
鈍感であることに感謝。
目がよく見えないことに感謝。
ばい菌が全部見えてたら呼吸さえできなくなる。
何も食べられなくなる。
現実をしっかり目を開けてみろって、そんなことしたら生きていけないよ。
鈍感だってことは、実はすごい感謝なのよ。
死や死後の世界なんかを語るのは、タブーという立場もあるし、だからこそ、語っていかないといけないという立場がある。
隠されているものを明らかに、意識化、言語化していくという作業は、それに対するとらわれを失くすことに意味があるのだと思う。そうしてクリアに実態を把握できるようにしていくために必要なのだと思う。
隠されていたことに夢中になってしまうのもまた病的な反応だと思う。
もちろん、今まで語られなかったことは新奇性があって目を引くし、バランスを取るために一時的に盛り上がりを見せてもいいと思う。
でも、ずっとそれに引きずられているというのには、固着という病的な心理を感じてしまう。
私が光にこだわっているのはたぶん、毎日の生活の中で、そうではないことを見聞きして、え?って立ち止まってしまうからだと思う。
そういうことがなければ語る必要は何もない。
しかし、実は、え!は結構多い。
死を美化する人たちがいる。
どのような死にも意味があるしストーリーがある。
けど、できたら避けたかったし、遅らせたかったし、嫌でしょ?違う?
こういうことを聞くのは残酷ですか?
クリアに自分自身を見つめて把握するときにこそ光がすうっと入ってくるでしょ。
スピリチュアルになれない、死を受け入れられないなんていわないでください。
あなたがあなたらしくクリアであるときこそが、スピリチュアルっていうのよ、きっと。
お化けって訳がわからないから気持ち悪くて。
お化け退治の方法がわかった。
明るく光で照らし出して、姿をくっきりと把握したらいいんだ。
意識化したらいいんだ。
言語化したらいいんだ。
そのとたんお化けは消え去るよ。
試してごらん。
自殺するって言う人に対しては、誰もが止めるだろう。
100人中99人は止めなくてはいけない、と思うだろう。
安楽死については状況にもよるけど、いろいろ意見が分かれる。
精神的な安楽死について悩んだことがあった。
これに関しては危険だからここでは言及は控える。
しかし、じゃあ、うつの人について、引きこもりの人について、介入すべき?
病的レベルなら介入すべきではないか。
確かに。
でもその、病的かどうかってどこで判断するの?
専門家の査定?
専門家でも意見が別れることも多いよ。
症状が同じでも個人の資質や環境でも経過はずいぶん違うものだし。
さあ、どうする?
本人のあり方を尊重するっていうかかわりもある。
臨床心理学の基本的な姿勢だ。
どのような状態であれ受容していく。(肯定じゃないよ!)
でもそれは、自他を傷つけないという前提のときのみだ。
もし本人が引きこもって満足して自分の世界に浸っていたらどうする?
誰も、傷つけてないじゃないかといわれたらどうする?
自己責任だしと居直ったらどうする?
世界に出てみたらもっとすばらしいよ!
というのはおせっかいなのだろうか?
本人のあり方を尊重したいと思いつつも、いいのかな・・・と思ってしまう。
このあたりのバランスは非常に難しい。
基本的には本人が一番自分のことを理解しているのだと尊重しつつ、あまりにも偏って見えるときには強制的な介入もやむをえないのかもしれない。
そのとき嫌われてもあとで感謝される場合だってあるだろう、と思いたい。
しかし、状況がそれでよくなっても、ほかで違った症状が出てくる場合もあることを思うと、引きこもったりうつになったりする時間というか経過がどうしても必要なのかもしれないと思うこともある。
そうなると、黙って温かく、見守りつついくしかない。
介入しすぎは、価値観の押し付けといわれる。確かにそうかも。
小さな頭であれこれ考えても埒が明かないときには、大いなるものの流れにまかせてみると言うのも、一理あるだろう。
それでも地球は回っているというか、お天道様は上ってくるというか。
努力したら何とかなるとか、教育可能とか、まあ、ある程度は夢を持たせるしいいことだとおもう。
でも、それがすべてではないってことを肝に銘じておく必要がある。
自分ががんばれば何とかなるって考えは、自分が世界に責任を持ちコントロールするという、大それた傲慢な考え方である。
何もしないで放棄するのは生き方として情けない。
私が言うのはそういうことではない。
極限までできることをやりつくしたあとの話だ。
できないものはできないのだ。
とことん手を尽くしても治らない病気は治らないのだ。
世の中から戦争をなくそうとしてもなくならないのだ。
それが悲しい現実で、われわれはその中に生きているのだ。
ニューエイジっぽく、意識が変わればすべてが可能になるなんて単純に言わないで欲しいのだ。
病気が治らないのは、無責任に知りもしないで、生活習慣が悪いからだとか、人間関係の問題だとか、信心が足りないからだとかいわないで欲しいのだ。
宇宙はわれわれ人間の思いや行動を越えた原理で動いているのだから。
スピリチュアリティを人間の意識レベルやエネルギーという低いレベルでとらえているから、そのような混同が起きるのだ。
きっちりわける必要がある。
一般に、スピリチュアルヒーリングといわれたり、意識や思いや祈りで現象が変化するといわれたりする世界は、心理学でも、もう少ししたら科学的、あるいは少なくとも現象学的にきっちり記述が可能な世界だ。
本質的なスピリチュアルな世界は、それを越えたところにあって、そこはわれわれがタッチすることのできない彼方にあるのだ。
たまたま運良く、そこに一致することができる人もたまにいるらしい。
それは運良くなのだ。
あなたの精進の賜物ではない。
まったくの恩寵の世界である。
自分を責めたり人をうらやんだりっていうのは非常に人間的な反応だけど、エネルギーと時間の無駄だ。意味がないだけでなく、病気になったり人間関係を壊したりと悪影響がある。
お金払って学校にいったらスピリチュアルになるというのは、ちょっと違うといいたい。
エネルギーや意識レベルの医学は可能になるだろう。
しかし、本質的なスピリチュアルな世界は、それを越えた彼方にあって、働きかけるなんていう人間のちっぽけな驕りは消し飛んでしまうスケールの永遠なのだ。
その勘違いと傲慢さに、私は我慢がならない。
低次元の人間的な意識やエネルギーには善なるものだけではなく、不透明でわけのわからないものが混在している。
それをありがたがったり、恐れたり、操作しようとしたりするのは、決して本質的なスピリチュアルなことではない。
しかし、世の中で認識されているスピリチュアリティがほとんどこのレベルであることは間違いない、残念だけれど。
私がこの世は光と愛に満ちているというのは、現象をさしているのではない。
その本質を言ってるに過ぎないのだ。
今まで、そこをはっきり言わなかったからものすごい勘違いをされているということに気がついた。
あまり言うと、ジャア、やっぱり、この世は苦しみで、どうすることもできないのですねって、厭世的な突込みがきそうだけど、そうではない。
そうではないのだ。
同時に、光と愛に満ちている香しく美しい世界なのだ。
このあたりの説明はまた後日考える。
いろいろな困難や苦難が重くのしかかるときがある。
一体自分の人生ってなんなのだ。
苦悩の連続ではないか。
何の楽しみもない。
疲れた。
誰でもこういう境地になったことがあるだろう。
そこで少し浸って、自分をあわれんで泣いてもいいし、運命の過酷さを嘆いてもいい。
そうしているうちに、でも、気がつくことがある。
ああ、でも、まだ呼吸できてる。
たとえばテストの成績が悪かったとする。
ああ、だめだ・・・でも、これで単位が落ちるってことはまだないんだ、大丈夫!
単位をおとしたとする。
ああ、だめだ・・・でも、これで卒業できないってことはないんだ。大丈夫!
卒業できなかったとする。
ああ、だめだ・・・でも、学校に行けてたりする。大丈夫!
学校にいいけなくなったとする。
ああ、だめだ・・・でも、ご飯食べられるし寝られる。大丈夫!
ご飯も食べられず寝られなくなったとする。
ああ、だめだ・・・でも、まだ寝るとこもある。大丈夫!
寝るとこもなくなったとする。
ああ、だめだ・・・でも、まだ歩けるし目も見える。大丈夫!
歩けなくなったり目も見えなくなったりする。
ああ、だめだ・・・でも、お花の香しい香りが、優しい友人の声がする。大丈夫!
意識がなくなろうとする。
ああ、もうだめだ・・・なにも考えられない・・・
そこにあるのは存在そのものの、言葉に尽くせない喜び。
人生のあらゆる段階で、必ず喜びの種がそこかしこにばら撒かれている。
それに気がつくかどうかはあなたしだい。
みんなのんびり笑って暮らしたいと思ってるらしいけど、そのわりに、自分で自分を追い詰めてるように見える人がたくさんいるように思えてならない。自分だけならいいけど、それがどこかでいい人生だとおもってるのか、他人まで追い詰めてる人も結構いる。
体力、精神力の限界までチャレンジしていくのは、確かに自分の有用性を感じたり達成感もあったりして一種の快感なんだと思う。そうでなければこんなにたくさんの人がぎりぎりまで追い詰めるわけがない。人によってはそれで命を落とすことだってありえる。合理的に考えたら、まったくばかげたことである。
それなのに何を求めて追い詰めていくのだろうか?
限界の果てに何があると言うのだろうか?
無意識的に、そこにある目に見えない光をつかもうとしているのではないだろうか。
限界を超えるような状況の中では、生理学的に言うと非常事態に備えるために、脳内麻薬と呼ばれるエンドルフィンなどの快感物質が放出される。その快感はきっと、光につつまれた、無限の可能性を体現しているような感覚に違いない。すなわち自分の限界を突破し、時空を超えるのだ。
これを知っているからだろう。
一見苦しいと思われるような限界にチャレンジしていく人たち、よくやるねえって思うけど。
ただ、やりっすぎだけにはご注意。
命を落としたら、その醍醐味ももう味わえなくなるってことだから。
人間ってほんとふしぎだ。
きついことをやろうとするんだもの。
でも、それは強烈な快感だからに違いない。
現実的、物理的世界では、もちろん目に見える事柄がいろいろなことを決定している。
あたかもそれだけかのように思える。
心の中の出来事も、意識していることは、行動主義者のように目に見えるものとして扱ってもいいかもしれない。
行動や言葉として外に現れるからだ。
見えないものはオカルトと言われる。
オカルトの語源は、隠されたものとらしく、暗在系という言葉にも対応する。
ここでは理論物理学や神秘学ではなく、心理学の立場で見えないものの話を進めよう。
心理学で見えないものをあつかうのに一番都合がいい概念は、無意識とか深層心理というものだろう。
これは意識との境ははっきりしてなくてスペクトラムのようだ。
深層の、無意識の、奥の奥のほうに、ずっと根源的なところには、光があると仮定しよう。
科学的に仮説としてとらえてみよう。
あの世の話や前世がどうのこうのという話ではない。
いまここで、意識的に生きているあなたの無意識の話だ。
根源的で本質的なものが光と愛であったとしたら、そしてそれは残念ながら隠されている真実だったとしたら。
いまここで目に見える世界で起きていることは影、幻想、夢に過ぎない、と仮定したらどうだろう。
現実的に何が起こっても、平安で幸せな暖かい気持ちが湧き上がってくるのではないだろうか。
少なくとも、理論的にはそのはずだ。
だとしたら、この仮説は有用であると判断できないだろうか。
精神的健康に貢献することは確かだ。
この世が光に満ち満ちているという主張が、あまりにも宗教的なひとつの立場を強調しすぎると思われる人は、科学的に仮説としてとらえてみて欲しい。
有限な人間に真実をとらえることはできず、真実だと思われていることも、そのとき、その場でうまく説明がつくという仮説に過ぎないのだ。
すべてが仮説であると言う前提では、どちらが正しいかどちらが物事をうまく説明できるかと争うより、どちらが幸せになるか健康になるかと言う基準で採用したほうが賢明だと思わないだろうか。
こういう立場は、功利主義とかプラグマティズムと呼ばれるらしいけど、死後に救いを求めるより健全なのは確かだ。
スピリチュアルであるとは、この目に見えない光を見つめていくことだと思う。
(オーラとか守護霊うんぬんではないです)
先日のセミナーで、「この世は闇か光か」と言うテーマで別れてディベートをしてみた。
どっちが勝ったかと言うと・・・ビミョーに闇派が優勢だったかな。
闇と言われるのが嫌で、二度生まれと呼んでくれといわれ、途中から、ウイリアム・ジェームズの一度生まれ派・二度生まれ派と呼びはじめてから議論が混乱してきた。
単純に言うと、一度生まれは、はじめから神の愛の中で喜びに満たされているタイプで、二度生まれは、苦悩を通じて絶望から死にいたり、再び生まれて救いの光を見るタイプだ。
混乱してきた理由は、闇派(二度生まれ)が、本質は光なんだけど・・・とか、子どもによってはゆがみや闇を知らない人もいるみたいだけど・・・みたいに、光派の意見を部分的に主張して突っ込まれないようにしてたせいだ。
この議論は本当に難しい。
どこが違うのかクリアカットに理解するにはまずジェームズの本を読んで欲しいけど。
このディベートで欠けていた視点がある。
それは生理学的な見解だ。
認知科学では、人間は見たもの聞いたもの、知覚したものによって世界を構成していくとされている。そして解釈や説明をつけていくんだけど、その認知の枠組みは外界に影響されているのだ。つまり、良いものポジティブなものをみたり聞いたりしていると、そのような回路が優勢になって何を見てもポジティブな側面が目に付くようになるし、その反対の法則も成り立つと言うことだ。
現実の闇から目をそらすなと言う主張は、闇を見つめろと言うことでもある。
生理的に言えば、闇を見つめると世界が闇に見えてくると言うことでもある。
これはある意味不健康なことである。
つまりネガティブ思考回路が活性化されることを意味するからだ。
そうなると、喜び、感謝というよりも、不安、恐怖、不信などがおきてくる。
この世は闇か光か、現実的、科学的、客観的に判断すれば闇かもしれない。
しかしその闇の中に光を見つけ、可能性を見出し、希望と愛と喜びの種をまいていくことこそが人間にしかできないスピリチュアルな資質だと思う。
そしてそのためには、光を見つめていくことが有効であることが生理学的にも明らかになっていることはおぼえておいたほうがよいと思う。
欠点を指摘するより、美しいお手本を示し、それを繰り返し見せていくことのほうがあらゆるスポーツ、芸術などの技術向上に貢献すると言う実証データの蓄積も無視できない。
と言う話をする時間はなかったんだけど、一番補足したかったことである。
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