
誰かが犠牲にならないといけないとか、そういうことはないほうがいいんだけど、もしそうだとしたら、愛するあなたでなく私が選ばれたんだとしたら、どんなに嬉しいことだろう。
石が落ちてきた・・・あなたでなく私に当たってよかったよ。
蛇にかまれた・・・あなたでなく私でよかったよ。
痛いことがあるとき、私は勝手にそう思うことにしています。
あなたでなくて本当によかったよって。
腰痛は、あなたのかわりってことじゃないような気もするのですけど・・・
でも、勝手にそう思って喜んでます。笑
ルールを破ったり、乱暴な行動をしたり、人を傷つける言葉や行動で悪いやつだと評価されるような人が、なぜかものすごくいとおしくいじらしく抱きしめたくなるのはなぜだろう?
悪いとされる行動や態度の奥に、あなたのきらきらした涙の結晶が見えるからだ。
痛々しいあなたの健気さがこちらの涙を誘うのだ。
抱きしめようとしたら剣で胸を突き刺されてしまうだろう。
そしてその剣はあなた自身をもっと深く突き刺していくのだ。
スピリットで抱きしめているからね。
だいじょうぶ。
そう、だいじょうぶだよ。
なんでも積極的に物事を捉える傾向を、英語でなんていうのかなあ・・・
ポジティブに積極的に捕らえるから、ポジティヴィズムじゃないかって勝手に思っていたら、どうも変で。哲学用語で論理実証主義という意味だそうで。
ポジティヴィズムは、積極性とか自信過剰とか言う意味もあるみたいですが、要するにい・・・
今、調べてたらますますわからなくなってきました。哲学は手ごわいです・・・
日本語でポジティブというのは、英語では楽観主義、オプティミスティックというのが一番近いんでしょうね。
物事のよい面を見る。
これは元気になる方法だけど、これができないって悩む人は悪循環のわなにはまります。
どうしたらいいか、発見しました。
ネガティブになることのよい点を探すんです。
傷つくことから守られるとか、慎重に安全に行動できるとか、人を振り回したりしないとか、変わらない安心感があるとか・・・
いいじゃないですか、それで。
といってたら、「わかってもらって超嬉しい!」
はい、ほら、実はあなた、ポジティブになってるし。笑
昨日は勤労感謝の日?だったせいか、朝5時半からよる10時半まで勤労してました。
月曜日に授業がある科目の時間数が圧倒的に足りなくなるので祝日出勤があるのです。
あああ
と思いつつ祝日まで働くの、勘弁したいよ・・・と不満を持ちながら通勤。
でも、どうせだから、って授業で感謝の意味と効果・ワークに集中してみた。
ポジティブ心理学の実験で、様々なメンタルヘルスに効果的で元気になるワークのうち、一番効果が高かったのが寝る前に今日の感謝したいことを数え上げて眠りにつくというやつだった。
感謝をみんなで数え上げたのだ。
とても良かった。
みんなの感想から・・・
こころがぽかぽかしてきた、すごいうれしくなってきた、書ききれないほどいっぱいあります、
忘れていたことを沢山思い出した、いきててよかったな、気持ちがハイになった、とかとか・・・
教室全体の空気が澄み切ったさわやかな暖かさで満ちていた。
本場アメリカのサンクスギビング・ディナーを前日からはりきって作っていた娘のところに雨の高速をぶっ飛ばしてたどり着いたのは夜の十時。
おなかがすいて、コンビニで何か買って食べようかとの誘惑に負けずに行った。
最高においしかった!!
感謝を数え上げるのは、この日の習慣なのだ。
かわいくうまれたこと・・・なんていってる学生を笑いながら、先生は?
ってきかれて、何も言えなかった。
私は感謝する事を思い出したら、あまりにもすごすぎて、感動に圧倒されて言葉がなくなってしまうの
だ。
今ここに私がまだ生きている事を許されている。
この不思議さ。
奇跡にも近いこの尊さ。
これをなんて表現したらいいのだろう。
具体的に上げるとしたらきりがなく終わらないリストになる。
そういえば、去年の終わりに、108の感謝を書いたな・・・
今年ももうすぐ終わる。
ありがとう、ほんとうにありがとう
学会のシンポジウムで、湧き上がるようなエネルギーの上昇というのを文字通り体験された方が、デュルケムの「沸き、立ち上がる下からの沸騰?」のような言葉が比ゆでなくその通りだと実感した、というようなことをおっしゃっていた。
私も、いつも書いていることだけど、「きらきらした透明な光のパウダーが舞い降りてくる」とか、「お花が微笑みかけてきた」とか、「空気や空に染まって溶けていく」とか、詩的だと思われる表現は、実体験のリアリティに満ちた表現であって、決して比ゆではない。
詩人の言葉はみな、そういうものだと思う。
そしてこの、光のシャワーの中にいて全身が透き通って、静かに穏やかに在るという感じはまさしく、JOYなのだ。
私はわきあがる情熱というかいわゆるクンダリーニ?とか呼ばれるものを体験したことはない。
聞いてるとなんだか苦しそうで痛そうだからしたいとも思わない。
透明な冷たい朝の空気の中、細くて消え入りそうな月と、見事なグラディエーションを見せるもうすぐ顔を出しそうな太陽の光。
これ以上の何を求めるというのだろうか。
今、ここですべては完全に美しい。
死を静かに待っている夢を見た。
私は立っていた。
誰かが隣に寄り添って立っていた。
二人は運命共同体だった。
どういう理由かはまったくわからないけれど、銃殺されるのを待っていた。
ありがとうの言葉さえなかった。
言葉を交わすという行為そのものが、その澄み切った静寂な瞬間を破ってしまうような気がして何もいえなかった。
言葉を発している最中に命を終わりたくなかった。
透明な光の中に集中していた。
不安や恐れはなかった。
不満のような不純なものが混じってしまわないように、それだけが少しだけ気がかりだった。
理解されない寂しさがふっとよぎった。
兵士が引き金を引くのを静かに待っていた。
目を閉じてゆっくりと呼吸しながら待っていた。
どれだけ時間がたっただろう・・・
永遠のように思われた。
まどろみの中で夢を見ながら考えた。
隣にいる男性はいったい誰だろう。
彼は何も言葉を発しなかった。
肩を抱いたり手を握ったりもしない。
ただ寄り添ってそこにたっていた。
私と運命をともにする人だということだけはわかっていた。
かれはすべての不合理がわかっていた。
そして何も言わなかった。
そして私の右隣に立っていた。
彼も私と同じく静かな透明な心をしていた。
静粛な気持ちで目をあけてみた。
雲ひとつなく澄み切った透明な空気の中で朝焼けが広がっていた。
日本人はたぶん、罪悪感を持つことは悪くないと考えている人のほうが多いだろう。
古典的な心理カウンセリングビデオ「グロリアと3人のセラピスト」でクライアントのグロリアが問題にしているのは、罪悪感の克服だ。
罪悪感を持つことは良くないからそれをなくすためにどうしたらいいのか、というテーマでカール・ロジャーズと話し合うのだ。
罪悪感を持つことは悪くないと言う価値観の中にいると、グロリアの悩み自体も理解できないであろう。
その罪悪感というのがまた、自分のボーイフレンドとの関係について子どもにうそをついてしまったと言う内容なのだ。
そのようなことで罪悪感を感じる日本人はどれだけいるのだろうか。
また、10才の子どもに、大人の性的な話をオープンにする事をよしとする日本人はどのくらいいるのだろうか。
日米を行ったり来たりすると、このあたりの価値観と感性の違いに非常にとまどうこととなる。
アメリカに行かないまでも、欧米の雑誌や翻訳本ばかり読んでいたら、いつの間にか、考え方が英語的になっているかも知れない。
どちらがいい悪いではない、といいつつも、自分の感性に合わないものには違和感を覚えるし距離を置きたくなるようだ。
汚すな!ではなくて、「きれいに使ってくれてありがとう」のほうがにっこりできる。
静かにしなさい!ではなくて「静かにしててくれてありがとう」のほうがうれしくなる。
入るな!ではなくて「ここまでどうぞ」のほうが従いたくなる。
駄目だ!ではなくて「こうしたらもっとよくなるかな」のほうがやる気が出る。
人に迷惑をかけるな!ではなくて「お互い様だね」のほうが思いやれるようになる。
罪悪感より感謝のほうがみんな元気になる。
そう思うのだけれど、なぜかこの国の人は罪悪感が好きだ。
これはオールおあナッシング主義につうじるんだけど。
10にならないからって9を捨ててしまうの、本当にもったいないよね・・・
9でも、ゼロよりどんなにかいいと思う。
限られた時間や状況の中でできることをやったとしたら、基準の何割も満たしていなくても、それはあなたのパーフェクトだと思うわ。
すばらしい、ありがとう。
こんなのが自分のパーフェクトじゃないって・・・
誇り高いですね。
よいもの追求はすばらしいけど、いろいろな条件の中でバランスよく、時間やエネルギー配分していったらいいんじゃないかな。
きれいなお弁当を作る時間がないからって、カップめんを持っていくより、おにぎり丸めたほうがいいと思うよ。
ということで丸めていってきます。
傷つけられたとき、相手に対してネガティブな思いがよぎるのが普通です。
破壊的・攻撃的にならなくても、恐れ・混乱などなど。
そういうときに思い出して欲しいことがあります。
この痛みは、加害者自身の痛みだって言うことです。
そう、この人自身が受けた傷なのです。
そして、それを無防備に無意識的に表出してるってことは、今のあなたよりもっと幼くて、弱くてどうすることもできないときに受けた傷だってことを意味してます。
そのことを責めることができますか?
自分より小さく弱い存在の受けたこの痛み。
あまりにも強烈で、生命を脅かしてしまうほどだったから、無意識にしまわれたのです。
そんな壮絶な体験をしてきた目の前にいる小さな人に対して、あなたは怒ったり憎んだりすることができますか?
あなたが痛みを感じる、傷つくということは、あなた自身がそれを体験できる強さをもっていることの証拠です。
あなたはこの人よりずっと強いのです。
加害者を恐れることは何もないのです。
傷つけるすべての人は非常に弱い人たちなのです。
保護を必要としていることをうまく表現できない人たちなのです。
これに気がついたら、どんな憎しみでもその場で即座に消えていくはずです。
臨床心理学の時間に、うつになることは、ある意味自然の回復のために必要なことかもということを話したくて、うつになったことがない人はいないと予想して質問してみたら、さわやか笑顔の青年が、にっこりして手を上げた。
「うつになったことがないです。」
「物事がうまくいかなくてがっかりしたりしたことないですか」
「うまくいかないときはありますけど、別のやり方をしてみるとか考えます。落ち込むことはありません。」
「いやな気持ちにならないの?」
「がっかりするけどひきずりません」
「大切な人、愛する人を失ったとか、そういう経験は?」
「まだないですが,想像すると、しばらく何も手につかないような気がします」
他にもクラスにいろいろな質問をした。
少数派だけど、健康的な人がいた。
驚いたことに、というか当然かもしれないけど、うつになったことがない彼はすべてに当てはまっていた。
1.昨日12時前に寝た3人のうちの一人
2.コーヒーを飲まない人の8人のうちの一人
3.毎日運動する人のうちのひとり
感心して彼を眺めていたら、ますますさわやかな笑顔が迫ってきた。
うつになってひきこもりたい気持ちは、傷ついた心を休ませたいというう正常な体の信号だ。
休ませたらいいのよって言いつつ、本来なら、そうなる前にカフェインなどのドラッグをやめてゆっくり運動と睡眠をとっていたらいいのよんw。
そこまで心が疲れることは予防できるはずだからって思った。
そう、からだを動かすことの効果、みんなばかにしてはいけないよ。
カウンセリングに行く前にその辺一周走ってからにしな!っていいたいくらい。笑
誰も悪い人なんかいないんだよ。
本当にいないんだよ。
みんなあなたのこと大好きなんだよ。
愛してるよ。
そう見えないときがあるのは少しだけ脳がうまく機能してないときだから。
愛が見えないときがあるんだよね、不完全だから。
悲しくなったりむなしくなったりしたら思い出してね。
私があなたのことを愛してるってことを。
どんなに叫んでも暴れても逃げ出したくても、意地悪な気持ちになって自分や人を傷つけても。
わかってるよ。
見えてるよ。
あなたの繊細な優しい気持ちが。
そう。
愛の表わし方がちょっと得意じゃないのよね。
照れちゃってるのか。
強がってるのか。
悪いほうがかっこいい感じがするからか。
そうしないとやられちゃうと思ってるからか。
権威が保てないとか。
うん、いいの。
あなたがどういうことをしてどんなことを言ってもわかってるから。
あなたの、表現できない寂しさと愛をしっかり受け止めてるよ。
何をしても、何を言っても、純粋で優しいからこうなってるって全部知ってるから。
そういうあなたが大好きなんだ。
愛してるよ。
たとえあなたが私を殺したとしても、愛してるよ。
でも、にっこり喜んでいるのを見るのがもっと嬉しいよ。
いってらっしゃい。
愛してるよ。
ちょっとしたアンケートをしてみた結果、半数以上の学生が、「もやもやした気分でヤル気がしない」と。
確かに・・・、
反応が鈍すぎる。
当てても返事をしない。
質問しても答えが返ってこない。
指示しても動かない。
3回同じことを言っても1割以上の学生が聞いてない。
目に生気がない。
姿勢が悪くてゆがんでいたり前かがみ。
天気のせいもあるのだろうか。
レポート提出日だったから、寝てない学生が多かったからか。
脳内の化学物質バランスが壊れているとしか思えない。
ニート予備軍か。
このようなぐずっとした態度に接して、イラッとした私自身もきっと脳が不健康な状態になってると気がついた。しかし半数以上がそういう感じだと、クラス全体がもやもやした雰囲気におかされる。
学生達に聞いてみたら、もやもやしながらもまあなんとなく社会参加はしてるし、友人関係も悪くない、学校に来てるし単位もそこそこ取ってるし就活もやってる。
目に見える問題はない。
が、やりたいことがない。
目標がなく、むなしい気持ち。
どうしたらいいと思う?
そうじゃない人はどうしてる?
そう感じない人はバイトでも部活でも何か一生懸命やっている人だった。
やらざるを得ない状況にあるというか。
でわかったこと、もやもやむなしくヤル気がなく疲れている人は、何もやらないから疲れてるのだ。
つまり自分の中にエネルギーがくすぶっている状態なのだ。
何かやってみたら楽しくなるのだ。
でも、何もヤル気がしない。
そういう人は、仕事ややるべきことが十分できてないから、仕事しなきゃ、レポートやらなきゃと思って、したくない気持ちにますますおかされているのだろう。
で、ますますやる気が出ず疲れてしまう。
悪循環。
そういう人は、泳いできたらいいのにとか、ちょっとストレッチでもやって深呼吸してリフレッシュしたら?
といってもそれもかったるいと寝転んでる。飲み会だカラオケ行こうか、って誘っても、重症になるとそれさえも億劫で、付き合いが悪いと思われない程度には遊びに行く。でもちっとも気持ちのもやもやは晴れないんだ。
なぜか、考えてみた。
人のためになることをしていないからだ。
やりたいことをまずしてごらんというときに、自分の楽しみだけを考えていたらむなしくなってくるのは当然だ。人間はそのように作られてないからだ。
支えあって助け合うように作られているのだ。
生きる目的や希望が見えないとき、何でもいい、人に喜ばれるようなことをしてみたらいい。
できたらからだを動かすようなことがいい。
やってみたらわかる。
読むだけではわからない。
はじめの一歩だけ、ほんの少しエネルギーがいるかも。
あとは自然にヤル気がチャージされて元気になってくるのがわかるだろう。
今朝は・・・公園のごみ拾いなんていかが?
一歩外にでて新鮮な空気を吸っただけで気分がかわるのがわかるはず。
道徳的な理由からアドバイスしているのではなく、純粋にメンタルヘルスの観点から話してるんだけど。
道徳もメンタルヘルスも、美容と健康もアンチエイジングも、実はすべて同じルーツに答えがあることに気がついた人は幸せだ。
人のためになることの喜び、これ以上シンプルで効果的で、しかもお金がかからない解決法はない。
ほら、夜も明けてきたし、小鳥が誘ってるよ!
A spoonful of sugar helps the medicine go down.
動けなくなっていた私に、友人の電話。
さっとひらめいたメアリーポピンズの歌があった。
そうだよ、そうだよ、そうだった。
なんて私って、バカがつくくらいまじめなんだろう。
苦いおくすりをしっかりと直視して、はい、いいものだからのみます。、のまなければ。
感謝していただきます、なんて無理してみたり、悲壮な決意で口元まで持っていって泣き出してみたりの繰り返しだった。
お友達からそっと差し出されたお砂糖。
なんかごまかしてしまうようで素直に受け取れない自分がいた。
だけど、まあ、お砂糖だけでもなめてみようかな~とちゃっかりした自分も出てきた。
まじめになって動けなくなるのと、お砂糖だけでもなめてみようかな~うまくしたらするっとお薬ものどをとおっているかもね~っていうのと、どっちが賢いか?
うんそう。
結果を考えると、お砂糖だけでも、のほうが勝率は高い。
知的なあなたは迷わずお砂糖をなめるでしょう。
人生、苦いお薬はいっぱいある。
まじめに取り組むのはすばらしいけど、でも、もしかして動けなくなったら、どうぞ、お砂糖をひとさじなめてみてね。それで、お薬のききが悪くなったりはしないから。
お薬飲んだ後で、うえ~~~ってきたら、またお砂糖をなめたらいいのよ。
お薬はきいたけど、お砂糖取りすぎて虫歯になるとか太るとか、ま、それはあとで考えたらいいのよ。
とりあえず、今目の前のクスリをやっつけてからにしましょうね。
こういうのが、ユーモアとか遊びとかいう人生を滑らかにする智慧なのよね、きっと。
みなが求めているスピリチュアリティって、無意識世界に関係してるようで、瞑想したりヨガしたり、夢の解読したり占いしたりして、その世界を知りたいという人が多いようだ。
たいていの人の話を聞くと、意識的に無意識を探ろうとしてるように思える。でも、無意識のほうが大きいし、力もあるし、すべてを覆っているから(なんせ時間も空間も越えてるんだから)そんな、がんばって探らなくても、と思ってしまう。
探るまでもなく、今ここにすでにあるんだし。
スピリチュアリティって、求めるものじゃなくて、自分に与えられた意味を解釈して言語化していくだけの作業じゃないかと思うんだけど。
無意識は求めるものではないよ。
求めてしまったら、それは意識的なものだからすでに無意識とはいえない。
ここにきっとスピリチュアリティ探索の矛盾があるのだと思う。
求めていくから、妙な自我の計らいが加わって変な方向に行くのだ。
自分のあるがまま、そのままでたゆたうだけでいいのだから。
身を任せて甘美にそれを味わって。
そしてま、気が向いたらそれを言葉に置き換えてみようって世界で。
はじめから目標とか仮説とかがあって検証していくようなものではない。
レベルとか、深度(進度)の査定ができるわけないし(してしまったとたんに、スピではなくエゴの世界になる)、ましてや資格とかお免状の世界でもない。
なにやってるんだか・・・
研究なんかしていると論文発表する前は慎重にアイデアを取り扱うように言われる。
理論やアイデアなどを盗用されないようにとか。
研究者はブログなどでアイデアを書き散らすのが怖いと言う。
簡単にコピーして別の人が別の場所で発表したりすることがあるからだという。
私的に不思議なのは、それで何が問題?
いいアイデアが広まったら嬉しいとは思いませんかって聞きたいのだ。
そう発言したら、え?って顔をされた。
それで別の人が賞をもらったりしたらどうですか?
うん?よかったなと思うだけよ、とまなみん。
「そこまで達観できたらいいんだけど、なかなか」
このあたりがなかなかわかってもらいづらい。
どんなアイデアでも、自分がひらめいたと思っても、それは人類共通の知的遺産殻の成果だってことに気がつかないだろうか。
人にとられて惜しいと思う人は多分、それを得るために時間とエネルギーを費やして努力してこられたのだろう、だとしたら人の成果とされることは癪に障るのかもしれない。
まなみんの考えはこうだ。
どのような成果であっても、自分が書くというのはたまたま書くという役目を与えられているからであって、その成果は自分のものとは思えない。
なぜなら、このアイデアを思いつくのは、誰かほかの人のあの言葉、あの本のあの表現とか、いろんなところからのヒントがあって、それらの恩恵を受けているのだから。そして極めつけのすばらしいインスピレーションとなると、これはもうまったくもって自分ではなく、天からやってきたもので、自分の業績とはとても思えないのだ。
ただそれを書き留める役割と発表する役割が与えられたとしたら一応やるけど、それを広める役割をほかの人が取ったからといって何も不都合は生じないのだ。
仕事に就けなくて経済的に困窮すると言うことはあるかもしれないけど、それで食べていけないというとこまでには幸いいってないから、まあよしとするのだ。
こういうことをいうと、ビジネスは成り立たなくなるだろう。
私には著作権と言う概念が本音では納得できていない。
ほかの人がそうしたいというから従ってますが、自分のものに関してはまったく持ってどうぞどうぞご自由に。
これは何も知的遺産に限らない。
よく考えてみたら自分のものなんてなにもないし、ある人はない人に提供するのが当然だし、ある人は提供して、ない人はもらって、それでみんなが楽しくなるのだから、何で、自分のものなんて欲張るんだろうね。そんなことに神経質になってもさびしくなるだけなのにね。
所有欲かあ・・・
自由の反対の概念ですね。
人を愛することとか。
求めながら傷つきながら、なんだかみんな、非常に困難だと思いすぎてない?
ものすごく単純なんだけど。
たとえば普通にお母さんが子どもに対して感じる気持ち。
たとえば普通に、出あったばかりの恋人に対して愛しく思う気持ち。
あなたのためならたとえ火の中水の中、じゃない?普通に、しかも喜んで。
それはきっと、相手と一体化してるからでてくるんだと思う。
相手の痛みが自分の痛みだから、相手の喜びが自分の喜びだから。
ある意味、めっちゃくちゃ自己中よね。笑
それをちょっとだけ少し広げるだけでいいのよ。
自分の子だけじゃなく、恋人だけじゃなく、結局みんなつながってるんだからみんなの痛みや喜びも自分の痛みと喜びなのよ。
それに気がついたら、人に親切にしようとか、他人に迷惑をかけないようにしようとか、そういうの、自分が気持ちいいことをしようって言うのと同じじゃない。
難しくないよ。
気持ちがいいこと、楽しいことをやるだけだから、なにも無理がないよ。
無理がないとき、病気にもならないし、落ち込むこともないよ。
楽しいだけだよ。
何も難しくないでしょ?
こんなに単純なこと。
今日のお空のように、晴れ渡って明白な真実。
携帯でもSQ Lifeメッセンジャー・ブログが閲覧できます。
http://blog.sq-life.jp/m/
