
除夜とは夜を除く、だから寝ないのだそうだ。
何やるかって言うと、今年中の汚れを全部落としてきれいになって新しい年を迎えるのだそうだ。
お掃除したり、忘年会で大騒ぎして鬱憤を蹴散らかしたり、日ごろの失礼をお歳暮やお年賀で取り戻してリセットする時期なのだろうか。
よく考えてみたら、これは別に年末に限らなくてもいい。
毎日夜寝る前に、お風呂はいってお掃除とかたずけをして、出しそびれた手紙や仕事の段取りをしてから寝たらどんなにすっきりするだろう。
今年を振り返って反省して新しい目標を掲げるという習慣も、毎日していたほうが忘れないに違いない。
でも現実は、忙しすぎて一刻も早く横になりたいとか、気になることにとらわれて反省する余裕もなかったりする。
ユダヤ人の古い習慣で安息日というのがある。
サバティカルといって大学などで研究休暇がとられたりするのもこの名残だ。
安息日は金曜日の日没から始まる。
一切の仕事(料理・そうじ・買い物などの家事も含めて)が禁じられているため、金曜日の午後は会社も休みになり、家に帰って日のあるうちに!と家中の掃除や安息日に食べるものの料理などをする。
土曜日の日没までは仕事をしないでゆったりと家族で過ごすのだ。
これは非常によくできたシステムだと思う。
人間はほおって置いたら何でもやりすぎてしまう傾向にあるからだ。
振り返り整理して汚れを落とす作業は強制的にしないとなかなかできない。
週末もなく働いたりすると、ストレスや健康問題が生じたりして長い目で見たら効率は落ちてしまう。
年末はそういう浄化の時期として大好きだ。
お掃除をして気がつくことは、汚れがひどくないうちにさっと吹いておけば楽に取れるのに、今となっては強力な洗剤や力任せにこするなどしないと取れなくなってしまっていることだ。厳しいなあと思いつつ、もう取れないのかなあと思いつつも、日にちを置いて漂白剤を3回塗布してみたら、少しづつ薄れて新品のようになった。
心も体も同じことだ。
あきらめないで根気よくやったら根治できるんだと言う教訓にもなった。
いよいよ明日の夜だ。
あなたはどのように過ごしますか?
動物が助け合って生きていったり共食いしたりする現象を、人間の姿に置き換えて、美しい、愛だとかエゴイスティックな行動だという表現をすることがある。
しかし、動物はただ本能的に自然の秩序にしたがっているだけだ。
善も悪もない。
もしあるとしたら生物保存の法則(タオと呼んでもいいだろう)に従うという善がある、時にそれが何らかの事情でうまく機能しないという機能不全の状態が観察されるだけで、それはいくらすさまじい殺戮でも、悪と呼ぶのはナイーブすぎる感性だ。
人間社会も同じことである。
利己的な行動を悪と呼ぶ場合が多いが、利己的というのも個体の自然法則・秩序であり、それがなかったら絶滅する。
自由意志を持った人間は、時に酒タバコ不摂生ひきこもりなど不健康な行動を選択する。
命をちじめる、エネルギーを減少させるという意味でそれらを不健康と呼ぶ。
それはその行動を外側から見た視点である。
それらの行動を個人の内側から見た場合、理由、意味、プロセスの必然性などが見えてくる。
ひとつの病的症状を示しているからこそ個体全体の命が守られていることもある。
医学的データから明らかである。
それは悪というより、機能不全状態、防衛機能・病理と呼ぶのがふさわしい。
戦争や犯罪でさえ同じ理屈が適用できる。
社会病理である。
病気だとしたら、それは戦って絶滅させる対象というより、憐れみと治療の対象である。
このような認識は人類を平和に導くのではないだろうか。
たとえ人類がみなつながっているという認識がないとしても。
知的・合理的でも大いにスピリチュアルでありえるのだ。
ああ愛あればこそ生きる喜び
ああ愛あればこそ世界はひとつ
愛ゆえに人は美し
ベルバラが昔ブームだった頃宝塚ではやった歌の歌詞。
オスカルとかマリーアントワネットとかの恋人に対する愛を連想する人が大半だろう。
フランス革命の中、命がけの愛は恋する人を超えて周囲の人や民衆国民にまで広まっていった。
愛はすべてを一変させる。
不運や悲劇のさなかでも何とか生きていくことができる力を与えられる。
苦しみ悲しみの涙を、感謝と喜び・感激の涙に変えていくのも愛だ。
さまざまなレベルやさまざまな視点から愛とはが論じられる。
ナルシストの問題は自己愛ではなく、他者にたいする愛が欠けることである。
愛はどのような愛でも、愛する人愛される人の双方を癒し、育て、生かす。
病理は愛のゆがみではなく、愛の欠如にある。
どのような立派な行為でもシステムでも愛がなかったら無に等しい。
平和の祈り (聖フランチェスコ)
神よ わたしをあなたの平和のために用いてください
憎しみのあるところに 愛を
争いのあるところに 和解を
分裂のあるところに 一致を
疑いのあるところに 真実を
誤りのあるところに 真理を
絶望のあるところに 希望を
悲しみのあるところに よろこびを
暗闇のあるところに 光を
もたらすことができますように
助け導いてください。
神よ わたしに
慰められることよりも 慰めることを
理解されることよりも 理解することを
愛されることよりも 愛することを
望ませてください。
わたしたちは 与えることによって与えられ
すすんでゆるすことによってゆるされ
人のために死ぬことによって
永遠に生きることができるからです。アーメン
がんばって克服した、戦ってきたという話に勇気つけられることは多い。
やればできるんだ!
いつだって大丈夫なんだ!!
でも、本当のことを書くと、本質的なことは、がんばってもできないことのほうが多かったりする。
死にたくない!!
無理・・・
できない
いくらがんばっても、すべての人に寿命があって、全員いつかは死ぬ。
どうすることもできないものに対して抵抗することは、不可能なことに挑戦するってことだから、負け戦に挑むことであって苦しみの連続だ。
そのためには、がんばる自分は一度死ななければならないのかもしれない。
そう、つまり、自分では何ひとつできないことを謙虚に認めること。
そのとき、大いなるものがあなたの中で生きはじめる。
抵抗しないでまかせて安らぐときに甘美な至福はやってくるのだ。
そう、がんばらないときにこそ。
回復力とか復元力とかを意味する。
もともと、ストレスと同じように工学系の言葉だったらしいけれど、最近はいろいろな使われかたをしている。
心理学的には、ストレスやトラウマなどからの立ち直りや抵抗資源として重視されている。
健康の指標として、免疫が高くて病気にならないことも揚げられるけれど、ダメージを受けたときにどれだけ復元できるかという抵抗力もカウントされるだろう。
生きている限り、さまざまな出来事で常にへこまざるを得ない、そこからどうやって回復していくか。
その回復力の根源にあるのが、感謝だ。
ダメージを受けたときにはその感謝はでてきにくいのがアタリマエだけれど。
回復力、レジリエンスには、まず回復したいという動機と、回復するんだという意志が必要となる。
その意志と動機は、生きるぞ!生きたい!という根源的なところからでてくるものである。
なんのために生きているのかと哲学的な思索をめぐらしても、時間がかかりそうだ。
長期的なエネルギーとして重要かもしれないけど、今ここでこの瞬間に前進するには、小さな単純な喜びがそのきっかけとなる。
澄み切った美しい空。
赤ちゃんの笑顔。
道端の名もない花。
朝日に映える霜柱。
喜びの種は世界中に満ちている。涙で曇った目には見えにくいかもしれないけど。
今日も昨日と同じように、そして明日もずっとずっと毎日、喜びの種を撒き散らしている世界に感謝。
世の中の多くの問題は、適材適所になったらたいてい解決するんじゃないかと思うことがある。
できないとか失敗とかするのは、適切じゃないとこにいて、無理なことをしようとしてるからかもしれない。できることをできるときにやったらいいのだ。
何もない?
そういう時は休んでたらいいのだ。
死にはしないはずだ。
そして場所や時が変わったらできることがいっぱいあることに気がつくだろう。
今、ここでできないのは、適切じゃないとこにいるからだ。
適切な場所に行ったら、苦労じゃなく、遊びで楽しくできてしまうことに気がつくだろう。
なのに、どうして楽しく楽にできることをやらないのだろう?
確かに、需要と供給のバランスがあるからね。
みんながバイオリンやりたいと思っても、ベースがいないといいハーモニーにはならないよね。
でも、探したらきっとあるはずなんだ。
誰もが自分らしさを十分に発揮して楽しくできることが。
そしてそれが結果として人の役にたっているということが。
難しいのはそれを探すことなのよね。
だからカウンセリングに行ったり悩んだりするのよね。
それを見つける方法?
頼まれなくてもお金もらえなくても自分からやっちゃうことってないですか?
全然苦じゃなくて、むしろ楽しかったりすること。
それですよ、それ。
それがあなたの天職です。
自分にむいたとこにいってください。
そうしたら世の中がもっと楽しくスムーズになっていくことでしょう。
何もしたくないですって?
ジャアとことん何もしないで下さいね。
絶対にしてはいけませんよ。
その中でもし何か出てきたとしたら、それがそれ!です。
本物の神秘主義者は、限りなくリアリストである。
空の向こうの天国を信じてはいない。
今ここにある出来事が天国なのだから。
ルーミーの詩より
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
この世のありとあらゆるものは
恋をし、恋人を探し求めている。
麦わらは身を震わせる
琥珀を前にして。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
あらゆる悪行や善行を越えた彼方に、
緑の野原がある。そこであなたに会おう。
魂がその草のなかで横になると、
世界はあまりにも豊かで、言葉にできなくなる。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
やっておいで。
さすらい人も、
師を求める人も、
世捨て人さえも、かまわないから。
われわれの仲間は絶望しない者の集いだ。
今まで千回も誓いを破った人も、
やってくるがよい。
さあ、何度でも、もどっておいで。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
もし、君が、注意深く、意識を明晰にしていれば、
瞬時瞬時、自分の行動に対する答えを知るだろう。
素直な心を持つ者は、注意深くあれ。
なぜなら、君の行動の一つひとつの結果として、何かが君に生まれるのだから。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
速やかに自我から自由となれ。
鍛えあげられた剣の如くなれ。
悔恨のさびをすべてそぎ落として、
はがねの鏡のごとくなれ。
愛に理由はいらない。
愛だけで真実を示し、愛する者となれる。
神を告げる者の道は道理の道、
もし生きたければ、
愛に死ね。
愛に死ね。
もし、生きながらえたいのなら。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
人々は永遠の敷居を乗り越えて、
向こう側とこちら側をいつも行ったり、来たりしている。
ドアは開かれている。
君が目覚めていさえすれば!
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
引用元:http://plaza.rakuten.co.jp/vijay/17000
幸せになるコツって、できるだけ少ないことを、できるだけゆっくりと、できるだけ少ない人と、できるだけ集中して熱心にやることにある。
これはすなわち、いまのこの瞬間を愛することなのだ。
たくさんのことをしようとしたら集中できない。
少ないことを丁寧に心を込めてやっていると、そこに愛が生まれる。
パソコンのキーボード、いつお掃除した?
一つ一つの隙間を丁寧にほこりを取って、洗剤をつけて優しく汚れを取っていたら、本当にいとおしくなってくる。
いつもむちゃくちゃたたいててごめんね。
壊れないでいてくれてありがとう。
って、タッチするたびに愛してるよって言い続ける。
目に入るものすべて、触れているものすべて、聞こえてくるものすべてに愛してるよってメッセージを。
そうしたら、こんなにもたくさん愛するものに囲まれていることに気がついて、びっくりしてしまうはず。
ボーナスなくても、内定取り消されても、病気になっても事故にあっても、そんなのどおってことないよ。
だって、ほら、なんとかなってるじゃない、ねえ。
そうそう。
持ってるものとか可能性が少なくなることはチャンスなのよ。
それだけ愛することができるんだから。
どこから来るのだろうと考えてた。
ぴったり来る言葉が日本語でなかなか見つからない。
感謝に近いんだけど、ニュアンスが違うんだ。
感謝というと、なんだか「感謝しないといけませんよ」という文脈で意識的に思いをはせるというイメージがつくまとうのだ。あるいは、何かモノや出来事や、感謝する対象が目に見える形や事象として説明できるものに限られてしまうのだ。
生きてる喜びは、「ありがとう!!」という喜びなんだけど、誰に対してとか何に対してとかではなくて、言うならばすべてに対して、となる。
喜びは、喜びなさいと命令されてするものでもないし、意識的に努力して喜ぶというものでもないだろう。
生きてる喜びというのは、湧き上がってくる、押さえても押さえても押さえきれない、ありがとうの気持ちというのが一番ぴったり来るような気がする。
生かされているという喜びなのだ。
年末に近づいて、大掃除の季節がやってきた。
ベランダからは真っ白な富士山が耀いている。
今日のようなお天気のいい出張のない日曜日は大掃除にもってこいだ。
私はお掃除やお洗濯がけっこう好きなんだけど、考えてみたら、何かを生産するより片づけたり、洗ったりきれいにしたりすることでけっこうな時間を費やしているような気がしてきた。
たぶん人生の3分の一は寝てて、あとの3分の一で何かしてて、あとの3分の一はそのおかたづけをしてる。で、たぶん年をとってくると、片付けの時間が多くなってくる、というか、人生の終わりにむかって片をつけないといけないものがタイムリミットをもって迫ってくるのだ。
洗濯物を干しながら、お風呂を磨きながらふと思い出す。
音信不通のあの人はどうしてるのかな・・・
いつ、どんな形でピリオドが打たれるかわからないいのち。
後の人がどう対処したらいいのか困るようなものを残しておかないように、全部きれいにしていきたいものだ。
モノもそうだけど、人間関係もそう。
誤解されたまま逝くのは辛いなあ。
今日もできる限り、心の内側と外側と、両方をクレンジング・クレンジング・クレンジング。
これが私の日課になっている。
お迎えが近いのかなあ。笑
耳の聞こえない学生がいた。
音楽療法の授業ですばらしい音楽を聴いた。
彼が質問した。
「音楽が聞こえないのに感動した、これはどう説明しますか?」
なんと説明したらいいのだろうか。
私たちが見えるものは、たまたま可視光線と呼ばれる波長の波動だけであって、それを越えた波動はいたるところに存在していることが確認されている。紫外線とか赤外線とかいろいろある。見えないけど感じる。
音も同様に、聞こえる音の波動域というものがある。聞こえない音はどうもいたるところに存在していることが確認されている。超音波とかいろいろある。聞こえないけどその作用は観察できる。
見えないから聞こえないからといって、存在しないとはいえないのだ。
触れないから、感じられないからといって、存在しないとはいえないのだ。
すべて検出器の問題だけなのだから。
見えないものや聞こえないものがたくさん私たちの周りを覆っているのは事実だ。
それを何かの瞬間に検出することがあっても当然だ。
でも、それは通常の光や音ではないから、言葉で表すのは非常に難しい。
その見えないもの聞こえないものの正体は、超高速の透明な光というのが一番近い実感なんだけど。
見えないけど聞こえないけどその作用は明らかだ。
心があったかくなる。
生きててよかった、って感動する。
すべてのものにありがとうっていいたくなる。
感謝と感動の涙・・・
見えないけど、聞こえないけど、確かにあるんだ。
それをみなは愛と呼ぶのだと思う。
光と影の統合テーマは、スピリチュアリティを語る際にいつもつきまとう。
私としては、いわゆる光も影も包み込んだ静寂な状態を、柔らかく冷たい透明な光と感じてるんだけれど、それを光と表現したとたんに、影との対比で連想される方が多いようで、なんと表現したらよいのか難しい。
完全な漆黒の闇はブラックホールくらいしか存在しないはずだから、どんな暗闇でも何か対象が存在するということは、そこに光があるという証拠になる。
だから私はすべてを包み込む光という表現をするのだ。
実際、われわれの存在している世界では、光のない世界はない。
物理的に考えてもこんなに単純な話はない。
皆が闇とか陰とか言ってるのは、単に光が少ない状態にすぎない。
どこまでも透明な光は、どこまでも貫き通すのだ。
対象を、どこまでもそのまま映し出すだしているだけなのだ。
闇には光がある。
でも、光には闇はない。
光がなければ闇は存在しないのだ。
さまざまな色は、この透明な静かで冷たい光の輝きを際立たせるための装飾であって、グロスな戯れだ。
言葉も同じだ。
闇はさらに、この光の存在を証明するための装置でしか過ぎない。
光だけの世界では、それが光であることに気がつくこともないのだから。
ただただ幼くて、本人はひたすら一生懸命人のためにやってるのにそれが理解してもらえない、そのフラストレーションからとっぴな行動になってしまっている、と思えるようなことが非常に多い。
このような人たちに、上から正当だと思われる決まりや教えを説いても、どうして?なんで?と理解できないまま、反省が見られないとまたしかられる羽目になる。
大人にはアタリマエだと思われることにたいして、単純に、そのなぜかが理解できないのだ。
どうしてピアスしてはいけないの?
どうして髪を染めてはいけないの?
どうして授業中にトイレにいってはいけないの?
どうして疲れたら休んじゃいけないの?
どうして給食を全部食べないといけないの?
などは実は私にも理由がわからない。
家に帰りたくないって言ってる子に付き合ってファミレスで夜明かししてなぜいけないの?
友達が困っているからお金貸したりやったりしてどうしていけないの?
などなど、一生懸命よく生きたいと思ってやっていることなのにしかられることが多すぎて。
でも、大人は同じことをしてるのにしかられないし。
いい子になろうとしてがんばって言いつけを守ろうとしてたら、大人には好かれるけど友達からは嫌われる、いじめられる。
こういうジレンマの中で、純粋な子ほど混乱している。
言ってることとやってることが違うと、どうしたらいいのか、幼い魂はわからなくなっている。
幼い人は、感じてること、思ってること、言うこと、やることが同じでないと理解できないのだ。
単純な話。
大人は、このどうして? にしっかりと答えて欲しい。
もしわからなかったら、頭ごなしに、「いいからそうしろ!」ってどならないで、「ごめんわからない」といって一緒に考えて欲しい。
7月に書いた以下の日記の出典を知りたいとのコメントが入ってました。
何を書いたか忘れたのでもう一度のせますね。
でもって、日本語を中心とした手に入りやすい出典を下にのせておきますね。
きちんと読んでくださってありがとうございます。
反証してる論文の出典もよかったら教えてください、セリグマンのどれを読まれた感想ですか?
フレデリクソンの大規模な縦断研究とか最近の研究では、楽観主義の圧勝みたいな感じを受けてますけどね・・・自分の直観にぴったりくるからピックアップしてるだけでしょうか?笑
科学的証明ってむなしいような気もします。
でも、データで納得する人がいるから出そうかなって感じです。
日本語の総論としては
山崎勝之:ポジティブ感情の役割ーその現象と機序、パーソナリティ研究、14(3)、305-321、2006.
そのレファレンスから、以下の論文に当たってみてください。
Aspinwall, Taylor,Trope,Pomerantz,Arkes,Herren,Isen,なんか参考になると思います。
悲観主義・楽観主義・現実主義
「なんて悲観的なものの見方なの?もっとポジティブになったらいかが?」
「いや、ただ、現実的になっているだけさ」
誰だったか忘れたけど、美しい女性が賢い男性と結婚して子供ができたら…と想像して
「私の美貌とあなたの知性でどんなに素晴らしい子どもになるでしょう!」と言ったのに対し、
「君のおつむと私の風貌の子どもが生まれたらどうする」
と答えたのは有名だ。
悲観主義イコール現実主義なのだろうか?
いや違う。
悲観・楽観の軸と、現実的非現実的は違うのだ。
悲観主義者が、悲惨さに対し直面できず逃避傾向があるのに対し、楽観主義者は現実を淡々と受け止め向かっていくというデータもあるのだ。
健康自己実現型:楽観主義で現実主義
実存厭世型:悲観主義で現実主義
ポリアンナ型:楽観主義で非現実主義
病的鬱型:悲観主義で非現実的
さあ皆さんはどの型ですか?
ロシアの思想家グルジエフが言うには、人間のもっている最もたちの悪い依存は、不幸に対する依存である。
確かに、この依存はたちが悪い。
まず、依存であることを決して自覚しないし、指摘しても認めない。
しばらく離れると強い離脱症状があり非常に強く求めてしまう。
そしてどんどん強い刺激を求めていくようになるのだ。
本人は自覚しないしやめられない。
そして依存していることに気がつかないでよいことだと合理化している。
苦しみや不幸がないと自分がだめになるとか、生きているような気がしないとか。
それはみな、不幸依存症による中毒の症状だ。
回復するためには一定の期間完全に不幸を断つのが効果的だけど、苦しみがないと不安になったり落ち着かなくて自分から苦しみを引き起こしてしまうから、困難だ。
実は、この依存症にかかっていない人はめったにいない。
だから離脱は非常に困難だ。
でも、決心だけでできるのだ。
幸せになるか不幸になるかは、自分の心だけの問題だから。
外的な出来事にはまったく関係ないのだから。
そうなろうと思ったらできるんだ。
問題は、幸せになりたいと本当には思ってないみたいなことだ。
すごく恐がってるみたいで。
失うことを恐れてるのかしら。
もったいないなあ。
自分から不幸を求めてる。
これほど不合理なことってそうめったにない。
だから一番たちが悪い依存だといわれるんだろう。