
結局のところ、人が人を助けることなんてできない・・・
どうすることもできない。
そのとき祈りしかないことに気がつく。
祈りとは何か。
お願いです!愛する人を助けてください!!そのためだったら何でもします!
こういう願い事が祈りだと思う人が多いみたいだけど、実は違う。
祈りとは、願うことではなく、感謝することでしかない。
つまり、どのような状況にあったとしても、それが必要なプロセスであり意味があることに対する感謝だ。感謝は強制されることではなく無理やりすることでもない。
どんなことの中にも含まれる良いことを見つけていこうとする意志の働きだ。
これが癖になると、生活そのものが祈りになってくる。
存在の根源に対する畏敬と感謝に圧倒されるような思いを感じるとき、細胞の一つ一つが「ありがとう」と叫びだす。
それが祈りである。
癖というか習慣は、思考や行動をパターンにして自動的に操作するから省エネになる、つまりストレスが少ない。
なぜこんなにも多くの人が悩んだり苦しんだりしているのか、理由がわかった。ただ、癖になってるだけなんだ。それをやめたら解放された心地よい世界が広がっているのに、知らないから歩みだそうとしないだけだ。
どんなにいいことでも変化はストレスになる。
だからDV被害者を救出しても自分から悲惨な状況に戻ったり、奴隷が解放された後、もとの主人のところに戻ったりするわけだ。
生理的にも説明できる。
脳の神経伝達回路が、不快系であっても快感系であっても、たくさん通過する道はならされて通りやすくなり、軸策が太くなるらしい。不幸に慣れてる人は、いいことがあっても打ち消すし幸福に慣れてる人は、悪いことでもよく解釈する。
人間には意志がある。
幸福になることを選択することはできる。
最新の研究では、幸福感は、他者のためになることで培われることが最も大きいという結果が報告されているし、幸福な人は他者の幸せに奉仕することでますます快感をましていく。
幸福になるのは自己中心的なことではない。自己中心的な思いや快感が他者の犠牲や不幸の上に成り立っているというのは、物質レベルにしか意識がいかないときにおこりがちな発想だ。
物質には限りがあって、私がもらったらあなたの取り分はそれだけ減る。だけど、愛もスピリチュアリティも幸せも、この物理法則にだけは従わないのだ。与えれば与えるほどますます与えられるというこの面白い法則は体験して実感するしかない。
意志のある人間は自分から幸福を選択していくことはできる。
つまり、他者への奉仕の喜びを選択していくことはできる。
きついのは癖になっていないはじめだけ。
慣れてしまったら、こんなに面白いことはない。
こんなに楽しいゲームもない。
こんなに自分の価値を満喫できることもない。
虚無感やうつ状態は、これを知らないだけ、経験していないだけ、癖になっていないだけ。
結局のところ、われわれはみな、同じ夢を見ているに過ぎない。
ただ、立っている位置、姿勢、かけてるめがねなどが違うだけだ。
物理学者も詩人も同じことを違う言葉で説明しているだけに過ぎない。
私の論文とダンスの間に飛躍があると言われるけど、私の中ではまったく同じことだ。
異次元空間に行ったように思える体験であっても、いつもと少し違った見え方だということで、取り立てていうほどのことは何もない。
その美しさと輝かしさに圧倒されても、驚いたり興奮したりすることはない。
結局のところ、そのびっくりするようなより大きな宇宙の中に「この世」とか、現実とか言うものがはめ込まれているだけなのだから。
現実を超えた世界は、発見されるものではなくすでに存在しているものなのだから。
あの世ではなく、まさにいまここにその輝かしさが、光が満ち満ちているのだから。
それは信じることではない。
すでにあることなのだから。
科学的に証明することでもない。
われわれの存在そのものの大前提なのだから。
カテゴリーエラーだなんてつまんない言い訳はやめよう。
論争は、時間とエネルギーの無駄づかいだ。
ここに存在している限られたほんのわずかな時空の中で、何をしようとしているのか?
われわれはみな、今すぐにでも葬り去られてしまうかも知れない、はかない命であることを忘れていないだろうか?
この一瞬の貴重さを本当に知ってしまったら、感動で呼吸が止まるようなめまいに襲われる。
その瞬間にあなたは時空を越えているのだ。
今、ここに生かされているこの世界の美しさを味わい、楽しみ、至福に浸って感謝しよう。
物理学者も詩人も同じ夢を語っている。
The most beautiful thing we can experience is the mysterious.
It is the source of all true art and science.
アルバート・アインシュタイン
"To see a world in a grain of sand
And a heaven in a wild flower,
Hold infinity in the palm of your hand
And eternity in an hour."
ウィリアム・ブレイク
あははは
世界一長いこの単語の意味知ってる?
まじめなことばっかり書いてたら、いきなり突然遊びたくなったのよ。
スピの本質は遊びだぞ~~ってケタケタ笑いながら叫びたくなる気持ち、わかる?
笑って免疫上げてお元気で!
昨日はイースターだった。
不真面目クリスチャンの私も久しぶりに教会に行ってみた。
この日は伝統的に、日の出とともにお祝いの式があって、みなで朝ごはんを一緒に食べるのだ。
イースターカラーのパステルでデコレーションされたダイニングで、米国アウトレットで購入してきたらしいイースターエッグほか懐かしい食べ物が一杯並んでいた。
そして伝統的に洗礼式も行われる。
洗礼を受ける人たちはその思いをみなの前でスピーチするのも慣わしだ。
今年は10人もの老若男女人が受洗を受けた。
ニコニコしていつも明るい人たちの、壮絶な人生ドラマを聞くことが多い。
表面的にお付き合いしているだけでは何もわからない。
何も言わないでもくもくと嬉しそうに奉仕して、他人にことばかり気にかけている人たち一人一人に、このような経験があったのだとは。
聞くまでは、自分みたいに大変な思いをしている人はそうはいないとか、誰にもこんな特別な大変さを理解してもらえないだろうと錯覚していた。
実際、私自身も苦労知らずですべて順調に来ているラッキーな人だと思われがちだけど。
プライベートなことはみな言わないんだ。
でも、どんなに幸福そうに見える人たちも、いやもしかしたら幸福そうに見える人こそ、そうでない体験を嫌というほど知っているのかもしれない。そうでない体験を聞くたびに、自分の経験が重なって心の痛みが伝わってくる。
淡々と語る男性も、ステージの上で泣き出してしまう中学生も、みんなそれぞれに死ぬような経験をしてきたのだった。
洗礼式では、たいていの宗派が全身水につかって象徴的に死を体験する。
古い自分に死ぬのだ。
迷い戸惑い、希望がないと絶望したりのろったりする自分に死んで、一切すべての罪を捨て去って蘇るのだ。光と愛を確信して歩んでいくという公的な宣言が洗礼式だ。
(キリスト教で言う罪とは、神の救いを信じない、つまり絶望することであって、いわゆる日常的につかう罪概念とは違う。)
もちろん洗礼を受けたからって急に強くなるとか守られるとか言うわけではない。
ただ、決心なのだ。
さまざまな出来事はこれからも起こる。
むしろもっと頻繁に起こるようになるかもしれない。
もっと敏感に痛みを感じるようになるかもしれない。
それでも希望を捨てないで光を見つめていくという決心の表明なのだ。
この静かな喜びは、ゴスペルのアメイジンググレイスに高らかに歌われている。
驚くべき恩寵!
なんと甘美なことか。
私のようなどうしようもないものにまで・・・
私はかつて、人生を失っていた。
目が見えなかったのだ。
そしていまや発見したのだ。
恩寵が、見えるようになったのだ!
Amazing Grace! How sweet the sound
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now I'm found,
Was blind, but now I see.
'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear,
The hour I first believed!
Through many dangers, toils and snares,
I have already come;
'Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home.
The Lord has promised good to me,
His word my hope secures;
He will my Shield and Portion be,
As long as life endures.
Yes, when this flesh and heart shall fail,
And mortal life shall cease;
I shall possess, within the veil,
A life of joy and peace.
The earth shall soon dissolve like snow,
The sun forbear to shine;
But God, Who called me here below,
Will be forever mine.
When we've been there ten thousand years,
Bright shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.
喜びと平安の中を歩んでいくのだ。
スピリチュアリティにまつわるいろいろな言説がある。
文化によってとらえられ方が違っている。
使う人の専門分野で、まったく別のことを意味してたりもする。
宗教だと思う人もいれば神秘主義オカルトだと思う人もいる。
見えないものだとか言葉で説明できないものだとかいう人もいる。
ある人は人生の意味・目的・生きがいだといい、ある人は究極の関心だといい、ある人は大いなるものとの関係だといい、ある人は愛だという。
言葉で説明するときには限定がかかる。
だから音楽や踊りなどの芸術で表現しようとする人たちがいる。
それでも、具体的なものが付与されるから、受け手の感受性によってさまざまに解釈されてしまう。
そうすると、こうだ、ああだという議論がはじまる。
本質は、そのような具体性を取り去ったところにある光でありエネルギーであり情報であり、すべてであってしかもとらえることはできないものだろう。
とすると、一番ぴったりする表現法は、数字の0であり、同時に∞(無限)であるということに気がついた。とするとスピリチュアリティが何か数学的な法則で説明できるかもしれない。
ただし、これでは実証科学にならないなあ・・・。
科学的仮説は検証されなければならず、そのためには具体的な話が必要となってくる。
生きがいを感じている人はハッピーだとか、意味を感じてる人は死ぬのが怖くないとか。
ああ、でもこういうのはみんな心理学的に、認知とか、情動とかメンタルヘルスで説明できることとどこが違うのだ?
科学的理論は結局、そうではない、ということをどんどんクリティカルにつめていくプロセスにしかならない。目に見える測定できる表面をなでることしかできない。
結局のところ、科学とはそういうものにすぎない。
スピリチュアリティを科学するとはなんと無謀で乱暴なことに挑んでしまったのか。
でも、これは確かに、私の究極の関心であり、無条件の愛(報われることがないとわかっていてもひたすら信じ、関心を持ち、接近し続ける。笑)なのだ。
少しひんやりした空気の中、桜の下を走って家に帰ってきたら、ご飯がいい匂いでたけていた。
なんとなくその匂いは懐かしくて、幸せだな~という気持ちに満たされた。
うちの朝ごはんは和食ではないことのほうが多いんだけど、お弁当のためにご飯を炊く。
炊き立てご飯の幸せな匂いって、日本人でないと感じないんだろうな・・・とふと思った。
欧米人だったら、焼き立てパンの匂いなのかな。
あるいは薫り高いコーヒーかな。
パンケーキだったり、おかゆだったり、そのおうちの定番朝ごはんがあると思う。
ばたばたシャワーしたり準備したりしながら漂っている、幸せな匂いというものがあると思う。
お味噌汁やお漬物の匂いでほっとする人もいる。
納豆の匂いは日本人でも好き嫌いが分かれる。
キムチの匂いでよし!今日もやるぞって元気の出る人もいるだろう。
長年の経験から染み付いた好みは、瞬間的に感覚をとらえて感情が呼び起こされる。
実はこれが、その人のスピリチュアリティ体験にかかわっているということに気がついた。
輝かしい日の出を見ながら、この光がまぶしくて嫌だという人のことを考えた。
その人は暗いところが居心地がいいみたいだ。
これまでの経験からの理屈ではないしっくり感なのだろうと思った。
それぞれのスピリチュアリティ。
私は日本人でありながら、日本的スピリチュアリティがどうしてもピンと来ないという悩みをずっと持ち続けている。頭で理解しようと努力するけど感覚的にまったく共感できないのだ。
これはきっと、小さいときからの体験にかかわっているのだろうと納得している。
生まれた時からベットとイスの生活で、小さいころの食事風景は、ちゃぶ台ではなくハイチェアーだったという風景や、宗教や迷信嫌いで合理的な父親の影響で?うちにはお線香だとかお漬物だとかいう匂いがまったくなかったのだ。
中学の理科の時間に、条件反射の説明として、梅干を見ると唾液が出るでしょといわれて、一度も食べたことがなかったからわからなかったという私だ。レモンだったらわかる。
こんな風だから、多くの人が懐かしいとかほっとするという風景や光景、匂いに私は共感できずにたたずんでいる。
朝日を拝んだり、桜をめでたりという自然は共感するけど、神社とか儀式とかカルチャー的な部分でなじまないのだ。
それを外国人のように、ヒンズーの儀式を眺めるように観察してる自分がいる。
感動することもあるけど、それは外国人としての観察だ。
でもなぜか、ネガティブな感覚があって、避けてきたということに気がついた。
この気持ちはどこから来ているのだろう?
非合理的なものに対する警戒だろうか?
少しつき合っていきながら、ぼちぼち日本人のスピリチュアリティを考えていきたいと思っている。
ネットを使わない人がひとりでもいると、連絡の労力や手間が何倍にもなる。
資料の確認ほか文書でのやり取りが、実際の紙で行われると、書類が瞬く間に山になる。
いくつもの山の中から必要な情報を探し出すのは至難の業だ。
電子媒体なら瞬間でできることに、何秒も時には何分もかかる。
紙媒体の整理だけで何日もかかってたりして・・・
今まで、できるだけ紙は使わない主義できた。
論文だって本だって極力紙は使わないで、メモリーだけだと危ないからウエブ上で保存している。
紙の資料の多さといったら・・・
置くとこないよ・・・
環境守りたかったら、全部ネットにしようよ・・・
メールでは要件だけにして欲しい。
挨拶とかいいわけご機嫌伺いは全部削除して欲しい。
と思っていたんだけど・・・
このわずらわしい手作業の、ほっこりおっとりゆったりしたいかにも人間的な、顔を見たやり取りはすごく新鮮で。
今まで自分が忙しすぎて心を失って機械になりきっていたことをつくづく思いしらされた。
当たり前のことなんだけど、能率よく仕事ができるからいいって、そんな単純じゃないですね。
青空にはえる満開の桜を見上げながら思った。
めまぐるしくすぎていくこの世の時間の中で、どれだけ人と深く暖かく交わって生きていけるか、これこそが人生の醍醐味である。
現実的には書類の山にアップアップしてしまうのだけれど。
期限どおりに仕事ができて緊張しっぱなしでいらつくのと、仕事が遅れがちでも穏やかでにっこりしているのとどっちがいいのか、人生のおわりにふりかえたらきっと、遅れてもにっこりになるに違いない。
恐いのは、一旦ビジネスラインにのってしまったら、それが見えなくなる。
ひたすら仕事をこなすだけの人生しかなくなっていくんだ。
赤ちゃんだって、すばらしい離乳食じゃなくて、できあいのものでも、抱っこされてゆったりしていたいらしい。子どもだって塾に行くより、ママと一緒に家事手伝いしてるほうが大切なことをたくさん学ぶかもしれない。
難しいけど、仕事も期限どおりにきっちりと、しかもにっこりゆったりやっていこう。
そうしたいですね。
といいつつ、ブログを書くばっかりで、実際にはあまり外に出ないし、人に会わない私をお許しください。
シャイなんです・・・
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