
臨床心理学的では、トラウマの開放は重要なテーマである。
感情への直面化・感情表出も同時に精神の健康にかかせないものとされている。
確かにきっと、90パーセントのケースには上記は当てはまると思う。
しかし,どのようなことにも例外があるように、トラウマにも開放しない方がよい場合があるように思う。悲しみがあまりに大きすぎる場合,処理しきれず、直面したら気が狂うか、死んでしまうしかない、そのような場合が確かにある。その場合、不健康だとされる抑圧という防衛機制は、生き残りをかけた賢明な安全装置として働いている。
自由意志を使える人間は、感情や行動をコントロールできることが成熟の証とされ、できるだけ多くのことをコントロールしようとしてきた。しかしそれはすべてを意識的なレベルで解決しようとする心理主義ではないだろうか。
何でも明らかにクリアにすることによる解決は,人間の力の過信のように思える。
悲しみに浸る喪の期間が必要だと言われる。初七日や四十九日などにはそのような意味合いがあるだろう。しかし,人によってはその悲しみは表出したからと言って終わりになりはしない。何年も何十年も際限ない苦しみにおおわれてしまうことがある。その個人にはトラウマ開放なんてあり得ないのだ。トラウマを抱えつつ、どうやって生きていくかの知恵がそこには必要だと思う。誰もがネガティブな体験をポジティブに書き換えることができる訳ではない。人によってはその悲しみそのものが貴重な美しい思い出であるのだから消し去ることはできない。 悲しみを抱えることが逆説的であるけれど、その個人の幸福なあり方、といっては御幣があるかもしれないが、少なくとも、真実なあり方であろう。
「神は耐えられるだけの試練しか与えられない」
このような信条を私は信じない。
これに支えられてなんとかやってきているナイーブな人たちに対しては有効な信念であるかもしれないから、もちろん無下に否定はしない。
ただ私は信じないというだけだ。
あまりにも悲しみの多い人生を歩いてきた人に対しては、この言葉は逆説的に響くことさえある。精神を病み,あるいは人生をあきらめて逝ってしまった人たちに対しては,この言葉は虚しいきれいごとにしか聞こえない。
苦しんでいる人たちに対して,自分がこの言葉で助けられたという理由だけで、この言葉を投げかけるのは時に暴力となってしまうこともあることを覚えていてほしい。
私は、いつもこの世は光である愛に満ちあふれていると言い続けている。
この態度もきっと、苦しみの中にいる人に対しては過酷な響きをもつことであろう。
しかし私はあえて言う。
ここには素晴らしい光と愛が満ちあふれているよ、と。
ここは地獄であると同時に天国だからだ。
そしてその天国は自分で振り向くだけでそこにすでに与えられているものだからだ。
地獄の歩き方は,ダンテが地獄編で言っているように,ちらりと眺めてやり過ごすのが賢いやり方である。
私たちが見つめるべきものは光だけである。
探し出そうと力を入れて努力する必要はない。
ただ,振り向くだけでいい。
深呼吸して重荷を下ろし,いつも変わらず光を注いでいる空を眺めてみよう。
天使の微笑みがそこであなたを待っているから。
身体のセンセーションに対しても,自分の行動様式や発言に対しても、どっぷり同一化しながら同時に全部外から眺めている自分がいたら,世界中が愛おしくてたまらない存在として現れてくる。
観想の眼差しは必要だと言われるけど,それだけだったら超越したまま今ここの経験を堪能するってことにはならないような気がする。つまり,悟ったような冷たさになるからだ。あまり面白くないんじゃないかしら,人それぞれだけれど。
イエスでさえ、友人の死に涙したり,星飛雄馬のお父さんみたいに憤りにかられて教会で机をひっくり返してまわったりしてる。いいな~って思う。
情熱的に夢中になったり無意識の世界に漂い遊ぶということを意識的にどこかで見ているのだ。この超客観的な意識というか、非人称の眼差しと言ってもいいけど,これをもつことによってすべてから自由になり,そうするとすべてが幸福で愛に満ちていることがわかるのだ。
ううううん
まだ説明が足りないかなあ。
どんなに幸せな美しい体験でも同一化してしまうと,それが過ぎ去ったときに寂しさや哀しみにおおわれてしまうことだろう。離れて見ていることによって、その儚さの中に現れる美しさにますます愛おしさを感じるようになるのだ。ネガティブな経験だったら言うまでもないだろう。離れて見る,一時的なすぐにすぎさるもの、,幻想にすぎないとわかっていたら、ドラマみたいに楽しめるのだ。スリリングな映画が終わってしまうのがもったいないような感じもしたりして。
意識的になることで,微細な感覚や瞬間瞬間の経験を丁寧に眺めることによって、身体や場所や時を愛するということが実感されてくるだろう。
自分の身体に、恋人の身体のようにそっと優しく触れてみる。
指先から愛が溢れ出て行くのがわかるだろう。
聞こえてくる喧噪の中にも愛する人の息吹を聞く。
部屋の片隅におかれたティッシュ箱にも,愛する人が存在している世界を感じてみる。
意識的になることで世界が愛に満ちていることを経験する。
ね!
本当にすごいよね!!
まだ説明が足りないですか・・・
うううううん
まあ、やってみてよ。
それでもだめならまた考えてみるわ。
天使のお仕事は世界の愛と光を伝えることなので,今日もこの課題に取り組んでいます
私は生まれ変わりを信じてないとどこでも発言してるけど、それはようするに、証明できないものを信じようが信じまいがどちらでもたいしたことではないってことなのだ。
信じて楽しかったらそうしたらいい、というだけの話。
こういう書き方自体が全くロマンをぶちこわしてしまうのかもしれないけど、
実は私は前世はお姫様だったのとか天使だったのと信じるほどナイーブではない。
たとえそれが見えたとしてもだ。
見えたビジョンが、何故自分の前世だって言えるのか、その辺りの説明は誰もしない。そう思うってだけの話。
自分の直感が正しいなんて、どういう根拠があって言ってるのだろう?
霊的なビジョンに関して根拠とかこの世的発想で迫るのはカテゴリーエラーかもしれないけれど。
もし真実かどうか検証したいと思い始めたらやはり根拠というか、少なくとも納得がいく説明が欲しくなるのが、知性ある人間だ。
前世に関して、認知科学的に記憶情報として説明してみようか。
DNAに蓄積されている情報は、直接的には両親の遺伝子情報だけど、その情報はまたその両親からという訳で、どんどんたどると世界は一家人類みな兄弟だということになる。つまり私のDNAは世界中の情報をこの中に宿しているということになる(ホログラフィック理論)。
それが何らかの刺激によって一部情報が取り出されることがある。だからクレオパトラを前世にもつ人が何十人いても不思議ではない。全情報がすべての人にはいってる訳だから、私はキリストだ、なんて言う人が現れても別に驚くことはない。
しかしでは、何故ここでその特殊な情報が呼び起こされてしまったのかという説明が欲しくなる。単純に言えば、似たような状況が整った時にアクセスしやすくなるということだろうと思う。生理学的に、近似的情報が近くに保存されていたり、連結する回路が活性化しやすいことは想像できるよね。デジャビュも、解離性人格障害(多重人格)も、生まれ変わりもこれで何でも説明できてしまう。
あなたこそ赤い糸で結ばれたソウルメイト!ツインソウルなのね。会いたかったわ、やっと会えた・・・・・・と悠久の愛の巡り合わせに感動で震える状況も、そのような記憶情報が呼び起こされたというだけの話。運命の人、なんて言うのもこれで説明できる。
科学はロマンスをぶちこわすかしら?
実はそうではない。
その記憶情報が、選択的に確率的にあり得ないと思われるほど小さいのに蘇ってきたことに対する驚きは、科学的に説明しようとすればするほど実は大きくなってくるのだ。その驚きは、特別な前世が見えたというのも、今日あなたに出会ったということからこうしてここに生きているということも、比べられないほど、すべてがものすごい奇跡的な確率で起きているという感動につながる。
クリティカルになればなるほど、この存在の不思議に圧倒されてしまう。
ダークマターを知っているからこそ、世界は光であると主張してるのだ。
ダークマターとは未知の不可思議な何かであって、その神秘に敬意をささげるのが光である。
銅鑼のような雷が時おり
安定したスネアドラムを切り裂く
浄化の雨にはメロディーがない
透明にただただ時を刻むだけ
ちょっと待って・・・
かすかにほら聞こえてくるよ
柔らかにふるえる木管の調べが
魂の奥から
耳を澄ませたら聞こえてくるよ
つやっぽく憂いを秘めた弦の響きが
魂のもっと奥から
もっと耳を澄ませたらもっと聞こえてくるよ
高らかな勝利の金管のきらきらした輝きが
魂のもっともっと奥の奥から
サイコシンセシスの提唱者でイタリア人精神科医であるアサジョーリがなくなった時、弟子達がみな、自分こそが一番の弟子だと思い込んでいて喧嘩になったという笑い話がある。
スピリチュアルな人というのは、ダライラマもそうらしいけれど、出会う人すべてに真剣に向き合い、そのときどきにこの人がすべてという愛を送るから、皆,特別に愛されていると思うらしい。
そしてそれは事実なのだ。
みなが特別なのだ。
ひとりひとりが心から愛おしい存在なのだ。
問題は愛されているのはあなただけではないのに、自分だけだと勘違いすることにある。
これは勘違いする方が心が狭い。
他者と比較して優位に立つ満足感、これがきっと嫉妬を生むことになるのだろう。
実は私、その時目の前にいる人が本当に好きで、思わずそう言ったりしてしまうことがある。
集中講座が終わってピエール・フェルッチとわかれる時、イタリア式のお別れをしてもいいですか?
ときいて、しっかりハグし合い、キスはしなかったものの右左のほほを合わせて、耳元で「大好きです。追っかけてフィレンチェに行ってもいいですか?と聞いた。彼は「いいですよ、でも前もって連絡してね」と。
社交辞令ではなく、私は本当にそう思ってるのだ。
気が多いと思われるかもしれないけれど、私の中で何も矛盾してない。
世の中は愛に満ちている。
せき止めてもあふれてくる。
すばらしい方が多すぎるから。
でも、独占欲も嫉妬も何もないから問題は何もないと思う。
早くこういう愛が理解されるようになったら、楽しくなるだろうにな~。
さえぎる雲一つなく
太陽がオレンジ色の光を輝かせて沈んで行ったあと
ビーナスが現れた。
瞬きもせずにじっと見つめる。
あたりが暗闇をまし
街の灯りがどんどん増えてきた。
家路を急ぐ車のランプが流れている。
いつの間にか,空は真っ暗だ。
それなのにほかの星は見えない。
たった一つだけ、ビーナスが孤独に私を見つめる。
今日は月もここからは見えない。
ビーナスは揺るぎもせず
泣くこともせずに
誇り高く一人で静かに輝くのみ。
地上から誘いかけるように光るビルの光にも
時おり横切るジェット機のライトにもなびくことなく
ビーナスは瞬きもせず
降りてくることもせずに
誇り高く一人静かに輝くのみ。
ときどき、何故、どうやって私が今ここに生きているのか不思議な気持ちになる。
こうやって音楽を聴きながらブログを書いてても、ここでパソコンをうっているのはいったい誰なんだろう?と不思議な気分に襲われる。ここで当たり前のように生きている自分が、あり得ない奇跡をくぐり抜けて生かされていることに、感謝の気持ちとともに、どうして?という想いに駆られる。
何故私がここに居て、あなたはいないのか。
過ぎ去ったたくさんの人達の思いを身近に感じつつ、どうして私がここに残されているのだろうと不思議なのだ。
いつ取り去られても不思議ではないこのいのちのはかなさを思う時、こうしてこの瞬間に生きて呼吸して、食べて歌って、人に逢い、泣き笑い、ここでの経験を重ねて行く平凡な日常が、新鮮な驚きと感動で迫ってくる。
こんな思いに浸ってばかりいては仕事にならないのだけれども、生きている人、なくなった人,死に瀕している人、今生まれでようとしている人、遠くはなれて姿を見ることができない人、ネットでつながっている人、まだであったことがない人、そういういろいろな人のいのちがシャボン玉のようで。
シャボン玉とんだ
屋根までとんだ
屋根までとんで壊れて消えた
かぜかぜ吹くな
シャボン玉とばそ
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