまう。

日本社会は和を尊ぶことに代表されるように、個人の内面の誠実さより集団に対する誠実さが強調される風土がある。個人の内面に対する誠実さが重んじられないまま、適応と言うことばかりが強調されて、個を見失ったり未成熟である様相が観察される。これもまた不健康だ。

スピリチュアルブームは、そのような息苦しさから逃れるための清涼剤になっているのだろうか。

西洋の新霊性運動やスピリチュアリズムといわれる傾向の輸入ものにもかかわらず、日本のスピブームが諸外国とずいぶん違うのは、集団思考になっているところだ。個人の成長といいつつそれは集団のなかでうまくやっていくことを強烈に意識したものである証拠には、スピリチュアルを一人でやる人はまれで、群れたがる傾向で観察される。実はそこに危うさがあるのだ。

科学主義が問題なのではない。
神秘的で目に見えないものを重んじる昔からの日本人の傾向は、どんなに表面的に科学主義に見えようとも、変化していないことは、宗教意識調査などでわかる。
ほとんどの人が非科学的な儀式などを大切にしているからだ。
信じていないなどと言いながら、従わないことに居心地悪さを感じるのは、どこか深いところで何かを感じているからに違いない。

問題になるのは、むしろ集団意識だ。
個の確立がないままスピリチュアルに行くと、仲間を見つけて安心する。
群れたがる。指導者を探す。自分の意志で行動しない。
スピリチュアルな意識が集団のものとなる。
これはうまくいくとすばらしいけれど、間違ってしまうと、相当に危ういことは、歴史が物語っている。

自分に誠実であると言うことは時に、集団に誠実であることと矛盾するように見えるから、折り合いをつけることが大切だろうし、個人ばかりを強調したら確かに集団として成り立たない。
そういうことを考えないスピが広まるとしたら、集団主義の危うさと息苦しさから逃れたいと言う、一部個性が強い人たちの抵抗だろう。
しかし今広まっているスピに居心地の悪さを感じるのは、きっとそのような集団指向を感じるからだと言うことに気がついた。

バランス回復のために大切なものはむしろ独りになって、個人として自分に誠実である勇気だと思う。その確信は、スピリチュアルなつながりによって得られるのだろうけれど、それが横の社会的な連携からでは生まれにくいのだ。個人の内面と言うか、縦の方向に越えたものとのつながりによってのみ、それが達成される。上とのつながりは下(自我とか)とのつながりがないまま行われると非常に危うい。

下がないまま、横に滑っている危うさ、このことを自覚する必要がある。

spiritualの訳語

専門家がどれだけ苦労しても、うまい日本語が見つからない。
カタカナの「スピリチュアル」では決してない。
霊的でも、精神的でも、部分的あるいは一部が極端に強調されて本質は伝わらない。

それでも何とか、一番近い日本語はなんだろうと、考えてみた。
今日のところは「気高さ」にしておこう、まだまだだけど。

口の悪い友人が言ってた。
「アホスピの時代はそろそろ終わりじゃないか」
そうかもね。

いやほんと、難しいですね。

イエス様の赤ちゃんが欲しい!

クリスチャンからする言わせると、なんて冒涜的なということになるかもしれない。
でも、実はこれは究極的な願いなんだ。
まさか、2000年前の遺伝子が冷凍保存されてるなんてことはないよね。

かれは学歴も経済力もないし、夜中の授乳をてつだってくれたりお風呂に入れてくれたり、予防接種に連れて行ってくれたりとかもあまりしなさそうだし。
離乳食作ったりも、私がダンスレッスンに出かける間、きちんとベビーシッターしてくれるかどうかも怪しいって気もするんだけど。

でも、彼の魅力は捨てがたい。
もし彼が今ここにいたら、きっと、私は夢中になってしまうだろう。
でも決して、その恋は成就しないだろう。
彼の愛は一人に限定されない性質のもののようだから。
切なく辛いですね・・・
自分だけを見つめて!と言うのはわがままなんでしょうね・・・
受け入れるしかないですね。
そういう人を恋してしまったら、それを受け入れるしかないのよね。

ああ、秋は切ない季節です。

すべての戦いを放棄

もしかしたらみんなは、戦わないとやられると言う恐怖におびえて、戦争に出かけないまでも、仮想の敵に備えて準備しているのではないだろうか。

傷つくことを恐れて未然に防ぐためにだ。
あるいは愛するものを守るためかもしれない。

でも実際は戦ってみたらわかると思うけど、戦えば戦うほど、敵は強大になっていく。
でもっと、ますます鍛えて臨むんだろうけど、そうすればするほど、相手も強くなるのだ。
これは何も外側の敵のことだけを話しているんではない。
基本は内なる戦いだから。
自分の欠点を克服しようとか、自分に打ち勝つという発想で努力してみた結果はどうだろうか?

残念ながら、たいていは疲れはてた挙句の敗北ではないだろうか?

なぜかというと、戦って打ち勝つことなんかそもそもできないから。
だって、自分自身の一部とどうやって内部で分裂して戦うわけ?
エネルギーの浪費にすぎないのよ。
そのくらいだったら何もしないほうがいい。
少なくともエネルギー消費はまぬがれる。

この惑星的なエネルギー危機に及んで、まだまだ、戦うことによって問題解決を図ろうとしている人類は、なんておろかなのだろう。

自分の心の中の戦いを放棄することから始めてみようよ。
「戦わなくいいんだよ。好きになったらいいのさ」
単純な話。
シャドーは戦えばどんどん強大になる。
名前を呼んで抱きしめてやれば消えていくのはゲド戦記で見たとおりだ。

神経生理学的にも証明されている。
欠点やいやなことを克服しようと意識をそちらに向けることによって、そのような性向はエネルギーを与えられ、さらにそのような特徴が定着していくと言う。

すべてをいとおしく抱きしめて。
せめて、ただそこにそのまま一緒にいて。

戦いで解決することは何もないのだから。

What can I do for you?

これは私の呪文のようなものである。

行き詰ったとき、どうすることもできないとき、助けが欲しいとき、辛くてたまらないとき、慰めが欲しいとき、愛されたいとき、受け入れられたいとき、理解して欲しいとき、誤解されたとき、不当に取り扱われたとき、裏切られたときなど・・・

そういうときに人は、助けて!と求めるのが普通だ。
それもいいだろう。
でも、何も得られないように見えるときもある。
そういうときにも、どんなときにもできることがある。
この呪文は、そういうときにこそ必要な智慧なんだ。

「何か私にできることがあるかしら?」

と問いかけて、自分から何かを提供すること。

自分がぼろぼろ惨めになったときにこそ、思い出して欲しい。
他者に何かすることによって救われるのは、実は自分自身なんだ。
これを妨げるものは何もないはずだ。

ほっといてくれ!
祈りなんかしないでくれ!

と言われたとしても、心の平安と幸せを祈ることはできる。
相手に知らせなければいいだけの話なんだ。
愛を拒絶するほどまでに傷ついた人なのだから。
黙って、知らせないで、そっと愛と光を送り続けてたらいいだけだ。
それしかできない。
でも、それが最高のことなんだと思う。

幸せを恐れる人たち

幸せになりたいと言いながら、実は多くの人が幸せになることを恐れて拒絶している。
あるいは自分からその道を破壊している。
その幸せがすばらしいものであればあるほど、壊して遠ざけてしまっている。

なぜなのか考えてみた。

それはそれを失うことに対する恐怖と不安から来ていることに気がついた。

愛する人とであった。
喜びが大きい分、その人がいなくなったときに自分はどうなるのだろうかと考えると恐くなる。
愛すれば愛するほど、コミットすればするほど、失うことへの恐怖が増してくる。
それを警戒して、複線をはるのだ。
こっちがうまくいかない場合にはこちらがあるというように持ち駒を絶えず確保して危機管理を怠らない。

そしてひとつのことや一人の人にコミットすることを回避する。
その結果として不全間に見舞われてしまう。

出会いがあれば別れがある。
喜びがあればまた悲しみもある。
車輪のように上になったりしたになったり、回りながら進んでいくのが人生だから。

上にいるときに下を見つめて心配するのか、下にいるときに上をみあげて期待に胸をわくわくさせているのか、どちらも自由に選択できる。

人生は考えているよりずっと短いのだ。
今日あなたはどちらを選択しますか?

狂う

人が狂うのはどういうときか。
それはその人本来のあり方から外れているときだろう。

社会的存在として、ある程度適応するために真に自分らしく生きていくことは難しいことが多い。
そのために、ペルソナ(社会的自己)と呼ばれる仮面をつける。
外部にあわせているうちに、本来の自己がわからなくなる。
すると、なんとも説明のしがたいむなしさや、不全感が生まれてくる。
無気力さかもしれない。

目に見える条件に何も不足はないのに、そういう時、人は狂い始める。
本来の自己になりたいという内なる衝動に気がついてそれを探し始める人もいれば、それをごまかしながら気がつかないふりをして今までの人生をそのまま送り続けようとする人もいる。
あまりにもほおって置かれたために、簡単に見つけられなかったりする本来の自己。
あるいは見つけると社会的にまずいことになることに気がついて放棄したりごまかしたりもする。

上手に折り合いがつけられたらよいのだけれど、不器用な人は狂いはじめる。
それはすべて本来の自己になるための、つまり自己実現へのいざないなのだけれど、それは狂気に見えることが多い。普段の生活からの逸脱になるからだ。
いきなり一人旅に出かけてみたり、安定した就職や家庭を放棄してしまったりすることまである。
見つけられずに放浪の旅にでて、インドくんだりまでいってヨギになったりする人もいる。
手近かなところで酒、タバコ、セックスなどに支配されてしまうのも、その衝動をごまかしている現象に違いない。

ストレスからおかしくなるともいう。
ストレスとは何か。
自分が外界に合わせて変化していかなければならないとき、適応にかかわるしんどさの度合いだ。
これもまた、本来の自己がわかって、とりあえず演じてみるか、という程度の余裕があれば何も狂うこともないのだけれど。
必死になって本来の自己が見えなくなってしまうと、狂いはじめる。

本来のあり方を実現するには勇気がいる。
状況によって偽りの自己のままこの世での生を選択する人もいるだろう。
そういう人に救いはないのか?
ある。

本来の自己に気がつきながらも、自らの意志でこの生き方を選択したのだという主体性を回復すればいいだけの話だ。そのとき、外から見たらその人らしくない生き方かもしれないけれど、意識の上では本来のあり方に一致しているからだ。
つまり、意識上では自己が実現しているのだ。
このレベルでの自己実現は、ただ、認識の転換だけで起きる。
つまり、今の状況に意味を見出す、ストーリーを書き換えるという作業だけだ。
そのきっかけを得るために、瞑想をするのもよし、日の出を拝むのもよし、美しい音楽を聞くのもよし、マラソンしてみるのもよし、読書してみるのもよし。

狂いが大きくなる前に、毎日調整して生きていったほうが健康的だ。
時間がない?
空はいつでも静かにあなたの上に広がっている。

ただ、見上げてごらん。

セクシーさって

セクシーさって、自分の一番弱い部分を投げ出してオーセンティックにならなければでてこないものだと思う。命の根源のようなものに関係してるから。隠したり化けたりして演出するものではないと思う。

でも、弱さをさらけ出すのには勇気がいる。
傷つく可能性が大きいからだ。
だからみんなでしり込みして後退する。
傷つくことへの恐れ。
このためにどれだけの人がすばらしい喜びを放棄していることか。
すべて悪の根源は、恐れに発しているのではないか。

何も傷つくことはないのに。
自分がそう思い込んでいるだけなのに。
それに気がつかないでドアをシャットダウンしてしまう。

そのことに気がつくのはきっと、人生残りの時間はわずかになっている時だ。でも、いつからだって遅すぎることはない。喜びに向かって一歩踏み出して冒険しようよ。

私たちが完全ではない理由

完全なすばらしい人なんていない。
みんなどこかしら欠けている。
欠けているとこを補い合うために、人に惹かれるのだ。
つまり、正反対の性質を持った人にだ。
極端な例がオトコとオンナだ。
男らしい人や女らしい人は魅力的だ。
異性から見ると不思議で神秘的で、自分にないものを持っていて埋め合わせてくれるように感じるからだろう。
この差が大きいとき、磁石のプラスマイナスのように大きく引き合う。
二人の間には大きな磁場が生まれて、エネルギーが発生するのだ。
それが成長・進化へとつながる。

もし人が完全だったら、この引き合うエネルギーが生じない。
一人でそのままで満足してしまって他者を必要としない。
ニコニコとおおらかに人類愛に目覚めて、他者の必要を満たすだけだ。
自分の必要はすでに満たされているから誰も必要としないのだ。
そういうのってきっとさびしいに違いない。
そう思うのは、私は欠点が多く他者をめちゃくちゃ必要としてるからかもしれないけれど。

人間が不完全であるのは、愛のエネルギー交換がスムーズに行われるための素敵なはからいだと思われてならない。
ゆがんだ形でマイナスエネルギー交換をしてしまうのは、プラスのエネルギーを放出したら自分が損をするという勘違いからかもしれない。実はそうではなく、プラスエネルギー交換は、出せば出すほど豊かになっていくんだけど、これは経験しないとわからない。
マイナスエネルギーを出すというか、エネルギーを吸い取るブラックホールみたいなのに出会うこともある。どこまでプラスエネルギーを出したらこの事実に気がつくのかなあと、どんどんやってみる。
可能性を信じてるからだ。
でも、自分でそうしようと意図するときっと疲れてエネルギーが枯渇する。
いくらでも豊富だというのは、無限のエネルギーの根源、つまり愛の根源にアクセスしているからだ。
つながっているときには限りがない。

でも、完全ではない私たちは、疲れるし、枯渇する。
そういうときには、もう一人の不完全な人と、疲れたねえっていっしょに休んだらいいのだ。
寝てる間にすべての点検とエネルギーチャージが終わってる。

さ、今朝もいってらっしゃい!
もしまだなんか足りないように感じる人はお空を見上げてくださいね。

宗教家の陥りやすい価値の押しつけ

ああ、だからこそ、スピリチュアリティという発想がでてきたのに。
おんなじことしてるよ、私。

つまり、宗教家は理想に燃えてて、つい自分の世界観を広げたくなるから、いわゆる宣教をしてしまうんですよねえ。

私はこのようにして救われた!
なんという幸せ!感謝!
泣いてる皆様、大丈夫だから、ほら見上げてごらん、こんなにきれいな星が耀いてるよ!
って、おせっかいしてしまうんだ。
大好きな大切な人だとますます熱心になってしまう。
あああ
それが実は、敗因だったりします。

幸せになりたくない?びょうきじゃ~ん
という世界観は、どこから来たのかわからないけど、私の前提になってます。
ああ、しかし、悩みたい人は悩んでいいっていうか、変な言い方だけど、苦悩が好きな人もいるみたいで。私的に見たら、好きなんじゃなくて、もともとはそうじゃなかったはずなんだけど、癖になってるだけだと思うのですが。どんなに有害なものでも癖になるとそれをやめるほうが辛いのはタバコとかお酒とかで証明されてますものね。反対にどんなにいいことでも、新しいことを始めるにはストレス(再適応という意味の)がつき物ですからね。

しかしですねえ・・・
おせっかいと個人的価値観の尊重、その加減が難しいんです。

そっか、死にたいのか、それはあなたの生き方だから尊重するよって、態度取れますか?
冷たく突き放すのではなく、愛しているからこその尊重?めちゃくちゃきついですよ。

難しすぎる、どうしたらいいの?
そういうときにはもう、祈るしかないのよね。

リサーチということ

研究者って、リサーチャーとスカラーという二つの言い方がある。
どちらかというと、リサーチャーは理科系的でスカラーは文科系的な響きがする。
私はリサーチャーだと自分で思っているというか、目指しているつもりだけど、時々アーティストにずっこける。(アーティストが悪いのではなく、リサーチの場でアートしたらちょっと具合が悪いと言う意味です)

専門家として、究極の価値(真善美)のようなものを追求しているには変わりないんだけど、リサーチャーに求められるのは、科学的で客観的なことだ。つまり、私はこう思う、を排除して、こうしたらこうなったをみなのわかる言葉で記述していくことだ。
スピリチュアリティ研究なんかしていると、これがまったくフラストレーションのたまる作業で、いつもジレンマに悩む。
人の内面を表現するのに統計とか数字で物理学的な厳密さが示されるわけがない。
きれいなモデル化ができたとしたら、それはずいぶん重要なニュアンスを捨て去った結果だ。
ま、それでもそれなりの価値はあると思うけど。

たとえば、「幸福な人は人に親切だ」を証明したら、誰も幸せになることに罪悪感を抱かなくなるだろう。
これはある程度データで示すことができる。
つまり、客観的な証拠が確率論的に証明できるってわけで。
確率論的、つまり、そういう人のほうが多いと言う理由で。

だけど、「人間はみな光の存在だ。もともと愛と喜びにあふれているのだ。」
これをどう証明したらいいのだろう?
確率論的な証明はできない。
つまり、統計学的データでは、このような人はまだまだ少数派で例外とみなされるからだ。

マズローは、1960年代にすでに可能性の心理学を提唱している。
そう、現状を記述するだけでなく、人類の可能性を記述するのだ。
そのために、特別にすばらしいと思われる人たちを選んで詳細に特徴を記述した。

ここで問題が生じる。
すばらしいと思うのは誰の判断?
研究って、客観的で価値感から自由でないといけないとよくいわれるんだけど。
研究者の価値から自由になるなんてありえないよ。
しかしそれを表では掲げるのです。
なんか矛盾してていやらしいなあ。

オーセンティックになって、私はこのような価値と世界観に立脚してます。
その立場から観察するとこのような記述ができますで、いいじゃないの。
そのほうが絶対正直で正確だわ。
ま、こういうのが、今流行の、ナラティブって研究法でしょうかね。

まったく不安はない

気がついてみたら、私にはまったく不安ということがない。
威張ってるのではない。
ただ、不安で辛いって言う人のために、どうしたらこのようになるのかお役に立てることがあったらいいと思って考えてみたのだ。

私の今の状況は、将来を保証するものは何もない。
パートナーもいなければフルタイムの仕事もなく、保険といえば車の自賠責と国民健康保険以外に何もない。もちろん動産不動産とかまったくない。
つまり保証は何もない。
一人なら別にそれでもかまわないんじゃないかいわれるかもしれない。
ちがうんだ、こんなに情けない私に全面的に依存している扶養家族が二人もいるのだ。
しかも彼らは病気や事故が絶えないし。
要するに、たいていの人が将来が不安で死にそうになるような要因を実はいっぱい抱えてるってことを知ってもらいたかったのだ。

なぜこのような恥さらしを書いたかというと、現実生活が恵まれているからそれは不安がないに決まってると勘違いされないためにだ。

こういうことを書いても信じてもらえないほど、私は優雅に見えるらしい。
多分それは不安がないからだろう。
現状を悲惨だと認識もしてないし。
わくわくスリルとロマンに満ちた素敵な人生だと楽しんでいるから。
(リアルで十分楽しいから私は小説とか映画とか全然見ないです。)

どうして不安がないかというと、ひとつには多分、可能性のほうにいつも関心があってそちらで心をいっぱいにしているから不安が入り込む余地がないのだと思う。
もちろんうまくいかない場合や、失敗、期待はずれもある。
そういうときには、もっといい時期にもっとよいものが待っていることに気がつくだけなので、たとえそれが見えてなくても、さらに期待を膨らませてわくわくと感謝して待ち望むだけなのだ。

ホームレスになっても、瀕死の重病人になっても、愛する人すべてに裏切られたようにみえても、だ。
もちろんそのときには茫然自失するほどのショックを伴うし、凍り付いて涙も出ないほどの絶望感に襲われる。でも、非常に面白いことに、それを楽しみ眺めているもう一人の自分が常にいることに気がつくのだ。そしてその存在は、さてさて、次の幕開けはどのようなストーリーが展開されるのかなって面白がっているのだ。
つらくないってことではない。でも、まったく不安ではないのだ。
どうしよう・・・っていうのがないのだ。
何もしなくても、流れていくからそのままにしているだけなのだ。
どのようになっても、面白いから楽しんでるのだ。
期待したようなことばかりだと実は飽きる。
だから信じられないような展開になるとめちゃ面白がってるのだ。

不安がまったくないというのは、こういうこと。
薬物とかギャンブル、フィクションとかにはまる必要はまったくないよ、人生そのものがこんなにスリルに満ちてるんだから。

言葉以前の、感情以前のなにか

天使語同時通訳の難しさは、言葉を翻訳するのではなく、言葉以前のものを言葉に置き換えてみる作業だというところにある。

それは概念とか認識とか感情とか、そういういわゆる言葉であらわされるものを越えているから、言葉で説明するのが非常に難しいのだ。
言葉にしてしまったとたん、限定がかかる。
使う人のイメージで歪曲されてしまう。
だから、通訳者は常に、日本語でも英語でも、その言葉がその集団でどういう意味で使われているのかを探らなければならない。

これだけ果てしなく広がり豊かなものを、安心・信頼・さわやかさ・喜びという日常語で表すと、結局はその言葉を使う人が普段使っている文脈での理解にとどまるのがオチだ。

こういうことがわかってくると、通訳なんてしないほうがいいのではないかという気がしてくる。
一方では、たとえ間違っているにしても多少は伝えられるのだから、オールおあナッシングではなくて、80パーセントでよしとしようではないかという声も聞こえる。

そうなのだ。
どんなに超人的にがんばったとしても伝えきることはできないのだ。
たとえかなりうまく伝え切れたとしても、今度は受信側の問題がある。
感受性がなければどれだけ有益な情報でもキャッチできないのだから。

そう考えると、伝えきれないものを伝えようとする私の試みも、それなりに意義のあることかもしれないと思えてくる。

「耳あるものは聞くがよい」
というイエスの言葉も、なるほどなあ、彼も苦労したんだなあと思わされる。

いい人だから嫌われる?

いい人がみんなに好かれるとは限らない。
いいことをしたらみんなも親切にしてくれるとか、そんな保証も何もない。

何かうまくいかないときに自分のあり方を反省する必要はあるけど、嫌われたら自分が悪い、意地悪されるのは自分に落ち度があるということを意味しない。
人から非難されるときに、自分が間違っているとは限らないのだ。

たとえば、リンカーンだってキング牧師だって、ガンジーだってイエスだって、憎まれ殺されたのだから。

人からの意見は参考にしてもいいけれど、どのような人の意見でも完全ではない。
人間は不完全でおろかだし、多数決が正しいという保証もない。
つまり、客観的な意見(多数決だ)が正しいという保証は何もないのだ。
客観的に認められるのは、その状況にあって適応的なことだ。
適応的だということが正しいかどうかはわからない。
戦争中に人を殺すのは適応的なことだからだ。

人に嫌われ反対され意地悪されたといって、その態度や意見が間違っているということにはならないのだ。
いい人が嫌われるって言うのは実はよくあることだ。
自分の正当性を主張しないから誤解される。
その場やそのグループに対する適応より高いものに忠実だったりする。

人気があるかどうかは、正しいかどうかの指標としては不適当だ。

プロフィール

尾崎真奈美尾崎真奈美

東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。ペンシルバニア大学医学部精神科、東京大学医学部公衆衛生学研究室などを経て、現在相模女子大学人間心理学科准教授、米国サーチインスティチュート、スピリチュアリティ発達センター客員研究員。
インテグラル心理学・スピリチュアリティ論・芸術療法などを教えながら研究、ダンス、執筆活動を続け、科学と芸術の統合を試みる。
天使語同時通訳は日々のインスピレーションの書き散らしである。
国際生命情報科学会、日本トランスパーソナル学会理事。日本心身医学会、日本トランスパーソナル心理学・精神医学会、国際ポジティブ心理学会会員。

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