
癒すとか癒されるとか。
カウンセリングとか援助の仕事をしていたら調子が悪い人にエネルギー取られてくたくたになるとか、身体を壊す人もいる。
本当の癒しがあるとき、癒してるのか癒されてるのかわからなくなる。
つまり、相手も自分もめちゃくちゃ元気になってしまうんだ。
これは自分が癒しているのではないと言う証拠になるだろう。
自分がやっていたら、疲れるに決まっている。
自分がやっているのではないときには自分は全く疲れない。
むしろ元気になってしまう。
これがスピリチュアルヒーリングの法則じゃないかな。
しかしこの世は物理的法則も働いていると言うことも、どうぞお忘れなく。
ゆっくりおやすみなさいませ。
今朝、いつものように夜明け前に西に車を走らせていたら、ビルと車の隙間からいきなり、ものすごく大きな月がしかもまんまるでオレンジ色のが現れた。
しっかりと見つめられて圧倒されてしまった。
思わず「神様・・・」と一人つぶやいて視界が涙で曇ってしまった。
止まって愛でたいような気持ちを抑えて、涙を拭きながら運転を続けていた。
白んでいた東の空が赤くなってきた。
空は私の大好きなエンジェル色だ。
グレーと淡いブルーと少し暗いばら色からグレーがかったオレンジ色までさまざまな表情を見せてくれる。
世界中の誰にでも、このように自然はいつも最高の芸術を見せてくれている。
どんなときにもだ。
ありがとう
ありがとう
いろいろなところから、愛のうねりが届いてくる。
電話だったりメールだったり眼差しだったり新聞記事だったり、言葉にならない言葉だったり、思いだったり。
意識は全部キャッチしてるよありがとう!
自分の体験を通した深い理解と言葉・行動は、ありふれた同じことでも、受取手の同じような深さで魂のそこまで響いてくる。
元気でね、がんばってね、ありがとう、だいじょうぶだよ・・・
なんて言う何気ない一言に含まれる思いの深さ。
それはミントティーのようなさわやかでクールな熱さをもって魂の底に注がれる。
共感による寄り添いは確かに暖かい。
でも、それをも遥か下に見下ろす眼差しは、一陣の風のように、しかも風圧を感じさせないで知らないうちによどんだ想いを洗い流してしまう。
いや、流してどこかにやってしまうのではない。
ウスバアオイのお茶にレモンを入れたらさっと色が変わるように、一瞬のうちに化学変化が起きるのだ。
痛みから引き起こされる恐れ/心配/とまどい/不安などが、安心/確信/希望などの色に染まるのだ。
この熱い思いとすっきり感。
これがいろいろなところから運動として盛り上がりが伝わってくる。
確実に光を増している。
ありがとう
ありがとう
インテグラルポジティビティを提唱し
すべてを感謝していこう!
この世は光と愛に満ちていて
喜びに圧倒されています!と
軽やかに空を舞っているはずの私は
同時に
存在の底なしの深みと重さに耐え切れずに
どこまでも沈潜していくのだ
どうしたことなんだ
ああ
だからこそ
ポジティビティなんだ
ポジティビティはネガティビティに反転する性質を持つんだ、本質的に
でも
だからこそまた
ポジティビティに反転するのも事実なんだ
際限なく
深く広く
反転を繰り返しながらその真髄に近づいていくかと思えば
同時にカオスのうずに投げ込まれてしまう
説明も記述も拒絶してしまう時空を超えた彼方で
できることはただ
そのことに気がついているということ
それだけ
肩甲骨のことを英語では天使の羽というみたいです。
肩甲骨の周りの筋肉や筋は肩や腕とつながっていて、ストレスがたまると痛むことがありますね。
私は夏に追突事故でむち打ち症になってからまだ回復してないのですが、先日あんまりきつかったから、宴会の席で、気功の達人に手当てしていただいたり、アレクサンダーテクニックの先生にその場で緩める方法を教えてもらったりしました。
故障がなければまったくそういうことに縁がない私ですから、そういう意味では事故も痛みも大変ありがたかったと思っています。
で、実際にやっていただいていろいろな気づきがありました。
何をしているかというと、物理的なことではなく、ただの意識の働きだけですね。
治れ、とか痛みがなくなれ、とか回復して、とかではなく、ただそこを意識するってだけのことで。
普段意識していない、自分の体の骨、組織、細胞までしっかり見つめてみる。
見つめたとたんに、面白いことに意識の中では骨がどんどん伸びていき、組織が広がっていく感じがするんですね。
いつか踊っていたときに、頭が宇宙の果てに、足は地球の中心まで伸びて行ったことがありましたが、あれが部分的におきているという感じでした。
そして面白いことに、肩甲骨からは小さくたたまれていた天使の羽がふんわり広がって
空のかなたまで飛んでいくイメージが広がります。同時に物理的身体もくつろいで緩やかに酸素がみなぎり老廃物や痛みが流れ去っていきます。このとき、微細な振動を体の中に感じることがあり、実際に調整するために動き出すこともあります。オステオパシーでしょうか。そしてうっとりと気持ちよくなっていきます。
全部、自分自身のなかにある自然治癒力の働きでしょう。
それがただ、そこにあることを意識するだけで起きてくるというのは面白いことです。病原菌をやっつけようなどという発想はまったく必要ないみたいです。むしろいとおしく抱きしめるだけでよいみたいです。敵ではなく、ありかを知らせてくれているだけの存在みたいですから。
天使も地上にいるといろいろな重荷を自然に担いでしまっているようですね。
肩甲骨を意識してみましょう。
小さくたたまれた干からびたようになっているあなたの羽が、少しづつ広がって羽ばたいていきますように。
注意:無理にしないでくださいね。
広がれなんて念じないでくださいね。
羽が破れちゃうかもしれませんから。
うっとりしてたらいいだけです。
ストレスから病気になったという話はよく耳にする。
もしそれが本当の話なら、反ストレス状態、つまり幸福なウェルビーイングな状態では病気が治るってことも成り立つはずだ。
ストレス障害はたくさん研究されているにもかかわらず、自然治癒に関しては科学的に解明できない不思議現象として科学の枠を超えていると言うのはおかしな話だ。
ストレス性の障害メカニズムがこれだけわかっているんだから、真逆をしたら治るっていう単純な発想になぜならないんだろう。
ただ、病気の状態をいくら研究しても、病気についてはわかるけど、健康についてはわからない。ここからがこれからのポジティブ医学の出番だ。
本当に健康な人問というモデルを見つけるのは至難の技だからなあ。
でも、いる。
いるし、そばにいるだけで影響を受けて元気にもなる。
確かに自分の意識のもち方を超えた何か、それこそスピリチュアルなものが介在している可能性はあるけど、なおる可能性は無限だ。
ストレスで病気になった、そうですか!
良かったですね、喜びあふれて安心したら治るんですから!
そんな気持ちになれないですって?
治ったとこを想像してみてください。
うれしいでしょう?
そしたら何をしますか?
誰と喜びますか?
感謝と喜びをどうやって表していきますか?
たぶんお掃除してお花なんか飾ったりしたくなるでしょうね。
美容院にいって新しい髪型にしてみますか?
したかったお稽古ごとを始めますか?
想像するだけで世界はあなたの味方になってくる。
想像して、そして実際にやってみたらもっとずっと効果が早いこともわかるだろう。
あるいは、たとえ病気が治らなくても感謝があふれる状態になったら、それ以上何を望みますか?
それこそがスピリチュアルヒーリング、つまりスピリチュアルなレベルでの癒し。
つまり、身体の病気が治る治らないは別のお話。
どんなに強い人でも、痛みの多い人生を歩んでいくと、ふとやめたくなってしまうときがあると思う。
もう放棄したいとか。
ゲームオーバーにしてもう一回やり直したいとか。
せめて永い眠りについて休憩したいとか。
私は自殺はよくないと思っているし反対したいけど、その気持ちの一部は少しわかるような気がした。どんな苦痛や苦しみでも自分から選択すると耐えられるものなんだ。自分の意志に関係なく翻弄され、突然死に襲われる恐怖と悔しさ名残惜しさってどんなものだろう。
神様はよくしてくれたもので、そういうときには苦痛は長引かない場合が多い。
人はみな、一人で死ぬ。
愛する人に手をとられ見守られて死ぬことができる人がどれだけいるだろう。
ラッキーな人だと思う。
でも、逝ってしまうのは自分だけだ。
孤独死を想像してみた。
愛する人を呼ぶ声も出ず、助けを求めて動くこともできず、一人苦痛の中で意識が遠ざかっていく。
このような瞬間は誰にだっていつだって起こりえるのだ。
そのときに、たった一人で誰にも知られずに逝くことのくやしさや無念さは想像を絶する。
だからこそ、覚えていてほしいことがある。
人間の持つ記憶力・想像力という偉大な能力だ。
いつ、どこでも、あの言葉、あの眼差し、あの手のぬくもりはあなたのものなのだ。
思い出して味わうだけでいい。
つらいときには痛みの奥でそっと気がついてほしい。
ほら、今、ここに私はいるよ。
天邪鬼は、ただ、ただ、自分の意志で生きていきたい!それだけの話なんだ。
それほど、意志に反して何かをされるのは苦痛なんだ。
でも、だからといって、自分で死を決めないでほしい。
全部自分で決めているつもりで、でも全部大きな流れの中で流れているだけなんだ。
それに気がついたらそのおきな流れにのったほうが楽だって見えてくるよ。
自分の意志をそっちにチューニングするだけでいいのよ。
いつだってどこだって一人だけど、独りかどうかを決めるのは自分の思いだけだから。
ほら、想像してごらん。
愛してるよ。
いつもずっと一緒だよ。
つらいときにそばにいるって当たり前じゃないか。
いつも祈っているよ。
大丈夫だよ。
独りじゃないよ。
お隣から、故郷から、
職場から、学校から、
ずっと離れた異国の地から、
過ぎ去ったあのころから、
遠い昔の思い出から、
生まれる前の願いから、
そしてあなたを待っている未来の恋人から、
宇宙の果てから、
あなたを包み込む柔らかな毛布のような愛があなたに届きますように・・・
どっかの文豪がどこかに書いてたな。
すべての悲劇は喜劇である、みたいなことを。
事件やニュースの当事者は笑う余裕はないと思う。
だからそういうことが起きてるんだろう。
笑いは、一歩遠くから眺めないと出てこないから。
笑うと、事象に同一化している人たちからは、親身になってくれないとか、わかってくれないと責められる。
共感をつきつめたら、人間には絶対にできっこないことがわかるから、それを求めたらつらくなるのは根本が間違っていると思うけど、寂しいものは寂しい、確かに。
でも.せっぱつまると無意識のうちに健康な人を闇(病み=真実が見えない状態)に引きずりおろそうと躍起になってくる。
これは困る。
闇がはびこり流行してしまう。
黒雲が空を覆っていくような感じで。
これを断ち切るには、笑いと言う剣が必要だ。
真面目になって戦ってはいけない。
それではますます闇が広がり、闇の勢力の思うつぼになってしまうからだ。
笑いの高貴な高度な機能は、これこそがスピリチュアルと言ってもいいくらいだと思う。
笑えない人、あなたは病んでる可能性あり。
特効薬は遊びです。
笑いの天才である子供たちと、鬼ごっこでもおしくらまんじゅうでもして、心から笑ってください。
注意:ここで言う笑いは、口元が歪んだ冷笑とは違います。
なぜか?
それは本来の姿だから。
お花は、太陽の光・水分を求めて大きくてきれいな花を咲かせようとする。
同じこと。
人間だって本来、自分のもっている能力をのびのび伸ばして生きるように生まれついてる。
太陽がないと育たないのはお花と同じ。
潤いがないとかれるのもお花と同じ。
狭い場所にいっぱいあるとうまく育たないのもお花と同じ。
お花と違うのは、自分で太陽の方を向くことができること。
水や日向を探して移動できること。
お花はいい環境にうつし替えたら、葉っぱがしゃきっとしてぐんぐんのびる。
喜んでありがとうの声が伝わってくる。
人は劣悪な環境から出ようとせず、嘆くだけでみんなでしおれる方を選んだりする。
同情も共感も受容も、そこにとどまって全滅したら意味がない。
わき上がってくる感謝と喜びに支えられて光の方を振り向かなければ。
それが私の言うインテグラルポジティビテイ、日本語にすると統合的肯定性。
冒険というのは、サバイバル能力のある人が念入りに計画したり情報収集したり準備をしてから挑むことだと思う、常識的には。
しかし、準備がなくて道具も情報も限られているときにこそ野生の血が騒ぎだす。
道がなくなるまで行けるとこまで行ってみよう!
という冒険を、とある山奥で、初日の出ツアーの帰りに昨日はやってしまった。
まず、道の舗装がなくなる。
砂利道や泥道になるんだ。
昔の道ってこうだったんだよねって、感慨深くなる。
轍が深く刻まれてて、車体の低いシルビアはおなかをこすりそうになって、ごめんねと言い続けながらゆっくりすすんだ。
轍があるってことは、でも、車が来てるてことだから行けないはずがない、とうのが私の根拠で、とにかくすすんだ。
でも今考えてみたら、もっと小回りのきく四輪駆動のオフロードタイプの車なのかもしれない。
このまますすんで行き止まりになったとき、一番怖かったのは、方向転換できなかったらどうしようと言うことだった。
私はバックはめちゃくちゃ下手なんだ。
こんな、ガードも何もない山道でちょっと油断したら谷底まで落ちてしまいそうな泥道でバックなんか、1メートルだって自信がないよ。
そういう道を、もう既に1キロくらいははいっていた。
念のため携帯がつながっているか確認してほっとしたけど、電池があと一本だよ・・・
急な段差があって、これは絶対車体を傷つけるなと言う地点でいったん止まってみた。
どうしようか・・・
ちょっと見に行ってくる、と相棒が、車を降りて前方に一人走り出していった。
陽気な音楽がiPodから流れてきているのが気分的になんか救われたけど、しばらくたっても戻ってこない。
急に不安になってくる。
もしかしたら、谷に堕ちたんじゃないか?
それとも、神隠しにあったんじゃないか?
意を決して車を前進させることにした。
合理的な根拠はあまりないんだけど、車を離れて歩き出すより心強かったからだ。
どちらにしても、ここでは狭くて車は引き返すことができないんだから。
しばらくすすんだら、道を横切って木が倒れていた。
まさか、この先まですすむって言うの、無理よね・・・
1分くらい考えたけど
でも、行くしかないじゃないか。
シルビアちゃんよ、がんばってくれ!
道の強度を降りて確認し、ドアを開けてタイヤの位置を確認しつつ、ゆっくりと谷の際を通って難関を通過した。
このとき、もう既に私の冒険心は満足以上になっていたんだけど。
でも、いくらいっても彼の姿が見えない。
まさかこんなに遠くまで来てることないだろうと思うけど、とにかくすすむよりほかないんだ。
何かあったらどうしよう。
これからだと言う年なのに。
でも、自分でやりたいことをやっていったんだからいいとするか。
なんて訳わからないことを考えながら、地上にいる私は、鳥でも虫でもいいから、何か、命がある生き物にあいたくなった。
遠くに彼が見えた。
車を止めて手を振った。
どうなってた?どこかにつながってた?Uターンできそうなとこあった?
谷に堕ちたかと思ったよ、もしかしたら神隠しにあったのかとも・・
と言ったら、
「堕ちる訳ないでしょ」
神隠しって言うのはあるのか、さすがに、私の血を引いてる彼だ。
ま,いいや、なんとかじゃ引き返さないとね。
どうしたら車をUターンできるか・・・
ぬかるみっぽい道の幅はなんとかあったから、何度か切り返したら行けるかな、とめどをつけて1センチ単位で何度も切り返して見たのはいいけど、後輪が泥にとられて空回りしてしまった。
ひ弱で何もできなさそうな彼が、杉の木を折って車輪の下にしいて車を降りて押すことにした。
さすがは男の子だ。
一回は何とか動いた。
しかしアクセル操作をちょっと間違えたら、間違いなく車か人が谷に堕ちる。
アドレナリン出すぎだ。
また後輪が、雪道と同じように空回りして滑りはじめた。
ギアを変えてみたり、そっと、あるいは急に踏んでは落とすなんていろいろやってみたけどだめだった。
もう私はいっぱいいっぱいになってしまった。
運転を交替してもらった。
そして自分の足下の泥の固さを確認しながら、タイヤの位置を身を屈めて車の下を覗き込み、あと何センチオッケー、ハイストップと言うことを何度繰り返したことだろう。
神経がこれ以上もたないくらい疲れた頃、車はまわれた。
帰ろうか・・・
晴れ晴れした疲労が心地よかった。
冒険っていいものでしょ?
彼は何も言わずに微笑んでいた。
そう、リスクがあるって、こんなに楽しいことなんだよ!
リスクをとらないで何もしないと、楽しいことも何もおこらないんだよ!
失敗や傷?
だからこそ楽しいんじゃないか!
いろんなイベントが今年も待ち受けているさ。
冒険にしてわくわく楽しむか、見ないふりして通り過ぎるかは君次第!
見ないふりしてても、あるものはあるからね。
来るものはやってくるのさ。
早めに勝負してた方が楽しいぜ!
新しい冒険の年のはじまりに、おめでとう!!
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