尾崎真奈美の天使語同時通訳します

2010年04月

あなたがもし奴隷だったら

「あなたがもし奴隷だったら」

あの絵本のあの絵。
あの人たちのうめきと,声にならない声が、深く静かに迫ってくる。
無意識的に息が止まってしまう。

すべてに意味があるなんて残酷なことを、誰が言えると言うんだろう。
私自身が、同じ人間として同じことしてしまう可能性、
いえ、わたしがあのような良心が麻痺した状態でそれを許してしまえる状態、
あるいは、冷ややかに無視して、見ないようになる状態、
または知りつつも、別世界別時代の、自分には関わりがないこととして忘れてしまいたい欲求。

私に何ができると言うの?
悲惨な状態から目を背け,近寄ることさえもしないで,
暖かく清潔なシーツの上で、ローズアロマの漂う中でただ,感傷的に涙するだけ?

このような自分の弱さに私は怒りを覚え、
握りこぶしを握りしめ,息を詰め、悔しさに泣く。

あの悲惨さは、今の自分の弱さが原因なのだ!


そこでもあなたはまだなお,世界が愛に満ちていると叫べるのか?

私は静かに、でも、確信を持って答える。

イエス。
そう,イエス。


あの残酷さも自分。

だけど

息絶え絶えになりつつも,奴隷船3ヶ月の旅を追体験しているのも自分。
あの声を聞き,声にならない声を深く受け止めて抱えているのも自分。
麻痺してしまう以外に生き残れなかった弱さを包容しているのも自分。

そう
愛は世界を包容している。
意識してなくても,
気がつかなくても,
常に既に。

深い呼吸をひとつする。
ゆっくりした吐く息から、愛がこの世ににじみだしていく。
裂けて血を流している心の隙間に静かに寄り添っていく。
くだけ散った心のかけらをそっと包み込んでいる。

アンマの母親的優しさと真実

「人生のどんな場にも、どんな活動においても、何かしらの苦痛が待っています。その苦痛を受け入れて乗り越えて行かずして、その辛い体験の結果にある喜びと平安を味わうことはできません。人生の苦痛を受け入れられるようになると、人生の喜びに心から浸ることができるようになります」−アンマ

私はこの表現には賛成できないし、アンマだって実はそれがわかっていてこう話しかけているんだろう、その優しい精神で。
赤ちゃんに固形物を食べさせてもおなかを壊すから、離乳食から与えないとまずいってよく知ってるからだろうと思う。
母親的な優しさからだ。


苦痛を乗り越えていくとか、つらい体験の結果にある喜びと平安とか、そういう表現の間違いを指摘するのは野暮な話だけど。
だから学者ってきらわれるんだよね、ごめんなさい。
でも、違うんだから、どうしても私は言いたくなってしまうんだ。
真善美の中で、真実追求の役割を与えられた立場としての発言だとお許しいただきたい。

苦痛は乗り越えていくものではなく味わうものであり、リアルに経験することによってはじめてそこに愛が生まれるものである。
喜びと平安はつらい経験の結果ではない。
つらい経験そのものである。
喜びは経験の結果ではなくプロセスにある。

つまり、今ここで過ぎ去っていき、永遠にもどれないこの瞬間瞬間のなかに喜びと平安が埋め込まれているのであり、この苦痛を乗り越えたら楽になるだろうと未来を期待している限り、そのようなものは訪れないのである。
一見ニヒリスティックに聞こえるかもしれないけど、だからこそ、私は究極にポジティブな楽観主義者なんだということがわかってもらえたらうれしい。
このことはつまり、すべての瞬間は喜びと平安と愛で満ち満ちている、世界はそれで成り立っているということと同じだからだ。

言葉でわからない人は、美しい音楽を聴きながら踊ってみたらいいだろう。
踊れない人はくすぐっちゃうぞ!
おなかの筋肉が痙攣するくらい笑ったら、たぶんそれでだいぶわかると思う。

今日のところは説明不足ごめんなさい。
もっとわかりやすい説明を工夫して、データもつけてインクルーシブポジティビティ(内包的肯定性)の論文を書こうと思っています。

悲しめるというポジティビティ

ポジティブ心理学で求める究極のポジティビティは、オープンでリアルであることから生まれる。
オープンでリアルであると言うことはすなわち、この世のすべてに開かれている、喜びばかりでなく悲しみにも苦しみにもつまりネガティビティにも開かれていることを意味する。

ネガティブなことが多いこの世の現実をリアルに経験しながらポジティブでいられる資質は何か。
それは悲しみを笑えてしまう感性、自己客観化とユーモアセンスにつきるだろう。
客観化とは、経験から少し距離を置くことによってしっかり見つめることである。
これは逃げることではない。
偏見を持たずに眺めることだ。
生きている限り様々な経験で条件づけられた偏見を誰もが持っている。
それから自由になって見つめることによって、はじめてリアルにオープンになれるのである。
ネガティビティに直面するとはそういう偏見を持たずに眺めることである。
悲しみを味わい尽くすと言うような体験とは少しレベルが違う。
(カタルシスをもたらすと言う意味では、偏見から来る怯えや恐怖に満ちた感情を味わってみることも時に必要かもしれないけど)

ネガティブな経験は人の心も目も耳も塞いでしまう。
過去の痛い経験で学んだ、傷つかないようにする防衛反応なのだ。

オープンになっていくのに必要なのは愛の喜びだ。
愛によってのみ、心も身体も頭脳もはじめて開いて行くのだ。
偏見を持たずに見る、リアルに体験する、開いて行くためには、あらゆるポジティブなこと、とりわけ感謝に代表されるような喜びというポジティブ感情が重要なになってくる。
それなしに悲しみに直面できるほど人間は強くできていない。
悲しみや苦難は人を成長させると同時にかたくなに病的にもさせてしまうのだ、そこに愛がなければ。

愛を感じる一番単純なことは、触れられること、抱きしめられることだ。
インドの聖者が抱擁してまわるのも意味がある。
それによって人々を偏見や条件づけから解放し、初めて人はリアルに悲しみに直面できるようになるのだ。
だから透明な涙が止まらないのだ。

愛に支えられて初めて悲しみに直面できる。
元気にニコニコしていた人が、大好きな人に「よくやったね」と一言言われて泣き崩れてしまうのは、うれしいというより、愛の防波堤の中で辛い経験を瞬時にリアルに体験し直しているからなのだ。

リアルに深いけれど沈み込まないこのネガティビティは究極のポジティビティであり、我々がインクルーシブポジティビティ(内包的肯定性)と呼ぶ概念のエッセンスである。

教えてくれる人なんか誰もいません

「指導者もいない、教導者もいない、あなたに何をなすべきか教えてくれる人は誰もいない。この野蛮で狂った異常な世界には、あなた一人しかいないのだ」クリシュナムルティ

ものすごく傲慢に聞こえることを覚悟で書くけど、私には師とか先生とか呼ぶ人はいない。
自分自身の感覚や判断が究極には最高であることを小さい頃から確信していた。
だからものすごく頑固で生意気な子供だったと思う。
同時に、自分自身が先生と呼ばれたりリーダーとかスピリチュアルアイドルとか(笑)祭り上げられるのも実はものすごく苦手なんだ。
つまり自分が人より優れていると思うのではなく、すべての人がすべての人にとって最高であるとの思いなのだ。

もちろんお世話になった方やいろいろな気づきを与えてくださる方は多いし、大好きで尊敬してる。でも、一番大切な何かと言うのは誰にも教わることなんてなかったし今からもないだろう。自分がすべて知っていると言うか、自分しかいないのだ。

そういう意味では大層な自信家でナルシストだ。
他者を驚かしたり脅かしたりしないように、こういう本音はいままであまり言わないようにしてきたんだけど、インドの神秘家のつぶやきから、なんだなんだ,やっぱりそうでしょ,と言う思いを書かずにいられなくなってきた。

何故こういうことを書き始めたのかと言うと、クリシュナムルティのつぶやきに,なんだ,貴方もそう思っていたのかと安心したからだ。
そして、発言できない、傷つきゆがめられそうになっている小さな子供たちに伝えたいと思ったからだ。
世の大半の教育者やスピなビジネスをやっている人たちから反感を買う発言だと言うこともわかっている。
だけど、真実を語ることは誰にも止められないことなのだ。


なんちゃって〜
真面目すぎる自分に笑いました。
クリシュナさんにあってうれしくて息巻いてしまいましたが、学者としてはもう少し客観的普遍的に納得していただけるように説明を考えますね。できたらデータで実証しようと思ってます。
失礼しました〜
デジバさん、ごめんなさい。

探し物は何ですか?

人間でいる限りだれでも長所も短所もある。
というか,置かれた場所とかやっていることで有利に働いたりそうでなかったりする特徴をみんなが持っている。
それを長所だとか短所だとかラベルを貼っているに過ぎない。
幸せになるのは自分の資質が有利に働く場所に行って、それを生かしきることにある。
自分の資質というのはだいたい,好き嫌いでわかると思う。
資質にあってることをしてるのは楽しい。

私はたぶん修行向きじゃない。
好きなこと、楽しいことしかしないから。
スピリチュアルじゃないって言われた。
ええ、快楽主義なだけね。笑
そう、やりたいことをしてるだけよ。

玄米菜食、早寝早起きは,気持ちがよくておいしくて好きだからしてることだし。
かも殺せないのは動物を殺すのがかわいそうという発想ではなくて、どちらかというと、破壊とかが私の美意識にそぐわないからだ。
笑ってるのは楽しいからで貴方のことが大好きだからで。
大好きだからハグしてキスしちゃうわけ。

不完全なこの世界がとても愛おしくてかわいくて大好きだわ。
不完全と言う完全さって言うのかなあ。
すごくいい、面白すぎるって思う。

今ここにいる自分が大好きです。
世界が大好きです。
貴方が大好きです。


野暮な説明を加えるとね・・・
私の思うスピリチュアルって言うのは,今ここのこの瞬間を愛すること、それだけ。
過ぎ去って行くこの瞬間をだきしめていくだけ。
それが永遠への扉を開く。

滝に打たれる必要もないし,瞑想する必要もないし,何かを目指して修行するとか,目標を掲げて努力するとかって言うより(そういうのが好きな人はそれでいいと思うけどね)
何よりも、今ここ、この瞬間しかないと思うわけよ。

直感的にそう思う。
誰だったか忘れたけどどっかの有名な聖者も同じことをつぶやいてたから、そう間違ってるとは思わないな。

スピリチュアル、つまり究極の幸せって何も難しいことじゃないのよね。
いまここであるがまま、それだけ。
単純。

青い鳥の話を思い出して欲しいな。
陽水の「夢の中へ」も同じテーマでした。

探すのに疲れたら踊りませんか  
ウフフ~
icon:note

アプリオリな幸せと幻想

今朝オフィスに行ってドアを開けたとたん、説明できない幸福感がこみ上げてきた。

何かいいことがあったとか、調子がいいとか、そういう外的な理由は何もない。
今朝は、いつものように花曇で寒く、いつものように身体の調子は悪く、いつものように公私ともに問題は山積みで、いつものようにやるべき仕事はできていない。笑

それとまったく別の次元で喜びが湧き上がってきた。
なんなんだろう?
生かされている喜び?
仕事が与えられている喜び?
愛されている喜び?
何か説明したい欲求に駆られるけど、正直言うとこの幸福感はどれでも説明ができないことなんだ。
なぜかというと、仕事がなくても愛されなくても、それはそれで感謝と喜びがあることが、経験からわかるからだ。実際、今朝は息子とけんかして出てきたくらいなんだから。笑

これをどう説明したらいいんだろう?
これが私の悩みだ。
なぜなら、この幸せと喜びを獲得できたらみんな本当にうれしくなって幸せになって世の中楽しくて仕方がなくなるからだ。
でも、いろいろ考えるけど、これは自分の努力とか意識の仕方とかに関係がないってこともまた経験的によくわかる。
困ったものだ。

いい行いをするとか、感謝するとか、今ここを大切に生きるとか、言い古されてきたことを繰り返してはみるけれど、何か違うっていうのが正直なところなのだ。
だって、告白すると、何も感謝してないしいい行いもしてないし今ここを大切に生きるとか、そういうこと考えたこともないのが実際の私だからだ。
意識的にやってないだけで、自然にそうなっているのかもしれないとはいえるけど。

でも経験的に言ったら、喜びと幸せのほうが先にあって、その次に感謝や親切や愛につながるのだ。
だから何も無理がなく自然なのだ。

科学理論とか客観的な話だって、自分の実感がなければ誰も確かなことが言えないと思う。
ポジティブ心理学をやりながら、どうしたら人が幸せになるのかって考えながら、データを取りながら、不思議で仕様がないことのひとつが実はこの問題なのだ。どうやったら幸せになれるかなんて、はじめから幸せなのに、・・・

つまり、幸せがすべての根本にあり、それはアプリオリな原則だから、追い求めるのが馬鹿らしいってこと。
でも、そういうことを言い始めると、科学ではなくなる。
だって、その根拠は?ってきれたら、そう思うからとしかいえないからだ。
せめて、誰かこういう実感を持っている人がほかにもいたら、少しは確からしさが高まるのかとも思うけど。

ほとんどの人は何かがあってうれしい、何かが達成できてうれしい、誰かが存在してうれしい、っていう感じだからねえ。
でも、そういうふうに外的状況に依存してる限り、実は幸せになんかなれないんだけど。
だって、すべてなくなるから。
どんなにすばらしいことも一時の幻想に過ぎないから。
その幻想を幸せというのならま、それもいいかも。
そのほうが現実的かな。
さて、今日も素敵な幻想を探しに行きますか。
行ってらっしゃい!

人生の目的探しより,ゴミ捨てしましょ

クリシュナムルティが,今朝つぶやいていた。

「リアリティは逃避の中でではなく、生きることの中でだけ理解されうるのです。人生の目的を追い求めるとき、あなたは実際は逃避しているのであって、あるがままの生を理解しているのではないのです。」

いいな〜
以前から,自分探しとか,人生の目的や意味を問うとか、自分の使命を見つけるとかいうことに対してうまく説明できないけど違和感があって関わらないようにしてきた。
彼がはっきり書いてくれて、その理由がはっきりわかった。
まさしくそうだと思い至った。
何のために生きているのか考えてとらわれてしまうのは暇な現代人の病だ。

床にゴミは落ちてないですか?
ご飯食べましたか?
お皿は洗いましたか?
提出物は締め切り前に出しましたか?
借りっ放しになっているものはありませんか?
歯磨きしましたか?
ベットは整っていますか?
ゴミ捨てに行きましたか?

今ここでしなくてはいけない義務を忠実に果たしていたら、その目的なんて考える時間もエネルギーもないはずだわ。
行動そのものに意味があるんだから考える必要はない。
一つ一つを心を込めて喜んでやったらいいだけ。

喜べない?
どうして!
生きて呼吸して,今ここでこのような義務が与えられていることの貴重さと幸福は、たぶん行動しないと感じられないんだと思います。
喜べない人はまず行動してください。
まずゴミ捨てからどうぞ。
気持ちよく楽しくなってくること,請け合いです。
まだだめ?
じゃ,家中大掃除してみて。
まだだめ?
ご近所の困っている方のところに行ってお手伝いしてあげたらいいわ。
そこまでして喜びが感じられない人がいたら、そこで初めて精神科医に相談してください。

繋がることと切ること

スピリチュアリティを高校生にもわかるように一言で言ったら・・・

単純化したらその一言なんだけど,そして皆つながりを求めてるんだけど、実は繋がりにも悪い側面がある。

別の側面から見たら、人間は皆全く一人であり,永遠に孤独な存在であり,すべてから切り離されて在る。この厳粛な事実認識がないまま、すべてが繋がっていると言う夢だけを見続けると,つながりの罠に絡みとられてがんじがらめになってしまう。つまり,支配、依存、共依存なんていう病的な状態が生じてくる。
共依存概念を提唱した精神科医の観察では米国人でも9割近くが共依存だったか、日本人はほぼ全員そうだと言っても過言ではないだろう。これを病的とみるか文化とみるかは視点の違いだけど,それによって不都合、つまり自他に辛い、苦しい,重い,厄介だ,と言う感情が起こるとしたら避けた方がいいに違いない。介入が必要と言う意味で障害とか病気と言ってもよいと考える。

つまり,皆,関係性の病を持っているということだ。
それは、この広大な宇宙の中にただ一人切り離されて存在すると言う絶対的な孤独に耐えられないからであろう。優しい神様は気持ちがいい夢を見せてくださった。それがスピリチュアリティの正体だ。
しかし行き過ぎて盲目的になると、つながってないと不安でしようがなくなり他者を干渉し始める。
教育とか愛とか言う名のもとで魂の呼吸ができなくなるまで支配しようとする現象は,魂の殺人と言うベストセラーで記述されている。

ああ,みな,ここまで寂しいのだ。
涙も涸れるほどにつながりを求めているのだ。

母親の胎内から出てきて以来、つながりを切ることがこの世的な成長のあかしとなる。自立して行くこと。一人であることを認識し自己責任で対応できるようになること。これを確立するためにライオンの母親は赤ちゃんライオンを谷底に突き落とすと言う。
優しさの勘違いである過保護とか干渉によって皆,ひ弱になってしまった。
関係性を断ち切れずに依存したまま重苦しい関係に耐えている。

これは優しさではなく,弱さだ。
本当の優しさつまり愛とは、成長と発展を喜ぶものである。
つまり物理的には関係性を切って,切って,切っていくものなのだ。
すべてを断ち切って行く中で,どうやっても断ち切れないなにかが残る。
それがスピリチュアリティ、仏教では空とか無とかいうのかな。
岡野先生によると,それはすべてがつながっているということらしい。

つながりの病理と深さ。
厳粛に体験して行く中でみえてくる、けっしてあり得ないほど貴重な、つながっているという愛おしい感覚。
夢であり錯覚でありやがては覚めるものだけれど、だからこそ今,この瞬間に貴方への愛にからみとられていたい。

病理も現実でありすべてが神の手のうちにある。
あの世とこの世をつなぐために復活された神を讃えて
HAPPY EASTER!

スピより物理

心理学者とか心療内科医とかスピリチュアルなヒーラーとかは,すぐに精神からはいろうとする癖があるけど,あれは危ない。この件に関しては先日の学会でもはっきり発言した。

自然治癒や自己回復力やホリスティックなアプローチを大切にすることと,気持ちから治すというのはイコールではない。
気持ちももちろん大切だけどその前にできることがいっぱいある。
祈れば治るというより,寝た方がよかったりするんだ。
もちろん祈れば治るし楽になる。
奇跡的治癒が起こることは確かにある。

でも何故それが起きたかなんて誰も説明できない。
意味付けは自分が喜べるやり方でしたらいいけど。
祈りや信心が足りないとか前世の行いが悪いとか喜べない意味付けは不健康だから健康的なものにした方がいい。
意味に正しさとか確からしさを求めるのはカテゴリーエラーだし。

奇跡的治癒は,物理現象に反しているから、たくさん起きたら世界の秩序が乱れる。よって数は少ないはずだ。
物理的な治癒は本来最も単純自然でお金もかからないんだけど,人は誤解している。

まず,日頃から早寝早起き、朝のお散歩、感謝してよくかんでお食事する、それだけでどれだけ健康が保てるか。
夜更かししたり週末も仕事したりしてタフさを誇る人は、単に身体の鈍感さを誇示してるにすぎない。健康な人は早めに休んでいい仕事を長く続けるんだ。

ただ,寝る!水を飲む!暖める!なんて単純なことでどれだけ回復するか、びっくりだ。

プロフィール

尾崎真奈美尾崎真奈美

東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。ペンシルバニア大学医学部精神科、東京大学医学部公衆衛生学研究室などを経て、現在相模女子大学人間心理学科准教授、米国サーチインスティチュート、スピリチュアリティ発達センター客員研究員。
インテグラル心理学・スピリチュアリティ論・芸術療法などを教えながら研究、ダンス、執筆活動を続け、科学と芸術の統合を試みる。
天使語同時通訳は日々のインスピレーションの書き散らしである。
国際生命情報科学会、日本トランスパーソナル学会理事。日本心身医学会、日本トランスパーソナル心理学・精神医学会、国際ポジティブ心理学会会員。

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