
今朝の月は冷たく凛としてました。
光臨が縦横にはっきり十字架になっているのに目が釘漬けになりました。
完全なる愛
そしてかなわぬ恋。
カクテルがのめない私は、ウスバアオイにレモングラスを入れた菫色のお茶であたたまりながら、今宵もひとり、あなたを想いながら眺めていたいと思います。
光臨の十字架は、網戸を通して見たからだと判明しました。
しかし,神からの深いメッセージを黙想しました。
と,今は真っ白な丹沢山系の上をジャンボジェットがブルーの空を背景にのんびりゆっくり飛行していました。
いってらっしゃ〜い。
空はいつも、ほんとうにすてきです。
時も空気も水も、流れている。
流れていると次々に、淀やとどこおりは自然に解消されて行く。
冬に戻ってしまったかのようにちじこまってしまう天候だけど、だからこそ、このあとに流れ出す春の小川が待ち遠しい。
♪春の小川はさらさら行くよ
岸のすみれやレンゲの花も
姿優しく色美しく
咲けよ咲けよとささやきながら♪
雲も流れて一時もじっとしていない。
低い雨雲のたれ込めたあとに,むくむくわき起こる入道雲。
流れの速い雲の合間から、出たりはいったりする満月や太陽からこぼれて地上に差し込んでくる光。
優しい自然の中に,息吹や萌えを感じるこの季節。
ありがとうと自然に手を合わせたくなる。
夕べから今朝にかけてのものすごい嵐は,地上のよどみや心残りなど,すべてを根こそぎに吹き飛ばして行ってしまったようだった。
低気圧が通過するときは体調がおかしくなる人が多い。
寝苦しく,風のうなり声を聞きながら稲妻の光を眺めて夜を明かした。
午前中もずっとどんよりしたお天気で,雨が降ったり不思議なお天気だった。
午後になってようやく晴れたかと思うと、今度は高く澄み渡った素晴らしい空に白い雲がさわやかで表情が一変して別世界のようになった。
そしてまた夕闇が訪れ,透明度の高い空に星が瞬き始めた。
と、今また風が吹き始め,ベランダからは星が見えなくなった。
こういう日は、風の叫びやささやきを聞きながら空を眺めていたらいい。
それに耐えきれなくなったら眠りに落ちたらいい。
私はただ、ここにいる。
ほんとうにいつも幸せそうな人たちがいる。
見ているとやりたいこと楽しいことばかりしている。
それでもって、人や社会を幸せにする仕事をたくさん成し遂げている。
本人は、目標を掲げて達成しようとか、自分の使命はこれだとか思っているようにも見えない。
風のように軽やかに笑っているだけで。
趣味に余念なく楽しそうに生き生きしてて。
仕事が趣味だったりもするみたいだけど、別の遊びにも専念して心から楽しんでて。
客観的に見たらいろいろな問題となるトラブルや出来事はもちろんあるんだけど、それを軽やかにかわされている。子供の突然死なんて衝撃的な悲劇に対してさえ、淡々と対処して他者を気づかう余裕でいっぱいだった。ご無理をされているのではないかと心配したけど、柔らかな雰囲気で無理や努力でないことがわかった。
この軽やかさとさわやかな空気のなかでは引っかかるものがない。
成し遂げてやるみたいな気概も何も感じられないのに成し遂げられている。
これがたぶん本当にスピリチュアルな生き方だろうと思った。
軽やかにさわやかに、そしてめちゃくちゃわがままに、やりたいことしかしないで生きている。野望も何もかもきっと、空の向こうにあるだけだからなんだろう。
傍目には変人としか移らないけど、存在そのものがものすごいメッセージになっている。
思い出した。
私は小学5年生のときに「わがままのすすめ」と言う小さな文を学級新聞に書いた。
それは間違っていると、その時憧れていたかっこいい風紀委員の男の子に指摘された。
彼が格好良すぎたからそのときは自説を引っ込めた。
でも今、やっぱり、わがままになることはとても大切なことだと改めて思っている。
みんなが軽やかに幸せになるには、わがまま、つまりやりたいことしかしないって方針を実行するしかないと思ってる。そうしたら、今ここに蔓延しているネガティブ感情が一掃されて、青空のような雰囲気でこの世が満たされるに違いない。
人が人をわかることなんかできない。
わかるよ、という時は、わかったような気がするとか、わかりたいと言う優しい思いでいっぱいのときだ。でも、厳密によく考えてみたらわかる訳がない。
共感?無理だわ。
感性が違っているのに同じ気持ちになんかなれっこないじゃない。
そんな無理なことをやろうとしてる私たちは間抜けなのか?
できないことをしようとすると当然挫折するしがっかりするし悲しくなる。
人はわかり合えることなんかできないのだ。
「誰も自分のことなんかわかってくれない」とつぶやくあなた。
ようやくわかったの?
本当にそれがわかったのなら何故それを求めるの?
まだわかってないのかもしれないわね。
できっこないのよ。
試しに他の人を理解しようととことん努力してみてよ。
そんなに難しいことを、人に求められないわよね。
あなたほど賢くも優しくもない他人に。
でも、わかりあえたって感じる時はある。
言葉で表現できないけど、何かが心の奥に触れる瞬間ってある。
野暮な心理学ではそれをポジティブイリュージョンと呼ぶけど。
できっこないものを求めてがっかりしないで。
できないに違いないことをここまでがんばってやろうとする態度はうれしいよね。
見当違いの解釈でも、そう、あなたのことをこんなに思っているのよ。
そして妄想とか間違いとか現実が見えてないと言われても、あなたが喜ぶイリュージョンは価値がある。
だってそれはあなたの真実なんだから。
リアリティなんだから。
真実も現実も、そうやってあなた自信が想像して創造していくものなんだから。
骨董品などの鑑定をするときに、どうやって偽物と区別するかは非常に難しくて説明できない場合が多い。鑑識眼をどうやって養うか、それにはひたすら本物を観ることしかないといわれる。
偽物を見て、ここがこういう風に偽物なのだということは学ぶ必要がないのだ。
とにかく本物を数多く観ること、それによって初めて鑑識眼が養われる。
よいものを知っている人にはよいものでないものはすぐに見分けがつく。
よいものを知らない人にはよいものとそうでないものの見分けがつかない。
見たことがないものがわからないのは当然だ。
また、見慣れないものは目に留まらない。
注意も引かない。
本物で満たされた人生のために本物を見つめていきたいものだ。
「現代のエスプリ」3月号はポジティブ心理学特集でした。私も「ポジティブ心理学とスピリチュアリティ」と題して大胆なモデルを書かせていただきました。
科学論文に感動するというのは,論理の整然とした美しさや洗練された理論ではよくあることです。が、そぎ落とされた禁欲的な表現の中に息づく研究者の世界観や信念にはっとしてうれしくなることがよくあります。ポジティブ心理学の研究論文にはそれがとても多いです。
ポジティブイリュージョンに関するものもその一つです。
例えば10のうち9ケースはうまく行かないと言う統計データがある時に、自分はうまく行く一つのケースになるに違いないと,エビデンスなく思い込むようなことをポジティブイリュージョンと言います。
現実を正しく認識するというのは心の健康の要素の一つであり,現実をゆがめてしまうのは病的であるとされていました。その中で,ポリアンナ症候群なんていわれるように,何でも感謝することやよいことを見つけて行くと言う態度に関しては賛否両論でした。現実認識しつつ感謝と言うのがよいとか,私もどこかで書いていたような気がします。
しかし,データは語ります。現実認識している人より非現実的に楽観的に物事を眺める人の方が病気が治って長生きしていると。これは不健康なのでしょうか?よく考えてみる必要があります。ポジティブイリュージョンのこのような効果は,もっと評価されてもいいのではないかと思います。
楽観主義について付け加えておくと,研究で明らかになっていることは、楽観主義者は悲観主義者より現実的であるということです。悲観主義の方は思考が偏り狭くなって可能性が見えなくなってしまう傾向があるようです。
シニカルなフランス人なんか,幸福な人間は何も考えていないおばかさんだみたいなことを言いますが,いいじゃないですか!
楽しくて幸せで健康になるのは,賢くて病気になってへこんでるよりいいと思うんですけどね・・・
それぞれの価値観でしょとか世界観でしょとか突っ込みがきそうですから、この辺でやめておきます。
一言、痛いのが好きな人は、マゾって病気の人以外いないでしょ?
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