
きついときにがんばって無理して体調を崩し、回復まで時間とお金をかけるのって、実は非常に非効率的で非生産的なのよね。
なのになんでやっちゃうんでしょうね?
(おばかさんの自分のことです。笑)
きついときにも他者を配慮してにっこり大丈夫をよそおい、あとで倒れて他者に多大な心配と迷惑と負担をかけることも、実はものすごく多くないですか?
(これもおばかな自分のことです。笑)
武士は食わねど高楊枝の美学だから、そのまま死んだって本望である、ですか?
人それぞれとは言いつつ、何か変じゃないでしょうか?
だって、無理するのは他者に負担をかけたくないからだったんでしょう?
それが結局反対に迷惑行為になるのって、馬鹿らしい、大笑いですよね・・・
もしこれがよ~くわかったら
しんどい人はお休みしましょ。
痛いときには痛いよ~ってお知らせして優しくしてもらいましょ。
そして心も身体もゆったりしたらうれしくなってすぐに治るわ。
そうしたらほかの人にもそうしたくなってくるから、元気がどんどん広がるわ。
痛いのを我慢したりしんどいのを無理すると、その辛かった経験で泣いてるあなたの中にいる小さな子が、えええええん、辛かったんだよ~~~って反乱を起こすわよ。
よしよしってなぐさめてあげましょ。
きついときには休みましょ。
痛いときには甘えましょ。
それが本当の優しさだと思うな。
http://iida.jp/calling/#507741
るんるんるん![]()
科学は神の法則をひもとく営みである。
使う言葉(記号)が違うだけで、それは大いなる叙事詩とも言えるロマンスである。
私が科学に固執するように見えるとしたら、この法則や秩序の美しさに虜になっているからだ。
スピリットの戯れを数式で現そうと試みたことがある。
文科系の学者から見るとそれは暴力に等しいらしい。
違うのだ。
数式であっても言葉であっても、この偉大な神秘を記述しうることが不可能である。形を持った世界でこの美しさを表現しきれないフラストレーションは気が狂いそうになるほどだ。
しかしどちらかと言えば、言葉より数式の方がより正確に誤解なく記述できるツールだと私は思う。
もちろん詩や踊りでも表現できる。
そして数字はそれらと決して矛盾しない。
なぜなら真実は同時に究極の美しさでもあるからだ。
科学を突き詰めると、そこに現れてくる神の御手に畏れ多くもひれ伏すしかなくなる。
ブレイクが語る直感的宇宙
To see a world in a grain of sand
And a heaven in a wild flower,
Hold infinity in the palm of your hand
And eternity in an hour.
をより精密に記述するのが科学なのだ。
だから私は、歓喜にあふれ高揚して数字を手放さずにいられないのだ。
科学は詩作と矛盾することはない。
http://www.youtube.com/watch?v=EylzH2s-Tao
静かだけれど
とても大きな
世界を埋め尽くしていくような大きなうねりがやってきて
真夜中に私は
そのざわめきに起こされてしまった
小さな人の小さな思いやりが
どんどん伝わっていってる
それが同時多発的に世界中で起きている
表面的に
どのような馬鹿げた
狂ったような破壊やゆがみがあろうとも
人々の内面深いところで
静かな革命が起きつつある
眠っている人の夢に忍び込み
良心を目覚めさせる
やってくるのはただ
弱さへの共感と理解
痛みを共にすること
それだけのシンプルな癒し
魂の奥深くから
泉のようにわき上がってくる
この静かな癒しによって
固い心が嬉し涙で溶けてくる
そうすると
手足がまっすぐにのびてくる
目を覆っていたくもりが晴れてくる
世界に満ちている愛の灯がどんどん見えてくる
天使の歌声が耳に迫り
思わず一緒に踊りだすようになる
そして
あらゆる人が光の存在であることが見えてくる
世界同時多発の愛のアタックだ
体中の細胞が愛に侵食されていったら
指先から
眼差しから
はく息から
愛のビームが溢れ出て世界中に広がって行く
もう誰も止めることはできない
自分探しとか、人生の目的や意味を探るとか、に夢中になってる人が多いみたいだけど、もうすでにあなたはあなただし、あなたを十分生きてるし、素敵だってことに気がつけばいいだけなのにって思う。
何がいいたいかというと、今ここで生きている意識と生活そのものが全てだということなのよ。
過去も未来もなく、今、ここの中にすべてがあるということなのよ。
セミナーに行ってみたりパワースポーットに出かけてみたり宝石やクリスタル、エンジェルグッズなんかを身につけてみたりって、楽しいかもしれないけど、本質的にはそういうものは関係ない。そういう気分を楽しむって感じだけじゃないかな。
いろいろな不思議現象は、楽しくて気持ちがいいことばかりだったらおもしろがってていいけど、慣れてきたら取り立てて言うほどのことでもないよね。
ウイルバーは修行が大切だというし、仏教なんかでも修行が強調されてるらしいけど、目をつぶって座ってる間にせっせとお掃除した方がいいと思うし、滝にうたれに出かけて行くより仕事を夢中になってやってたらいいんじゃないかなって言うのが私の本音トーク。
人それぞれ役割があるっていうのはもちろん事実だと思うけど、だからこそ、修行するなんていうのはほんの限られた物理的経済的に恵まれた特権を持った人だけに許されることよね。ほとんどの人はそういうことはできないわよね。
でも、そういう人をうらやましがらないでいいのよ。
何気ないこの日常の中にこそ神聖さがあるってことをみんな忘れてないかしら。
偉いお坊さんなんかが、修行の段階とかそこでどういうことが体得できるなんてことが記録されているらしいことを教えてもらったけど、私の経験から言ったら、そういうことは修行しなくてもいっぱいある訳。
求めることじゃなくて、日常を愉快に過ごしてたら起きてくることな訳。
修行が必要条件ではないということが言いたい訳。
つまり、修行はしなくてもそういう現象(意識変容、気づき、至高体験、それらにまつわる究極の至福とその生理物理的現象)は日常にいっぱいあるってことがますますわかってきたのよ。
反論する人は、スポーツだって勉強だってトレーニングが必要でしょうというけど、これはそういう能力とは違う発達ラインだと思う。
はじめからあるものなのよね。
トレーニングはいらないし、そんなことしてどうするのよって感じ。
必要なら必要なときに現れるのだから、無理して求めなくてもって思ってしまうのよね。何かがんばって身につけるようなものじゃないと思うわけ。
極めようとすることには自我の思惑が入り込むから何か不純なものを感じてしまう訳。
確かに、ドラえもんのポケットやどこでもドアみたいにとり出せたり行けたりしたら便利で面白いと思うけどね。
悟りたいとか、真実を知りたいとか、何のためにそうしたいの?
世界平和のためだったら自分が今ここで感謝と満足してうっとりしてるのが一番だし、頭をすっきり整理したいのなら科学でもやるのが一番だし。
人助けしたいのだったら手足を使ってやることはきりなくあるじゃない、ねえ。
究極の真理はなんて、答えに到達できっこないことに夢中になって日常を忘れるのはあまりにももったいないわ。
こんなにお空は澄み切ってきれいでお花も微笑みかけているのに。
ほとんどの人が修行が大切とか必要だとか思い込んでるから、
実は私、それを科学的に検証して覆したいと思ってるんだ。
それは修行してる人をがっかりさせるためではなくて、そういう悟りみたいなものが、すべての人に、無条件で既に開かれていることを示したいだけなのよ。
だって、本当にそうなんだから。
朝、
暖かいシャワーから流れてくる水滴の中に,限りない自然の愛を感じた。
水滴の一粒一粒が暖かくやわらかく、
全身の細胞を潤し、緊張をほぐし、滑らかに疲れを取り除いて、
笑いさざめきながら軽やかに流れていく。
あたたかな刺激が、痛みを優しく包み込み,うっとりとしたものに変えて行く。
皮膚から、微かな、しかし確かなエネルギーがしみこんできた。
重荷とかくすぶっていた何かはすっきりと洗い流された。
暑く照り返す太陽のことを思った。
殺人的だと思った。
しかしこの光と熱によって、どれだけの植物が育ち大地のエネルギーを与えられているのか。
これがなかったら生物は絶滅する、恵みの太陽なのだ。
そして気がついたこと。
敵対してしまうのは全部、自分の意識の働きだけだということ。
世界はこんなにもあなたを愛し、育みいとおしんでいるのに。
自分の都合で敵対させているのが人間。
その結果が,戦争だったり不和だったりいじめだったり。
世界はこんなにもあなたを愛している。
世界中があなたを愛している・・・
感動しつつシャワーを終えてリビングに向かったら,
ガラスにキスマークが!
だれがしたのかなあ?
そんなことするようなゲストはいないと思うんだけど・・・
私は勝手に天使からだと思った。
ありがとう~
私からもお返しのキッス!
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