
P53遺伝子は,休息せよと働きかける生理的指令である。
細胞の修復は休息しているときにのみ行われる。
がんは遺伝子病であることが知られてきた。
正常細胞は一定の休息を繰り返しながら分裂を繰り返し成長していくのに対し、がん細胞は休息なしで増殖する。
P53遺伝子は休みを知らないがん細胞を休息させようと働きかけ,修復不可能な細胞には自殺をうながすらしい。
わがままに休息しないで動き回り、指令を無視し続けると、P53遺伝子は存在意義を失って(生き甲斐の喪失)不活性化する。がん細胞は増殖し続けやがて全身をおかすようになる。
からだが疲れた、心が疲れた、少し休みたいな・・・。
休息命令に素直に従うと、病気から回復するだけでなく、一番単純で効果的なアンチ,あるいはサクセスフルエイジングになる。
睡眠不足、働き過ぎ,遊び過ぎで酷使したあとで、サプリメントだ何だかんだと人工的にドラッグを使って活性化しようとするのはあまりにもわがままではあないだろうか。
ただ休息することだけで、どれだけの恩恵があることか。
むさぼりの罪という概念は、遊び過ぎ、仕事し過ぎだけではなく、奉仕活動し過ぎにだって当てはまる。
なぜか?
自分を酷使して病気になってしまったら、結局他人に負担をかけることになるじゃない。
人の世話する前に自分自身を優しくあ使わないと,おかしな話だわ。
日曜日万歳!!
夏休み万歳!!
病気や事故や問題の多くは,ただ休憩するという単純な対処で解決すると思われる。
動き回って悪化させてるのは,とことん愚かな話だ。
1時間の幸せのためには おひるねしよう!
1日の幸せのためには 遊びに出かけよう!
1か月の幸せのためには 結婚しよう!
1年の幸せのためには 金儲けしよう!
一生の幸せのためには 人助けをしよう!
中国の言い伝えだそうで。
ポジティブ心理学で追及する幸せは一生ものの幸せです。
注:研究データによれば、結婚してうれしいのは平均2年までだそうです。
それ以降は、平均すると結婚前より幸せ度は下がるそうです。
考えちゃうな・・・
やっぱり人助けですかね・・・
確かに楽しいわ、それ。
喜ぶのはまだ早い,とよく言われるけど,私はその反対に、悲しむのはまだ早いと言いたい。
喜びも悲しみも感情としては普通同じくらいの割合でおきるのだと思う。
フレデリクソンは,その割合を3対1にしたとき,一番物事がうまく行くからポジティビティを増やすようにと提唱してる。
私は悲しみが少ない人ではないと思う。
人と比べられないけど,平均よりはずっと多いと思うし深いと思う。
でも,喜びは人と比べられないくらいにもっとスーパーに多く深いと思う。
悲しくても喜ぶことは同時にできる。
どちらにフォーカスするかは自分の選択。
振り向くだけって私がよく言うのは,そういうこと。
放っておくとたいていの人はネガティブに偏るみたいだ。
だからポジティブを重視するんだけど,それは何もネガティビティを捨てろってことじゃない。
捨てたり切り離したりすればするほどネガティビティにコントロールされてしまうんだ。
あっそっか、ってながめてたらいいだけ。
戦わなくていいんだよ。
通り過ぎていくのをみてるだけで。
そうしたらきっと、圧倒するくらいの感謝や希望が自然にわき上がってくるよ。
だって、もともとそうなんだから。
戦うのではなく,手放すこと。
軽やかに風に舞っていたらいいだけ。
いってらっしゃい。
ある方がポジティビティは方向性の問題だから、臨床心理学者はみんなポジティブなんだと言った。
ま,そうとも言える。でも,どこにフォーカスするかで少し違うかもと思った。
解決指向なアプローチは確かにそういえると思うけど。
私はポジティビティは視点の問題だと思う。
あちらから見るんだ。
今日の出来事とか環境とか社会とか,もっと言ったら感情とか健康とかだって無関係なんだ。
こっちから見たら世界は悲惨だ。
スピリチュアリティってわたしはこの、メタ・ポジティビティであるという立場を取る。
それは実存とか意味なんて難しいことじゃない。
要するに,遊びよ,お笑いよ,すっとぼけよ,ユーモアよ。
難しく言うと,脱同一化disidentificationよ。
つまりこの世は夢だってこと,劇だと言ってもいい。
その視点。
メタ・ポジティビティは,ネガティビティと対ではない。
ポジティブ感情なんて言うときのポジティビティとネガティビティの両方を含んだメタレベルのポジティビティなんだ。
そしてこれこそが人間の本質であるというのが私の立場。
そしてこれを実証しようというのが私の野心。
そう,不可能に挑戦することこそが面白い。
不可能?
そう不可能なことなのだ。
可能性はいくらかあるかなと,それを探るだけの話。
スピリチュアルになることを病的に恐れ、日常生活に支障をきたすレベルになるとこう呼ばれても仕方がないだろう。
ただしこの言葉は私の思いつきの造語なのであしからず。
このフォビアには根拠があるから、非合理的に恐れる高所恐怖や不潔恐怖症などの、いわゆる精神科的な診断によるフォビアとは違う。
スピリチュアルになる恐れというのは、実際に生きていけなくなる、生きていきたくなくなる、生きる意欲がなくなるという意味で、こちらの世界からモノを言うと大きな問題だろう。
そしてこれはおそれだけではなく、ほおっておくとそうなってしまうのだ。
これはどう考えても、こちらの世界に視点を置いてたら、まずい。
こちらの世界に視点をおいてたらまずいという言い方自体、すでにあちらの世界からの視点をこちらの世界と同等に扱っている立場になっている。
こちらの世界しか大切だと思っていない人や、こちらの世界があってこそ、と考えてる立場からすると、危ない、やばいという発想になるだろう。
多数決でいうと、こちらの世界しか見てない人のほうが圧倒的に多い。
あちらに視点をおくモノの言い方自体が神秘家の世界であって学術的世界にはなじまない。ただ,その視点を記述するという意味ではメタレベルから記述している訳であちらからダイレクトに発言している訳ではない,という意味で、視点のことわりをしつつ、あちらからの眺めをここに書いてもいいかと判断している。
こちらからあちらの世界を垣間見たいと努力や修行しているがどれだけ多いか。
あちらの光を垣間見て、生きる意味を見出し、至福の中で内的な平安を保っていい人生を送ることは素晴らしいと思う。
美しいと思う。
あるべき姿だと思う。
だけど、あちらの視点から発言すると、今ここでしている努力や人生、自分が経験していることや自分の存在そのものだって、何もない。
何もないんだ。
あるように錯覚しているだけなんだ。
それがどうしたって感じ。
そうなると、人間的な意味でここに生きている意味なんて何も感じられなくなる。
そこでフランクルのいう超意味が出てくるのかもしれない。
これはなかなかわかってもらえない,誤解を生むようだけれど、
意味がないからといって、虚無的に人生をはかなんでいるというのとは全く違うのだ。
むしろ正反対だったりする。
光に包まれて美しすぎるんだ。
あまりにも、美しすぎるんだ。
だから、極致を越えて何もなくなるんだ。
この甘美な世界を知ると、ここにあることのすべてが色あせてくる。
だから、まずいと思うのだ。
まずい、非常にまずい。
ここに存在していることの意味と責任が面倒になってくるのだ。
この世界に存在しているという
まさにそれだけの、単純な、しかしものすごく重い責任が。
この世的に平たくいうと,それは死にたいということになる。
それは絶対にまずいと,この世の視点から叫ぶ。
病的に恐れて時にパニックになって、攻撃的になる。
スピリチュアリティなんか大嫌いだと言い放ち、遠ざけて決して近寄らないようにする。
まさしくフォビア的対処法だ。
スピリチュアルなものを遠ざけつつ、困ったことには、世俗的なものからも遠ざかる。
それは本質的になじまないからだ。
この世での生き残りをかけて、自虐的に、過ぎ去るものを他人のまねをして求めてみては、疲れ果てて故郷を見上げる。
生々しいもの、社会・組織・経済・人間関係・もっというと、命そのものまでが違和感を持つなかで存在する居心地の悪さといったら。
このような心的態度は、精神障害とカテゴライズすることも可能だろう。
何しろ、こちらの世界的には適応、この世に対する適応が精神的健康の診断基準になっているのだから。
ここまでは大丈夫だろうというすれすれの経験をしながら記述していくことが、何かしらにたような経験を持つ人の役に立てばいいと思って書いている。
この現象をロゴスにおとしめることによって、着地していくこと。
私がアカデミズムに身を置いているのはそのような意味があるに違いない。
これは、感謝すべき、上からの配慮なのだと思う。
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