尾崎真奈美の天使語同時通訳します

ポジティブ心理学 カテゴリーの一覧

魂に注がれるミントティー

いろいろなところから、愛のうねりが届いてくる。
電話だったりメールだったり眼差しだったり新聞記事だったり、言葉にならない言葉だったり、思いだったり。
意識は全部キャッチしてるよありがとう!

自分の体験を通した深い理解と言葉・行動は、ありふれた同じことでも、受取手の同じような深さで魂のそこまで響いてくる。
元気でね、がんばってね、ありがとう、だいじょうぶだよ・・・
なんて言う何気ない一言に含まれる思いの深さ。

それはミントティーのようなさわやかでクールな熱さをもって魂の底に注がれる。
共感による寄り添いは確かに暖かい。
でも、それをも遥か下に見下ろす眼差しは、一陣の風のように、しかも風圧を感じさせないで知らないうちによどんだ想いを洗い流してしまう。
いや、流してどこかにやってしまうのではない。
ウスバアオイのお茶にレモンを入れたらさっと色が変わるように、一瞬のうちに化学変化が起きるのだ。
痛みから引き起こされる恐れ/心配/とまどい/不安などが、安心/確信/希望などの色に染まるのだ。

この熱い思いとすっきり感。
これがいろいろなところから運動として盛り上がりが伝わってくる。
確実に光を増している。
ありがとう
ありがとう

ポジティビティの反転

インテグラルポジティビティを提唱し
すべてを感謝していこう!
この世は光と愛に満ちていて
喜びに圧倒されています!と
軽やかに空を舞っているはずの私は

同時に
存在の底なしの深みと重さに耐え切れずに
どこまでも沈潜していくのだ

どうしたことなんだ
ああ
だからこそ
ポジティビティなんだ
ポジティビティはネガティビティに反転する性質を持つんだ、本質的に

でも
だからこそまた
ポジティビティに反転するのも事実なんだ

際限なく
深く広く
反転を繰り返しながらその真髄に近づいていくかと思えば
同時にカオスのうずに投げ込まれてしまう

説明も記述も拒絶してしまう時空を超えた彼方で

できることはただ
そのことに気がついているということ

それだけ

笑いなさい!遊びなさい!

どっかの文豪がどこかに書いてたな。
すべての悲劇は喜劇である、みたいなことを。

事件やニュースの当事者は笑う余裕はないと思う。
だからそういうことが起きてるんだろう。

笑いは、一歩遠くから眺めないと出てこないから。
笑うと、事象に同一化している人たちからは、親身になってくれないとか、わかってくれないと責められる。
共感をつきつめたら、人間には絶対にできっこないことがわかるから、それを求めたらつらくなるのは根本が間違っていると思うけど、寂しいものは寂しい、確かに。
でも.せっぱつまると無意識のうちに健康な人を闇(病み=真実が見えない状態)に引きずりおろそうと躍起になってくる。
これは困る。
闇がはびこり流行してしまう。
黒雲が空を覆っていくような感じで。

これを断ち切るには、笑いと言う剣が必要だ。
真面目になって戦ってはいけない。
それではますます闇が広がり、闇の勢力の思うつぼになってしまうからだ。

笑いの高貴な高度な機能は、これこそがスピリチュアルと言ってもいいくらいだと思う。

笑えない人、あなたは病んでる可能性あり。
特効薬は遊びです。
笑いの天才である子供たちと、鬼ごっこでもおしくらまんじゅうでもして、心から笑ってください。

注意:ここで言う笑いは、口元が歪んだ冷笑とは違います。

幸せにならないといけません!

なぜか?
それは本来の姿だから。

お花は、太陽の光・水分を求めて大きくてきれいな花を咲かせようとする。
同じこと。
人間だって本来、自分のもっている能力をのびのび伸ばして生きるように生まれついてる。
太陽がないと育たないのはお花と同じ。
潤いがないとかれるのもお花と同じ。
狭い場所にいっぱいあるとうまく育たないのもお花と同じ。

お花と違うのは、自分で太陽の方を向くことができること。
水や日向を探して移動できること。

お花はいい環境にうつし替えたら、葉っぱがしゃきっとしてぐんぐんのびる。
喜んでありがとうの声が伝わってくる。
人は劣悪な環境から出ようとせず、嘆くだけでみんなでしおれる方を選んだりする。

同情も共感も受容も、そこにとどまって全滅したら意味がない。
わき上がってくる感謝と喜びに支えられて光の方を振り向かなければ。

それが私の言うインテグラルポジティビテイ、日本語にすると統合的肯定性。

不思議な季節

出張授業って、何か宣教にいくような気持ちになる。

だって、この人たちとは、一生のうちもう二度と会わないのだから。
どれだけのことが伝えられるのだろうかと、祈るような気持ちで、しかし親しみやすくにこやかでユーモアたっぷりに教壇に立つ。

学生たちの反応は素直でかわいい。
すばらしかった。
短い時間に凝縮して知識と経験と愛を詰め込んだ。
私からのクリスマスプレゼントだ。
授業はKOKIAのありがとうでしめた。

不思議な季節だ。
街で出会う一人一人の人生を思う。
言葉にならないから眼差しで光を届ける。
微笑が皆に伝わっていくことを思い描いて。
橋の下で寒さに凍り付いている人にも、孤独な魂に震えている人にも、どうか伝わりますように。

ポジティブ心理学の真髄。
人はどうしたら幸せになるのか。
人の役に立つこと。
感謝すること。

ありがとう
ありがとう

光の共感

私のことを好きになる人がいる。
よく考えてみたら、私じゃないものを私の中に見てるからではないかと思った。
私の中に時々出てくる天使を見てるんだきっと。
彼は神々しくさわやかで圧倒される。
賢いし忍耐強いし、すべてを見通して穏やかで優しい。
どこまでも深くて透明で美しいから誰だって好きになるんだ。
素晴らしすぎるよ。
私だって狂おしくなるほど愛してるよ。

他人の中に天使を発見したときには、同じように圧倒されてしまう。
恋愛と同じような高揚感があるけど、何かが違う。
その性質はすべての人の中にあるから、彼でなければいけないという風に限定されないんだ。
だから自分を愛してほしいとか独占したい気持ちにはならない。
唯ただ、その美しさに感動して、圧倒されてしまうだけだ。

この美しさを共有していく喜び!
天使には天使がわかるんだ。
ああ、あいたかったよ。
ずっとずっとはじめから一つだったんだものね。

ツインソウルとかソウルメイトとか言う言葉があるけど、私から見たら、みんながそう。
高いところではみんながそうなんだ。
地上のは仮の姿だからね。

心理学では、痛みによる共感とかよく言われるけど、最近は喜びや光の共感が多い。
きっと、どんどんこの傾向が広がっていくだろう。
こわいくらいに加速してきたよ。
いったいどうなるんでしょう。

うれしすぎる毎日。
身体を大切にいたわりつつ行かないと、火のような喜びの情熱で焼き尽くされてしまいそう。

すべてうまくいく!

今朝起きたらふとこんな言葉がよぎった。

「すべてがうまくいく。」

なんという確信に満ちたうれしいメッセージなのだろう。
さらに続く。

「すでにすべてが成就している。」

ああ、そのとおりで。
もう何も言うことはない。

けど、今日の仕事準備とか明日の段取りはしないといけませんよ。
夢に浸りつつ、足元も見て今日もこなして生きましょう。

カウンセリングって本当にきくの?

昨日はポジティブ臨床心理学の研究会に行ってポジティブアプローチのすごさを思い知った。

悩みがあるときにその悩みを語ることで元気になるという根拠は、実はない!!
根拠がないにも関わらずなぜするのか?
慰められるからだ。
データから明らかなんだ。
カウンセリングして良くなった要因の第一位は、セッションにまったく関係のない外界の出来事だと言うセンセーショナルな論文はよく知られている。

しかしここに、本当に良くなる方法がある。
状況に関わらず、どんなときにでもそこにポジティブさを見いだして語る、あるいは書くと言うポジティブなアプローチで、元気になるんだ。

普通の人だけではない。
抑うつ症状で治療が必要な患者を対象として実験した結果、通常のカウンセリングだけ、カウンセリングと薬物併用、ポジティブな介入だけ、で比較したところ、ポジティブな介入だけでダントツに元気なって、その効果は一年以上あとでも有効だったと言う。
カリスマ的な講師が指導したのではないか?
ちがう。
実験を重ねて有効な方法を洗練させ、そのプロトコルを誰でも使えるようにした。
一般人は自分でネットで読んでやっただけで良くなった。
患者は、トレーニングを受けた25人のポジティブセラピストの指導によったのだ。

非常に厳密な研究だから、反論の余地はない。
結果のグラフを見たら誰でも納得せざるを得ない。
クリアに有意に優れているのだ。

反論する人はいるだろう。
でも、カウンセリングに行って救われました。良くなりましたと。
それは、自然治癒力だ。
風邪を引いたときに、薬をのんでも飲まなくても、寝てたらなおるのと同じだ。

前から直感的に分かっていたことが実証されるのはうれしい。
ポジティブ心理学ではこういう理論がどんどん出てきて、今までの根拠のない病的な思い込みが覆されていくのが痛快でたまらない。

受容/共感/自己一致はまちがいじゃないけど、もっと有効な方法があるってこと。
ロジャーズは自己一致が一番大切だと言ってる。

実はそれだけなんだ。
自分が純粋である、ウソ偽りなく透明に存在していること。
それだけでいいのだ。

ポジティビティにフォーカスするだけでいいんだ、喜んで。
こんなに単純なことなのだよ。


感謝の威力

感謝しなさいって言われて感謝するのって、何か邪道だと思っていた。
だってそういう気持ちはわき上がってくるものだから。
意識して感謝するって言うのは何か変だと思っていた。

でも、幸福研究によると、幸福に一番関連が深いのはお金や権力や家族や恋人、美貌や健康でもなく、感謝することだって言うことが実証されている。
また、感謝のワークが、どのワークよりも幸福度をアップしたという介入研究結果も多い。

で、やってみた。
確かにすごい効果があった。
はじめのに週間は、毎日5つ感謝することを数えてもらった。
習慣になってきたところで、それを伝えてみようと、行動化することを励ました。
ついには感謝の手紙を課題として書かせた。

この手紙が良かった。
私は読みながら何度も感動して泣いてしまった。
そこに書かれている方達の愛する思いや優しい気持ち。勇敢な行動に感動した。
同時に、それに対して感謝を表す人たちの素直な美しい心情に二重に感動してしまった。

正直に、感謝するのは苦手とかないと書いた人もいなくはなかった。
その素直な心情の吐露がまた私にはうれしかった。
おざなりに、ありがとうございますと言う言葉を並べている手紙よりずっと真実で、私はその誠実さに感謝した。

4週間にわたって、皆かなり変化した。
データ解析はこれからだけど、自由記述を読むだけで高揚感が伝わってくる。
うれしかった。
ありがとう。
一番うれしくて感謝して幸福度が増したのは、実は私自身だったのだ。

あなたの一番大切な貴重な思いをシェアーしてくれてありがとう。
世界が、人間が、こんなにも美しいことを思い出させてくれてどうもありがとう。
その事実は、今日もまた一日なんとか生きていこうかって言う勇気を与えてくれます。
あなたがいるから。
あなたのその思いが、私たちの命を支えてくれてます。
本当にありがとう。
大好きです。

ポジティブになることへの恐れ

日本人には日本人的な幸せ感があって、それは喜びと言うより満足感に近い,と言う人があった。

でも、幸福感調査で世界的に低い結果であることをどう解釈したらよいのだろうか?
感情表出、特にポジティブ感情に対する抵抗が非常に大きいのは,実は恐れに関係している。
それを幸福でない人への思いやりからだと言う人がいるけど,自分の幸福を減らすことで他者の幸福が増すというのだろうか?
幸福感が収入や社会階層/学歴/知能/容姿と言った 外的なものに依存しないことはどこかに書いた。感謝と言う自分の気持ち次第であることは実証データでも明らかである。

自分の幸福を減らして他者の幸福が増すと考えるのは物質レベルのみしか視野に入っていない考え方である。それは他者の不幸を喜ぶと言う不健康な反応であって,決して助長すべきものではない。
自分の幸せをキープしたまま外に対して不幸な顔をすると言うのは、つまり内面と表出が異なるとしたら,エネルギーの無駄で疲れることだ。
統合失調と言うのは,リアルなものと表現が食い違う場合に起きてくる病的なあり方だ。
リアルであること,オープンであることはポジティビティの基本だけど,恐れがあっては達成できない。

傷ついた経験は根強く残って苦しむものだけど、人間は、その経験よりもっとたくましくしなやかになってすすんでいけるはずだ。修復のために必要なのは、睡眠と休息と言う単純なことなんだけど。心の傷は肉体運動によって回復していくことが多い。
少なくとも良く眠れるようにはなる。
重荷で動けないときには逆説みたいだけど運動してみたらいい。
何も考えられないほどがんがんやってみるのがいい。
そうしたらおいしく食べられ,ぐっすり眠れる。

どうやって恐れを克服するかと考えるより、感謝を数えながら走ってみるなんて言うやり方の方が何倍も効果的だ。
ポジティブセラピーに関する驚くべき事実はまた今度。

幸せになるためには?

1時間の幸せのためには    おひるねしよう!
1日の幸せのためには     遊びに出かけよう!
1か月の幸せのためには    結婚しよう!
1年の幸せのためには     金儲けしよう!
一生の幸せのためには     人助けをしよう!

中国の言い伝えだそうで。

ポジティブ心理学で追及する幸せは一生ものの幸せです。

注:研究データによれば、結婚してうれしいのは平均2年までだそうです。
それ以降は、平均すると結婚前より幸せ度は下がるそうです。

考えちゃうな・・・
やっぱり人助けですかね・・・
確かに楽しいわ、それ。

喜びと悲しみの同時進行

喜ぶのはまだ早い,とよく言われるけど,私はその反対に、悲しむのはまだ早いと言いたい。

喜びも悲しみも感情としては普通同じくらいの割合でおきるのだと思う。
フレデリクソンは,その割合を3対1にしたとき,一番物事がうまく行くからポジティビティを増やすようにと提唱してる。

私は悲しみが少ない人ではないと思う。
人と比べられないけど,平均よりはずっと多いと思うし深いと思う。
でも,喜びは人と比べられないくらいにもっとスーパーに多く深いと思う。

悲しくても喜ぶことは同時にできる。
どちらにフォーカスするかは自分の選択。
振り向くだけって私がよく言うのは,そういうこと。

放っておくとたいていの人はネガティブに偏るみたいだ。
だからポジティブを重視するんだけど,それは何もネガティビティを捨てろってことじゃない。
捨てたり切り離したりすればするほどネガティビティにコントロールされてしまうんだ。
あっそっか、ってながめてたらいいだけ。
戦わなくていいんだよ。
通り過ぎていくのをみてるだけで。
そうしたらきっと、圧倒するくらいの感謝や希望が自然にわき上がってくるよ。
だって、もともとそうなんだから。

戦うのではなく,手放すこと。
軽やかに風に舞っていたらいいだけ。

いってらっしゃい。

メタ・ポジティビティ

ある方がポジティビティは方向性の問題だから、臨床心理学者はみんなポジティブなんだと言った。
ま,そうとも言える。でも,どこにフォーカスするかで少し違うかもと思った。
解決指向なアプローチは確かにそういえると思うけど。

私はポジティビティは視点の問題だと思う。
あちらから見るんだ。
今日の出来事とか環境とか社会とか,もっと言ったら感情とか健康とかだって無関係なんだ。
こっちから見たら世界は悲惨だ。

スピリチュアリティってわたしはこの、メタ・ポジティビティであるという立場を取る。
それは実存とか意味なんて難しいことじゃない。
要するに,遊びよ,お笑いよ,すっとぼけよ,ユーモアよ。
難しく言うと,脱同一化disidentificationよ。
つまりこの世は夢だってこと,劇だと言ってもいい。
その視点。

メタ・ポジティビティは,ネガティビティと対ではない。
ポジティブ感情なんて言うときのポジティビティとネガティビティの両方を含んだメタレベルのポジティビティなんだ。

そしてこれこそが人間の本質であるというのが私の立場。
そしてこれを実証しようというのが私の野心。
そう,不可能に挑戦することこそが面白い。

不可能?
そう不可能なことなのだ。
可能性はいくらかあるかなと,それを探るだけの話。

翻弄される快感

ここ数日の強風は、何か非日常的な空間を作り上げている様な気がする。
気持ちがさざめいているのだ。
不穏というか、何がおきてもおかしくない、何かが起きる前兆のような。

こういうとき不安になる人が多いようだけど、実は、わくわくどきどきスリルが一杯で好奇心がかき立てられて楽しくて仕方がない。

強風に翻弄されていく楽しみ。
巻き上げられてどこに着地するんだろう?
目的地なんかわすれちゃって、このダンスを楽しむがいい。

すべてが最高に美しく配置されるようにあらかじめわかってるのだから。
プロセスを楽しんで。
すべての瞬間を抱きしめて。

何もしないという貢献

生き生きと活動してると新陳代謝があがって二酸化炭素排出量が上がる。
トライアスロン練習なんかしてると、洗濯物がやたらと増える。この時期乾きにくいから大変。

みなが元気になってスポーツをはじめたりするのを見るのは嬉しいけど、洗濯機は回りっぱなしで、水も洗剤も電気もめちゃくちゃ使っている。
環境に良いわけがない?

そんなことをいろいろ考えていたら、ニートや引きこもりでじっと静かに生活している人、呼吸も浅くて酸素消費量も少ない人たちってすごい環境保護に貢献してるんだなと思った。
ひにくでもなんでもなくて、すばらしい気づきを下さったと思った。
ご本人達はそんなこと何も考えてないと思うし、元気に生き生きしたいと思ってるかもしれないけどね。
中にはそれですごく満足してる人たちもいるみたいで。
それでいいんじゃないって思う。
何もアクセク仕事することだけが人生じゃないし、いろいろな人がいるのが楽しいし、いろいろあるからバランスが取れてるし。

何もしない人たち、ほんとうにありがとう。
あなたの存在そのものに支えられています。
あなたがいるから動けています。
限られた地球資源いっぱい、欲張って使っててごめんなさいね。

ポジティブになろうとしてはいけない

ポジティブ心理学はひどい誤解を受けてるけど、一番大きな主張はポジティブになろうとするなってことなんだ。

ポジティブになろうとするとき、明るくなろう、楽観的になろうとするとき、自分の中にあるネガティブな思いは抑圧されたまま大きくなってくるものだ。
戦って排除しようとするとますます強大になってくるのだ。

ポジティブ心理学では言う。
ネガティブさを排除してはならない。
他者にたいする親切行動や感謝、ユーモア、美しさに感動することなどを通じて、ネガティブさは解けていくのがわかるだろう。

一番いけないのは、ポジティブになろうとしてネガティビティと戦って克服しようとすることだ。
戦ったら必ず負ける。

「汝の敵を愛せ」って、こういう意味もあったのかって。
そう、愛して抱きしめたら、敵は腰抜けになってしまうのだ。
お試しあれ。

ルシファー効果

第一回世界ポジティブ心理学会に参加してきた。
スタンフォードの著名な社会心理学者ジンバルドが話していた、ルシファー効果が気になった。
ポジティブ心理学会でなぜ悪の心理学のことを話すのかと拒絶反応があった。
効果的な映像で人間の最も醜い部分を抉り出し、これでもかと訴えるプレゼンには、私は吐き気と頭痛で耐えることができなかった。
帰国してしばらくたった今になって、冷静に考えられるようになった。
帰国した直後にカミカゼ特攻隊の映画を観る機会があった。

人間はどういう善良な人でも、環境によって悪くなれる。

ルシファーは、美しくかっこいいのだ。
お国のためという大義名分はなくても、愛する家族を守るためという美徳にすり替えられた非人間的で破壊的・残虐な組織的な行動は、振り返ると背筋が寒くなり、吐き気をもよおした。

言葉にならない思いがわき上がってきた。
表面的に美しいものに惑わされてはいけない。
一時的な気持ちよさに惑わされてはいけない。

ポジティブ心理学をやろうとする人は特に、このルシファー効果について意識的に目覚めていなければ危ないと思う。

美徳というのは本当に難しいものだ。

叡智とエイジングと

賢者にはなりたいけど、年はとりたくない。
でも、一部の天才を除いては、賢くなるにはやっぱり経験が必要だったりする。
というか、凡才は経験しても、賢くならなかったりもするけど。

先日の講演会でPTGの話が出た。
PTSDではなく、PTG.
つまり、トラウマのあとで、心が壊れるのではなく、もっと強く成長していく話だ。

同じ経験をしながらどうしてこんなに差が出るのだろう?
SOC首尾一貫感覚も、もともとストレス対処のあり方で健康になる人の特色を記述している概念だ。
だからきっと、PTGも同じようなものだと思う。
つまり
1.しっかりとした現実把握
2.現実対処できるという信頼
3.出来事には意味があるという確信
これがあるとき、健康に、成長し、賢くなると考えられる。

付け加えるとしたら、ポジティブイリュージョンによる楽観主義かな。
これはある意味でしっかり現実を見つめる、理解するということと矛盾する。
ここで考えたのは、理解には二種類あるということ。
頭で論理的客観的にする理解。認知と呼ばれる概念。
SOCで言う現実把握はこれに近いのかもしれない。

それに対して直感的身体的だったりもする主観的な理解。
高橋正実は腹の理解、あるいはrefrective understandingと呼ぶ。
これって、ポジティイリュージョンと呼ばれるものに近いのではないか。
魂の底では、大丈夫だとわかっているからだ。

叡智はこの両方の理解の統合だという。
頭での理解は勉強と経験が必要かもしれない。
だから年をとった人のほうが有利なのかもしれない。
でも、時々小さな子どもでも、魂の底の光をそのまま体現してアタリマエのように真理を片言で表現するのに出会う。

老賢者って言うけど、小さな賢者もいると思う。
何も賢くなるために年取る必要はない。

肉体はもちろん若い方がいいからアンチエイジングでフレッシュに保ちつつ、スピリチュアルな成長を目指すと最高だなって思う。
そういえばスピリチュアルな人って、時々年齢不詳的に若かったりする。
健康なんだろうとか、JOYにあふれているからだろうとか思ったりするけど。
そのあたりのメカニズムもそのうち解明されるんだろうけど、人工的なのはどうも趣味じゃないなあ。

賢くなりたいけど肉体は年取りたくないっていうのはきっと、みんなの願いだろう。
みんな年はとるけど、もう少しゆっくりにしたいってことなのよね。
あるいは、健康で長生きしたいってことなのよね。
長生きしたくないって言うのはきっと、不健康な老人のイメージがあるからだろう。
健康で長生きできたらとても素敵だと思う。
体のメンテナンスに気をつけて、医療のお世話にならないで120歳目指してがんばろうっと!

ひっくり返しの真実

昨日授業でバイロンケイティのワークを行った。

そのプロセスの中で、自分が思い込んでること正しいと思っていることを完全にひっくり返してみるという作業がある。
たとえば・・・

彼のせいで私の人生はめちゃくちゃにされた。
→私のせいで彼の人生はめちゃくちゃにされた。・・・なばかな!
→彼のせいで私の人生はすばらしくなった。・・・・・は???

みたいな書き換えをしてみるのだ。
この時に問題になるのは、なにが正しいかではない。
客観的にどう判断されるかではない。
自分がそういう風に捕らえたときに、自分の気持ちがどう変わるかということだけが問題となる。
現実がどうであれそれは関係ないんだ。

そしてひっくり返してみたらいろいろなことに気がつくのだ。
確かにな・・・そういうこともあるのかな・・・
隠されていて気がつかなかったもうひとつの真実に気がついたときのショックは大きい。
そっと手紙をくれた学生がいた。

「大きな衝撃でした、涙が出ました。このことは私の人生を変えてしまいそうです。」

ありがとう。
私も同じです。

もしいろいろな思いで自分が苦しくなっていることがあったら、ひっくり返してみたらいい。
繰り返すけど、それが真実かどうかは問題ではない。
あなたが苦しみから解放されることだけが私の願い。
あなたの笑顔が私の喜び。
それだけなの。

祈りとは

結局のところ、人が人を助けることなんてできない・・・

どうすることもできない。
そのとき祈りしかないことに気がつく。

祈りとは何か。
お願いです!愛する人を助けてください!!そのためだったら何でもします!
こういう願い事が祈りだと思う人が多いみたいだけど、実は違う。

祈りとは、願うことではなく、感謝することでしかない。
つまり、どのような状況にあったとしても、それが必要なプロセスであり意味があることに対する感謝だ。感謝は強制されることではなく無理やりすることでもない。
どんなことの中にも含まれる良いことを見つけていこうとする意志の働きだ。

これが癖になると、生活そのものが祈りになってくる。
存在の根源に対する畏敬と感謝に圧倒されるような思いを感じるとき、細胞の一つ一つが「ありがとう」と叫びだす。
それが祈りである。

うつ癖

癖というか習慣は、思考や行動をパターンにして自動的に操作するから省エネになる、つまりストレスが少ない。

なぜこんなにも多くの人が悩んだり苦しんだりしているのか、理由がわかった。ただ、癖になってるだけなんだ。それをやめたら解放された心地よい世界が広がっているのに、知らないから歩みだそうとしないだけだ。
どんなにいいことでも変化はストレスになる。

だからDV被害者を救出しても自分から悲惨な状況に戻ったり、奴隷が解放された後、もとの主人のところに戻ったりするわけだ。

生理的にも説明できる。
脳の神経伝達回路が、不快系であっても快感系であっても、たくさん通過する道はならされて通りやすくなり、軸策が太くなるらしい。不幸に慣れてる人は、いいことがあっても打ち消すし幸福に慣れてる人は、悪いことでもよく解釈する。

人間には意志がある。
幸福になることを選択することはできる。
最新の研究では、幸福感は、他者のためになることで培われることが最も大きいという結果が報告されているし、幸福な人は他者の幸せに奉仕することでますます快感をましていく。

幸福になるのは自己中心的なことではない。自己中心的な思いや快感が他者の犠牲や不幸の上に成り立っているというのは、物質レベルにしか意識がいかないときにおこりがちな発想だ。

物質には限りがあって、私がもらったらあなたの取り分はそれだけ減る。だけど、愛もスピリチュアリティも幸せも、この物理法則にだけは従わないのだ。与えれば与えるほどますます与えられるというこの面白い法則は体験して実感するしかない。

意志のある人間は自分から幸福を選択していくことはできる。
つまり、他者への奉仕の喜びを選択していくことはできる。
きついのは癖になっていないはじめだけ。
慣れてしまったら、こんなに面白いことはない。
こんなに楽しいゲームもない。
こんなに自分の価値を満喫できることもない。

虚無感やうつ状態は、これを知らないだけ、経験していないだけ、癖になっていないだけ。

お化け退治

お化けって訳がわからないから気持ち悪くて。

お化け退治の方法がわかった。
明るく光で照らし出して、姿をくっきりと把握したらいいんだ。
意識化したらいいんだ。
言語化したらいいんだ。

そのとたんお化けは消え去るよ。
試してごらん。

追い詰める人たち

みんなのんびり笑って暮らしたいと思ってるらしいけど、そのわりに、自分で自分を追い詰めてるように見える人がたくさんいるように思えてならない。自分だけならいいけど、それがどこかでいい人生だとおもってるのか、他人まで追い詰めてる人も結構いる。

体力、精神力の限界までチャレンジしていくのは、確かに自分の有用性を感じたり達成感もあったりして一種の快感なんだと思う。そうでなければこんなにたくさんの人がぎりぎりまで追い詰めるわけがない。人によってはそれで命を落とすことだってありえる。合理的に考えたら、まったくばかげたことである。

それなのに何を求めて追い詰めていくのだろうか?
限界の果てに何があると言うのだろうか?

無意識的に、そこにある目に見えない光をつかもうとしているのではないだろうか。
限界を超えるような状況の中では、生理学的に言うと非常事態に備えるために、脳内麻薬と呼ばれるエンドルフィンなどの快感物質が放出される。その快感はきっと、光につつまれた、無限の可能性を体現しているような感覚に違いない。すなわち自分の限界を突破し、時空を超えるのだ。

これを知っているからだろう。
一見苦しいと思われるような限界にチャレンジしていく人たち、よくやるねえって思うけど。
ただ、やりっすぎだけにはご注意。
命を落としたら、その醍醐味ももう味わえなくなるってことだから。

人間ってほんとふしぎだ。
きついことをやろうとするんだもの。
でも、それは強烈な快感だからに違いない。

一番辛いこと

辛いことっていろいろあると思う。
人それぞれだとも思う。
だけど、生きていて一番辛いことって、なんだろうか。

愛する人との別れ?
確かに辛いな・・・
誤解されたままでいること?
うん、それもきつい。

でも、深いところまで行ってみたら、自分が自分自身でないこと。
自分らしく生きていないこと。
これは魂を破壊していく。

表面的にいくら順調に見えようとも、魂の虐待によって息絶え絶えになっている存在が、訴える場もなく存在しているのを垣間見ることがある。

目に見えるところなら手当てができる。
薬の処方もできる。
しかし、手の届かないところ、見えないところで傷を負っている存在に何ができると言うのだろうか。

祈りしかない。
何もできないのは辛い。
でも、この体験を感謝していくことはできる。

ありがとう。

それぞれのペースでそれぞれのゴール

実は私は今年になってから何を思い立ったのか、いきなりトライアスロン目指してトレーニングを始めました。といっても、走ったはこともバイクも乗ったことがないし、趣味で少し泳ぐ程度で、周囲はみな、私が運動してるとこなんか想像できないといいます。
誰も信じないことをやってみるという挑戦は結構面白かったりします。

でまたいきなりですが、誘われるまま、レースって何か知らないで先週末、近場で行われたデュアスロンに出場しました。

もう絶対二度とやらない!と思いました。けれど、同時に、またやってやる!と思いました。
ちょっと長いですが、その苦し楽しの体験をシェアーしますね。

私はもちろんビギナーコースなのですが、それにしても、レースというものに出たこともなければ見たこともなく、なんか場違いなバレエのスカートつきレオタードにレッグウオーマーで、どきどきしながら会場入りしたのでした。

結果は、ビギナー女子14位!
て言うとすごそうですが、要するにビリ。
何がビギナーですか!!
パーソナルトレーナーつきでフルマラソンとか出てるような人たちまでいるんですよ!体つきもいでたちも顔つきも違います。
いや~ん、なにこれ・・・お遊びお祭りじゃないのね・・・もう・・・どうしましょって感じ。
しかし、完走したんです!!
私は、もうこれだけが目標ですから、大満足。

スタートして1分以内に、みんなの姿がはるか遠くへ行ってしまったときには、屈辱感と寂しさで、こんなレース出るんじゃなかった(1回目)と思いました。でも、はじめたからには終わりまで何とか行くぞ!って、マイペースで淡々と走りました。
はじめにランで2周してからバイクです。私はコースガイドをよく見てなかったためか、もうこれ以上走りたくないと思ったからなのか、一周でトランジットに入ってしまい、もう一周するんですよ!っていわれて、ええええええええ、もうやめる!と思いました(2回目)。これ以上走れない気がしたんです。みんなよりすごく遅いけど、あとで記録を見たら自分のいつもより全然早い速度でした。

しかし何とかバイクまでたどり着いたら少しは挽回できるときを取り直し、二周目いきました。
トランジットにぽつんと取り残された私のバイクがさびしそうに待ってました。
そう、あたりにはもう誰もいないんですよ。横のほうでは次のレースのスタートがどんどん始まってる様子です。
しかし、3日前にゲットしたばかりのバイクで快調に走りました。
しかしものすごい風とほこりで、太陽もまぶしく(サングラス絶対いりますね)目が痛く咳が止まらずほんと苦しかったんです。
特に上り坂はギヤの使い方がわからず一番重いまま上ってほとんど止まりそうでした。
でも、くだりのときはかせいでおかないと・・・と思って結構かなりスピードを出しました。私としては全速力で30キロは越えてたと思いますが、その脇を信じられないスピードでがんがん飛ばしていく人たちがいました。ついていくのは無理でした。
ああしかし、TV見ながらこいでたジムのエアロバイクとは違って負荷があるんですねえ・・・

ここでまた失敗。二周しないといけないのに、トランジットとにはいってしまったんです。係りの人もいけないと思うのよね。こっちだって言うんだもん。こんなに遅い人がいると思わなかったんでしょう。ったく。。。
で、またまた時間を食っちゃいました。もう、いや!(3回目)
やっとバイク終わったと思ったら、まだって言うのは、精神的にがっくりきます。しかし、気を取り直し、できるとこまでやってみよう・・・と思いました。もう、モモはパンパンで、息も絶え絶えです。もういや!とやけになってバイクを飛ばしました。

何でこんなきついことやってんだ・・・きついことしないっていうのが私のモットーだったじゃん。やめようか、でも、やるといったからには最後までやるよ、歩いてもいいから最後までやる!

という思いで、バイクからセカンドランに入りました。トランジットのときや水を飲みながら走るなんて芸当はできません。ふう~と一休み。
スポーツドリンクを2杯いただいてすぐ走ろうとしたらむせちゃいました。ゆっくりいこう!
とへらへら走ってたら、「もうやだ~はしらない~やめる~~~」って誰かが泣いてます。前に7歳くらいのちっちゃな女の子が泣きながら歩いてました。キッズ部門の子みたいです。あまりの健気さに、思わず駆け寄り、「よくやってるね・・・はしらなくていいよ、歩いていこうよ、だいじょうぶだうじょうぶ、えらいね・・・いっしょにいこうか?」思わず抱きしめちゃいました。いいこいいこして少し手をつないで歩いてたら、スタッフがきました。そのこに「おネーさんと行こうか?」私に「どうぞレースをお続けください」
もっと歩きたかったんだけど、促されてしぶしぶ走り始めました。
(あとでわかったんですが、正式には助けられたらその場でリタイヤなのだそうで。レースって非人間的ね・・・)

最終ランナーだから?見るからに弱そうだし?見知らぬ人たちがみんなが応援してくれるんですよ。「がんばれ~」「マイペースでいこう!」「ゴール見えてるよ!」
は~いありがとう!

ゴールが見えました。選手は誰もみえません。
きれいなテープがはってありました。最後の直線コースの100メートルはきれいに走りたいと思いました。実は、その前の10メートルくらい、木陰で人から見えないとこでは、ラストスパートに備えて歩きました。
そしてフィニッシュ!
手を上げてピースピース!!でニコニコとテープを切りました。
カメラマンが待ち構えていて、バババババって写真を撮ってるのが見えました。
やった!!やった!!いえーい!!

ずいぶん先についてた友人達に迎えられ、「楽しかったでしょ?」と言われて、「えええええんきつかったよ~~~」って、涙が出てきました。
でもそれは、きつかったからというより、完走できる体と精神と環境とすべてが与えられていることに心から感謝したからなんです。

本当に、ありがとうの気持ちで胸がいっぱいになりました。

そしてひとつ発見しました。
今までいやだとか苦しいと思ったらすぐにやめるのが私でした。
でも、私はやめなかったんです。でも、そしたらできるんですね。
もう二度とやりたくないと思ったほどきつかったんですけど、でも、できるんですね!これを発見しました。自分の限界を自分で決めてはいけないと思いました。もちろん慎重にすべきだけど、人間って。、すごい可能性を秘めてるんだな~と思いました。

「それぞれのペースでそれぞれのゴール」
という言葉にじーーーんとしました。

すばらしいレッスンでした。
すべてに感謝です。
苦痛は喜びの子どもです。
トライアスロン、癖になりそうです。

道徳的美しさが愛をはぐくむ

ポジティブ心理学の最新ニューズレターに、elavation(なんて訳したらいいのかわからない)の話が載っていた。これは、他者の道徳的行動に接して感じる情緒的反応であり、非常に優しい気持ちになるのだそうだ。
そしてこれにはオキシトシンというホルモンが関連していて、なんと授乳中のおっぱいの出に関係しているらしい。実験では、他者の感動的な話を聞かせたり映画を見せたりすると、母親は赤ちゃんを抱きしめたりおっぱいがあふれ出てきてしまうという。
つまり、他者の道徳的美しさが、愛をはぐくむとでもいえる話なのだ。

フィクションよりも実話のほうが効果があり、ただのストーリー聞かせより臨場感のある話のほうが効果がある。
この反応を引き起こすのに有効な年齢は高校生から大学生の間だという。年をとったら感動しにくくなるらしい。

だとしたら、授業中に余談として毎回美しい感動的な話をひとつするのもいいなと思った。もっといいのは、自分自身が道徳的に美しい行動をすることに違いない、それがまさに生きた教材なのだから。
うん、そうだ。
今日も何ができるのか、小さな親切を見つけてみよう。

嘆きのストーリーだって、手を差し伸べることでうつくしい人間的なストーリーになる。
今すぐ自分でそのストーリー作れるはず!

たとえば、ご無沙汰している古い友人や親にどう?
今朝、ロードバイク初乗りで信号待ちしててこけた私に、車の人が窓を開けて大丈夫ですか?って声をかけてくれた。そして、信号が変わって走り出す前に確認してゆっくり伴走、護走してくださった。
うれしかった!
こういうことは、毎日いっぱいある!!

何したらいいかわからない人はこのサイトをどうぞ。
どんな人だって、時には助けを必要とする。
この写真最高にキュート!
http://www.randomactsofkindness.org/

統合理論?

すべての理論は部分的真実を物語っている。
だからどのような理論も間違いであるとはいえないし、すべてを統一する完全な理論もないのだ。

これがウイルバーの主張するインテグラル思想だと思う。
すべての分野のすべてのレベルでのあり方を尊重していくという包括的で暖かい理論に接したときには、感動した。これをみなが理解したらいさかいなんかおこるわけがない!
本気でそう思った。

でも今、この統合理論のほころびをも感じてる自分がいる。
理解していないせいかもしれないけれど。
ほころびというより限界だけど。

実際、この理論によるとすべての理論や立場には限界と役割があるということである。そしてそれはこの主張をしている統合理論そのものにも当てはまる事実だと思う。
としたらこの統合理論の限界と役割を記述する必要があり、となるとそれらを統合しためた理論がまた生まれてくる可能性があり、そうなると、この超越理論は永遠に続くことになる。

一体、どう考えたらよいのだろう。
ま、今日のところはこのあたりでやめておこう。

人それぞれのあり方にはすごく意味があるんだよね。
みんな一生懸命なんだよね。

加害者・被害者

加害者は責められる。
被害者は同情される。

でも、どちらも悲しく辛い悲惨な状況なのだ。
どちらかというと、加害者のほうが傷みは複雑で奥深かったりする。

加害者も被害者もない。
あるのはただ、人間の弱さと痛みだけだ。

そしてそれはすべて、私自身のものなのだ。

痛みからのメッセージ

誰でも痛みは嫌いだと思う。
きついときには、痛み止めを使って神経をまひさせる。
でも、まひさせてしまったら、大切なメッセージがわからなくなる。

立てないほど眠れないほどひどいときにはしぶしぶというか、すがりつくように痛み止めを取るけれど、そうでないときは、痛みを多少我慢して味わってみることが多い。

女性が痛みに強いなんて誰が言ったのだろう。
私は非常に痛みに弱い。
痛いだけで、もう人生も終わり、世の終わり、みたいな気持ちになる。
一生続くならもう生きていたくないような気持ちになるけど、今のところ、必ず痛みは治まるから生きてこられている。

痛みは取り去りたいけど、そのメッセージをくんでおかないとまた痛みを繰り返す。
たいていの場合思い至るものだ。
あ、あの時無茶したからな。
きついのに酷使してしまったせいだとか。
無理をするのは根性があるというより、思慮が足りないといったほうがいい。
長い目で見たら損失のほうが大きいからだ。

それを痛みはわからせてくれる。
ごめんね。
わかってるつもりなのに、また無理してしまう。
もっと優しく取り扱ってあげよう、まず自分から。

除夜・浄夜

除夜とは夜を除く、だから寝ないのだそうだ。
何やるかって言うと、今年中の汚れを全部落としてきれいになって新しい年を迎えるのだそうだ。
お掃除したり、忘年会で大騒ぎして鬱憤を蹴散らかしたり、日ごろの失礼をお歳暮やお年賀で取り戻してリセットする時期なのだろうか。

よく考えてみたら、これは別に年末に限らなくてもいい。
毎日夜寝る前に、お風呂はいってお掃除とかたずけをして、出しそびれた手紙や仕事の段取りをしてから寝たらどんなにすっきりするだろう。
今年を振り返って反省して新しい目標を掲げるという習慣も、毎日していたほうが忘れないに違いない。

でも現実は、忙しすぎて一刻も早く横になりたいとか、気になることにとらわれて反省する余裕もなかったりする。

ユダヤ人の古い習慣で安息日というのがある。
サバティカルといって大学などで研究休暇がとられたりするのもこの名残だ。
安息日は金曜日の日没から始まる。
一切の仕事(料理・そうじ・買い物などの家事も含めて)が禁じられているため、金曜日の午後は会社も休みになり、家に帰って日のあるうちに!と家中の掃除や安息日に食べるものの料理などをする。
土曜日の日没までは仕事をしないでゆったりと家族で過ごすのだ。

これは非常によくできたシステムだと思う。
人間はほおって置いたら何でもやりすぎてしまう傾向にあるからだ。
振り返り整理して汚れを落とす作業は強制的にしないとなかなかできない。
週末もなく働いたりすると、ストレスや健康問題が生じたりして長い目で見たら効率は落ちてしまう。

年末はそういう浄化の時期として大好きだ。
お掃除をして気がつくことは、汚れがひどくないうちにさっと吹いておけば楽に取れるのに、今となっては強力な洗剤や力任せにこするなどしないと取れなくなってしまっていることだ。厳しいなあと思いつつ、もう取れないのかなあと思いつつも、日にちを置いて漂白剤を3回塗布してみたら、少しづつ薄れて新品のようになった。
心も体も同じことだ。
あきらめないで根気よくやったら根治できるんだと言う教訓にもなった。

いよいよ明日の夜だ。
あなたはどのように過ごしますか?

愛あればこそ!

ああ愛あればこそ生きる喜び
ああ愛あればこそ世界はひとつ
愛ゆえに人は美し

ベルバラが昔ブームだった頃宝塚ではやった歌の歌詞。
オスカルとかマリーアントワネットとかの恋人に対する愛を連想する人が大半だろう。
フランス革命の中、命がけの愛は恋する人を超えて周囲の人や民衆国民にまで広まっていった。

愛はすべてを一変させる。
不運や悲劇のさなかでも何とか生きていくことができる力を与えられる。
苦しみ悲しみの涙を、感謝と喜び・感激の涙に変えていくのも愛だ。

さまざまなレベルやさまざまな視点から愛とはが論じられる。
ナルシストの問題は自己愛ではなく、他者にたいする愛が欠けることである。
愛はどのような愛でも、愛する人愛される人の双方を癒し、育て、生かす。
病理は愛のゆがみではなく、愛の欠如にある。

どのような立派な行為でもシステムでも愛がなかったら無に等しい。

ただただ幼いだけなのに

ただただ幼くて、本人はひたすら一生懸命人のためにやってるのにそれが理解してもらえない、そのフラストレーションからとっぴな行動になってしまっている、と思えるようなことが非常に多い。

このような人たちに、上から正当だと思われる決まりや教えを説いても、どうして?なんで?と理解できないまま、反省が見られないとまたしかられる羽目になる。

大人にはアタリマエだと思われることにたいして、単純に、そのなぜかが理解できないのだ。

どうしてピアスしてはいけないの?
どうして髪を染めてはいけないの?
どうして授業中にトイレにいってはいけないの?
どうして疲れたら休んじゃいけないの?
どうして給食を全部食べないといけないの?

などは実は私にも理由がわからない。

家に帰りたくないって言ってる子に付き合ってファミレスで夜明かししてなぜいけないの?
友達が困っているからお金貸したりやったりしてどうしていけないの?

などなど、一生懸命よく生きたいと思ってやっていることなのにしかられることが多すぎて。
でも、大人は同じことをしてるのにしかられないし。
いい子になろうとしてがんばって言いつけを守ろうとしてたら、大人には好かれるけど友達からは嫌われる、いじめられる。

こういうジレンマの中で、純粋な子ほど混乱している。
言ってることとやってることが違うと、どうしたらいいのか、幼い魂はわからなくなっている。

幼い人は、感じてること、思ってること、言うこと、やることが同じでないと理解できないのだ。
単純な話。
大人は、このどうして? にしっかりと答えて欲しい。
もしわからなかったら、頭ごなしに、「いいからそうしろ!」ってどならないで、「ごめんわからない」といって一緒に考えて欲しい。

身代わり

誰かが犠牲にならないといけないとか、そういうことはないほうがいいんだけど、もしそうだとしたら、愛するあなたでなく私が選ばれたんだとしたら、どんなに嬉しいことだろう。

石が落ちてきた・・・あなたでなく私に当たってよかったよ。
蛇にかまれた・・・あなたでなく私でよかったよ。

痛いことがあるとき、私は勝手にそう思うことにしています。
あなたでなくて本当によかったよって。

腰痛は、あなたのかわりってことじゃないような気もするのですけど・・・
でも、勝手にそう思って喜んでます。笑

ポジティヴィズム?

なんでも積極的に物事を捉える傾向を、英語でなんていうのかなあ・・・
ポジティブに積極的に捕らえるから、ポジティヴィズムじゃないかって勝手に思っていたら、どうも変で。哲学用語で論理実証主義という意味だそうで。

ポジティヴィズムは、積極性とか自信過剰とか言う意味もあるみたいですが、要するにい・・・

今、調べてたらますますわからなくなってきました。哲学は手ごわいです・・・

日本語でポジティブというのは、英語では楽観主義、オプティミスティックというのが一番近いんでしょうね。
物事のよい面を見る。
これは元気になる方法だけど、これができないって悩む人は悪循環のわなにはまります。
どうしたらいいか、発見しました。

ネガティブになることのよい点を探すんです。
傷つくことから守られるとか、慎重に安全に行動できるとか、人を振り回したりしないとか、変わらない安心感があるとか・・・
いいじゃないですか、それで。

といってたら、「わかってもらって超嬉しい!」

はい、ほら、実はあなた、ポジティブになってるし。笑

罪悪感

日本人はたぶん、罪悪感を持つことは悪くないと考えている人のほうが多いだろう。

古典的な心理カウンセリングビデオ「グロリアと3人のセラピスト」でクライアントのグロリアが問題にしているのは、罪悪感の克服だ。
罪悪感を持つことは良くないからそれをなくすためにどうしたらいいのか、というテーマでカール・ロジャーズと話し合うのだ。
罪悪感を持つことは悪くないと言う価値観の中にいると、グロリアの悩み自体も理解できないであろう。
その罪悪感というのがまた、自分のボーイフレンドとの関係について子どもにうそをついてしまったと言う内容なのだ。
そのようなことで罪悪感を感じる日本人はどれだけいるのだろうか。
また、10才の子どもに、大人の性的な話をオープンにする事をよしとする日本人はどのくらいいるのだろうか。

日米を行ったり来たりすると、このあたりの価値観と感性の違いに非常にとまどうこととなる。
アメリカに行かないまでも、欧米の雑誌や翻訳本ばかり読んでいたら、いつの間にか、考え方が英語的になっているかも知れない。

どちらがいい悪いではない、といいつつも、自分の感性に合わないものには違和感を覚えるし距離を置きたくなるようだ。

汚すな!ではなくて、「きれいに使ってくれてありがとう」のほうがにっこりできる。
静かにしなさい!ではなくて「静かにしててくれてありがとう」のほうがうれしくなる。
入るな!ではなくて「ここまでどうぞ」のほうが従いたくなる。
駄目だ!ではなくて「こうしたらもっとよくなるかな」のほうがやる気が出る。
人に迷惑をかけるな!ではなくて「お互い様だね」のほうが思いやれるようになる。

罪悪感より感謝のほうがみんな元気になる。

そう思うのだけれど、なぜかこの国の人は罪悪感が好きだ。

もったいない完全主義

これはオールおあナッシング主義につうじるんだけど。

10にならないからって9を捨ててしまうの、本当にもったいないよね・・・
9でも、ゼロよりどんなにかいいと思う。
限られた時間や状況の中でできることをやったとしたら、基準の何割も満たしていなくても、それはあなたのパーフェクトだと思うわ。
すばらしい、ありがとう。

こんなのが自分のパーフェクトじゃないって・・・
誇り高いですね。
よいもの追求はすばらしいけど、いろいろな条件の中でバランスよく、時間やエネルギー配分していったらいいんじゃないかな。

きれいなお弁当を作る時間がないからって、カップめんを持っていくより、おにぎり丸めたほうがいいと思うよ。
ということで丸めていってきます。

a spoonful of sugar

A spoonful of sugar helps the medicine go down.

動けなくなっていた私に、友人の電話。
さっとひらめいたメアリーポピンズの歌があった。
そうだよ、そうだよ、そうだった。

なんて私って、バカがつくくらいまじめなんだろう。
苦いおくすりをしっかりと直視して、はい、いいものだからのみます。、のまなければ。
感謝していただきます、なんて無理してみたり、悲壮な決意で口元まで持っていって泣き出してみたりの繰り返しだった。

お友達からそっと差し出されたお砂糖。
なんかごまかしてしまうようで素直に受け取れない自分がいた。
だけど、まあ、お砂糖だけでもなめてみようかな~とちゃっかりした自分も出てきた。

まじめになって動けなくなるのと、お砂糖だけでもなめてみようかな~うまくしたらするっとお薬ものどをとおっているかもね~っていうのと、どっちが賢いか?
うんそう。
結果を考えると、お砂糖だけでも、のほうが勝率は高い。
知的なあなたは迷わずお砂糖をなめるでしょう。

人生、苦いお薬はいっぱいある。
まじめに取り組むのはすばらしいけど、でも、もしかして動けなくなったら、どうぞ、お砂糖をひとさじなめてみてね。それで、お薬のききが悪くなったりはしないから。
お薬飲んだ後で、うえ~~~ってきたら、またお砂糖をなめたらいいのよ。
お薬はきいたけど、お砂糖取りすぎて虫歯になるとか太るとか、ま、それはあとで考えたらいいのよ。
とりあえず、今目の前のクスリをやっつけてからにしましょうね。

こういうのが、ユーモアとか遊びとかいう人生を滑らかにする智慧なのよね、きっと。

自分の業績でしょうか?

研究なんかしていると論文発表する前は慎重にアイデアを取り扱うように言われる。
理論やアイデアなどを盗用されないようにとか。
研究者はブログなどでアイデアを書き散らすのが怖いと言う。
簡単にコピーして別の人が別の場所で発表したりすることがあるからだという。

私的に不思議なのは、それで何が問題?
いいアイデアが広まったら嬉しいとは思いませんかって聞きたいのだ。
そう発言したら、え?って顔をされた。
それで別の人が賞をもらったりしたらどうですか?
うん?よかったなと思うだけよ、とまなみん。
「そこまで達観できたらいいんだけど、なかなか」

このあたりがなかなかわかってもらいづらい。
どんなアイデアでも、自分がひらめいたと思っても、それは人類共通の知的遺産殻の成果だってことに気がつかないだろうか。
人にとられて惜しいと思う人は多分、それを得るために時間とエネルギーを費やして努力してこられたのだろう、だとしたら人の成果とされることは癪に障るのかもしれない。

まなみんの考えはこうだ。
どのような成果であっても、自分が書くというのはたまたま書くという役目を与えられているからであって、その成果は自分のものとは思えない。
なぜなら、このアイデアを思いつくのは、誰かほかの人のあの言葉、あの本のあの表現とか、いろんなところからのヒントがあって、それらの恩恵を受けているのだから。そして極めつけのすばらしいインスピレーションとなると、これはもうまったくもって自分ではなく、天からやってきたもので、自分の業績とはとても思えないのだ。
ただそれを書き留める役割と発表する役割が与えられたとしたら一応やるけど、それを広める役割をほかの人が取ったからといって何も不都合は生じないのだ。
仕事に就けなくて経済的に困窮すると言うことはあるかもしれないけど、それで食べていけないというとこまでには幸いいってないから、まあよしとするのだ。

こういうことをいうと、ビジネスは成り立たなくなるだろう。
私には著作権と言う概念が本音では納得できていない。
ほかの人がそうしたいというから従ってますが、自分のものに関してはまったく持ってどうぞどうぞご自由に。
これは何も知的遺産に限らない。
よく考えてみたら自分のものなんてなにもないし、ある人はない人に提供するのが当然だし、ある人は提供して、ない人はもらって、それでみんなが楽しくなるのだから、何で、自分のものなんて欲張るんだろうね。そんなことに神経質になってもさびしくなるだけなのにね。
所有欲かあ・・・
自由の反対の概念ですね。

What can I do for you?

これは私の呪文のようなものである。

行き詰ったとき、どうすることもできないとき、助けが欲しいとき、辛くてたまらないとき、慰めが欲しいとき、愛されたいとき、受け入れられたいとき、理解して欲しいとき、誤解されたとき、不当に取り扱われたとき、裏切られたときなど・・・

そういうときに人は、助けて!と求めるのが普通だ。
それもいいだろう。
でも、何も得られないように見えるときもある。
そういうときにも、どんなときにもできることがある。
この呪文は、そういうときにこそ必要な智慧なんだ。

「何か私にできることがあるかしら?」

と問いかけて、自分から何かを提供すること。

自分がぼろぼろ惨めになったときにこそ、思い出して欲しい。
他者に何かすることによって救われるのは、実は自分自身なんだ。
これを妨げるものは何もないはずだ。

ほっといてくれ!
祈りなんかしないでくれ!

と言われたとしても、心の平安と幸せを祈ることはできる。
相手に知らせなければいいだけの話なんだ。
愛を拒絶するほどまでに傷ついた人なのだから。
黙って、知らせないで、そっと愛と光を送り続けてたらいいだけだ。
それしかできない。
でも、それが最高のことなんだと思う。

みんなが違っていてみんなが正しいっていう意味

正しいことがいくつもあるなんて・・・
そしたら○×のテストできなくなって困っちゃう・・・
点数も順番もつけられないじゃない。
入試の選抜も出来ないじゃん、どうするのよ・・・

大丈夫です。
新しい方法があるのです。
みんなが正しいのです。
みんなが違ってるんですけどね。

どういうことかって?
みんなが言ってることや思ってることが、どういう人がどういう状況で何を目的にして誰に語っているか伝えたいことなのか、なんかで何が一番いいのかが変わってしまうんだと言うことにきがついたらいいだけなんで。
そのときその人がそう思ったりしたりすることには、全部その理由があるしそれが一番美しいことなのです。
つまり、みんなが違っているけど、みんな正しいことなのです。

だからさあ・・・
どっちがすごいとか、どっちが偉いとか、比べるのやめようよ・・・
あなたはこういう視点から、これを目的にしてるのね。こういうバックグランドがあるのね。
私と随分違うけど、そういう視点があるから補ってもらえて嬉しいわどうもありがとう。

議論なんて、全部それで終わりになるはず。
でもって、みんなにこにこ〜〜〜

お返しすることの失礼

困っている人を助けたり、親切にしたり、プレゼントしたりして喜ばせるのはすごく楽しいことだ。何か買ってもらったりおごってもらったりしたら、ありがとう!って喜んでたらいいと思うのだけど、日本では何かお返ししないといけないと言う社会的な暗黙の了解があるようだわ。これってめんどくさい。

いいことがあってお祝いして、分かち合いたいから少し受け取ってくださいっていう自然な気持ちからお裾分けといって配ることもある。
とってもいい習慣だと思う。
いいことを知らせると、聞いた人にお祝いをあげないといけないって負担を与えるから、知らせないっていう人がいてびっくりした。
嫉妬も恐れているみたいな感じ。
知らせないことのほうが謙虚っていう意識もあるのかなあ。
でも、もったいないっていうか、あまりにもけちくさい精神ではないかしら。
せっかくの喜びの種に水をかけてしまってる感じ。

みんなでいいことを見つけて知らせて分かち合って、どんどんで喜びを広げていきましょ。

そして、お返しはなるべくしないでね。
いいことをしたって喜んで満足してる人を喜ばせてあげてて。
お返しっていうんじゃなくって、やりたい時出来る時に何かしたらいいんだから。
お金がない時にはある人におごってもらいましょう。
疲れている時には席をゆずってもらいましょう。

親切を固辞されたら、あまりいい気持ちじゃないですよね。
本当にいやだったらいいんだけど、施されるっていうか、下に見られるのがいやだっていう意識がどこかにあったとしたら、それは傲慢ってことになりはしませんか。

お返ししないで素直に受け取って感謝してたら、きっと、喜びがもっといっぱい満ちてくると、私は思うのですけど。

幸せな時間の使い方

最新の研究成果から報告します。
どういう時間の使い方をしている人が幸せを感じているか

①自分で時間の使い方を決定している。
②自分自身のための時間を持つ。
③今、ここでの時間に集中する事と同時に、柔軟に意識を未来的展望に向かわせられる。

①はやっぱり幸せの条件ですよね、自分が決定しているのだと言う意識。どんなに理想的環境でも外的環境に流されるのは辛くなってきますよね。端から見てどんなにきつそうでも、自分で選択したのはけっこう楽しいです。

②これは忙しい現代人、なかなか持てそうで持てないような気がします。その反動でしょうか?すべてを自分の時間にしてしまっている人(引きこもりとか)もいますがそれも不健康ですね。

③これもバランスのようです。そしてもっと大切なのは状況よって一瞬のうちに切り替えが出来る事らしいです。つまり、今している事に没頭して楽しむのと同時に、未来の計画にも意識を向けられる。恋人との甘い時間をうっとり楽しみながら、あと30分したら出ないと会議に遅れるわってちらっと意識しているってことでしょうか?この切り替えが出来ない人は、うっとりした時間に夢中になって時間感覚をなくす。
何もうっとりだけじゃなく、だらだら会議を続けるのだって、時間感覚をなくしてますよね。あれは今ここに没頭もしてないんじゃないかなあ、もっと悪い時間の使い方ですね。
今ここに没頭してたら満足してすっきりと、じゃまたねって次に進めますよね(恋人との時間は、特に恋愛初期には難しいかもしれませんが)。
マインドフルネスのよさは、こういう時間の使い方のうまさにも関係してくるのでしょう。
覚えてて欲しいのは、未来の楽しい夢を思い描く事が幸せにつながるのではなく、今ここでやってる事にしっかり時間を使って達成感を持つ事の方が、幸せだと言う事です。
現実にしっかり生きていく事の大切さを、スピにとらわれて忘れない事が、幸せのコツですね。

おばあちゃんと男の子

日本人とアメリカ人の間で両方のスピリチュアリティを見ていて、どうもおばあちゃんと男の子と言う感じがしてきた。
つまり、両国がジェンダーと年齢的な特徴をあらわしているんだ。
日本人はスピに限らず女性的な母系社会だと知られているし、歴史が長くちょっと老人ぽく慎重だし平和主義だし。男の子までエステしてなよっとしてるし。笑
アメリカはまだまだ元気いっぱいで可能性を探して冒険にでかけたい男の子で、体力もいっぱいで、発想が若いのよねえ。
失敗した?次いこうかあ。
悲惨な事?いやあ笑っちゃうなあ。
困難?楽しんじゃえ〜.おかげで筋肉がついてきたぞ!すごいかっこいいだろ!
そういうのりなんで。
思い切りがよく、くよくよしないんで。
どんどん冒険の旅にでる。

おばあちゃんは老婆心でおろろおろろ。
いたずら好きの男の子はいろんなことをやらかすからなあ。
単純で自分が一番だと思ってるし。
でも,すなおで憎めないのよね。

ま,色々なタイプがあるから楽しいんで。
おばあちゃんに無理矢理スケボーさせても,転んだら大変だし。
遊びたい盛りの子にじっと座ってろと言うのも無理な話で。
スピリチュアリティの統合って,それぞれの特徴を自分にないものだと楽しんで鑑賞する事、学ぶ事にあるんじゃないかしら。
同じようにはなりっこないんだから。

すごい発見

何がって・・・
「正しい事は一つではない」ことがです。
トランスパーソナル心理学のケン・ウイルバーはそれをインテグラル理論でまとめてますけど、まさに,見方によって切り口によって,すべての理論は正しく有用なんですよね。
究極には、量子って粒でもあり波でもある、どっちも正しいんだから。
粒なんだ,いや,波なんだって、争う必要は全くないわけです。
どっちも正しいんですから。
こういう単純なことが本当に分かったら、戦争なんてなくなると思うんですが。

あああ,早くなんとかしてよって感じ。
そのためにはきっと,みんなが気持ち良くならないといけませんね。
この国,ヤバいと思います。
生きる事をあまり楽しんでないって感じがして。

真夏にサンタクロースの話

サンタクロースはいますか?
一人で一日に世界中の子どもにプレゼントを配るのは物理的に無理でしょ。
だからいるわけないじゃない。
もっともです。
でも,小さな女の子が涙を出して、「絶対にいるもん,だって,いつもプレゼンとくれるもん!」て訴えた時に、あなたはどうしますか?
科学的に現実を見つめるようにと説明しますか?
その方がその女の子のためになりますか?
それがその子を幸せにしますか?

程度の違いはあるけど、スピリチュアルに関係してる様々な概念は、サンタクロースと同じようなものだと私は解釈してます。神も仏も天使も含めてみんなです。
証明は,いないと言う証明が出来ないのと同様に,いると言う証明も出来ないから,無意味です。確率論的に確からしいと言う説明は科学では出来ます。でもそれは全部仮説です。

こう考えたらどうでしょうか。
つまり、サンタクロースなんかいないんだっていって,小さな子を泣かせるのは野暮だってこと。でもサンタがプレゼントくれなかったって落ち込んでる子がいたら、そういう迷信はやめた方がいいって言ってもいいかもね。
それだけのことです。
幸せになってげんきになっていくのだったら、それがあなたのスピリチュアルだってことです。おびえたり不安になったり,苦しくなったりしたら,それはやめろってことです。
それだけのことです。
単純でしょ?
プラグマティックな考え方って、こういう事じゃないかと思うわけ。
いいんじゃないこれで。
だって、だれもわかんないんだもん。

心からのお詫び

バランスをとるためにどちらか強いほうを減らすという考え方と、弱いほうを増すという考え方がある。
強いほうを減らすと、意識や運動が減少方向へ進み、全体的にエネルギー量が減る。
弱いほうを強めると、いろいろな側面が活性化される。
たぶんこの理論に基づいて、使い捨てのインフレ気味のポジティブ思考がすすんだ挙句に、こんなに忙しくて繁栄しすぎて手に負えない地球になってしまったのだろう。
バランス回復のために、じゃあ、もったいない精神の省エネで行きますか?

ヒッキーたちはきっと、これを体現しているんだろう。
消費も生産も最低ラインだものね。
CO2削減を追求していくとどうなるか。
動かない、食べない、何もしない→死ぬ

エコも、極端になると恐ろしいわよ。
じゃ、どうしたらいいの?
大いに使いなさい、でも無駄にしないようにね。

一番の無駄は・・・そう食べすぎ。
食べ過ぎた挙句に、エネルギーでなく無駄にくっついた脂肪になる。
取るためにかかる費用・エネルギー・時間といったら・・・!!

ああ、なんて無駄なことをしてるんだ・・・
まったく・・・
ダイエットのためにつかわれる時間とエネルギーとお金を飢え死にしそうな人に配分したら、世界の飢餓はなくなると本気で思う。

思うんだけど、毎日食べ過ぎてます。
ごめんなさい。

あなたの瞳の中で

人の目を気にする人が多いらしい。
一人のときこそ、自分が一番自分らしくいられて、らくらく~~~
だから一人が好きという人も結構いる。

でも、人はみなさびしがり屋で、実は人と一緒にいたいものだ。
自分が自分でいるためには、人と一緒にいなければいけないんだ。
自分は切り離されて存在しているわけではないからだ。

自分ひとりぽつんとあるときは、傷つくこともない。
けれど成長することもない。
人といるとき、人の反応を通して自分を見る。
そして実は自分がもっと自分らしくあることができる。
愛する人の眼差しの中に自分を見つけていく。
これがきっと、魂の自己実現。

あなたの瞳の中で泳がせてください、今日も。

空気を読まないという選択

場や空気を読むことの重要性が日本文化で強調されてきたけれど、最近それが読めない人が問題になっているけど、これって、あながち非難されることでもないと思う。
中には、読めるけど読まない、あえて無視するという方もいるし。

場の理論とか空気って、そこにいる人たちの多数決や力関係で決定されるものだ。
原則には関係ないのだ。
つまり、場の理論とか空気というのは、そこにいる人のそのときの思い、あるいは習慣から来るものであって、本当にそれが正しいかとか理にかなってるかとは違うものなのだ。

だから、空気を読んでそれに従うのは、その場のグループ行動がスムーズに行く要因ではあるけれど、正しい選択であるという保証は何もないのだ。
場の理論にひきずられると言うのは、同調行動を促進するということだから、実はそれを強調するのは危ないことなのだ。

それをわかっていて、その上で、今こうしたほうがよいと判断してしたがってみようとするのはいいと思うけど、みなが戦争に燃えているときに一人行かないという態度は、私はけっこう好きだったりする。
当然いじめにはあうけど、まあいいではないか。
そのときその場だけの人から排斥されても、時空を越えた根源的な何かに一致しているほうが、考えてみたら功利的な生き方だと思うんだけどな。

それに気がつくのには、時間がかかるんだろうな。。。
だから、苦難を求めたりする人がいるようで・・・
単純なことなんだけどなあ。

天職・calling

魂の喜ぶ仕事と、地上の仕事が一致してる人は幸いだ。
自分探しって言うのはきっと、自分に向いてる職業を探す、この世で今できる、そしてすべきことを探すことなんだろうと思う。

性格テストや職業適性テストなんかしてふううんとおもいつつ、実際にはやらなかったりするんだけど、結構それって、確かに向いてるんだなあと思うこともある。

星占いなどで小さいときから私は、占い師・神秘家・宗教家なんて出てた。
そういうのって、昔の小さい女の子のなりたい職業であるわけがなく、なんで???と思っていた。
バレリーナになりたかったんだ。
一番向いてないのは、秘書だった。
これはものすごくよくわかるなあ。

近頃むいてるってよく言われるのは、マッサージ師。
こってる人やきつそうな人に思わずタッチして、必ずいわれる言葉なんだ。
「すごい!プロよりうまい」
でもって、自分も気持ちよくなって楽しいから、こんなに嬉しく、直接すぐに貢献できることって他にはない。

マッサージってうまく説明できないけど、姿勢・かもし出す空気・色・張り・手触り・においなどで、相手のことがわかるからできるんだ。
あ、ここいたそう・・・とかここ、血液が滞ってるじゃないか・・・とか。
考えてるわけではない。
気持ちよくさせてあげようなんて思ってるわけでもない。
ただ、やりたいようにしてるだけで、やりたくない時はしないしやめるし。

実はこの、自分の意識がコントロールしないときに、自分より大いなる何かが働いているのだと思う。
だから、おぼえてないし、説明もできないのだ。

これはやはり、天職というものだろう。
お金をもらったことはありませんが、そのうち開業しようかなあ。笑

悲劇を喜劇としてみる

「ロミオとジュリエット」の悲劇は、サモアの人だっけ?喜劇に見えるそうで・・・
何で勘違いして死んじゃうわけ?ばかじゃん、あははは。という具合らしい。

悲劇が悲劇として成り立つには、その中に没頭してのめりこんでいく必要がある。
事象との同一化ということだ。
これによって、どんなことでも悲劇にすることができる。

反対に、離れてみることができたら、どんなことでも、ある意味、おかしくってたまらなくなる。
世の中で起きている悲惨な不可解な事件を喜劇だといってしまうのは、当事者・被害者にしてみたら不謹慎で失礼なことであろう。

でも、喜劇だというのは、何もシニカルに斜めから見ているのではない。
バカらしくて笑えるということだ。
そういうことにかかずらっている自分がまた、あまりにも小心で視野が狭くて笑えてしまうということだ。

それで何が変わるのか?
世界はいつもと変わりなく進んでいく。
今日もまた太陽が昇ってくるのだ。
泣き叫ぼうと笑っていようと、世界はびくともしないのだ。

いや、違う。
泣き叫んでいる人には世界は悲劇となって現れる。
笑っている人には世界は喜劇として現れてくる。

だとしたら、笑っていようではないか。

謙遜の美徳

これは、自分を卑下することでも過小評価することでもない。
他者をほめ賛美することだ。
他者の善いところを見つけてもっと伸びるように惜しまず貢献することだ。

と、さすがはポジティブなアメリカ人の定義。

嬉しくなってしまった。
だとしたら、私はすごく謙虚な人になるからだ。
だっていつも常にそうしてるからだ。

なんて豪語するとこは、傲慢だって?
あははは。
まあまあまあまあ

文化差っていうのかな・・・
そうは言いたくない。
なんか規定されてしまう気がするから。
性格傾向の差ですな・・・
平安を望むタイプと、わくわくを望むタイプで、パターンがぜんぜん違うみたいなんで。
モチロン私はわくわく大好きタイプなんで。
日本人には少ないみたいで。
ま、そういうことのようで。

大いなる信頼

今この瞬間に、あなたの愛する人が生きているかどうか確認できますか?

あなたのからだにがん細胞がむくむくと発生しているかどうかや不治の病にかかっていないことがどうやってわかりますか?

明日まだ自分の会社がつぶれていない、あるいはリストラされないという保障がどこにありますか?

この週末楽しみにしている計画や夏休みの企画が全部流れる可能性を考えてますか?

あなたはなんてポジティブで、大いなる信頼に身を任せているんでしょう!

信頼する人は幸い、あなたは天国を見るでしょう。

同時に何か予期しないことが起きても、何とかなるもの、という信頼感を持ち、何か意味のあることだと思える人こそ、本当にハッピーで健康で長生きします。

SOC理論より

研究は日常生活に生かさないとね。えへ。

永遠なんて、今しかないんだよ?

変な言い方だけど、永遠は今のこの瞬間にしかないんだ。

物理的な時間概念から言うと矛盾してるもいいとこだ。
これをどう説明したらいいのか、ものすごく難しい。
だから結局たとえを使うしかない。

最近のお気に入りは反転図形。

同じ刺激(リアリティ)をみてるのに、あるときには二人の横顔、あるときには花瓶。
どっちが正しいということはなく、どちらかにとどまっていることもできない。

要するに、そんなものなんだな・・・って眺めていたらいいだけで。
花瓶を見るんだとがんばっちゃったら、二人の顔が迫ってくる。
二つともありだからひとつを無視し続けるのは無理なこと。

喜びばかり見ようとしたら、悲しみが迫ってくるというのも、なんとなくこれでわかったような気がしてきた。
ま、どっちもありと楽しんでたらいいということで。
で、楽しめないときもあるということも認めないといけないんだ、ということで。

かけがえのない今の瞬間!
無駄にすべきではない!
とおもうのもよし。
別にあせらなくても、こんなこと、今の一瞬だけの話だ。
永遠のなかでは取るに足らない一瞬さとのんびり構えるもよし。

ま、あるがままに。

本物志向は本物だけを見る

私がいつもJOYといい続けていることに対して、いろいろなところから反対・攻撃・異論がくる。

ブッダだって、生きることが苦しみの連続であきらめろって言ってるんじゃなくって、ほら、こんなに平安ですばらしい世界があるよって誘ってる(岡野守也の著作を参考のこと)。
フランクルだって、どんなに辛いとき苦しい時にも意味があるというけど、苦しまなければ意味が見出せないといけないなんていってない、とはっきり書いてる。

ああそれなのにそれなのに 。
「この世の現実をしっかり見ろ!何が喜びだって?」

という人が多すぎて、まるで、喜んでいることは責任感のない冷たい人か浅はかなバカ、とみられるのだ。

本物を見分ける鑑定眼を身につけるには、ひたすら本物を見続けるしかないって聞いたことある?
偽者を見て、ここが違うんだなんて勉強する必要はないのよ。
そういうのは、批評家って言う人たちがやればいい。

私自身はたぶんジェームズの言う「一度生まれ」つまり生まれつき救われている人なのだろう。
人生に苦しいことがないわけではないし、いつも楽観的というわけでもない。
でも、困難に出会って悟ったというような経験はないからだ。
喜びは困難と同時に、常に初めからあったからだ。
苦しみがある前もあとも、同じように、いつも変わらない、愛や美しさを感じ続けているからだ。
喜びにフォーカスするのが一度生まれで、苦しみにフォーカスするのが二度生まれだとジェームズが言ってる。そのフォーカスは自分の自由意志による努力という風にも受け取れるけれど、実際はそうじゃない部分が大きい。
JOYは、自分で努力しても見つけられない。
あっちから来るものだから。

ジャアどうしたらいいって言うのよ!ッてしかられそうだ。

だからいつもいうことだけど。
空を眺めて。

プロフィール

尾崎真奈美尾崎真奈美

東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。ペンシルバニア大学医学部精神科、東京大学医学部公衆衛生学研究室などを経て、現在相模女子大学人間心理学科准教授、米国サーチインスティチュート、スピリチュアリティ発達センター客員研究員。
インテグラル心理学・スピリチュアリティ論・芸術療法などを教えながら研究、ダンス、執筆活動を続け、科学と芸術の統合を試みる。
天使語同時通訳は日々のインスピレーションの書き散らしである。
国際生命情報科学会、日本トランスパーソナル学会理事。日本心身医学会、日本トランスパーソナル心理学・精神医学会、国際ポジティブ心理学会会員。

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