
愛するあなたの痛みを聴く時
そばにいて、ゆっくり話を聞いて、痛みに手を当てて、優しいまなざしを向けてあげられたらどんなにいいだろうと思う。
ただ,ただ、そばにいてあげたいと思う。
問題は,私には身体が一つしかないことだ。
そして問題は,愛する人が一人ではないと言うことだ。
あなたの痛みに寄り添ってあげたい,と思いつつ、ほかに必要としている人との狭間で
ジレンマに身も心も引き裂かれる想いがする。
こういうときに思うのだ。
時空を超えた魂の存在はなんてすてきなんだろうかと。
でも,私たちは今この地上にいる限り,身体は一つで一カ所にしか行けない。
手は二本しかなくて二カ所しかさすってあげられない。
科学文明は,こういうやるせない想いから発展してきたのだと思う。
インターネットのありがたさを感謝する。
ついひと世代前には想像もつかなかった情報通信技術によって,リアルタイムで愛する人の様子を居ながらにして見ることができる。
メールより電話、電話より動画の方がいろいろ伝わる。
だけど・・・
だけど・・・
身体のぬくもりや息づかいは想像するしかない3次元に縛られている私たち。
魂で寄り添っています
愛するあなたへ
近視治療のレーシックの後遺症として、ハローとかグレアとか呼ばれる光がキラキラしたり光の輪が見えるということがあるしい。
疲れて夜中に帰宅するとき、空を見上げると、いつもたいてい光が増してきらきら見えるのが私の日常だったから何も異常だと感じていなかった。
月だけでなく、街頭までも美しい光臨をまとい、世界の美しさに感動して涙したものだった。
これ、異常なの?
飛蚊症という症状もあるらしい。
ミトコンドリアみたいな透明な何かが視界を横切ったり、雲のような白いものがふわ~っと見えてきたりするんだ。
私はこれが天使の赤ちゃんみたいな気がして喜んでたけど、「夢を壊すようで申し訳ないけど」って専門家に教えてもらった。
耳鳴りというのもある。
音にならないほどの高周波数の何かが絶えず聞こえてるんだけど、そして私は勝手にこれを天使の歌声と呼んでるんだけど。
だってそんなかんじなんだもん。
こういうのをみんな異常と判断するのは何故だろう?
世界を美しく楽しく経験しているだで、別に何も支障はないんだけど。
幻聴とか幻覚って言うのも、それで世界をもっと健康的に幸福に過ごせるのだとしたらいいではないかと思ってしまう。
スピリチュアルな体験って、現状の精神医学の常識で言ってみれば全部知覚異常の世界だから。
そういえば春頃、目が開かれていろいろなものがクリアによく見えるようになる夢を見ていたことを思い出した。
何か象徴的な話だと思っていた。
そんな夢なんか見たことも忘れてレーシックを受けたら、視力がいきなり0.04から2.0になった。
象徴だけど、身体症状もシンクロする。
額の真ん中から光があたりに放射されるような夢も見た。
何か、世界がもっとよく見えるようになって、見えてきた光をますます世界に還元して行くってことなんだろうな・・・
とわくわく感謝しつつ、今日もお仕事がんばりましょう皆様。
そう、文字通り、その通りだと思います。
人は愛がなければ生きていけない。
これを言い換えると、愛があれば生きていける。
愛があるから生きていける。
ひっくりかえすと、生きていけるのは愛があるから。
生きてるということは愛されているということ。
そう、そうなの。
私が言いたかったことは、今生きている存在はすべて、どんなに悲惨だと思っていても逆境だとしても、生きている、命が支えられている、そのためにどれだけの愛が注がれているかということ。
パソコンやインターネットを作った人の愛!
電気を提供している人たちの愛!
食べ物を提供している人の愛!
見ず知らずのあなたのために祈っている人の愛!
あなたを生み育てた親の愛!
あげたらきりがありません。
何もないと思っている人へ。
空の星や太陽、地上の花や草木はどうですか?
この美しい無償の贈り物を頂いているあなたが、どれだけ愛されているのか考えたことがありますか?
目が見えていること、字が読めること、文が理解できること、なんというすばらしい贈り物なのでしょうか。
これだけ与えられていてもまだ愛されていないって言えますか?
思い出して欲しいのです。
生きている=愛されている、と言う等式を。
愛は愛として何倍にもふくれあがって帰ってくる。
言葉でも行動でも眼差しでも思いでも。
そしてどんどんまわりに広がって行く。
なんてすばらしいんだろう!
人に喜ばれること。
人の役に立つこと。
その喜びによって人はどんなときにも生きていける。
人を生かすのは愛の力だけど
愛されるより愛する方がもっと強いエネルギーがわき上がる。
これはきっと、愛することこそが、人間の本質であるからに違いない。
大きなタイトルだけど,反戦とか非暴力とかの話ではありません。
今ここであなたができる平和構築法。
1。非難されたときどうするか
あなたを非難する人が、実は自分自身のことを語っているにすぎないことに気がつくこと。
そういう受け止め方もあるんだへ〜と驚いて人間観察してたらいいだけで。
2。素晴らしいなすごいな〜あんな風になりたいなという人に対して
素晴らしい資質はあなた自身の中にあることに気がつくこと。
間違っても,反対のことをするものではありません。
つまり,非難されたら自分のことだと思い,素晴らしいのはその人だと思い込んでいること。
それが事実であるとか真実に近いとかはこの際関係ありません。
あなたが幸せな柔らかい気持ちで今日もお過ごしになったらいいだけ。
それが世界平和につながるから。
あなたが世界であり世界があなたであること。
今日この一瞬が永遠であり永遠は今この瞬間であること。
ある意味の優しさと言えるかもしれないけれど、あるいは防衛と言ってもいいかもしれないけど、真実を明らかにしたら嫌われることが多い。
皆,真実を見るのを怖がっているから、みたくないから,見せられることに抵抗するのだ。
自分自身の愚かさを見せつけられると思うのだろうか。
見せられても見せられなくても,愚かなことに変わりはないから意識した方がまだましだと思うんだけど。
愚かだからって悲観することはないわ。
だってみんなそうなんだから。
かわいいね〜良くやってるよね〜って笑ってたらいいだけなのに。
非難しても何もよくならないことは心理学的に明らかなのに。
癖だね,単なる癖。
そしてそうして欠点を指摘するとよくなると言う思い込み。
これも単なる思い込みであって真実はその逆であることを心理学データははっきりと語っているのに。
目を覚ましてみたら,こんなにすてきな美しいものに囲まれていることがわかるのに。
世界はこんなにも香しく明るくスイートで楽しいのに。
思い込みだよ。
ネガティビティは防衛反応として作り出された幻想にすぎないよ。
脱ぎ捨てて真実を見つめてごらん。
愛らしく微笑んであなたが振り向くのを待っている真実を。
動画を撮り始めてからわかったことがある。
準備しない方がいいってこと。
朝起きてすぐが最高だってこと。
理由はよくわからないけど、お手洗いに行ったり顔を洗ったりしているうちに,だんだんオザキマナミになって行くみたいだ。朝ご飯を食べたりシャワーを浴びたりしたらもう,完全尾崎真奈美モードで,そこから抜けるのは難しい。
心理学理論の説明は頭がクリアになったときの方がいいに決まってるんだけど、そうすると何かすてきな生のメッセージが伝わらなくなる。両方が総合的に一番よい状態で発信できたらいいなと思いつつ試行錯誤している。
実はこのプロセスそのものが、リアルな今ここを楽しんでいる私なので,エッセンスだけ勉強したいと思ってる方にはお忙しい時間を頂いて申し訳ないと思う。
しかし,失敗も楽しくて。
昨日はふわふわし過ぎでうまく説明できなくなった。
今朝はちょっと学者モードで迫ってみた。
私としては昨日の失敗作の方が好きなんだけど。
ちょっとだけ学者モードで語る、「ポジティブになろうとしたらいけない理由」:http://www.youtube.com/watch?v=srz2x0xctAE
暇な人は失敗作も探してみてね。期間限定でアップしてます。
同じ人と思えない、たぶん。笑
動画で天使語やってみました〜〜
まだ試験的なので、音とかお許しくださいませね。
http://www.youtube.com/watch?v=ZS_MjxAN-Tc
愛する人の痛みを目の当たりにするほど耐えられないものはない。
かわってあげられない悔しさと辛さは身を引き裂くほどだ。
あまりの空の美しさに痛みを感じながらも踊っていたら、時空の彼方から痛みが迫ってきた。私の脊髄はまるでアンテナのようにそれを察知していく。
ダイヤモンドのように固く透明な涙の結晶のようなものがしっかりと居座り,それが踊りとともに溶けて行く。
氷砂糖か岩塩の結晶を水に入れたように,表面から溶け出して行くのだ。
そしてその溶け出した痛みが,脊髄から全身を巡り、指先から空気に流れ出して行く。
私の視線から髪の毛の先から溶け出して行って,痛みの小さな小さな粒子はあの光の粒子となって世界に広がって行く。
もし宇宙に一定量の痛みが在るとして,それをだれかが引き受けないといけないとしたら。
愛するあなたでなくて、私にお役がまわってきたのだとしたら、どんなにうれしいことだろう。こんな喜びがほかにあるだろうか。
愛する人に貢献できているという自分の存在価値は,生きて行く一番大きなエネルギー源だ。感謝がこみ上げてくる。
愛する人は、もし身近にいたらその人のことを考えてみたらいい。
その人が関わっているお世話になっている人のことまで想いを馳せてみたらいい。
そしてその関わり在る人たちが誰によってどう支えられて生きているのかを考えてみたらどうだろう。
世界中が愛しいあの人をサポートしてるのだ!
その時世界はあなたと一つになり、痛みを受け持つ自分が愛しくなってくるに違いない。
そうはいっても、絶え間ない激しい痛みは、そういうことを考える余裕もなくす。
ヒーリングと言うのは、そういう人にほんの一瞬の安らぎと休憩を与えるものだと思う。
ヒーリングしていただいて痛みがなくなってもすぐにもっと激しい痛みが繰り返し襲ってくることはよくある。
病気を治してもらえても,人は必ず死ぬ。
永遠のヒーリングなんてありえない。
だけど、一瞬でも痛みから解放されると我に帰れるのだ。
その時,自分がどれだけ愛されているか思い出すことができるのだ。
その健全なスピリットが戻ったときにこのことを思い出して欲しい。
これによって愛する人の痛みを軽減してるんだって言うことを。
痛みが愛おしくほおずりさえしたい存在に変わってくるから不思議だ。
もしもあなたが認知症だったら・・・
やったことが思い出せないとか、場所や時間の記憶が確かでなく不安になるとか、この恐怖は経験したことがないとなかなか理解できないものだと思う。
ぼけてるから何もわからないと思ったら大間違いで,繊細な感情はますます敏感に研ぎすまされているのだ。うまくアウトプットできないだけで。
脳機能が低下したときには情報の適切な処理ができなくなって、情緒不安定になったり,理由のない鬱・不安・恐怖などのネガティブな感情が自然にわき起こったりする。
自分の脳はどうなってしまったのだろうかという恐怖。
帰ろうとして自分が朝どうやって職場に来たのかどうしても思い出せなくて、駐車場を隅から隅まで歩いて車を探しても見つけられず、自分のことだけに誰に聞くこともできない。探しているうちに、何を探しているのか何のために探しているのかがわからなくなって来る。ふと立ち止まってあたりを見渡したら,見知らぬ場所で誰も知り合いがいない。ここはどこ?わたしはだれ?何をしているの?
こういう恐怖を想像してみて欲しい。
さらに、自分の体験は全部違うと否定され、バカにされ、面倒くさそうにいらないもののように扱われ、無視されて。自尊感情はずたずたになる。
私は専門家だからすぐに診断基準に当てはめて自分がどの程度の機能障害を呈しているかが判断できるから、ますますやりきれない気持ちになってしまう。
アルツハイマーや認知症と言われる人たちの不安や恐怖が、自分のものになったのである。
私の場合,ほんの少しの脳機能低下が頭脳労働である専門の仕事に多大な支障をきたす。
嫌われるほどいつもポジティブな私でさえ、打ちのめされそうになる瞬間が何度もあった。
交通事故のムチウチを原因とする脳脊髄液減少症と診断され、痛みで身体が動かせなくなった時、これをやって行く!と決心したばかりのダンスをあきらめざるを得なくなった。
気を取り直して研究を続けようかと思ったら、集中できない、頭痛に吐き気、目が見えない・・・研究も無理。
それでもごまかし,人前では笑いけっしてさとられないようにごまかしていた。
高度に緻密で抽象的な思考が要求される論文は無理だとわかり、せめていい授業をしようと思った。
学生から、言ってることが違うと指摘された時,実は全く覚えがなくショックだった。
それからは、知識より生きる喜びを伝えられたらいいと思い、一番大切なことだけを伝えられたらいいと思った。
限られた中で最善をつくせばいいのだと自分にいい聞かせながらも,悔しくやりきれなく、身体の痛みがないときは心の痛みに、どうしようもなく一人で空を見つめては泣いた。
自分の能力がどんどん削ぎ取られて行った。
何もできなくなった時,人に会いたくなくなった。
何もしないで空をみていた。
何も考えていなかった。
ただただ見ていた。
理由なく涙がこぼれた。
悲しいとか心細いとかを通り越していた。
しかし、暖かく優しい友人たちは私を一人にしておいてくれなかった。
症状を隠し身体の痛みにかかわらず人に会い、笑い、泣き、人生をシェアーした。
だれもが、いろいろなものを抱えてけなげに美しく生きている。
そして、本当に多くのもの人に支えられて,私がここに在る。
素晴らしいステージで人を魅了することも,偉大な業績で人を感銘させることも,秀逸な授業で学生を感動させることもなくても,私はここに在る。
ただ,ここに在る。
最後にはこれしかなくなる。
すべてがはぎとられたときの存在の意味と重さ。
今こうやって経験を言語化できることはなんと言う喜びなんだろう。
自分の可能性を最大限に使ってできることをしたい。
人間の尊厳とは最後の最後までそれを渇望するのである。
正常な認知機能が保たれていなくても、人間存在は基本的にそういうものに違いない。
ただ,在ること。
この意義と喜びを、悲しみの薄いベールをまといつつも踊ってきたい。
と,ここで終わっていたらちょっとかっこいいのですが、変な風に認知機能障害が起きてる私は、こういうことを全部笑いたくなってしまうんですよね〜
だって、おかしいでしょ?
なんにもおぼえてないの。
都合悪いこと全部忘れちゃってるの。
難しいこと,考えられないの。
ごめ〜ん,病気だから許して!笑
なんて楽しい症状なんでしょう!
これを悲惨にしちゃうのはぜんぶあなたなのよ。
愉快にしちゃうのもあなたなのよ。
遊んでご覧。
とってもわくわくする新しい世界が開けてくるから。
コツは認知機能の衰えを悲惨だととらえないで、シンプルなエッセンスになっていくのをおもしろがってたらいいのよ!
精神が荒廃して行くのは悲惨だと思ったけど,痛みがないのなら、それだけでも本当に感謝よ。
痛みもぼけもないあなた、いいな〜
能天気で何の苦労もしてないからポジティビティなんて言ってるんだって思われてる傾向があるので、自分の弱みをさらけ出すのは趣味じゃないんですが、ちょっと書いてみました。
でも,どうぞご心配なく。
重度の認知機能障害ではこういう文は書けないですから。
ずいぶん回復した今だからこそ書けるって言う訳です。
本当に感謝だわ〜
誰ですかそこで,都合がいい時だけ病気になって休んでる、ずるい!って言ってるのは。笑
だって,気が進まないことはできなくなっちゃったのよ・・・ますます。
好きなことだったらなんとかできるから・・・
ますますわがままし放題・・・
ごめんね〜〜〜
堪忍え〜〜
許してたも〜〜
私のまわりにはなんてすてきな人が多いんだろう!
心から優しくて、配慮が行き届いているけど決して出しゃばらず控えめで,後ろでニコニコしていて,必要なときにはさりげない,しかし魂まで響く一言をそっとささやいてくれる。
真面目で真剣に世界の幸福とか愛とかを考えているんだけど、淡々と日々の重責を笑いながらこなしてる。時にふ〜って疲れても,またすぐ理想に燃えて動き出す。
永遠や宇宙の果てまで視野にいれてこの光を伝えるために、目の前にいる人へ限りない優しいまなざしを注いでる。
この世の美しさと楽しさを,悲惨さと愚かさも含めて愛し,体験し,語り伝えている。
こういう人たちをみて感動する私。
気がついたことは,その資質はすべて自分の中にあるってこと。
だって、自分の中にないものは気がつくことはできないから。
私が見つめるあなたの勇気と優しさが自分にもある!
このことに気がついたら、どれだけの希望がわき上がることだろう!
最高にうれしくなってきた。
あなたと私は一体だから。
そう,あなたの優れた資質はすべて私の投影なのだから。
澄み切った意識の中でそれを輝かせて行こう。
喜んで楽しんでわくわくして、さわやかな風の中で舞い踊ろう!
この喜びは、これを読んでいるあなたのものです!
前世や輪廻転生に関して私は否定的な言及をすることが多く,宇宙人や天使などに対して肯定的な言及をすることが多いから、そのような世界観を持っているのだと思われるかもしれない。
実はそのどちらでもない。
言ってみたらスーパーメタな視点しかないのだ。
ただ,土着な信仰より宇宙的な視点の方に親和感があるから、なじみのある言葉で説明してみようとしているだけなんだ。
光と言うのがたぶん一番近いあの世界のことは,この世の言葉で説明できないリアリティだから,前世や守護霊や天使やそういうものは全部構築された説明のための手段にすぎないと言うのが基本的な私の立場なのだ。
でも,理解してもらいやすいように便利な概念は使わせていただく、それだけのこと。
神学や宗教学などで信仰内容に関する議論が行われることがあって,そういうときは研究者と言えども自分の世界観や信念を暗黙のうちに前提にしているから激烈な戦いになることがある。仏教的世界観はキリスト教のように排他的ではありません,なんて言うパロディめいた言及が真面目に行われてるのだ。苦笑。
それぞれの視点で、それぞれに最も必要で大切な見え方があり説明の仕方があるってだけの話なのに。人はみな自分の視点で語ろうとし,なじみがあるものが正しいと思い込む癖があるから、聞いたことがない話には警戒して恐れから敵意を抱いてしまいがちで。たぶんそれが人間の愚かさで,そのために、正義の剣を振りかざした戦争まで行われてしまうのだろう。
といって私は別に、十字軍とか9.11とかの話をしている訳ではない。
今ここで私たちの心の中の話をしているのだ。
世界観の違う人に対する嫌悪感、意見の違う人に対する敵対意識,混乱して病的反応をしている人に対する弾劾など。
私たちは誰一人としてテロリストと変わらないのだ。
たまたまそういう環境にいないから行動しないと言うだけで、意識は同じなのだ。それなのに他者の狂気として容赦ない怒りが向けられる。
狂気にかられた行動をする人の追いつめられた極限の苦しみは非難されるばかりで、救いようのなさをますます増加させてしまっている。
大切にしているものを傷つけられてヒステリックな反応をその加害者に向けている人たちには、その痛みをともにしながらも私は説明する言葉を失ってしまう。
正義や愛を求めている態度そのものが生み出すこの敵意や反感と言う矛盾を、どこで断ち切ろうか。エコとかスピとか慈悲とかいいつつ、そうでないものをジャッジしていくくらいなら何もしない方がまだましだと思うほどだ。
ただ光を見つめて行くしかない。
そしてその光を輝かして行くしかない。
私にできることはきっとそれだけだ。
セミナーやワークショップや社会運動など何も参加せず,本も書いたり読んだりもせず、ただ何もしないで空を見つめているだけの私なんだけど、だからこそすべてに距離を置き透明な心のままでいられるのかもしれない。
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